新約聖書の「ヘブル人への手紙」の中に、たくさんの人の名前が出てきます。近所の方に、新約聖書を差し上げましたら、その冒頭の書、「マタイの福音書」から読み始めて、『薬の名前のようにたくさん出てきて・・・』と、戸惑いのご感想を言っておいででした。家内は、『そこは先ず飛び越されて・・・』と言って、続けて読まれるように、勧めていました。そう思う方もおいでのようです。そこに登場する人々は、神を信じ、従い通して、その生涯を「信仰者」として全うした点で、みなさんが共通しています。彼らの生きた時代、生活を営んだ環境は、けっこう厳しく、大変だったようです。
それでも彼らの信仰は、積極的で行動的でした。敵の攻撃に対してではなく、神さまが下さる祝福に対して、いえ人生そのものに aggressive だったのです。どうして彼らは、理想的ではない時代の直中を、そんなに信仰深く生き抜くことができたのでしょうか。どんな秘訣があったのでしょうか。
この信仰者列伝の名簿の中には載っていませんが、一人の人物を取り上げてみましょう。中世の教会が抱えていた宗教上の逸脱、聖書にもとる問題点を指摘し、「宗教改革」の狼煙(のろし)を上げた、マルチン・ルターと言うドイツ人です。彼のお父さんは、鉱山労務者でしたが、中世的な敬虔な信仰を持った人で、その家庭には厳格な空気が漂っていたようです。そんな中、4人の兄弟と4人の姉妹の中で、男の子として育ちます。彼らの家庭は、楽しく幸福な空気も満ちていたと、後になってマルチンは述懐しています。
マルチンは、学ぶことの好きな子どもとして成長していきます。お父さんは、大学に行かせて上げようとし、1501年に、エルフルト大学に入学するのです。その学校での学びの中で、図書館の蔵書の中に埃をかぶっていたラテン語訳聖書を見付けるのです。それが彼の「聖書」との最初の出会いでした。彼が先ず読んだのは、一組の母子の物語、「母ハンナとサムエル」の記事だったそうです。それは、旧約聖書サムエル記第一1〜2章を、興味津々で読んだことで、生死への強烈な興味と関心が引き出されたのです。
実はお父さんはマルチンに、法律学を学ばせたかったのです。それが、どの社会でもelite への道筋を作り得る学歴が得られるからでした。法律家になって、良家の女子を娶って、自分には叶わなかった、ルター家を建て上げて欲しいとの夢が、お父さんには強くあったのです。ところがお父さんの意に反して、マルチンには、「聖書」を学ぼうとする強烈な願いがあったのです。エルフルトで学んでいる間に、強烈な体験をマルチンがします。
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当時にドイツの大学生は、短剣を腰に下げていたそうです。いかにもドイツの学生気質を感じさせる様子ですが、これが仇となって、マルチンは足の動脈を、その短剣で切ってしまう大怪我をしてしまいます。その時、『マリヤさま、助けてください!』と咄嗟に呼び掛けたのです。また、ある時は、マルチンは落雷に打たれます。その時は、聖アンナの名を呼んで、『助けてください!』と咄嗟にに叫んだのです。このアンナは、貧しい鉱山労働者の守護聖人だったからです。
敬虔だと言われた当時のマルチンの信仰のlevel は、その程度のもの過ぎませんでした。この二度にわたる死に直面する事態の恐怖体験によって、人間の限界を痛切に覚えるのでした。形骸化された伝統的な信仰や宗教の中からは、何も助けも平安も得られないことを知らされるのです。それから、真実な救いへの渇きが与えられ、模索が始まりました。
あの日、聖アンナに助けを求めて、一命を保たれた経験から、『助かったら、修道士になります!』との誓いを果たすべく、父の大反対を押し切り、周囲の止めるのをものともせずに「アウグスチヌス会」の修道院に入ってしまいます。
そこでの生活は、とても厳格でした。でも彼には苦にならなかったのです。しかし熱心になればなるほど、彼の心には平安がなくなっていったのです。敬虔に生きようとすればするほど、罪深い自分の「罪性」を知らされるのです。これは聖霊なる神の働きです。どうすることもできなく罪に苦しみ、懺悔するばかりに日々を過ごしていた、と当時をマルチンが語っています。
