訪れ

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 「あなたの父と母を喜ばせ、あなたを産んだ母を楽しませよ。 (箴言2325節)」

 人を収容する会場や競技場を「入れ物」と言うのだそうです。その準備万端が整った東京オリンピック大会ですが、この写真の様に、主会場の「オリンピック・メインスタジアム」が出来上がっています。1963年の大会の時の主会場跡地に、こんな素敵な会場ができたのですね。

 何年か前の帰国時に、下の息子を訪ねた時に、彼のアパートから歩いて、建設現場の周辺を見て回ったのですが、そこに、こんな素敵な競技場が出来上がっているのを知って驚きました。と言うことは、コロナ禍で、ずいぶんと息子を訪ねていないことが分かりました。

 息子や親族や友人を訪ねるための上京を見合わせていた私たちを、一昨日の「こどもの日」に、その息子が夫婦で、私たちを訪ねてくれたのです。何時もですと、浅草の老舗(しにせ)の「よもぎ餅」を家内に、「グレープフルーツ・ゼリー」や「お寿司」や、その他にも手土産を手に一杯にして持って来てくれるのですが、今回は、「特製マスク」と「お茶」で、体調管理中のオヤジのために〈甘味物〉をやめてでした。

 『昼過ぎに行くから!』と、その朝、ファミリー・チャットで連絡してきたのです。それを伝えたら、あんなに喜んで、嬉しそうな顔をした家内を久し振りに見たのです。お腹を痛めて産んだ子、少々手こずらした「仕舞いっ子」は、闘病中の母親の《妙薬》なのです。あの「破顔(はがん)」と言う表情が何かが分かるほどでした。

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 束の間(つかのま)の訪問は、時節柄の彼らの配慮でしたが、いっしょに夕食を摂りたかったのですが、そそくさと帰っていきました。前の日、思いっ切りな「密」を経験した私たちでしたが、家族の「密」だけは許されそうに思うのですが。『いつ会えるかどうか分からないので!』と言う気持ちと、〈避けねばならない密〉の間で、現代人は悩むのでしょうか。

 お父さまが亡くなられて、その葬儀で出掛けた時に会った嫁御(よめご)でしたが、いっしょに来てくれたことが、一入嬉しかったのです。苺と林檎と不知火(柑橘)に、生協で買った「五平餅(ごへいもち)」で出迎えたのですが、あまり食べてくれなかったのも「黙食」の影響でしょうか。

 それに昨日は、「母の日」の贈り物の《カーネーション》が、長男の嫁御から宅配便で届きました。赤い花が実に見事でした。来週は家内の通院日で、長男が来てくれます。小朋友とお母さんといっしょに過ごしたり、次男夫妻の訪問、嫁御の “ gift “ と立て続けの「喜びの訪れ」に、満悦の家内でした。

 

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距離

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〈人と犬の距離〉が近過ぎるのが気になった、圏内小旅行のお昼のレストランでの光景です。

 弟が犬好きで、父の家では、犬を飼っていたことが、二度ありました。最初の犬は、猟師が連れ歩いた甲斐犬でした。まさに猟犬でした。鶏をくわえて帰ってきて、彼が咥え歩いた道筋には、鶏の羽が散らばっていたのでした。終いには、豚の子を持ち帰ったこともあったほどです。その鶏も子豚も、母の食卓に上ることはありませんでした。

 二匹目の犬は、秋田犬でした。毛並みも立ち姿も格好よくて、子犬から成犬になるまで飼い続けました。近所の男の子にいじめられたせいで、引越し先の隣家の小さな女の子を噛んでしまったのです。弟は涙を飲んで処分に同意しました。それ以来、犬を飼うことはなくなり、世帯を持ってからも、彼は犬を飼うことがありません。

 そんな犬飼歴がある私は、みかも山麓の「道の駅」のレストランの外の席で、席に着いていた飼い主と犬の距離が、人の母親と人の赤ちゃんの距離だったのに驚いたのです。あやす母親、ミルクをやるお母さんの様に、腕に抱えながら、犬に餌をあげていたのを、二度見、三度見してしまったほどです。

