強風下

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日本の諺に、「遅かりし由良之助」があります。“ 逆引き故事ことわざ辞典 ” に、次の様にあります。

『待ちかねていたのに、時機に遅れて間に合わず、用を成さないときに残念がって使うことば。歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の一場面より。塩谷判官(えんやはんがん)は切腹の前に無念の思いを大星由良之助(おおぼしゆらのすけ)に伝えたくて、到着を待ちかねていたが、なかなか現れないのでついに腹を切ってしまう。そのとき遅れてかけつけてきた由良之助に、まだかろうじて息のある塩谷判官が苦しみながらいった台詞(せりふ)から。なお、忠臣蔵で知られる浅野家の家老は大石良雄、通称 内蔵助(くらのすけ)であることから、「遅かりし内蔵助」といいがちだがそれは誤り。歌舞伎が元になっているので「遅かりし由良之助」というのが正しい。』

しなければならないことが、後手後手になってしまって、ちょうど好い時期を失ってしまうことを言っています。一人ひとりの人生も、国を導く国策も、時期を逸してしまうケースが多くあります。けっきょく、迷った末の決断は、『今さらになって何の意味があるの?』と言うことになってしまいます。

なぜ、後手になってしまうかと言いますと、〈風〉ばかり見ているからです。『そんなことをしたら、何か言われないか?』と思い悩んでいて、八方美人になりたくて、時期を失ってしまうのです。自分の評判が、一番大切な人に多そうです。損得ばかりを考えている人にも多いかも知れません。失敗を恐れ、名を汚したくないからです。けっきょく決断力がないのです。

どこに越しても、その家には、あった試しがないのですが、屋根の尖塔に「風見鶏(かざみどり)」のある家があります。風向きを示す可動の鳥の作り物です。“ ウイキペディア ” に、次の様にあります。

『風見鶏という言葉は、元々は「風に向かって雄々しく立つ」という肯定的な意味で用いられていた。しかし戦後の日本政界で中曽根康弘が「風向き次第で態度がすぐ変わる風見鶏」と揶揄されたため、日和見主義という意味合いを持つようになった。その後は中曽根に限らず、態度がすぐ変わる政治家が批判的に「風見鶏」と呼ばれることが多い。例として2012年12月23日の産経新聞では、ジョン・ケリーが米国国務長官に指名された際の記事に、「民主党重鎮 “風見鶏”批判も」との見出しがある。』

昨日、強風が吹き荒れていました。洗濯物が飛ばされてしまい、拾いに降りたほどでした。それで、「風見鶏」を思い出したのです。風や風の向きばかりに気を向けてると、時期を失ってしまうわけです。上に立たされている者が、正しく決断するなら、それでいいのではないでしょうか。人の目ばかり気にしていたら、指導力を働かせなくなってしまうからです。

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退屈

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一昨日、息子がFaceTimeをしてきて、新コロナ旋風吹きまくる御時世、当県下でも感染者が出たと聞いたからでしょうか、両親が、どうしているかを問安してくれたのです。その画面の息子の後ろに、二、三度部屋を出入りする、登校禁止令下の孫が写っていました。所在無げに、狭い家を行ったり来たりしている、かわいそうなほどに暇を持て余しているのが歴然でした。

徳川の治世下で、旗本や御家人たちに、病気に罹ったら、「お目見え禁止令」と言う命令があったのだそうです。将軍を、流行病や疫病の災禍から守るために、『出仕あいならぬ!』が下されています。家屋敷に綴じ込められて、外出が禁じられていたのです。『病気になったら仕事を休め!』と言われて、長い時は百日も休んだ事例もあったそうです。

今回の騒動で、小学校から高校まで、休校措置が下されたことに賛否が分かれています。家内が、昼前にドラッグストアーに買い物に行ったのですが、お母さんに連れられてか、お母さんについて来てか、何組もの母子の姿を見掛けたのだそうです。日本社会に、ストレスのガスが立ち込めて、爆発寸前なのではないかと心配です。

私の弟は、退職後の今も、現役で、渋谷や新宿や秋葉原などの盛り場を徘徊する青少年の指導を続けてきていますが、今回の休校措置に、危機感を募らせています。親が世話できない子どもたちが、時間を持て余して、儲けよとする大人の餌食にならぬ様にと、気が気でない様です。

ウイルスの害よりも、もっと致命的な結果が起きてしまわないか危惧されます。こう言った予想できることを熟考して、打ち出した休校措置なのでしょうか。残念な結果が起こらない様に願う、強風下の今日です。

