アリラン

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大韓民国の大統領を、第五代から第九代までを務めた朴正煕大統領は、ご自分の半生、とくに日本との関わりを、次のように述べていました。

『日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命 令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さ らに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割り と公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。 』

これほど、親日の思いを込めた子供時代や青年期の過去を語る人が、以前はいたのです。1974年の8月、友人と私はソウルにいました。ちょうど、長い日本統治から解放されたことを祝う「光復節」が、国立劇場で開催されていた時でした。私は漢江の河川敷にあった、ヨイド広場で、その時期に行われていた「世界大会」に参加していました。光復節とは無関係なものだったのです。

その光復節の式典が行われていた最中、その朴大統領が、狙撃され、奥様が亡くなられるという事件が起こったのです。犯人が、日本人ということで、友人と私は宿舎のホテル(ユースホステルでした)から、危険だということで外出禁止になりました。犯人は日本人ではなく、北朝鮮から送られた工作員でした。

そんな突然の出来事のあった真夏を、朝鮮半島で過ごしたのです。バスに乗車した時に、一人の青年が、日本人だと分かって、『あなたのバス代を払わせて下さいますか?』と英語で語りかけてこられたのです。一旦はお断りしたのですが、重ねて言われたので、そのご好意を受けることにしました。それで、すっかり私は朝鮮民族に好感を持ったのです。朝鮮民族の最も有名な歌に「アリラン」があります。

アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
私を捨てて行かれる方は、
十里も行けずに足が痛む。

アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
青い空には小さな星も多く、
我々の胸には夢も多い。

アリラン アリラン アラリよ
アリラン峠を越えて行く
あそこのあの山が白頭山なんだね
冬至師走でも花ばかり咲く

学校の同級生にも、私の所属した街中の倶楽部にも、在日コリアンの方がおいでで、とても素晴らしい方たちでした。私の事務所に出入りしていた方の中にも、日本に働きに来ておられる方がいて、〈キムチ〉の作り方まで教えていただいたことがあったのです。文化的にも心情的にも、日韓は最も深いつながりがあります。良き関係の回復を切望する残暑の昼前です。

(白頭山に全景です)
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日韓中の今昔

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これは日本の東京の様子を写した写真です。上は100年ほど前の浅草、下は今の新宿の様子です。
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これは、大韓民国のソウルの南大門、上は日本統治前後の物、下は現在の様子です。
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これは、中国の北京の今昔の写真です。下は、「王府井」と言う、北京の中心の繁華街です。
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葡萄

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先日、古い友人たち、家内の妹から葡萄が届きました。大陸で過ごしてきましたので、夏場の帰国が、十数年の間ありませんでした。それで、国産の葡萄を口にすることがありませんでした。新疆などで採れたものや、同じ省の北の方で取れたものは、もらったり買ったりで食べて、結構美味しいのです。

離乳食がたべられる様になった頃から、父は、私に葡萄を買っては食べさせてくれていました。東京に越した時に、父は苗をいただいて、それを庭に植えて、あまり手入れはしなかったのに、何年もの間、摘み取っては食べることもできました。

そう言えば、毎年、秋になると、父宛に、ソルダムやメロンや葡萄などが送られてきていました。今年は、国内に戻っている家内と私のために、葡萄が送っていただいたのです。無くなったら、送ってくるというのがよいのですが、時期的に重なってしまいました。三軒の方からの寄贈の葡萄は、二人では食べきれないので、あちこちと配ることができてよかった!
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それでも余ってしまい、先日の温泉旅行に、みんなで食べようと持参したり、冷凍庫に入れて、真冬になったら、暖房の中で食べるようにしてあります。それまで残っているでしょうか。そんなことを書いて来ましたら、昨日、懐かしい方から、“ シャイン・マスカット ” が一箱送られて来ました。高級種の葡萄で、しかもこの友人の弟さんが精魂込めて育てた、最高のできの葡萄なのです。

ちょうど来客中でしたので、みなさんに「おすそ分け」をしました。『これって、キロ◯◯円はしまね!』と一人の方が言っていました。土曜日には、中国から娘連れでお父さんが、友人夫妻とお嬢さんの運転で、お見舞いにきてくれました。信じられないほどの愛を示してくれました。今闘病中の家内はみなさんから愛され、支えられ、励まされています。

