三人組

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今朝のベランダの寒暖計は、28℃を示しています。二輪の朝顔が開き、日曜日の朝を輝かせてくれています。隣家のベランダが写っていて、花にはそぐわないのですが、そこにも生活があります。おばあちゃんと家内は、顔を合わせると挨拶を交わし、"ハロー!"と言われて、家内は、”早上好zaoshanghao”と応えています。この夏休み、小学1年生と1才半ほどの二人の女の子を連れて、ご家族で旅行をして来たとのことです。

次女の二人の子たちも、キャンプに出掛けていて、親だけが家に残っているそうです。下の孫娘は、初めてのキャンプへの参加で、”三人組" にグループ分けがなされるそうです。"二人”になろうとして、"一人”がはじかれる難しい関係の中で学ぶ様に、主催者側が考えたのでしょうか。そろそろ夏休みも終ろうとしています。それにしても暑い夏でした、いえまだ暑いのですが。お大事に!

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存在

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向陽性の朝顔は、決して内向きに花を咲かせません。その後ろ姿を見るのみですが、けっこう毎朝、忠実に花を開いて、向こう向きで、私たちを無視して咲いています。種を蒔いた者を喜ばせていないのです。忍耐が足りなくて、諦めていたのに、開花の時期が、造物主の意思で定められているにを忘れていました。葉だけで終わるのだろうと思っていたら、芽を付けてきたのです。遅咲きだったわけです。

それは、朝顔だけでなく、人間だって同じなのでしょう。同級のOくんは、跳び抜けて大きな小学生でした。血色も好いし、朗らかだし理想的な健康優良児でした。それに比べて、肺炎病みで、死線を何度も超えてきた自分は、ずいぶん貧相なやせっぽちでした。父が必死になって、バターとか肉とかケーキとか果物を食べさせてくれたのに、申し訳ないことに、大きくなりませんでした。

中学は、私立の学校で、裕福な家庭の子たち来ていましたから、多くの子は、戦後の食糧不足の中を、恵まれて育って大きく、それに比べて、自分は背の高さ順に並ばさせられると、前から三、四番目でした。産婦人科医の息子は、おじさんの様で、すでに発毛していました。ところがバスケットボールを、父に断って始めたら、背が伸びて、中学卒業時には、173cmにもなっていました。同世代ではマアマアの背の高さになったのです。背の高さだけは挽回することができました。

高校に入った頃には、喧嘩で、かなり大男を、ノックダウンさせるほど強くなっていました。その喧嘩相手が、N大の応援団の幹部候補生になっていて、仲間の団員に話した話が、自分の通った学校の同級生に伝わって、『準、お前は喧嘩が強いんだってな!』と評判になってしまったのです。喧嘩の強さなんか自慢になんかなりませんから、恥ずかしかったのを覚えています。

この国の法廷の様子を撮った写真に、被告を両方で裁判所の警官が囲んでるものがあって、見たことがあります。高身長で体格の良い被告には、その人よりも頭一つ高い警官が、決まって両方についているのです。決して被告が優秀さを誇れない様にしているんだなあ、と感心しているのです。でも、もう5cm高かったらと、自分は願ったこともありましたが、『人の価値は、体格や能力にあるのではなく、「存在」そのものに価値がある!』と教えられたのを、思い出します。

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夏水仙

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この花は、呉市灰ケ峰湿地に咲く、「夏水仙(ナツズイセン)」で、原産地は中国だそうです。帰化された方が球根を運ばれたか、留学生が持ち帰ったのでしょうか。“ウイキペディア”には、「日本では、本州から九州の人里近くの山野や道端などの木陰に生育する。古くに中国から渡来した帰化植物と考えられている。カラスノカミソリ(八戸市)やピーピーグサ(神奈川県)などの地方名がある。」とあります。

「水仙」の名がついていますが、「彼岸花」の一種なのだそうです。スクッと伸びていて、綺麗な咲き姿です。それは、撮影技術が優れているから、その様に見られるのでしょう。いつも素敵な花の写真を送ってくださる、「里山を歩こう」の“マルタン”さんには、大いに感謝しています。ありがとうございます。いつもの撮影地の写真ですが、大雨の被害は少なかった様で、嬉しいです。でも呉市の市街地では、被害を受けられておいでで、復旧が速やかになされます様に、心から願っております。

私も留学生の端くれで、そのまま居着いてしまい、仕事まで与えられたのは感謝なことです。ここ大陸の地で、はるか祖国の花々を楽しませていただいております。感謝!

