爷爷

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私の父は、「鉱山技師」として、満州、京城(現在の韓国のソウル)、山形などで働いてきていました。戦時下には、軍命で、「石英」を採掘する仕事を受けて、中部山岳の山奥にいました。爆撃機の防弾ガラスを作るための「軍需工場」の場長として勤務していたのです。

額に、日の丸を染め抜いた鉢巻きをした、工場従業員の記念の集合写真が残っていました。戦時色が強くなり、増産が急務だったからでしょう、その決起の気概を、軍部に報告するための写真だったのかも知れません。採掘した石英の原石を、採掘現場から「策動(ケーブルカー)」で、トラック輸送できるところまで運び、そこから国鉄の駅で貨車に積み込み、京浜のガラス工場に搬送していたのです。私は、父と一緒に、「山手線(東京都内環状線)」に乗っていた時に、その防弾ガラスを製造していた工場のあった辺りを、父が指し示してくれたのを覚えています。山奥と東京を、何度も往復して、30代の父は、軍命を全うしていたわけです。

こちらに参りましてすぐに、ある方の案内で、この街の古代からに歴史を、文字や図で刻んだ「石板」が、街の中心を流れる川岸に、2キロメートルほど掲示されてあるのを見させてもらいました。そこには、日本軍の爆撃機の空襲で、中心街が爆撃され、多くの犠牲者があったという記事があったのです。父の採掘した原石で作られた防弾ガラスが、その爆撃機の部品の一部だったわけです。

それを知って、今更ながらに驚いたのです。南京、上海、重慶などの爆撃は知っていましたが、自分が住み始めた街も、また日本軍の攻撃を受けていたわけです。「大東亜共栄圏」、「五族協和」を旗印にして始めた戦争が残したものは、実に大きかったわけです。

父は、その時期の「軍務ダイアリー」を残していました。1944年の物も、父の机の引き出しの中にあって、その「12月17日」の欄に、「午前4時45分誕生」と、右上がりの字で書き込まれてありました。父の筆跡です。そうです、今日は私の誕生日でした。

村長さんの奥さんが、産婆をしてくれて、受けとめてくれたそうです。寒い冬の山奥の旅館の別館に、日の出の2時間以上も前に起き出して、駆け付けてくれ、お湯を薪で沸かして、産湯(うぶゆ)をつかわせてくれたのです。その村長さんの家の玄関に、幼い私の写真が、いつまでも飾られていたそうです。源氏の落ち武者の末裔(まつえい)でしょうか、"藤原姓"でした。

今日、出先で、幼い子供をあやしていたら、その子のお母さんが、『爷爷(yeye/おじいちゃん)に你好(nihao)は!』と言っていました。あの可愛い赤子が、白髪で、シワのできた「爷爷」になってしまったわけです。でも、まだ元気で、すべきことがあって、生かされている自分を感じています。弟や子どもたちから、お祝いのメールがありました。嬉しかった!

仲由

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孔子の弟子に、「子路」という人がいました。《孔門十哲》の一人で、孔子が最も愛した弟子だったそうです。その出会いの様子が、次のように伝えられています。

『「汝(なんじ)何をか好む?」と孔子が聞く。
「我、長剣(ちょうけん)を好む。」と青年は昂然(こうぜん)として言い放つ。
 孔子は思わずニコリとした。青年の声や態度の中に、余りに稚気(ちき)満々たる誇負(こふ)を見たからである。血色のいい・眉(まゆ)の太い・眼のはっきりした・見るからに精悍(せいかん)そうな青年の顔には、しかし、どこか、愛すべき素直さがおのずと現れているように思われた。(中島敦著「弟子」からの引用)』

この子路は、無頼で軽率さの見られる人だったのですが、ただ「率直」だったのが、孔子に愛された理由だったのです。直情的な性格でしたので、孔子の説く教えと、自分とのギャプの大きさに、弟子になったばかりの頃は苦しみながら、教えを受け入れていったと言われています。年齢差は、<九歳>だったそうです(私とアメリカ人の師と同じでした)が、「人間」として抜きん出ていた孔子に、子路は男惚れてしまうのです。実年齢さには、はるかに及ばない「人間の差」に、子路は圧倒されて、「師」のそばで死ぬまで過ごすことに徹したのです。

