口笛

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クチナシ

 昨日、「薄暮(はくぼ)」でしょうか、夕方の6時過ぎのことでした。バスに乗って、座席が空いていましたので、ゆったりと座ってました。しばらくすると、かすかに口笛(中国語では〈口哨koushao〉というようです)が聞こえてくるではありませんか。ここ中国では、これって珍しいことではありません。鼻歌を歌っているとか、声に出して歌うとか、よく耳にすることなのです。人が、『どう思うか?』なんて考えないで、ご自分の気分で自由に振る舞うことのできる雰囲気の社会なのです。

 車窓から外を眺めていると、何だか聞きなれたメロディーが聞こえてきました。何と、

   さくら さくら  やよいの空は
   見渡すかぎり  かすみか雲か
   においぞいずる  いざやいざや
   見にゆかん

と聞こえてくるではありませんか。五月で、とっくに華南の桜も咲き終わってしまっているのに、季節外れの口笛なのです。家の近くで降車するまでの間、ずっと聞こえてきたのです。だれが吹いていたのかといいますと、そう「運転手さん」で、三十代前半の男性でした。息子の世代です。何かいいことがあったのでしょうか、夕食で満腹していたのかも知れません。それとも、自分を励ましていたのか、雨続きで、ジメジメした気持ちを晴らしていたのでしょうか。つい口ずさんでしまいました。 

 まあ乗客としては、口笛よりも、安全運転に気を配って欲しいのですが、陽気な気分でハンドルを握っているのですから、まあ、『よし!』としたのです。「都バス」の運転手でも、京王でも小田急でも、日本では、こんな運転手は皆無です。運転規則とか、道交法があって禁止のようです。こちらのバスの中にも、『運転手に話しかけるなかれ!』と掲出されてありますから、本来なら、口笛だってご法度に違いありません。でも聞いていた私は、故郷の村の桜、母校の校庭の桜、みんなで花見に行った「高遠の桜」、去年、夜桜を見た「目黒川の桜」などを思い出させてもらって、何となくウキウキさせられたのです。

 そんな気分でアパートの中を歩いていましたら、植え込みに「くちなしの花」が咲き始めているではありませんか。つい、『・・・クチナシの白い花、おまえの・・・・』と、うるおぼえの歌を歌ってしまいました。このフレーズしか知らないので、後が続かないのですが、ジメジメの梅雨のような気候の中で、春、いえ気候不順の初夏を、感謝しながら過ごしております。

(写真は、八重咲きの「クチナシ(山梔子)」です)

『覚えていて・・・』

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「タチアオイ」

 湖南省の名蹟に、社員旅行で出掛けて帰ってきた教え子が、今朝、『今日も休みになりましたので!』と、お土産を下げて訪ねてくれました。総勢80名の二泊三日の旅行だったそうです。学校を卒業して、私たちの町から、そう遠くないところにある会社(日系企業)に就職して、週末に時々訪ねてきてくれる方です。日本語を使う機会は少ないのだそうですが、それでもずいぶん日本語が流暢になったのを感じました。また広州の会社に就職した卒業生から、先週、近況報告を加えたメールが届きました。文面は分かるのですが。彼もまた、日本語を使うことのない職場で仕事をしていますので、『せっかく日本語を専攻し、4年間も学んだのですから、忘れない努力をしてくださいね!』と返信のメールを出しました。

 来月、結婚をするカップルが、私たちの結婚生活が42年のキャリアがあるということで、『結婚について教えてください!』と言って、先週、家内と私を訪ねてきました。大学を卒業して、2年の専門コースを設けている学校で学び、卒業と同時に、そこで知り合った男性と結婚をするのだそうです。幸せになって欲しくて、経験を踏まえてお話をしたのです。この若い友人は、学生の頃からわが家にやってきては、台所の後片付け、家内が入院した時には、下(しも)の世話までしてくれた方で、明るくてハキハキしている女性なのです。『こういう女性と結婚する男性は、きっと幸せを噛みしめることに違いない!』と思ってきたのです。