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この写真の湯呑み茶碗は日本製で、茶葉は「福建茶」だそうです。淹れて飲んだ街は、ニューヨークで、飲んだのは私の長女です。彼女は、こちらに来た時に、自分で買った「桂茶」が気に入って、好きなのです。このお茶の産地の福建省の武夷山は、昔、皇帝に献上した「岩茶yancha」で有名で、知人のお爺さんから、一万元もする物を、私は頂いたことがあります。飲めずに、どこかにしまってあります。そのお爺ちゃんは、亡くなられたのですが、人民軍の高級軍人でした。

また、高倉健が主演した映画「単騎千里を走る」を監督をした、張芸謀が演出した野外劇の「红袍honpao」でも有名です。やはり中華文化における「茶」は、中国のみなさんとは切っても切れない関係がありそうです。昨日、来客があって、『コーヒー、紅茶、中国茶、日本茶、何がいいですか?』とお聞きしましたら、『日本茶!』とのことで、取って置きの「菊川茶/深蒸し」を入れて上げました。「緑色」のお茶は初めてだそうで、不思議な顔をされて飲んでいました。

日中文化交流になるでしょうか。帰りしなに、『アリガトウ!』と言っておられました。その四人のうちの一人のご婦人は、来週、「クルーズ船」で、日本旅行に行くそうです。そろそろ、日本茶が欲しくなる秋が来そうです。団子か大福かカリントウ、やっぱり「金鍔(きんつば) 」があったら最高なのですが、ちょっと無理かな。

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好い顔

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「日本の星」では、ちょっと大げさで辞退されてしまうでしょうか。では、「大分の星」では、どうでしょうか。いっそのこと「日出町の星」か「七十代の星」が好いかも知れません。家業の魚屋をやめて、年金生活をしながら、軽自動車を駆って、全国を飛び回って、被災地で、"ボランティア活動"を続けてこられたのが、この写真で有名になった大畠春夫さんです。

車に、食料や寝袋を積んで、自給でボランティアを、もう二十五年もされているそうです。今回も、山口県周防大島で、行方不明になった2才の幼児を、救出された方です。実に、《好い顔》をしてますね。年齢なりに、男には、生きてきた様に、滲み出るような表情や「顔」があるのです。捻り鉢巻きが格好好いですね。年齢からすると、私の長兄と同じで、日支事変の最中にお生まれなのでしょう。

登山が好きなのだそうです。退職後を、こうやって、社会貢献しながら生きておられる姿は、まさに「同世代の星」に違いありません。無名の元魚屋の《春ちゃん》に拍手と喝采を送ります。きっと、右の手でしたことを、左の手に知らせたくない様な生き方をしてきておいででしょうから、賞賛は受けられないかも知れませんね。

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日本の教育

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中国メディア・東方網は8日、「日本の4つの『変態的』な部分とする記事を掲載した。

 記事は、「それぞれの国にはそれぞれの方式や特徴がある。ただ、相対的に見て、日本の児童教育は実に細かいところまでしっかりやっており、われわれが注目し、参考にするに値する点が多い」としたうえで、そのポイントとなる点を4つ挙げて説明している。

 1つめは、あらゆる事柄に網羅されている「礼儀の教育」だ。記事は「日本の幼稚園では、登園した園児がまず自分で靴を履き替える。自分の荷物を自分でロッカーに入れる。そして、先生の伴奏のもとで『先生おはようございます、みなさんおはようございます』といった内容の歌を歌い、互いにお辞儀しながらあいさつする」と紹介。日本の幼稚園における最も大きな教育目標は「子どもが笑って過ごせること、そして感謝を言えること」であるとし、幼稚園生活の細かい部分1つ1つに、子どもに対する礼儀の教育の要素が隠されていると説明した。

