靴音

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今回の帰国の目的の一つは、家内の病院での診察にための通院でもあります。この数日、家内の贔屓の病院、広尾にある日赤医療センターに通院のお供をしております。何度も大怪我で入院したり、リハビリでの通院の私のお供をしてくれた家内のために、謝礼の気持ちで、手を取って同伴しております。数年前に、救急搬送してもらった板橋の病院で、胆嚢摘出手術をした彼女の術後の診察や、「緑内障の疑いがあります!」と、駅ビルで診断された再診察、中国の市立病院に入院中に、医師に言われた脳神経科系の診察のためです。軽い風邪ひきの他は、4回の出産入院しか病院や病気との関わりしかなかった家内ですが、念のための診察に出かけております。「病院ずくめ」のこの頃です。

昨日は、脳神経外科と眼科にまいりました。眼科では、「緑内障の疑いはありません!」との診断でした。最近では、一人の医者の診断だけでなく、<セカンドオピニオン>を聞くことが勧められていますので、良い結果を得られて安心したようです。彼女の診察のために、廊下の椅子に座って、二時間半ほど待ちました。時をあがなうために、ノートとペンを持参しましたので、依頼されている講演の原稿書きをしていました。結構充実した時間だったのです。私の前を、医者や看護婦、医療検査や事務の職員、掃除をされる方、患者と付き添いの家族など、ひっきりなしに右左に行き来していました。歩き方や靴音が、実に個性的で様々なのを、今更のように興味津々に感じたのです。

「自分は、どんな靴音を立てながら歩いているのだろうか?」と気になり始めたのです。すぐに立って歩いてみようと思いましたが、家内が診察を終えて出てきましたので、会計までの廊下を、自分の靴音に聞き耳を立ててみたのです。忍者のような忍び足だと思って期待したのですが、履き古した靴音が、結構高かったのは意外でした。椅子に座っている方には、きっとそう聞こえていたのでしょうか。

ずいぶんと長く歩いて来ました。「這えば立て、立てば歩め!」と両親に期待され、激励されて歩き始めて、昨日は病院の廊下を歩いている自分が、何と無く不思議な感覚に捉えられていました。意気揚々と小躍りしながら、また意気消沈しながら歩いた日があります。父に叱られて家を追い出されて、寝ぐらを探し歩いたこともありました。そういえば、母を背負って通院のお供もして歩いたことだって思い出されます。これから、どれほどを歩数を積み重ねるのでしょうか。

今日は、家内と一緒に、何度もお邪魔した静岡の友人のところに行くことにしています。東海道をテクテクと「草鞋ばき」で歩いて行けたら面白いのですが、二十一世紀の私は、娘に買ってもらったお気に入りの靴を履いて、新幹線の「こだま」に、品川から乗る予定でおります。夕方までに着くつもりですが、車中で駅弁を食べてみようと思っているところです。そんなことを思っていたら、煙をはきながらせわしなく車輪を回していた蒸気機関車の「ポッポー!」の音が聞こえてきそうな、朝ぼらけの床の中であります。

(写真は、「草鞋(わらじ)」です)

大寒

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あれこれと考えた末、『蕎麦を食べたい!』ということになって、長女と次男と四人で、お昼に出かけました。大通りからちょっと奥まった路地裏に、「生蕎麦」と染めた暖簾(のれん)のかかった店がありました。路地に入ったとたん、あの出し汁の醤油の匂いが、立ち込めていて、そこはかとなく懐かしさを感じたのです。『お母さんは?』、『お父さんは?』、『けいちゃんは?』で、天ぷらそば、うどんすき、カツ丼、おごってくれる長女は、うな重とかき揚げそばを注文したのです。うな重はみんなで一味づつとのことでした。

