芭蕉

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「月日(つきひ)は百代(はくたい)の過客(かかく)にして、行(ゆ)きかふ年もまた旅人(たびびと)なり。舟の上に生涯(しょうがい)をうかべ、馬の口とらえて老(おい)をむかふるものは、日々(ひび)旅(たび)にして旅(たび)を栖(すみか)とす。古人(こじん)も多く旅(たび)に死(し)せるあり。よもいづれの年よりか、片雲(へんうん)の風にさそはれて、漂泊(ひょうはく)の思ひやまず、海浜(かいひん)にさすらへ、去年(こぞ)の秋江上(こうしょう)の破屋(はおく)にくもの古巣(ふるす)をはらひて、やや年も暮(くれ)、春立てる霞(かすみ)の空に白河(しらかわ)の関こえんと、そぞろ神(がみ)の物につきて心をくるはせ、道祖神(どうそじん)のまねきにあひて、取(と)るもの手につかず・・・」

これは、「奥の細道」の冒頭の個所です。「古人」である中国の"漂白の詩人"の「杜甫(とほ)」に強く影響された芭蕉が、「漂白の思い」に駆られて、自分を慕って学んだ俳句の門人たちを訪ねるために、水盃を交わして、長い旅にでかけるのですが、その紀行文です。

古池や 蛙飛びこむ 去年(こぞ)の秋 芭蕉

「子どもの日」の今日、家内を誘って、「江上の破屋」と芭蕉が記した、隅田川の岸の万年橋のたもとにある「芭蕉庵」の跡地と、「芭蕉記念館」を訪ねてみました。芭蕉が住んだ頃の深川は、葦が茫々と生い茂った片田舎でしたが、今では、住宅や工場や倉庫の密集した地で、全く想像するに難く、俳聖の住処の趣がありませんでした。でも五月晴れの見上げる空は、当時と全く変わらなかったのだろうと、空を仰いでみたりしてみました。

草の戸も 住替(すみかわる)る代(よ)ぞ ひなの家 芭蕉

ここから小舟に乗って、千住に行き、そこから陸奥への旅に、芭蕉は立ったのです。634mの "スカイツリー"などなかった昔、西には富士が眺められたことでしょう。曽良という弟子を連れての旅立ちでした。舟を漕ぐ「艪(ろ)」の"ギッチラギッチラ"という音が川面を伝わっていったことでしょうか。

芭蕉に、門人が多かったというのは、多くの人に慕われ、愛され、尊敬された人で、人徳のあった人だったことが分かります。詠んだ俳句には、豊かな感性が溢れていています。12才で、「奥の細道」を教わり、暗記させられた私は、1644年に生まれて、51年の生涯を終えた芭蕉の巧みな言葉の表現が強烈でした。いまだに諳(そら)んじることができるのには、我ながら驚くところです。(5月5日記)

(広重による「江戸百景 隅田川」です)

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詫び

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"末っ子"が結婚して、実質的には、子育てが終了したことになります。もちろん、相談にのったりはできます。最近では、どうするかを、子どもから言われる機会が、会うたびに増えていますので、『相談にのってもらう!』なのでしょうか。

ここに貼ったのは、"Facebook"に投稿されていた一文です。四人の子に、『どうしていただろうか?』と思い返しながら読んでいました。初めて親をやって、出くわすことに戸惑い、力不足ながら、必要に迫られて、『えーい!』でやって、遂にし終えたのでしょう、今は反省の時期を迎えています。

蔵書の中に、「もう一度父親をやり直せたら」と言う本がありました。こういった本が出版されるということは、多くの親が、そう感じているからなのでしょうか。昔に戻って、『腹一杯食べていいよ!』、『いいよ、なんでも買って上げるよ!』、『どこにでも連れてって上げるよ!』、『お母さんに優しくするよ!』と、制限ばかり、待つことばかり、心配させてきた私は、もう無責任に、いえ本音で、そう言って上げたいのです。

四人を見て、みんな自分よりも、《よく生きてる》と思うのです。不安一杯で、大き目のバッグに、必要なものを入れて、中学を出て、長男と次女と次男は、親元を離れて行きました。長女だけは、親元から高校に通ったのですが、彼女も高校を終えると、東京に出て行きました。そう『可愛い子には旅をさせろ!』だったのです。

<親バカ>ですが、今、それぞれに精一杯に生きているので、"親業"は卒業の様です。今度は、"自分業"をしなければいけません。つまり、"終活"です。先日、若い頃に5年半一緒に過ごした方に、久し振りに会って、先ず、<若気の至り>を"詫び"たのです。そういうことしないで生きてきたので、ちょっと難しいのですが、やってみました。その続編をしなければいない人たちが、結構いそうです。