 2つめは、「自立の教育」である。他人に迷惑を掛けないというが日本の教育における重要なテーマであり、子どもは小さいころから他人に頼らず身の回りのことを自分でやることが求められるとした。そして、先日のサッカーワールドカップで日本のサポーターが試合後のスタンドを清掃して称賛されたこと、日本代表がロッカーをきれいに片付けて感謝のメッセージを残していったことを挙げ、「これこそ小さいころからの、小さいことからコツコツ積み上げてきた習慣のパワーなのである」と解説している。

 3つめは、全員参加で、「協力し合う教育」だ。小学校では子どもたちが当番制で自ら給食を取りに行き、配膳を行うと紹介。また、配膳だけでなく、食器をきれいに片付けて給食室まで持って行く作業も分担して行われるとした。さらには、学校では決まった時間に清掃が行われ、これも子どもたちが様々な持ち場を分担してみんなで教室をはじめとする学校内をきれいにすると伝えた。

 そして最後の4つめは、「チャレンジする教育」を挙げている。「子どもたちにチャレンジさせ、失敗を通じて成功への道を一歩ずつ進ませる。典型的なのは、スポーツ関連の活動だ。子どもたちの努力目標を設定し、これに近づくたびに教師が誉める。そして、失敗して挫折しそうになった時にはみんなで励ます。そうすることで、子どもたちが失敗を恐れなくなり、失敗が成功のために必要な道であることを認識するのだ」と説明した。

 今は夏休み真っ最中。子どもたちは休みの中で様々なことにチャレンジし、体験することでさらに一回り成長して新学期を迎えることだろう。(”サーチナ“編集担当:今関忠馬/8月14日)

(「三顧の礼」の図です)

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初秋

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7月に、大雨の被害を受けた広島県呉市、その市内にある「灰ケ峰」に咲く花が、昨日、送信されてまいりました。「ヤマシロギク」です。初秋を告げる花で、里山には、一歩一歩と、秋が近づいて来ているのですね。ここ華南の灼熱の街では、まだ思うことも、感じることもできない秋が、故国の里山には来てる知らせに、心なしか喜びを感じます(HP「里山を歩こう」からの配信です)。

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停水

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爽やかさを感じる朝を迎えました。さしもの暑さも、これまでか、と思うのですが、まだまだ残暑は続くのでしょう。今朝は、一箇所に三輪の朝顔が咲きました。昨日は、強い雨が断続的に降っていて、庭の植え込みの緑が、雨に葉を躍らせて、大喜びしている様でした。

昨夕、この小区の事務所の方が、家に見えて、「停水tingshui/断水」の知らせをしてくれました。今朝9時から、明朝9時までの24時間だそうです。水の汲み置きをしておかないとなりません。そんな一日の始まりです。

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乱舞

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Œ´hƒX[ƒp[‚悳‚±‚¢2005

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イタリヤ人やスペイン人の気質を、“ラテン気質”と言うのでしょうか 、実に開放的で明るいのです。それに比べて日本人は、ネクラ(根暗)で、感傷的だと言われています。それで、かつての日本の農村は貧しくて、閉鎖的で、暗い雰囲気が強かったと、歴史で学びました。教科書や文学が、そう言った様子を強調したからなのでしょうか。

そう聞いていて、「阿波踊り」の様子を映像でみると、実に躍動的で、ユーモラスで、開放的なのに驚かされてしまうのです。暑さを吹き飛ばそうと、夏の行事が行われてきたのでしょう。普通、秋の収穫を祝う行事が多いのに、暑気払いのために、踊り狂っている様子に驚かされてきました。今では全国区で、東京の阿佐ヶ谷でも踊られている様です。

農村に住む人たちが、鬱憤やしがらみや貧しさや恥ずかしさを追い払おうとする、強烈な息吹が感じられて仕方がないのです。土佐の高知の「よさこい踊り」を踊る子どもたちを撮った写真を見た時も驚いたのです。“はにかみ屋”の日本人が、あんなに喜び踊るのは意外でならないのです。

そうしますと、普段は、恥ずかしがり屋で自己表現が上手でないのに、そう言った引っ込み思案の気質から解放されれる時や場面を、実は日本人は持っていて、それを全身で表現できる、しかも美しく演じられる民族なのだと、改めて感心するのです。

