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“ anger management “ 、怒りの制御のことでしょうか、穏やかさの反対側にいる、怒りやすい人には、どうしても、これが必要です。確かに、感情が豊かで、喜怒哀楽の激しさは、好意的に受け止めることもありますが、やはり好まれないことが多い様です。どうしても、この「怒り」には抑制が必要です。
昨年のMLBで、あの大谷翔平が、怒りを表したことがありました。穏やかな性格のうちに、豊かな感情表現を見た時、なぜか安心したのです。そう言った一面も持ち合わせていたので、スポーツ、特にプロのスポーツに世界で生きる人には、それがある程度は必要だと思わされたのです。
『愚か者は自分の怒りをすぐ現す。利口な者ははずかしめを受けても黙っている。(新改訳聖書 箴言12章16節)』
この世の中には、怒りっぽい人が多くいます。いつでも、何かに怒りを向けている人のことです。正直で、直情的なのでしょう。聖書は、その理由を「愚か」だと言っていそうです。その反対側に、常に沈黙を保って、怒りを表さない人がいます。すぐに応答しないで、我慢できる人で、「賢い」のです。こう言う人もいるわけです。
「義憤」と言われますが、コトバンクでは、「道義にはずれたこと、不正なことに対して憤慨すること。」とあります。故意や悪意の言動に対して、憤ることは、良いことなのでしょう。それとは逆に、長い物に巻かれたり、日和見的に眺めたり、聞いたりして、『しょうがないか!』と、争いを避けているのか、諦めてしまっているのかも知れません。それで黙っている人もいますが、義に反する言動に、憤るのは良いことかも知れません。
ネヘミヤ書に、次の様にあります。
『彼らは聞き従うことを拒み、あなたが彼らの間で行われた奇しいみわざを記憶もせず、かえってうなじをこわくし、ひとりのかしらを立ててエジプトでの奴隷の身に戻ろうとしました。それにもかかわらず、あなたは赦しの神であり、情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かであられるので、彼らをお捨てになりませんでした。(9章17節)』
私の信じた神さまは、人のなす悪い所業や罪に対して、すぐに怒ることをなさいません。その代わり、その様子を忍耐して見ておいでです。時至って、見過ごしていた罪を、「義」をもって裁かれるのです。
私は、生まれてから長い年月に、さまざまな悪いことしてきました。それらを覚えているのです。じっと、この右の拳を眺めていると、怒りを込めて、この右の拳を振るって、何度も人を殴ったことがあるのを思い出してしまいます。人を憎んだり、呪ったり、傷つけた自分が、本当に悪人で、罪人だあると認めざるを得ません。さまざまな悪事の記憶も鮮明でした。『お前は罪深い男だ!』と無言の声を聞いていたのです。
人からは、いい青年の様に見えたのでしょうけど、心や記憶の内側は真っ黒けでした。きっと、神さまは、その全てを覚えていらっしゃるに違いありません。自分には、赤面する様な、恥ずかしい罪が溢れているからです。それを隠したかったのですが、神さまは全てご存知なのです。きっと、記録帳があることでしょう。
そんな悶々とした思いにあった若い頃に、この「義」でいらっしゃる神さまのいらっしゃることを、ありのままに自分で信じられたのです。次の聖書のことばによりました。
『もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。 私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。(1ヨハネ1章8-10、2章1節)』
罪を、この赦してくださる神の前で、「告白」するなら(念のためにどんな宗教家も代理者にはなれません)、赦されるのです。母は、赦しの神と裁かれる神の両方を、母の財布から、五円とか十円をくすめていた私に、教えてくれました。その硬貨を握って、駅前の駄菓子屋に飛んで行って、買い食いをしていた私にです。そうし続ける私は、隠れている所で、隠された悪をしている自分をご覧になられる神を恐れたのです。
でも、赦されることも、母は教えてくれました。神の御子イエスさまが、十字架に、自分に罪の身代わりに懲罰を、代わって受けてくださったことを、幼い日にです。それで時至って、自分の罪深さを告白したのです。そうしましたら、スッと心の重荷が無くなってしまいました。
怒りを、父の血のせいにしていた自分は、己の怒りに圧倒されていたのです。今でも、毎日、赦されたことを感謝しています。今朝もです。自分を責めたりしません。それで、「怒り」を制御している毎日の自分であります。
(Christian clip arts のイエスさまのイラスト、ウイキペディアの五円札です)
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