出会い

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 私たちの倶楽部に、ほとんど入れ替わりの様にして、何組かのアメリカ人のご家族がいたことがありました。日本の食べ物が合わなくて、月に何度か、アメリカ軍の基地に出かけては、そこで食料を買って帰ってきて、生活をされていた方がいました。ご主人は、軍籍をお持ちだったのです。せっかくの来日でしたが、けっきょく短期で帰国されてしまったのです。

 この方たちとは違って、魚の干物でも食べられる家族がいました。多くの人たちに教える力があって、とくに奥さまは、ご婦人たちに良い感化を与えておられました。地味で質素な生活をされていて、私たちと、とても良い関係を持たせていただいたのです。住んでいる山里の村でも人気のあるご家族でした。4、5年おいでの後、帰国されました。

 もうひと家族は、奥さまが日本人でしたが、私の知人の家を紹介して住んでいたのですが、家や庭の使い方や近隣の方との間でトラブルがあって、いつの間にか、山の奥の方に住まいを見つけて移って行かれ、それからは連絡が途絶えてしまいました。

 私たちと八年ほど一緒に過ごした恩師は、男のお子さんが二人おいででした。日本式の手狭な家を借りて生活をされていました。その借家全体が、弟さんと二人の遊び部屋ほどだったそうで、地方の裕福な商家の出でした。その借家を改装して、部屋を増やし、そこでお子さんのホームスクールをしていました。

 子育てをしながら、お仕事をされ、その働きを私に預けて神奈川の街に移って行かれました。その後、京都、札幌、再び京都と、多くの街で働かれて、良いお働きを残された方でした。よく腰が痛かったりしておいででしたが、厳しい病を得て、東京の入院先で召されました。六十代でした。

 この方から、人生の基本的なこと、物の見方、考え方、捉え方などを学ばせていただいたのです。この方を訪ねて来られたみなさんからも、短期間でしたが、多くのことを学んだのです。まだ教える方も、学ぶ自分も若かったのです。彼らは熱く教えてくれました。《誰に学ぶか》、《何を読むか》、《どこから情報を得るか》を、この方たちから学んだのです。

 あの年月があって今の自分があるのだと思い返しております。『鉄は熱いうちに打て!』、柔軟な時期に受けた影響というのは、一生ものになるのでしょうか。今年小学校に入学する、私たちの小朋友のお嬢さんは、来るたびに、知的にも創作面でも成長が見える、『栴檀は双葉よりも芳し!』、将来が楽しみです。彼女にとっては、私たちは《大朋友》なのでしょう、『百合さん、準さん!』と彼女に呼ばれて、遊び相手に感じてている様です。

 中国での13年は、孫たちと接する機会が少なかったのですが、このお嬢さんは、それを補ってくれて余りあるほどなのです。ちょっと厳しくしたりすると、彼女は大粒の涙をポロリと落とすのです。歳を重ねての幼い子からの刺激は、人生の仕上げ作業の一つなのでしょうか。華南の街で出会ったみなさんからも、実に多くのことを学ばせていただいたことも忘れていません。

 数多くの多く出会いがあったのですが、言語も肌の色も国籍も民族も文化も、人はそれを超えた存在だと思うのです。同じ様に笑い、泣き、叫び、黙ります。同じ感情を表して、同じ真理に憧れて、それぞれに意識を働かせて生きます。みなさん個性的に自分の生を生きているのです。その素敵な出会いに感謝して。

 
(「栴檀」の花です)

異文化

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 アメリカでは、子どもたちが仮装して、近所や知人の家を訪ねて、その家で焼いたクッキーなどをもらって過ごす「ハローイン」という祭の日が、10月31日にあります。愛知県から留学していた、16歳の服部剛丈(はっとりよしたけ)さんが、その祭が間近かな1992年10月17日に、銃で打たれて死亡するという、悲しい事件が起こりました。ルイジアナ州バトンルージュ市で起こった射殺事件でした。

 服部さんは16歳で、交換留学で、ホストファミリーの家にお世話になっていて、その家の男の子と一緒に、招いてくれた方の家を訪ねたのです。ところが、その方の家を間違えてしまいます。その家の戸をノックしてしまい、不審に思ったその家の主人の背後からの “ freeze “ の呼び掛けが、スラングで『動くな!』が、留学間もない服部さんには理解できず、動いてしまって、射殺されてしまったというのが経緯です。