昨日の夜、宅配がありました。何かと言いますと、「罹災者救援物資」です。去年の10月の台風19号に罹災した家庭への市役所からの援助品の送付でした。休校中の子どもたちのいる家庭にも、ケーキとかクッキーの差し入れなどを、首相官邸は気を利かせて送ったら、少しはストレス解消になりそうですが。ご提案まで。

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祝福

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“ grape ” というサイトがあります。その本日版に、写真の様な「卒業証書」が載っていました。JR鹿児島本線、指宿枕崎線、日豊本線の鹿児島中央駅の改札付近に、この3月2日に黒板に書き出され、掲出されたものです。

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今日まで毎日、駅を利用してくれてありがとう。
大雨に弱い指宿枕崎線(いぶすきまくらざきせん)。動物にぶつかる日豊本線。意外としぶとい鹿児島本線。
決して使い勝手のいい駅ではなかったかもしれないけれど、3年間みな様の元気に通学する姿を見て、私たちも元気をもらっていました。
これからは、それぞれの道を進んでいくと思いますが、私たち鹿児島中央駅一同いつまでもみな様をお待ちしています。
ご卒業おめでとうございます。    鹿児島中央駅一同

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駅の職員のみなさんが、3年間駅を乗降りして利用してくれて、卒業する高校生に、お祝いとして《餞(はなむけ)の言葉》を掲出したのです。世知辛いこの時代、どこでも小競り合いや罵り合いや奪い合いの見られる中、《感謝》できる、心の優しさやゆとりに、心が和みます。

18の時に、友人の学友のいる鹿児島を訪ねたことがあって、この駅を利用したことがあります。日本列島南の果ての終着駅です。「西郷どん」や明治の元勲を生み出した街です。《十八の青春》が、どう展開していくのでしょうか。全世界の《十八歳》に、祝福を送ります。

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旅芸人

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戦後間もなくの昭和26年、1951年、松竹映画「とんぼ返りの道中」が上映されました。映画は後になって観た記憶がありますが、その主題曲は、作詞が西條八十、作曲が万城目正、唄が、美空ひばりで「越後獅子の唄」が、ラジオから流れてきました。

1 笛にうかれて 逆立ちすれば
山が見えます ふるさとの
わたしゃ孤児(みなしご) 街道ぐらし
ながれながれの 越後獅子

2 今日も今日とて 親方さんに
芸がまずいと 叱られて
撥(ばち)でぶたれて 空見上げれば
泣いているよな 昼の月

3 打つや太鼓の 音さえ悲し
雁が啼く啼く 城下町
暮れて恋しい 宿屋の灯(あかり)
遠く眺めて ひと踊り

4 ところ変われど 変わらぬものは
人の情けの 袖時雨(そでしぐれ)
ぬれて涙で おさらばさらば
花に消えゆく 旅の獅子

旅芸人の幼子が、辛く悲しい生活をされているのを知って、同年代の子どもが、路上で舞ったり、逆立ちと言った芸をしているのに、自分は、白いご飯を何不自由なく食べて、両親に甘えていられる、その違いに彼らの同情的になったのです。ぶっている親方に、噛み付いてやりたいほどでした。

『サーカースの子役たちは、飲んだら、むせてしまう様な酢を、体が柔らかくなるために飲まされているんだ!』と、誰かに聞いて、酢が嫌いになったものです。とくに越後、新潟県は、「日本列島改造論」が出て、列島開発が始まる以前は、日本海側の貧しい地域で、旅芸人、目の不自由な門付け芸人の瞽女(ごぜ)を、多く生み出した地です。

その哀調のこもった響きの〈瞽女の歌〉を聞いたことがあります。旅芸人といえば、春秋に祭礼の時期に、私の育った街の神社の境内で、小屋がかけられて、芝居が演じられていました。親の目を盗んで神社に行き、モギリのおじさんの目も盗んで、潜り込んで観たことがあります。アセチレンでしょうか、カーバイトでしょうか、白粉の匂いが混じって、独特な匂いが溢れていました。子役がいて、どうやって学校に通っているのか心配になっていました。

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その様な、旅の浪曲師の娘で、父親の芸の前座で、お母さんの三味線の伴奏で歌謡曲を歌って、家計を助けていた、藤圭子がいました。成績のとても良い賢い中学生だったのだそうです。中学を出ると、進学を諦めて、飲み屋街を回って、〈二曲100円の流し〉をしていたところを、見出されて、演歌歌手として世に出て、活躍をしたのです。

「歌姫」と、脚光を浴びても、女性芸人の生涯は、以外と不幸なのに気付かされます。古い芸人の世界で、それが慣習なのでしょうか、男芸人の餌食にされて、青年期を楽しむことなく、大人になってしまう、醜い世界だったと聞きます。華やかさの影の暗さが、一際目立ってしまうのでしょう。夢を売っても、自分の夢に生きられないのは辛いことだったに違いありません。

