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〈人と犬の距離〉が近過ぎるのが気になった、圏内小旅行のお昼のレストランでの光景です。
弟が犬好きで、父の家では、犬を飼っていたことが、二度ありました。最初の犬は、猟師が連れ歩いた甲斐犬でした。まさに猟犬でした。鶏をくわえて帰ってきて、彼が咥え歩いた道筋には、鶏の羽が散らばっていたのでした。終いには、豚の子を持ち帰ったこともあったほどです。その鶏も子豚も、母の食卓に上ることはありませんでした。
二匹目の犬は、秋田犬でした。毛並みも立ち姿も格好よくて、子犬から成犬になるまで飼い続けました。近所の男の子にいじめられたせいで、引越し先の隣家の小さな女の子を噛んでしまったのです。弟は涙を飲んで処分に同意しました。それ以来、犬を飼うことはなくなり、世帯を持ってからも、彼は犬を飼うことがありません。
そんな犬飼歴がある私は、みかも山麓の「道の駅」のレストランの外の席で、席に着いていた飼い主と犬の距離が、人の母親と人の赤ちゃんの距離だったのに驚いたのです。あやす母親、ミルクをやるお母さんの様に、腕に抱えながら、犬に餌をあげていたのを、二度見、三度見してしまったほどです。
父の家で飼っていた犬は、庭の犬小屋に、鎖で繋いでいて、朝夕に餌やりの時間には、専用の餌入れに、母が与えて、犬は自分で食べていました。ところが昨日の犬は、飼い主が、手で口に運んで、犬の方は、うっとりと飼い主のご婦人を、母親の様に見上げながら食べていたわけです。
それは犬と飼い主の距離ではなく、親子の距離だったのです。昨日、他に見かけた犬のほとんどが、〈犬着〉を着込んでいました。体に合った寸法で、彩りの美しいおしゃれ着なのです。そして得意そうにして、気取ってご主人さまに従っていたのです。「狗公方(いぬくぼう)」と言われた五代綱吉、あの時代のお狗様を思わせる一日でした。
かえって人との距離が遠のき、愛玩の動物との距離が縮んでしまっている時代に、驚きを隠せないのです。『人なんか、そんなによくしてやったって、終いには裏切ったり、恩を忘れてしまうだけだ!』と、人を信じられない人が多くなって、裏切ることも、恩を忘れることもない動物と繋がっている時代なのでしょうか。
隣の席にも、犬用カートに、二匹を乗せていた夫妻がいたのですが、奥さんの視線は、ご主人には向いておらず、自分の食べ物と飼い犬にだけ目を向けていました。ご主人は、構ってもらえず、寂しそうにしていたのです。ちょっと留守をしてる間に、日本は寂しい時代を迎えてしまった様です。楽しい一日でしたが、考えさせられた日でもありました。
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