『雅、蕎麦を喰いに行こう!』と、よく父に誘われたり、電話のない頃には、自転車にまたがって店に注文しに行かされました。駅前と、逆方向の坂を登りつめた都営住宅の前とに、二軒あったのです。父が好きだったのが、「カレー南蛮」でした。『ボクはザル!』、『俺は卵とじ!』と母以外、我々四人兄弟が口々に食べたいもにを言っていたでしょうか。決まって母は、『何でもいいわ!』でした。まだ時間の流れが<のたり>としていた時代の、子どもの頃が懐かしく思い出されてしまいました。店主が、片手ハンドルで左肩に、注文品全てを盆にのせて自転車で配達してくれました。汁一滴こぼすことのない器用さは圧巻でした。

気前のよかった私の父に似ている長女が、この頃は「仕切り役」になっています。我が家は、こう言った食事時には、「突っつき合い」になってしまうのです。これって非難し合うのではなくシェアーです。『それ、どんな味?』と言っては、食べ比べして、『次は、これにしよう!』と言うわけです。これは、父親の私がし始めて、家族の間で伝染してしまった<悪習慣>の一つなのです。昨日も、テーブルの上を丼が行き巡っていました。久しぶりの日本蕎麦とうどんと鰻を、汗をかきながら食べて、『おいしかったです!』、『ごちそうさま!』と店主に、それぞれ言って店を出たのでした。

「大寒」の頬に当たる路地裏の風が心地よかったのです。『甘いもを食べようか!』と言って、ケーキ屋に入ってコーヒーと紅茶とで、<別腹>を満たしたのです。息子は、『仕事!』と言って先に家に帰って行きましたので、彼にショートケーキを土産に買って帰りました。美味しい日本の一日を、家族で過ごせて幸せを満喫させられた一日でした。長男と次女の家族がいなかったのは、ちょっと物足りなかったのですが。幸せの日本でもあります。

(写真は、「山茶花(さざんか)」です)

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今朝、食パンやオレンジジュースを買いに、近くのコンビニに買いに出かけました。冷たい北風が吹いて頬に冷たかったのですが、真っ青な青空でした。日曜日の朝の東京は穏やかです。この「東京」を歌った歌は、やはり「帝都」ですから、大変に多いのです。1929年(昭和4年)に映画の主題曲として、西條八十の作詞、中山晋平の作曲の「東京行進曲」が世に出ました。

1 昔恋しい 銀座の柳
  仇(あだ)な年増(としま)を 誰が知ろ
  ジャズで踊って リキュルで更けて
  明けりゃ ダンサーの涙雨

2 恋の丸ビル あの窓あたり
  泣いて文(ふみ)書く 人もある
  ラッシュアワーに 拾った薔薇を
  せめてあの娘(こ)の 思い出に

3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
  粋な浅草 忍び逢い
  あなた地下鉄 わたしはバスよ
  恋のストップ ままならぬ

4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
  いっそ小田急で 逃げましょうか
  かわる新宿 あの武蔵野の
  月もデパートの 屋根に出る

銀座、丸の内、浅草、新宿という繁華街を歌い込んで、大ヒットした歌でした。父十代の最後の頃の歌だったことになるようです。江戸から東京と呼び名が変わってから、六十年ほど経っていたのです。大原の宿で同宿の台湾の大学生と出会いました。「日本はどうですか。」と聞きましたら、「とても綺麗です!」と言っておられました。そうですね、恵比寿の駅で降りて、駒沢通りを歩きましたが、街の中のどこもが、自分の家の庭のように綺麗に清掃されているのです。息子の家に着いた晩に、千葉県沖の震源だとする地震があって、一瞬でしたが、体が大きく揺れたのです。

北京もソウルもマニラもシンガポールも、それぞれの国の政治や経済や教育文化の中心として、「首都機能」を果たしているのです。昨日は、「大学センター試験」が行われ、今日も二日目が行われるそうです。どこの国の若者も、自分の生まれ育った国のために、更にはアジア、世界のために、有為な人となって欲しいと、心から願ってやまない、一月第三週の日曜日の朝です。

(写真は、母校の「記念館」です)

