近くの隣人との交流を

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 作詞が永六輔、作曲がいずみたくで、坂本九が歌った「よもだち」と題した歌があります。1969年に、「あゆみの箱」が、俳優の森繁久彌や伴淳三郎の肝入りで、小児麻痺児の激励のために、企画されて作られ、そこで歌われた歌です。

🎶 君の目の前の 小さな草も
生きている 笑ってる
ホラ 笑ってる

君の目の前の 小さな花も
生きている 泣いている
ホラ 泣いている

君が遠く見る あの雲も山も
生きている 歌ってる
ホラ 歌ってる

ふまれても 折られても
雨風が吹き荒れても

君の目の前の この僕の手に
君の手を かさねよう
ホラ ともだちだ

ふまれても 折られても
雨風が吹き荒れても
君の目の前の この僕の手に
君の手を かさねよう
ホラ ともだちだ
ホラ 歌おうよ
ホラ ともだちだ ♫

 新しく住み始めた地で、新しく「友人」と呼んでくださる隣人ができました。直線距離で25mほどにあって、互いに眺め合える距離にあるのです。『今日は洗濯物が干してないので、お元気かしら?』、『車がないので、どこかへおいでかしら?』と、互いが心配し合える距離においでのご夫妻なのです。

 先週、術後間もない金曜日に、同病の後輩の私、そして家内を、川を挟んだ南側にあるお住まいにお招きくださいました。自治医科大学附属病院で、同じ主治医の患者同士で、この方が医師を紹介してくださって、この春に診察していただいたのです。この9日に、カテーテル・アブレーションの治療(内科医の手による手当てなので手術とは言わないのだそうです)を無事に終えられて、入院手術時に書類を開かれれ、その術中と術後の様子を知らせてくださるためでした。

 茶菓でもてなしてくださって、都内在住の弟さんから贈られてきたという、新種の「梨」と「りんご」、そしてお菓子に紅茶を、奥さまがテーブルに運んでくださったのです。この果物は、日本橋にある高級フルーツ店の「千疋屋(せんびきや)」で買って送られて来たそうで、格段の味わいでした。美味しく煮た黒豆は、抜群に美味しくいただきました。

 ご自慢のお孫さんの話、また奥さまは昔、ワンダーフォーゲル部にいたそうで、結婚して二人で登山をした話、深田久弥が選んだ「日本百名山」を、半分近く走破されて来られたほど、山好きのようです。もう山登りはしないと、私は思いますが、長野県の諏訪湖の近くの入笠山に、家内を誘ったのが、一緒の山行きをした最後になった様です。

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 この深田久弥ですが、山梨県の茅ヶ岳での登山の際に、その中腹で亡くなっておられます。もう何年たつでしょうか、この茅ヶ岳に登ったことがありました。名登山家の終焉の地であることを、その折に知ったのです。そこも百名山の一つで、奥多摩の山や信州の山に似ていますが、それぞれに、山の顔があります。 

 そのお二人の山行きの数々の写真も、居間の壁にかけられてあり、その写真など見せてくださり、楽しい交わりのひと時でした。以前にも、目の不自由なテノール歌手、Andrea Bocelli のビデオ、チェロ奏者のビデオ鑑賞会にも招いてくださったご夫妻なのです。知り合いのいない私たちに、こんなに素敵なり隣人がいるのは実に感謝でいっぱいなのです。

 ラ・フランスの洋梨、煮豆、ちらし寿司をお土産にいただいてしまいました。何と、隣り合わせの家なのに、車で、玄関まで送ってくださいました。そのトヨタの高級車は、エアコンまで効かせてありました。何という素敵な配慮に溢れた待遇だったでしょうか。もっと遠くにお連れいただきたい思いがしてしまいました。

(ウイキペディアによる林檎の花、心臓のイラストです)

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一服の清涼「花」の如くに

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 毎朝、送信してくださる「里山を歩こう」 に、今朝掲載されていた、「クズ」の花です。

