国難

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江戸幕府が、長崎の「出島」で、中国とオランダとの通商だけを許して(朝鮮王朝と琉球王朝とは外交はありました)、海外との交流を禁止した、「鎖国令」が出されたのが、1639年でした(実際には、1633年に第一次鎖国令が出され、1639年には、第五次鎖国令が出されたのです)。そんな鎖国が終わるのが、1854年の「日米和親条約」ですから、215年もの間、西欧諸国との文化や物のや人の交流はなかったわけです。

その鎖国下に、独特の日本文化が育ったことになります。武士だけではなく、町人でも、農民でも、文字の読み書きができ、お金の計算・算術ができ、武士たちの生き方の影響が庶民の間に、歌舞伎などの演芸や書物を通して、及んでいたのです。知的水準は、ヨーロッパ諸国よりも高かったのです。それは幕末の日本にやって来た、欧米人が驚いたことでした。

鎖国が終わろうとしていた1853年7月8日午後5時に、ペリーの率いるアメリカ艦隊が、三浦半島の浦賀沖にやって来たのです。いわゆる「黒船」です。国を挙げての一大事、まさに「国難」でした。江戸幕府の役人以外で、最も早い時期に、浦賀に駆けつけたのが、佐久間象山でした。自分の目でアメリカ艦隊を観察したのです。その時、彼が携行したのが、<望遠鏡>でした。象山は、ただの烏合の衆ではありませんでした。すぐさま象山は、浦賀の港を見下ろせる山に登るのです。そこからアメリカ艦隊の様子を見て、大砲の数や、その威力までも記録します。

幕府の船も、野菜や水を売ろうとする船も、木っ端の様な木造船、一方、アメリカ艦隊の戦艦は、蒸気で動く黒い鉄の船で、大きさは比べられないほどでした。これを観察検分した象山は、「攘夷(じょうい/西欧からの外敵を追い払おうとする考え)」から「開国」に、いち早く考えを転換してしまうのです。「精神論」や「伝統」に拘らないで<時を読む>ことに早い人であったことになります。

そう言った広く、遠くを見渡せる人材が、幕末には育っていたわけです。<新しいものの考え方>をする人がいたので、日本は、西欧諸国との遅れを短期間で挽回することができ、先進の西欧諸国と肩を並べられたのです。力関係を保つために、軍事力の増強で、「富国強兵」が叫ばれて、結局は、軍事優先がもたらしたのが、太平洋戦争での敗戦、無条件降伏受諾に至ったわけです。

象山が、浦賀に駆けつけたのは、彼が、1811年生まれですから、42才でした。この年齢くらいの人材が、政治行政の責任者に就いたら好いのではないでしょうか。新しさと古さの間で、双方を知った賢明な判断や決断が、その年齢くらいが、最も冴えているのかも知れません。現在も、若い世代に任せ切ったら、昏迷の中から国も自治体も会社も学校も、抜け出られそうです。ただ、象山の<玉に瑕(きず)>は、自信過剰で傲慢な人だったそうですから、年齢はともかく、そうでない人柄が相応しいのです。

そう、我々の世代は、一線を二歩も三歩も退いて、<ご隠居>が似合いそうです。そして、象山に倣って、心の望遠鏡で、遠く過去をを眺め、大観の眼を養い、さらには、心の顕微鏡で、今の細かなことにも気を張りができるものでありたい、そう願う五月の下旬です。

(1654年に描かれた「黒船」です)

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バラ

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散歩の帰りに、いただいて帰ってきた、紅白のバラです。ベランダから見えるオタクの庭に咲いているバラを、近くに行って眺めていた家内に、住人に老婦人が分けてくださったのです。華南の街の七階に住んでいた時も、下の階の方が、鉢分けしたバラをいただいたことがありました。華南の真っ青な空の中で、実に綺麗だったのを思い出します。急な帰国で、挨拶せずでした。お嬢さんに、日本語を、家内が教えていました。

