さあ、上を向いてご覧!

 

長野県の伊那谷の大鹿村で、伝統的な田舎歌舞伎が、春と秋の年二回上演されていて、その年の秋に、「菅原伝授手習鑑」という演目が村の公民館で上演されていました。歌舞伎には、とんと関心のなかった私は、歌舞伎座の前をなんども行き来しながらも、入ることも観ることがありませんでした。

ところが、飯田に住んでいた娘の勧めで、初めて観劇したのです。もちろん、主君の忘れ形見の助命のために、自分の息子の首を代わって差し出すという親の「忠義」には驚かされましたし、その親の気持を察した息子も、自らの首を捧げて父親へ示した「従順」には感銘してしまいました。「生贄の美化」や「命の軽視」には、納得できない不条理さを感じますが、ああいった心情・気概が日本人の血の中に流れていると思うと、身の引き締まる慄然とした思いを禁じえません。

あの場面で印象的だったのは、書道をする子どもたちの「寺子屋」でした。道真の時代に「寺子屋」はなかったのですが、歌舞伎や浄瑠璃で取り上げるに当たって、江戸期に生まれてくる「寺子屋」を場面設定したのでしょうか。この演目が上演され、好評を博したのが1740年代の江戸中期でしたから、芝居上の仮相設定だったに違いありません。

この寺子屋といえば、18世紀には、日本全国に15000もあったと推定されています。読み書き算盤を、庶民・町人の子弟に学ばせていたことになります。庶民教育のこの形態は、世界に類を見ないほどのことであり、『当時の《識字率》は50%程だったろう!』と言われていますから、驚きです。

当時日本を訪れた欧米からの外国人が、『日本人はみな読み書きが出来る!』と報告しているようです。ユネスコが世界の識字率を調べた報告書を出していますが(2002年)、日本は99.8%(男女同率)、中国は90.9(男95.1、女86.5)、バングラデッシュは41.4%(男50.3%。女31.3%)でした。しかし後進国の教育熱は、昨今、ものすごい勢いで高められていますから、まもなく日本の水準に近づいてくるのではないでしょうか。

私たちは、明治以降の学校制度の中で、欧米諸国への遅れを、欧米に真似ることによって、やっと取り戻していくように教えられたのですが、どうしてどうして、すでに封建時代の只中で、一般民衆の教育水準は世界でも群を抜いていたのだということが分かります。鎖国という閉鎖状態の中で、高度な教育や文化が育まれていたことを再認識して、私たちは、『我々は駄目だ。失敗の過去を持っているのだから。』と言った卑屈さの中から立ち上がり、《自信》を取り戻したいものです。

少なくとも、現代を生きる子どもたちに、この《自信》と《誇り》を取り戻してあげたい思いがするのです。《誇り》や《自信》を取り戻すことが、軍国主義への回帰だなどとは決してなりえないのですから。自分が生まれた国を、《過小評価》した教育を受けて、いつもうな垂れている日本人を創り上げてきましたから、今、私は日本の子どもたちの顎に手を当てて、『さあ、上を向いてご覧。今まで見えなかったものが見えてくるからさあ!』と語りたいのです。

健全に子が育つのは、『僕の生まれ育った家庭は、お粗末で、暗くて、失敗だらけなんだ!』とは決して言いません。『お父さんもお母さんも欠点があるけど、それを超えて一所懸命に僕たちを育て養ってきてくれたではありませんか!』と思わなければなりません。

国も同じです。過去に間違いや欠点や罪が、私たちの国に多くありました。今日、9月18日は「柳条湖事件」が起きた79年目の記念日です。『外出を控えたほうがいいでしょう!』と友人からメールがありました。確かに愛する隣国を蹂躙した記念日です。歴史の事実の前に立って、『二度とすまい!』と反省し、発念する日こそ、今日だと思います。でも首をうな垂れて、自己否定をするだけでは、ことは前進していきません。

そういった過去が、私たちの国の歴史の中にありながらも、好いことを育んでくれた国であることも、片一方の事実なのですから、ここにも光を当てたいのです。こう思うことを、中国のみなさんは否定されないはずです。過去をごまかすことなく,しっかりと顔を上げて、自信と誇りを持って、アジア諸国の青年たちと、互いに認め合い、協力し合って21世紀を生きていって欲しいのです。だから、家内と私は、愛される日本人に成るべく、この国で生活することを選んだのであります。

