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わたしが出会った中国の方は、ほとんどが、標準語を話されます。アニメを見たり、今では YouTube で学ばれるからです。わたしの知人に、日本に来られて、徳島市の語学学校を出て、京都大学で学び、博士論文をとられた方がいます。
この方が、河南の町の大学の副教授で、先日、関西圏の大学で特別講義をするために招かれて来られ、休みをとって、家内とわたしを訪ねてくれたのです。なんと関西圏訛りの「徳島弁」の accent で話されるのです。徳島市内でアルバイトをしながら、猛烈に学んで、そこに7年もいたそうです。今では講義を日本語でし、学会の研究発表は英語でするのですが、普通のおニイ然とした方です。
これまで多くの中国の方と出会いましたが、この方が、日本語の喋り言葉が一番上手なのです。退職したら、徳島の古民家に住みたいとの願いがあって、それを手に入れる計画を持っておられるのです。そんなに徳島に魅せられといるのに驚かされてしまいます。
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徳島は行ったことが一度もありません。「鳴門の渦潮」で有名ですが、どんな風なのか見たいとは思ったことはありましたが、そのまま訪ねずじまいなのです。瀬戸内海と紀伊水道とに、干満の差があってできる潮流の自然現象なのだそうです。一日中見られるのではなく、塩の満ち干によってでき、渦の大きさはは、最大で直径20mもあるそうです。
38万kmも離れている月との距離があるのに、月の引力によって、地球上の潮の干満ができるという話を、小学校で学んで、驚いたことを昨日のように覚えています。海面が引っ張られる現象なんて、あんなに重たい、地球上の水を地球の海水ごと引く Energie とは、どんなに強力な力をもっていることでしょう。静かな月を見ていては、想像もつきません。
月ばかりではなく、太陽との地球の相互関係を考えてみると、ちっぽけな子どものわたしの頭では、理解できませんでした。太陽系の広がり、宇宙の壮大さには圧倒されてしまいます。地球を取り巻く星々を眺めるに、空間に浮いて光り輝く神秘さには、驚かされるだけでした。でも、神の創造を信じられた時に、納得できたのです。
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県都は徳島市、県花はスダチの花、県木はヤマモモ、県鳥は白鷺、県の色は藍(あい)色、人口は70万人です。律令制下では、阿波国、蜂須賀氏の所領でした。県の色が「藍色」と言うことは、吉野川流域に行なわれ続けてきた「藍染(あいぞめ)」が、地場産業であり続けてきたからのようです。
「出藍の誉れ(しゅつらんのほまれ/青は藍より出でて藍より青し)」という諺がありますが、日本独特の青で、“ Japan Blue ” と言うそうです。父の大島の和服は、この藍染めで、母が仕立て直してくれて着たことがありました。
また、四百年もの伝統を持つ「阿波踊り」にも驚かされてきました。直接見たことはありませんで、映画やテレビで見た時に、日本人が、こんなに豊かな感情表現をすることに驚いたのです。どこにも年中行事があって、お囃子の演奏を聞きながら、輪になって踊る風俗が残されていますが、あんなに豊かな身体運動をする阿波人に驚いたのです。人は、抑圧されていればいるほど、その表現も激しいのでしょうか。
『日本人も捨ててはおけないな!』と思わされたのです。一般的に祭礼の時に、激しく踊ったり、歌ったり、騒いだりするのは、「一揆(いっき)」を生むので禁止されていた江戸期に、それを許した阿波のお殿様は、ずいぶんと理解のあった領主だったのでしょう。
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この藍色を、「勝色(かちいろ)」とも言うそうで、〈阿波ナビ〉のサイトには、『藍には抗菌作用、防虫、防腐、防臭、保温、保湿、紫外線遮蔽など、さまざなまな効用があります。 また、化学薬品を一切使用していない藍染めは、赤ちゃんの産着としても使用でき、小さな子どものアトピー性皮膚炎の予防・緩和にも効果があるといわれています。』とあります。
染料のためだけではなく、自然界には、驚くべき備えがあるのに気付かされます。子どもの頃に、じめじめした家の裏側の隅に生えていた「ドクダミ」が、ただの雑草だと、この頃の方は抜いてしまうのだそうですが、怪我やおできの時に、しぼったった草の液を患部に塗ったのを覚えています。
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わたしたちが長く過ごした華南の街の巷に、清(しん)の時代の古民家街がありました。そこに、「梲(うだつ/今では〈卯建〉と書きます)」があったのです。火事が起こった時に、隣家に延焼しないための防火壁があって、それを、「梲」と呼んでいたのです。
徳島県の吉野川沿いの美馬町にも、この梲が残されていて有名なのです。藍の集散地で、豊かな商家が連なっていたからでしょう。庶民の住む長屋には、あまり見られませんが、豊かな商家には、財産を守るために備えられていたのです。
この梲ですが、『あの人は梲が上がらないようだ!』と、いつまで経っても、才能や稼ぎのない人を、からかう言い回しがあります。梲の上がるような家に住むようになることを、良いこととする社会だったからなのです。
一軒の家も建てることなく、借家住まいの連続で、生まれてから幾度となく引っ越してきたわたしは、梲を上げ雨られませんでしたが、高く夢だけは掲げながら、今日まで生きてきたと思い返しています。この自分の生まれ育った国に、主の名が高くあがめられることが、その夢なのです。
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