同級生

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先週、知り合いが会食に招いてくださった席に、「同級生」も呼ばれていて、久し振りに、お会いしました。この方は韓国系のハワイ人(アメリカ人)で、ちょうど同じ時期に、この街の「海外教育学院」で学んでいたのです。長男がハワイで学んでいた時の恩人を、よく知っておられて、英語と習いたての中国語で交わりをしていました。2人の女の子を保育園に預けて、夫婦一緒に学校に来ておられたのです。

奥様は料理が上手で、韓国料理で招いてくださって、大ご馳走になったことがありました。長男と同じ年齢の同級生なのです。当時、その学院は、イギリス、インドネシア、ヴェトナム、フィリピン、韓国、モンゴルなどから学びに来ていて、日本人も結構大勢で賑やかでした。旧キャンパスの道路を挟んだ反対側に、教室がありました。今は、新キャンパスに移転しているのです。

この同級生は、中国語をマスターしていて、ちょっと外国人訛りのある中国語で、上手に話すのです。それにひきかえ、家内と私は、彼には及ばないのです。話すことのだいたいは分かるのですが、なかなか好く言い表せないもどかしさを感じ、ちょっと彼が羨ましいのです。学んでいる頃に、大学の外籍教師として、教壇に立っていて、その準備や添削で忙しかったと、私は言い訳をしたいのですが、そんな言い訳は通用しません。

会食を終えて、彼が、『“I want to”を日本語で何と言いますか?』と聞いて来たのです。それは、『私は日本語を話したい!』と言いたかったわけです。つまり、『廣田さんともっと深く交わりを持ちたい!』と願ってでした。英語も中国語も、上手に話せない私たちに、自分で学んで話をしたいと言ってくれたわけです。これって、アメリカ人の発想ですよね。

数年前、他の街に越して行かれ、大きな責任を持って、上海の近くの街でお仕事をし、若いみなさんの指導の働きをしているのです。小さかったお嬢さんたちが、そろそろ大学進学の時期を迎えているそうです。三ヶ国語を駆使しながらお仕事を忠実にされておいでです。男盛りの好人物なのです。私たちに、父母に対するような敬意を示してくれる方ですが、もう、全く《おじさん》になられた同級生です。

(ハワイでもこの街でも、よく見かける「ブーゲンビリア」です)

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秋の花

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広島県山県郡安芸太田町三段峡に咲く、 「桔梗(ききょう)」と、「女郎花(おみなえし」です。もう中国地方の渓谷には、秋が訪れているのですね。"HP「里山を歩こう」"が、そう知らせてくれました。

こちらは、台風の襲来とかで、朝、近くのスーパーに買い物に行きましたら、いつになく大変混んでいたのは、そのせいだったようです。台風襲来のニュースが流れると、食材の買い置きのために、人が一斉にスーパーに押しかけていました。どこも人間心理は同じようです。

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十二周年

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もう三十数年前になりますが、『中国旅行をするから一緒にどうですか!』と誘われて、出かけたことがありました。初めての中国訪問でした。実は、父が青年期に、旧満州の奉天(現在の遼寧省瀋陽です)で、しばらくの時を過ごしたことがあって、父の足跡を追いたいと思って参加しました。

ところが、瀋陽は旅行計画にありませんで、私が連れて行ってもらったのは、首都・北京でした。最初の印象は、自転車が、まるで洪水のように、道路にあふれていたことでした。まだ自動車社会が出来上がる前で、車も「的车deche」と呼ばれるタクシーと公共バスがほとんどで、信号がありませんでした。

道路は、どこでも人が渡っていて、自転車と人がせめぎ合っていました。人も波のような動きを見せていたでしょうか。そんな中、タクシーに乗って連れて行ってもらったのが、「胡同hutong」と呼ばれる、道幅に狭い横道、小道、生活道路でした。夏では演題が出されて、そこに座りながら話し合うと行った雰囲気にある、そんな家と家の距離が近くて、「下町」の感じが溢れていた街中でした。

今でも、急激な都市建設の波の中で、観光名所としての残されているそうです。東京の「銀座」のような中心街を、北京では、「王府井wangfujing」と言いますが、その近くの胡同だったでしょうか。私たちが住む街にも、古い街並が残されていますが、今は、観光用に、ほとんど建て直されてしまって、『こんなだったんだろうか!』と思うだけで、古さはなくなっています。

