コスモスと吾亦紅が

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 ラジオ体操仲間で、近所の方が、庭に咲いていたコスモスと吾亦紅(われもこう)を摘んで、持ってきてくださり、テーブルの上に置いてあります。この時期の花です。何年も前に、信州の街道沿いにコスモス畑があって、花見の後、テントでお昼が出る、と言うので、ちょうど子どもたちが来ていて、一緒に出かけたのです。

 街道沿いの畑二枚くらいに植えられていましたが、人々を呼び集めるほどではなかったのです。ちょっとがっかりでしたのですが、お昼を用意してくださっていたので、それを美味しくいただいたのです。ガッカリが帳消しになって、満腹で、そこを後にしました。

 そんなことを、テーブルの上のコスモスと吾亦紅を眺めながら思い出してしまいました。

(家内が撮った写真です)

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栗ご飯のにおいがしてきて

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 平安の歌人、西行が、こんな和歌を詠んで残しています。

やまかぜに みねのささぐり はらはらと にわにおちしく おおはらのさと

 『一度は!』と思っていた、関西空港に着く便で、帰国した折に、京の北、大原の里に、二年続けて寄ったたことがありました。その夕食に、民宿自家製の味噌鍋が出て、感激したのです。ご承知の様に、中華料理は、油で炒めた料理が多く、秋刀魚を市場で買っては、電気コンロにフライパンで焼いて、おろし大根を添え、アサリの味噌汁で食べたりしていましたが、民宿仕込みの味噌を使った鍋は、もうまるっきりの日本料理でした。

 日本のよさを舌と胃袋で感じた、なんとも感謝な時でした。その時は、大原は、シーズンオフで、旅行者はまばらでした。村中にあった、感じのよい喫茶店に入りましたら、マスターがご婦人で、すっかり三人の話が打ち解けてしまいました。『次に来られたら、家の玄関の方の呼び鈴を押してください!』とのことでした。地元の野菜や蜂蜜やお菓子などの店を訪ねたりの一泊追加で、2泊3日の味噌日の連続でした。

 もう栗の季節は過ぎて、雪が舞う十二月でした。大原女(おはらめ)が歩いて京の都に行き帰りの山道を、路線バスで行き来したのです。京の奥座敷と言っていいのでしょうか、元の西安の都に真似た都なのに、それ以上に、都らしい風情の古都を眺めながらの訪問でした。

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 この下野日光にも、栗の木があって、西行が聞いた篠栗(ささぐり)が地に落ちる音を、私も聞きたかったのですが、毱(いば)に入ったままの栗が散らばっていて、子どものように嬉々として栗拾いをしたのです。持ち帰って、茹でて美味しかったので、大粒を選んでお隣さんにお分けしたのは、二年前の九月ででした。

 栗拾いも、小動物と競争で拾わないと、みんな彼らの胃袋に持って行かれてしまいます。

 果物の豊富な秋、もう柿が店頭に並んでいますし、りんごも無花果も、出回っていますが、値段が、嘘のように高いのには目が飛び出そうです。あの芭蕉も、きっと栗に目がなかったのでしょうか、よく、栗を俳句の中に歌っているようです。木から落ちた栗を見て、こんな句を詠んでいます。

世の人の みつけぬ花や 軒の栗

 福島の須賀川で、谷内弥三郎(俳号は可伸)の生き方に共感したのか、栗の木に咲く花は、衆目を集めるほどの花ではないようですが、世人の評価など求めない、可伸の凡凡たる生きる姿が、芭蕉は気に入ったのでしょうか。

行く秋や 手を広げたる 栗の毬(まり)

 誰にも故郷があるように、芭蕉は、自分が生まれ育った伊賀の地に立ち帰っています。死期を間近にしていた時に、こう詠んだのです。故郷の栗の木に、イガを開いたままに残るイガグリを眺めて、まるで手のひらを開いているようにしている様子が印象的だったのでしょう。イガは、栗の実を包んで、時期が来ると弾けるのです。栗の木の一年一年の終わりを見せていたのと、自分の死が間近なのを知って、共感感していたのかも知れません。

 栗の実を 食べさせたいと 孫思い

 秋の味覚の松茸はともかく遠慮して、母が炊いてくれた「栗ごはん」が食べてみたいな、と思う朝です。生の栗の皮を剥き、渋沢を取るには大変そうですね。面倒を厭わずに炊いてくれた日を思い出す、もう秋なのですね。

