新聞

 

 

毎朝ポストに、「下野新聞(しもつけ)」が配達されてきます。栃木県は「下野国」と呼ばれていました。「朝刊」って、〈朝の匂い〉がして、とても懐かしいのです。全国紙も地方紙も、同じ材質の紙に、同じインクで印刷されていますから、ほとんど同じで、朝一番で外部からもたらされる〈情報の匂い〉でもあります。

13年以前、我が家も新聞をとっていました。初めは「讀賣新聞」でした。父は〈読売巨人軍」を贔屓(ひいき)にしていましたから、自ずと新聞も、そういうことになり、4人の子たちも、父に倣ってしまったわけです。ところが私だけは、脱落して「毎日新聞」に変えてしまったのです。

それは友人の息子さんが、毎日の記者になったからでした。〈川柳〉と〈コラム〉が面白くて、先ず初めには、そこに目が向いてしまうのです。中国に行きましてからは、友人が切り抜きを、時折持ってきてくれるだけで、「◯◯晩報」を、路傍の新聞掲示板を、たまに覗き見るだけでした。

 この地方紙の一面は、 [~外国人材活用で情報共有~県、「促進協」設置へ]とのトップ記事でした。地方の企業体の就労を、外国人に頼らざるを得ない現状があるからでしょうか。さらっと読みながら、この地方紙の果たしてきた役割を感じ取っています。

この新聞を、私たちの住まいを提供してくださっている友人が、こちらに参りましてから毎朝、ポストに入れて下さるのです。早朝に働いておられながら、家内の出迎えまで、先日の退院時にしてくださったのです。小学生の時にも、彼は新聞少年で、雨や雪や風の中を配達をしてきた方です。息子も娘も、そして私もしてきた新聞配達です。

昨日は、この方と奥様と私たちとで、一緒に歌いながら、語らいの時を持ち、その後、一緒に食事をしました。ここでも大きな愛に囲まれながら過ごすことができ、幸せを噛みしめているところです。今朝も快晴、北関東の朝は、キリリと寒く、身が引き締まる感じで始まりました。

 

小江戸

 

 

ここ栃木市は、宇都宮市が県庁所在地になる以前、栃木県の県都でした(明治16年まで)。徳川家康の墓所が久能山でしたが、日光に改葬されてから、この街は、徳川幕府開祖の家康の墓を詣でる人の往来で、賑わった街でした。そればかりではなく、〈日光東照宮御用〉のために、資材などを運び入れるため、また、それに携わる人々の生活物資を商う、商業都市として栄えて行きます。

京都の朝廷は、家康の墓所詣でのために年一度、「勅使(ちょくし)」が、日光東照宮参りをしました。この使いを「例幣使(れいへいし)」と呼びましたので、その通り道を、「日光例幣使街道」と呼んでいました。いわゆる、その〈落とし金〉でも、この街は潤ったことでしょう。そのせいででしょうか、〈下野商人(しもつけしょうにん)〉は豪商が多かった様です。

そんなことから、ここは「小江戸」と呼ばれ、喜多川歌麿と関わりがあったそうです、その記念館もあります。また、「路傍の石」で名を馳せた、山本有三の出身地でもあります。栃木市を中心に、街興し、観光客誘致で、〈SLの蒸気機関車デゴイチ(D51)〉を、東武電鉄が走らせる計画があるそうです。

とくに巴波川(うずまがわ)の流れを利用して、舟運が盛んになり、江戸を往来する物資が運ばれたそうです。江戸の木場あたりには、木材、野菜、特産品が運ばれ、帰りの舟には、様々な物が、江戸から運ばれて来たのです。よく時代劇に、川辺を『御用、御用!』と言って、奉行所の役人の捕物が、行き来する場面に、この巴波川の河岸が使われるのです。