 父の家で飼っていた犬は、庭の犬小屋に、鎖で繋いでいて、朝夕に餌やりの時間には、専用の餌入れに、母が与えて、犬は自分で食べていました。ところが昨日の犬は、飼い主が、手で口に運んで、犬の方は、うっとりと飼い主のご婦人を、母親の様に見上げながら食べていたわけです。

 それは犬と飼い主の距離ではなく、親子の距離だったのです。昨日、他に見かけた犬のほとんどが、〈犬着〉を着込んでいました。体に合った寸法で、彩りの美しいおしゃれ着なのです。そして得意そうにして、気取ってご主人さまに従っていたのです。「狗公方(いぬくぼう)」と言われた五代綱吉、あの時代のお狗様を思わせる一日でした。

 かえって人との距離が遠のき、愛玩の動物との距離が縮んでしまっている時代に、驚きを隠せないのです。『人なんか、そんなによくしてやったって、終いには裏切ったり、恩を忘れてしまうだけだ!』と、人を信じられない人が多くなって、裏切ることも、恩を忘れることもない動物と繋がっている時代なのでしょうか。

 隣の席にも、犬用カートに、二匹を乗せていた夫妻がいたのですが、奥さんの視線は、ご主人には向いておらず、自分の食べ物と飼い犬にだけ目を向けていました。ご主人は、構ってもらえず、寂しそうにしていたのです。ちょっと留守をしてる間に、日本は寂しい時代を迎えてしまった様です。楽しい一日でしたが、考えさせられた日でもありました。

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なんのその

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「人の心は病苦をも忍ぶ。しかし、ひしがれた心にだれが耐えるだろうか。(箴言18章14節)」

この「病苦」は、アラム語で「コロナ」だと、youtube の「懸けはシオン」の担当のアリさんが言っています。世界中が、コロナで苦しんでいて、なにか忍耐に限界を感じていて、自粛の思いが、プッツンと切れてしまいそうです。

でも「人の心はコロナを忍ぶ」ことができると言っています。問題なのは、「ひしがれた心」だと言っています。英欽定訳ですと“ a wounded spirit ” 、文語訳ですと「心の傷める時」、中国語訳ですと「心灵忧伤」とあります。

どう思い、どう感じ、どう対処ていくかが問題なのかも知れません。生まれて今日まで生きてきて、このコロナ騒動が、世界中の人々の心を揺るがす様な、こんあ事態は初めてのことです。件のワクチンが、〈遺伝子操作〉をすると聞いて、私は、受けるかどうかを躊躇しています。

そんな風に、心が揺れているのですが、今日は「立夏」です。『夏の気配を感じられる!』という意味なのです。暑いし、台風や大雨はあるし、大変な季節なのに、夏好きな私は、心が沸き立つ思いがしています。麦わら帽子を被り、かき氷やスイカや川泳ぎや海水浴をして過ごした夏だからです。

井戸に、紐でしばってつるさげた西瓜を落としてしまったことがありました。ポンプで汲み上げた、その井戸の水は、美味しかったのです。この街中を散歩していますと、そのポンプを、そのまま残している庭が、あちこちにあります。きっと〈呼び水〉をすると使える、《現役》なのかも知れません。
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いつも、自分では《遊びともだち》だと、私たちを思っていてくれるお嬢さんが、昨日も遊びに来てくれて、万葉に詠まれた「みかも(三毳)山公園」に、この子のお母さんと一緒に、四人で出掛けたのです。

下野の三毳の山の小楢(こなら)のすまぐはし児ろは誰が笥(たがけ)か持たむ
〔下野の三毳山のコナラの木のようにかわいらしい娘は、だれのお椀を持つのかな(だれと結婚するのかな)〕