奥ゆかしさ

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山深い里で一泊した私たちは、とても居心地がよかったので、連泊することにしたのです。朝食を済ませてから散歩に出てみました。民宿の女将の紹介で、この地の「道の駅」に行くことにして、ぶらぶらと歩き始めたのです。いつからでしょうか、日本の街道沿いに、この「道の駅」という施設ができ、その近郊で取れる農作物が、名と写真の入ったラベルをつけて売られています。また、芸術家たちが移り住んできて、創作された民芸品や絵画や織物や陶器なども売られているのです。

その朝、膳にのっていなかったトマトを買いました。毎朝、必ず食べている物が食べられないのは、忘れ物をしているようでしたから。宿に帰って、水洗いをして食べたら、本当に美味しかったので満足した次第です。家内は草木染めのスカーフ、私は同じハンチングが安かったので、これも買ってしまいました。目的のない散歩でしたから、すみからすみまで棚の上に置かれたものを、手にとっては見てしまったのです。そんなことをついぞしなかった私の心に、ゆとりができてきたからなのでしょうか、面白かったのです。

そんなことをしていましたら、昼時になっていましたので、その「道の駅」で営業していた食堂に入って、大書きされてあった名物でしょうか、「大根うどん」を注文したのです。膳が運ばれてきて、伝票をそっと置いて行かれました。五十前の女性でした。伝票を挟んだホルダーを裏返しにしてありました。どの食堂に入っても、そうしていたのを半年ぶりの帰国でしたので、今更ながらの新しい感覚でそれに感心してしまったのです。表向きにしてあったら、「二杯1200円」の金額を見られ、それの方が合理的で実際的なのにです。

どうしてでしょうか、こう言ったことは、中国でも韓国でもアメリカでも、決して見られないことなのです。これって日本人の「奥ゆかしさ」だと言われています。「せっかく、美味しい名物の<大根うどん>を食べていただいてるんだから、代金なんか意識させないで、ただ美味しく頂いて欲しい!」という、ほんのちょっとした心遣いなのです。日本人特有の配慮なのです。実に不思議な心の動きに、久しぶりに接して、思いを新たにした、京北の大原での昼時の出来事でした。

(写真は、大根の「花」です)

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京北に「大原」と言われる地があります。昔は「大原女(おはらめ)」で有名でしたし、昭和の時代には、この地を歌詞に歌い込んだ「女ひとり」で、恋に疲れを覚えた女性の共感を呼んで有名になった土地なのです。ちなみに、永六輔が作詞し、いずみたくが作曲した、次のような歌詞でした。

1 京都大原 三千院
  恋に疲れた 女が一人
  結城に潮瀬の 素描(すがき)の帯が
  池の水面に 揺れていた
  京都大原 三千院
  恋に疲れた 女が一人

2 京都栂尾(とがのお) 高山寺
  恋に疲れた 女が一人
  大島紬(つむぎ)に つづれの帯が
  影を落とした 石畳
  京都栂尾 高山寺
  恋に疲れた 女が一人

3 京都嵐山(らんざん) 大覚寺
  恋に疲れた 女が一人
  塩沢絣(かすり)に 名古屋帯
  耳をすませば 滝の音
  京都嵐山 大覚寺
  恋に疲れた 女が一人

これまで帰国時には、家内と一緒ではなかったのですが、今回は同伴帰国をし、娘の提案もあったりで、「京都近郊に一泊してみよう!」ということで、京都駅から鴨川の流れに沿って、バスに揺られて、「大原の里」を訪ねることができました。朝まだき雪の露天風呂に入って、俳句を一句詠みながら、京の田舎情緒にひたることができました。その日の初めての客になった喫茶店で、そこの女性マスターと家内と三人でしばらく語らいました。私たちよりも半周りほど年かさのこのご婦人は、ここで五十年も店を切り盛りしているとのことでした。京都市内に通勤するご長男家族と同居し、一人で店をしておいででした。「今度来られたら、店が閉まっていても,隣の家には必ずいますから訪ねてくださいね!」と言われて辞しました。京都弁でしょうか、大原弁なのでしょうか、年配の女性の言葉の柔らかさに、久しぶりの日本を感じさせてもらいました。