どうしてかというと、江戸に風情を残す蔵が、そこに残されているからです。それで栃木市の観光の一大スローガンは、「蔵の街」なのです。蔵の白壁と木枠と瓦の黒色が対照的なのです。まさか、こんなところで映画やテレビに劇のロケが行われるとは、江戸期の住民は思いもしなかったことでしょう。

落ち着いた雰囲気と、ほどほどの田舎な感触、人の優しさ、男体山(なんたいざん)や那須の山々が間近に見られ、夕焼けが綺麗なのを、家内が大好きなのです。今まさに、闘病の日々ですが、一昨日は、私たちに中国滞在をバックアップしてくださっている方の夫人で、日本にやって来て、二人の子どもさんたちの進学を考えているお母様が、こちらの大学に行く準備中の息子さんを連れて見舞ってくれました。

家内は、静かで落ち着いた時を過ごしています。孫の見舞いを楽しみにしていたり(明日も来てくれるそうです)、中国の友人たちのことを思ったりの日々です。昨日は、長男の嫁の父君のふるさと・鹿児島で、ご兄弟がついた餅を頂いていたので、関東風の〈お雑煮〉を、今夕食には、魚の煮付け、しじみの味噌汁、シーチキンといんげん入りの炒り卵、舘山寺味噌(出来合い)、桃とみかんの缶詰を食べました。美味しそうでした。

(栃木市内を流れる「巴波川」です)

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午前5時、外は《満天の星》です。寒暖計が見当たらないのですが、外気温は0度以下でしょう。〈寒さ体験〉が、これまで何度かありました。一度は、夏期にアルバイトをした、雪印乳業の工場にあった、アイスクリーム用の冷蔵庫内でした。零下35℃だったと思います。外気温との差が、60℃ほどあったでしょうか。防寒服を着て、真夏日の日向で日光浴をしました。

もう一度は、大連に行った時でした。新年が明けたばかりの頃に、貧しい子どもたちに冬用の衣類を持参して、知人を訪ねたのです。吸う呼吸で鼻毛が凍る感覚があって、あのアイスクリーム保存庫と同じ体験をしたのです。市内の道路では、溶けた雪が踏み固められていて、家内が滑ってしまい、急遽冬用の靴を買ったほどでした。そんな寒さの中を、大連人は、なんでもない様に闊歩(かっぽ)していたのを見て、流石(さすが)と思ったのです。

一番切ない寒さ体験は、何年も何年も前に、12月の初めだったでしょうか、晴天の日に、山梨と長野の環境付近にあった入笠山(にゅうがさやま)

に、家内と登った時でした。数日前に降った雨が、その山を登るにしたがって、山道の雪が深くなっていったのです。戻らずに、小屋の庇の下で食事をし、林道に出て下山したのです。念のため家内には足につける滑り止めを用意していたので、それを着け、私は登山靴でした。林野庁の車が行き来したのでしょうか、路上の雪は凍っていました。

今度は私が、何度転んだでしょうか、家内は泣き出すほどでした。林道は、日光のいろは坂の様で、ヘアーピンの様にくねくねの連続で曲がり、行けども行けども車を停めたあたりにたどり着かないのです。思いによぎったのは、『初老の夫婦、初冬の雪山で遭難!』でした。寒いし、疲れるしで、引き返さなかったのを悔いたりでした。でも車にたどり着くことができたのです。

今、滞在している栃木も結構寒いのです。関東平野の北端で福島や新潟に続く山岳地帯の麓です。でも部屋の中は、オイルヒーターと、電子カーペットの上にコタツを置いて暖をとっていますので暖かです。昨日は華南の友人から電話があり、家内は、この方と久しぶりに談笑していました。

今日は、友人夫妻と、長男家族と、次男夫婦(嫁後は体調が好くないので来れるでしょうか)が来ると言ってきています。華南の町の若き友人のお嬢さんの《十七》の誕生日です。毎年日本風のケーキを贈って来た来たので、今年はカードと〈ケーキ代〉をお母さんに、家内が託しておいたそうです。そろそろ大学受験の準備期、カナダに留学を考えている様です。もう、外は白んできました。好い1日であります様に!