(ウイキペディアによる大原女、栗です)

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粋な計らい

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WASHINGTON, D.C., APRIL 24, 2024 — Washington Nationals faced the Los Angeles Dodgers at Nationals Park. (Joe Glorioso/All-Pro Reels for Washington Times Sports)

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 「粋な計らい」と言う場面があります。英語では、”Considerate act” と言うようです。この秋、すがすがしい出来事が、アメリカでありました。

 [50本塁打ー50盗塁]と言う記録を打ち立てた、大谷翔平選手のホームインの後、フアンの祝福を受けてる場面で、アンパイヤーのイアソン球審が、ホームベースをケアーし、ボールボーイと話をし、時間稼ぎをして、その場を作り出していたことです。今や、Pitch lock と言うルールで、試合の進行を滞らせないように、ピッチャーとの投球時間の制限が行われているのですが、その祝福の時間を長引かせていたのです。

 とっさに、なかなかできないのですが、それを敢えてしたのは、さすがはMLB だなあと感心させられたのです。真のTime keeper の所作でした。それを「粋」と、英語でも言うのですね。ハンバーグやMLBのアメリカにも、こんな粋な場面や人物がいるのです。暗いニュースが多いこの時代、心を和やかにさせてくれるAmerican dreamの世界の出来事でした。

(ウイキペディアによるDodgersの大谷翔平選手です)

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秋分の日に

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 日が短くなって来たなと思ったら、もう暦の上では秋で、「秋分の日」です。さしもの暑かった夏が終わったように感じられる今日でした。秋を楽しむぞの思いがしてまいりました。

秋分に 斜めになるか アサガオの

蝉やんで さしもの夏も 鈴虫に

自転車に 跨いで通う 図書館(ふみのいえ)

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剣を取る者はみな剣で滅びます

 

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『すると、イエスといっしょにいた者のひとりが、手を伸ばして剣を抜き、大祭司のしもべに撃ってかかり、その耳を切り落とした。  そのとき、イエスは彼に言われた。「剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。(新改訳聖書マタイ26章51-52節)』

 「壬生義士伝」という小説があります。浅田次郎の作で、幕末に登場した新撰組(壬生狼〈みぶろ〉と呼ばれていました)を取り上げた作品でした。この幕末に、不穏な動きの見られる京都の守護のために、募集された浪士集団で、会津藩の庇護のもとにあり、局長が近藤勇、副局長が土方歳三で、討幕の勤王の志士との間で、争いが絶えませんでした。

 この土方歳三を、本や映画で知って、小学校の時に、土方(ひじかた)という苗字の同級生がいたのを思い出したのです。きっと彼は、親戚関係だったと思われます。農民でしたが、仕事は自家の秘伝の石田散薬を売り歩きながら、その合間に剣道の道場で、ヤットウ(剣道)を稽古をしていたのです。

 直参旗本に取り立てるという触れ込みを聞いて、脱藩浪士や農民たちが、応募して、京の都の警護に当たった、浪士たちの集団だったのです。彼らは、京の郊外の壬生にあったお寺を、屯所にしていました。芝居や映画に取り上げられて有名になったので、私も知るところとなったのです。この小説で、主人公が、吉村貫一郎、盛岡南部藩からの脱藩の浪士なのです。映画化され、日本アカデミー賞 最優秀作品賞、最優秀主演男優賞などに輝きました。

 吉村は、下級武士ながら、文武両道に秀でていて、藩校(藩黌が正式な漢字表記)の教師をし、剣道は、千葉周作道場の北辰一刀流の免許皆伝で、藩の子弟に文武両道を教えていたのです。次世代の教育や指導の任にあたっていた様子が、映画に描かれています。しかし、生活は、至極貧しく、しかも子沢山でした。食べるのが精一杯でしたが、夫婦も親子の関係もよく、貧しさを跳ね返しながら生きていました。