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五日遅れの祝福


 伊豆大島の南東部に、「波浮(はぶ)」という港があります。野口雨情が、「磯の鵜の鳥ゃ 日暮れにゃ帰る 波浮の港にゃ夕焼け小焼け 明日の日和は ヤレホンニサなぎるやら」と作詞して、中山晋平が曲をつけ、1923年に発売された流行歌で、一躍有名になった港なのです。伊豆の島嶼部は、今でこそ観光地になりましたが、かつては「流刑の島」で、鳥と流人しか通わない島でした。もう何年前になるのでしょうか、私の友人が、この波浮港から連絡船の通う、「利島」というところの中学校で英語教師をしていました。彼が、『子どもさんたちと一緖に遊びにきてください!』と、招いてくれましたので、家族6人で、海水浴に行ったことがあったのです。

 熱海から大島行の船に乗って、元町港に着きますと、そこから島内をバスで、波浮港まで行き、そこから利島行の船に乗り換えたのです。利島は、平坦な土地がわずかで、島が小高い山そのもののような感じだったのです。どのくらいの世帯数、人口があったのでしょうか、小・中学校がありましたから、わずかながら学齢期の子どもたちもいたわけです。連絡船が入らないと、野菜も果物も肉もない離島でしたが、小さな日用雑貨や食料品を売る店で、食材を買っては料理したのです。きれいな海で数日、泳いだり、小さな島巡りをしたりして過ごし、楽しい一夏を過ごすことができました。

 あれから、もう25、6年になるのですが、「波浮港」には思い出があったのです。その時が、私の初めての訪問でしたが、父が好きだった歌手が、『三日遅れの便りを乗せて 船がゆくゆく 波浮港・・・・・』と歌っていた、この歌の歌詞に、「波浮港」とあったのが強烈な印象で残っていたのです。『野口雨情が作詞し、この歌手も歌う、「波浮港」ってどんなところだろう?』と思ったことがあって、利島行が決まって、伊豆大島の港にやって来たときに、『ああ、ここが、あの波浮港か!』と、初めて思い出したのです。『台風などで海が時化ると、連絡船が通わないで、三日も郵便物が遅れてしまう「波浮港」って、ここだったのか!』と感心してしまったわけです。

 今日15日、3年生のクラスが始まるとき、一人の学生が、『《教師節》、おめでとうございます!いつもありがとうございます!』と言って、大きなカーネーションの花束をくれました。実は、この《教師節》というのは、中国特有の日で、教師への感謝を表す目的で制定されていて、9月10日なのです(祝日ですが、学校は休みではありません)。今年度は教えていない4年生の学生も、その他の学年の学生も、何人もがメールでお祝いと感謝を伝えてくれました。私の担当する授業は、水曜日ですから、三日遅れではなく、《五日遅れ》で、この《教師節》の感謝を表わしてくれたわけです。嬉しかったのです。ただ単純に感謝しました。以前でしたら、そんな大きな花束を、大の大人が持ち歩くのはきまり悪くて、だれかにやってしまいましたが、今日は違いました。

 今日は1時間だけの授業を終えて、その学生に感謝を改めて伝え、自信満々で、キャンパスを横切り、東門のバス停まで歩いたのです。案の定、ジロジロと視線を向けられました。ある見知らぬ学生は、『綺麗!ハッピー・バースデイ!』と声をかけてきました。きっと外国人教師の誕生日だったんだろうとでも思って、祝福の言葉をかけてくれたのです。これって、中国の青年たちのいいところなんです。バスの中でも、バスを降りて我が家までの道筋でも、好奇の目が向けられていました。でも私は、鼻高々で背筋を伸ばして道を進みました。この地方で有名な麺(バン・ミエン)を、たまに食べる小さな食堂のおばさんが、『何処でもらったの?きれいだね!』と声をかけてきましたから、『学生給我!』と答えたのです。