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隅田の花

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この花は、隅田川の土手(昔は盛り土でしたが、現在の河岸はコンクリートでしっかり作られ、洪水対策ができていて"土手"とは言えませんが)に生えていたものです。家内が手折(たお)って、食堂の空きペットボトルに挿したものです。

ここからもう少し下流には、赤穂浪士が吉良邸に討ち入りして、主君の仇討ちを終えて渡った橋があります。その頃の春先にも、同じ様に咲いていたのでしょう。人は来ては去るのですが、植生とは、毎年毎年迎える季節に生い出ては、命の再生を繰り返すのです。

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空き家

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日本全国には、「空き家」が、驚くほどあるそうです。総務省統計局の平成25年度の調査によると、「総住宅数は6063万戸と,5年前に比べ,305万戸(5.3%)増加。空き家数は820万戸と,5年前に比べ,63万戸(8.3%)増加。空き家率(総住宅数に占める割合)は,13.5%と0.4ポイント上昇し,過去最高。別荘等の二次的住宅数は41万戸。二次的住宅を除く空き家率は12.8%。」だそうです。

過疎化の地域に増加していて、都市部は建設ブームがあって、単純に、家のない人が住める家が溢れるほどあるのですが、この需要と供給は、易しくなさそうです。次女の義理の祖母は、ご主人が亡くなった後、郊外の広い家を処分して、街中のアパート(マンション)に引っ越して、生活をされていました。二人の娘や孫たちのそばに生活の場を移したのです。

日本の地方に行きますと、土地も家も、広く大きな家が多くあります。家を買ったり建てたりした事のない私は、『将来を考えて、あんなに立派な家はもったいないな!』と、正直、そう思っていました。子育てをして、子どもたちが大学進学で都市部に出て、そこに家を建てて住み、親元には戻って来れないのです。仕事や孫たちの教育を考えると、まず戻る可能性は低いわけです。

老後の医療などを考えると、息子や娘のそばが良くて、空き家のままにしてしまうケースが多いのでしょう。誰もいなくなった家の雨戸が引いてあります。そんな家が、多くある事を思い知らされたのは、先月来、今治(いまばり)市の脱獄事件で、島の「空き家」に隠れているとニュースが伝えられた時です。私たちが住んいる中国の街の隣街にも、出稼ぎででしょうか、「空き家」が多くて、全く許可なしで、無断に住んで生活している人たちが多くいると聞いた事があります。

世界中には、そんな人が驚くほどいるのでしょうか。『空いているんだから!』では理由にならないわけです。日本の地方に行くと、驚くほど安値で売り出されている家があるそうで、芸術家などが、改装して住むという話も聞きます。人間は群れて住む傾向があるので、ポツンと一軒家に住むのは、芸術家以外には難しいかも知れませんね。

地方再生、地方創生が必要ですね。交通、物流、医療、文化、教育、人間関係などを考えますと、利便性から、都市部に人は流れてくるのでしょう。 都市から地方へ人を、逆方向に動かす事など、政治の力ではできそうにありませんね。

(今治市と尾道市を結ぶ「しまなみ街道」です)

青嵐

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今頃、吹く風を、「風薫る」と表現します。五月になって、ちょっと強目に吹くのを「青嵐」と言うのだそうです。これを、どう読んだら好いのでしょうか。"あおあらし"と訓読みにするか、"せいらん"と音読みにするかで、ずいぶんと、耳にした感じが違うのです。俳句や和歌を読むのには、訓読みが<五字>で好いのでしょう。

昨夕から降り始めた五月の雨は、ずいぶん強かったので、雨の降る音で、時々目覚めるほどでした。これでいよいよ緑が薫ってくるのでしょうか。先日、川越に用があって出掛けた折に、昼食をとろうと食堂に入りました。隣の男性が美味しそうに食べていたので、単純に影響されて、<かつお刺身定食>を注文してしまいました。家内は、<鯖焼き定食>でした。

"江戸っ子"が、奥さんを質に入れてでも食べたかった<初鰹>でした。<山育ち>だからでしょうか、中国帰りだからでしょうか、あるいは五月になろうとしていたからでしょうか、丼飯にのった<カツオ>が、ほんとうに美味しかったのです。高知に行きました時には、ニンニクのスライスをのせて食べたのですが、先日食べたのは、薬味なしで最高の味でした。

季節に合った食材で、食事をとる日本は、恵まれた国だと思う事仕切りです。明後日、五月五日は、「端午の節句」、「子どもの日」ですね。母の郷里から、毎年送られてきた「ちまき」の味が恋しくなり始めています。四人の男孫のために、精出して作って、郵便で送ってくれたのです。米の粉を蒸して、笹の葉で包んだもので、母が、それを蒸し直してくれたのです。笹の葉の匂いがしていました。