 『林道沿いではクズの花が目立っています。』

と添え書きがありました。呉市近郊の野に咲いていたことでしょう。もうずいぶん長く、お送りいただいていて、おもに広島の呉市周辺の野山を歩かれて、撮影している写真と記事なのです。

 最初の職場に、この呉市の高校の校長が理事でおいでで、なかなかの学校経営者でした。この方の学校で教員になりたいほどでしたが、東京の学校に職を得て働いたのです。もう50年も前の話になります。みんな昔話になってしまいました。

 きっと、この高校を見下ろせるような、山谷を歩いておいでなのでしょう。「クズ」は、大和の国(奈良県)の国栖(くず)という名の村落で、葛粉が採れたそうで、その産地であったところからの命名されたと言われています。

 わが家では、「くずきり」が好物で、これを冷麺のようにして、「冷やし中華」風にして、胡瓜、トマト、しめじ、わかめ、細切り卵焼き、炒めたお肉を乗せて、酢醤油にごま油を加えたかけ汁で食べます。美味しいのです。

 お隣の佐野市には、「葛生(くずう)」という地名があります。きっとクズの産地なのか知れません。佐野市のホームページに、それとは違った、地名の由来が、次のようにありました。

『 1 万葉集の東歌の中に「上毛野安蘇山黒葛野(かみつけぬあそやまつづらぬ)を広み延(は)ひにしものを何(あぜ)か絶えせむ」とあります。ここに上毛野とあるのは、上古は今の上野と下野は毛野国といって一国であったが、仁徳天皇のころ上毛野と下毛野に分けられました。しかし、境界は一般には不分明であったため、誰の作ともわからず東国人の歌として万葉集に採録するとき、筆者がはっきり境界など気にせず下毛野を上毛野と書いたようにも考えられます。この歌の「つづら」は葛または藤など、つるを利用してひものように利用できる植物を意味しているので、「葛生の地名」の起こりもこの辺から出たのではないかといわれています。

2    クズ・フという地名で、クズは動詞クズレル(崩れる)の語幹で、山・崖などが崩れ落ちるの意味から、崩崖・崩壊地をいいます。フは「~になっている所」という地形名彙の語尾につくものなので、地名は崩崖地に由来するという説です。』

 この葛生には、太古の昔、マンモスが棲息していたそうで、その化石館があるそうです。今秋は、ここを訪ねてみたいなと思っております。

(ウイキペディアによる葛の花です)

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こんなラジオ番組がありました

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 「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」、作詞が菊田一夫、作曲が古関裕而、唄が川田正子で、NHKのラジオドラマの主題歌でした。最近、素敵な歌番組で、FORESTA と言うグループが、さまざまな分野の歌を、美しいHarmony で聞かせてくれています。その中に、この主題歌がありました。

1 緑の丘の赤い屋根
とんがり帽子の時計台
鐘が鳴ります キンコンカン
メーメー小山羊(こやぎ)も啼(な)いてます
風がそよそよ丘の上
黄色いお窓はおいらの家よ

2 緑の丘の麦畑
おいらが一人でいる時に
鐘が鳴ります キンコンカン
鳴る鳴る鐘は父母(ちちはは)の
元気でいろよという声よ
口笛吹いておいらは元気

3 とんがり帽子の時計台
夜になったら星が出る
鐘が鳴ります キンコンカン
おいらはかえる屋根の下
父さん母さんいないけど
丘のあの窓おいらの家よ

4 おやすみなさい 空の星
おやすみなさい 仲間たち
鐘が鳴ります キンコンカン
昨日にまさる今日よりも
あしたはもっとしあわせに
みんな仲よくおやすみなさい

  昭和20年8月15日に、長い戦争が終わりました。父は、軍需工場で働いていましたが、軍が解体して失職したのです。四人の男の子を育てるために、山奥から引いていた索道(さくどう、小型のトラックの荷台のような鉄製の入れ物を吊るしたケーブルカーで石英を運んでいました)を、利用して、県有林の木材の払い下げを受けて、それを切って運び出し、京浜地帯に運んで売る、木材業をしていました。