 でも自分の境遇、家族の様子に耐えかねて、脱藩をしてしまいます。幼な馴染で、同じ長屋で生活してきた親友であったのは、藩の重役の婚外子でした。その家の跡取りが亡くなって、急遽、本家に呼ばれて、家督を継いでいく大野次郎右衛門なのです。そのかつての親友に、旅手形を出してもらい、とうとう脱藩してしまいます。貫一郎が向かったのは、尊王攘夷との戦いを京都で繰り広げる、幕府側で、京都の治安を守る新撰組に入隊します。

 剣に優れていて、新撰組一、二の剣術の使い手として、師範に抜擢されます。守銭奴の様に、隊から報酬を求めて生き、その報酬金を、京の南部藩邸に出入りする、南部の御用商人の店の使いに託して、留守家族にお金を届けるのです。貫一郎と息子の間の書状のやり取りも描かれ、家族思いの姿が演じられるているのです。

 新撰組の宴会の席で、この小説のもう一の主人公で、これも剣の達人で、明治維新後まで生き残り、東京の治安に当たる警察官となる、斎藤一が隣に座します。この斎藤の独白で、この小説も映画も始まり、終わっているのです。この二人のやり取りで、隣席の貫一郎が、故郷の南部自慢を、家族自慢を交えて語る場面が、実に面白く演じられているのです。

 そんな田舎者を嫌い、斎藤は切ってしまおうと、屯所への帰り道の付き合いに、酔った風に見せて誘い出します。二人とも剣の強者で、互角に渡り合います。藩支給の褒賞金を貪る吉村雨嫌い続けますが、鳥羽・伏見の戦いの折に、官軍との戦いに、新撰組は敗走するのです。

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 握り飯を手にした吉村が、仲間に配るのですが、最後の一つを斎藤に差し出しと、彼は貪り喰うのです。食べ終わって、ふと、『お前の分は?』と言われた吉村は、竹の皮の包みに残った一粒の米を、苦笑いをしながら口にして、十分な顔をします。そして、武士の義のために官軍に切り込んでいく姿を見て、それほどに仲間を大事にした吉村、武士(もののふ)に徹して生きてきた男に、やっと、真性の武士として認めるのです。吉村は、南部藩の京の屋敷に、深手を負いながら転がり込みます。大野は、吉村に切腹を命じ、それに従って腹を切って果てるのです。

 時は、すでに薩長軍の勝ち戦で、新撰組は落ち延びていき、近藤勇は、下総流山で討ち死にし、土方歳三は、函館の五稜郭で果てます。その最後の戦いに、貫一郎の子の嘉一郎が幕府軍の兵として、南部から加わり、その地で討死するのです。蛙の子は蛙、武士の子は武士で、子も父の志を継いで、父親の様に生きて果てるのです。

 大野の子は、千秋で、明治維新後は、医師となり、東京で開業するのです。千秋の妻は、貫一郎としずの子のみちで、翌朝、満州に行こうとするところに、風邪をひいた孫を抱えた斎藤一が受診を願ってやって来るのです。診察してもらってる間に、一様の写真が、転がり出ます。壬生屯所で記念撮影をした、あの吉村貫一郎の新撰組の羽織を着た写真だったのです。

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 まるで小説の様な終わり方でした。新撰組も、吉村貫一郎も実在しました。とくに吉村は、新撰組に入隊した折の名で、実際は、嘉村権太郎と言ったそうです。あくまでも、この「壬生義士伝」の筋書きは実話に沿った創作で、読者や映画鑑賞者を想定しての創作です。小説家は、幕末や明治を、そんな風に描くのですから、実に感心してしまいます。

 「武士(もののふ)の道」とは、実に厄介なものだったのでしょうね。聖書は、『剣を取る者は、剣で滅びる。』と言うのです。私の父は、鎌倉武士の末裔だと言っていました。先の大戦では、三十代でしたが、戦場には立ちませんでした。しかし、爆撃機や戦闘機、終戦間近の神風特攻機の機体の一部の製造に関わった責を負っていました。

 それでも、父の最初の子、私の上の兄が牧師になっていて、『俺の腰から出た子が聖職者になるとは!』と母に、感慨深く語ったそうです。その子の勧めに応答して、父の最後の時期に、創造主の前で悔い改めて、イエスさまをキリストと信じる信仰を告白したのです。人には赦されなくとも、万物の創造主に赦されたと、私は、父の救いを、今も信じています。 

(ウイキペディアによる町を行く武士たち 〈『四時交加』より〉、戊辰戦争の図絵、函館五稜郭です)