 その折、『「健全な結婚生活」や「確りした家庭」を構築している町や国は、きっと繁栄していくに違いない!』こともお話させていただいたのです。結婚や家庭が軽視される現代、結婚や家庭に夢を持って生きて行ってほしかったからです。彼らの間に生まれてくる次の世代が、この二人をモデルに、次の世代の結婚生活が決められていくのですから、やはり大きな使命が結婚にはあるのだろうと思うのです。この二人に、昨日あったのですが、『先日はありがとうございました!』と言わないのです。実は、それが、ここ中国では普通なのです。

 私たちの国では、その日にお世話になったら、『今日は、本当にありがとうございました!』と言って辞します。そして次に会った時には、『先日は、お忙しのに、私たちのために・・・』と、再び感謝をするのです。ところが、中国では、その時に感謝をしたら、一回きりでことが終了しているのです。アメリカ人と8年ほど一緒に過ごしましたが、彼らもまた、二度目の感謝をしませんでした。それで一般的に、日本人は、『あれ、この間のことを何も言わないんだけど!?』と怪訝な思いにされることが多いのです。これも、文化や習慣の違いなのです。私たち日本人は、『またお会いしたら、感謝の言葉を忘れないようにしなくては!』と心に銘記するのです。それで、『先日は・・・・』という、これが日本の文化でして、ずいぶんと七面倒臭いのではないでしょうか。《過去にふりかえる日本人》と、《明日に目を向けて生きている中国人(アメリカ人)》の違いがあるのではないでしょうか。

 私が住んでいた街では、こんなことがありました。家族旅行をして、ちょっとしたお土産をもって隣り近所にあいさつをするのです。そうしますと、時を置かずに、何かお返しを持ってくるのです。そのタイミングが、嫌いでした。わが家は、もらったことを覚えていて、その感謝を、別の機会にするのに、即刻の返礼には戸惑ったのです。『お返しを忘れたら、何か言われないか!』といった恐れが、そういった行動を取らせるんだろうと思っていました。とても寂しい、心の通わない近所付き合いでした。こちらは、『覚えていて・・』という隣近所です。夕べは、おばあちゃんが作った、「木綿豆腐」を、幼稚園のお孫さんが、玄関を,、トントンと叩いて、持ってきてくれたのです。美味しいのです!『また何かあったら覚えていて・・・』の午后であります。

(写真は、五月の花の1つ「立葵(たちあおい)」です)

かつて(2)

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ソウル・永登浦区

ある日記に、次の様なことが記されてありました。

 『一体、日本人は朝鮮人を人間扱いしない悪い癖がある。朝鮮人に対する理解が乏しすぎる。(中略)[関東大震災について]自分はどうしても信ずることが出来ない。東京にいる朝鮮人の大多数が、窮している日本人とその家とが焼けることを望んだとは。そんなに朝鮮人が悪い者だと思い込んだ日本人も随分根性がよくな い。よくよく呪はれた人間だ。自分は彼らの前に朝鮮人の弁護をするために行きたい気が切にする。今度の帝都の惨害の大部分を、朝鮮人の放火によると歴史に残すとは忍び難く苦しいことだ。日本人にとつても朝鮮人にとつても恐ろしすぎる。事実があるなら仕方もないが、少なくも僕の知る範囲で朝鮮人はそんな馬鹿ばかりでないことだけは明かに言ひ得る。それは時が証明するであらう。(大正12年9月19日)』

 この日記を記したのは浅川巧(たくみ、1891~1931年)です。浅川は、山梨県北巨摩郡甲村五丁田(現・北杜市/高根町)に生まれ、山梨農林学校(現・山梨県立農林高校)に学び、1914年に、朝鮮総督府林業試験場に就職しています。兄の伯教とともに、朝鮮半島に伝わる陶芸である「白磁」の研究をして、蒐集した「朝鮮文化」の陶磁器や農具などによって、「朝鮮民族美術館」を設立しています。この巧もまた、日本が「日韓併合」の中で苦しむ朝鮮半島の人々のために、生涯を捧げているのです。