 戦地に行った父の弟、私たちの叔父は、赤紙召集で、兵隊となって南方に行き、そのまま戦死しています。農村から働き手の男性が戦地に送られて、戦死したり、復員が遅かったりで、田畑の耕し手がいませんでした。そんな理由もあって、何もかも失った日本は食糧難でした。山奥から東京に、私の家族は越して、住み始めましたが、新宿や上野などには、戦争孤児が多くいたのです。

 当時、浮浪児とも呼ばれていた子どもたちは、全国に数万員もいたと言われ、実際の統計には上らない子も多かったはずです。中野に寄った新宿駅近の地下通路にたむろしていた戦争孤児を、多く見かけたのです。

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 そう言った戦争が産み落とした孤児たちのある子たちは、生きていくために、盗みを働いたりしていたのです。ある子どもたちは、駅の出口付近で、靴磨きをしていて、これも新宿で見かけました。私たちよりも少し上の世代、兄たちと同世代の子どもたちが、それでも、そんな逆境に負けないで、懸命に生きていたのです。

 そんな彼らを、教会やお寺や篤志家のみなさんが、見るに見かねて、引き取って、衣食住を提供し、教育を受けさせていたのです。そう言った戦争孤児を引き取った施設を舞台にした歌が、この歌でした。ラジオで放送されたのを、よく聞いたので、今でも歌えます。

 昭和22年(1947)7月に、そのラジオ番組になって放送が始まりました。4年近く放送され、790回にわたって続いたのです。日本中が聞いた番組でした。このお話は、戦地から帰ってきた一人の青年が主人公でした。孤児になった少年少女の戦後を、どうにかして助けたいと思ったのです。それで自分の故郷の長野県の山あいに「少年の家」を立てて、一緒に共同生活を始めます。その少年たちと村の人々との物語でした。安曇野(あずみの)の穂高の村が、舞台だったのです。

 『♫ 父さん母さん いないけど 丘のあの窓 おいらの家よ ♬』と歌詞にあるように、身寄りのない子たち、とくにお父さんのいない子どもたちが、同級生の中に何人もいました。「戦争の落とし子」と言ったりしていましたが、けっこう逞しく生き抜いていくのです。私だって、孤児になる可能性もあったのですが、親のいた私とは、違った戦後を、この子どもたちは生きたわけです。そのような少年たちを助けた方々がいたことも忘れてはなりません。

 また、旧満州には、さまざまな理由で、残留した孤児のみなさんもいたのです。その孤児が、中国で結婚し、生まれた子どもが、私の住んでいた街の大学に留学してきていました。その学生が、私のしていた事業を、いつも助けてくれたのです。わが家を訪ねて来た時に、満州餃子を、何時間もかけて作ってくれました。実に美味しかったのです。

 あの味は、この人の祖父や祖母の味だったのでしょうか。残留孤児を引き取って育てた親がいて、その孫が、平和な時代になって生まれたことになります。その事実を見落としてはなりません。

『父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(新改訳聖書 ヤコブ1章27節)』

(ウイキペディアによる映画化されたポスター、安曇野の一風景です)

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馬の力を喜ばれないお方

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 散歩道に、戦争のために駆り出されて、軍馬として用いられた、「出征軍馬」の記念碑を見つけました。人が二十歳になると、徴兵検査をされるのですが、父も、その検査を受けたと言っていました。いつでも、一銭五厘「赤紙」で徴兵され、軍隊に入って、戦地に駆り出されて行ったわけです。

 きっと農耕用の馬が、農家に供出を求められ、『アオよ、さらば!』と言って送り出したことでしょう。その記念碑が、もう農村ではなく、住宅地に変わってしまった道路の三叉路の角にありました。大平山をそばに見上げ、富士山や筑波山や男体山を遠くに望み見る、田圃を耕し、収穫後にお米を農協に運んだのでしょうか。多くは大陸に送られ、軍用に鞭打たれて、ついには、連れ帰られることなく、大地に葬られたのでしょう。