二人かけの座席に四人で座って、密の「フラワートレイン」で、山腹を登って行きました。まるで童心が帰ってきた様で、楽しい一日でした。コロナを追い払う様で、同乗の子どもたちも、その道を歩いている子どもたちも、ニコニコと若葉の間に火の光を感じて、喜びが弾けていました。

みんな《躍動する夏》の気配を感じて嬉しそうでした。『こんなでいいのかな?』の想いを吹き払って、まさに《コロナなんのその》で、「ひしがれた心」が吹き飛んでいった一日でした。

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 「主は地をおおう天蓋の上に住まわれる。地の住民はいなごのようだ。主は天を薄絹のように延べ、これを天幕のように広げて住まわれる。 目を高く上げて、だれがこれらを創造したかを見よ。この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。この方は精力に満ち、その力は強い。一つももれるものはない。(イザヤ書40章22節、26節)」

 昭和初期に、おもに若い人たちの間で流行った歌がありました。父の青年期でしたから、きっと若かった父も放歌吟声したことがあったのでしょう。国土の狭さに飽き足らない父が、広大な大陸に憧れたのです。そして奉天の地で、父はしばらく過ごしています。

 この歌を、二十代の初めに聞き覚えました。野心満々、現状不満の私には、まさに似合った歌だったのです。

一、俺も行くから君も行け
  狭い日本にゃ住みあいた
  海の彼方にゃ支那がある
  支那にゃ四億の民が待つ

二、俺には父も母もなく
  生れ故郷に家もなし
  馴れに馴れたる山あれど
  別れを惜しむ者もなし

三、嗚呼いたわしの恋人や
  幼き頃の友人(ともびと)も
  何処に住めるや今はたゞ
  夢路に姿辿るのみ

四、昨日は東今日は西
  流れ流れし浮草の
  果しなき野に唯独り
  月を仰いだ草枕

五、国を出る時や玉の肌
  今じゃ槍傷刀傷
  これぞ誠の男児(おのこ)じゃと
  微笑む顔に針の髭(ひげ)

六、長白山の朝風に
  剣をかざして俯し見れば
  北満州の大平野
  俺の住家にゃまだ狭

七、御国(みくに)を出てから十余年
  今じゃ満州の大馬賊
  亜細亜高嶺(あじあたかね)の間から
  繰り出す手下五千人

八、今日の吉林(きつりん)の城外に
  木だまに響くいななきも
  駒の蹄(ひづめ)を忍ばせて
  明日は襲はん奉天

九、長髪清くなびかせば
  風は荒野に砂を捲き
  パット閃(またた)く電光に
  今日得し獲物(えもの)は幾万ぞ

十、繰り出す槍の穂先より
  竜が血を吐く黒竜江
  月は雲間を抜出でて
  ゴビの砂漠を照すなり
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 「大国主義」を掲げて、大陸進出を煽る様な歌であることは事実ですが、狭い国土しか持たない日本が、活路を求めていたことからすると、未開墾の地に鍬を入れようとした思いは理解できそうです。1868年(明治元年)には、砂糖生産の作業のために渡航したハワイ、その後、北米大陸、南米に移民をしようとしていた時代がありました。

 満州の場合は、長野県南部の阿智村などから、災害や凶作などで苦しんでいた当時の農民が、新天地を求めて移住した満蒙開拓団が有名で、それは東亜の五族協和を掲げた、国策だったのです。でも開拓を促したのは「貧しさ」でした。

 六十を過ぎてから出掛け、住んだ天津の外国人公寓(gong yu アパート)の七階の窓から眺めた、大陸の地平線に落ちようとしていた夕陽の大きさと、真っ赤に燃えた様子に、息を呑んで驚かされたのが昨日の様に思い出されてきます。『大陸の太陽と、日本で見る太陽と同じなのだろうか?』と思ってしまうほどでした。

 四十代だったでしょうか、内蒙古に出掛けて、満天の空を見上げて、そこに煌めいていた星は、本当に降る様に感じて、その天然自然の神秘さに、足がすくむ思いで圧倒されてしまいました。そこには美しさや壮大さだけではなく、均衡があったのです。

