「卯月(うづき)」四月になりました。百花繚乱、花便りが寄せられています。サクラばかりではなく、ヤマザクラとヒメオドリコソウとアセビの花の写真(「里山を歩こう」から送ってくださいました)、そしてルピナスです。実際に見たことがない春の花ですが、実に綺麗です。わが家のベランダにも、花々が咲き始めています。
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『古への人に「殺すなかれ、殺す者は審判にあふべし」と云へることあるを汝等きけり。 されど我は汝らに告ぐ、すべて兄弟を怒る者は、審判にあふべし。また兄弟に對ひて、愚者よといふ者は、衆議にあふべし。また痴者(新改訳聖書は「ばか」と訳しています)よといふ者は、ゲヘナの火にあふべし。 この故に汝もし供物を祭壇にささぐる時、そこにて兄弟に怨まるる事あるを思ひ出さば、 供物を祭壇のまへに遺しおき、先づ往きて、その兄弟と和睦し、然るのち來りて、供物をささげよ。 なんぢを訴ふる者とともに途に在るうちに、早く和解せよ。恐らくは、訴ふる者なんぢを審判人にわたし、審判人は下役にわたし、遂になんぢは獄に入れられん。(文語訳聖書 マタイ伝5:21〜25)』
1953年(昭和28年)3月14日、昭和27年度が終わろうとしていた時期に、衆議院が解散されてしまったのです。まだ小学生だった私も、大人が、罵倒語に「ばか」を使ったことを、うっすらと聞いたような覚えがあります。
それは、予算委員会が開かれている時に、内閣総理大臣の吉田茂が、社会党の西村栄一議員との間で質疑応答をしていました。そのやりとりを、“ wikipedia "から引照してみます。
西村 |
「(前略) 総理大臣が過日の施政演説で述べられました国際情勢は楽観すべきであるという根拠は一体どこにお求めになりましたか。」 |
吉田 |
「私は国際情勢は楽観すべしと述べたのではなくして、戦争の危険が遠ざかりつつあるということをイギリスの総理大臣、あるいはアイゼンハウワー大統領自身も言われたと思いますが、英米の首脳者が言われておるから、私もそう信じたのであります。 (以下略)」 |
西村 |
「私は日本国総理大臣に国際情勢の見通しを承っておる。イギリス総理大臣の翻訳を承っておるのではない。 (中略) イギリスの総理大臣の楽観論あるいは外国の総理大臣の楽観論ではなしに、 (中略) 日本の総理大臣に日本国民は問わんとしておるのであります。 (中略) やはり日本の総理大臣としての国際情勢の見通しとその対策をお述べになることが当然ではないか、こう思うのであります。」 |
吉田 |
「ただいまの私の答弁は、日本の総理大臣として御答弁いたしたのであります。私は確信するのであります。」 |
西村 |
「総理大臣は興奮しない方がよろしい。別に興奮する必要はないじゃないか。」 |
吉田 |
(無礼なことを言うな) |
西村 |
「何が無礼だ。」 |
吉田 |
(無礼じゃないか) |
西村 |
「質問しているのに何が無礼だ。君の言うことが無礼だ。国際情勢の見通しについて、 (中略)翻訳した言葉を述べずに、日本の総理大臣として答弁しなさいということが何が無礼だ。答弁できないのか、君は……。」 |
吉田 |
(ばかやろう) |
西村 |
「何がばかやろうだ。ばかやろうとは何事だ。これを取消さない限りは、私はお聞きしない。議員をつかまえて、国民の代表をつかまえて、ばかやろうとは何事だ。取消しなさい。私はきょうは静かに言説を聞いている。何を私の言うことに興奮する必要がある。」 |
吉田 |
「……私の言葉は不穏当でありましたから、はっきり取消します。」 |
西村 |
「年七十過ぎて、一国の総理大臣たるものが取消された上からは、私は追究しません。しかしながら意見が対立したからというて、議員をばかやろうとか、無礼だとか議員の発言に対して無礼だとかばかやろうとかと言うことは、東條内閣以上のファッショ的思想があるからだ。静かに答弁しなさい。 (以下略) |
この質疑応答の後に、内閣不信任案が提出され、それが可決されて、衆議院が解散されたのでした。それでこの解散を、「バカヤロー解散」と呼んだのです。