 その街では、年間に50件もの殺人事件が起こっていて、マスコミが大きく取り上げることのない事件として片付けられようとしましたが、日本での騒ぎが大きくて、けっきょく裁判で事実を明らかにすることになります。服部さんのご両親は、息子を撃ち殺したその人を、恨むことはなかったそうで、銃社会の有り様に一石を投じて、息子の死を無意味に終わらせたくなかったと伝えています。

 当時、私たちの長男はオレゴン州の街に、次女は、ハワイ州の街に留学中でした。それは彼らにも、送り出している私たちにも、衝撃的な事件でした。ある時、息子から、めずらしく電話がありました。教会の運営している寮の近くで、発砲事件があって、その銃声に驚いた息子が、祈りの要請をしてきたことがあったのです。現実のアメリカ社会に驚いたからなのでしょう。

 ですから、その服部さんの事件は、私たちにとっては〈人ごと〉ではなかったのです。かく記す私も、映画やテレビで聞く銃声しか知りませんから、実際には聞いたことがないわけです。日本の様に、警察による治安が保たれている社会とは違って、建国以来、我が身が自分でしか守れないアメリカ社会では、銃は必要悪のままでよいでしょうか。

 合法でも非合法でも銃を用いて、物事を解決しようとしたり、暴走を抑止したりすることは、理想的な方法ではありません。その服部さんの訪問時に、〈ハローイン〉の仮装をしていたのも、不審者に思われた理由であったと考えられます。また、事件の背景には、犯罪が頻発する社会の不安と恐れも、市民生活の中に潜んでいたこともある様です。
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 〈ケルト人(中央アジアに起源を持ちヨーロッパに定住した人種)の祭りを受け継ぐ、このアメリカ文化の中に、魔女やおばけの服装をゆるす習俗があることに、おかしさを私は感じていたのです。歴史の短いアメリカ社会に入り込んだ、この奇祭はキミが悪かったわけです。まあ賛否はともかく、外国に留学する子どもは、その留学先の文化に留意しなければならないのです。

 私たちの子どもたちは、すでに四十代で、素敵な海外生活を送ることができましたが、異文化が持つ危険性はありました。オレゴンは、白人の割合が高くて、アジア系やアフリカ系は、白人優先社会の中では、酷い差別はなかったそうですが、そこそこの齟齬(そご)が生じた体験している様です。彼らは、教会関係の人たちの間にいましたから特別だったかも知れません。アメリカを愛した服部さんは、性格が明るくて、学校でもホストファミリーの中でも人気者だったそうです。

 この私たちの住む街にも、ネパールや東南アジアからの留学生が多くおいでです。働きながら学んでいて、
なかなか日本社会の中に溶け込めていない感がしています。欧米系の人たちには優しくて親切なのですが、アジアやアフリカ系のみなさんには、同じ様ではない日本の地方都市の弱さが、とくにコロナ禍のもとで気になります。

(ルイジアナ州の州の花の「マグノリア」、ネパールの国花の「ラリグラス」です)

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二期目

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 冬場は、山がせめぎ合った小川の畔の旅籠の離れは、寒かったのでしょう。きっと北海道にも匹敵する様な寒さだったに違いありませんが、そこで母は、弟と私を産んでくれたのです。そんな生まれをしたのですが、子どもの頃に、〈寒さ〉の記憶は全くありません。そんな自分は、暑さにも寒さにも強いと自負していましたが、ただ今年の北関東の冬の寒さは、身に応えるほどで、初めてのことの様な〈寒さ体験〉をしています。

 住む家の日中の窓辺が、暖かなので、陽が落ちた後の寒さが一入なのかも知れません。この一週間の寒さは、全国的に異常なほどだったそうで、そんなニュースを聞いています。先週、華南の友人から連絡があって、『今年は異常なほど寒いんです!』と言ってきて、結氷も降雪もない亜熱帯も、めずらしく寒波の影響を受けているそうです。