この子路について、中島敦の「弟子」に、次のような箇所があります。

『師の言に従って己(おのれ)を抑(おさ)え、とにもかくにも形に就こうとしたのは、親に対する態度においてだった。孔子の門に入って以来、乱暴者の子路が急に親孝行になったという親戚(しんせき)中の評判である。褒(ほめ)られて子路は変な気がした。親孝行どころか、嘘(うそ)ばかりついているような気がして仕方が無いからである。我儘(わがまま)を云って親を手古摺(てこず)らせていた頃ころの方が、どう考えても正直だったのだ。今の自分の偽りに喜ばされている親達が少々情無くも思われる。こまかい心理分析家(ぶんせきか)ではないけれども、極めて正直な人間だったので、こんな事にも気が付くのである。ずっと後年になって、ある時突然親の老いたことに気が付き、己の幼かった頃の両親の元気な姿を思出したら、急に泪(なみだ)が出て来た。その時以来、子路の親孝行は無類(むるい)の献身的(けんしんてき)なものとなるのだが、とにかく、それまでの彼の俄(にわか)孝行はこんな工合ぐあいであった。』

この子路は、大変な親孝行だったそうです。百里も離れたところに住む叔母のところに行って、米をもらい、それを背負って家に持ち帰って、両親に食べさせたほどでした。それで中国の「二十四孝(ここには本名の"仲由"で出ています)」の一人に数えられている人です。

今日日、世界中で「老人問題」が注目されていて、ここ中国も同じです。こちらには、2億4000万人以上の老齢者がいて、「行方不明者」や「孤独死」や「虐待」の問題が多く、ニュースで取り上げられています。 私自身も老齢に達していますので、他人事ではありません。ある人が、「人は生きて来た様に、老いを迎え、死を迎えるのだ!』と言っていました。

百まで生きようと、私は公言し、決心しているのですが、ちょっと決心が揺らいでしまいそうです。でも 人の「齢(よわい)」を決めるのは、命の付与者のみですね。それなら、一日一日を、生かされている思いで、気張らずに、素直に生きていきたいものです。

(米を背負う「子路(仲由)」の像です)
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小さな朝顔

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今朝のベランダで、小さく遠慮がちに咲いた「朝顔」を見つけました。この夏、娘の婚礼で留守をしてる間も、水やりのない間間も、じっと耐えて、命を繋いでいた朝顔が、12月15日にも開きました。葉は落ち、蔓も枯れてしまったのに、這い上がる様に、咲いてくれました。こんな風に生きられたら好いですね。午前10時のベランダの寒暖計は、9℃、今年の冬で一番寒い朝です。
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もうすぐ

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《新しい年への期待感》が、子どもの頃にありました。『来年こそは、ボク、がんばるぞ!』という気持ちを、心の中から湧き立たせていたのです。そう言った思いを、まだ持たせてくれた年齢と時代だったのかも知れません。晴れ着を買ってもらい、新しい履物、下駄だったでしょうか。正月の朝に、それを着たり履いたりして、カラコロと音を響かせながら外出したのです。

「お正月(東くめの作詞、滝廉太郎の作曲)」も、年の暮れになると、よく歌ったり、聞こえてきました。

もういくつねると お正月
お正月には 凧(たこ)あげて
こまをまわして 遊びましょう
はやく来い来い お正月

もういくつねると お正月
お正月には まりついて
おいばねついて 遊びましょう
はやく来い来い お正月

指折りをして見たり、暦を見たりして、消去法で残りの日を数えていました。「お年玉」をもらえるのも楽しみだったからでしょうね。母は出雲、父は横須賀の出身でしたが、親戚に行く様なことは、冠婚葬祭以外にはなかったので、「お年玉」は、父からもらう以外なかったのです。

暮れになると、母は、何時もに増して忙しくしていて、片付けや掃除、正月の準備に余念がありませんでした。それは、新しい年を迎える興奮が、家にも近隣にも、国中にあったのでしょうか。街中の店は、「お歳暮(おせいぼ)」や年末商品を、賑やかに売り出していました。家に「杵(きね)」が残っていましたから、記憶はないのですが幼い日には、家で「餅搗き(もち つき)」をしていたのでしょう。いつも米屋さんに、正月用の餅をお願いしていました。