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黒羽に長逗留をして

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 「中途半端」 なことの多かったわが半世紀でした。いつかインドネシアに行こうと考えて、わざわざ四谷の上智大学の語学講座で、インドネシ語を学び始めたことがありました。遠過ぎたことや忙しくなったからは言い訳で、続きませんでした。

 先日、インドネシア人のご婦人とお会いして、そのこと思い出したのです。ブラジル人のご主人がおいでで、今月末には、赤んちゃんが誕生されると、言っておいででした。家内と話をされていて、その話に割って入って、インドネシア語の覚えていた言葉を言おうとしましたが、機会がありませんでした。

 また、日本人と同じ斑点、蒙古斑点のあるモンゴル人に関心を向け、ルーツを訪ねて、ウランバートルに行きたくて、モンゴル語も学び始めましたが、これも中途挫折でした。近くにモンゴル人がいたら良かったのには、これも言い訳でダメでした。

 ハイデルベルクやバート・ボルやバーデンといった街に旅行したくて、ドイツ語も、これはやろうと思っただけで終わりました。シュバーベン方言の人物伝を、コピーで頂きましたが、学べず仕舞いでした。

 知らない街や国にいってみたいというのは、どうも現実逃避の表れで、願望を捨てきれない夢見る少年の不確実性でした。

♫ 知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を 眺めていたい
どこか遠くへ行きたい

遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい 🎶

 遠くの街訪問願望、恋愛願望を歌った、永六輔の作詞、作曲が中村八大で、不良少年っぽい若い歌手が歌っていました。自分が17才の時でした。それに誘発されたのでしょうか。母が交通事故の怪我で長期入院生活をしていた頃の歌でした。家事を切り盛りしていた父を助けたくて、なくなく運動部を休部した年でもありました。

 やはり、中学生になったことを実感したのは、「奥の細道」を、現代語訳ではなく、江戸元禄期の言葉で記した古文から学んだことでした。小学生が詰襟に制服をしている様な感じでいましたが、特別講義での古文の学びで、いっぺんに大人になった様に感じたのです。

 「漂白への誘い」、人生が旅に例えられるからでしょうか、人は旅に誘われます。引っ越しを二十数回もしてきた私は、やはり、一所に腰を据えられずに、新しい道に進んでいきたい想いにさらされてきた様です。今でも、終の住処が定まらずにおり、困ったものだ、と家内が言います。

 あの中一での、「奥の細道」の学びが、作者の松尾芭蕉が、やはり旅の途上に死した漂泊の詩人・李白や四川の成都にも旅して、舟の中で没した杜甫の生き様に憧れ、平安期の白河の関を越えようとしながら果たさなかった能因、陸奥を旅した三十歳の西行に、後ろ髪を引かれて、深川の破れ屋から隅田川を舟で登って、千住から奥羽街道を北上して行きます。「逃げる」を「北げる」とも書き表しますから、江戸を逃げたのかも知れません。芭蕉四十六の時でした。

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 「そぞろがみ」に誘惑された様に書きますが、旅に誘う神がいると言っているのでしょうか。芭蕉は、自分の旅に出たい気持ちを生み出させたものは、李白や杜甫の生き様に感化されて、居た堪れなかったに違いありません。そんな想いを少し抽象的に表現したのでしょうか。「道祖神」は、旅の無事を司る神々のことですが、未知の地を旅する芭蕉は、各地にいるお弟子さんたちの訪問でもあったわけです。

 李白も杜甫も、知人の訪問もあったり、会いたいと願っていた人や土地の訪問もあったのでしょう。芭蕉も同じで、三千里の旅に出て、それを続け、百五十日ほどで終えたのです。この訪ねた場所で、尾花沢に次いで、二番目に長く滞在したのが、「黒羽(くろばね)」でした。現在の栃木の県北の大田原市で、那珂川の舟運の河岸のあった街で、13泊14日の滞在でした。