 窓辺にて 胡蝶蘭(はな)咲きおりし 春まぢか

 今朝、家内の誕生日に贈られた胡蝶蘭が、蕾を開いたのです。長く咲き続けて、一つずつ花を落とした後も、水やりを続けたからでしょうか、小ぶりですが、キリッとジンパクの花が咲いたのです。これまで、何度も何度も胡蝶蘭いただいて楽しんできましたが、二期目の花が咲くのは初めてのことで、大喜びです。

 

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北へ

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 日本統治下の旧満州の玄関と言われる「旅順」に、旧制の高等学校がありました。「旅順高等学校」がその校名でした。この学校を素行不良で退学された、18歳の宇田博の作詞作曲で、その高等学校の寮歌となった「北帰行」があります。この歌の歌詞を変えて、売り出されたレコードもありました。

1 窓は夜露に濡れて
都すでに遠のく
北へ帰る旅人一人
涙流れてやまず

2 建大 一高 旅高
追われ闇を旅ゆく
汲めど酔わぬ恨みの苦杯
嗟嘆(さたん)干すに由なし

3 富も名誉も恋も
遠きあくがれの日ぞ
淡きのぞみ はかなき心
恩愛我を去りぬ

4 我が身容(い)るるに狭き
国を去らむとすれば
せめて名残りの花の小枝(さえだ)
尽きぬ未練の色か

5 今は黙して行かむ
何をまた語るべき
さらば祖国 わがふるさとよ
明日は異郷の旅路
明日は異郷の旅

 人が「北」を憧れるには、たくさんの理由が挙げられる様です。より厳しい試練に立ち向かおうとする意思、望郷の方角、負けることを「敗南」と言わないで「敗北」と言いますが、この「敗北」と果敢に挑戦して行く心意気が、人を北に向かわせるのでしょうか。傷ついた男や女が旅で向かう先は、南ではなく北にある街や港や山が多そうです。あの渡鳥の雁も、北を目指して飛んでいきます。

 年を重ねたら、暖かな南に《終の住処》を求めたらよさそうですが、私の想いは、「北」に向かってしまいます。人生の敗北者だとは思っていませんが、流氷や海鳴りのする北海の海や険しい山や荒波の削る島に行って見たくて仕方がないのです。この歌の作詞者の宇田博が、「北に帰る旅人一人」の自分が帰ろうとしたのは、満州国の北の奉天(現在の瀋陽です)でした。そこには両親が住んでいたからです。

 やはり、北には「浪漫」があるのではないでしょうか。浪漫とは、夢や将来や永遠に連なる希望が溢れていそうです。あの白雪に覆われ、白氷に閉ざされた大地や島嶼部に、驚くべき可能性が秘められているに違いないからです。旅順と同じ満洲国の北に「満州里」と言う街があり、その街を歌った「満州里小唄」の中に、雪を割って咲き出す「アゴニカ」と言う、真紅の花が歌われています。それを見付けに、北上の旅をしてみたいのです。

 またオホーツク人の足跡を追って、稚内から樺太、シベリア、根室から北方四島、千島列島、カムチャッカからアリューシャン列島、アラスカにまで、北進したい思いでおります。《人生八十年》の今、人の作り上げた傲慢な文明に疲れた現代人が、創造の世界の神秘さを求めるのは、自然の理に敵ったことに違いありません。逃避行ではなく、被造物の中に創造主のみ手を求めたいからです。

 でも、こんな私の《浪漫志向》が、人を避けている様にみられるのも辛いのです。私は、人が好きです。虚構の世界の小説よりも、生身の現実の人への興味の方が強く、これまで実に興味深い方たちと出会ってきたからです。父や母から始まり、兄たちや弟、妻や子たちや孫たち、恩師たちや友人たちがいるからです。家内と私を「同路人」や「同工」や「師母」や「老師」と呼んで、交わりの時を共にした中国華南のみなさんは、多くのことを教えてくださった《大陸の友》なののです。

 先日も、FaceTimeで、雲南省から来られて、私たちの街で学んでおられた方が、家内の闘病の様子を聞きたくて連絡してこられました。二年前の病身での帰国の時に、空港に見送りにきてくれた方です。肥って元気にしている家内の姿を見て喜んでくださったのです。その他にも、彼と鍋をともにしていた方たちとも、久しぶりに言葉を交わすことができました。大陸の南の地にも、素敵なみなさんがおいでです。また、『いつ帰って来ますか?』と誘ってくれたのです。

