隙間風

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ニュースで、『はしだのりひこ、12月2日亡くなる!』と報じていました。同じ戦時下の時代の風のもとに生まれ、焼け野原から立ち上がって生きていく両親に育てられ、平和の時代に学び、経済の躍進を爆走する社会で働き、年を重ねて、後進に道を譲り、そう生きて来た同世代人の死は、やはり考えさせられるものが重く大きいのです。

"フォークソング"が流行っていた時代がありました。ヴェトナム戦争が、泥沼化していた頃に、その「反戦」の叫び声を上げて、アメリカの若者たちの間で歌われていた歌でした。それが日本の若者の共鳴を呼んだのです。私は"ノンポリ"で、『しなければならない戦争があるのかな?』などと思いながら、同世代が敵味方に別れて戦っていたので、早期終結だけを願っていました。

そんな"フォークソング"の流れの中で、1969年に、「風(歌:はしだのりひことシューベルツ、作詞:北山修、作曲:端田宣彦)」が歌われていました。

人は誰もただ一人 旅に出て
人は誰もふるさとを 振りかえる
ちょっぴりさみしくて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も人生に つまづいて
人は誰も夢破れ 振りかえる

プラタナスの枯葉舞う 冬の道で
プラタナスの散る音に 振りかえる
帰っておいでよと 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
人は誰も恋をした 切なさに
人は誰も耐えきれず 振りかえる

何かをもとめて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
振りかえらずただ一人 一歩ずつ
振りかえらず 泣かないで歩くんだ
何かをもとめて 振りかえっても
そこにはただ風が 吹いているだけ
吹いているだけ 吹いているだけ
吹いているだけ…

「難破(本来は軟派です)」なギターも、あえてやらない私でしたが、タバコを吸い、酒も飲み、恋もした青年期でした。時たま隙間風(すきまかぜ)が、心の中を吹き抜けていく様な、寂しくて、空虚な日がありました。何か泥沼に嵌って、底に吸い込まれる様な、そんな地獄への淵で、心の目が開いたのです。きっと私の魂の叫びを、母が聞き取って、その母性の無言の呼び声に、私の心が応答したのかも知れません。

それ以来、心を風が吹き抜けていく様な、"遣る瀬無い思い”をしなくなったのです。「はしだのりひことシューベルツ」が歌った、「花嫁(作詞:北山 修、作曲:端田 宣彦)」も、よく聞きました。

花嫁は 夜汽車にのって
とついでゆくの
あの人の 写真を胸に
海辺の街へ 命かけて燃えた
恋が結ばれる
帰れない 何があっても
心に誓うの

小さなカバンにつめた
花嫁衣裳は
ふるさとの丘に 咲いてた
野菊の花束
命かけて燃えた 恋が結ばれる
何もかも 捨てた花嫁
夜汽車にのって

そして「小さなカバン」を下げた女性と出会ったのです。今の家内です。その「カバン」の中に、悲しみや涙を仕舞ってもらい、封印したのです。「カバン」は、中身ごと、手の届かない何処かで処分されたはずです。

(ヴェトナムの世界遺産の「ハロン湾」です)
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相撲

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私たちの世代では、戦争で出征して、戦地で戦闘や病気で亡くなった、「父なし子(ててなしご)」が多くいました。とくに親しかった小学校での長島くんや馬場くん、高校での池宮くん、大学での今村くんなどがいるのです。赤紙で召集され、一兵卒であったり、陸軍士官学校を出て、高級士官だったりで戦死しています。叔父も、南方で不帰の人となっています。

今では、病気や事故などで、父親を亡くした子がいます。今朝、家内が、『"日馬富士"は、父なし子として育って、十六歳で、75kgの軽量体重で日本にやって来て、相撲界に入ったんだそう!』と言っていました。ニュースで聞いたのだそうです。そんな辛さを知っていて、同じ様な境遇の"貴之岩”を、特別に目に掛け、可愛いがってきたのだそうです。

横綱は、そんな彼が、<土俵に落ちている金>を拾って、強い相撲取りに大成して欲しいと思っていたのでしょう。結構我儘だった"貴之岩"に、規律と愛とが行き過ぎて、白鵬に対して無作法をする彼を叩いてしまったのが真実の様です。泥酔しての行為だったのではなさそうです。