(広島県呉市灰ヶ峰に咲く「ロウバイ(蠟梅)」です[HP/里山を歩こう])

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昨日午前中、家内は1時間半ほどの生体検査をしました。部分麻酔で、口から管を入れて、気管支を通って肺に及ぶものでした。夕方は、医師の指示で、MRI検査をしました。体全体を調べた様です。

組織を採ったのですが、病理学医師の所見では、不十分だそうです。右肺にも水があって、先日取り除きました。両肺にダメージがあります。若いI 医師(男性)とK医師(女性)が治療を担当され、病棟の看護師さんたち病院にスタッフが、よくしてくれています。

それで、造影CTを撮りながら、組織を注射器のような形で取り出す検査を、再びしたいとのことでした。これをしなければ病因がつかめないからです。そうすることは、医師にお任せた私たち家族は、それが最善と思っております。

今週の火曜日と木曜日に、その検査ができるのですが、今週の予約は、空きがなくて取れませんでした。一旦退院して、これからI医師が検査日を決めてくれる日に受けたいと思います。家内の心は、静まっております。

それで家に帰ることになり、今朝病院にまいります。検査の連続で、体も心も疲れているに違いありません。友人が提供してくださった家に帰って、ゆっくり静養できたらと願っております。昨夕、友人が、車で迎えに行ってくれると言ってくれました。

好き友がいて、どんなに力強いか知れません。《イチゴ》の生産量が日本一の県で、そのイチゴを、『奥様に届けてください!』と頂いたり、私の帰宅時の夕食のために、惣菜をくださったりです。先日は、彼手作りのおせち料理を残しておいてくださって、りんご、彼手作りのパンケーキを添えて持参してくれ、帰国の私たちを迎えてくださったのです。

中国華南の街の友人たちが、入院中、帰国時に示してくれた友情と隣人愛と時間も、驚くべきものでした。帰国後の私たちへの経済的なサポートも、東京で大学を出て、今都内で働く、一人のご婦人の息子の口座に送金してくださり、届けてくれるそうです。額は半端ではありません。医療費への援助にためにと言ってです。

子どもたちも、あれこれと最善を考えていてくれます。次男は、ギター持参でやって来て、休日で人のいない一回外来の待合エリアで、それを奏で、歌を歌って、母親を慰めていました。娘たちは、愛読書からことばを送信してくれ、長男家族が祭日に見舞ってくれました。二人の兄としたの弟も連絡してくれています。

そんな時を、いま、家内は過ごしています。愛心のこもった支えで、きっと癒えていくのではないないでしょうか。家内に最善がなされる様に願う日々です。ありがとうございます。

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いちご

 

 

壬生町から「男体山(なんたいさん)」を望んだ写真です。きっと、多くの若者が、この鎮座しているかの様な山を仰いで、『この山の様に大きくなろう!』と心に決めて、故郷を後にしたのでしょう。ここに嫁いで来た嫁は、『この山の様に、ここから動かないわ!』と念じたことでしょう。

私の生まれふるさとにも、そんな山があり、川が流れ、木が生い、花が咲き、果実が実っていました。友人で、この住まわせてもらっている家のご主人が、『栃木県はいちご生産量がある日本一なんです!』と、昨日メールで知らせ、早朝の玄関のたたきの上に、そのイチゴをひとパックを置いてくれました。入院中の家内に届けるようにと言ってです。また、帰宅後、私の夕食にと「トロトロ豚肉」を調理した小鉢を、玄関の外のたたきの上に置いてくれたのです。

大陸で愛を受け、ここ祖国でも愛を受け、『ああ幸せ者よ!』と感謝しています。この方は、暮れにでしょうか、おせち料理を作られて、黒豆、数の子、ニシンの昆布巻きを、大陸からやってくる私たちのために、残しておいて、届けてくれました。まさに、正宗の《日本の味》なのです。手製パンケーキも美味しいりんごもありました。