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真に危険なこと

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このサイトからの記事(共同通信社)です。
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イタリア北部、ミラノにあるアレッサンドロ・ヴォルタ高校のドメニコ・スキラーチェ校長が書いたメッセージです。

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ヴォルテ高校の皆さんへ

 “保険局が恐れていたことが現実になった。ドイツのアラマン人たちがミラノにペストを持ち込んだのだ。感染はイタリア中に拡大している…”

 これはマンゾーニの「いいなづけ」の31章冒頭、1630年、ミラノを襲ったペストの流行について書かれた一節です。この啓発的で素晴らしい文章を、混乱のさなかにある今、ぜひ読んでみることをお勧めします。この本の中には、外国人を危険だと思い込んだり、当局の間の激しい衝突や最初の感染源は誰か、といういわゆる「ゼロ患者」の捜索、専門家の軽視、感染者狩り、根拠のない噂話やばかげた治療、必需品を買いあさり、医療危機を招く様子が描かれています。ページをめくれば、ルドヴィコ・セッターラ、アレッサンドロ・タディーノ、フェリーチェ・カザーティなど、この高校の周辺で皆さんもよく知る道の名前が多く登場しますが、ここが当時もミラノの検疫の中心地であったことは覚えておきましょう。いずれにせよ、マンゾーニの小説を読んでいるというより、今日の新聞を読んでいるような気にさせられます。

親愛なる生徒の皆さん。私たちの高校は、私たちのリズムと慣習に則って市民の秩序を学ぶ場所です。私は専門家ではないので、この強制的な休校という当局の判断を評価することはできません。ですからこの判断を尊重し、その指示を子細に観察しようと思います。そして皆さんにはこう伝えたい。

 冷静さを保ち、集団のパニックに巻き込まれないこと。そして予防策を講じつつ、いつもの生活を続けて下さい。せっかくの休みですから、散歩したり、良質な本を読んでください。体調に問題がないなら、家に閉じこもる理由はありません。スーパーや薬局に駆けつける必要もないのです。マスクは体調が悪い人たちに必要なものです。

 世界のあちこちにあっという間に広がっているこの感染の速度は、われわれの時代の必然的な結果です。ウイルスを食い止める壁の不存在は、今も昔も同じ。ただその速度が以前は少し遅かっただけなのです。この手の危機に打ち勝つ際の最大のリスクについては、マンゾーニやボッカッチョ(ルネッサンス期の詩人)が教えてくれています。それは社会生活や人間関係の荒廃、市民生活における蛮行です。見えない敵に脅かされた時、人はその敵があちこちに潜んでいるかのように感じてしまい、自分と同じような人々も脅威だと、潜在的な敵だと思い込んでしまう、それこそが危険なのです。

 16世紀や17世紀の時と比べて、私たちには進歩した現代医学があり、それはさらなる進歩を続けており、信頼性もある。合理的な思考で私たちが持つ貴重な財産である人間性と社会とを守っていきましょう。それができなければ、本当に ‘ペスト’が勝利してしまうかもしれません。

 では近いうちに、学校でみなさんを待っています。』

(ミラノの街の様子です)

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ヘーゲル

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昔は、中学校五年を終えると、大学に入学する前に、3年間の予備門の過程がありました。一高、二高、三高、旅順高等学校と言った様に、「旧制高校」があったのです。戦後、この予備門は、大学の教養過程になっていきます。一高は「東京大学」、二高は「東北大学」、三高は「京都大学」でした。

高校生たちは、学生服にマントを被り、高下駄(朴歯)を履きながら、街を「蛮カラ」に闊歩したのだそうです。その時の愛唱歌が、「寮歌」でした。ちなみに、中国大陸にあった「旅順高等学校寮歌(作詞・作曲は宇田博)」は次の様な歌詞でした。