きっと、内陸部の小都市には、そう言った「巷間(こうかん)」が残されているのかも知れません。清朝の時代の「紫禁城」、古代の皇帝が礼拝を捧げた「天坛tiantan」、万里の長城の「興安嶺xinganling」などにも連れて行ってもらいました。いまでは、中国中の街には、ケンタッキーやマクドナルドが、どこにも溢れていますが、訪問時には、『つい先ごろ開店したばかりです!』と言う、マクドナルドを見た記憶があります。当時は、海外からの旅行者専用の貨幣があって、それしか使うことを許されていませんでした。そんな旅行をし、その後、フフホト、上海、広州を訪ねました。

帰国後も、二度ほど中国に参りましたが、2006年、12年前になりますが、その年の8月末、1週間を過ごした香港から、長距離寝台列車で、北京に入ったのです。26時間も掛った長い列車の旅でした。北京駅に着いて、迎えにきてくれた車で、天津に入ったのです。その街で、1年間、「紫金山路zijinshanlu」の脇に住み始めて、自転車に跨っては、街中を右往左往したのが、昨日のことの様に懐かしく思い出されます。住んでいた「公寓gongyu/アパート」の近くで、北京オリンピック大会のサッカー競技が行れるとのきとで、その球技場を建設し始めていた頃でした。

今日は、8月25日で、12年前の今日に来まして、ちょうど12周年になりました。その日々を、思い返したところです。感謝な日々でした.

(天津にあった租界の「五大道」の碑です)

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モミジアオイ

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これは「モミジアオイ」です。「松江の花図鑑」が送信してくださいました。こんなに綺麗な花が、母のふるさとの近くで咲いているにを知って、感動します。「ガーデニングの図鑑」に次のように解説されてあります。

「北アメリカ原産のフヨウ科ハイビスカス属に分類されている多年草です。自生地は、アラバマ州、ジョージア州、フロリダ州などの湿地や沼地で、原産地では沼ハイビスカス(swamp hibiscus)と呼ばれています。日本へは1863年(幕末)に渡来し、古くから親しまれてきた歴史がある植物です。

花期は7月~9月。真っ直ぐに伸びた茎に大きな赤い花を咲かせます。花は同属のハイビスカスによく似ていて、一日花ですが次々に蕾が付き開花します。花色は写真の赤のほか、白、ピンク。近年ではアメリカフヨウとの交配種で、花弁の幅の広い品種も流通しています。」とあります。

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華の東京

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明治の御維新で、京都から東京に遷都され、上り下りの旅が逆転しました。つまり京に上ったのが、東京に上る様になったのです。鉄道事業が進み、京都から東京へ列車で「上京」することになってしまいます。天皇も、京都から東京に住まいを替えたのです。幕末の江戸は、ほぼ「百万人都市」だったと推計され、当時、北京と同じほどの人口だったと言われています。「東京節」と言う歌がありました。大正8年(1918年)に歌われ始めた様です。

東京の中枢は丸の内
日比谷公園両議院
いきなかまえの帝劇に
いかめし館は警視庁
諸官省ズラリ馬場先門
海上ビルディング東京駅
ポッポと出る汽車どこへゆく
ラメチャンタラギッチョンチョンデ
パイノパイノパイ
パリコトパナナデフライフライフライ

東京で繁華な浅草は
雷門、仲見世、浅草寺
鳩ポッポ、豆売るお婆さん
活動、十二階、花屋敷
すし、おこし、牛、てんぷら
なんだとこん畜生でお巡りさん
スリに乞食にカッパライ
ラメチャンタラギッチョンチョンデ
パイノパイノパイ
パリコトパナナデフライフライフライ

東京の自慢はなんですか
三百万人うようよと
米も作らずにくらすこと
タジレた市長を仰ぐこと
それにみんなが感心に
市長のいうことをよくきいて
豆粕食うこと痩せること
シチョウサンタラケチンボで
パイノパイノパイ
洋服もツメエリでフルイフルイフルイ