古都の田舎の風情は、旅人の心を十二分に癒してもらい満足でした。若かった父と母が、この地で過ごしたと聞いたことがありましたので、そんなことも思い出しながらでした。帰りのバスを、「烏丸通」で降りて、チェーンの喫茶ルームに入って飲んだコーヒーも、とても美味しかったのです。こう言った感覚を、「雅(みやび)」と言うのでしょうか。

(写真は、「大原女」に扮したものです)

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私が働かせて頂いている学校の図書館の前に、噴水があります。高々と水が音を立てて吹き上げられ、池の中に落水しています。その噴水の水を飾るように、今、「紅葉」が真っ盛りです。厳しい寒さの日本では、とっくに落葉して、枯れ木になっているのに、こちらでは、「町の名物」になっているのです。図書館の前の芝生には、カメラを持った学生や、友人、噂を聞きつけて駆けつけたカメラマニアたちで、結構賑わいを見せています。

『一月に紅葉はないだろう!』とお思いかも知れませんが、冗談ではないのです。今日、前学期の成績表を持って事務室に行く用があって、そこを通りかかった時の光景なのです。華南の地では珍しいようで、学外にも名を馳せていて、これをカメラにおさめようとする人が多いのです。「我が母校の誇り」とか、「我が学び舎の(キャッチコピー)」を書いてもらますと、三、四人の学生さんは、この「紅葉」を取り上げています。上級生や卒業生からも、同じ印象が語られてきているのです。

私たちが住んでいます、この街は、ずいぶん前から、都市計画の中で緑化に力を入れてきたそうです。その成果でしょうか、樹木が多く、四季折々の花を咲かせている景観は、やはり誇りに思っている方が多くおいでです。森林公園が、街の北にあって、そこから奥の方には欝蒼とした森林が深山を形作っています。11月に、長女が来ました時に、そこまで車で連れて行ってもらったのですが、奥多摩や秩父のような自然景観があって、心が和んだことでした。

昨秋、次女が孫たちの写真を送ってくれたのですが、枯れ葉の中に埋もれて、目だけが写っているのがありました。それを見ていて、枯葉の匂いがしてきたのが不思議でした。冬場の山道は、この枯葉の匂いがして、何とも言えない落ち着きを与えてくれるので大好きなのです。誰も見ていなかったら、枯葉を集めて、孫ベエのように枯葉の中に身を隠してみたいものです。

季節の移り変わりが、日本と比べて、少しずれて感じられるこの街の生活にも、ずいぶん慣れてしまったようです。仕事をし終えた開放感が、何とも言えず『いいなー!』の今です。

春よ来い!

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まるで春がやって来たような、日中の陽気の一月の初めです。ちょっと急ぎ足で歩きますと汗ばむほどです。これが体調を崩してしまう原因なのか、体がついていけなくて、ついに風邪を引いてしまいました。一昨日は「小寒」、「寒の入り」なのにです。一年で最も寒い時季ということでしょうか。先日も、我が家から道路を挟んだ広場からは、「北国の春」のカラオケが聞こえてきました。せっかちに春の到来を願う人の歌声でした。

秋から冬に移り変わる時期に、この何年のもの間、決まって「腰痛」が始まっていました。それで、一週間ほど寝てしまうのですが、今冬は、それがないのです。腰がスッキリしないでいるのですが、立っていられないほどの痛みがこなかったのです。無理をしなかったからでしょうか。体が若返ったのならいいのですが、それは望めないことです。

間も無く「大寒」、そして「立春」を迎えるのです。そろそろ日本では、梅の花が咲き始めてくるのでしょうか、あの馥郁(ふくいく)とした香りはなんともいえません。このアパートの中には、何種類もの木が植えられていて、緑の葉が青々としているのです。ほとんどの木の葉を落としてしまう日本の冬との違いに、やはり異国情緒を感じております。昨日も、体にいいと言って、若い友人が、「落花生」を持って来てくれました。これは、中の実を包む薄皮が、赤いのです。ほとんど切らさないで、買い置きをしている落花生が底をついていたのです。口が寂しい時に、体に好いと、この落花生を食べています。

