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恥ずかしながら、まだお酒を飲んでいた頃に、酔いにまかせて、格好を助けたかったのでしょうか、だいぶ夜も遅くなった電車の中で、
妻(つま)をめどらば才たけて
顔うるはしくなさけある
友をえらばば書を讀んで
六分の俠氣四分の熱
戀のいのちをたづぬれば
名を惜むかなをとこゆゑ
友のなさけをたづぬれば
義のあるところ火をも踏む
くめやうま酒うたひめに
をとめの知らぬ意氣地あり
簿記(ぼき)の筆とるわかものに
まことのをのこ君を見る
あゝわれコレッヂの奇才なく
バイロン、ハイネの熱なきも
石をいだきて野にうたふ
芭蕉のさびをよろこばず
人やわらはん業平(なりひら)が
小野の山ざと雪を分け
夢かと泣きて齒がみせし
むかしを慕ふむらごころ
見よ西北(にしきた)にバルガンの
それにも似たる國のさま
あやふからずや雲裂けて
天火(てんくわ)ひとたび降(ふ)らん時
妻子(つまこ)をわすれ家をすて
義のため耻をしのぶとや
遠くのがれて腕(うで)を摩す
ガリバルヂイや今いかん(以下省略)
と歌ったのです。よくも恥ずかしくもなく、あんな風に歌ったものだなあと、25歳で酒をやめた私は、あの頃を思い出して、今でも赤面を禁じ得ないのです。
隣に座っていたおじさんが、この方も、お酒に酔っておいでで、若造の私に、『きみー!』と、声をかけて来たのです。『いないんだ、才長けた妻なんて、どこにもいなんだぞ!』と、与謝野鉄幹の詩を否定するように、ご自分の現実でしょうか、それをぶっつけて来たのです。未婚の私が、結婚を、そろそろ考え始めていた頃でした。
聖書の箴言31には、次のような箇所があります。
『10 誰か賢き女を見出すことを得ん その價は眞珠よりも貴とし
11 その夫の心は彼を恃み その產業は乏しくならじ
12 彼が存命ふる間はその夫に善事をなして惡き事をなさず
13 彼は羊の毛と麻とを求め喜びて手から操き
14 に商賈の舟のごとく遠き國よりその糧を運び
15 夜のあけぬ先に起てその家人に糧をあたへ その婢女に日用の分をあたふ
16 田畝をはかりて之を買ひ その手の操作をもて葡萄園を植ゑ
17 力をもて腰に帶し その手を強くす
18 彼はその利潤の益あるを知る その燈火は終夜きえず
19 かれ手を紡線車にのべ その指に紡錘をとり
20 手を貧者にのべ 手を困苦者に舒ぶ
21 彼は家人の爲に雪をおそれず 蓋その家人みな蕃紅の衣をきればなり
22 彼はおのれの爲に美しき褥子をつくり 細布と紫とをもてその衣とせり
23 その夫はその地の長老とともに邑の門に坐するによりて人に知るるなり
24 彼は細布の衣を製りてこれをうり 帶をつくりて商賈にあたふ
31:25 彼は筋力と尊貴とを衣とし且のちの日を笑ふ
26 彼は口を啓きて智慧をのぶ 仁愛の敎誨その舌にあり
27 かれはその家の事を鑒み 怠惰の糧を食はず
28 その衆子は起て彼を祝す その夫も彼を讃ていふ
29 賢く事をなす女子は多けれども 汝はすべての女子に愈れり
30 艶麗はいつはりなり 美色は呼吸のごとし 惟ヱホバを畏るる女は譽られん
31 その手の操作の果をこれにあたへ その行爲によりてこれを邑の門にほめよ 』
この聖書の記事は、微笑みを絶やさない、穏やかな女性が、理想像のように語られている箇所です。この時代が求める理想の女性像とは、ちょっとかけ離れていますが、他者、とくに弱者を顧みることにできる、愛に動機づけられた女性を、ことさらに家族愛に溢れている女性、そんな様子を聖書は推奨しているのでしょう。
理想と現実の違いがあるかも知れませんが、男子が女子(ひと)を得る過程に、神さまの導きがあるのを知るのです。今春、五十三年を迎え、二人が互いに支え合って生きてこられたことに、深く感謝する日々なのです。華南の街でも、今住むこの街でも、道行く私たちを見て、「好夫婦」だと言われるのですが、もしそう見えるなら、ただ神さまの助けや祝福があってのことに違いありません。
子どもたちの安心も、老いても仲良く過ごしている様子なのです。駅のコンコースの「街かどピアノ」を弾きたくなった家内と、この月曜日に、散歩がてら出掛けました。時々声をかけてくださる方たちがいるのです。奥様の葬儀帰りに、たまたまピアノの演奏を聴いたのだそうです。奥さまがクリスチンだったとかで、讃美歌がお好きだったのを思い出して、しばらくお聞きになって、声をかけてこられたそうです。
(栃木市の街角ピアノの案内です)
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