最近、とみに繁栄の影の暗さが大きくなってきている感が拭えません。人の仕合わせを考える人が、本当の幸せを味わえるのでしょうか。「幸福論」に、《心の貧しさの幸せ》、《憐み深さの幸せ》、《平和を作る幸せ》がある様です。そう言えば、お金や成功や栄達が、どうも人を幸せにはしていないのではないかと思ってしまいます。

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恋文

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入院中の家内が、して欲しくなかったことや聞きたくなかったことが、いくつかありました、いえ、今もあります。検査結果がなかなか出てこないで、治療法が定まらなかったのです。気管や食道や血管が、腫物で圧迫され、食べられず、息苦しく、むくみ、体重が減り続けていました。ところが血液検査は毎日行われ、『そんなに血液を抜いていいの?』と家族としての想いが募ったのですが、血液検査の数値だけが、病状を教えていたのでしょう、検査が続けられていました。

まさに、生死の境を彷徨(さまよ)っていたのです。それで血液製剤を点滴するために、頸部に、透析をされる方が手首に、カテーテルを留置する手術が行われる様に、留置手術が行われました。それは生命維持の最後の手段でした。体が、「管(くだ)」で繋がれることを、彼女は嫌っていたのですが、私は医師のその手術をお願いしたのです。

私は、中高と運動部にいました。大学も、運動部の推薦入学で誘われたのですが、一般入試で入学したのです。予科練帰りの先輩や、そう言ったOBに鍛えられた方たちから、ビンタやグラウンド上での正座や兎跳びや長距離走をさせられる、「根性論」で、しごかれました。おかげで、全国レベルの強豪校でしたが。

ですから、懸命に病と闘っている家内に、『頑張って!』と励ましていました。それを聞いた彼女は、『これ以上、どう頑張っていいの?』と、私に細い声で言ったのです。やはり、「精神論」の押し付けは、彼女には、一番辛かった様です。そんなことで、そう言った激励しかできない自分の病者不理解を悟ったのです。

それで、自分の愛読書と愛唱歌の中から、一節づつ選んで、《恋文》を綴って、洗濯をした着替えとを持って、宇都宮線に乗って、毎日見舞ったのです。時々、何かをコンビニで買って行きましたが、食べられませんでした。それらが、彼女への大きな励ましになった様です。そして、子どもたちや孫たち、古くからの友人や兄弟姉妹、華南の街の友人たちの来訪がありました。その時期、インフルエンザのため、面会謝絶が一ヶ月間続く時期もあったのです。

新薬の点滴が始まって、病状が回復してきて、医師が驚くほどの効果が出てきたのです。頸部に留置した針も抜かれ、尿管も外され、全部の管が彼女の体からなくなったではありませんか。主治医は、ついに『著効です!』、つまり治療の効果が、新薬の薬効が顕著に見られると言われたのです。

造影剤を入れての「PET検査」の新旧二枚の映像を見て、子どもたちも私も、歓喜したのです。まだ闘病中ですが、彼女は体重も増え続けています。通院以外の外出しかできなかった彼女は、同病の患者さんや医療従事者との交流会にも、近くの市立図書館にも、美術館にも、日曜日ごとに開かれる倶楽部にも、レストランにも行ける様になっています。

もう、『頑張って!』ってなんて、私は言いません。責任逃れの「精神論」や「根性論」を縹渺したり、強要したりしません。『よくやってるね!』と言って、次にできることに向かって、一緒に進むことにしています。家内は、どなたかにオンブされている様な、大きな背中に背負われている様に思えてなりません。

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悠久

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歳を重ねると、感覚が鈍くなっていくのかも知れません。でも、《懐かしい匂い》がしてくると、胸がジーンとし、心かキューンとし、涙腺がシューンとしてきて、この手の嗅覚は、歳をとっても、まだ健在なのかも知れません。多分、刻み込まれた記憶は消えないのでしょう。きっと、ふるさとには独特な匂いがあるのだと思います。懐かしさが、時として、匂いとなって蘇ってくるのでしょうか。

一級河川の上流、その支流の一つ、その奥で生まれた私には、土や木や石や水や風や空や光が、そして色や輝きや湿り気も伝わってきて、すぐ、そこにある様な思いがしてまいります。歌謡曲で歌われる歌詞に、『・・・ああだれにもふるさとがある、ふるさとがあーる・・・』も思い出されてきてしまいます。