そこは黒羽藩のお膝元で、こんなことを書き残しています。

『黒羽の館代浄坊寺何がしの方に音信おとづる。思ひがけぬあるじの悦び、日夜語りつゞけて、其弟桃翠など云が、朝夕勤とぶらひ、自の家にも伴ひて、親属の方にもまねかれ、日をふるまゝに、ひとひ郊外に逍遥して、犬追物の跡を一見し、 那須の篠原をわけて、玉藻の前の古墳をとふ。それより八幡宮に詣。与市扇の的を射し時、「別しては我国の氏神正八まん」とちかひしも、此神社にて侍と聞ば、感応殊にしきりに覚えらる。暮れば桃翠宅に帰る。』

 この藩の城代家老と出会って、入魂(じっこん)の仲になって、芭蕉は、同行の曾良と共に歓待されたのです。扇を射た那須与一にも思いを馳せています。どんな街なのか、一度訪ねようと思いながらも果たせずにおります。ここで出会った若い御婦人のお母様は、この街の出で、こちらに来られると、わが家に寄ってくださったりの交わりがあります。
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 芭蕉は、訪ねた村や街の名産にも、預かってご馳走になったのでしょうか。那珂川は、梁(やな/魚などを獲るための竹作りの仕掛け)で獲った鮎の甘露煮が名物の様ですから、当地の記録によりますと、江戸時代にも、中国から伝わった梁漁法で、獲った鮎が食べられたのではないでしょうか。

 街道は、舗装されてないにしろ、もう元禄期には、整備されていましたから、旅の険しさは、そう酷くはなかったことでしょう。まだでしょうか、もうでしょうか、四十六歳ほどの年齢でしたから、芭蕉は健脚になるように、三里に灸をすえて先に進んでいったのです。この頃から、十年ほどを、旅に日を、芭蕉は費やしていったのです。

行(ゆく)春や 鳥啼き魚(うお)の 目は泪

(ウイキペディアの深川、芭蕉と曾良、梁漁です)

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陽の目を見てきた一つの法制度

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 「戦場の悲惨さ」を知らない私が、戦争ってこんなに恐ろしいことだということを、子どもの頃に知らされたのが、駅頭に立っているおじさんたちでした。病院の入院患者が来ているような白衣を纏って、アコーデオンを肩にかけて、軍歌を歌っているおじさん群団でした。一人は義足、一人は義手に募金箱を下げ、アコーデオンを弾いていたおじさんの眼は空洞でした。

 立ち尽くすような衝撃で、その『🎶 あーあ あの顔で あの声で 手柄頼むと 妻や子が 千切れるほどに振った旗 ・・・♫ 』と歌っていたのです。また、電車に座ってると連結部分のドアーを開けて、同じような姿のおじさん、傷痍(しょうい)軍人が、その車輌に入って来ました。

 1950年代のことで、戦争で負傷を負った兵隊さんたちは、補償の制度も整っておらず、働く機会もなかったので、街頭などに立って、「募金」をせざるを得なかったのでしょうか。傷痍軍人会という組織ができたのが、1956年だったようです。この会の設立の時期の背景を、引用してみましょう。

 『敗戦を迎えた日本は、連合軍の占領で、戦後の新しい日本になろうとしていました。焼夷弾を落とされた日本全土は、焼け野原とされていました。物不足はひどく、とくに食料に事欠いていて、飢餓状態だってたのです。

 持ち物を焼かれて失い、土地は瓦礫で溢れ人は生活の苦しんでいました。親を失った子どもたちたちは巷にあふれていました。外地から帰ってきた人たちは、着の身着のままだったのです。外地から帰られた人だけではなく、焼夷弾で傷を負った人も、戦場で傷ついて帰って来た人も大勢いたのです。

 戦争後の日本の舵取りをしたのが、連合軍、主にアメリカ軍でした。ララ物質(LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)からの支援物資、とくに脱脂粉乳を飲んだ世代としては、それを実感したのですが、食料、衣料、医薬品などの援助が、キリスト教団体などから送られてきたのです。

 ところが、軍事国家の形態を打ち壊すために、連合軍は、非軍事化政策を進めていきました。戦前からあった軍人恩給、傷痍軍人への支援が打ち切られてしまいます。生きていけない人たちは、街頭に立って、募金を始めていったのです。生活に困窮した人々は多くおいででした。

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 そんな時期に、アメリカから、障害を負った、三重苦の障害を負われ、サリバン女史の献身的な世話によって、障害を克服して生きてきた、ヘレン・ケラーが来日されたのです。この方は、1948年に日本を、講演のために訪ねたのです。当時、社会活動家として活躍していました。日本全国を講演して回り、身体障害者を支援するようにと、GHQや日本政府を動かしていきました。