大阪府立の登美丘高校が演じた、話題の“バブリー・ダンス”を、動画サイトで、どんなものか興味津々で観たことがありました。“ブロードウエイ”の劇場で演じられるダンス以上に溌溂で、躍動的な踊りに、これもびっくり仰天してしまったのです。自分たちの高校時代に比べて、信じられないような全身を使った演舞には、”ラテン系日本人“を感じて、度肝を抜かれてしまいました。

そのダンスを、世界が注目したのです。そして、「阿波踊り」や「よさこい踊り」も、強い関心を、欧米人が示しているそうです。日本人の血の中に、そういった恥ずかしがらない開放的な素質があるのを知って、きっと東アジアのみなさんは、羨ましく感じておいででしょう。抑圧や規則やしがらみに縛られていない日本人の生き方に、拍手と喝采を、私は送りたいのです。

何時でしたか、スペインかポルトガルで、トマトの収穫期に、トマトを投げ合って、町中が真っ赤になる映像を観たことがありました。大好きで、毎日、トマトを欠かさずに食べ続けている私は、“モッタイナイ”と観て思ったのです。でも嬉々として、溌溂として、喜びに溢れて、“モッタイナイ”をしている顔を見て、やって見たくなってしまいました。

暑さを吹き飛ばすには、空調の中にいるよりは、全身で心を露出して、注ぎ出したほうが健康的で好いのでしょう。イスラエル人は、収穫されたブドウを踏んで、ぶどう酒作りをするのですが、娘たちは、その酒舟の中で、喜び踊ると聴いたことがあります。夕刻になると、この街の辻々で、音楽を流しながら、ご婦人たちがチームでダンスに興じています。まるで娘の様に、すまし顔になっておいでです。

(「よさこい踊」を舞う子どもたちです)

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12万人

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「戦災孤児」が、日本には12・3万人もいたと言われています。大陸には、「残留孤児」がいて、戦争と戦災によって、様々な理由で両親をなくした子が、戦後を生き抜いて来ています。私は終戦の時には、前年の年末に生まれていたので、まだ歩けない8ヶ月でした。兄たちは、戦災孤児にも残留孤児にもなり得た世代でした。

父は、奉天(今の瀋陽です)や京城(今のソウルです)で、仕事をしていましたが、軍務で呼び戻されて、中部山岳にあった、軍用飛行機の防弾ガラスの原料になる「石英」を採掘する軍需工場に勤務中に、終戦を迎えています。ですから、大陸で終戦を迎えることがありませんでした。

日本全体が、“一億総ひもじい時代”でした。そんな中、父は、私たち四人の子どもを飢えさせずに育ててくれたのです。1950年代の初めに、四人の将来を考えた父は、東京に家を買って、自分の育った東京に戻ったのです。私の世代には、戦争で父親を亡くした、母子家庭の同級生がクラスの中に、何人もいました。恵まれた子もいれば、ごく貧しい同級生もいました。

戦災によって、焼き出され、親と死に別れたた孤児は、新宿でも上野でも、よく見かけました。自分だって、そうなり得たと思うと、恵まれた自分が、こそば痒く感じたのを覚えています。そんな孤児が、逞しく生きていたのです。有名なのは、「火垂るの墓」の野坂昭如氏、落語家に三平の奥さんの海老名香葉子さんですが、無名の12万もの孤児がいたわけです。

また、傷痍軍人(しょうい)が、駅頭や電車の車内で、白い小箱を前に出して、募金をしている光景も覚えています。アコーデオンを弾いたり、義手や義足で傷害を負われたのを訴えたりしながら、戦後、生きる努力をされていました。大陸の大連に、残留孤児に施設があって、その当時撮影した写真を見たことがあります。

その他にも、占領軍の兵士によって生まれ、捨てられた私生児のお世話を、沢田美喜さんがしておられたと、新聞のニュースで読んだことがありました。家庭が壊れ、食料と肉親の愛に飢えた世代があったことを、「終戦の日」の朝、私たちは覚えておきたいのです。素晴らしいのは、どんな境遇の中でも、人は逞しく生きられるように、造られていることです。

(戦後間もない頃の街中を移した写真です)

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