その餅が届くと、切りやすい硬さになるまで待っていた父が、実に几帳面(きちょうめん)」な性格でしたから、竹の定規を当てて、実に正確に同じ形に切って、餅箱に揃えて入れていました。それを正月には、父が、一人一人に『いくつ喰う?』と聞いて、七輪の炭火の網に載せて焼いてくれるのです。

それを、何か調味になるものを加えたのでしょう("味の素"はまだなかったので)醤油味で、鶏肉と小松菜の具で、母が作った雑煮の鍋に入れて、しばらく煮て、椀(わん)にとってくれました。暮れに買い出しに行って、せっせと母が作り置きしていた「御節(おせち)」が供されていました。ごまめ、黒豆、きんとん、きんぴら、なます、昆布巻、蓮根、牛蒡(ごぼう)や蒟蒻(こんにゃく)や椎茸(しいたけ)や里芋の煮物などなどに、市販の伊達巻、紅白の蒲鉾、ハム、酢ダコなどが、三段や平の「重箱」や大皿に、きちんと入っていました。

若い頃にやめて酒を飲まなかった父が、正月だけ、「葡萄酒」を飲み、顔をほのかに赤くしていたのが印象的です。子どもにも、少し味あわせてくれたでしょうか。和やかな「団欒(だんらん)」が、拳骨親爺と優しいお袋の家庭にありました。この童謡のように、凧も上げたり、駒を回したり、カルタや福笑いといったゲームもしました。

姉や妹がいたら違っていたのでしょうけど、喧嘩に明け暮れた男兄弟四人でしたが、「良質の思い出」もありました。そんな家庭で育ったことを思い返して、感謝しています。家内が、『餅を搗こうかしら?』と言っています。「臼(うす)」はないのですが、駐在員の方が置いていってくれた「餅つき機」があるからです。小松菜は、「江戸風の雑煮」には欠かせないのですが、こちらにはないのです。もうすぐ、ですね。
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二つの駅

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この二葉の写真は、二つの駅の写真です。とても似ているのにお気づきでしょう。上の写真は、中国の遼寧省の省都・瀋陽にある「沈阳站/瀋陽駅)」で、下の写真は、「東京駅」です。似ているのは偶然ではなく、両駅ともに同じ設計者によって建てられているのです。日本統治下にあった時期に、ここは「奉天(ほうてん)」と呼ばれていて、「南満州鉄道」の本社が置かれていたそうです。その主要駅でした。

郷愁を感じられるのでしょうか、中国のみなさんの寛容さでしょうか、建て替える時に、忌まわしい過去を捨て去らないで、同じ様な形で、今も残されてあるのです。歴史に刻まれたものを大事にされているのでしょうか。大戦末期に、米軍機の空襲で、日本は焼土と化したのですが、京都や奈良の歴史的な文物や遺跡を避けたと言われています。そこには、古い中国の「洛陽」の街に模した、古い街並みや建物が残されていて、今、中国から多くのみなさんが、観光においでだと聞いています。

私の父は、その青年期に、この瀋陽駅を利用したのでしょう。生きていたら、懐かしく往時を思い出すことでしょう。何時か訪ねたいと思いながら、なかなか、その機会がありません。こちらにいる間、訪ねてみたいものです。
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口撃

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これは山梨県甲州市、旧塩山市の松里の農家の晩秋の光景を撮った写真です(岩波家)。「甲州百匁柿」の皮をを剥いて、天日干しにして作る「枯露柿(ころがき/干し柿)」です。まるでカーテンの様に、簾(すだれ)のように見えます。秋が深まるにつけ、秋空や冬空に映えて、なんとも言えないほど日本の農村特有の情緒です。

家内の好物ですが、よくできた干し柿は、目が飛び出るほどの値がつき、庶民の口には、なかなか入らなくなってきているのです。この干し柿の製造行程の途中で、商品になるのを、「あんぽ柿」と言って出荷され、高級料亭のデザートとして出るのだそうです。市販されているのは、小振りの渋柿から作っている様です。

数日前に、このアパートの入り口で、百匁柿と同じ形状の小振りの柿が、『甘いよ!』と売っていて、喜んで買って帰りました。生柿の好きな私ですから、早速洗って包丁で皮を向いて食べたのです。歯ごたえがあって、とんがった部分は甘くて美味しかったのですが、ヘタの近くの部分は、結構きつく<渋み>が残っていて、口中に広がってしまいました。もうがっかりでした。こちらのみなさんは、柔らかくなるまで待って食べる様です。