 悲しい戦争のあったことを伝えています。父にも愛馬がいたのだそうです。街の事務所の近くには、陸軍の連隊本部があって、その連隊長が、譲ってほしいと願ったほどの馬だったそうです。街や、山の現場までの行き来に乗っていたのようです。

 ある時、馬肉が、我が家に届けられたそうです。戦時下の食糧の少なかった頃でしたから、ご馳走だったのでしょう。食べてしまった後に、父の愛馬の肉だったと知らされたのだそうです。馬の世話をしていた方の息子さんが病気で、栄養をつけなくてはならないと医者に言われ、無断で、潰して肉にしてしまったのです。

 私が大きくなった頃には、馬を見かけたことがなかったのですから、戦時中のことだったのでしょうか。男の子たちの父親だったからでしょうか、事情を察して、不問に付したと聞いています。

 聖書にも、馬が登場しています。聖書の神さまは、こんなお方だと書いてあります。

『神は馬の力を喜ばず、歩兵を好まない。(新改訳聖書 詩篇147篇10節)』

 戦争を好まない神は、速度や力量により頼まないお方でいらっしゃるのです。エルサレムに入場されるイエスさまの様子が次のように記されてあります。

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『それから、彼らはエルサレムに近づき、オリーブ山のふもとのベテパゲまで来た。そのとき、イエスは、弟子をふたり使いに出して、

言われた。「向こうの村へ行きなさい。そうするとすぐに、ろばがつながれていて、いっしょにろばの子がいるのに気がつくでしょう。それをほどいて、わたしのところに連れて来なさい。

もしだれかが何か言ったら、『主がお入用なのです』と言いなさい。そうすれば、すぐに渡してくれます。」

これは、預言者を通して言われた事が成就するために起こったのである。

「シオンの娘に伝えなさい。『見よ。あなたの王があなたのところに来られる。柔和で、ろばの背に乗って、それも、荷物を運ぶろばの子に乗って。』」

そこで、弟子たちは行って、イエスが命じられたとおりにした。

そして、ろばと、ろばの子とを連れて来て、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

すると、群衆のうち大ぜいの者が、自分たちの上着を道に敷き、また、ほかの人々は、木の枝を切って来て、道に敷いた。

そして、群衆は、イエスの前を行く者も、あとに従う者も、こう言って叫んでいた。「ダビデの子にホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に。ホサナ。いと高き所に。」

こうして、イエスがエルサレムに入られると、都中がこぞって騒ぎ立ち、「この方は、どういう方なのか」と言った。

群衆は、「この方は、ガリラヤのナザレの、預言者イエスだ」と言った。(新改訳聖書 マタイ21章1~11節)』

 立髪豊かな駿馬にではなく、子ろばの背に乗っていらっしゃったのです。誇り高く、人日頭の遥か上から、人々を見下ろすことをしないで、人の目の高さに、ご自分を置かれたのです。これこそ私たちの救い主イエスさまのお姿、様子なのであります。

(”Christian clip arts”のエルサレム入場のイエスさまのイラストです)

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9月11日の朝顔!

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 秋暑を追い出すかのように、たくさんアサガオが咲いています。昨日の自転車行は、ちょっと大変でした。でも時々雲が遮ってくれましたので、助かりました。「どこまで続くぞ、この暑さ!」の思いでいっぱいです。🍂の来なかった年は、今まで一度もなかったので、必ず来ることでしょう。

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バナナの叩き売りの口上

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 買い物に行く、近所のスーパーマーケットには、バナナの売り場が、けっこう広くとってあります。黄色く熟したバナナは、今では小分けにされ、プラスチックの袋に入れられ並べてあります。子どもの頃は、そう簡単に食べられなかったのです。病気の見舞いに、まるまる「一房(ひとふさ)」、包装紙に包まれたのをもらうと、とても豪華でした。