 この国に来て、次代を担う学生たちから、感謝と祝福を受けて、ほんとうに嬉しくて感謝したのです。自慢する気持ちではなく、この年齢になっても働く機会が与えられ、教壇に立つことができ、クラスの学生たちに感謝され祝福される特権を、ただただ感謝し、喜んだのです。誕生日には、ケーキを買ってきてくれたり、夏や冬の休み明けには、故里の特産品を、『美味しいですから、召し上がってください!』と渡されたり、教師冥利につきます。中国漁船拿捕で、日本への批判の高まりのこの数日、『外出に注意してください!』と、北京の日本人大使館から勧告が出ていますが、華南のこの街に居る私は、《五日遅れの感謝》を受けて、堂々とし喜悦の水曜日でありました。

7年ぶりにテニスを!!!

五年前の雛祭りの頃だったでしょうか、まだ朝が明けやらぬ内に家を出た私は,自転車を道路の縁石にぶつけて、しこたまアスファルトに叩きつけられてしまいました(幸い道路側ではなく歩道側に投げ出され、向こうからスピードを上げて来た車に轢かれずにすみました)。全身を打ったのですが,右腕に激痛が走りました。それでも自転車をこいで目的地に行ったのですが,痛くて仕方がありませんで、踵を返して帰宅したのです。すると、家内と家にいた長女が,『お医者さんに診てもらったほうがいいよ!』と言うことで、駅前の病院の外科に、娘の付き添い(運転)で診察に行ったのです。怪我ばかりしてきた私は,ほとんどの痛さには耐えられる自信がありましたが,この肩の痛さは尋常ではありませんでした。この初診の医者は、『打撲!』と診断し、三角巾で肩をつってくれ、湿布薬を処方してくれただけでした。

痛みはほとんど感じなくなって数日がたった再診の日,その医者が『一応、MR検査をしてみましょう!』と言って見た映像に,腱板が断裂しているのを発見したのです。この腱板断裂を見抜けなかった彼の手に負えなくて,この手術の専門医が市立病院にいるということで,彼が紹介状を書いてくれました。それを持って診察に行きましたら,早速,入院手術ということになったのです。入院しましたら、家内が英語を教えていた子どものお母さんが、その病棟の看護師でした。手術の前の晩に、『先日、手術の痛さに耐えられなくて、飛び降り自殺をした人がいたほどです。覚悟して、手術に臨んでくださいね!』と、わざわざ言ってくれたのです。安請け合いの『大丈夫!』でなかったのが、かえって良かったと思います。私は、手術前夜、覚悟を決められたからです。

その手術は成功したのですが、縫合した箇所を守るために、右腕を『はい!』と言って上げた状態で、ベッドに固定されて2日間動くことができなかったのです。『拷問台ってこんななのかな?』と思うほどの苦痛でした。娘が撮ってくれた写真に、激痛に顔が歪んだものが残っています。その固定を外された時の喜びは、『きっと捕虜収容所から開放されたときに感じる喜びってこんななのかな?』と思うほどの開放感がしました。ところが、アメリカンフットボールのプロテクターのようなものを体に装着されてしまい、これまた腕を上げた状態で固定されてしまったのです。歩けますが、利き手は使えず、先生の前で『はい!』をしたままの、あの有様でした。徐々に腕は低くされて行くのですが、退院しても、この状態は続きました。運転できませんから、バスに乗ると、好奇の目が向けられ、ちょっとしたスター気分でした(!?)。防具を外されて、風呂に入れるようになった時も、今まで感じたことのない開放感を味わったのです。でも腕が肘で曲がらないのです。その後、4ヶ月ほどリハビリが続きましたが、時々、『元のようにテニスが出来るようになれるかな?』という思いが浮かんでは消えていきました。

あれから5年半ほどが経ちました昨日、テニスをしたのです。怪我以前の2~3年は、家でラケットを時々握るだけでしたから、7~8年ぶりになるでしょうか。ラケットが振れて、球を打ち返すことができたことは、なんともいえない喜びでした。『二度とテニスはできないよなあ!』と諦めていたのですから、誘われてコートに立って球を打ったときは、くくりつけられたベッドから起きたとき、防具が外されたときに感じた喜びを思い出させてくれました。

下手の横好きのテニスですが、健康管理を考え、今のところ、どこも体が悪くないので、『続けたい!』と思わされた土曜日の夕方でした。『コート代は10元で!』という経費でしたから、日本円150円ほどでしょうか。わずかの費用で、太陽が照りつける灼熱のコートにいるのも忘れさせてくれ、久々に球を追うことができ、言い知れない満足感を覚えることができました。『健康ってありがたい!』と感謝しながら、筋肉痛の足腰を摩っている日曜日の午後であります.