中国の柿は、渋柿が多く、平べったい「富有柿」の様な形状のものでも、渋いものが売られていて、注意しないと、<渋み>で口撃されてしまうのです。でも、今年もたくさん柿を食べました。まだ売っていますので、見つけようと思っています。こちらでは、上下に潰して作った干し柿はありますが、なぜか家内は欲しがらないのです。芸術品の様な、日本の「枯露柿」を知っているからでしょうか。
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タバコ

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映画には、「功罪」があります。《娯楽》と言う面では、ただ面白く興味深く、夢を見ている様な経験ができます。自分ではできないことを、俳優が、自分に代わって、痛快に、手際よく悪者を打ち滅ぼしてくれるのです。子どもの頃に観た東映の時代劇映画で、奉行所から役人が、悪者を召し取りに駆けつける場面で、思わず手を叩いて応援していたのを、昨日の様に覚えています。

裕次郎が、長い脚を下の方から映された映像が、スクリーンいっぱいに映されて、ほんとうにカッコよかったのです。外国映画では、まるでそこに、旅行で出かけているような錯覚さえ感じてしまいました。ジェームス・デーンの左手のー人差し指と中指の間に、タバコが挟んであって、それを口にもって行き、煙を吐いている様子は、とても美味しそうでした。こう言うのを、《疑似体験》とか《代替体験》とでも言うのでしょうか。

私は、映画を観て、タバコを吸い出したのではないのです。もう小学生の頃から、タバコをくわえていたのです。前にも書いたのですが、父は、喫煙家で、<煙草盆>を持っていて、家の畳の上に、常に置いました。そこから煙草、マッチをとって、吸い始め、灰を灰皿に入れていたのです。家にいて、庭で草取りをしてると、『準、一本点けてくれ!』と言うので、私は、父の様なしかめっ面で煙草をくわえ、マッチを擦って火をつけて、庭にいる父に渡したのです。小学生の時でした。一口が、二口に、三口になって、とうとう煙草の味を覚えてしまったのです。

でも、その悪習慣を、25歳でやめることができました。お酒も、ついでにやめれたのです。それまで、ほろ苦い日々が、私にもあったわけです。交番の前に来ると、わざと煙を、高く吐き出して通るのです。決まって、呼び止められるわけです。『君、幾つだ?煙草を吸っていいのか!』と言われるので、ポケットから《学生証》をおもむろに出して見せるのです。お巡りさんの困った顔が見たくて、何度もかやったことがありました。

6月31日は、「世界禁煙デー」だったそうですね。《百害あって一利なし》、まさにその通りです。入院中、カップラーメンを何度かくださった方が、2カートンのタバコを持って入院してきたそうです。『院内でタバコを吸ってるのを見つけたら、即退院!』と言う、高校並の規律があって、看護師さんに退院まで預けて、その決まりを守っていました。彼は、『今度こそ禁煙します!』と宣言して、家に帰って行きましたが、どっちを続けているか、ちょっと心配している、年の暮れです。
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手術

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これは、消えてしまったブログの再掲出です。今年最大の出来事は、「左腕鍵板断裂縫合手術」を、4月14日に、札幌の病院で受けたことでした。手術前後の記事で、4月15日の記事です。35日間の入院生活の最初の様子です。

12月9日の今日、術後8ヶ月が経過しています。全く痛みを感じることもなく、肩を意識せずに生活できています。執刀医、看護師、リハビリのスタッフ、差し入れをしてくれた友、見舞ってくれた息子、回復を願ってくれた兄弟たち、子どもや友人たち、そして家内に心から感謝しております。とくに、入院するに当たって、経済援助をしてくださった中国の友人たちには、心からの感謝を捧げます。

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昨日(今日は4月14日)と打って変わって、晴天の札幌の金曜日です。8時半に、JRと札幌地下鉄の駅の近くにある病院に来ました。入院の事務手続きをして、手術の担当をする看護士さんから、入院と手術について、さらに術後のリハビリや生活の仕方などの懇切な説明を受けました。医療事故を防ぐために、この病院 独自の努力をされているのが感じられ、とても安心感があります。