ところが、85才になった、自民党和歌山県選出の衆議院議員で、自民党幹事長をしたことのある二階俊博議員が、次期衆院選への不出馬を語ったのです。昨今、大賑わいの「政治資金パーティー裏金事件」で、二階派の事務局長や秘書が立件されたことに、『政治責任は全て監督責任者である私自身にある!』と言ってでした。『不出馬は不記載問題の責任をとったの?それとも、ご年齢の問題?』と、年齢の問題に触れた新聞記者に対して、気を害したのでしょう、『・・・お前もその歳来るんだよ。』と言い返した後に、少し小声でしたが、『バカヤロー!』と言ってしまいました。
捨て台詞のような言い方に聞こえたのですが、国会議員ではなくとも、相手が、報道関係者であっても、言ってはいけない、禁句を発してしまったのです。
人の怒りを引き起こす、最悪な言葉が、これです。関西弁では、『アホ!』と言うのだそうですが、毒度からすると、随分違う結果をもたらすのです。この『バカ!』は、子どもの頃の喧嘩で、よく使った覚えがあります。兄弟喧嘩で、兄に殴られた時などには、かなわない相手に、言葉でそう言ってはわめいたのです。大人になっても、お腹の中で、何度も言ったかも知れません。
イエスさまは、この言葉を禁句にされたのです。「ばか者」というのは、相手への軽蔑です。それは怒るだけでなく、その相手を蔑むわけです。まさに、それは、自分を神の位置に置いた、言い回しになってしまいます。「高慢」になっているのです。それは、神の前で裁かれる言葉だと、主は言われたのです。憎しみは、殺人に値するほどの感情だと言うのが、聖書の基準です。
私たちの長男が、隣家の和歌子ちゃんに、「ばか」と言ったことがありました。それが悪い言葉で、使ってはいけないと教えていたのです。それで、親の顔を見た彼が、咄嗟に『わかちゃん!』と言い直したのです。4才くらいだったのですが、その誤魔化し方に、呆れたり、笑ったりだったのを思い出します。「ば」を「わ」に変えたのには驚かされたのです。今、二人の子の父親をしている息子です。
(ウイキペディアの首相の記者会見場の様子です)
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「母という字を」
母という字を書いてごらんなさい
やさしいように見えて むずかしい字です
格好のとれない字です
やせすぎたり 太りすぎたり ゆがんだり
泣きくずれたり…笑ってしまったり
お母さんにはないしょですが
ほんとうです(サトウハチロー作)
明後日、3月31日は、母の誕生日です。大正6年(1917年)のこの月のこの日に、島根県出雲市で生まれています。娘時代は、群是(GUNZE グンゼ)の繊維工場で働いていたそうです。
小学校の同級生に誘われて、カナダ人宣教師の始められた教会の日曜学校に行くようになり、14才で、イエスをキリストと信じています。「父無し子(ててなしご)」だった母は、聖書の神、イエスさまの父が、「自分の父」であることを知り、信じたことにより、本物の父親を得て、95年の生涯、その信仰を全うしています。
『汝ら見られんために己が義を人の前にて行はぬやうに心せよ。然らずば、天にいます汝らの父より報を得じ。 さらば施濟をなすとき、僞善者が人に崇められんとて會堂や街にて爲すごとく、己が前にラッパを鳴すな。誠に汝らに告ぐ、彼らは既にその報を得たり。 汝は施濟をなすとき、右の手のなすことを左の手に知らすな。 是はその施濟の隱れん爲なり。さらば隱れたるに見たまふ汝の父は報い給はん。 なんぢら祈るとき、僞善者の如くあらざれ。彼らは人に顯さんとて、會堂や大路の角に立ちて祈ることを好む。誠に汝らに告ぐ、かれらは既にその報を得たり。 なんぢは祈るとき、己が部屋にいり、戸を閉ぢて隱れたるに在す汝の父に祈れ。さらば隱れたるに見給ふなんぢの父は報い給はん。 (文語訳聖書 マタイ伝6:1〜6)』
喧嘩ばかりの私たち兄弟4人の母は、いつも、この「父なる神」に、イエスさまの名で祈る人でした。聖書を読み、賛美をし、パートで得たお金で献金をし、イエスさまを隣人に伝え、そして週の初めの日曜日には、教会で礼拝を守っていました。週日の夕べにも、集会が母の教会であって、食事を用意し、家事を怠ることなく、片付けを済ますと、その集会に出ていたのです。
父は、そういう母の信仰生活を認めていました。そして、父も私たち4人も、その母の信仰を受け継いだのです。
『是なんぢに在る虚僞なき信仰をおもひ出すに因りてなり。その信仰の曩に汝の祖母ロイス及び母ユニケに宿りしごとく、汝にも然るを確信す。 (テモテ後書1:5)』