台風襲来

『台風が来る!』とラジオの天気予報が出ると、軒の下に備えてあった板を取り出し、金槌と釘で、窓と玄関に打ち付けました。強風で押し破られるのを防ぐためでした。今では、殆どの家が、モルタルやコンクリートで作られ、窓や玄関の扉にはアルミサッシの頑強なものが用いられていますから、このようなにわか仕事は不要になっています。

学校に行ってた頃、友人と二人で、九州旅行をした時のことでした。熊本の天草・本渡という街に着いて、一番安い旅館を紹介してもらって泊まったときのことです。その晩、何と熊本地方を台風が通過したのです。どうも台風が来る方に誘い込まれれるようにして旅先を決めてしまったのでした。その旅館は、雨戸と障子で外と仕切られているだけだったと思います。唸るような強風が吹きつけて、ガタガタと扉を押してきましたので、寝るどころではありませんでした。それで仕方なく、障子だったか雨戸だったかに背中を当てて、台風の通過を待っていたことがありました。もう少しお金を出せば、しっかりした作りの旅館に泊まることができ、こんな心配や備えをしないですんだのですが、いかんせん便暴力でした。実は、立川の自動車学校の費用(自動車の免許を取るため)に、父からもらったお金を流用して旅に出てしまったのです。おかげで、父に再びくれとは言えず、免許証を取らずじまいでした。まだまだ経済的に、学生で免許証を取れるような時代ではなかったのですが。

昨晩、泉州という海岸の町に台風が重陸したようです。その余波でしょうか、こちらも強い風地雨が吹き付けていましたが、被害はさほどではなかったようです。台風といえば、神奈川県の湯河原で海水浴をしたときにも、出くわしたことがありました。上の兄の学友のお父さんの会社が、ここに海の家を借りでいたのです。ちゃっかり、ここに遣って来る大学生たちに紛れ込んで、何と20日間ほども《泳ぎ三昧》をさせてもらったのです。高校二年生の時でした。滞在費は無料、何もかも備えられていたのです。その代わり、兄の友人の弟さんたちがしていた賄いの手伝いをしていました。湯河原の海岸で、漁師が曳くていた地引網で獲れた「小鯵」を買っておかずにしたことがありました。準備をしていたとき、この弟さんと二人で、親指で小鯵の腹を割いて内蔵を取り、骨と頭を取り除いて、わさび醤油で食べさせてもらったのですが、あの美味は、いまだに忘れられません。そんな楽しい生活をさせてもらっていた湯河原の海岸にも、台風が襲ってきたのです。

怖さ知らずの17歳の私は、遊泳禁止の海に入って、体一つの波乗りをしていました。大学生たちがやっているのを見て、彼らがコツを教えてくれたからです。台風は、ちょうどいい波を持ってきてくれるのです。何度か楽しくやっているうちに、波に乗ろうにも乗れないのです。引き潮が強くて、沖に引いていく波に足を取られてしまい、人間の力では到底抗しきれない。どんなにあがいても駄目でした。『死ぬかもしれない!』という恐怖の波が、思いの中を占領したのです。ところが、私の体を、1つの波がフワッと抱き込んでくれて、浜にスーッと連れ戻してくれたではありませんか。こういうのを「九死に一生を得る!」と言うのでしょうか、一体、あの波はどこから来たのでしょうか。これまで死にそうな体験の多い私ですが、何時も「不思議な力」に護られているように感じてならないのですが。転ぶ前に考えるのではなく、転んで痛い目にあってから考える無鉄砲な私ですのに。時々、その不思議体験を数えてみることがあります。