私のふるさとの渓谷から数えて、いくつか東側に、沢伝いの温泉場があります。その骨折後の恢復に良いという温泉を紹介されて、二、三日、休暇をとって出かけたことがありました。まだ二十三歳でした。そこにお爺さんの湯治の手伝いで、私と同世代のお嬢さんが来ていたのです。

そこは湯治用の温泉で、混浴でした。そのお嬢さんは、お爺さんのお世話で、一緒にお湯に入ってきたのです。私は、それを見て、すぐに目をそらし、湯から上がってしまったのです。裸になってまで、お爺さんの入浴を、恥じずに手伝っている孫娘の決心が、実に素敵でした。温泉場のたたずまいと共に、そのキリッと結んだ唇と真っ白な肌を、はっきりと覚えています。

その温泉の奥に、鄙びた温泉郷があって、三十代の最後の年に、それも手術後の湯治で、出かけたことがありました。同じ湯治客と、狭い浴槽に、譲り合いながら入るのです。そこも混浴でした。それだけ治癒を願う必死さがあっての温泉浴だったのです。ほとんどの湯治客に、手術痕があって、ラジウム温泉の効用に、最後の望みをかけてやって来ていた様です。
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何度か目に行った時に、初老のおじさんが、『私の部屋で、一緒にお茶を飲みましょう!』と、私を支えるために同伴してくれた家内と私を誘ってくれました。アコーデオン演奏で、「誰か故郷を思わざる」、「湯の町エレジー」などを歌ったのです。誰にも故郷があって、それを懐かしく思い返すのでしょう。あの時も、時間がゆっくり過ぎて、体だけではなく、心も、そのゆっくりさを楽しめました。

そこは、まるで生まれ故郷、そのものでした。時間の経過が、記憶を薄れさせることはなさそうです。人間って、故郷を慕おうとする感覚は、年年歳歳、いよいよ強くされていくのでしょうか。土地だけではなく、人であり、出来事が、《ふるさと》なのかも知れません。それ以外に、帰って行くことのできる、生まれ故郷とは違った、もう一つの《ふるさと》が、私にはあるのです。そう、あると信じ切っているのです。老いも、病いも、妬みも、諍(いさか)いも、死も、新コロナウイルスの感染騒ぎもない、悠久の《ふるさと》であります。

(生まれ故郷に近い所、今はなき宿の玄関の写真です)

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Dream

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やがて、〈一人の人〉が出現します。世界が抱える様々な問題、人類の存続に関わる、あらゆる課題を解決してしまう人です。組織ではなく、組織を驚くほどの統率力、指導力、決断力、英知を持って動かし、世界が直面する問題を解決してしまう〈一人の人〉です。

人口増、食糧不足、環境汚染、異常気象、原発、気象異常、難病疫病の蔓延、家庭破壊、老人問題、青少年問題、国際紛争、民族紛争、難民の避難、貿易商業問題、宇宙開発等の課題が山積して、その想像を絶する様な極限に達する状況下で、登場するのです。

人類の歴史の中に、その時代時代に、その国国に、その民族民族に優れた指導者が、時宜にかなって現れては、民族や国や時代を導いてきました。ところが、この人は、世界大に、宇宙規模で活躍するのです。これまで手付かずの分野にまで、手腕を働かせてしまいます。人類史上、最も優れた能力を持つ人です。

世界は、この人を称賛し、賛歌を歌います。人々は、東から西から南から北から、こぞってやって来て、絶大なる誉れを、この人に帰すのです。割れんばかりの褒め言葉と褒め歌が、地上を満たします。そして、この人を、大いなる都の玉座に迎えます。そこに座すこの人を礼拝するためにです。まるで万国の王の様にして、人々の上に、この人は君臨します。

しかし、この人が「平和の王」であるのは束の間であって、やがて横暴な支配者として、人類史上に現れた極悪の独裁者の比ではない、絶対者として、恣(ほしいまま)に統治します。その容貌は、表では柔和ですが、自尊と高慢さが、その裏に隠されています。人々は、やがて、解決してもらった問題には比べられない様な、大きな問題の渦中に突き落とされます。

この人が、「真実の王」、「公正の支配者」ではないことが、人々に分かるのですが、時遅しで、更なる叫びと嘆きの中に、世界は陥ります。ところが絶望の中に、「王の王」がやって来られます。平和と安息を、《遜らされた人たち》に与えるためにです。そんな「夢(Dream)」を見ました。

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出現

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「混乱」、さまざまな所見、意見、考察が溢れかえって、収集がつかなくなった状況を、そう言うのでしょうか。また為す術がない状況を、そう言うのだと思います。〈新型コロナウイルス〉による新型肺炎が、世界中に蔓延していて、人々の心の中に、「不安」が生まれています。