 産地が近いこともあって、「台湾バナナ」がほとんどだったようです。台北市の北方にある基隆(キールン)港から、今のようにダンボールのない時代に、竹籠に入れられて、船便で送り出されて、おもに門司港に水揚げされていたのです。

 その門司の名物が、この「バナナの叩き売り」でした。中国や台湾では、野菜として青いままで料理して食べられていました。ところが、私たちには、果物なのです。人だかりの中で、腹巻きをしたおじさんが、次のような口上(こうじょう)をしゃべりながら売る姿も、門司名物でした。

春よ三月春雨に
弥生の空に桜散る
奥州仙台伊達公が
なぜにバナちゃんに惚れなんだ
バナちゃんの因縁聞かそうか
生まれは台湾台中の
阿里山麗の片田舎
土人の娘に見染められ
ポッと色気のさすうちに
国定忠治じゃないけれど
ひと房ふた房もぎ採られ
唐丸籠にと詰められて
阿里山麗を後にして
ガタゴトお汽車にゆすられて
着いたところが基隆港
基隆みなとを船出して
金波銀波の波を超え
海原遠き船の旅
艱難辛苦の暁に
ようやく着いたが門司みなと
門司は九州大都会
門司のみなとで検査され
一等二等あるなかで
私のバナちゃん一等よ
<懐かしの口上より一部抜粋>

 今では、フィリピン、エクアドル、メキシコなどの産地から送られて来て、この台湾バナナは品薄のようです。自分としては、この台湾産が好きなのですが、高くて手が出ませんし、最近、家内がバナナ情報を入手して、手当たり次第に食べない方がいいと言ってくれています。

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 バナナの袋ではなく、バナナ自身に、ナンバーリングのシールがない物は避けた方がいいのだそうで、organicの「9」のシールがついた物を買うようにして、と言っています。産地ナンバーなのか、品質ナンバーなのか、有害農薬の使用未使用なのか、そんな意味づけのナンバーリングのようです。

 最近、買い置きを欠かさなかったバナナだったのですが、滅多に食べなくなりました。一年中店頭に並ばせるには、輸入は大変なのでしょう。他の果物は、季節感があるのですが、バナナの年中無休は、何か無理がありそうです。

 今日は、久しぶりにバナナでも買ってみましょうか。牛乳と蜂蜜で、ミキサーに入れて、バナナミルク、バナナシェイクがいいですね。青果会社でアルバイト経験が、私はあります。そこには、あ大きな室(むろ)があって、真っ青なバナナを、保存してるのですが、あるガスを充満する部屋で追熟して、出荷調整をしながら作業をするのだそうです。その会社の取締役の息子さんが、そに作業中に、事故で亡くなられたと聞いたことがありました。

 道端の商いの光景が、以前はたくさん見られたのですが、泥交通法があってでしょうか、、またはそう言った販売法が、古くてされないのか、見られません。あの独特の不調が懐かしい、暑過ぎる九月です。

(ウイキペディアによるバナナの花と門司港税関です)

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令和日本米騒動

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 あの騒動を知らなかった私が、行きつけのスーパーマーケットの米売り場の棚に、5kgの袋が一つあるのを見ました。『よく売れるんだなあ!』と感心していたら、南海トラフ地震の警報注意が発せられて、家庭への必要以上の備蓄が行われたのが原因だ、と知ったのは、その日の夕方でした。

 無くなる頃に買い求めて、何不自由なく、一日One cup の米に、十五穀米を、小さなcup 一杯で、毎朝炊くのです。魚を焼いたり煮たり、肉を焼いたりして、それにお味噌汁、ホーレン装や小松菜のおひたしをし、カボチャなどの煮野菜、佃煮などで済ませます。

 残ったご飯を冷蔵庫に入れて、冷蔵し、夕食に、おじやを作ったり、お餅で雑煮をしたり、蕎麦を食べたり、最近では米粉の包まない餃子を食べる、そんな食生活を続けています。

