珈琲党

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 華南の10月から12月頃に咲く花に、「茶の花」がありました。<下向き>に遠慮がちに咲いているのです。その季節には、宇治や静岡は、そんな花を咲かせてくれるのでしょう。在華中に、子どもたちが、親の様子を見にやって来てくれました。次女の家族が訪ねてくれた時に、世界遺産の「武夷山wuyishan」に、一緒に行きましたが、そこは、「大红袍dahongpao」と呼ばれお茶の産地なのです。特に、岩場の間に僅かばかり生えた「岩茶yancha」が有名で、宮廷への御用達(ごようたし)などに好まれた高級茶で有名です。

 人民軍の将軍をされた方が、退役されていて、この方から、この「岩茶」の小さな缶入れ(100g)をいただいたことがありました。何と、時価が《一万元/16万円》もするものでした。もうその方は亡くなられたのですが、そんな高級品をもらったことのない私は、そのままに大家さんの家の茶箪笥に中にしまったままにして帰国してしまいました。

 この武夷山の付近は、一面が茶畑で、ちょうど静岡県下の清水や掛川や森の街にある、茶畑によく似ているのです。私たちが連れて行っていただいた折には、茶の木に花は咲いていませんでしたから、少々時期が早かったのかも知れません。中国人も台湾人も日本人も、ちょっとホッとしたい時には、珈琲や紅茶ではなく、お茶を飲みたくなる様です。

 アールグレイの紅茶、ウガンダ産の有機栽培のコーヒー、掛川茶、その他にも何種類かの茶葉が、わが家にあるのですが、歳を重ねてきたせいか、コーヒー党の私も、一服する時には、「渋茶」が飲みたくなってしまう日があるのは、仕方のない、《日本人の性(さが)》なのでしょうか。そんなことを言いながら、今日も三時には、コーヒーを淹れて、家内には牛乳を加えて一緒に飲んだのです。
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 家内と一緒にコーヒーが飲めなくなってしまったのが、もうこの八、九ヶ月、『美味しいわ!』の言葉が戻ってきて、コーヒーを家内が喜んでいるのです。華南の家を訪ねてくれた京都の友人が贈ってくれる、ウガンダ産が気に入ってしまい、自分でも注文して取り寄せるほどに、拘ってしまっています。恩師は、” Blue Mountain “ の豆を挽いて飲んでいて、時々淹れてくれました。その” American “ を一緒に飲ませていただいたのが、香りと共に懐かしく蘇ってきます。

 ときどきやって来る6歳のお嬢さんを持っておいでのお母さんも、珈琲党で、豆を挽いて淹れますと、美味しそうに飲んでくれるのです。彼女のご両親が、訪ねてくださった時にも、実に美味しそうに、コーヒーを楽しんでくれて、ごちらが嬉しくなってしまいました。私たちと同世代、同じ時代の空気を吸って生きてこられた親さを感じるのです。まだ元気だった家内の兄を、サンホッケに訪ねた時の “ Brazilian coffee"の濃くて甘い味も香りも懐かしいものです。

 エチオピア原産の「琥珀色」の飲み物は、今や世界中で飲まれていて、やはり不思議な味や香りがして美味しいのです。十人くらいの仲間と、目黒や渋谷や新宿の駅の近くの喫茶店で過ごした時間は、決して無駄ではなかったなと思い返しています。取り留めもない話をして二時間も三時間も過ごしたのです。携帯電話のない時代のことです。今日日の学生のみなさんは、肩を触れ合いながらのひと時は許されないのでしょう。

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地球人

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 昨年、コロナ感染の発症者が栃木県内で出た3月27日に、県の発表の内容に、次の様にありました。感染者の居住地に、「安足」と言う地域が出ていたのです。一瞬どこか分かりませんでした。それは、昔から「足利・佐野両市」の総称を言っていて、市町村がどこかを特定しない表記だったのです。同じ様に、私たちの住む栃木市も、「県南」と言う表記だったのです。

 こう言った〈居住地隠し〉が、社会不安を生み出さないと言う思いとは逆に、『どこで感染したんだろうか?』、と言う心配のこもった思いを惹き起こしたわけです。誰にでも、どこにでも発症しておかしくない感染症なのですから、自分の街の、どの辺りに感染者がいると知る、必要があるのだと思うのです。

 それを秘匿するのがいいのか、住んでいる市町村を公にするのがいいのか、何と無く特別な日本的な動機が隠されている様に思えるのです。子どもの頃に住んでた街で、「赤痢」がはやりました。狭い街ですから、噂は噂を呼んで、どこの家かが分かりました。だって保健所が、やってきて、普段しない、白い消毒の粉を、その家の周り中に散布するのですから、隠せおおせななかったのです。