今日は、「七草粥」を食べるのですね。春の七草を食べる習慣は、こちらにはないようです。その代わり家内が、「大葉(青紫蘇の葉)」を、新設の青物市場に行って買って帰ってきました。サラダに入れてくれましたが、結構美味しいものでした。まだ少し咳が残っていますが、体の痛みが取れましたので、もう大丈夫でしょう。そう、赤い鼻緒のじょじょ履きたい「みいちゃん」ではありませんが、「春よ来い!」の心境です。

(写真は、草履<じょじょ>などの「履物屋」の店頭です)

やだやだ!

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私が学んだ学校は、昔は、教師を『チャックさん』、学生を『廣田さん』と呼ぶ習わしだったそうです。アメリカ人の医師が始めた学校でしたから、彼らの考え方で、教師も学生も一線に並べて、上下の意識のない立ち位置を尊重したのです。つまり”Mr”を名前につけて呼び合ったのです。これって、初めて会った人を、『どう言った呼称で呼んだらいいのだろう?』と、いつも悩んでいる日本人の私にとっては、最も好いと思っているのです。

川柳に、「先生と呼ばれるほどのばかでなし」というのがあります。この意味は、人をおだてて「先生!」と呼びますと、呼ばれた人は、『俺って偉いんだ!』と錯覚して、いい気になるのです。そういうことを知っているので、議員さんや老練な流行歌手や麻雀の上手な打ち手、さらには誰にでも、『先生!』と呼ぶわけです。『俺は、そんなおだてに乗らされて、有頂天になるほどの馬鹿ではないんだ!』と、皮肉の籠った川柳なのです。

一昨日も同じ学校で働く同僚ご夫妻をお招きしたのです。いつも招かれてご馳走になってきましたし、今学期で「外教」を辞められ、帰国されますので、ご夫妻を昼食にお招きして、お交わりをもったわけです。お互いを、『山田先生』、『廣田先生』 と呼び合うのですが、いちばん好いのは、”Mr”だと思っています。日本で教員をしていた時に、外線の電話がありますと、電話をとった方が、『◯◯先生は、ただいま授業中で・・・』と受け答えていました。これって、『先生』はないのです。外部の方に対して、同僚に先生をつけるようなことは、おかしなことなのです。世間を知らない教員がよくやる間違いなのだそうです。

名前や二人称代名詞を使わないで話してきた私たち日本人は、相手を、何と呼ぶかに苦慮するのです。先生や社長に、『あなたは・・・』と学生や平社員が呼ぶとおかしいのです。それで二人称を使わないで役職名で呼ぶわけです。『課長!、部長!、社長!』とです。そして、「尊敬語」で、『おいでになられた』、『お話になられる』と言った表現をするのです。まずもって、日本語は難しいことばです。中国語の二人称代名詞には、「你 ni 」がありますが、敬意を表すときには「您 nin」を使うのです。東アジアは面倒な人間の上下関係への拘りがあるからでしょうか。

自分の中にも、『老師(これは教師に対する尊称です)』と、敬意の籠った呼ばれ方をしてもらうと、なんとなく嬉しい気持ちが潜んでいるのを知って、ゾッとします。やだやだ!