 当時の朝鮮半島は、日本が韓国併合をおこない、植民地統治を行なっていました。日本による「同化政策」の強制が行われ、農地・山林の収奪などによって、人々は苦境に立たされていました。とくに、朝鮮の人々に対しての「蔑視(べっし)」や「差別」が公然と行われていました。そういった様子を目にした巧は、『朝鮮に住むことに気が引けて朝鮮人に済まない気がして、何度か国に帰ることを計画しました!』と、友人に宛てた手紙に書きのこしています。彼の心の中には、何も違わない朝鮮の人々を友人として、自ら「朝鮮の衣装」を身につけ、朝鮮語を学んで、上手に使う努力を重ねていくのです。朝鮮の家屋に住み、進んで朝鮮の社会に入っていきました。そのために、よく朝鮮人と間違えられたりするほどだったようです。文化的にも精神的にも民族的にも、極めて近い朝鮮半島の人々の苦しみや痛みを知ろうとしたからです。

 また、当時の朝鮮半島は、乱伐などによって荒廃していました。そんな朝鮮の山の緑化を推進していくのです。そのために植林、肥料の研究、病害虫の駆除などの分野の研究や開発をしたのです。巧の最大の功績は、人工的には難しいとされていた「チョウセンゴヨウマツ」などの種子の発芽を可能にする開発だったと言われています。日本かの裏側で、そういった努力を、日本人技術者が、黙々と進めていたことも忘れてはいけないのではないでしょうか。そのためでしょうか、浅川巧の墓は、ソウル(京城)郊外の共同墓地にあります。かつて、こういった人物がいたのです。
 
(写真は、「ソウル・永登浦区」です)

かつて

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ピョンヤン市内の近影

 ピョンヤンは、朝鮮民主主義人民共和国の首都で、漢字表記にしますと「平壌」になります。私たちの時代には、韓国の首都を「京城(けいじょう)」、朝鮮民主主義人民共和国の首都を「へいじょう」と呼ぶように教わったのです。この平壌で、かつて『聖者』と呼ばれた日本人がいました。重松髜修(しげまつまさなお)という方で、1891年、愛媛県温泉郡粟井村(現在は松山市)に生まれ、拓殖大学の前身である専門学校で、朝鮮語を学んだ方です。専門学校在学中から、『朝鮮のために役立つ何かをしなければならない!』という使命感を落ち続けて、その機会を待ち望んでいました。24歳の時に、朝鮮半島を、日本のような豊かな国にするために渡って行きます。

 学校を終えると重松は、朝鮮総督府の官吏として務めるのです。しかし、『朝鮮の人たちと触れ合うことの出来る仕事をしたい!』との願いを捨てがたく、朝鮮金融組合に転職をします。この転職は、貧しい農村の「小作人(地主の畑を耕作してその手間賃で生きていた人々のことです)」が、高利の金貸しから苦しめられていたので、どうにか助けたいと思っていたからです。そのように朝鮮の人々を愛してやまなかったのですが、朝鮮独立運動の中で、運動員の拳銃によって右足を撃たれてしまい、その後、不自由な足で奔走するのです。この事件の後、彼は平壌にあった金融組合の事務を担当します。その仕事に飽き足りなかったようです。重松の残した手記に、『残る不具の半生を半島農民のために捧げよう。こう決心した時、私は心臓の高鳴りをさえ覚えた!』と記しています。

 平壌から40キロほどの農村に行った時、貧しい農民たちに、《副業》を勧めるのです。日本で美味しい鶏肉の一つに、《名古屋コーチン》がありますが、「養鶏」をして、現金収入を得る道を開いこうとしたのです。当時、その農村で飼われていた鶏の産む卵は小さかったので、この名古屋コーチンや白色レグホンという鶏の改良種を飼うことを奨励し、得た現金収入を《貯蓄》させようとしたのです。そのために、自ら鶏を飼い、《有精卵》の孵化を成功させ、生まれた鶏を、農家に無償配布の計画を立てます。日本人の重松の勧めはなかなか受け入れられなかったのですが、根気強く説き続けると、一軒、また一軒と養鶏をはじめる農家が出てきたのです。