その後、《中国からやって来た日本人の患者(ナースステーションの一人の看護士さんがそう言ってました!)》の私に、《私が治します!》と言ってくれた担当医(中国の街からの私の問い合わせに回答してくださった医師で、この病院の理事長です)から、手術が1時間で終わる旨、説明を受けました。「骨密度」は、青年並みだそうで嬉しくなりました。

その後、病室に案内してもらい、《成田から宅配した旅行バッグ》を受け取って、着替えや本などを収納にしまいました。看護師長さんが来られ、中国から頼って来てくれた《押掛女房》の様な私を、『O医師が、◯さんが頼って入院してくれたことが、いつになく嬉しいそうでした!』、と言っておられました。水分制限は、14時までは自由とのことで、ちょっとほっとしています。昨夕、牛ステーキの全国展開をしている店で、《国産サーロインステーキ259g》を、娘が勧めてくれましたし、自分が食べたかったので奮発してしまいました。

独身時代以降、そんな《独り贅沢》をしたのは初めてのことでした。痛がるだろう自分への《なだめの御馳走》でしょうか。それで、朝昼なしでも空腹感が全くないのです。看護師の話ですと、夕方5時からの手術が終わって、麻酔がスッキリ覚めてから、夕食を取り置きしてあるので、出してくれると約束してくれています。手術着に着替えて、歩いて手術室に行くことになります。今は、午後2時前です。今日は、O医師は、何と9件の手術を執刀されるそうです。すごくタフな整形外科医師ではないでしょうか。順調なので、1時間ほど前倒しになると、言ってきました。

★ここからは、15日の朝8時20分に記します。

昨夕4時半頃に、担当看護師が迎えに来てくれ、歩いて手術室に行きました。4階の病室で意識が戻ったのは7時頃でした。手術も1時間で終わり、術後も順調とのことでした。みなさんの応援に、心から感謝しております。ありがとうございました。長男から、手術の様子を問い合わせがあったと伝えてくれました。

12年前の右腕の腱板断裂の手術の方法は、もっと時間がかかったでしょうか。あの時は、術後2日ほど、右腕を釣り挙げられて、ベッドに固定されてしまいました。看護師に『自殺者がいたんです!』と言われたほど、苦しい経験でした。それがすむと、アメフトのプロテクターをつけて、手を万歳したまま固定されていたのですが、今回は柔らかな資材の装具を着けてもいました。腹部で支える様にされています。

昨晩の夕食は、とっておいていただいた物を温め直してくれ、食べたのです。鷄肉の照り焼きとキャベツの炒めた物と薄い味噌汁と米飯でした。やー、完食してしまいました。今朝も大豆と人参の煮た物、大根の味噌汁、牛乳と米飯で、美味しくいただきました。同じ様な装具をつけた患者でいっぱいです。主治医の回診が、この後あります。午後は、何とリハビリの開始です。みなさんの愛に感謝して。

教育

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「若者」と「老人」を比較して、次の様に言っていました。

未来を見る☞☜過去を見る
これからの人☞☜これまでの人
覚える人☞☜忘れる人
上を向く人☞☜下を向く人
ピチピチ☞☜ヨレヨレ
異性が好き☞☜異性が嫌い
大食い☞☜小食い
金欠☞☜病欠
発展途上人☞☜衰退途上人
忙日閑あり☞☜暇日閑のみ

『そうだよなー!』と思ってしまいました。だからででしょうか、でも中学に入った時を、昨日のことの様に思い出すのです。父親は県立中学校から、家庭の事情で、都内の私立中学校に転校しています。この中学校は、<一高>への入学者数の多く、東京の私立では名門中学だった様です。そんな父が、私を、私立中学に入れてくれたのです。私の街で、大きなパン工場を、経営していたお父さんを持つ同級生が、同じ中学の女子部に入ったきりでした。

兄たちも弟も、街の公立中学に進んだのに、父の寵愛と期待を受けて、私は進学したのです。その学校の校長を、教育者の「鑑(かがみ)」と、父が高く評価していたからでもあったのです。そこは、<大正デモクラシー>の、日本の近代では、文化や芸術が花開いた、とても好い時代で、その時代の風の中で、独自の教育観に立った学校を建てたのです。

幼稚園、小学校、中高と、そして、<団塊(だんかい)>の進学者を受け入れるために、何年か後に、大学を併設しようとしていた学校でした。丸刈りの坊主頭で、海軍兵学校の様な、蛇腹の制服を着ました。医者や市会議員や商店主や中央競馬会関係者の子弟の中で、6年間学んだのです。