母ユニケの信仰を、テモテは受け継ぎ、伝道者の勤めを果たし、パウロと共に伝道に従ったのです。今でも、祈られて育ったことを、母に、私は感謝しています。自分を捨てた両親にも、不正を仕掛ける人にも、悪口を言ったりしたのを聞いたことがありません。婦人週刊誌なんか読むようなこともありませんでした。
2012年3月31日、母の95才の誕生日に、父なる神のみ元に帰って行きました。でも約束に従って、再会の望みが、私たちにはあります。母が、よく作って食べさせてくれた「カタ焼きそば」、「ハンバーグ」、「ちらし(ばら)寿司」の味が思い出されて、唾を飲み込んでしまう今朝であります。人差し指で、私も「母」という字を書いてみたところです。
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先日、戦争責任はともかく、誰もが戦争に巻き込まれ時代の一つの産物で、軍用爆撃機の防弾ガラスが、群馬県下の村の納屋から発見されたようです。
実は、戦時下、父が軍需工場の仕事に携わって、金峰山の麓の石英の鉱床から掘り出した原石が、京浜地帯の工場に原料として運ばれ、それを原料として作られたのが防弾ガラスなのです。終戦を目前にした時期に、群馬県下の工場で組み立てられた試作機として作られた「連山」という爆撃機のために製造された物でした。実戦に用いられる前に、戦争が終結して、群馬県の大泉町の農家で、長く保管されていたのが、先頃、納屋から出て来たのだそうです。
今の「SUBARU(スバル)」という自動車メーカーの元の会社が、戦時下に軍用機を製造した「中島飛行機」で、群馬県の出身で、海軍の将校の中島知久兵が、アメリカとフランスで飛行技術や製造法を学んで、軍籍を持ったまま興した会社だったのです。家内のお父さんも、戦時中、この会社の通訳をしていたようです。その会社が作った爆撃機に加えられたのが、父の掘った原材料で作られた防弾ガラスだったわけです。その記事を、偶然見て、父と義父とを思い出したのです。
索道で、山奥から運ばれた鉱石が、隣り村の貯石場に集積されてあり、それをトラックで最寄りの貨車駅に運び、そこから貨物列車で、東京の工場に搬送されていたのだそうです。その索道の終点に、索道を動かす大きなモーターが置かれてあって、そこに父の事務所と家もありました。
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朝鮮半島の京城や山形県などで、父は仕事をしてきて、最後の任地に移って、そこで戦争が終わったのです。そんな経緯がありますので、生まれたばかりの頃に掘り出した鉱石が、このガラスの原材料とされていたのだと思いますと、どうしても私も戦争とは無関係ではなさそうに思い続けて来たのです。
『先生とわが国への侵略戦争とは関係がありません。当時の日本軍と軍人の暴挙だったのですから!』と、私は、授業を始めるあたって学生さんたちに、戦争の過去を詫びた時に、そう彼らに言われたのです。軍部の予算の中から父の俸給が与えられていて、それで買った物品で養われていた自分と、あの戦争と無関係とは言えないからです。
在華中、大学の教師のみなさんの夏季修養会があって参加したことがありました。同じ省や街の諸教会からの参加者が、秘密裡に集まって、開かれていたのです。最初の年の修養会で、証をする機会がありました。侵略戦争に関わった者の子としての償いの気持ちを、来華の一つの理由としてお話しさせていただいたのです。
父が軍需工場で爆撃機の部品製造のために、その原材料の掘削を、軍名で行ったこと、その部品を搭載した爆撃機が、みなさんの奉仕している大学のある街を、日中戦争の折に爆撃して、多くの命を奪ったことをお話しして、赦しを請いました。
そんな思いを、私の内に入れて下さったのは、主に違いありません。でもみなさんは、戦争責任を私に問うことはしなかったのです。でも、父の時代の償いの思いで来てくれたこと、同じ信仰に立っていることなどで、かえって感謝されたのです。数枚の爆撃用のガラスの写真と記事を見て、さまざまな思いが去来してまいります。
(ウイキペディアの特攻機、石英の写真です)
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この栃木の街に初めて来ました時に、この舟に乗せていただきました。江戸初期から明治まで、舟運に使われた「都賀舟」なのです。いまでは二十ほどに席が設けられ、観光客が乗船している姿を見せています。一周すると、船頭さんが美声を聞かせています。
栃木河岸より都賀舟で