東京の名物 満員電車
いつまで待ってても乗れしねぇ
乗るにゃ喧嘩腰 命がけ
ヤットコサと空いたのが来やがっても
ダメ ダメと 手をふって
またまた止めずに行きやがる
なんだ故障車か ボロ電車め
シチョウサンタラケチンボで
パイノパイノパイ
洋服もツメエリでフルイフルイフルイ .
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その後、中山晋平の詞に、西條八十が曲をつけた「東京行進曲」が歌い始められたのは、1929年でした。

1 昔恋しい 銀座の柳
仇な年増を 誰が知ろ
ジャズで踊って リキュルで更けて
明けりゃダンサーの 涙雨

2 恋の丸ビル あの窓あたり
泣いて文書く 人もある
ラッシュアワーに 拾った薔薇を
せめてあの娘の 思い出に

3 ひろい東京 恋ゆえ狭い
粋な浅草 忍び逢い
あなた地下鉄 わたしはバスよ
恋のストップ ままならぬ

4 シネマ見ましょか お茶のみましょか
いっそ小田急で 逃げましょか
かわる新宿 あの武蔵野の
月もデパートの 屋根に出る
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さらに、昭和になって戦争後には1964年、東京オリンピックが行われました。そのlm年に、作詞が藤間哲郎、作曲が佐伯としの「東京の灯よいつまでも」が売り出されました。
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1 雨の外苑 夜霧の日比谷
今もこの目に やさしく浮かぶ
君はどうして いるだろか
ああ 東京の灯(ひ)よ いつまでも

2 すぐに忘れる 昨日(きのう)もあろう
あすを夢みる 昨日もあろう
若い心の アルバムに
ああ 東京の灯よ いつまでも

3 花の唇 涙の笑顔
淡い別れに ことさら泣けた
いとし羽田の あのロビー
ああ 東京の灯よ いつまでも

この「東京」は、度々歌で歌われた街で、「華の」と付くの相応しい街に違いありません。まだ走っていた都電に乗って、銀座通りをたどった遠い昔日々を思い出します。長安も、洛陽も、開封も、詩に詠まれることもあったのですが、曲をつけて歌われると言うのは、日本的な特徴でしょうか。パリも、ニューヨークも、ロンドンも、日本の歌にあります。昨日お会いした、これから日本の長崎に留学する若者は、一度訪ねた東京に魅了されていました。

((東京都の鳥のユリカモメ、木のイチョウ、花のソメイヨシノです)

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金農/ KANANO

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「一都一道二府四三県」にある高校の運動部、特に甲子園大会に出場する高校の野球部の出身高校、とくに何度も出場する名門高校は、ほとんどが野球留学の部員なのだそうです。第100回大会の決勝の両校のベンチ入りした、18名の選手の出身校を見ていましたら、大阪桐蔭高校は、大阪府からが5人で、他の13名は、府外の中学の出身でした。それに比べ、秋田県代表の金足農業高校は、全員が秋田県下の中学の出身でした。

この街から、高知県の野球の名門校の明徳義塾高校に留学した若き友人がいました。野球部の推薦ではなく一般の留学生だったのですが。彼の入学式に、保護者の代わりに出席して、高知竜馬空港からレンタカーで学校に着いて、野球場の脇の道を走っていましたら、ほとんど野球全員から、『チワー!」と声が掛かりました。

2018年度の明徳義塾高校野球部の18名中、高知県かの中学出身者は4名、他は県外からの出身でした。あの時の野球部員の多くは、県外者だったのでしょう。もちろん義務教育ではありませんし、出場校の多くが、私立高校なのですから、それで好いのかも知れません。ただ、公立高校の出場が、年々少なくなってきているのが寂しいのです。

決勝まで勝ち上がった、金足農業高校は、県立高校で、しかも農業高校です。斜陽の第一次産業の農業を学ぶのですから、すごいなーと思ったのです。日本の農業人口は、現時点で、180万人を切るのだそうです(因みに1960年代は1000万人もの農業人口があったそうです)。そういう中での今大会での金農高の健闘は、素晴らしく意味があるのだと思われます。