 養鶏を始めてみると、そのもらった鶏の産む卵は見事だったのです。生んだ卵を重松の妻・マツヨが売り歩きますが、売れ過ぎて手が回らなくなり、「江東養鶏組合」を組織するのです。養鶏が始まってから1年ほどたった時に、一人の農家の寡婦が、『30円貯まったので、今度は牛を飼いたいのですが?』と相談にやってきたのです。また、一人の青年が貯金をおろしにやってきたので、重松が理由を聞くと、『医者にかかれない貧しい人のために医者になりたい!』と答えたのです。そういったことがあったそうです。

 戦争が終わった時、重松も逮捕され、検事の取り調べを受けました。担当検事は、厳しく取り調べをした後、書記が席を離れると、その検事は、『先生、私を覚えていませんか。先生の卵の貯金で学校に行った金東順です!』、重松は、少年の頃のことを覚えていたのです。そのおかげで、47日間の拘留の後に釈放され、京城を経て日本に帰国が果たせたのです。こういった日本人が、「日韓併合」の動きの中に、かつていたのです。

(写真は、「ピョンヤン市内の近影」です)

和服~民族衣装~

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「男の着物姿」

 和服の生地(きじ)に、「紺大島」とか「大島紬(おおしまつむぎ)」いうものがあります。父が、羽振りの良い若い時に誂えた和服が、これでした。今でも、昨年召された母の箪笥の中に残されていると思います。次女の結婚式のために、父の体に合わせて誂えてあったのを、母が私のために、ほどいて縫い直してくれたのです。それを、オレゴン州のユージンの町の教会で着て、式に臨んだのです。何十年も経っているのに、絹糸を紺色に染めぬいた生地は、全く色あせることがないほど光沢がありました。その着物に袴(はかま)をはき、羽織りをはおった時、なんとも言えない感慨がしてきました。

 帯を締めて、袴を履き、足袋に草履という出で立ちは、『俺って、やはり日本人なのだ!』と感じたのです。こういった感覚というものを、やはり受け継ぐのでしょうか。そう言えば、弟のために母が縫った「絣(かすり)」を着て卒業式に出たことがありました。自分の他にふたりほど、和服の男子がいましたが、みんなと違った格好をするというのは勇気がいり、またちょっと優越感にもひたれるのは特権なのでしょうか。遠い日の思い出の一つであります。

 最近、着物を着て、下駄を履いてみたいと、しきりに思います。戦前、日本人が下駄をはいて東シナ海を渡ってきたので、そんな格好をしていたら、侵略者の出で立ちと思われ、対日感情を悪くしてしまうことでしょうか。こちらでは決してしようとは思いませんが、体が、そういった感触を求めているように感じるのです。少しばかりの余裕があって、自由に使えるなら、「紺大島」の生地で着物と羽織を誂え、袴も作ってみたいと思うのです。それに桐の下駄か雪駄(せった)をはいてみたいのです。格好をつけたいという洒落っ気というよりは、「日本人の血」なのでしょうか。こういった思いが、好いのかどうか判断に苦しみますが、懐古趣味というのでしょうか、そんな正直な気持がしております。もしかしたら、中華料理の食べ過ぎかも知れません。

 明治のご維新で、日本人は断髪し、和服を脱ぎ捨てて、洋服を着始めました。その変わり身は、服装だけのことではなく、思想的なことも含めて、日本人の「変身」は、その特徴を表していると言われています。機能的で実際的なものに、躊躇しないで移り変われる、この「身のこなし」は、私たちの一大特徴なのです。新選組の副長の土方歳三の写真が残されています。彼が函館で撮った写真は、短髪にシャツを着、ズボンをはいた洋服姿なのです。百姓の倅(せがれ)だった彼が武士、旗本になりたくて侍の姿をしたのに、その急激な変化に驚かされるのです。平成の御代に生きる私が、和服を求めるというのは、そういった動きに逆行してしまうのでしょうか。でも、これは「民族衣装」なのです。