 寒さが厳しくなって、年末から『火の用心!』を、スピーカーで呼び掛ける車が、夜になると巡回しています。昔あった〈自警団〉の復活です。自警や自粛の行き過ぎが、「自粛警察」になり、言葉や態度の棍棒を振りかざすわけです。市や国が「自粛」を要請すると、その様に過敏に反応してしまうわけです。

 それに尾鰭をつけた「噂」の広がりの方が問題なのではないでしょうか。はっきり公報で具体的な対策などを知らせるなら、憶測や偏見か守られるわけです。それと並行して、住民社会から、感染者がどこから出たかが分かって、『デテイケ!』とビラが配られ、壁新聞を貼られたりして、非難の矛先を向けられて、そこに住んでいられない様な、差別を被ることもあるから、それを避ける方策が必要です。誰でも罹りうるという意識を持つことでしょう。

 「自粛警察」のこわさもあります。気の弱い住民は、浮き上がり、村八分を受けて、多くの被害者を産んでしまう、まさにそんな日本的な制裁があります。『感染者を出したのは自業自得だ!』との地域からの制裁です。そう制裁する人は、自分は感染しないとでも思っているのでしょうか。

 何か、決断が遅くて、後手後手な感じが否めません。また厄介なのが「同調圧力」です。多数者の意見に合わせる様に、「同調」を迫って来る「圧力」があります。日本人の弱さです。個人の意見に聞く耳を持ちません。『日本人たれ!』と迫られて、日本人は同調して、批判能力を、かつて失っていたのです。

 今や地球大でものを考えなければならない、"global "な時代です。『日本だけが安全だ!』なんと言ってるご時世ではありません。ロンドンでクシャミをすれば、東京や横浜で〈コロナ〉の時代だからです。東京で悪寒を覚えたら栃木で〈風邪引き〉です。《地球人の一員》として考えていかねばなりません。

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魅せられて

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 もう「早春」なのですが、「寒の入り」を迎え、厳冬の寒さの日本列島です。私たちの住まいは、関東平野の北の淵で、東京方面の右手に富士の姿がかすかに見え、左手に筑波の山並み、後方に男体山や日光連山や那須が控え、右手には、大平山や三毳山が手の届く距離にあります。小学唱歌に「冬景色」がありました。

1 さ霧(ぎり)消ゆる湊江(みなとえ)の
舟に白し 朝の霜
ただ水鳥の声はして
いまだ覚めず 岸の家

2 烏啼(な)きて木に高く
人は畑(はた)に麦を踏む
げに小春日ののどけしや
かえり咲きの花も見ゆ

3 嵐吹きて雲は落ち
時雨(しぐれ)降りて日は暮れぬ
若(も)し燈火(ともしび)の漏れ来ずば
それと分かじ 野辺の
 
 〈終の住処(ついにすみか)〉は、この歌の様な漁村でも農村でもなく、舟運で商都として栄えた街で、ここの郊外は農村です。日光ゆば、壬生干瓢、苺、林檎、梨、その他の農産物の産地で、稲刈りの終わった田圃には、契約のビール麦が植えられている、そんな田園風景が広がっています。

 最近では、畑の隅で「焚き火」でしょうか、煙が上がる光景をよく目にします。子どもたちを連れて、山の中で、枯れ木を集めて、火をおこし、その火が炭なった中に、持って行ったサツマイモを、濡れ新聞にくるんで入れて、「焼き芋」を何度かしました。「火の用心」を細心の注意でしながら、焼き芋を食べ終わって、たっぷりと水をかけて帰りました。焼き芋は、あれが最高に美味しかったのです。

 日本中に万葉の里があるのでしょう、ここにも、万葉集に読まれた里があります。

 しもつけぬ みかものやまの こならのす まくはしころは たかけかもたむ(「万葉集」巻14東歌)

 万葉の時代に詠まれた歌です。歌の意味は、『しもつけの三毳(みかも)山の小楢(小は添字または若木)のように可愛らしく美しい娘は、一体誰の笥(食物の器)を持つのだろう。すなわち誰の妻になるのだろうか?』という素朴な恋心を詠んだのだそうです。三毳山の辺りは楢の木の植生が見られ、宅配の牛肉がありますので、辺りで牧畜が行われている様です。

 「三毳山(みかもやま)」や、付近の山には、三月下旬から四月にかけて、「カタクリ」が咲いています。市内の北の方の星野地区に、遺跡があって、去年の春先に見学に行ったことがありました。そこは山里で、古代人は、それほど奥深い地に住居を造って住んでいたわけです。木の実や川魚が豊富で、自然の堡塁で住むに相応しかったのでしょう。そこにも「カタクリ」の群落がありますから、美しい野草に、古代栃木人は魅せられていたのかも知れません。