母の話で父も、弟の話で彼も、同じような経験をしたと聞いていますが。この《神秘な体験》に甘んじることなく、『注意深く生きていこう!』と決心するのですが,怪我がいまだに絶えないのです。『娘の頃に、お転婆だった母の血のせいにしてしまおうか!』,そんなことを思っていますと,台風の後に吹いてくる風が,私の頬をなぜていきました。

学恩に謝す

「学恩」、読んで字の如しで、人としてどう生きるか、道理や学問の初歩や深淵を学ぶに当たって、恩義のあること、恩人のことです。一に「広辞苑」、二に「ラジオ放送」、三に「ばいぶる」です。「広辞苑」が、1955年に岩波書店から刊行されました。私の父は、その初版本を買い求めて、『さあ、雅、確り勉強しろ!』と無言で手渡されました。文学部に学んだ人に比べれば格段に語彙数が少ないのですが、この辞書のおかげで、母国語に対する興味を引き出された私は、いたずらをしないときには、辞書の中を彷徨いながら、新しい言葉に触れる喜びを楽しんでいたのです。同級生に比べて、大人の世界を垣間見て、あたりを見回しては、ゾクゾクしたり、ドキドキしたのを思い出します。

テレビが我が家に侵入したのは、兄が入部していた大学のアメリカンフットボール部が、東西対抗に出場するという時でした。《子バカの父》は、その試合にスタメンで出る息子見たさに買ってしまったのです。それ以前は、真空管を内蔵したラジオが、テレビの代わりに、我が家のタンスの上に鎮座していました。これに耳を済ませては、新しい言葉を聞き取り、意味を調べたりしていました。そのラジオからは、ボードビリアン・川田晴久の『地球の上に朝が来る・・・その裏側は・・・』と歌う歌声、NHKの「新諸国物語」や「一丁目一番地」の番組が聞こえていました。たくましく想像力を働かせては、食い入るように聞き入っていたのです。

「ばいぶる」、これは母が14歳から愛読してきた書物です。『読みなさい!』と言われたことはなかったのですが、紙片に短い文を書き写しては渡されたことがありましたが、やがて、自ら読み始めるようになり、《座右の書》となって、今日に及んでいます。知的な好奇心を満足させてくれ、生きていくための骨や肉を付けてくれたのは、この三つでしょうか。

さらに、私には、感恩を謝したいと願う方が三人おります。一人は内山先生、田舎から転校してきた私を小学校2年の2学期から担任してくださった方です。幼稚園も行かず(山奥でなかったからですが)、病気がちで登校日数の極めて少なかった私は、登校した日には、じっとイスに座ることができずに、立ち歩いては同級生にちょっかいを出していました。多動性の問題児だったのです。国語の授業の時でした。教科書の記事の擬音を、『電車の切り替え線で起こる音です!』と答えた私を聞いて、『よく分かったわね!』と、山内先生は褒めてくれたのです。それから自分が変わったのを覚えています。褒めるって、褒められるって、すごいことなんですね。

もう一人は、中学江三年間担任をしてくれた小机先生です。髪の毛が薄くて、明るい目を眼鏡の下に見せていた方で、社会科を担当していました。この方は、挨拶を交わすときに、私たちが立つ床に降りて、深く頭を下げていました。『まだ毛も生え揃わない私たちを、一人の人として敬意をもって接してくれている!』と思わされたのです。今日も、F大で授業があり、小机先生に倣って、はじめと終わりの挨拶を致しました。三つ子の魂、60までですね。

さてもう一人は、宣教師さんです。狭量で、井の中の蛙のような、日本主義に凝り固まった小生意気な私を、世界に通用するひとりの人間に矯正してくれたのです。一民族の優秀性を棄て切れずにいた私に、すべての人種・民族・国家が独自の優秀性を持つことを教えてくれたのです。妻の愛し方もです。どう考え、どう思索し、何を構築すべきかもです。つまり、《人間》を教えてくれたと言えるでしょうか。この方は、先生と呼ばれることを固辞されたのですが、敢えて私は言葉を変えて、「お師匠」と呼びたいのであります。2002年に召されたのですが、年月が過ぎていくに連れ、このお師匠への感恩は増し加わるのです。今夏日本に帰国した折、彼の書き表した書籍を、立川の書店で一冊買い求めてまいりました。読書の秋に、この書を紐解くのは、時宜を得たことのように思えてなりません。彼の夢・幻の追随者でありたいと、改めて身を引き締めて覚悟を決めた夕べであります。