 新宿駅の地下道を、東口に向かって歩いていた時、高下駄を履いていました。その下駄の音が壁に、妙に高く響いていた音が、耳の奥に残っております。

(写真は、「男の着物」です)

父と伊達の殿様

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伊達政宗の騎馬像01

 男は人の前に出るときに、どのように振る舞うのかを、一般的には、父親から息子たちは学ぶのでしょうか。どんな態度や姿勢や振る舞いをし、どんな風に会話を交わし、さらには、どんな服装をするのかということをです。今では、そのようなことの案内書、「マナー教本」がありまして、学生であっても、これから社会人になろうとしていても、やはり身につけなければならないのだと感じるからでしょうか。ある人は、映画やテレビを見ながら、大人の男性をモデルに、いいろいろと学んでいるようです。

 「伊達(だて)」という言葉があります。有力な戦国大名で、徳川開幕後は、仙台藩の初代藩主になった人で、この人の男ぶりや振る舞いから、そう言われるようになった言葉です。ですから、「豪華」、「華美」、「魅力的」、「見栄」、「粋(いき)」などの意味を表しています。ちなみに、「伊達男」、「男伊達」、型や見栄えだけの「伊達眼鏡」とかといった言い方までするようです。

 われわれ4人の男の子を育ててくれた父親は、相模の国(神奈川県)に生まれ育ったのですが、なかなかの「伊達男」だったのです。クリーニングに出したワイシャツに、キリリとネクタイを締め、誂(あつら)えの背広を着、ピカピカに磨き上げた黒革靴を履き、背筋をスッと伸ばし、胸を張って、さっそうと歩いて駅に向かい、東京の日本橋や浅草橋にあった会社に出勤していました。背は低かったのですが、恰幅(かっぷく)が良かったのです。それ以外の服装で外出をしたのを見たことがありませんでした。きっと、ああいった「身嗜み(みだしなみ)」をする男性を、「伊達男」と呼ぶのではないかと思うのです。

 そんな父を見て大きくなった私は、学校を出て社会人になった時に、誂えの背広、真っ白のワイシャツ(もちろん糊の効いたクリーニングに出したもの)、それなりのネクタイ、黒革靴で身を整えたものでした。ラフなGパンしかはかなったのですが、そう身嗜みを一変させたのです。そういった恰好をしますと、やはり気の引き締まる思いがしてきて、「自覚」とか「責任」を内に感じてきたのを思い出します。学校を出たての私が、職場を代表して地方に出張した時に、「身嗜み」の大切さを教えてくれた父への感謝を強く感じたものです。

 そんな父でしたが、人生の最後の職場には、ジャンバーを着て、外出することが多くなったのです。子育ての責任を終えて、収入も減ったのでしょうか、倹(つま)しくしている父の若いころとは違った生き方を見て、ちょっと寂しいものを感じていました。父が召されて四十年が経ちました。最近、服装がルーズになってきているのを感じています。父の子であることを思い起こし、「伊達の殿様」のことを考えながら、再確認している初夏であります。

(写真は、「伊達政宗の騎馬像」です)

目に涙をためていました!

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「万里の長城(八達嶺)」

 1972年9月、「日中国交正常化」の交渉が行われたおり、その中国側の通訳をされたのが周斌氏でした。昨年、その周氏にインタビューをした記事が、「人民日報」の海外版日本月刊に掲載されてありました。会議の間に、八達嶺の万里の長城までの車で観光に出かけたおり、周氏が、姫鵬飛外交部長と大平外相との間に座って通訳をされたのです。以下は、その記事です。

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 『 〈前略〉 大平外相と姫鵬飛外交部長との話はとても感動的で、二人とも最後には目に涙をためていました。大平外相の次のような言葉が姫鵬飛外交部長の心を打ったのです。