彼は、ある学校で学びつつ、寮生の食事の賄いをしておられたことがあって、抜群に味が良いのです。奥様も料理上手なのですが、昔取った杵柄(きねづか)で、本業に勝るとも劣らない腕です。

ああ、祖国も、友も、家族も、実に好いものです。これに匹敵するする様な、大陸の街の若き友人たちの、とろけてしまいそうな愛心を想っています。炬燵に入りながら、炬燵の上には、「みかん」がのっています。私たちを迎えるために、そうしておいてくださいました。

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逆転

 

 

東広島市の賀茂台地に咲く「オオイヌフグリ」です。そこは広島県のほぼ中央に位置し、周囲を標高400~700m前後の山々に囲まれた台地でそうです「HP/里谷を歩こう」。《早春の花》が、2019年を飾っているようです。

私たちにとりましては、この新年は、元旦に家内が入院して始まりました。七日間、私たちに住む華南の病院で過ごし、退院の翌日に帰国し、その翌々日に、北関東にある獨協医科大学に入院したところです。まず検査をしようとしております。結果が出次第、治療が行われる模様です。

あんなに元気で、子育て中に、病気ひとつしなかったのに、歳を重ねた今、病んだのですが、気持ちは落ち着いているようです。人っ子一人いない病院の祝日の待合室のベンチで、次男が家内を励ましていました。立場逆転です。

そこには、早春の陽が射しこんで、体も心も温められた様です。低い音で、ギターを奏で、一緒に歌ったのは、ずいぶん久しぶりのことでした。心が高揚され、強められ、開放されたかのようでした。子どもたち代表の次男訪問の成人の日でした。

 

 

 

関東平野の北の山岳部に、手が届きそうな辺りに、獨協医科大学はあります。今5時が過ぎ、夕闇の帳が降り、山の上に雲がかかり、冬の空は寒そうです。

家内の見舞いを終えて、東武宇都宮線の「おもちゃのまち駅」のホームにいます。宇都宮駅からの電車が来て、乗り込んだところです。単線の各駅停車です。新栃木駅で東武日光線に乗り換え、栃木駅にいきます。

今日は、次男が、ギター持参で見舞ってくれました。彼はブラバン出身で、ドラムスやギターやピアノ、多くの楽器をこなすのです。彼が弾き、三人で歌ったのです。おさないひに、よく歌った歌でした。

家内は、いっぺんに元気になってしまいました。時間確認のため置き時計が欲しい家内のための、それを持参してくれました。一緒に〈伊右衛門〉を飲んで美味しそうでした。

4人の子育てを、よくやりました。次々に自立独立していく子どもたちを送り出し、それ以来、空の巣で、『今頃、どうしてるかしら?』と、母親の彼女は自分のことはさておき、病床でも想うものなのですね。

中国の華南の街に、家内の入院生活を、心情的に、経済的に支えてくださる友人たちの一団があります。想像を絶するほどの額です。かつて、この国を軍靴で踏み荒らし、多くの物を搾取した者たちに末裔(まつえい)に、《一家人yijiaren/家族の一員》と言って愛をお示しくださるのです。感謝が尽きません。

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山歩き

 

 

『広島県広島市南区、広島港の東に位置する元宇品は 一見すると島には見えませんが、実際は橋でつながった島で、かつては宇品島と呼ばれています。そこに咲く、「イズホオズキ」です。』とありました。こんなに寒い季節に、見るものを楽しませる様に咲く花は、私たちの保半の様です。今年も、[HP/里山を歩こう]が配信していただき、楽しみです。

最近、山歩きをしていないのです。何年か前に、正月2日に、森林公園から抜けて行く山道を歩いたりしました。幼い日に、兄たちの後を追って、山に分け入って、木通(あけび)を取ってきて、米櫃(こめびつ)で追熟して食べたりしたことがあったのが、山歩きの最初だったのを思い出しています。山の崖から、兄たちの作った手製に橇(そり)で滑り降りたのも思い出します。