(神秘的なオーロラです)

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分からない

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 初めて「マニフェスト」という言葉を聞いた時、『ナニフェスト、ナニ言ってんのだろう?』と、正直にそう思ったのです。選挙の時期に聞いた言葉でした。ですから、きっと政党や候補者が、自分が当選したら、目指そうとしている「政策項目」なんだろうと推察したのですが、ちょっと意味が似ていたのです。辞書を引くと、「選挙公約」なのだと言うのです。

 どうして「選挙公約」と言わないのかと思ったのです。この年寄りには、魔術師に謎をかけられてしまった様なのです。このコロナ禍で、「コロナ」は、皆既日蝕で太陽の周りにある炎の様な状態を言っていることは学んだことがありますし、私が乗っていた自動車名でもありました。ところがウイルスの名にも使うのだと思って意外でした。また「パンデミック」を聞いた時、どこかの国の「パン」なのかとは思いませんでしたが、「伝染病拡散」を使う方が、年寄りには《厳粛さ》が伝わってきていいと思うのです。

 学級の人気者かと思った〈クラスター〉、拳闘選手が倒れたのかと思った〈ロックダウン〉など、〈新カタカナ語〉が氾濫して、この萎縮してきた脳味噌では理解できないで、迷子状態です。毎朝毎夕、ラジオニュースを聞くのですが、その〈カタカナ語〉が多くなって、頭の中で漢字変換できずに混沌としてしまっています。

 この傾向ってなんなのでしょうか。英語やフランス語の優等性を認めて、日本語の古さを卑下している様に思えるのは、きっと私だけではなさそうです。私に多くのことを教えてくださったアメリカ人の恩師と話をした時に、私が、得意満面で「ボランティア」をしたいとか、しようとしているとかを、彼に言ったのです。まったく通じませんでした。すると、『準、"volunteer[vὰləntíər] ヴァランティィア “ だよ!」と直されてしまいました。でも日本人に話す時に、英語発音をしても気取ってると思われて、英語発音を使うのを躊躇してしまうのです。それが悲しい日本人の劣等感でしょうか。

 明治のご維新後、欧米に思想の用語が、中村正直や箕作麟祥や福沢諭吉などによって日本語に翻訳されました。それを「明治翻訳語」と呼んでいます。たとえば、

individual̶ 個人
honey-moon̶ 新婚旅行
philosophy̶ 哲学
science̶ 科学
she̶ 彼女
time̶ 時間
adventure̶ 冒険
love̶ 恋愛
art 芸術
telegram̶ 電報
century̶ 世紀
common sence̶ 常識
home̶ 家庭
hygiene̶ 衛生
impression̶ 印象
trust 信用
truth 真理
democracy 民主主義
liberty 自由
politics 政治
policy 政策
right 権利 
tradition 伝統
logic 論理 etc.
(国立国語研究所名誉所員・ 明海大学外国語学部客員教授 飛田良文、他)

 政治や思想や教育や医学などの分野の専門用語は日本語に翻訳され、それが、近代中国でも、新語として用いられていきます。ところが、その翻訳語を、カタカナ語で復元してしまい、意味を曖昧にしてしまった場合が多いのです。そして現代の様に、公共放送でも新聞でも、学術論文でさえも、どっかの県では “ Alps “ を市名にしているケースもあり、カタカナ外国語が氾濫してしまいました。

 受け継いできた美しい日本語を残したいと願っています。命や生活に関する、重要な事態の説明や、緊急事態の知らせの場合は、使う方のいい気分を引っ込めて、意味が通じる言語、原語を使って欲しいのです。高校時代の英和辞書を引くにも、カタカナ語を英語に直すのは至難です。それから辞書を引く頃には、もう感染してしまいそうです。

 さらにもう一言、「カステラ」は、私の内では、和製の「かすてら」であって、すでに “ Castella "ではなくなっています。母が、よく届けてくれた「三時のおやつ」ですから、例外として表記は変えないでいただきたいのです。