 偶然に出来上がったにしては、考えられないほどに整えられているではありませんか。大宇宙を想像し、支配している神さまは、ほんの少しの土の中から、美しい色と形状で咲いてる花も、地を這う小虫も造られています。その命の躍動させている力は何でしょうか。どうしてそこにあるのでしょうか。どうして命が芽生え、息をし、輝いているのでしょうか。

 そこには命の付与者と、保持者の計り知れない計画と目的があるに違いありません。歌に鼓舞され、時代の流れに乗って出掛けた父は、そこに留まらず帰国してしまいます。夢に敗れたのでしょうか、別の生き方を見出したのでしょうか。その父と母によって自分が生まれたのです。

 私は、大陸を造り、この地球を造り、太陽や月、大宇宙に瞬く星々を造られた創造者に出会いました。同じその御手で、最高作品として、自分が造られたのを、野心を砕かれた二十代に知ったのです。父が亡くなった同じ六十一になって、大陸の片隅に渡り、十三年を過ごしました。そこには素晴らしい人々との出会いがあって、素敵な時でした。

 そして老いた今、七十年の年月を振り返っております。父や母がいて、兄たちや弟がいて、妻や子や孫がいて、共に友情を交わした友がいて、隣人がいます。それは素晴らしい出会いと交わりの日々でした。そして残された月日に、意味を感じ、戴いた命を、もう少し楽しみたいと願う私でもあります。

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皐月

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 目を上に向けると、もう夏の雲が沸き立つ様に広がっています。地上には、新緑の街路樹が続いています。桜の花が咲き終わって、青葉若葉の季節がやってきました。息子たちが撮った写真が、先週、送られてきたのです。天然自然の世界に、ちょっと人が手を加えて街並みが作られますが、自然は創造者の手の作品です。

 「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いことでしょう。あなたのご威光は天でたたえられています。
あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち建てられました。それは、あなたに敵対する者のため、敵と復讐する者とをしずめるためでした。
あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、
人とは、何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは。人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。
あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。(詩篇8篇1~5節)」

 一仕事を終え、静かな時を迎えた今、しかもコロナ禍の中で、今まで忙し過ぎて、見ることのなかった世界が目の前に広がっているのを、新発見したかの様です。野に咲く花の一つだに着飾れない人ですが、ひどく感動させられて春を迎え、夏がそこまできています。

 「早苗月(さなえづき)」、「皐月(さつき)」と言われる五月、もうカタクリも、花水木も、藤の花も終わっています。わが家のベランダの鉢に、ミニトマトの若芽が出てきました。『花よりトマト!』も、また「よし」でしょうか、壊れた椅子の上に置いていた鉢を、少し見栄えにある鉢の棚を作り、そこに置き直しました。

 今は、花も実もあるベランダになろうとしています。そろそろ「朝顔」も準備しなければならないと、家内が待っています。赤や黄や白い花が咲き、心を和ませてくれております。みなさんの健康をお祈りしております。

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野花と小石

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 五月になりました。昨日は、二つの古墳を訪ねて、ちょっと浪漫チックになっていました。古墳の枯葉の下で見つけた「小石」と、枯葉の下から咲き出していた「野花」です。野花は遠い昔の命の「継承」、小石は「不変」を伝えているのでしょう。
 
 インドの新型コロナ禍の現状を伝える便りのコピーが、友人から転送されてきました。実に打ちのめされる様な悲惨さです。ただ終息を祈るばかりの朝です。

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牛塚、車塚見学

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 今日は、壬生町の国道沿い、黒川沿岸にある「車塚」と「牛塚」を訪ねてみました。この地域の豪族の墓なのでしょう。紀元600年から700年くらいの時代のものだそうです。千数百年前の人の営みを想像しながら、塚の上に立ってみました。近くには国道が走るなどとは、想像もし得ない時代の人たちが、この周辺で生活をしていたわけです。