 お昼は、野菜サラダ、卵を茹でたり目玉焼きにし、家内は芋類を茹でて、私は、パンやシリアルに牛乳をかけて、コーヒーを二人で飲みながら終えます。ほとんど外食はしませんが、宇都宮の病院帰りには、東武宇都宮店駅のフードコートの蕎麦屋に入って、月一度ほどお昼にするのです。

 二、三日分ほど残っていた米を見て、『どうにかなるよね!』と言ってたら、家内の散歩仲間のご婦人が、新米が手に入ったからと届けてくれたのです。久しぶりに、白米に、生卵をかけて食べてみました。美味しかったのです。また若い友人が、米売り場の前から電話で、『お米買ってお持ちしましょうか!』と電話をしてくれました。

 同じように、米が売り場に無くなった時がありました。宣教師さんのお供をして、開拓伝道のをし始めた年に、オイルショックがありました。トイレットペーパーも店から消えた年でした。なぜかあの時、何を思ったのか、煉炭とコンロを買って、自転車につけて家に帰ったのです。生まれたばかりの長男のおしめを乾かすためでした。

 米とかトイレットペーパーを見つけて帰るなら、まだマシなのに、必要のない物を買って、家内に笑われました。結局使わないままで終わり、どなたかに上げてしまいました。

 毎月の必要分でいるならば、潤沢にお米は世間に出回っているのに、パニックに弱い現代人は、買い漁りをしてしまうのです。あの時も米が消えてしまい、政府が、東南アジアから急遽外米を輸入した頃には、普段どうりに需要が、備蓄米で満たされたのです。あの外米は、廃棄したのだ、と後で聞きました。諺の『あわてる乞食はもらいが少ない!』を思い出した時でした。米騒動は、江戸期だけではなかったのです。

 日本だけと思っていましたら、ドイツでもイギリスでも、そう言った現象が、以前にありました。現代人特有の「不安の波及」が原因です。なければないで、どうにかなります。ある家だけ、元気で肥え太っていたら、痩せた欠乏者に、食べ物を狙われてしまうのではないかと、他人のことですが心配しているところです。

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 預言者エリヤは、カラスが、朝晩運んできたパンと肉に養われ、ツァレファテのやもめ(寡婦)の残された一握りのパン粉とわずかな油で焼いたパンで養われたのです(1列王17章)。この寡婦は、息子とふたりで、そのパンを食べて死のうとしていた分を、神の人エリヤに差し出したことで、家にあったかめ(瓶)にパン粉と油が尽きなかったのです。すごいテスト、そして、決断、報いだったことになります。

(ウイキペディアによる「新米」、「パンの一種」です)

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野の花の如く

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 作詞が杉山政美、作曲が小林亜星の「野に咲く花のように」という歌があります。

野に咲く花のように 風に吹かれて
野に咲く花のように 人を爽やかにして

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には 暗い人生も
トンネルぬければ 夏の海
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

野に咲く花のように 雨にうたれて
野に咲く花のように 人を和やかにして

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には つらい人生も
雨のちくもりで また晴れる
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

そんな風に 僕達も
生きてゆけたら すばらしい
時には 暗い人生も
雨のちくもりで また晴れる
そんな時こそ 野の花の
けなげな心を 知るのです

 野に咲く花に、「アツモリソウ」と言う名の花があります。蘭の一種で、平敦盛が背負っていた「母衣(ほろ 武士が矢を防ぐために背中に負っていた袋のことだそうです)」に、花形が似ているので、そう名付けられています。乱獲で、今や絶滅危惧種(特定国内希少動植物種)になっているようです。

 「平家物語」に、悲しくも、戦場で死んでいった、敦盛が、一の谷の戦場で、熊谷直実と一騎打ちをする様子が記されています。逃げようとする敦盛を、敵に背を向けることを、直実が諌めると、敦盛は直実の前に戻り、馬上から引き摺り落とすのです。よく見ると、自分の子と同じ年恰好の若武者でした。