1347〜1353年に、人類史上、最大規模で流行したのが、「ペスト」でした。当時のヨーロッパ全人口の約 3 分 の 1 が、その疫病によって亡くなっています。それは、想像を超えた規模と数の災禍でした。このヨーロッパでの拡大の背景には、当時の世界の覇者・蒙古軍がヨーロッパに侵攻したのと、人の行き来が頻繁になった背景がある様です。

1334年(鎌倉幕府の最末期)に、中国大陸で、激しい旱魃があって、農産物の生育に大被害がありました。それで飢饉が起こった中で、杭州で疫病が発生しています。それが「ペスト」であったと考えられています。当時の通商路の「シルクロード」によって、ペストの媒体である〈ネズミ➡︎蚤(ノミ)〉、あるいは〈人➡︎ノミ〉によって、ヨーロッパに病原菌が運ばれたと、原因が考察されています。
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この「黒死病」とも言われるベストは、18世紀に至るまで、何度もの流行期を経ています。日本に、このペストが入ったことについて、次の様な記事があります。

『日本では、1899 年(明治 32 年)に流行地の中国から侵入したのが初のペストである。翌年から東京市(現在の 23 区)は予防のために一匹あたり 5 銭で鼠を買上げた。本来日本国内にはケオピスネズミノミは生息せず、したがってそれ以前には日本にはペストはなかったとされている。ペストが日本に侵入してから 27 年間に大小の流行が起こり、合計ペスト患者 2,905 人(死亡 2,420)が発生した。しかし、日本がペストの根絶に成功したのは、ペスト菌の発見者である北里柴三郎や、彼の指導下でダイナミックに動いた当時の日本政府のペスト防御対策(特に、ペスト保菌ネズミの撲滅作戦)にある。』(加藤茂孝)

私たちは、日本が観光地として、世界から注目されて、おびただしい数の外国人が、日本に出入りする時代を迎えました。そのお陰で、経済効果が上がっている様ですが、メリットとともに、〈デ・メリット〉もあります。このグローバル化は、どうすることもできない社会的な現象ですが、経済優先、商業重視に偏ってしまううことで、〈糠喜び〉するだけではいけません。被る〈被害〉をも考えておかなければならないのではないでしょうか。
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「・・・地上では、諸国の民が・・・不安に陥って悩み・・・恐ろしさのあまり気を失います。」と、この時代の出来事を、私の愛読書は看破しています。「混乱」や「不安」の時代の只中で、私たちは、徒(いたず)らに恐れなくてもよいのです。慌てなくともよいのです。「流言蜚語(るげんひご/世の中で言いふらされる確証のないうわさ話。 根拠のない扇動的な宣伝。 デマ)に惑わされないことです。《21世紀の北里柴三郎》の出現を期待しましょう。『恐れるな!』

(「ハーメルンの笛吹き」の影絵、実験中の「北里柴三郎」です)

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踏切

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この写真に写っている箇所は、「踏切」です。日本中に、かつては何万(2018年度で33,098か所)もあった、踏切の内の一つです。みなさんにとられては、何の郷愁もないのでしょうけど、私にとって、実に懐かしい写真なのです。

ここは、江戸五街道の一つ甲州街道が、多摩川の渡しを渡って、日野の宿場を後にして、八王子に至る台地の坂の途中なのです。明治になって、そこを交差する様にして、開業した「甲武鉄道」の線路が設けられ、踏切が設けられた箇所です(実際に、お茶の水家から八王子を結んだのは1889年でした)。2両親と兄弟たちとが住み始めた頃には、中央線(1906年には中央本線に改名され、国有化され、都内の線路を「中央線」と呼んでいます)と呼ばれる様になっていて、そこを通勤や登下校や買い物のために出かけるたびに、行き来したのです。

父は、この踏切の中程から、駅のプラットホーム(写真の左端に最後部が写っています)を上り下りをして通勤していました。どうしてかと言いますと、旧国鉄に車輌の部品を作る会社を、父が持っていましたので、改札を通らないで、顔パスだったのです。その息子の私たちは、そうはいかずに、この坂を降って、世紀に改札を通っていました。
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この道は、新道ができた関係で「旧甲州街道」となり、近年ではバイパスが通る様になっています。今では、この踏切は閉鎖されてしまっています。渋谷のスクランブル交差点の比ではありませんが、数限りない人が、泣いたり笑ったりして交錯した〈交差点〉であったことは確かです。

(下の写真は山手線の渋谷駅の古写真です)

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