そういえば、去年は入院中で、同じ病室の方の奥さんが、「柏餅」を持ってこられて、お裾分けしてもらって食べたのです。中国の街でも、「端午節」には、「粽子」を、毎年いただき、冷凍庫に入らないほどです。ここも季節季節に、食べ物を贈り合ったり、子どもたちに食べさせるために、各出身地方の独特の味で作るのです。東アジアは、同じ食習慣を受け継いでいる様です。

人形町の通りに、「かしわ餅」の張り紙が、和菓子専門店の店頭に出ていました。明日あたり、買い求めて、友人に頂いた「新茶」を煎れて、味わう事にしましょう。さしもの雨も止んで、雲間から陽が射し始めてきました。日本橋も、風薫る五月の真っ只中です。

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ニッポン

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長女夫婦が、弟の婚礼に出るために帰国し、二週間を過ごして、今夕の便に乗って帰って行きました。仕事のために、娘は、本社に出たり、得意先周りをし、電話で仕事の段取りもしていたそうです。その義理の息子、婿殿が、初めての日本訪問で、すっかり、"ニッポン贔屓(ひいき)"で、気に入ってしまったのです。ボストンで生まれ、サンフランシスコで育ち、今ニューヨークに住んでいるのですが、ニッポンの"スイーツ"が大好きになった様です。

ニッポンの食品が、お世辞ではなく、ほんとうに美味しいのだそうで、チーズケーキ、ホットケーキなどは、手放しで好きになって、家に<いない>なと思って探しに行くと、近くのスーパーで、チョコンと座って、スイーツを楽しんでいたのだそうです。今日、最寄りの駅前から空港行きの"リムジンバス"に乗る前に、長男の嫁御が、「星野珈琲」と言うコーヒーショップで、食事をご馳走してくれたのです。そこで、彼は、コーヒーとホットケーキを注文し、たっぷりのバターとメイプルシロップをかけて、美味しそうに食べていました。

キメの細かいサーヴィスがあるのも、ニッポンの好さな理由なのでしょうか、築地の寿司を食べたり、味噌汁を飲んだりもしていた様です。納豆やコンニャクも、食べてみたら、どんな顔をしたことでしょうか。御茶ノ水で、"牛タン"と"トロロ麦ご飯"を美味しそうに食べていました。どうも日本で生活したくなったのではないでしょうか。

そう言えば、今回の一時帰国の街角で、外国人、とくにヨーロッパ系の方を、実に多く見かけています。中国でお世話してくださる方の奥さんと二人のお子さんが、去年から駒込に住んでいるのを訪ねるために、秋葉原から都バスに乗ったのですが、秋葉原は中国人の家族が溢れるほどにいました。何十年も来たことのない街で、道に迷った私と家内は、バス乗り場に行くのに、中国からの観光客に、道を聞かない様にするのに手間取ったほどでした。

婿殿は、"地下鉄"も気に入った様で、ニューヨークの地下鉄とは比べものにならないほどだそうでした。後楽園の東京ドームでの巨人戦に、下の息子が招待したそうで、地下鉄でやって来て、地下鉄で帰って行きました。私たちは用があって、それを済ませて、御茶ノ水で合流したのです。

話が前後してしまいましたが、婿殿が、ニッポンの好い印象を感じ、素敵な体験ができて、笑顔で帰って行きました。増えた家族を歓迎し、兄弟姉妹に、義兄弟と義姉妹を加えて、子どもたちが好い関係を持っていてくれるのは感謝なことです。次回は、今回帰国できなかった次女家族も加えて、一緒の時を和気藹々と、また過ごせたら好いな、と思っている夕べです。

(今夕配信の呉市の灰ケ峰の"ニッポンの新緑"の様子です☞「里山を歩こう」)

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銭湯

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昨日、久しぶりに、"人形町"の「銭湯」に行きました。戦後間も無く開業したそうで、昭和を懐かしく感じさせる風情が、玄関、番台、着替え場、板製の床、浴槽に溢れていました。浴槽の上には、松原、海、新幹線、トンネル、青空が描かれた、お決まりの"ペンキ絵"があって、その右端の下に"28.2.1"と記されてあったのです。

泊めていただいてる宿舎から、自転車に乗って、要件を済ませに出掛けたのですが、道々、冒険心と探検心が湧いてきたのでしょうか、あちこちと寄り道したりで、新発見をしました。江戸から続く旧所名跡があって、もう少しユックリとこぎたかったのですが、看板や案内板を横目で見て通り過ごしてしまいました。

次の機会には、お弁当持ちで、江戸情緒の残る辺りをめぐって見たくなりました。そんなで汗を流すために、「銭湯」に入ったのです。6人ほどの入浴客がいて、やはり年配者が多いのです。その中には、足袋(たび)を履いている方がいたりで、息子に代を譲った「下町の退役旦那衆」なのでしょう、常連さんの様でした。