 当時は、戦場で、対決する時に、双方が名乗りあったようです。直実は、『武蔵国熊谷(くまがや)の住人・・・」と名乗り、若武者に名乗れと言うと、『名乗らずとも首を取つて人に問へ。見知らふずるぞ(私が名乗らなくても、首を取って誰かに尋ねてみよ。きっと知っている者がいるであろう)』と答えたそうです。

 首を取るのを躊躇していると、敦盛は、首を差し出すのです。戦場の武士の慣いで、敦盛は、苦渋のうちに、首を取るのです。その故事にちなんで、名付けられています。自分の息子ほどの年嵩の敦盛を打ったことで、後に、直実は出家して、仏門に入るのです。

 平和の時代を生きて来た自分が、父の話によると、武士集団の源氏の流れの源頼朝に仕えた、鎌倉武士の一人の子孫なのだったそうです。直実の祖は、もともと敦盛と同じ平氏の一族でしたが、頼朝が征夷大将軍についた頃には、その従臣になっていたのだようです。

 同族も、天下を取る運命を担って、さまざまな経緯や力関係で、敵味方に分かれてしまう時代だったのでしょうか。戦場を駆け巡り、群雄割拠する時代に生まれないでよかったなと、つくづく思うのです。

 この出来事をもとに、「幸若舞 敦盛」という舞が、武士の間で舞われるようになり、戦国の雄・織田信長が好んだのです。自ら舞う時があったようです。明智光秀に夜襲された時に、これを舞っていたとか聞いたことがあります。

 信長が残した辞世の言は、『人間(じんかん)五十年、下天(げてん)のうちを比ぶれば、夢幻の如く なり。一度生を得て、滅せぬもののあるべきか。』でした。まさに信長は、五十に届かずに死んでいきます。当時の平均余命ほどだったのでしょうか。

 敦盛草は、何か憂いを含んでいるように感じられますが、寒冷地を好む花で、3cmほどの花をつけます。見たことも、手のしたこともありませんが、「特定国内希少野生動植物種に指定されている花です。北海道の礼文島にも、「レブンアツモリソウ」が咲くそうです。

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『きょうあっても、あすは炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装ってくださるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがありましょうか。信仰の薄い人たち。(新改訳聖書 マタイ6章30節)』

 学校の恩師に、『野の花の如く咲きなむ!』と書いて、卒業祝いに、色紙をいただきました。『名なんかなくていい、偉くならなくていい、ただ蒔かれた所で、しっかりと咲いて、万物の創造者を褒め称えて生きよ!』と、二十二の私は言われたようでした。

 果たして、恩師が願ったように生きられたかを、もう一度顧みながら、自分の越し方を検証したいと思っています。それと共に、どう生きたかを、私の贖い主に、そして、人にも申し上げるようにと思わされております。

(ウイキペディアによるアツモリソウ、礼文敦盛草です)

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秋めいて


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 昨日は、空を、思いっきり仰いで眺めていました。あんなに厚い雲が全天を覆っていたなんて嘘の様な、真っ青な秋空でした。心まで軽やかにされたかの様でした。散歩途中に、サイダーの誘惑にあって買って、懐かしくて飲み干してしまいました。そうしましたら、汗が一気に吹き出たのです。まだまだ油断ならない今日日の気候です。

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明日に希望をつないで生きる

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『確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(新改訳聖書2テモテ3章12節)』

 「偏見」、真実ではなく、偏った見方で、人を見てしまうことなのでしょうか。正直に人を評価できないで、決めつけてしまうことがおうおうにしてあります。また「事実」を歪曲して、自分の都合の良いように判断したり、結論してしまうこともあります。

 ロシア人で、イワンという名の青年兵士がいました。ロシア軍の軍隊内で、酷い扱いを受けるのです。それは極めて不条理な拷問で、イワンの身体は膨れ上がるほどで、非人間的な仕打ちでした。この方の姿を写した写真が残されてあって見たことがありました。