1 窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人一人
涙流れてやまず

2 建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし

3 富も名誉も恋も
遠きあくがれの日ぞ
淡きのぞみ はかなき心
恩愛我を去りぬ

4 我が身容(い)るるに狭き
国を去らむとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か

5 今は黙して行かむ
何をまた語るべき
さらば祖国 わがふるさとよ
明日は異郷の旅路
明日は異郷の旅

書を読み、哲学を語り、将来の夢を分かち合い、放歌高吟し、その三年間は、素晴らしい時だったそうです。私の父は、「秋田鉱業専門学校(現在の秋田大学資源学部)」に学んだと言っていました。また私の最初の職場の上司は、「浦和高等学校」、「東京大学」に学んだそうで、酔うと、時々、学生の頃を語っていました。

また、「篠山節」の一節をも歌ったそうです。

『旧制高校の学生たちに愛唱された。掛け声のデカンショは哲学者デカルト、カント、ショーペンハウエルの略とされるが、盆踊り歌「デコンショ」や「デゴザンショ(出稼ぎしょ)」からという説も。代表的な歌詞は、「デカンショデカンショで半年暮らすアヨイヨイあとの半年寝て暮らすヨーオイヨーオイデッカンショ」。』

昔の学生さんは、哲学者を歌い込んで、蛮カラ気取りだったのでしょう。この三人の哲学者の他に、「ヘーゲル(ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル(Georg Wilhelm Friedrich Hegel, 1770年8月27日 – 1831年11月14日)がいました。ドイツのシュトゥットガルトの出身で、哲学の世界では著名で、旧制の学生に慕われていたそうです。

この人は、1831年に、「コレラ」に罹って亡くなっています。この「コレラ」は、東アジアで大流行をしたのが、幕末から明治にかけてでした。鎖国が解かれて、開国の動きの中で、日本でも、「コロリ(コレラに罹ると“コロリ”と亡くなったので、そう言われたそうです)」と言われて大流行したのです。

グローバル化の中での、今回のコロナ禍の動きに通じるものがありそうです。この時期に、難しいヘーゲルの書を紐解くのもよいかも知れません。

( ” Pinterest “ から旧制高校の学生の姿です)

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よいしょ

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もう「死語」になってしまったかも知れませんが、日本家屋に、「縁側」とか「縁の下」とか「濡れ縁」と呼ばれる所がありました。父母と一緒に、一番長く過ごした家には、縁側がありました、板張りで、「廊下」でもありました。外庭と家の中の境界線に、作られた、外と内とを分けた、少々「曖昧(あいまい)」な一郭があったのです。

来客が来ると、部屋から部屋ではなく、隣の部屋に行く「通路」でした。正式なお客さんは、玄関から迎え入れて、畳の客間に案内して、そこに卓(テーブル)があって、座布団を進めて、茶菓でもてなし、談笑するのです。ところが近所の方が、ブラリと寄ると、「縁側」や「濡れ縁」に腰掛け、足は庭におき、迎えるこちらは縁側に座って応対して、世間話などをしたのです。

そう言った一郭は、日本独特の家屋の造りの一部でした。所帯を持ってから、幾度となく引越しをした家には、縁側などがあった試しがありません。武家の家に、縁側が設けられていたら、そこは「緩衝地帯(かんしょうちたい)」、「休戦地帯」のような雰囲気があったのではないでしょうか。

そこで、来客の品定めをし、家の中に迎え入れるか、入れないかを試しているような感じがしないでもありません(私が感じていることです)。しかし、その一郭の持っている使命は、「交流」の場だったのでしょう。日本の「文化」、「縁側文化」が花開いた場所だったのではないでしょうか。

ある時は、作業をする仕事場であったり、収穫した作物を保存するために乾燥させたり、子どもを「日向ぼっこ」させたり、涼をとったり、昼寝までできる所だったのです。俳句を詠む人は、ここで花鳥風月を眺めながら作句し、言葉遊びをしたかも知れません。「畳」でもなく、「土」の上でもない、「板」の上で育まれた情緒に違いありません。