(巨峰とシャンマスカットです)
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大好き

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真っ赤な血が、吹き出しそうに、血の中でもがいていた若い日に、それとは裏腹に、反動の様に、淡いものへの憧れがあったのでしょうか、純白の「ムクゲ(木槿)」の花が大好きで、心がわずかに凪(な)いできた今でも、大好きなのです。

大陸中国の原産で、朝鮮半島を経由して、平安の代に、こちらに渡ってきた花です。「槿花一朝の夢(きんかいっちょうのゆめ)」と言われ、明け方に咲いては、その日の夕刻にはしぼんでしまうのです(翌日まで咲き続けている花もあるそうです)。その「潔さ(いさぎよさ)」が、ことの外よいからでしょうか。

それがしも 其(そ)の日暮らしぞ 花木槿

これは、小林一茶が詠んだ俳句ですが、松尾芭蕉も、詠んでいます。ここ栃木は、「下野国(しもつけのくに)」と呼ばれてきました。その下都賀郡野木町(県の南端に位置します)に、芭蕉の句碑があります。その句碑には、

道のべの 木槿(もくげ)は馬に くはれけり

と刻まれています。そうしますと、ムクゲの花は、日本のそこかしこに、垣根として植えられて、夏から秋にかけて咲き誇っていたことになります。葉や茎や根が、〈下痢止めの漢方〉として重用されていますから、馬は、よく、その効能を知っているのでしょうか。

この家の庭にも、ぜひ植えて見たいなと思っています。3メートルほどの丈に伸びるのですが、来年は咲くでしょうか。来年といえば、家内は、好きな絵師のカレンダーを注文しています。望みに溢れて、来年を迎え、生きていくつもりでおります。
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週末

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今日の栃木市の最高気温予報は35℃です。真夏の気温になりそうです。今朝の庭先では、ハイビスカスが2輪開き、百日草が力強く咲いています。朝顔の勢いが、弱くなったのでしょうか、今朝は9輪ほど開いていて、咲き終わった花びらの姿が棚に目立って見えます。栄枯盛衰、花にも盛りがあり、衰えがあるのですから、人の世にあるのも、よく分かります。

昨日は、家内を家に残して、花のお江戸に出掛けて、夕刻前に戻りました。♯行きはヨイヨイ帰りは怖い♭、上京の道は段々に都会になって行き、人の数も増え、装いも華やいで行くのですが、帰りは、その逆で、利根川を渡るあたりから、さらに渡良瀬の流れを渡ってからは、田園風景一色になっていき、人間が本住むべき天然に戻ってきたようで、何ともなく安心に包まれて、下車をしました。でも行きが怖かったわけでははありません。

「自然回帰」、都会育ちではない自分にとっては、ここは心を寛(くつろ)がせることができるのです。「小朋友xiaopengyou/若い友人」から便りがあって、日本の長崎大学への短期留学を終えて、「老家laojia/ふるさと」に帰り、母校に戻ったと伝えてきました。どんなことを見、聞き、触れ、感じた一年だったのでしょうか。

「花金」という言葉は、もう死語なのだそうですね。おじさんたちだけが、今だに使っているそうで、〈おじさんバロメーター〉だそうです。とにかく、好い週末をお過ごしください。
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古の書に、次のような一節があります。

「私の目は涙でつぶれ、私のはらわたは煮え返り、私の肝は、私の民の娘の傷を見て、地に注ぎ出された。幼子や乳飲み子が都の広場で衰え果てている。」

広場だけではありません。街の通りでも、いえ何と、自分の住む家の浴室やベランダでも、幼子が泣き、赦しを乞い、哀訴している子どもたちが、日本だけではなく、世界中にいるのです。古の昔だけではなく、今もです。

戦時中ではないのです。飢饉があるのでもありません。溢れるような物質の世界に、「愛が冷える時代」が到来して、世界中の街の中で、みなしご、胎児、捨てられ見放され孤独に苦しむすべての子どもたちが、涙も枯れて、虚ろな目をして、命も絶え絶えにしているのです。