隠れ喫煙家

回顧、辞書には、「過去(後ろ)を振り返ってみること。『往時を回顧する』」、「来し方を顧みる」とあります。中学生の頃には、意味が全く分からない言葉でしたが、この年になって、やっと分かるようになり、そうすることが実際に出来るようになりました。これは、『回顧しよう!』と決心して過去を振り返ることだと思うのですから、「懐古」と似ているかも知れません。懐古、辞書には、『昔のことを懐かしく思うこと。懐旧。『子どもの頃を回顧する』』とあります。ところが、どうも「ふと思い出す」のとはちょっと違うようです。

最近、子どもころのことが、しきりに思い出されてまいります。喧嘩をしたり、転んだり落ちたりで怪我をし、食べ過ぎて腹痛を起こしたり、風邪を引いたり、病んだりしたことなどです。今日、友人の家に行きます時、「公交車」という路線バスに乗りながら、手のひらや甲を見ていましたら、何と多くの「手傷」、「切り傷」があるのを再発見したのです。右利きの私は、刃物を右手に持って、いろいろと細工をしては、刃物を滑らせたり、力を入れ過ぎたりで、左手を切ったことが多いので、左の腕の手のひらや甲や指に、数えきれないほどにある傷跡を見ていました。ところが、利き腕の方は「加害者」であって、傷跡は少ない筈なのですが。傷つける右手に、多くの傷跡が残っているのは、どうしたことなのでしょうか。傷跡に日付を記しておきませんでしたので、『何時、何処で、何故?』のことだったかを思い出せないのです。

そんな傷跡のことを考えていましたら、これまでの自分の生きて来た年月の間に、しでかした「失敗」の多さが思い出されてなりませんでした。赤面の至りで、恥ずかいいことが多くて、今でも顔を覆いたくなってしまうほどです。テレビや新聞で、大事故が報じられるときに、結果と原因の因果関係が語られるのですが、決まって「ハインリッヒの法則」が引き合いに出されます。アメリカの損害保険会社の研究部長だったハインリッヒが、労働災害を統計学的に調べた結果から引き出された、この法則は、『1つの重大事故の背後には、29の軽微な事故があり、その背景には300の異常が存在する。』と言うのです。『大事故が起こる前には、必ずと言って小さな事故が、何度(29回ほど)も起こっていて、「あれ?」と思うことが数限りなくあるのです。対策を講じないでいると、今に大事故に繋がりますから、小事故のうちに対策を講じなさい!』と言っているのでしょう。また、『度々起こる小さな事故や失敗は、数多く(300回ほど)の「ひやっ!」とか「あれっ!」と言ったことに気付いたら、何時か、大事故の起こる予兆ですから、十分に注意を!』と言うのです。

中学に電車通学した私は、中央線の電車の運転席や車掌室に興味がありました。運転手や車掌の身振りや手振りが面白かったからです。彼らは、決まって右手の人差指で《指差し》をしては、『よーし!よし!』と確認をしていたのです。計器やドアーの開閉や車両の様子の安全を確かめてから、発車するのです。何時でしたか、一度やってみたくて、西武線の電車に乗ったときに、車掌室にあるドアーの開閉器を作動してしまったことがありました。大変危険なことを承知していたのですが、その衝動に負けてしまったのです。もちろん車掌がする、《指差し確認》などしないままでした。大変、叱られたのを覚えています。学校の制服を着ていましたから、どの中学の学生であるがが分かっていたはずでしたが、学校には通報されないままで、そのまま不問に付されました。