(写真は、中国のあちらこちらにある「老子」の像です)

提案

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人の名前に、「君(くん/きみ)」をつけることがあります。ちょっと気取って、上品に相手を呼んだり、手紙の中で書いたりしたことがありました。くすぐったい感じがして、『オレらしくないなあ!』と感じて、使うのを躊躇してしまったのを覚えています。喧嘩の相手を呼ぶ時には、『てめえ!』と呼ぶのに、『クン』や『キミ』はないわけです。

いつ頃から、この「君」が使われるようになったのでしょうか。ウイキペディアには、「君とは東アジアの漢字文化圏、特に中国や朝鮮の王朝で見られた皇族・王族または功臣の称号のこと。中国では、戦国四君の一人孟嘗君が有名。」とあります。例えば、日本でも、「大君」とか「主君/君主」とかは、王や支配者に対して使ったようです。子どの頃に、大人が酔って、よく「軍歌」を歌っていたのを耳にしました。『我が大君に召されたる・・・』、これは「天皇」を意味していて、戦意高揚のための歌だったようです。

スポーツや芸能界では、「さかなクン」、「マー君」などが使われているにを聞くのですが、呼ぶ方は親しみを込めてそう呼ぶのですが、聞く方が、オジさんになっているのに、このままでいいのかなと思ってしまうのです。そういえば、国会の中継を聞いていた時に、衆議院でも参議院でも、議長が、質問者や回答者、演説者を呼ぶ時に、『安部君!』と呼んでいます。これだって、『「君」はないだろう?』と思うのですが、どうなのでしょうか。

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私が、ある学校の招聘を受けて、教師になった時に、こんなことがありました。学卒で教員になっていた同年の男が、私のことを、『 廣田クン!』と呼んだのです。すぐに分かりました。『俺が先輩で、お前は後輩だ!俺は一流大学を出ていて、お前は三流大学卒だ!俺は学卒の就職で、お前は転職だ!・・・』と、腹の中で思って、そう呼んだことがです。こう言った接し方をする男が、時々いるからです。まだ血気盛んだった私は、「坊っちゃん」ではありませんが、ぶん殴ってやろうと思ったのですが、可哀想に思ってやめました。

『マサちゃん!』と、父や母や兄や弟が呼んでいました。この『ちゃん!』の響きはいいですね。親愛の情が籠っていて好いものです。中国語にもあります。「小xiao」を名前につけて呼ぶのです。その他にも、「幼名」で家族内では呼ぶのだそうです。今の日本ではなくなりましたが、戦国武将などは、生涯に何度か名前が変わっているようです。その他には、「渾名(仇名とも書く<あだな>)」もありますね。『マサボー!』と呼ばれたことがありましたが、一生物(いっしょうもの)ではありませんでした。

一つの提案ですが、あの襲来するハリケーンに女性名をつけて呼び、台風にも名前がつくように、年末に、過ぎた一年に、「名前」をつけて 歴史に刻むのはどうでしょうか。漢字の一文字で言い表すことより、面白そうなのですが。

(写真上は、「裸の王様」、下は、「さかな君」です)

2014年

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祝福に満ちた2014年の始まりです。
難しい課題もありますが、好い方向に向かうと信じているのです!
悩んでいても解決しないことを、悩むことはないから。
『きっと、好くなる!』と信じることにしました。
自分のことも、自分の家族のことも、自分を養い育ててくれた祖国のことも、心配していません。
この私ですが。
『こんなに、長生きできるとは思いもしなかった!』のです。
六歳で、召されても不思議でなかったからです。
十七の時に、波にさらわれていたかも知れないのです。
十九の時に、雷に打たれなかった。
33年前に、ガス爆発の事故で九死に一生を得た・・・・そうでした!
10年近く前に、自転車で転倒して歩道側に投げ出されて助かりました。
これって「悪運」が強いのではありせん。
『し残したことがあるからよ!』と、妻が言います。
これこそが私です。
時間がゆったりと流れていきます。
誰もせかさないからです。
自分に何かを強いることをしなくなったからでしょうか。
何処に向かうのでしょうか?
どの街も、どの家も、歓迎してくれることでしょう。
体はね。
この心は、何処に向かって羽ばたくのでしょう?
まだまだ翔ぶ力があるでしょう。
翔びかける鷲のようになれたらいいのですが。
そう、もう一飛びしたいのです。
大晦日に、何か報告できるでしょうか。
平和、安心、安堵の一年であることを願って。

(写真は、「ハクトウワシ」です)