もちろん暴力はいけません。でも横綱の心意気とか思いやりを知ると、気の毒に思えて仕方がありません。私たちの世代は、相撲取りには、特別な憧れがありました。二所ノ関一門が、私たちの街に巡業に来ました。通っていた小学校の校庭に土俵を作って、そこで勝負する相撲を見てから、兄たちと、二所ノ関部屋の力士の不安になったのです。そこには琴ヶ浜とか玉ノ海などがいたでしょうか。

当時、相撲と野球とプロレスが、<三大スポーツ>でした。サッカーの試合で気勢を上げている今日日の若者たちの様に、一喜一憂しながら取り組みや勝負に、関心を向けていました。まさに<気が踊る>と言うのでしょうか。もちろん、スポーツと言うだけではなく、<興業>と言われる、<見世物>の面を併せ持っているわけです。

以前の大相撲は、貧しいけれど、体格が大きい子どもが、誘われて入門するケースが多かったのです。その後は、大学相撲から入門するケースも増えてきていますが、かつての貧しい時代の<立身出世>の機会だったのです。ものすごい稽古量を積んでしか、這い上がることのできない、まさに実力と努力の世界です。 今では、モンゴル出身の力士の活躍が目立ちますが、豊かな時代になって、貧しさを克服しようとすることが必要ではなくなってきていますし、自分を打ち叩く様な稽古は流行らなくなっているのは事実です。近代スポーツをやってきた私たちでさえ、ビンタや拳骨は当たり前でした。連帯責任も取らされたのです。全国制覇をするレベルでしたから、とくに厳しかったのでしょう。 平和的な決着を願っています。 (大相撲の「番付」です) .

誕生日の朝顔

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今朝も、ベランダの柵の外で、朝顔が開いています。その隣に、金木犀が植えられていて、今朝は、曇っているからでしょうか、昨日の様な甘い香りがして伊豆、ほのかに香っています。先ほど、長女の主人に、"FaceTime"で、『誕生日おめでとう!』と祝福することができました。東部時間では、12月4日は明日ですが、北京時間で、そうしました。婿殿は、喜んでくれました。今年は、家族が一人増えたので、大変嬉しい年になりました。
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デザート

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この上の写真は、「シログアイ(ある地域で正月料理に使われる"クアイ"とは違います)」とか「水栗」と言われて、九州や南西諸島でも栽培されているそうです。「馬蹄(ばてい)」に似た栗ほどの大きさをしています。私たちに住んでいる街では、この時期になると、道端でカゴに入れて、量り売りで売っているのです。よく皮剥き器で薄皮を剥きながら、それを売っていいます。ほのかに甘く、梨の様な食感で、水分も結構あります。

この下の写真は、「马蹄糕matigan」と呼ばれている、食後の甘味の"デザート"で、この「水栗(马蹄)」を粉末にした澱粉質で作った、「羊羹」に似たもの(食感はゼリーの様)です。時々、いろいろな形にしたものが、中華料理に出てきます。美味しいのです。
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もう一輪

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昼前に、出先から外に出ましたら、真っ青な空が広がっていました。家に帰って、ベランダの外に伸びた蔓に、もう一輪に朝顔が咲いているのを発見したのです。それを、午後5時前に、撮ってみたのが、この写真です。子どもの声が賑やかに聞こえてきます。入り口に広場があって、そこで遊んでいる声です。何処かで、ちょっと調子外れのカラオケで歌う声もしてます。日曜日の夕方の様子です。

「冬至」に向かって、日が短くなっていく大詰めなのですが、まだ明るいのは、今日は、久し振りに晴れたからでしょうか。いつもより暖かです。入り口に中型のトラックに、リンゴの入ったダンボールを満載して停めてあります。そこで、産地直送の直売会をしているようです。金木犀に植え込みから、甘い匂いもしてきています。穏やかな日曜日の夕刻の様子です。
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大好き

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高校の国語で、「古文」を学びました。あの文語体の文章の歯切れの良さが、大好きだったのです。話し言葉には、何か余計なものがあるのとは違って、実に簡潔だったからです。多分、子どもの頃に「時代劇」で、月形龍之介とか市川右太衛門とかの台詞を聞いらからでしょうか。「あなた」を、『おぬし』と言ったりしてました。一度、そう言ってみたくて仕方なかったのを思い出します。