そんな私の「異常な行動」や「軽微な失敗」が、その後、大怪我や病気や大過失など、様々なことを起こしていくのですが。失敗の多い人生を顧みて、『偶然などありえない!』という法則を見出したのです。結果は、必ず原因があること、だから人のせいにはしないことに決めたのです。実は、こちらに来てから、「気管支炎」だと言われました。家内は、『中国の空気のせいです!』と、中国を悪者にして、私をかばってはくれますが違います。小学生の頃に、父が、『雅、一本付けてくれ!』と言うので、煙草盆のタバコを咥えては火をつけ、何度も父に渡したことがありました。それが切っ掛けとなって、中学1年生の頃には、隠れ喫煙家になり、25歳でやめるまで吸い続けたのです。これが、「気管支喘息」の本当の原因です。

多くの人が、自分の過失や罪の言い訳をします。誘惑者のせいにしているのです。違う、あなたが自己打診を蔑ろ(ないがしろ)にしてきた結果に他なりません。私は、その法則の立証者ですから。顧みながら、省みている今日この頃の私です。

花火


虹、雷光、オーロラ、紅葉、火山噴火、樹氷など、自然界が見せてくれる壮麗な美は、造物主の手の業以外に考えられません。第一、あのような配色は人間にはできませんし、絵の具だって、あれほどの量を、どうやって蓄えられるでしょうか。どんなに大きな足場を組んだとしても、これほどの規模の演出を、人は作ることが全くできません。ただただ、大自然の景観の美しさの前に立ち尽くして、息を呑むのみです。

ところで今夏、多摩川の河川敷で行われた「聖蹟桜ヶ丘花火大会」に、息子が招待してくれたのです。6月の段階で、8月に帰国する家内と私、そして彼の友人、四人の席を予約しておいてくれたのです。ところが、所用ができた家内は帰国することがかなわず、私だけで招待に応えることになってしまったのです。子どものころ、よく見たことがありましたし、おもちゃ屋さんで買ってきた花火を楽しんだことがありました。高校の時に、尾崎士郎が書きました、長編小説「人生劇場」を読んで、上海で花火師として活躍し、事故で片腕をなくした吉良常に憧れたのです。もちろん博徒の彼にではなく、花火師の彼にでしたが。その吉良常に倣って、『何時か花火師になって、世界の夏の夜空を飾ってみたい!』と思い立ったのです。この夢は、花火のように儚く消えてしまいましたが、花火への執着からは、それでもなかなか離れることができずにいたのです。

あれから何年も何年もたって、『ご一緒に行きませんか?』と誘ってくださる友人と一緖に、上海を旅行したことがありました。テレビ塔の展望台から、『あの辺りが日本人街のあったところですよ!』と、中国人の知人が指さしてくれたあたり、かつての外灘に面した「四馬路(スマロ)」を散策したことがありました。東京では全体像を大体つかむことが出来るのですが、上海は不案内でしたし、実に入り組んだ大きな街でしたから、どの辺なのか見当をつけることができない、「迷宮」の感じがしたのを覚えています。『きっと、このあたりで、吉良常は花火を上げ、負傷したのだろう!』と、小説の場面を思い起こしては、独り合点をしておりました。訪れたこともない街でしたが、言うにいわれぬ懐旧の思いが湧き上がってきたのは、小説を読んだからでも、歌謡曲に歌われていたからでもなかったのです。直接聞いてはいませんが、若い日の父が誘われた街だったからかも知れません。

『江戸・隅田川の花火を観に行きませんか?』、『長岡・信濃川の河原の花火を観に行きませか!』、と誘われたことがありましたが、一度も出掛けたことがなかった私は、行き帰りの交通の混雑や人ごみを嫌っていたのです。『遠くから眺める街の花火大会で十分!』と決めていた私ですが、今夏の花火大会は、劇場の舞台で見られる演劇のような、実に「観劇」の気分でした。無作為に、ドーン!ドーン!と上げているものとばかりだと思い込んでいた私は、裏切られたからです。コンピューター制御で、流行りの歌の流れに呼応して打ち上げられ、打ち上げられる間隔、間が計算しつくされ、終演の最高潮の場面では、実にその巧みな演出に感激してしまいました。

しかも、相撲なら「砂かぶり席」、眼の前の上空で、花開く花火は圧巻でした。しかも水面にも写っていたでしょうか。このような経験は初めてのことでしたから、今は、『花火は遠くからではなく、見上げる真下でもなく、特等席で、眼の前の上空で開花する花火に過ぎるものはない!』と言う結論に至りました。『来年はお母さんも一緖に観たいね!』と息子に言いましたが、一卓四席で3万2000円だと値段を聞いて、中国のお父さんは驚いてしまったのです。大きな犠牲を払って、楽しませようとした心意気に触れて、親冥利に尽きる感じがいたしました。