 「私たちは同い年で、互いに自らの国のために奮闘し、自らの国のために努力しています。しかし、中国側の要求を全面的に受け容れたのでは私と田中首 相は日本に帰れません。もし『共同声明』に完全に中国側の意見に沿った内容を書き入れたら、交渉失敗とは言いませんが、帰国後に責任を負うことが非常に難 しく、私と田中首相は辞任しなければなりません。もし二人が辞任すれば、つまりこの『共同声明』を実行出来る人間が誰もいなくなるのです。」

 大平外相はさらに、「はっきり申し上げて、私個人は中国側の観点に賛成です。あの戦争は明らかに中国に対する日本の侵略戦争でした。はっきり覚えていますが、私自身、大蔵省から興亜院(日本の対中国政策の調整・執行機関)に移って、三度にわたって張家口付近で社会調査に赴いています。当時は、まさに 戦争が最も激しい時期で、私は侵略戦争を自ら目の当たりにしたのです。実は当時、田中首相も出征し、中国の牡丹江にいました。ただ、彼は実際に戦ったこと はなく、歩兵病院で勤務していましたが。彼のこの戦争に対する認識は私と同じです。」と語りました。

 大平外相は話を続けられました。「ただ、現在の日本の立場、つまり日本と台湾の関係、特に日本と米国との関係を考えると、私は今、中国側の主張を全 面的に受け入れることはできません。中国側の考えを可能な限り汲み取ろうとするのはもちろんですが、もし完全にあなた方の考えに沿った表現をさせようというのなら、それは困難です」。話し終わった後、二人は抱き合わんばかりに感動していました。
 
 姫鵬飛外交部長が長城から戻るとすぐ、周恩来総理に報告したのを覚えています。翌日の午前10時には、『共同声明』の調印が控えていたので、この問題はその日の夜までには必ず解決しなければならなかったからです。当時は現在のように便利ではありませんから、北京外文印刷廠の職員は全員、組版のために待機していました。当日の深夜2時、交渉に参加していた人々 が皆、コーヒーで眠気を払い緊張を維持していた時、大平外相が1枚のメモを取り出しました。私はそのメモの形まで覚えています。

 大平外相は、「姫鵬飛外交部長、これが日本側の最終案です。もしこれでも中国側が受け容れられない、ダメだとおっしゃるのであれば、私と田中首相は荷物をまとめて帰国するしかありません。」と語りました。そのメモには日本語で「日本国政府は日本が過去に戦争を通じて中国人民に重大な損害をもたらしたこと に対し、責任を痛感し、深く反省する」と書かれていました。

 結局、『中日共同声明』にはこの表現が採り入れられたのです。当時、外交部の一部の職員はこの表現では同意出来ないと考えていました。何故なら『侵略戦争』の四文字が含まれていないからです。

 最後にはやはり周総理が口を開き、「日本側が中国人民に対して重大な損失をもたらしたことを認め、彼らも責任を痛感し、深く反省しようとしている以 上、これはつまり『侵略戦争』を認めたことなのではないか。何故どうしてもこの文言を入れなければならないのか。今、田中先生(「さん」の意味です)と大平先生は困難に面してい る。私たちは、問題を解決しようとしている友人たちを困らせるべきではない。」とおっしゃいました。

 当時、中国は『文化大革命』の最中でしたが、外交面では 周恩来総理が絶対的な権力を持っていたため、周総理がこうおっしゃったことで議論が収まったのです。』

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 これが、交渉の舞台裏の出来事でありました。

(写真は、「万里の長城(八達嶺)」です)

鋼(はがね)

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「江ノ電(江ノ島電鉄)」

 父と同じ年、しかも同じ月に生まれた人に、大平正芳という政治家がいました。香川県三豊郡和田村(現・観音寺市)で、明治43年3月12日(1910年)に、農家の子弟として誕生しています。八人兄弟の六番目の子でした。貧しい子供時代を送りますが、二箇所から奨学金を得て、東京商科大学(現・一橋大学)に進学し、「経済思想史」に興味を持ったそうです。卒業後、大蔵省に入省し、池田勇人蔵相の秘書官などを歴任して、1952年に、衆議院議員に立候補して当選、それ以来11回の当選を果たしています。官房長官や大蔵大臣を歴任し、総理大臣に就任します(第一次は1978年から第67代、第二次は1980年から第68代)。在任中の1980年6月に、過労が原因で急死しておられます。