小春日や縁側でねる隣の猫 綾子

玄関よりも、お勝手口よりも、『よいしょ!』と声を出して、上がったり、降りたりするには便利な所だったのです。母が、そこに座って、縫い物をしていたことが、よくありました。そこにランドセルを投げ下ろして、『行ってきまーす!』と、宿題などしないで、遊びに行った日々が懐かしく思い出されます。「縁(えん/えにし)」は、英語だと、” edge ”だけではなく、
“ chance,fate,destiny "だそうです。親子、隣人、友人の関係づくりの場、運命的な出会いの場でもあったわけです。

外のガラス戸、廊下、そして障子があって、居室との境になっていました。障子を通って入り込む明かりは、なんとも情緒があります。和紙一枚が、夏には涼を保ち、冬には暖を保つのです。こんな優れものは、他の国では見られません。カーテンでは味わえない、えも言われない雰囲気があるのです。

父と暮らした家には、床の間もありました。合理的で、持ち物が極端に少ない父の生活様式には、驚かされています。洋服箪笥、小さな本箱だけでした。ワイシャツも、襟がスレて薄くなると、母が裏返しに縫い直して、着続けていました。実に物持ちのよかった父でした。ただし品質の好い物を持っていた父に似ない私は、ユニクロ製が多いのです。明治男の簡素さに学べなかったのは残念なことでした。

日本人の微笑み

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4年ほど前になるでしょうか、こんな記事をネットで読みました。東京・有楽町に「外国人記者クラブ」があって、日本で取材活動をしている特派員たちの1つの拠点で、発行している「ナンバーワン・シンブン」に、こんな短い記事が載っていました。

『ある外国人記者が有楽町のいつもの店で食事をした。勘定をして出ようとしたところ、店員から1枚の紙を渡された。「◯◯さん、先日おいでになったとき、お釣りの十円玉がテーブルに置き忘れてありました!」そう書いて、十円玉がセロテープで紙に貼ってあった。外国人記者は、「世界のどこにお釣りの十円が戻ってくる国があるだろうか?」と書いて、その短い記事を結んでいた。』とありました。

地震や台風などの自然災害の厳しさに見舞われて、日本人は、落胆しているかも知れません。わずかな人の十円でも自分の懐に入れないで、困難の中を生きてきたのです。そんな現実に対峙しながら、私たちの先人たちは、奥歯を噛みながらも、へこたれることなく、辛ければ辛いほど、微笑んで生きてきているのです。これを、《日本人の不思議な微笑み》と、外国人は言うのだそうです。

苦境に立たされて苦しいのは、みんなが経験していること。仲間に、近くにいる人に、家族に、苦しんだ顔ではなく、『現実をしっかりと見つめて、生きているんだ!』と言うことを、見せるための《微笑み》なのです。亡くなったご主人の、骨を持ち帰った女中さんが、外国人の主人夫妻に、微笑んで見せたことが、健気に生きて行こうとし、自分たちを悲しませまいとする生き方なのだと、この外国人は分かったのだそうです。

本来なら、号泣(ごうきゅう)したいはずです。でも自分の悲しみで、周りの人を悲しませたくない、そう言った配慮が、そういった行動をとらせるのです。狭い国土、狭い耕地にへばりついて生きて来た日本人の心に、そんな《不思議さ》が出来上がったのでしょうか。飢饉や不作、子沢山などで貧しくとも、台風や洪水で畑地を流され、地震で家を壊されても、何のそので生きて来た底力が、培われているからなのでしょう。
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『両足切断になるかも知れません!』と言われながら、その痛さと恐れの中で、ぐっと耐えていた母の顔を思い出します。やって来るトラックを避けて、自転車から降りて、路側で待っていたとき、タイヤのボルトで両足に大怪我を負ったのです。高校に行っていた私は、知らせを受けて、担ぎ込まれた病院に駆けつけました。診察台に横になって、じっと我慢して、弱音を履かない、母の強さに圧倒されたのです。

さらに初期処置が悪く、転院した先で、切断の時期を、医者は待っていたのです。でも、化膿が止まって回復し始めました。一年近く入院していたでしょうか。母にとっては大試練だったわけです。夏場も、厚手の靴下を履いて、それ以降生活をしていました。多くの友人たちの願いや激励が背後にあって、それに耐えられたのでしょう。