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愛と爱

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 同じ漢字文化の中国で、日本語や日本文化などに関心のある若者に、日本語を教えることができ、最高の機会が与えられたことに大いに感謝しています。都市部からの入学者は一部で、内陸の村や、遠い省の小さな街からの入学者も、少数民族とされている背景のある学生も、学ぼうとしている若者の背景は多種多様でした。

 彼らに、発音を教えるのです。まさに「アイウエオ」からで、呼び掛けると、それに唱和して応えてくると言った形式で、教えたのです。もちろん、日本語専攻の学生ですから、まるで日本人の若者の様に話せ、書き表せる学生から、初歩を教えなければならない学生まで、理解度に差は大きかったのです。

 「イエアオウ」、「アイアイウエウエエオエオ」など順序を変えてついてこさせるのです。小学一年生の様な授業をしたのですが、どの年度の学年からも好反応で、大声で返してくるのです。近くの教室には迷惑だったのでしょう。こちらの一生懸命さが伝わるのでしょうか、けっこう人気がありました。上級生には、「日本の政治経済社会」、「作文」なども教えました。他の学部の学生も入り込んできていたこともあったのです。

 日本語教室の定番の「北国の春」とか「四季の唄」を歌って、授業に変化を持たせました。持参したハーモニカを吹くと、喝采がきました。そんな年月を8年ほど過ごしたのです。教えの根底に私が持っていたのは、「謝罪」の思いでした。もちろん、学校が、けっこう高額の俸給を、他の外籍教師に内緒で頂いて、生活のためには大変助かったのですが、無給でもしたいほどの思いがあったのです。

 東京の女子大で、教師になる機会が二度ほどありましたが、それをお断りして、アメリカ人起業家の助手をし続けていました。その街で34年過ごして、中国に行きましたら、天津で外国語学校で中国語を学んで一年後、天津から華南の街に導かれて、出会った方の紹介で、すぐにその日本語教師の機会が与えられたのです。

 最近、送信してくださるブログに、現代使っている「中国漢字」についての記事がありました。中国漢字は、1950年代から順次、古来からの繁体字を簡略化した「簡体字」が使われてきています。その理由は、『人民が解放前の有害な文書を読めなくす るためだ!』というのが、本意なのだそうです。例えば、「愛」を簡体字では、「心」を除いた「爱」と書いています。
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 その理由を、『人民の 心は、党が預かっています。』と言われたのだそうです。私たちが12年過ごした街で出会った中国のみなさんには、「心」の籠もった「愛」が溢れていました。学生さんたちはもとより、倶楽部でお交わりをしたみなさんは、私たち老夫婦に、大変親切でした。「邻居linji 」という隣人のみなさんも、手作り豆腐や季節の食べ物や野菜を、よく届けてくれたのです。

 家内が二度、街の市立医院と省立医院に入院した時には、倶楽部のご婦人たちが、二十四時間を交代で、物心両面のお世話してくれたのです。お仕事を持っている方も夜中に付き添ってくれたりしました。先週も、e-mailがあって、私たちの帰国後の生活について心配してくださっている方がいると知らせてくれました。帰国して2年も経つのに、そんな思いを向けてくださるのです。

 親兄弟にも勝る犠牲を払ってくれ、今も変わらずにいてくださるので、『十分に満たされているんです!』と言って、お断りするのですが、叱られてしまいます。「義理」などない社会の人なので、本心からの「愛」を示してくれます。お返しをすると、また叱られるのです。政府は預かったと言うのですが、彼らは預けた覚えがないのです。しっかり「心」を持ち続けて、「愛」を行っておいでです。

(象形文字の「心」です)

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温め鳥

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 鷹匠の伝承に、「温め鳥(ぬくめどり)」の話があるそうです。大空を翔ける鷹も、避けがたい弱点が足と嘴にあるそうです。寒さにその足を温めるために、小鳥を捕まえて、足元に置くのです。陽が昇って朝になると、その一夜の暖に感謝するのでしょうか、小鳥を空に放つのです。飛んで行った小鳥を追うことも、餌食として襲うこともしない、そんな伝承です。

 私の父は、子どもの弟や私を、よく抱きすくめて離さなかったのです。それは確かに愛情表現なのですが、寒い夜は、湯たんぽがわりにしたのかも知れません。それは父にも、子どもの自分たちにも温もりであったのです。” touching “ という作用が人には必要だと、公開のカウンセリング講座を受講した時に教わりました。《父の温もり》は子を精神的に安定させるものなのでしょう。