それに、「漢文」も好きでした。杜甫や李白の詩を、<返点の"レ">などを付けて、日本語にして読んでしまうところが面白く、これも簡潔で大好きでした。先日お邪魔した家に、「小一xiaoyi」の男の子がいて、テーブルの上に、「漢詩」の国語の教科書が載っていました。小学校一年生で、漢字だけの「国破れて山河あり」を読めるのです。日本の小学校一年では、「80字」に制限されていますから、学習漢字数は、中日では<雲泥の差>がある様です。

その「古文」で、「徒然草」を学んだのですが、全編ではなく、「大学入学試験」に出そうな箇所だけを学んだに過ぎませんでした。その「徒然草」に、次のような事が書かれてあります。『酒は百薬の長というが、全ての病気は酒から起きている。知恵を失わせ、善行を火のように焼き尽くし、悪を増し、戒律を破って地獄に落ちるに違いない。(現代文に翻訳)』とです。吉田兼好の時代にも、「酒害」が多くあったのですね。

私の愛読書の「格言集」に、「強い酒は滅びようとしている者に与え、ぶどう酒は心の痛んでいる者に与えよ。」とあります。「葡萄酒」には、心に痛みがある人の「痛み」を、一時的に和らがせ、忘れさせる効用があるのです。私は、25才の時に、お酒をキッパリとやめました。「好い酒」ではありませんでしたし、もう「酒」の力を借りないで、素面(しらふ)で生きていられる様になれたからだと思います。

あのまま半世紀も、酒を飲み続けていたら、家内の言葉によると、すでに生きてはいないかも知れません。ビールを2、3瓶、毎日飲んでいて、単純計算しますと[3瓶×365日×50年]、すごい瓶数、酒量、そして金額になる様です。弟に聞いた話ですが、『頭が酒でクラっとするたびに、脳細胞が驚く数で死んでいく!』のだそうです。

(杜甫が書いたとされる「書」です)
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師走の朝顔

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おはようございます。「師走(しわす)」の「朔日(ついたち)」、12月1日です。午前7時のベランダの寒暖計は17℃を示しています。室内の方が寒い感じがしています。「时间过了很快shijianguolehenkuai/時間って早く過ぎゆきます」ですね。

2017年も暮れゆくのですね。もう秋ではなく冬なのですが、Tシャツでいることもあるほどです。最近、カラッと晴れないのです。

「最後の朝顔」になるかも知れません。今朝、ベランダの流しの下で、小さな花を開いてくれました。

前に住んでいた家で咲いていた朝顔は、年を越しても咲いていたのですが、日射量が、ここよりも多かったからでしょう。家の南側には、向こうのビルとの間が広く離れていたので、燦々と陽が射していたのです。でもここは、緑が多くて、気が落ち着きます。

好い年末、好い1日をお過ごしくだだい。
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黄昏

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いつのことでしたか、壁に寄り掛かって、何を考えるでもなく、遠くに視線を送っていましたら、『何をタソガレているんですか?』と、あるご婦人から話しかけられたことがありました。夕方ではなく、昼過ぎだったでしょうか、「黄昏れる」という言葉を初めて聞いたのです。物思いに耽っている様に、あるいは放心している様に見えたのでしょうか。また、人生の「黄昏期」に差し掛かって、初老を感じさせていたからかも知れません。『あまり、活動的に見えないよ!元気を出して!』とでも言いたかったのかも知れません。

「黄昏」は、「誰(た)そ彼」と言う古語から生まれた言葉で、夕闇で誰れだか分からないので、そう問い掛けて言ったのだそうです。それを、漢字で、そう表記する様になったのです。私が、<漢字検索>で使う「漢典」という中国語サイトには、「◎ 黄昏 huánghūn[evenfall;dusk]∶日落以后至天还没有完全黑的这段时间」とありました。日没後、まだ空が暗くなる前の時間帯のことを言う様です。唐の時代、李商隱が詠んだ「樂遊原詩」に、「夕陽無限好,只是近黃昏。」とありますし、「三國演義」にも、「時至黃昏,風雨暴至,兩下各自收軍。」とありますので、ずいぶん昔からある言葉だとい言うわけです。