 それで、立法化が進んで、2年後に、「身体障害者福祉法」を、日本に誕生させたのです。傷痍軍人、そして身体障害を負っていた人全体に行き届く法律でした。義足や義手などの給付や、職業訓練など、社会復帰などがなされていったのです。

 社会福祉の遅れを取り戻すきっかけが、この傷痍軍人の存在であり、ヘレン・ケラーの来日だったわけです。百番教室で、法学を講じていた教授は、足を引きずって、教壇に登り降りされておいででした。戦争時に、学友のおじさんの部下でした。

 そんな時代を経て、社会福祉や社会事業が日に目を見る様になってきたのです。まだまだ補償などで、未整備で、欧米諸国に遅れている様ですが、日陰から日当たりに、人の精度もうるされてきていると言えます。ずいぶん昔の補償を訴えた裁判が決審していることも聞きます。社会的な弱者救済は、近代国家に課せられた責務、使命なのです。


(ウイキペディアによる傷痍軍人のみなさん、若きヘレン・ケラーです)

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秋が来たベランダに散歩道に田圃に

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 竿の先ではなく、ベランダの胡蝶蘭を支えていたポールの先に、トンボが止まっていました。『秋が来た!』のだと感じて、急に涼しさが感じられたのです。

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 今朝も、秋を見つけに、散歩に行ってきました。大輪の赤と白の木槿(むくげ)の花が、脇道で元気に咲いていました。長く住んだ街に降りていき、高速道から国道に降りていく連絡路の脇で、この木槿の花が、この季節に、帰ってきた私を出迎えてくれたのです。

 7歳まで、そして27歳から61歳まで住んだ街は、長男が3ヶ月から、下の三人の子どもたちが生まれ、4人の子どもたちが育った街でもありました。尽きない思い出のふるさとになるでしょうか。

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 もう田圃の稲は、刈り入れ間近で、もう刈り取りがすんだところも多く見かけられます。米騒動が嘘の様に、稲穂が垂れているのです。慌てず、焦らず、諦めず過ごしたいものです。

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近くの隣人との交流を

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 作詞が永六輔、作曲がいずみたくで、坂本九が歌った「よもだち」と題した歌があります。1969年に、「あゆみの箱」が、俳優の森繁久彌や伴淳三郎の肝入りで、小児麻痺児の激励のために、企画されて作られ、そこで歌われた歌です。

🎶 君の目の前の 小さな草も
生きている 笑ってる
ホラ 笑ってる

君の目の前の 小さな花も
生きている 泣いている
ホラ 泣いている

君が遠く見る あの雲も山も
生きている 歌ってる
ホラ 歌ってる

ふまれても 折られても
雨風が吹き荒れても

君の目の前の この僕の手に
君の手を かさねよう
ホラ ともだちだ

ふまれても 折られても
雨風が吹き荒れても
君の目の前の この僕の手に
君の手を かさねよう
ホラ ともだちだ
ホラ 歌おうよ
ホラ ともだちだ ♫

 新しく住み始めた地で、新しく「友人」と呼んでくださる隣人ができました。直線距離で25mほどにあって、互いに眺め合える距離にあるのです。『今日は洗濯物が干してないので、お元気かしら?』、『車がないので、どこかへおいでかしら?』と、互いが心配し合える距離においでのご夫妻なのです。

 先週、術後間もない金曜日に、同病の後輩の私、そして家内を、川を挟んだ南側にあるお住まいにお招きくださいました。自治医科大学附属病院で、同じ主治医の患者同士で、この方が医師を紹介してくださって、この春に診察していただいたのです。この9日に、カテーテル・アブレーションの治療(内科医の手による手当てなので手術とは言わないのだそうです)を無事に終えられて、入院手術時に書類を開かれれ、その術中と術後の様子を知らせてくださるためでした。

 茶菓でもてなしてくださって、都内在住の弟さんから贈られてきたという、新種の「梨」と「りんご」、そしてお菓子に紅茶を、奥さまがテーブルに運んでくださったのです。この果物は、日本橋にある高級フルーツ店の「千疋屋(せんびきや)」で買って送られて来たそうで、格段の味わいでした。美味しく煮た黒豆は、抜群に美味しくいただきました。