アメリカに行きました時に、オレゴン州、ワシントン州、ロッキー山脈を超えたアイダホ州、モンタナ州、ワイオミング州を車で旅をしました。これらの州は農業が盛んな州で、大規模農業をしていました。メキシコからの労働者と、その道筋のスーパーマーケッチで会いましたので、彼らが主要な農業従事者だったようです。

あの旅行で、アメリカは、広い国土で、農業も、堅実に行う国だということが分かったのです。それに引き換え、日本の農業生産は少なく、他国に農産物を頼らざるを得ない産業構造になっているのです。休耕地が多くあるのですから。それを利用して、農業をしたら楽しいのではないかと思うのです。難しい人間関係に縛られないで、自然派で生きられるのは、けっこう楽しいかも知れません。

この住んでいます街の北の高地が、清里や軽井沢に似ていて、高原野菜や果物の栽培に適している様に感じるのです。家庭菜園しかしたことのない者の印象ですが、大都市を控えて、けっこうやり甲斐がある様に思えるのです。先日訪ねた村では、"火龍果"を栽培していて、頂いて食べたら、とても美味しかったのです。

戦前、1931年に、台湾代表の嘉義農林が、甲子園に出場したことがあり、その学校の活躍が映画化され、観たことがありました。台湾人、山地族、日本人の混成チームでした。金農の若いみなさんは、農業の後継者になられるのでしょうか。ぜひ頑張って、食の自給のために励んで欲しいのです。農業は、国の基幹産業なのですから。

(金足農業高校のある秋田市の市花の「サツキ」です)

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内向きに咲く

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『外向きに咲く!』と言ったのが、聞こえたのでしょうか、今朝咲いた朝顔の一輪は、内向きに咲いてくれました。毎日咲いてくれるのを喜んでくれるのが分かるに違いありません。今日は、暑さの中にも、何とは無しに秋の色が、陽や影の中に見え始めてきていました。長崎県下は、台風の渦中にあるそうですね。長崎の大学院で学んでいる教え子が、福岡で"インターンシップ中"だと、写真を添付してメールを知らせてくれました。元気そうです。
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晩夏の夕陽を受けて、北側のベランダで咲く「名無花」です。もうずっと、咲き続けているのですが、花の名が分りません。暑くても寒くても、あんなに細く折れそうな枝で耐えて生き続けるのですから、生命力とは、驚くものです。『暑い!』とか、『寒い!』とか言ってしまう私よりも、はるかに強そうです。

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竹とんぼ

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実は、今だから告白することにします。<欲しかった物>が三つ、四つありました。一つは、<オートバイ>です。中学の時に、弟が友人のお母さんから、<ラビット・スクーター>を貰ってきた事がありました。それを、住んでいた家から高台にある畑に引いて行って、それに乗ったのが、エンジン付きの乗り物で、初めての乗車でした。本当に面白かったのです。こがないで動くのに魅せられてしまったのです。それで高校生の時に、“Harley-Davidson”の《750ccモーターバイク》が欲しかったのです。

もう一つは、<カメラ>でした。小さな機械が、目で見た、同じ光景を写すことができるのに、小さいん)頃に驚いたからです。もちろん日本製が優れているには重々知っていました。それでも、ドイツ製の《ライカ》が欲しかったのです。見るだけで、手にとって見たこともなかったのですが。多分手にとったら、脇目も触らず、後先を考えずに、月賦払いで買ってしまうのを恐れたからです。それだけ、魅せられていたのです。

三つ目は、ジープでした。アメリカ製のジープは、子どもの頃、米軍基地の近くの町で育ちましたから、甲州街道を走る姿を見ていました。それで、東京から、中部圏の街に、アメリカ人起業家について行くときに、休みに山の中を走り回りたくて、スズキ製で、しかも軽自動車の《ジムニー》を買うつもりでした。でも子どもが次々に与えられて、断念しました。

モーターバイクに跨るか、ジムニーに乗るかして、ライカを手に、あちこちと旅をしたかった、これが夢だったのです。何一つ叶えられずに、今春、帰国時に自動車運転免許の更新をせずに、失効してしまいました。アメリカの運転免許のライセンスを取得し、アメリカで車を運転したことがありましたが、もう叶いません。あれほど欲しかった《ライカ》だって、スマホやiPadの登場で、もう不必要になってしまいました。