 テレビで有名な解説者の池上彰(NHKの記者、テレビ解説者を経て、東京工業大学の教授やテレビ出演、著作などをしています)は、歴代の総理大臣の内、この大平正芳を、『最も聡明な総理大臣でした!』と高く評価をしています。この大平正芳は対中国の関係回復のために多大な功績を残していると言われているのです。1972年9月に、「日中国交正常化」のために北京を訪れました。その折、毛沢東主席、周恩来首相と面談した田中角栄総理大臣と共に、外務大臣として随行しているのです。とくに、中国の外交部長(日本の外務大臣と同職)の姫鵬飛部長とのやり取りの中で、その誠実ぶりが、中国の関係者の心を動かして、その正常化交渉が成功したと言われています。大平正芳は、男の涙を相手に見せたのです。それだけ真摯な態度があったことになります。

 学校の授業のために本を読んでいますが、ある本に、大平正芳に関して、次のようなことが記されてありました。

 『・・・日中関係が好転した最大の理由は、あるいは大平正芳に対する中国側の強い信頼感であったのかも知れない。この点は、その「道義性」とともに、中国の対日外交の顕著な特質であったのかも知れない。相手に対する、ある種の敬意と信頼感なしに外交交渉が実らない。・・・要は、そうした中国の外交スタイルや外交観に、日本がどれだけ敏感になれるか、ということである(毛利和子著「日中関係~戦後から現代へ~」岩波新書219頁)』

 父の同世代の考え方、生き方、交際術、交渉術というのが、小手先の技術だけではなく、「誠実な人間性」なのだということがわかったようです。それを受け取る相手にも、そういった資質があったということでしょうか。これからの難しい外交のために、大平正芳の熱意ある努力が、学び直される必要があるように感じます。これは、やはり「明治の気骨」なのかも知れません。鍛え上げられ、叩き上げられた「鋼(はがね)」のような強さを感じてなりません。

(写真は、明治43年に開業した「江ノ電(江ノ島電鉄、2006年に撮影)」です)

枇杷

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「枇杷」季節の花300

 『ウワーッ!こんなに高いの!』と驚いて、ほとんど買って食べたことがなかったのが、この時期の旬の「枇杷(びわ)」でした。四つか六つ入ったパックの値段を見て、買うのを控えてしまったことがありました。家内が、無事にビサ(査証)を取得してこちらに戻ってきましたら、寒暖の温度差が大きくて、少し体調を崩してしまいました。それで、お見舞いに訪ねてきてくださった方が、大きな袋にいっぱいの「枇杷」を買ってきてくれたのです。しかも、一級品で、知り合いの果物商から買ってきたと言っていました。そして、スプーンで上手にビワの全面をなぜて、皮をむきやすくして、手渡して、『食べてください。肺にいいんです!』と言って家内と私に進めてくれました。果肉が厚く、果汁もたっぷりで、こんなにたくさん食べたのははじめてのことでした。

 実は、働いていた事務所の庭に、「枇杷の木」がありました。実が小さかったのですが、味は抜群に美味しかったのです。ところが、食べごろになると、大群の鳥がやってきて、またたく間に、ついばんで食べてしまうのです。彼らと競争で取り合ったものを食べましたが、種が大きくて実はほんのわずかでした。この枇杷の葉が、「抗癌作用」があるというので、『葉を少し分けていただけますか?』とおっしゃる方がいました。そんなことを思い出して、今週は、枇杷を堪能しております。そのせいでしょうか、家内が元気を取り戻して、台所に立てるようになりました。もしかしたら、訪ねてくださった方の「愛」と「優しさ」に効用があったのかも知れません。