髭の生えた高校三年生と、産毛の生え立ての中学一年生が、同じ敷地の中で、過ごしたのです。次兄が高等部に、同時に入りましたので、《◯◯の弟》で、先輩に一目置かれていたのです。入学してすぐの時に、120人ほどの同級生の中から、五人が学年主任に呼ばれたのです。『しっかり勉強して、☆大を目指しなさい!』と発破を掛けられたのです。

五人のうち、誰も学校の期待に応えませんでした。三流の学校に、私は進んだのですが、その学校は、自分に一番相応しい学舎(まなびや)だったと、今も思うのです。幕末にやって来たアメリカ人医師や教師たちが、横浜と築地(つきじ)に建てた学校でした。「教育」とは、人のうちにある可能性を引き出してくれる働きですが、受けた教育は、私にもそうしてくれたのです。父や学校の期待に沿って、偉くはなれませんでしたが、これまでの歩みに満足しております。そうですね、もう「30年」、生きるつもりでおります。

年を重ねて、上述のリストの様に、マイナスばかりが残っているではなく、就学前に、重篤な病で死にかけたのに、ここまで生きて来られ、今も健康が与えられ、夢も自分には、まだあるのは、感謝なことであります。

(明治初期の「築地」の様子です)
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暖まってゆきなよ

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1974年の1月のことでした。よく聞こえてきたのが、「襟裳岬(作詞岡本おさみ、作曲が吉田拓郎、唄が森進一)」と言うフォーク調の歌でした。暦の上では「初春」ですが、まだ真冬の天気、そんな寒さの中で、聞こえてきたのです。

1 北の街ではもう 悲しみを暖炉で
もやしはじめてるらしい
わけのわからないことで 悩んでいるうち
おいぼれてしまうから
だまりとおした歳月(としつき)を
ひろい集めて 暖めあおう
えりもの春は 何もない春です

2 君は二杯めだよね コーヒーカップに
角砂糖をひとつだったね
すててきてしまった わずらわしさだけを
くるくるかきまわして
通りすぎた夏のにおい
想い出して なつかしいね
えりもの春は 何もない春です

3 日々のくらしはいやでも やってくるけど
静かに笑ってしまおう
いじけることだけが 生きることだと
かいならしすぎたので
身構えながら 話すなんて
ああ おくびょうなんだよね
えりもの春は 何もない春です
寒い友だちが 訪ねてきたよ
えんりょはいらないから 暖まってゆきなよ

この歌詞に、「暖めあおう」とか「暖まっていきなよ」と誘っている「暖炉」があり、暖房は、炬燵と火鉢、薪や石炭や石油のストーブ、そしてエアコンくらいしか知りませんでしたから、「暖炉」は、どんなにか暖かいかと羨ましく想像していたわけです。

古い歌に、「ぺチカ」という暖房器具が歌われて、知っていましたが、歌を聞いただけでは想像することができませんでした。満州やシベリアで使われていたもので、暖炉と調理に使われていた様です。朝鮮半島では、「オンドル」という壁や床に暖気を送って、部屋を暖める暖房の仕方ががあった様です。

子ども頃、父の家には、炬燵と火鉢があっただけで、それが標準的な日本の冬の暖房でした。それでも寒さの記憶がありません。今春、入院した札幌の病院で、子どもの頃の冬の「開拓部落」の自分の家の思い出を、食後のテーブルで、何度も聞かされました。と言うか、聞き出したのですが。窓の隙間から入ってくる雪で、朝になると寝床に雪が積もっていたとか、雪を沸かして水を作ったとか、冬の生活の大変さを聞かされたのです。でもみなさん、逞しかったのです。

もう北海道、襟裳あたりでは、「暖炉」に火が入ったことでしょうか。燃料は、薪ではなく、重油が燃やされて、部屋を暖かくしているのでしょう。そして、「暖まってゆきなよ!』と誘い合っていることでしょう。そう言えば、山形の新庄の出身の同級生が、冬の東京の寒さに凍えていたのです。東京の暖房が、十分な熱を与えていなかったからです。互いに「老いぼれ」てしまったのですが、半世紀も前の話です。横浜に住んでいる様ですが、どうしてるでしょうか。

(衛星から撮影した「襟裳岬」です)
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