母も、家族や友人たちを悲しませまいと、微笑んで、そして正直に生きた一人でした。今まさに、コロナ禍の只中、世界は、未曾有の危機に直面し、誰もが、感染への恐れを抱きながら生きています。悲観が地を満たしています。そん中でも、《微笑み》を忘れないでいられるでしょうか。悲痛な顔よりも、困難のさなかには、《微笑み》の方が、好いに違いありません。

キョトン

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「拒絶」、「距離」、そして「キョトン」、このところの世相で、正直な印象です。先日の〈クソジジイのご婦人〉は、過敏になっての正面から店に入ってきた私への少々異常な「拒絶」だったのではないかと、今になっ思っています。『コロナに罹りたくない!』と言う恐怖心や防御心で、ああいった「距離」を意識し過ぎた行動と言動になったのでしょうか。

心の余裕をなくしてしまうと、忍び寄る、得体のしれない〈ヴィールス〉に汚染されしまい、命まで危なくなるのではないかと言う、恐れが、今、世界中に広がっているのではないでしょうか。ある方は、悲観して、自らの命を断ったり、子どもを巻き添えにして死に急いでいる事件もみられます。

異常事態の中で、正しく状況把握ができていないからでしょう。手に触れる物すべてが汚染源、感染源に思えてしまい、潔癖症の方は、何も、触ることができなくなってしまうのです。それって強迫性障害ではないでしょうか。

どうも正しい知識、対処法が必要です。人と一定の「距離」を置いた所は、《安全域》だと思って生活をしたらいいのです。人と話ができなくなってしまうのではなく、マスクをして、相手に迷惑にならない様な配慮をして、話せばいいのです。話せなくなってしまうと、人との関わりが億劫になってしまい、それこそ危険です。

この月曜日は、家内の通院日で、付き添いで出かけました。診察受付機にカードを挿入すると、予約確認書が出てきて、それを持って、呼吸器科の外来に行くのです。採血、尿検査、レントゲン撮影の指示が、外来事務から渡されます。それで先ず、採血室に行ったのです。家内が受けるテーブルの隣で、男性が、『陽性の出た人と濃厚接触をした!』と言ってるではありませんか。年配の係りの方が、担当者に代わって、『外来に戻って、問診票に記入して申告し、そこで指示を受ける様にしてください!』と説得していました。

この方は、自分の行動が、院内感染の起こる危険性に、全く気付いていないのです。通院以前に電話で事情を話したらよかったのです。病院に来てしまったら、先ず総合受付で、〈濃厚接触〉があったことを告げなければなりません。採決は、無菌状況の中すべきなのですから、他の患者さんのために、ここまで入って来るべきではありませんでした。病んで、治療を受けようとしているのですから、もっと他者にも、最新の注意を払うべきなのですが。

でも、誰も騒がずに、パニックにはなりませんでした。理学療法士の方が、この方の座った椅子やテーブルを、丁寧にアルコール消毒をされていました。家内も私も驚いてしまいました。

過敏も無知も、両方とも、この状況下では、菌の拡散の危険性があるのです。隣でも、しっかり2mの距離がありましたから、家内は恐れていませんでしたが、その無知には、とても困惑してしまった次第です。

華南の街の我が家に、日系商社マンの奥さんと5歳ほどの男の子が、カレーライスを食べにやって来たことがありました。この男の子が、手を洗い始めたのです。その余りにも丁寧過ぎる手洗いに、私は驚いてしまいました。2〜3分ほど、繰り返し洗っていました。お母さんが、『中国では、そうしなさい!』と言ったからでしょうか。でもまさに潔癖症だったのです。

蛇口を、手を洗った後に触れない人がいる様です。完璧主義者には、どうでも好いことではなく、悩むのでしょう。それなら蛇口を洗いながら手を洗ったら、感染の恐れから簡単に解放されのですから。どこまですべきか、「キョトン」としている、《コロナ明けの日》を待ち望む、緊急事態宣言の解除の首相会見がなされた、時は五月の中旬です。