 この枇杷は、中国原産で、日本には、すでに六世紀頃に、大陸からわたってきたと言われております。枇杷ずきな大陸人が、行った先で栽培して、この味を楽しもうと思って種を荷物の間に忍ばせて、大海原をわたってきたのでしょう。これが果物として市販され始めたのは、そんなに昔ではなかったと思うのですが、長崎の茂木産のものが多かったように思いますが、形状はいいのですが、あまり美味だとは言えませんでした。ところが、この数日食べているものは、やはり本場物というのでしょうか、実に美味しいのです。なんだか羨ましがらせてしまって、申し訳ありません。今朝、スーパーへ、家内に変わって買出しに行き、「冷凍秋刀魚」を買ってきて、大根おろしで、今、食べたところです。外は薄暮、これから、「枇杷」を楽しもうと思っております。

(写真は、”季節の花300”の「枇杷」です)

『最後に一番良い仕事がある!』

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「レンギョウ(連翹)」

 一時期、住んでいた家の玄関の脇に、「連翹(れんぎょう)」が植えられてありました。早春に、まっ黄色の花をつけて、実に見事でした。花などに、まったく感心を向けたことのなかった私でしたが、山歩きに誘われて山道を歩いている間に、『この花は◯◯!』と教えてくれる方がいて、そんなことで花に関心をもつようになったのです。季節季節に咲く花は、『わたしは、こんなに美しく装って生きているのだから、あなたも一花咲かして生きなさい!』と言われているように感じたのです。

 花にまつわる話で、一番印象的だったのは、一人の教師が、卒業の時に、色紙に書いてくれた言葉です。『野の花の如くに生きなむ。』とです。獄窓から見える日陰に、小さな花が咲いていて、それを眺めて慰められたのだそうです。きっと、『生きるんだぞ!』とでも語りかけてくれたのでしょうか。詳しい話を聞かずじまいでしたが。

 ここ華南の地は、まさに「百花繚乱」、様々ないろどりの名を知らない花が咲き誇って、春の訪れを告げてくれています。花を見るにつけ、「一花」咲かすこともなく幾星霜が過ぎてしまったことに思い至ります。それでも、し残したことがあるような責めを感じることもなく、今を生きています。結構充実している日々を送っていて、手持ち無沙汰などという感じはありません。若かった頃のように、時間に追われ、あくせくすることが、もうありません。子どもたちを育てる責任からも解放され、静かに過ぎている時間を、ゆったりとして生きられるのは、実に感謝なことです。「読人しらず」の文章に、こんなことが書かれてありました。

 『この世の最上のわざは何?楽しい心で年をとり、働きたいけど休み、喋りたいけど黙り、失望しそうなときに希望し、従順に、平静に・・・・人のために働くよりも、謙虚に人の世話になり・・・最後の磨きをかける・・・最後に一番良い仕事がある・・・』

 そんなことが書かれていました。今日の日曜日の朝、バスに乗って出かけましたが、つり革にぶら下がっていますと、一人の青年が肩を、『トントン!』と叩きました。無言で、『座ってください!』と席を譲ってくれたのです。それで、『謝謝!』といって座らせてもらったのです。日本では、『私を年寄り扱いしないで欲しい!』といって、若い方の好意を拒むケースが多いのだそうです。長男が生まれて、お兄さんとばかり思っていたのに、『おじさん!』と言われて、『どうしておじさんなの?』と聞くと、『だって、赤ちゃんがいるじゃん!』と答えていました。そう、初めて席を譲られた時に、躊躇したのですが、すぐに座らせてもらってから、もう断ったり、若ぶったりしない、「おじいちゃん」なのです。

 そう、「楽しい心」で生きること、これに尽きますね。父が61で召され、どんな思いで「老い」を迎え、受け入れていたのかなど、考えたことがありませんが、父が思ったように、今の私も思っているのでしょうか。「最後の仕事」が何か、今わかりはじめています。帰りのバスは空席があって、座って帰って来ました。アパートの中を歩いていたら、きれいな花が、『お帰り!』と言ってくれたようでした。

(写真は、早春に開花する「連翹(れんぎょう)」です)