 彼らの子孫たちが、この周辺で、今も生活をしているのでしょうか。川沿いには、桜の古木が並んでいますから、壬生藩が誕生してから、植えられた桜の木なのでしょうか。古墳と壬生城の距離は、歩きで30分ほどですから、関東平野の奥まった地で、自然は変わらず、古墳時代に咲いていただろう野花が咲いていました。

 近くに町営の東雲公園や役場があります。この地には「大名料理」を出す食堂が何軒もあり、今秋には、「藩校(藩黌)サミット」が開かれると公告されてありました。古き良き時代を懐古するのでしょうか。古墳時代、弥生時代、縄文時代の生活だって、きっと楽しいことも悲しいこともあったのですから。

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知の香り

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 「伝道者は適切なことばを見いだそうとし、真理のことばを正しく書き残した。(伝道者12章10節)」

 「後世への最大遺物(内村鑑三著)」の中で、お金も事業も、誰でも残せるものではないことを記しながら、それでも人にはまだ一つ遺すものがあり、それが「思想」だと、内村鑑三は言いました。

 どうしたら思想を残すことができるかと言いますと、「著述」だと言います。つまり、《書を残すこと》なのです。内村の教えを受けた多くの青年たちは、師に倣ったのでしょうか、優れた書を、思想を残しています。そのために多くの書を読んだに違いありません。

 友人の一人が熊本にいます。彼の家を何度か訪問したことがありますが、実に合理的な生活をしているのです。必要最低限度の物で、簡素に生きているのです。私の恩師も、アメリカ人だからでしょうか、実に上手に生きておいででした。必要と不必要をはっきりと定めて、余分なものを持たないで生きていたのです。

 師にも友にも似ないで生きてきた私は、大陸中国に行く時に、持ち物の多くを処分しました。身軽になった私は、やっと簡素な生活ができるようになったのです。子育てが終わったこともあって、持ち続けないですむ物を捨てて、合理的な生活ができるようになったのかも知れません。

 ところが、この友の家には、小図書館でもあるかのように、書斎にも廊下にも書架があって、驚くほどの蔵書があるのです。あの図書館や古書店の書棚の独特な「知の香り」が溢れているではありませんか。廊下など、体を横にして通るほどに、しかも整理して書籍が置かれてあるのです。よくもこんなにも本を買い求めたものだと、それを奥方が許したのを感心させられるほどです。

 私が以前に訪ねた時に、市内の数軒の古本屋に連れて行ってくれたことがありました。昔の学生は、よく本を読んだのです。卒業時に、故郷に帰ったり、就職地に赴く前に、その本を古書店で売ったのでしょうか、掘り出し物の本が、地方の古書店には多くあるのです。

 私は、地方都市に行くと、美味しい物を食べようと考えるのですが、彼は、古書店巡りをして、本との出会いを楽しむのです。その違いでしょうか、彼は、もう十冊以上の本を書き上げ、刊行しているのです。学んだこと、啓示を受けたことなどの思想を自分のものにだけすることをしないで、世に著して公にしているのです。

 私も、家内が心配するほど本を持っていました。学校を出て仕事を始めた職場に、毎週本屋の営業の方が来ていました。彼を介して、河合栄治郎、柳田國男、島崎藤村などの全集や、学術書を買いました。献身してからは、カルヴァン、リュティー、バルト、ヒルティー、メイチェン、内村鑑三、藤井武、矢内原忠雄、畔上賢三、三谷隆正、榊原康夫、岡田稔などの本を買っては読みました。

 けっきょくは本も処分で終わりましたが、帰国以来、また少しずつ増えていて、〈蟹歩き〉しなければならないほどにならないように気を付けております。きっと友人の蔵書の中にもあった本ですが、〈ある二行〉を確かめたくて、古書店から買ってしまいました。でも、確かめた甲斐があって、心が落ち着いたのです。「広辞苑」と「字源」を買ってきてくれて、『本を読め!』と言ってくれた父に感謝しております。 
 