それにしても、IPADで注文してくれ、配達されたピザを、花火を見ながら夜風に吹かれて食べた味は、表現の仕様がなく格別な味でした!道道買ってくれた「たこ焼き」も、飲料も、飲みながら食べながらの、綺麗で美味しい2010年の8月の猛暑の夏の夕べでありました。

母への便り

お母さん、

おはようございます。

東京は、立秋を過ぎても、酷暑が続いているようですが、お元気で支えられ守られてお過ごしのこととお喜びいたします。◯ちゃんのそばで、ゆっくりとしておられることと思います。

8月15日に、京王線で橋本、横浜線の新横浜から京都に行き、京都で下車しました。京都では、日曜日の朝、ある所によって、昼過ぎに京都から関西空港まで特急に乗車しました。飛行機の出発が1時半ほど遅れましたが、華南の空港に無事に着き、夜8時過ぎに家に帰り着きました。中国への出立の朝、お母さんは出かけていましたから、挨拶なしで出てしまいました。お赦しください。

今年の日本の夏は格別に暑かったのと、あちらこちらと出掛けましたので、お母さんといっしょに、あまり散歩ができませんでしたね。このことも赦してください。でも母さんが、元気にしていらっしゃる姿を見て安心しました。お母さんが、美味しそうに感謝しながら食事をしているのを知って、これも安心でした。あまりゆっくり、一緒に話もできませんでしたね。でも、お母さんのそばにいることができて感謝でした。

病弱で一番心配をかけた三男ですが、お母さんのお世話で、誰よりも健康が支えられて、今を生きることができて感謝しています。心から感謝します。時々、幼い日の出来事を思い出しています。お母さんも親爺も、家庭的には、あまり恵まれなかったのですが、僕たち4人の兄弟のために素晴らしい家庭を築いてくれたことを思い返して感謝しています。ありがとうございます。ですから、僕も4人の子どもを授かって、育て上げることができて感謝しています。

◯に本拠地を移されて、いかがですか?◯ちゃんと姉上に優しくしていただいていることでしょうね。どうぞ◯を楽しんでくださいね。お母さん、外を歩いて散歩を続けてください。足の筋肉も、お尻の筋肉も、オシッコの筋肉も、歩くことによって強くなるからです。◯ちゃんが、きっと連れ出してくれることでしょうね。◯ちゃ夫妻も◯ちゃんも、お母さんのことを一番に思っていますよね。僕は、遠くにいて、なにもできないことを赦してくださいね。気持ちだけは、ありますので忘れないでください。家内も同じ気持でいます。お母さん、◯ちゃんが言っていたように、お母さんの愛読書を、書写したらいいですね。きれいに書けたら送ってください、楽しみにしています。

お母さん、◯に住んでいた頃が懐かしいし、八王子も、清川も懐かしいですね。生まれた御岳昇仙峡も、ぼくに取っては忘れられない出生地ですから。お母さんも、◯が懐かしいでしょうね。でも、僕たちには、帰っていく本物の故郷があるのですから、何と感謝なことではないでしょうか。そこに行くことができるように、教えてくれたお母さんには、感謝でイッパイです。ますます元気で、感謝して、喜んで、今を生きてくださいね。華南の街の空の下から願っております。

こちらは、酷暑です、37度、体感40度といったところでしょうか。でも守られていますので、安心してください。先日、「土楼(土で作られた家・砦のような役割を持った戦火を逃れて移り住んだ漢族の家)」に、若い友人が案内してくれて行ってきました。この人は◯ちゃんと同じ仕事をしています。その時の写真を送ります。また、近所でお母さんほどの方が娘さんと歩いていた時の写真です。もう1つは、永定県にある孔子廟で撮った写真です。

では、お母さん、お元気で!何時も何時も、お母さんのことを思っています!またメールをします。家内からも、くれぐれもよろしくとのことです。