そんな子どもたちに、目を注いでくださり、彼らの命をお守りくださる方がいます。そして私にすることがあります。幼子をいたわり、愛し慈しむ助け手になることです。悲しむだけではいけません。

私は、両親の目の中に、時々、悲しみが溢れていたのを覚えています。母は私生児で、生みの両親を知らずに、養父母に育てられています。ある時、街のどなたかに、『あなたのお母さんは関西圏にいる!』と言われて、会いに行っています。会えたけのですけど、『帰ってくれ!』と言われたのです。実母は、今の幸せと責任に捕らわれて、母を抱きしめることもしませんでした。どんな思いで、山陰の街に、母は帰ったことでしょうか。

父は、中学生の時に、県立中学をやめ、家を出て、東京の親戚の家から、私立中学に転校しています。生みの母は、家を出され、後に継母の元を去ったのです。どうしても耐えられない事情があったからです。

そう言った背景の親は、親業を上手くできないそうです。ところが、私たち4人兄弟の父も母は、育児放棄をせずに、衣食住を与えてくれ、抱いてもくれ、一緒に遊んだり歌ったりもしてくれました。それでひねくれてしまわないで(少しひねくれたかな)、大人になれたのでしょう。

今回、2人の兄夫妻と弟(21年前に愛妻を病気で亡くし以来独身です)と私たち夫婦で、初めての温泉旅行をしました。家内の闘病を激励するために招待してくれたのです。両親が、このことを知ったら、どんなに喜んだことかと思ったりしました。この両親を、懐かしく思い出して語り合ったりもしたのです。

きっと、母は養父母が、父は親戚の方が、《いたわり、愛し慈しむ助け手》になってくれたのに違いありません。私の娘婿のお母さんは、「都の広場で衰え果てている」多くの子に乳を飲ませ、新しい下着や温かなベッドや暖かな抱擁を与えた人でした。私の友人で大家さん夫妻も、何人もの里子を育て、フィリッピンで、身寄りのない子どもたちの園を開設し、今もお世話を続けておいでです。

(広場の風景です)
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時代の要請

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イギリスのチャーチル、フランスのドゴール、日本の吉田茂、中国の周恩来、インドのネルー、インドネシアのスカルノ、アメリカのアイゼンハウワーなど、これらの方々は、第二次大戦後の世界の政治指導者たちの名前です。

戦争の終結とともに、一応は武器を下ろして、自分の国の再建のために、これらの方たちが手腕を振るったのです。どの国にとっても、果たすべき役割を担って、彼らは選ばれた人材でした。人格的にはどうかは、よく知りませんが、時代が要請した人であり、その課せられた責務を果たした方たちです。
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戦争中に、チャーチルが、“ Never give up ” と、ドイツ軍の攻勢の前に、国民を鼓舞激励した言葉を知った時、口にくわえた葉巻が印象的でした。またドゴール大統領が、凱旋門を徒歩でくぐった映像の中には、フランス国民の歓喜の声が聞こえました。焦土となった日本の再建のために、吉田茂はよい指導を果たしました。頑固な反面、ユーモアーに富んだ、落語好きな方だったそうです。
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天津にあった、周恩来とその夫人の記念館に行きました時に、結婚間近の何組もの中国人カップルが訪ねていました。そのお二人の夫婦愛にあやかりたいという願いで、若者たちに大人気でした。周恩来が亡くなられた時、口座も住居も箪笥も、そこは無一物だったそうです。彼は日本の明治大学にも留学経験があります。

中学校で3年間担任だった恩師が、「父が子に語る世界歴史」を読むように勧められて、買って読みました。娘のインデラに伝えたくて、ネルーが語り執筆した本でした。この方も、難しい時代の舵取りをした有能な指導者でした。「愛国の花」という国威発揚の歌が、日本の戦時中に歌われたのですが、この歌が好きだったスカルノは、よく自ら口ずさんだのだそうです。欧米に敢然と伍した日本に、深い敬意を抱いていたのです。

第二次世界大戦で、日本の敗戦が決定的になった時、原子爆弾の使用を、強硬派が主張する中、軍の指導者であったアイゼンハウワーは、反対の立場をとり、時の大統領のトルーマンに、原爆投下を強硬に反対して進言しています。