 イワンは、信仰者でした。神のいますこと、イエスがキリストであると信じ、信仰第一の生活を、軍隊内でも送った、柔和な性格のクリスチャンでした。共産圏では、無神論の上に国家が作り上げられ、神の存在を認めませんでした。唯物論で、人間も、物質にしか過ぎないとしています。人の命の尊厳など認めなられなかったイワンは、反逆思想の罪人として扱われ、独房に入れられ、繰り返し暴力を受けたのです。

 ある晩、不思議な体験を、イワンはしたのです。あのパウロが、第三の天に引き上げられたことが、「コリント人への第二の手紙12章2節」に記されてある様に、天に携え上げられる経験をしたのです。その日も、拷問を受けていましたが、神の臨在に触れることのできたイワンは、これから彼が行くべき世界が、どの様な所であるかを体験し、それを書き残したのです。

 これは、作り話ではなく、実体験として、ロシア語で書き残されていて、その翻訳文を若い時に、私は読んだのです。それはソヴィエト連邦が崩壊する以前の出来事でした。間も無く拷問で死のうとしていたイワンに、その死の向こう側の世界を、神さまはお見せになったのです。私は、その告白文、証詞を読んで疑いませんでした。無神論者が、どのようなことをするかを聞いて知っていましたし、彼らは神を畏れないからできるのです。

 権力闘争、裏切り、失脚劇、粛清などの暗黒史が、ソ連にもルーマニアにも共産中国にも見られました。今も変わりありません。その驚くべき事実は隠蔽されて、神を畏れない人物が、権力者の座に就きやすい社会構造なのです。

 神の賜物としてのいのちなのに、物の一つであって、失われても、補充できる、残った人たちでやっていけるという論理の世界です。三億の人口の一億が死んでも、二億が残るなら国家は維持できるという考えです。ですから、人一人のいのちなど、どうでもよいことになります。

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 激しい試練の中で、神を信じて生きるイワンに、神さまが味方をしたのでしょうか。

♫ やがて天にて 喜び楽しまん 君に見えて 勝ち歌歌わん ♪

 また、「地下墓所の殉教者(伝道出版社刊)」という題の書籍がありました。もう絶版になってしまい、古書界では高額で取引されています。ネロ帝の激しい迫害下、ローマの地下にあった共同墓所に、信仰者たちが隠れ家として生活してました。捕まれば、闘技場に引き出されて、キリスト信仰者たちが獣に襲われる様子を、ローマ市民たちは眺めて、娯楽のようにして歓喜していたのだと言われています。その流す血に酔いしれて、日を過ごしていたのです。

 また、多くの信仰者たちが銃殺される時、天から冠が降りて来て、彼らの頭の上に留まろうとしていました。ある人は、死の恐怖に駆られて棄教し、その信仰者の中から走り逃れたのです。それを見ていた兵士の一人が、手にしていた銃を投げ出して、処刑者の列に走り込んで、銃殺されました。その天からの褒賞の冠を受けたからだったそうです。

 来世への希望を持つなら、死をおじ恐れないという話は、古代でも現代でも同じです。迫害される者への永遠のいのちが与えられるのです。イワンは、これから迎える残虐な経験の前に、素晴らしい経験をしたわけです。

 遠藤周作が、江戸期の「島原の乱」以降のキリシタン迫害の事実を題材に、1966年に、「沈黙(新潮社刊)」を書き上げ、刊行されました。それは大きな反響を呼び、映画化もされました。徳川幕府は、キリシタンの台頭を恐れたのです。

 敬虔に生きようと願う者たちは、そんな目に遭うこともありますが、永遠への想いを抱いて、耐えた歴史があるのです。人を恐れないで、死も恐れずに、神を畏れたからでした。彼らは、明日に希望をつないで生きたのです。

(Christian clip arts からのイラストです)

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