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人徳

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 使ったことも、言ったこともない「恫喝(どうかつ)」と言う行為や言葉があります。強迫より強烈なもので、威嚇のことでしょうか。反対語を「人徳」にしようと思うのです。

 この間、何か政治の世界の偉い人の派閥の誰かが、「恫喝」したと聞いて、驚き飛び上がってしまいました。昨今では、映画やお芝居でしか聞かなくなっていたので、なおのことでした。今時の政治家って、こわいなって思ったのです。

 百獣の王ライオンが、アメリカ映画のはじまりに、『ウワーオウ!』と叫び声をあげたのを聞いて、後ずさりした覚えがありますが、国会や政治の世界においでの方がやっちゃいけないと思ったのです。

 それで「大辞林」を引いてみたら、『おどしておびえさせること。「―を加える」「―して金品をまきあげる」』と出ていました。それが平屋に降りて来て欲しい方の派閥の幹部だったそうで、マスコミは特定を避けています。

 そんな恫喝力が働く世界なのですね。よその国でも、そんな感じなのでしょうか。昔、どこかの国のえらい指導者から、金の延べ棒をもらって帰って来て、選挙区の家に隠し持っていたのを、国税庁の査察で発見されてしまったと言うニュースを聞いたことがありました。

 その方も、『よーいドン!』の「ドン」と呼ばれていて、政界の寝業師(裏工作者と言えるでしょうか)と言われていたそうです。そう言った人物がいないと、政治が動かないのだとしたら、何かが間違っていて、変えられない仕組みになってしまっているのかも知れません。
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 北九州の若松港の沖仲仕の元締めを父に持っていた火野葦平が、お父さんを主人公に「花と龍」と言う小説を書いて、一世を風靡したそうです。明治三十年代、大陸からの鉱石や石炭の水揚げで、若松港は大賑わいでした。荒くれの沖仲仕を使うには、葦平のお父さんは、「脅し」で、背中に刺青を彫り込んでいたそうです。

 そんな監督に、睨まれると、二の句が告げないほどに、港湾で働く人たちは萎縮して、黙々と働いて仕事がはかどるのだそうです。それも「恫喝」、国会議員がするのも「恫喝」、全く同じ力の論理なのでしょうか。横浜や芝浦の港で、こわい手配師のおじさんに仕事をもらって、仕事をしていたことがありました。輸入品の船の荷の陸上げ作業でした。

 学生としては破格の日当がもらえたのです。一度も、その「恫喝」をされなかったのですが、一所懸命に働いたのです。あのおじさんたちも、人肌脱ぐと、脅せる代物を身に付けていたに違いありません。でも、国のお仕事をしているおじさんも、あの人たちと同じだと思うと、ガッカリなのです。

 人を黙らせるには、やはり「人徳」に違いありません。若い頃、長く住んだ街の「やっちゃ場(青果市場をそう呼んでいました)」で、朝のアルバイトをしていました。競りで落とした野菜や果物を、ネコとか大八車など呼ぶ手押し車に載せて、競り場から車に運ぶ仕事でした。その青果商の元締めが、父の友人でした。 

 戦後、戦地から帰って来た方たちに、リヤカーを買い与えて、蔬菜や果物を仕入れて挽き売りして、日銭を稼ぎ、やがて家屋を養い、店を出し、子を教育する様に助けていた方でした。あの世界の人ではなかったのですが、八百屋のおじさんたちは、慇懃に挨拶を、この方にしていたのです。『すごいな!』と思うほどでした。トラブルが多くあった世界で、いつも丸く収めていたのは、この方でした。「恫喝」などせずに、「人徳」だったのです。

 そんな「人徳」で、政治のトラブルが解決する様に、そんな思いの今年です。「恫喝」に尻尾を丸めて、言いなりにならない様な人が、指導者となったらいいのにと思う年初めです。

(やっちゃ場、港湾労務者の女性の沖仲仕です)

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ふたりっ切り

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 中国華南の街でのことです。決まって、日曜日に出掛けて、用を済ませた私は、家内と路線バスに乗って家に帰り、家の前のバス停の前にある、中国サイズの超大型ショッピングモールに寄ったのです。その二階にある、“ バーガー・キング"でハンバーガーを食べようとしてでした。家内を誘って何度行ったか知れません。街のマクドナルドでは食べれない、牛肉のハンバーグが食べれるのを知ったからです。そこで知り合いのアメリカ人の家族と二、三度ばったり会ったこともあります。" American taste “ だったからです。

 ここ栃木市にはないのですが、宇都宮のショッピングモールの中に、その“ バーガー・キング"があるのを見付けたのです。でもコロナ禍で、出掛けるのもままならず、華南の街にいた時に、食べたかった物だったので、今は懐かしさで、そんな思いにされています。この街の名物は、何たって「餃子」ですが、「宇都宮餃子」はもうすでに味わっております。