 この「温め鳥」の話を聞いて、老いたダビデが、小鳥ではなく、乙女を抱いて寝る様に、家来に進言された話を思い出したのです。重ね着をしても身体の温まらないダビデのもとに、アビシャグという娘が連れて来られて、王の世話をし始めます。鷲の様に力のみなぎっていた時には、部下の妻を横取りしたほどのダビデでしたが、この時には、「王は彼女を知ることがなかった。」とある様に、触れようとしなかったのです。自らの罪を悔い、罪の結果を刈り取った後は、二度と過ちをダビデは犯しませんでした。

 ある集まりに参加した時に、布団が薄かったのか、体調が優れなかったこともあり、しかも寒がりの私は、震えていました。それで家内に温めて欲しくて、そうしてくれる様に求めたのです。家内は、子を抱く様に私を抱いてくれ、それで体に温もりが戻ってきて、眠りにつくことができたのです。私は乙女からではなく、《契約の妻》からその暖を受けることができました。そんな「温もり」を求めたことは一度きりでした。

 人には「温もり」が、どうしても必要です。肉体的な接触だけではなく、心理的な接触を満たすためにもです。ところがスマホなしでは生きられない現代社会では、会話さえも億劫になってしまい、スマホ上で言葉に換えた〈文字〉や〈記号〉によって、自分の意思や思いを伝え、交流をする時代になってきているそうです。人と人との距離が、大きな問題をはらんで、かけ離れている時代の様です。仮想の相手や、声も温もりものない距離の交流ですませているのです。

 親元を離れ、三食の食事を食堂で摂り、六人部屋で生活をする中国の学生を、長く教えました。その学年の最後の授業が終わって、一人の女子学生が教壇の私の所に来て、『先生、私をハグしてください!』と言ったのです。まだ教子たちがいる中でした。一瞬躊躇したのですが、この学生を、胸を合わせない様にして、肩でハグしたのです。この学生の心理を考えて、言葉の応答ではなく、身体の接触を必要とした《孤独さ》と《敬意》も感じたからでした。彼女は、衒(てら)うこともなく『ありがとうございました!』と言って教室を出て行きました。

 断ることもできましたが、邪心のない願いを表現し、同級生の中で、そうしたことを求めたこの女子学生の勇気と決心を認めて、私が、そうしたことはよかったと思うのです。すでに彼女は結婚し、子を抱く年齢になっていることでしょう。学生との距離の中でなされた教師の《ハグ》にも、私への彼女の《ハグ》にも、メッセージがあったのでしょう。

(作画は小原古邨、茅ヶ崎市美術館の所収です)

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古代への浪漫

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 南洋の島でしたら、寒さもなく、食料も簡単に入手できたのに、どうして冬場の厳しい天候の中、寒い地に人は住み続けたのでしょうか。それが謎めいて興味を湧き立たせてくれるのです。津波で福島の原発が被害を被って、原子炉が溶解して、大変な事態が生じた時に、『東京も危ない!』と言って、首都圏から沖縄に移住してしまった人たちがいました。人は《安全さ》を求めて、危険を避けて、南下する傾向があるのでしょうか。

 寒さ、冷害、凶作を避けて、農作の容易な地を求めても不思議ではないのに、名寄、根室、稚内、そして樺太やアリューシャン列島に住み着いたのでしょうか。食物の自給は最も定住の条件でした。この《オホーツク文化》は、大陸の黒龍江(アムール川)の河流域にも、イルクーツクにも連なる文化や、カムチャッカ半島の《コリャーク文化》にも関連していたのだろうと思われています。さらにアラスカのエスキモーの文化圏にも連なりそうです。