そんな時に、修道院長シュタウビッツと出会うのです。マルチン、時に25歳でした。このシュタウビッツは、当時の修道僧の中では、とても聖書的、福音的な信仰の持ち主でした。彼が言うには、『主イエスさまが、私たちのために血を流してくださったのです!』と言って、《神の恵み》を強調し、『聖書を読みなさい!』と、マルチンに勧めてくれたのです。
ある時、この院長の使いで、ローマのバチカンに、教皇宛の手紙を持参する務めに任じられるのです。バチカンに着きました。そこには、祈りながら、膝でにじり上がるなら、煉獄にいるであろう祖父母を、天国に移すことができると言われる「スカラ・サンタ(聖なる階段)」の28段の石段がありました。その階段をマルチンは上り始めました。
数段上った時に、彼の思いに中に、『義人は、その信仰によって生きる』と言う声を聞くのです。マルチンは、自分が伝統に従って苦行をしていることが、なぜか愚かに思えてなりませんでした。それで階段の石段の途中で立ち上がって、踵(くびす)を返して、彼はドイツに帰ってしまうのです。
熱心に信じ、仕えてきた伝統宗教の無意味なことごとに、多くの疑いを胸に秘めて帰っていきます。その思いを持ち続けながら、1511年に、神学博士の学位を取得し、ヴィッテンブルグ大学の教授に、27歳で就任します。「詩篇」、「ローマ人への手紙」、「ガラテア人への手紙」と言った聖書を学生に教えたのです。聖書を読み、学び、研究し、教えるに従って、あの時に感じた多くの疑問に、光が当てられていくのでした。それこそ「聖霊の働き」だったのです。
マルチンが抱えていた最大の課題は、『罪深い人間は、どうすれば救われるのか?』で、それこそ彼の根本的な人生上、信仰上の疑問だったのです。そのような思いの中で、パウロが書き送った「ローマ人への手紙」に引用した「ハバクク書2章4節)」に出会うのです。あのバチカンの石段を上がる時に、閃くようにやってきた思い、『義人は信仰によって生きる。』でした。これも「聖霊の働き」でした。
『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(新改訳聖書–ローマ人1章16~17節)』
そんな信仰の過程をたどりながら、1517年10月31日に、ヴィッテンブルグ城の門扉に、「九十五ヵ条の提題」を、釘で貼り付けて、あの「宗教改革」が始まるのです。マルチン・ルター、35歳でした。
そのような教会改革の狼煙を上げ、聖書のみことばに従って立ち上がったマルチン・ルターの「信仰の特徴」を九点上げてみましょう。
- 「罪」を誤魔化さずに取り上げたこと(詩篇51篇1〜5節)
- 人が神のみ前で「義」とされるには信仰によること(信仰義認–ローマ1章17節)
- 主は、「生けるキリスト」であること(ローマ6章10節)
- キリストは、人に「内住」されること(コロサイ1章27節)
- 「聖書」に基づく信仰を主張したこと(ヤコブ1章21節)
- 「祈り」に支えられる信仰を掲げたこと(1ペテロ4章7節) 友人のデートリッヒは『彼は1日3時間、最も良い時を祈りに費やしていました。』と述懐しています。
- 常にキリストを「賛美」したこと 彼の口には常に賛美がありました、聖歌233番「御神は城なり」を作詞しています。ドイツ議で賛美し、ドイツ語訳聖書が読まれ、ドイツ語で説教する「礼拝」が1525年に初めて行われています。
- 「ユーモア」を理解していたこと 『キリスト者は心朗らかでなければならない!』と言い、自らを「ガラスのマルチン」とか「弱き人マルチン博士」と自称したそうです。
- 「家庭の人」であったこと 修道女であったカテリーナと結婚をし、家庭を設け子どもたちを育てています。その家庭にはいつも多くの友人たちや学生たちが集まっていて、テーブルを囲んで話が行われ、賛美を歌い、民族的な普通の歌も歌われ、美味しい食事が供されていたそうです。
宗教改革者マルチンの信仰は、溢れるほどに神の恵みと家族愛や隣人愛が溢れていました。神によく知られ、神をよく知っていた人だったのです。(1996年12月29日の日曜礼拝でした説教に少々手を加えてみました)
(ルターが翻訳し、グーテンベルクの印刷した「ドイツ語訳聖書」です)
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