我儘に育ってしまった私ですが、けっこう物欲は強くなかったのかも知れません。スーパーの通路の上に、仰向けになって、足と手をバタバタさせながら、わめき散らしながら、『買ってー!』とやってる子を、よく見掛けましたが、あんなことはしたことがありませんでした。ああする大人だって例外ではありません。『欲しい物は、どうしても手に入れる!』人がいるからです。

一度も、そういった振る舞いをやったことがないので、今更できません。今欲しいのは、《竹トンボ》です。事務所を、みんな素人で建てていた時に、近所の大工さんが、手伝ってくれ、その後、子どもたちに、手作りの《竹トンボ》を持ってきてくれたことがありました。エンジンもなく、ガソリンも要らず、排気ガスはないし、手もみで空中に飛び上げられるのです。この街は、竹製品の多い地方ですから、どこかに、同じような手工品がありそうです。秋空に、高く飛ばしてみたいものです。

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トンボ

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ほとんど"バックスタイル"の朝顔の写真ですが、向こうの棟のみなさんや通り抜けていく方には、表の綺麗な姿が眺められていることでしょう。今日も厳しい暑さの一日が始まっています。川辺の散歩道の上には、たくさんのトンボが舞っていました。求愛しているのでしょうか。強くて逞しく飛ぶ相手を見つけて、丈夫で頑丈な子を生みたいのでしょう。中国語の「丈夫zhangfu」は、「夫」のことを意味していますから、中国の女性も、「丈夫な男性」を好むのでしょうか。肉体だけではなく、精神的にも丈夫なことも大切な要点です。

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青春

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野球は“ヒマワリ”、ハンドボールは“イヌフグリの花”でしょうか。甲子園では、高校野球が熱射の中、たけなわの熱闘を繰り広げています。 マイナーなスポーツをやった者としては、日本中が大騒ぎするメジャーなスポーツは、羨ましい限りです。小さなボールではなく、野球よりも何倍もー大きいボールを追い、投げた私には、ちょっと悔しさがあります。

私のすぐ上の兄は、神宮球場の大会まで進んだのですが、当時、東京一区、一校だけの東京代表の時代、ベスト16で敗退して、涙を飲みました。数え上げれば、これまで何十万、何百万の野球小僧がいたことになります。「100回記念大会」とのことで、“レジェンド(伝説の高校球児)”たちの始球式が行われているそうですね。

そんな彼らの背後に、プロにもアマにもならずに、野球人生を終え、草野球に甘んじた野球小僧たちのことを思っています。大学の野球部にも推薦されたことのある兄ですが、会社の野球チームでプレーをしていた時期があった様です。でも、今年“77歳”、帯状疱疹がもたらす<悪さ>の痛みと闘って、この時期を迎えています。

何年か前に、上海から一人で乗船して、大阪港に着いて地下鉄に乗ったのです。その途端に、8月でしたから、『もしかしたら?』と、学生に聞きましたら、全国高校野球大会の最中とのことした。それで甲子園に方向を変えようとホームで、ご婦人の一団に、行く道を聞いたのです。そうしましたら、宗教団体のみなさんで、姉妹教団の学校が出場し、応援を幹部から要請されたので、これから行くと言うのです。

『ちょうどチケットが一枚残っているので、一緒に!』と言うことで、宗旨は違うのですが、渡りに船で、おばさんたちの後についって行ったのです。その高校は、母の出身県・島根県代表でした。それで大声を出して応援させていただき、初めての甲子園を経験したわけです。
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相手は、東北大震災で被災した、岩手県代表の盛岡工業だったと思います。本当は、向こうのスタンドで、応援して上げたかったのですが、依怙贔屓(えこひいき)なしで、双方の活躍を、三塁側のスタンドで願ったのです。結果は、盛岡工業が勝って、おばさんたちは、すごすごと帰って行かれました。

それでも“ヒマワリ”であり続ける人は、ほんのわずかですが、白球を追った青春とは好いものですね。同じグラウンドの向こうで野球を、こちらで、まだ“11人制”のグラウンドを駆けていたのも、もう一つの青春でした。今や、「白頭掻けば短し」で、ポケットに昔、入っていたクシも要らないほどの坊主頭の爺になってしまいました。

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