 次男が以前住んでいた家の最寄り駅前に、ハンバーガーショップがありました。アボガドがサンドされていて、値段も1000円以上で、小清水の舞台から飛び降りる様にして店に入って、注文して食べたのです。帰国間も無くでしたから、その美味しさは格別でした。『日本はうまい!』を感じて、頷いていたのです。

 こちらの大学を出て、日本の会社に就職していた華南の街の出身の方と、その駅で落ち合って、一緒に、このアボガドバーガーを食べたのです。もう彼は日本の味の通になっていて、美味しさに驚きませんでしたが、とても喜んでくれました。
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 訪問団の一員としてオレゴンに行った時にも、ポートランドの下街に、ホットサンドイッチの美味しい店を見付けて、ちょうど隣街にいた娘たちが来ていたので、誘って行ったのです。

 美味しさは、味だけではなく《懐かしさ》に違いありません。お嫁さんには気の毒ですが、《お袋の味》は、その最たるものです。故郷回帰や味覚回帰というのは《母親回帰》なのかも知れません。年の暮れから、この正月にかけて、これまでの二年は、できなかった「お節料理」を作れるようになり、もう少ししか来なくなった「賀状」の返事も書ける様に、家内が回復を見せているのです。
  
 みなさんの祈り、応援、激励によります。感謝で思いがいっぱいです。去年は子どもたちと孫たちが全員、「実家」に集まって、ワイワイできたのですが、ご時世柄、今年は《ふたりっ切り》の日本情緒満喫の正月です。
 
(孤高の光を放つ三日月と富士です)

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いのちの課題

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 「わたしを求めて生きよ。(アモス5章4節)」

 昨年来、私たちの世代では初めて、突如として世界を脅かす〈新型コロナウイルス症〉に見舞われました。そして右往左往し、意気沮喪した2020年を終え、今や2021年が始まり、人は否応なしに「死」の恐怖に直面されて、初めての様に、「いのち」の課題を考え始めているのではないでしょうか。

 百年を一区切りの様にして起こる伝染病が、この地上にたびたび繰り返され、科学万能時代の二十一世紀にもまた、人は翻弄されてしまっています。当然の様にして生きている、傲慢な人間に対して、『当然ではない!』と言う「いのち」に対して、意味や責任や答えを得なければならないとの迫りを感じてなりません。

 これこそ人類の歴史に繰り返されてきていますが、この時代の私たちにとっては、まさに「新しいこと」なのです。私たちは、この「新しいことをする」と仰る方からの迫りを、痛切に感じて、人の内に、「いのち」を考えようとする重大な課題が、突きつけられていることを認めたいのです。

 対細菌との闘いに世界が巻き込まれて、人は初めて、生死を真剣に考え始めているのかも知れません。「マスク」や「ソシアルディスタンス」や「ワクチン」以上の課題です。

 『明日ありと思う心のあだ桜 夜半に嵐の吹かぬものかは』

と親鸞が詠んだ様に、漫然と計画して生きていても、夜中に大嵐が吹いて、計画も命でさえも果ててしまうことだってある、と言った人の一生を、初めて熟考すべき時です。

 「いのち」は付与されたものであって、それを全うする様に、人は定められています。どう全うするかの責任を、私たちは例外なく負って、今を生きていると言えるのです。この「死」への恐れの中で、2021年を「いのちを考える年」としたいものです。哲学の課題ではなく、それよりもはるかに重要で根本的な課題だからです。どう「死」に向かって、残された日々を生きるかでもあります。それは老人への課題ではなく、若者も子どもも考えなければならない今年なのではないでしょうか。

 繰り返されることではなく、全く「新しいこと」が起こるのだと期待して生きたいのです。「新しさへの期待」、「いのち」の意味を知ることこそ、迎えた新年の課題であると言えます。

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ご馳走さま

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 「元旦昼食」に、信越本線の横川駅で、135年も売り続けている《名物駅弁》の「峠の釜めし」を戴きました。家内は、三度も『美味しい!』と言っていました。

 美味しいはずです、隣街の大型スーパーでの特売で、昨日は買えなかったそうですが、今朝、友人が2時間も並んで買ってきてくださったのです。

 大きな愛と犠牲に感謝していただいたのです。ご馳走さま!

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新しい事

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 「見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける。(イザヤ書43章19節)」

 「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(2コリント5章17)」

 2021年1月1日、新しい年の始まりです。いまだかつて見たことも、聞いたことも、触れたこともない「新しい事」が、今年、起ころうとしています。どんなことが起こっても、慌てたり、驚いたりしないと、心に決めました。「新しさ」へのあふれる期待で、今朝目覚めたのです。善き一年であります様に願っています。

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