夕方を、「燈点し頃」と言ったりしますが、冬にはもう真っ暗な時間帯なのに、さすが夏至の今頃は、まだ外が明るいのです。アメリカの西海岸のオレゴンを訪ねた時に、夜の9時、10時になっても、まだ空が明るかったのには驚かされてしまいました。その時、『「白夜」とは、こう言った感じなんだろうか?』と、感じ入ってしまいました。

日本には、「◯◯百選」と言われるものが多くあるのですが、「夕日百選」と呼ばれるものがあります。私の母の故郷、島根県の宍道湖(しんじこ)に、「島根県立美術館(写真)」があって、その湖に沈んでいく夕陽の景観が素晴らしいのだそうです。全面ガラス張りの建物から、その夕日が眺められるる様な作りになっています。3〜9月までは、閉館時間が、日没30分後にされていて、参観者が夕日を見られる様に配慮されているのです。

今春、入院手術のために帰国中、こちらに戻る前の一週間、弟の家に泊めてもらったのです。彼との話しの中で、今度、私が帰国したら、母の故郷に、母の親しい知人を、兄弟で訪ねる計画が提案されたのです。みんな人生の「黄昏期」に入って、時間を工面できますので、表敬訪問したついでに、宍道湖の「シジミ」の味噌汁を飲むことができそうです。できたら、この美術館で夕日を眺めて見たいものです。
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オカッパ

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中国の街に住み始めてから、街の風景が大きく変わってきています。その一つは、道路が整備されてきたことです。信号機が設置され、道路の幅員が広げられ、中央に分離帯ができ、歩道には、点字マークも入れられてきました。ただ、歩道に電気自転車が、結構速度が速く通り抜け、時々、乗用車が走ったりしているのには、迷惑されているのです。それと、信号の待ち時間が長いことです。なかなか青信号に変わらないのは、忍耐の学習です。

その他には、「幼稚園」が、たくさん増えたことです。「小区」ができると、新居を購入して住む若い方の所帯に、子どももが与えられて、その子育てを助ける意味で、ほとんどの小区の正門の脇で、開園しています。前に住んでいた小区の幼稚園は、300人もの園児がいて、大賑わいでした。毎朝、軍服を着た四人ほどの上級生でしょうか、国旗をかざして入場し、掲揚のポールに掲げて、朝礼をしています。

やはり「愛国教育」を、幼い日から施しているのです。先生たちから号令がかかり、統率のとれた行進をしていて、"小軍隊"の様にも感じられます。そこでは、よく先生たちが入れ替わっていました。院長が厳しいからでしょうか、傍目に”ピリピリ感”が伝わってきていたのです。幼児教育は、一番難しい教育ですので、しっかりと明確な使命感を持たないと、続かないのも一つの原因かも知れません。

九月の入園の時期には、園内から鳴き声が聞こえ、登園時に、尻込みをして親に、『帰りたいよう!』と泣いたり、渋ったりしている子がいて、送って来たお父さんやお母さんやおばあちゃんを困らせている光景を、よく目にしました。どこの国でも見られる光景でしょうか。わが家の子は、まだ就園してないのに、留守の間に帽子やバッグをつけたりし、兄や姉にくっついて行こうとして止めるのが大変でした。

こちらの登園や帰宅の際の光景が、こちらでは独特なのです。おじいちゃんやおばあちゃんが、孫のカバンを背負って手を引いているのです。これは小学生でも同じで、重いカバンを、ずしりと感じさせるのも、学習が厳しいものであるということ、忍耐力や自立心を養い育て、お教える機会なのに、それを奪ってしまっているのです。

『孫に重いものを持たせて、なんという爺婆だ!』と言われたくない心理もありそうです。何でもやってもらえる依頼心の強い子どもが出来上がってしまったら、後が大変ですね。ほとんどの子どもは、二人の両親と四人の爺婆を背後にした《王子様(こちらでは"小皇帝"》になってしまいます。

これって、山の中で育って、幼稚園に行かせてもらえなかった私の<やっかみ>かも知れませんね。ただ、こちらの子どもたちが、愛情深く育っていることは確かです。でも、この間、結婚式に行って会った、一人の幼児は、"オカッパ"頭の「ちびまる子」みたいで、随分昔の小学校時代の同級生を思い出してしまいました。みんなテレビに出てくる子役の様に、ブランド品を身につけて都会的になっている中で、郷愁を感じさせられて、何となく"ホット"させられたのです。
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