 残すことなく、まだ学ぶ必要のある私は、「思想」など残しようがありません。それでも残せるものがあると、内村鑑三が言い加えました。『われわれに後世に遺すものは何もなくとも、われわれに後世の人にこれぞというて覚えられるべきものはなにもなくとも、アノ人はこの世の中に活きているあいだは真面目なる生涯を送った人であるといわれるだけのことを後世の人に遺したいと思います。』とです。

 誰にでもできるのは、「真面目に生きること」なのです。これなら、まだ私にもできるに違いありません。創造者の前に、そんな生き方ができたら最高ではないでしょうか。

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渡良瀬遊水地

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 関東平野を流れる利根川の支流の一つが「渡良瀬川」です。脇を流れる巴波川も、小山からくる思川もまた支流です。その合流点付近に、「渡良瀬遊水地」があります。群馬、栃木、埼玉、茨城の四県にまたがる地に位置しているのです。

 足尾銅山から流れ出る鉱毒を流す渡良瀬川が、その鉱毒を沈殿化するための池として作られた経緯があります。明治期の日本最初の公害の発生地でした。鉱毒で農業が壊滅的な被害を受けた谷中村は廃村にされ、各地に村民は移住させられ、村の跡地は、今では、人造湖の「谷中湖」となっています。

 今は、そのような過去がうそのように、渡良瀬遊水地は、洪水対策の機能を果たし、散歩やサイクリングやテニスやセイリングや気球などのスポーツ施設を設けています。

 去年の春に、わたらせ渓谷電鉄線で、足尾に行ったのですが、昨朝9時過ぎに、栃木駅から東武線の電車に乗って、板倉東洋大前駅で下車して、渡良瀬遊水地の湖畔を散歩してきました。一万四千歩ほど歩いたでしょうか。湖畔のベンチで、持参のおにぎりを頬張っていると、さっぽ中の犬が羨ましそうに、私のおにぎりを眺めていました。もう一つ浅草寄りの柳生駅から乗車して帰ってきました。

 快適な散歩コースでした。街中の住宅や商店を傍に見て歩く単調なコースと違って、鶯(うぐいす)もや雲雀(ひばり)の鳴く声が聞こえて、藤やツツジが咲いて、池の表を伝わって吹いてくる微風が、頬に気持ちよく感じられました。

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青葉と初鰹

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 目には青葉 山ほととぎす 初鰹

 今頃の季節で、一番有名な俳句は、山口素堂が読んだものです。宝暦六年(1678年)に、甲斐国の出身で、江戸に住んでいた山口素堂が詠みました。

 江戸っ子は、江戸湾で水揚げされた、一匹「ニ両三分」もした「初鰹」を口にするのを「粋」としたのだそうです。ですから女房を質草にしてでも食べたいほどだったそうです。時期をずらして食べれば、安くてすむのに、江戸っ子って面倒な人たちだったのでしょう。

 下の息子が、高知に出掛けて、帰って来た時に、「鰹のたたき」を土産にしてくれたことがありました。江戸っ子ではないのに、ほんとうに美味しかったのです。この高知では、「一本釣り」で漁をするそうで、その映像を見たことがあります。

 今では、一年中、スーパーの魚売り場に、「鰹のたたき」が並んでいて、「春の旬」を味わう喜びがなくなって、江戸っ子には気の毒です。五十年前の新婚旅行で、『結婚生活が調子良く送れるように!』願って、千葉県の「銚子(ちょうし)」に行きました。

 そこの漁港で、鰹を三本買って、かついで帰って来て、家族に配ったのです。一番驚いたのが、女房殿でした。夢見た結婚、浪漫チックな新婚生活の始まりが、「鰹」だったわけです。でも、義母がさばいてくれた、あの鰹は美味しかったのです。

 それででしょうか、女房殿は、庶民派の鰹が好きではなく、鮪派なのです。おろし生姜醤油で、今夕は食べてみたいものです。

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