流れにまかせ部屋まで下りゃ
船頭泣かせの傘かけ場
はーあーよいさーこらしょ
向こうに見えるは春日の森よ
宮で咲く花栃木で散れよ
散れて流れる巴波川
はーあーよいさーこらしょ
これは「栃木河岸船頭唄」です。昔は、舟の船頭さんを、「水主(かこ)」と呼んだそうで、きっと哀調のあふれた水主唄を歌いながら、わがやの眼下の流れを上り下りしたのでしょう。目をつぶると、瀬音に乗って舟唄が聞こえてきそうです。まさか、流れの辺りに、こんな鉄筋造の大きな建物が建つなどとは、水主さんたちには思いもよらなかったことでしょう。
観光シーズンに入ったのでしょうか、冬場はちらほらとしか見かけませんでしたが、街中も、この都賀船も人が多くなってきています。県下の鬼怒川も那珂川も、同じような舟運が盛んに行われ、驚くほどの量の物流が行われていたようです。前の大家さんの家も、舟運をされておいでで、その帳簿や家紋の入った半纏などを見せていただいたことがありました。
5月の節句に合わせてでしょうか、鯉のぼりが川の両岸の支柱に結んだ綱に繋げられて、春の風を受けて、空中を泳いでいるかのようです。これが春の巴波川の河岸だったあたりの毎年の風物詩になっています。
(春の陽を浴びた巴波川の流れです)
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[第12回 日本語大賞 文部科学大臣賞 受賞作品(全文/2021年)]
ぼくのこころにひびいたことばは、「おとうさんはちょっととおいところでしごとをすることになったから、おかあさんとげんきにすごしてね。」です。そのときぼくは二さいでした。とても小さかったのでちょくせついわれたのはおぼえていませんが、いってくれたときのどうががおかあさんのスマホにいまでものこっているので、すきなときにきくことができます。
このふつうにおもえることばがぼくのこころにひびいたりゆうは、じつはこれがおとうさんがついたうそだったからです。このことばの一しゅうかんごに、おとうさんははっけつびょうでしんでしまいました。そして、このことばをおとうさんがのこしたのはびょうきがわかってにゅういんした日でした。おとうさんは、あえないあいだにぼくがかなしまないように、わざとうそをつきました。うそはふつうよくないけど、これは、おとうさんがぼくのためについてくれたやさしいうそだとおもいます。このことばをどうができくと、おとうさんにあってみたくてすこしかなしいきもちになります。でもかなしいだけじゃなくて、かなしませないようにうそをついてくれたおとうさんのやさしさをおもって「がんばろう!」とおもえます。おとうさんがしんでしまったことはしっているけど、おとうさんのうそがほんとうになって、いつかよるおそくにドアのまえで「ドアをあけて。かえってきたよ。」といっているおとうさんにあいたいです。こうおもえるのも、おとうさんのやさしいうそのおかげです。
ぼくからおとうさんにつたえたいことがあります。「おとうさん、うそがばれてるよ! だってまわりにびょういんのどうぐがいっぱいあるし、おとうさんがよこになっているし、めからなみだがちょっとだけでているし、こえがさびしそうだから。」でもぼくは、だまされているふりをしつづけようとおもいます。
おとうさんがやさしいうそをついてくれたおかげで、ぼくのこころはつよくなれています。これからもおとうさんのことばをまもっておかあさんとげんきにすごしたいです。おとうさん、やさしいうそをありがとう。
佐藤亘紀(さとう・こうき/茨城県古河市立古河第二小学校一年)
(ウイキペディアによるセグロセキレイの餌やりです)
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今朝の日の出の様子です。曇りでも嵐でも、見えても見えなくても、いつでも陽は昇ってきます。あんなに遠くにある太陽の光が、地球の冷たさを包み込んで、温めてくれるのは、創造者の恵みに違いありません。
29年前に、あんな事件のあった翌日の朝は、驚きでいっぱいでしたが、全てをみそな(臠)わされる神のいらっしゃるのを、改めて認めて、安心したのを思い出します。同じ翌日の今朝、隣家の庭の桜の枝を手折って、家内がいただいて帰ってきた、その蕾が、窓越しの陽を浴びて食卓の上で開いて、春を告げてくれます。
これからの日に何が起こっても、驚かずに生きていこうと、思い定めた朝です。みなさんの上に、健康や喜びがあふれますように!
