ピョンヤンは、朝鮮民主主義人民共和国の首都で、漢字表記にしますと「平壌」になります。私たちの時代には、韓国の首都を「京城(けいじょう)」、朝鮮民主主義人民共和国の首都を「へいじょう」と呼ぶように教わったのです。この平壌で、かつて『聖者』と呼ばれた日本人がいました。重松髜修(しげまつまさなお)という方で、1891年、愛媛県温泉郡粟井村(現在は松山市)に生まれ、拓殖大学の前身である専門学校で、朝鮮語を学んだ方です。専門学校在学中から、『朝鮮のために役立つ何かをしなければならない!』という使命感を落ち続けて、その機会を待ち望んでいました。24歳の時に、朝鮮半島を、日本のような豊かな国にするために渡って行きます。
学校を終えると重松は、朝鮮総督府の官吏として務めるのです。しかし、『朝鮮の人たちと触れ合うことの出来る仕事をしたい!』との願いを捨てがたく、朝鮮金融組合に転職をします。この転職は、貧しい農村の「小作人(地主の畑を耕作してその手間賃で生きていた人々のことです)」が、高利の金貸しから苦しめられていたので、どうにか助けたいと思っていたからです。そのように朝鮮の人々を愛してやまなかったのですが、朝鮮独立運動の中で、運動員の拳銃によって右足を撃たれてしまい、その後、不自由な足で奔走するのです。この事件の後、彼は平壌にあった金融組合の事務を担当します。その仕事に飽き足りなかったようです。重松の残した手記に、『残る不具の半生を半島農民のために捧げよう。こう決心した時、私は心臓の高鳴りをさえ覚えた!』と記しています。
平壌から40キロほどの農村に行った時、貧しい農民たちに、《副業》を勧めるのです。日本で美味しい鶏肉の一つに、《名古屋コーチン》がありますが、「養鶏」をして、現金収入を得る道を開いこうとしたのです。当時、その農村で飼われていた鶏の産む卵は小さかったので、この名古屋コーチンや白色レグホンという鶏の改良種を飼うことを奨励し、得た現金収入を《貯蓄》させようとしたのです。そのために、自ら鶏を飼い、《有精卵》の孵化を成功させ、生まれた鶏を、農家に無償配布の計画を立てます。日本人の重松の勧めはなかなか受け入れられなかったのですが、根気強く説き続けると、一軒、また一軒と養鶏をはじめる農家が出てきたのです。
養鶏を始めてみると、そのもらった鶏の産む卵は見事だったのです。生んだ卵を重松の妻・マツヨが売り歩きますが、売れ過ぎて手が回らなくなり、「江東養鶏組合」を組織するのです。養鶏が始まってから1年ほどたった時に、一人の農家の寡婦が、『30円貯まったので、今度は牛を飼いたいのですが?』と相談にやってきたのです。また、一人の青年が貯金をおろしにやってきたので、重松が理由を聞くと、『医者にかかれない貧しい人のために医者になりたい!』と答えたのです。そういったことがあったそうです。
戦争が終わった時、重松も逮捕され、検事の取り調べを受けました。担当検事は、厳しく取り調べをした後、書記が席を離れると、その検事は、『先生、私を覚えていませんか。先生の卵の貯金で学校に行った金東順です!』、重松は、少年の頃のことを覚えていたのです。そのおかげで、47日間の拘留の後に釈放され、京城を経て日本に帰国が果たせたのです。こういった日本人が、「日韓併合」の動きの中に、かつていたのです。
(写真は、「ピョンヤン市内の近影」です)