何よりも、この「銭湯」は、"江戸っ子"の好みに合わせたのでしょう、湯温が熱いのです。慣れない私には、2、3分が限度ですが、5分ほど入って、体を流しての"烏の行水(からすのぎょうずい)"でした。湯ざましに、洗い場に置いた椅子に腰掛けて、鏡に向かっていましたら、隣の五十代ほどのおじさんが、スクッと立ち上がったではありませんか。この方の隣のおじいさんが、年寄り用の座椅子を手にして、洗い場から出ようとしていたのを見て、その椅子を手に移して、助けていたのです。

「敬老」でしょうか、「労わり(いたわり)」に満ちた、咄嗟(とっさ)の助け舟でした。ああ言った行動は、"江戸っ子気質(かたぎ)"からくるものに違いありません。いいものを見せていただきました。いつもですと、湯上りに「牛乳」が飲みたくなるのですが、見当たらないので諦めて出てしまいました。"人形町"は、江戸期には、特別な地だったのですが、この同じ土の上で、多くの笑いや涙や出会いや別れなどが繰り返されてきたのでしょう。

そこを出て路地裏の道を歩き、表通りに出て、漬物屋、陶器店、和菓子屋、和服店などを覗き見しながら、そぞろ歩いて、"マツキヨ"で、洗濯にも洗顔にも洗髪にも『よい!』と言われた、"固形石鹸"を買い、小さなスーパーで、米と小松菜を買って帰ったのです。家内が妹を訪ねて留守なので、前日に買った、肉と長ネギなどで、"水炊き"で、夕食を済ませました。今夕食は、昨日の残りです。

今日は、警察署に用があって、息子に連れて行ってもらい、息子の家に泊まった娘夫婦に会い、成田空港に向かう彼女たちを見送ったのです。明日から、連休の後半、週末に用がありますので、その準備をしながら、時間を作って、自転車探検の続きでもすることにしましょう。「平賀源内の電気実験」の跡地が、隅田川の対岸にあるそうです。『行けるかな?』の夕方であります。

(広重の「隅田川」です)

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春の花

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この花は、西中国(日本です)の深入山に咲いている「アリアケスミレ」です。紫色が、実に綺麗です。☞「里山を歩こう」


次女の家の庭に咲いている「ハナミズキ」です。長く過ごした街の街路樹に、ハナミズキが植えられていました。

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壽衛子笹

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春の山野に目、土を割って芽出す草、咲く花、飛ぶ鳥や昆虫、うごめく虫などを観察して、写真を撮って、配信してくださる「里山を歩こう」を閲覧(えつらん)させていただくと、一緒に山野を歩いてみたい誘惑に駆られてきます。名を知らない花が綺麗に咲き、名を知らない草が生い出ている様子を見て、『誰が、どんな風に命名したのか?』と、思っていましたら、植物学者の「牧野富太郎」の名を思い出しました。

この方の命名された草に、「スエコザサ」というものがあるそうです(添付の写真です)。家の家計など、全く関心を示さないで、植物研究に没頭する夫を、陰で支えたのが、奥様の「壽衛(すえ)」でした。その愛妻の名を、この新種の笹に命名して、「和名」になったのだそうです。この牧野富太郎は、小学校を中退し、独学で研究を進めて、東京帝国大学の講師になり、《理学博士》の学位を取得したのです。

牧野富太郎の言葉に、『雑草という名の草はない!』があります。どんな草花も、一括りで<雑草>と呼ばない、自然界の植生への畏敬の思いが、そう言わせたのでしょう。この言葉を聞いて、一つの話を思い出しました。『子は鎹(かすがい)』と言います。両親(夫婦)を、しっかりつなぎとめる役割が「子」にあるので、どう言われ続けてきました。一人のお母さんが、『子は滓(かす)がいい!』と勘違いして聞いて、どうにもならない息子を忍耐して育て、更生させたのです。

「滓の様な子」をありのままで受け入れて、育てて一人前に育てたお母さんの《勘違い》がよかったわけです。造られた物に、<雑>や<不要>や<無価値>なものなどないのです。牧野富太郎は、ひっそりと、日陰で生きている草花に、愛情を向けたのでしょう。薔薇や桜や菊などの誇り高い花にも匹敵する、《美》を見出したのでしょう。

日本の学問の分野には、《在野の研究者》の功績が多くあるのです。牧野富太郎の編んだ、「植物図鑑」は、研究者が今日でも参考にする、貴重な本、図鑑なのだそうです。それを編むことにできた背後には、「スミコ」さんがいたわけです。男の背後に、母や妻がいるのを、忘れない様にしたものです。

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