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今日は、学習院大学で「卒業式」があって、愛子さんがご卒業されたとニュースが伝えていました。日本赤十字社で、一社会人として、お仕事に就かれるようです。主の祝福を、愛子さんの上にお祈りしました。
そうですね、もう二九年前も経つのだと、ニュースが伝えています。1995年3月20日に、渋谷公会堂で、長女の卒業式があって、朝早く、家内と電車に乗って、渋谷に出かけました。式が終わってでしょうか、地下鉄の電車や駅で、大変な事件が起こったということを聞いたのです。
私たちは、JRの電車でしたが、娘は級友の家から、地下鉄でやって来たのです。ちょっと thrilling な経験をしたのを思い出しています。宗教家の恐るべき事件に、日本社会が騒然とした日でした。
『イエス言ひ給ふ『なんぢら惑されぬように心せよ、多くの者わが名を冒し來り「われは夫なり」と言ひ「時は近づけり」と言はん、彼らに從ふな。 戰爭と騷亂との事を聞くとき、怖づな。斯かることは先づあるべきなり。然れど終は直ちに來らず』 また言ひたまふ『「民は民に、國は國に逆ひて起たん」 かつ大なる地震あり、處々に疫病・饑饉あらん。懼るべき事と天よりの大なる兆とあらん。(文語訳聖書 ルカ伝21:8〜11)』
あの「騒乱」や「おそるべき事」は、「戦争」や「地震」や「疫病」や「飢饉」などの起こる今の時代に、起こるべくして起きたのでしょう。それは、聖書が厳粛に語る、「終わりの日の兆候」に違いありません。今起こっている戦争も、民族と民族の長い対立の終局に違いありません。心して、「時を読むこと」が、わたしたちには必要のようです。
(今朝送信くださった「コスミレ」の清楚な花です)
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何年か、隣国から帰国して住む家を、友人の会社の五階にあった部屋をお借りしていたことがありました。首都高速の箱崎インターや水天宮の近くで、すぐそばに隅田川が流れていて、日本橋だって歩いて行ける距離にありました。何度か自転車をお借りして、周辺の名所巡りをしたこともあったのです。
この江上に、千住という街があって、家康が江戸の町に、最初に架けた千住大橋があって、奥州街道や日光街道への宿場町だったのです。東海道の品川宿、甲州街道の内藤新宿、中山道の板橋宿、そしてこの千住宿が、江戸四宿の一つだったのです。芭蕉は、この隅田川を上って、千住で舟から下りて、奥州路に歩を進めて行きました。
この千住の出身に、東京大学で教壇に立った、河合栄治郎(1891〜1944年)がいます。この街で酒屋を営む父の息子で、一高に学んだ時、そこで、校長だった新渡戸稲造から倫理を学んだ人でした。新渡戸校長から大変に啓発されていたそうです。彼の同級には、内村鑑三から聖書を学んで、クリスチャンとなった三谷隆正や矢内原忠雄いました。
この河合栄治郎の全集が刊行された1967年から、刊行のたびに、私の最初の職場に出入りしていた本屋さんから買い求めたのです。それが最初の全集購入でした。この人は、社会思想や経済学の研究者で、「自由主義」の立場を取り続けた人でした。軍部が台頭してきて、二二六事件が勃発した時にも、日中戦争や米英への戦争が勃発した時には、そのファシズムに、決然として反対した方でした。また、マルキシズムにも賛同しない立場をとった方でした。
戦争への反対の主張をした矢内原忠雄と共に、河合も軍部や政府の動きを批判し、地裁では無罪でしたが、高裁では有罪の判決を受け、東京大学を追われています。その裁判の過労で、54歳で没してしまいました。
私は、「社会思想史」を講じて下さった専任講師の教えや人格に感動を覚えていたからでしょうか、「自由主義」に学ぼうとした一学徒だったのです。「自由」とは、脱線して放縦になることではありません。穏健でありますが、この世の横暴には黙っていない人たちの立つ考え方でしょうか。熊本の花岡山で、熊本バンドが結成された時の一人、のちに同志社に学んだ徳富蘆花が、河合栄治郎らに招かれて、一高で講演した折に、[次代を担う学徒に、『自由を殺すは即(すなわ)ち生命を殺すことになる。』と語り、人格の陶冶(とうや)を呼びかけていたのである(佐藤嗣男「蘆花講演『謀叛論』考」明治大学人文科学研究所紀要1997)]と語っています。
まだ学校出たてだった私は、河合栄治郎に傾倒したのですが、その直後に、母の信仰を継承して、聖書に学ぶ方向に、急転換をしてしまいました。そう言った面で、私を八年間も導いて下さって、先ず「聖書の読み方」を教えて下さったアメリカ人宣教師には、大いに感謝しているのです。
この方の要請で、牧師や聖書教師が入れ替わりにやって来られては、聖書や歴史や主に仕える者の生き方、在り方、家庭建設、人間関係、牧会法などを学ばせてもらったのです。その選び取りは、自分にとっては当然なことであり、また本来そうなるべくしてなったのだと思う今であります。
(ウイキペディアの千住付近、河合・新渡戸・三谷の記念写真です)
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