 この人たちは、農耕民族でなく、狩猟民であったことを考えると、極北の地を生活圏に定めた理由に納得します。海洋の漁撈、陸での狩猟で生活が成り立っていて、やがて農耕が始まり、より良い植生を求めて、温暖な地に移って行って、消滅したのでしょうか。または新しい鉄器を使う《擦文(さつぶん)文化》が起こって、オホーツク文化が終わったか、変化したか、吸収されていったのかも知れません。
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 オホーツク文化圏の人々の生活基盤は、海と山野での漁労と狩猟であって、そんな生活基盤でしたが、文化的なものや宗教的なものは、ヨーロッパ文明と比較すると、随分と原始的だったことが気になります。北米のエスキモーの生活も、アジア系の人種ですから、どこかで分離したり集合しているのかも知れません。そうなると、思いが広がって行き、好奇心が溢れてしまうのです。

 創世記の記事の中に、「一方、ツィラはトバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる道具を造る者であった。(4章22節)」に、鉄工、鉄鍛冶を生業にしていたトバル・カインが出てきます。今から6000年近く前だと思われます。それなのにオホーツク文化には、鉄製品の使用がみられません。日本史に見られるのは、大化の改新の頃に鉄鍛治がいたそうですが、紀元600年の半ば頃のことになります。

 遥か昔、「絹の道」がヨーロッパと東アジアを結んでいたのに、その文化的影響は、ずいぶん遅かったことになります。鉄の武器で、部落間の闘争が激化し、漁や猟にも鉄器が使われ、捕獲量も増えて、生活様式に変化がやってきたに違いありません。そんな雪原や結氷の中を行く原始的な古代人の生活の中に、浪漫が感じられて、興味が尽きません。
 
 スーパーマーケットで食料を賄える、この時代に生きてきて、労働が分業されて、精神労働も生まれてきている社会は、住み良いのですが、その反面、考えもしなかった世界大のストレスも生じて、古代よりも住み難いかも知れません。愛読書にある、「ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。(マタイ6章34節)」、今日一日の「心配」や「苦労」で、今日を生きる毎日がよろしいのでしょう。

(流氷とモヨロ貝塚の出土品とアリューシャンの白雪の山です)

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珈琲党

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 華南の10月から12月頃に咲く花に、「茶の花」がありました。<下向き>に遠慮がちに咲いているのです。その季節には、宇治や静岡は、そんな花を咲かせてくれるのでしょう。在華中に、子どもたちが、親の様子を見にやって来てくれました。次女の家族が訪ねてくれた時に、世界遺産の「武夷山wuyishan」に、一緒に行きましたが、そこは、「大红袍dahongpao」と呼ばれお茶の産地なのです。特に、岩場の間に僅かばかり生えた「岩茶yancha」が有名で、宮廷への御用達(ごようたし)などに好まれた高級茶で有名です。

 人民軍の将軍をされた方が、退役されていて、この方から、この「岩茶」の小さな缶入れ(100g)をいただいたことがありました。何と、時価が《一万元/16万円》もするものでした。もうその方は亡くなられたのですが、そんな高級品をもらったことのない私は、そのままに大家さんの家の茶箪笥に中にしまったままにして帰国してしまいました。

 この武夷山の付近は、一面が茶畑で、ちょうど静岡県下の清水や掛川や森の街にある、茶畑によく似ているのです。私たちが連れて行っていただいた折には、茶の木に花は咲いていませんでしたから、少々時期が早かったのかも知れません。中国人も台湾人も日本人も、ちょっとホッとしたい時には、珈琲や紅茶ではなく、お茶を飲みたくなる様です。

 アールグレイの紅茶、ウガンダ産の有機栽培のコーヒー、掛川茶、その他にも何種類かの茶葉が、わが家にあるのですが、歳を重ねてきたせいか、コーヒー党の私も、一服する時には、「渋茶」が飲みたくなってしまう日があるのは、仕方のない、《日本人の性(さが)》なのでしょうか。そんなことを言いながら、今日も三時には、コーヒーを淹れて、家内には牛乳を加えて一緒に飲んだのです。
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 家内と一緒にコーヒーが飲めなくなってしまったのが、もうこの八、九ヶ月、『美味しいわ!』の言葉が戻ってきて、コーヒーを家内が喜んでいるのです。華南の家を訪ねてくれた京都の友人が贈ってくれる、ウガンダ産が気に入ってしまい、自分でも注文して取り寄せるほどに、拘ってしまっています。恩師は、” Blue Mountain “ の豆を挽いて飲んでいて、時々淹れてくれました。その” American “ を一緒に飲ませていただいたのが、香りと共に懐かしく蘇ってきます。