(日光連山の山容です〈写真AC〉)

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囀り

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わが家の東側は、角部屋なので、各部屋に窓があります。太陽が昇ってき、筑波山が遠望できるのです。また、JR両毛線と東武鉄道の日光線と宇都宮線の上下線が通過するのも見えます。雨が降りますと、雨足の強さが分かるのです。

と言うのは、東側は建物の東半分が、予備校の校舎の3階になっていて、3階の屋根の部分が、窓の外に見えるのです。授業の様子は聞こえませんが、駐輪場に学生さんたちが自転車を止める音だけはしてきます。

先日、娘からの便りで、コロナ騒動の影響で、外出が規制されたことで、ロサンゼルスの空が青くなってきたのと、鳥のさえずりが聞こえる様になったと言ってきました。悪いことばかりではなく、汚染されたり、除け者にされてきた自然や生き物が、本来の姿を取り戻してきているのだそうです。

どれだけ人間のしてきた〈悪さ〉が、自然を破壊し、汚し、自然界の本来の住人たちを苦しめてきていたかが、改めてはっきりとされてきたことになります。得たものは多くても、失ったものの多さに、現代人は、気付かされ、そしてツケを支払わされているのかも知れません。

さて、東側の窓で、頭が黒く、お腹が白い小鳥、多分シジュウカラでしょうか、優しい鳴き声を上げていたのです。先日は、南側のベランダの手すりに止まってもいたのですが。耳にするこちら側にも、ゆとりの気持ちが湧き上がってきたので、聞こえたのかも知れません。

何か《自然回帰》の現象が、あちらこちらで見られる様です。鳥の鳴き声の「さえずり」ですが、「囀り」と、漢字で書くのです。遠い東京の空が何か、澄んでいる様に感じてなりません。

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太宰治と父

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栃木の人は「男体山」、盛岡の人は「岩手山」、弘前の人は「岩木山」、熊本の人は「阿蘇山」、人はふるさとの山に、強い愛着を持っている様です。アメリカの西海岸のオレゴン州のポートランドにも、“ Mount Hood ” という山があって、この地に移民した日本人は、母国の富士山に似た、この山の形状に、心惹かれるものがあったそうです。

山梨県下の御坂峠に、「天下茶屋」という蕎麦屋、甲州名物の「ほうとう」食べさせてくれる店があります。今では、御坂の新道ができましたので、旧道にあるのですが、以前は、泊まることができたそうで、太宰治は、ここに逗留したことから、昭和13年の出来事を、「富嶽百景」に著しています。その作中に、次の様にあります。

「・・・ 私は、部屋の硝子戸越しに、富士を見てゐた。富士は、のつそり黙つて立つてゐた。偉いなあ、と思つた。
『いいねえ。富士は、やつぱり、いいとこあるねえ。よくやつてるなあ。』富士には、かなはないと思つた。念々と動く自分の愛憎が恥づかしく、富士は、やつぱり偉い、と思つた。よくやつてる、と思つた・・・ ねるまへに、部屋のカーテンをそつとあけて硝子窓越しに富士を見る。月の在る夜は富士が青白く、水の精みたいな姿で立つてゐる。私は溜息をつく。ああ、富士が見える。星が大きい・・・のつそり突つ立つてゐる富士山、そのときの富士はまるで、どてら姿に、ふところ手して傲然(がうぜん)とかまへてゐる大親分のやうにさへ見えたのである・・・あしたは、お天気だな、とそれだけが、幽(かす)かに生きてゐる喜びで、さうしてまた、そつとカーテンをしめて、そのまま寝るのであるが、あした、天気だからとて、別段この身には、なんといふこともないのに、と思へば、をかしく、ひとりで蒲団の中で苦笑するのだ・・・」
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太宰は、生まれ育った津軽の山と、この富士とを見比べたのかも知れません。
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「・・・老婆も何かしら、私に安心してゐたところがあつたのだらう、ぼんやりひとこと、『おや、月見草。』さう言つて、細い指でもつて、路傍の一箇所をゆびさした。
さつと、バスは過ぎてゆき、私の目には、いま、ちらとひとめ見た黄金色の月見草の花ひとつ、花弁もあざやかに消えず残つた。三七七八米の富士の山と、立派に相対峙し、みぢんもゆるがず、なんと言ふのか、金剛力草とでも言ひたいくらゐ、けなげにすつくと立つてゐたあの月見草は、よかつた。富士には、月見草がよく似合ふ・・・」