 ご自慢のお孫さんの話、また奥さまは昔、ワンダーフォーゲル部にいたそうで、結婚して二人で登山をした話、深田久弥が選んだ「日本百名山」を、半分近く走破されて来られたほど、山好きのようです。もう山登りはしないと、私は思いますが、長野県の諏訪湖の近くの入笠山に、家内を誘ったのが、一緒の山行きをした最後になった様です。

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 この深田久弥ですが、山梨県の茅ヶ岳での登山の際に、その中腹で亡くなっておられます。もう何年たつでしょうか、この茅ヶ岳に登ったことがありました。名登山家の終焉の地であることを、その折に知ったのです。そこも百名山の一つで、奥多摩の山や信州の山に似ていますが、それぞれに、山の顔があります。 

 そのお二人の山行きの数々の写真も、居間の壁にかけられてあり、その写真など見せてくださり、楽しい交わりのひと時でした。以前にも、目の不自由なテノール歌手、Andrea Bocelli のビデオ、チェロ奏者のビデオ鑑賞会にも招いてくださったご夫妻なのです。知り合いのいない私たちに、こんなに素敵なり隣人がいるのは実に感謝でいっぱいなのです。

 ラ・フランスの洋梨、煮豆、ちらし寿司をお土産にいただいてしまいました。何と、隣り合わせの家なのに、車で、玄関まで送ってくださいました。そのトヨタの高級車は、エアコンまで効かせてありました。何という素敵な配慮に溢れた待遇だったでしょうか。もっと遠くにお連れいただきたい思いがしてしまいました。

(ウイキペディアによる林檎の花、心臓のイラストです)

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一服の清涼「花」の如くに

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 毎朝、送信してくださる「里山を歩こう」 に、今朝掲載されていた、「クズ」の花です。

 『林道沿いではクズの花が目立っています。』

と添え書きがありました。呉市近郊の野に咲いていたことでしょう。もうずいぶん長く、お送りいただいていて、おもに広島の呉市周辺の野山を歩かれて、撮影している写真と記事なのです。

 最初の職場に、この呉市の高校の校長が理事でおいでで、なかなかの学校経営者でした。この方の学校で教員になりたいほどでしたが、東京の学校に職を得て働いたのです。もう50年も前の話になります。みんな昔話になってしまいました。

 きっと、この高校を見下ろせるような、山谷を歩いておいでなのでしょう。「クズ」は、大和の国(奈良県)の国栖(くず)という名の村落で、葛粉が採れたそうで、その産地であったところからの命名されたと言われています。

 わが家では、「くずきり」が好物で、これを冷麺のようにして、「冷やし中華」風にして、胡瓜、トマト、しめじ、わかめ、細切り卵焼き、炒めたお肉を乗せて、酢醤油にごま油を加えたかけ汁で食べます。美味しいのです。

 お隣の佐野市には、「葛生(くずう)」という地名があります。きっとクズの産地なのか知れません。佐野市のホームページに、それとは違った、地名の由来が、次のようにありました。

『 1 万葉集の東歌の中に「上毛野安蘇山黒葛野(かみつけぬあそやまつづらぬ)を広み延(は)ひにしものを何(あぜ)か絶えせむ」とあります。ここに上毛野とあるのは、上古は今の上野と下野は毛野国といって一国であったが、仁徳天皇のころ上毛野と下毛野に分けられました。しかし、境界は一般には不分明であったため、誰の作ともわからず東国人の歌として万葉集に採録するとき、筆者がはっきり境界など気にせず下毛野を上毛野と書いたようにも考えられます。この歌の「つづら」は葛または藤など、つるを利用してひものように利用できる植物を意味しているので、「葛生の地名」の起こりもこの辺から出たのではないかといわれています。

2    クズ・フという地名で、クズは動詞クズレル(崩れる)の語幹で、山・崖などが崩れ落ちるの意味から、崩崖・崩壊地をいいます。フは「~になっている所」という地形名彙の語尾につくものなので、地名は崩崖地に由来するという説です。』

 この葛生には、太古の昔、マンモスが棲息していたそうで、その化石館があるそうです。今秋は、ここを訪ねてみたいなと思っております。

(ウイキペディアによる葛の花です)

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