歴史を大きく動かし、安定させた功績は、どなたも大きかったようです。政治や行政だけではなく、教育界でも企業界でも、こう言った優れた人材が、若い人たちの間から、今も立ち上がって、一国だけではなく、世界大に目を向けられる指導者が誕生してほしいものです。地球が、世界が抱えている問題は、多岐にわたって極めて深刻だからです。

(チャーチルとドゴール、周恩来とネルー、田中角栄とです)
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脱走

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“ JET( 語学指導等を行う外国青年招致事業 The Japan Exchange and Teaching Programme)” と言うプログラムで、高校英語の補助教師として、長野県の南信の公立高校で、娘婿が教えていました。通勤の帰り道で、捨て猫を見捨てられないで、家に連れ帰って飼い始めたのです。そんな境遇の猫を、一匹ならずも二匹も飼っていたのです。3年間教えた後に、帰国することになって、その二匹の猫の世話を、私たちが頼まれたのです。猫嫌いの私でしたが、それを承知したわけです。

飼っている間に、慣れたのでしょうか、可愛くなっていってしまったのです。迷惑をかけないため娘婿は、不妊手術を施していました。猫社会では、そう言った猫は仲間はずれと、攻撃の対象で、よく悲鳴をあげて逃げ回っていました。それで、家に閉じ込めて飼っていたのですが、時々、〈脱走〉をしたのです。

猫も、広い世界へ出て行きたいのだと分かったのです。16才の時、作詞が永六輔、作曲が中村八大で、「遠くへ行きたい」と言う歌が、若者たちの間で歌われていました。

知らない町を 歩いてみたい
どこか遠くへ 行きたい
知らない海を 眺めていたい
どこか遠くへ行きたい
遠い街 遠い海
夢はるか 一人旅
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

愛し合い 信じ合い
いつの日か 幸せを
愛する人と めぐり逢いたい
どこか遠くへ 行きたい

青年期の特徴の一つは、現状への不満が強い時期なのでしょうか。〈今〉と〈此処〉から飛び出したい誘惑があります。規則や伝統に縛られたくない思いがあって、 “ タッカー(オスの方の猫の名前です)”の様に、〈脱走願望〉があるのでしょう。遠くに行って仕舞えば、時計の針の様に、同じ枠の中で、来る日も来る日も、同じ動きしか続けなければならない様な生活から抜け出られるからです。

まだ売っているのでしょうか、交通公社の「時刻表」ですが、これを見るのが好きでした。知らない駅が、線路の続きにあって、降りて駅頭に立って、その辺りを眺めてみたくなるのです。今、わが家から見える鉄道線路の「両毛線」も「東武日光線」も「東武宇都宮線」も、かつて一度も乗ったことはありませんでしたし、乗っても限られた駅しか旅行していないのです。

日光線、鬼怒川線を乗り継ぐと、「白虎隊」で有名な会津に行くこともできるのです。両毛線で小山に行くと、水戸にも行けます。同じ小山から、また栃木からも、湘南(宇都宮や新宿)ラインで小田原までも行けます。もちろん大船や江ノ島や逗子にだって行けるのです。でも、そう言ったはやる気持ちを納めて、今の責務を果たすことを第一にしている、この8ヶ月です。

(隣県福島の奥会津の風景です)
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山桃草

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この花は、「ヤマモモソウ」です。島根県鹿島町に咲く花で、[HP「松江花図鑑」8月31日撮影]が送信くださったものです。別名を「ハクチョウソウ」と言うそうです。北アメリカ中南部やメキシコが原産で、明治の中期に移植された外国種です。

外国種の植物に、和名をつけるテクニックは実に興味深いものです。「山桃」に似ているからだそうです。あの「アツモリソウ」だって、ベラルーシ東部から温暖な東アジアに分布している「シノニム」の和名です。花の形状が、平敦盛の背負った母衣(ほろ)に似ているので、そう命名されているわけです。
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母のふるさとに咲いている花を見て、亡き母を思い出してしまいました。母の住んでいたのが「今市」という町名で、先週、栃木県下にもある「今市市」の蕎麦屋に寄りましたら、その味が美味しくて、「出雲蕎麦」を思い出してしまいました。
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