何よりも、「富士には月見草がよく似合う」という箇所が有名なのです。こんな文才がありながら、度重なる自殺や心中の未遂を繰り返す太宰の精神性の弱さに、驚いた日が、私の青年期にありました。上智大学で、教鞭を取られた福島章氏の『愛と性と死―精神分析的作家論』(小学館、1980年)を、暗い気持ちで読んで、納得をしたのです。

私の太宰は、彼が父と同世代だったこともあって、一入気になった作家だったのです。同じ時代の風を身に受けながら、父は、自分の人生を受け止めて、人としての義務を全うして生きました。

( “ Mount Hood ” と「天下茶屋」です)

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夕陽

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この写真は、ブエノスアイレスの「オベリスク(仏: obélisque、英: obelisk)」です。この街で、研修会があって、訪ねたことがありました。イタリヤ移民の多い街で、ヨーロッパに行ったことになかった私に、ヨーロッパを感じさせてくれたのを、昨日の様に思い出します。

それでも、陽が沈んだ街の中は、薄暗かったのが意外でした。また男性もお洒落で、きちんとスーツを着ている人が多かったのですが、形が崩れたり、古そうでした。豊かな煌びやかさ、輝きがなく、くすんだ様な雰囲気が満ちていました。最悪なのは、その暗がりで、娼婦に袖を引かれたことです。そんな願いなどなかったので、物凄くガッカリしたのです。豊かな日本人に見えたのかも知れません。

17の時に、南十字星に憧れた私は、アルゼンチン協会から、パンフレットを送ってもらい、貪る様に見入ったのです。そして、スペイン語の勉強を始めてみました。それからの半世紀ほどの後に、ブエノスアイレスとサンパウロを訪ねたわけです。ブエノスアイレスから、パンパと呼ばれる大草原、大穀倉地帯、牧羊の草原を、バスである街を訪ねたました。日本に強い関心を街ぐるみで持っていて、それで表敬訪問をしたのです。

行けども行ども草原が連なっていて、決して日本では見られない光景でした。滞在中に、草原の牧場で、“アサド(バーベキュー)” をして頂いて、牛を半身にして、薪火で照り焼きをしてくれました。ふんだんに食べれると思っていたら、皿に盛ってくれたのはほんのわずかだったので、またガッカリでした。

ヨーロッパ航路の離発着の船の波止場にも連れて行ってもらいました。“ラ・ボカ “ は、横浜や神戸などとは違って、実に裏寂れた港街だったのです。望郷の思いが積み上げられているのが感じられ、遠くからやって来て、帰ることのできない多くの人が、海の彼方のヨーロッパの祖国を思う思いが溢れていました。

そんな港街に、あの情熱に溢れた、“ アルゼンチン・タンゴ ” が生まれたのだそうです。18で、アルゼンチンに渡っていたら、自分の人生は、どんな風な展開があったのかと思ってみましたが、望郷の念に駆られながら、大草原に沈んでいく夕陽を眺めててばかりなんだったかも知れません。沖縄からの移民が多いそうで、クリーニング屋や花屋をしながら生計を立て、子弟を教育させて、この国に社会で勤勉に働いているみなさんが、食事に招いてくれました。
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移民の国、移民の街、そんなことを感じましたが、『ずいぶん遠くに来たもんだ!』と思ったのですが、サンパウロのリベルダーテの地下鉄の駅前で、日本人の一世のみなさんが、何を語るでもなく群れ集まって、深い皺を額に刻んで、寡黙だったのが印象的でした。

(下の写真は、最近のサンパウロの日本人街です)

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