 ときどきやって来る6歳のお嬢さんを持っておいでのお母さんも、珈琲党で、豆を挽いて淹れますと、美味しそうに飲んでくれるのです。彼女のご両親が、訪ねてくださった時にも、実に美味しそうに、コーヒーを楽しんでくれて、ごちらが嬉しくなってしまいました。私たちと同世代、同じ時代の空気を吸って生きてこられた親さを感じるのです。まだ元気だった家内の兄を、サンホッケに訪ねた時の “ Brazilian coffee"の濃くて甘い味も香りも懐かしいものです。

 エチオピア原産の「琥珀色」の飲み物は、今や世界中で飲まれていて、やはり不思議な味や香りがして美味しいのです。十人くらいの仲間と、目黒や渋谷や新宿の駅の近くの喫茶店で過ごした時間は、決して無駄ではなかったなと思い返しています。取り留めもない話をして二時間も三時間も過ごしたのです。携帯電話のない時代のことです。今日日の学生のみなさんは、肩を触れ合いながらのひと時は許されないのでしょう。

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地球人

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 昨年、コロナ感染の発症者が栃木県内で出た3月27日に、県の発表の内容に、次の様にありました。感染者の居住地に、「安足」と言う地域が出ていたのです。一瞬どこか分かりませんでした。それは、昔から「足利・佐野両市」の総称を言っていて、市町村がどこかを特定しない表記だったのです。同じ様に、私たちの住む栃木市も、「県南」と言う表記だったのです。

 こう言った〈居住地隠し〉が、社会不安を生み出さないと言う思いとは逆に、『どこで感染したんだろうか?』、と言う心配のこもった思いを惹き起こしたわけです。誰にでも、どこにでも発症しておかしくない感染症なのですから、自分の街の、どの辺りに感染者がいると知る、必要があるのだと思うのです。

 それを秘匿するのがいいのか、住んでいる市町村を公にするのがいいのか、何と無く特別な日本的な動機が隠されている様に思えるのです。子どもの頃に住んでた街で、「赤痢」がはやりました。狭い街ですから、噂は噂を呼んで、どこの家かが分かりました。だって保健所が、やってきて、普段しない、白い消毒の粉を、その家の周り中に散布するのですから、隠せおおせななかったのです。

 寒さが厳しくなって、年末から『火の用心!』を、スピーカーで呼び掛ける車が、夜になると巡回しています。昔あった〈自警団〉の復活です。自警や自粛の行き過ぎが、「自粛警察」になり、言葉や態度の棍棒を振りかざすわけです。市や国が「自粛」を要請すると、その様に過敏に反応してしまうわけです。

 それに尾鰭をつけた「噂」の広がりの方が問題なのではないでしょうか。はっきり公報で具体的な対策などを知らせるなら、憶測や偏見か守られるわけです。それと並行して、住民社会から、感染者がどこから出たかが分かって、『デテイケ!』とビラが配られ、壁新聞を貼られたりして、非難の矛先を向けられて、そこに住んでいられない様な、差別を被ることもあるから、それを避ける方策が必要です。誰でも罹りうるという意識を持つことでしょう。

 「自粛警察」のこわさもあります。気の弱い住民は、浮き上がり、村八分を受けて、多くの被害者を産んでしまう、まさにそんな日本的な制裁があります。『感染者を出したのは自業自得だ!』との地域からの制裁です。そう制裁する人は、自分は感染しないとでも思っているのでしょうか。

 何か、決断が遅くて、後手後手な感じが否めません。また厄介なのが「同調圧力」です。多数者の意見に合わせる様に、「同調」を迫って来る「圧力」があります。日本人の弱さです。個人の意見に聞く耳を持ちません。『日本人たれ!』と迫られて、日本人は同調して、批判能力を、かつて失っていたのです。

 今や地球大でものを考えなければならない、"global "な時代です。『日本だけが安全だ!』なんと言ってるご時世ではありません。ロンドンでクシャミをすれば、東京や横浜で〈コロナ〉の時代だからです。東京で悪寒を覚えたら栃木で〈風邪引き〉です。《地球人の一員》として考えていかねばなりません。

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