探検もよくやったのです。基地作りもしたでしょうか。東京に出てきても、三多摩は田舎で、里山や小高い丘などがあって、自然が溢れていました。そう、自然からの距離が遠くなってきているのに気づきます。家内と、何度か山歩きをしたので、『今年こそは!』のお正月です。

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地産地消

 

 

今まで、「たらふく食べる」経験が二度ほどあります。こちらの有名なホテルのレストランには、バイキング形式で、中華料理、日本料理、西洋料理、そしてケーキやパンやアイスクリーム、蕎麦まであるのです。ご主人が政府関係の仕事をされていて、そのホテルの招待食事券を頂いて、この方の夫人と家内と3人で出掛けたのです。

刺身、寿司、生牡蠣、ローストビーフ、チーズなどが、ふんだんにあって、食べ終わったら、「コンゴの蛙」の様になって、破裂寸前でした。美味しいし、珍しかった物もあって、喉に剣を当てないで、食べて、ちょっと罪責感を覚えてしまったのです。帰宅して、恥ずかしくなってしまいました。

外国で、日本食と洋食が食べられる機会なんて、そんなに多くないので、〈食べダメ〉を決め込んでしまったのです。食い意地の汚さに、我ながら呆れてしまい、つい地が出てしまったわけです。母が、『高貴な人と、食事を共にする時は、剣を喉に当てなさい!』と教わっていたのですが、偉い人はいなかったので、つい油断してしまったわけです。

もう一回は、小学校に上がる前の年の夏でした。山奥にたった一軒の店があって、そこで季節の果物、桃を売っていたのです。どこかに行った帰り、父と二人でした。いくつ食べたでしょうか、父は制限なく食べさせてくれたのです。家に帰ったら、ゲリをしてしまって、母が父を怒っていたのを覚えています。

二回とも、美味しかったのです。「腹八分」が健康と、長寿の秘訣だと言われています。山梨県の棡原(ゆずりはら)村は、長寿で有名な村だと言われていました。その一つの理由は、その村は、山間の村で、閉鎖されていて、外部からの食べ物が入ってこなこないのです。ところが、地域間の流通が始まって、加工品を食べ始める様になってから、長寿村の名を失ったと聞いています。

何を食べるかが大切です。その生活する土地で作られた食物のを食べる、つまり、《地産地消》が人の体に一番好いのだそうです。私たちは、この13年間、この国の空気を吸い、水を飲み、野菜や肉や魚を食べてきました。でも外資系のスーパーがあって、そこでは輸入食料があり、それを食べる機会が増えたようです。日本製食料は、よその食べ物なわけです。

今朝、家内は退院して、その足で、日本で治療を勧められましたので、空港から日本に帰ろうとして搭乗手続きをしたのです。ところが、ドクターストップで、明日に延期になってしまい、家に戻ってきたのです。それで、夕食に、残っていた物で、野菜スープを作ったのです。「あご出汁」で味付けをしたので、美味しかった様です。食べ物が食べられるとは感謝なことですね。

(山梨県上野原町に吸収合併された棡原の部落です)

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昨日

 

 

今、省立医院の住院部B区14楼17区18号室の窓辺で、外の通りに面した所にいます。Night Shiftでお世話くださった方が、朝番で来てくださった婦人と一緒に、家内の体を拭いたり、着替えをして下さったり、細々としたことをし、家内に夜中の状況の申し送りをして、8時過ぎに帰って行かれました。

この方が、入院中の費用の支払い、お世話の担当表の作成、全てのことを《司令塔》の様になって、して下さっています。ご主人やご両親などでされている、海産物の商社のお仕事もあり、高校生のお子さんがいるのですが、多くの犠牲を払って仕えていて下さるのです。朝番で来て下さったのは、検察官をされている若いご婦人で、二人の子のお母さんです。

10時前に、こちらの方と結婚され、高校に通っておられる男の子を持つ、家内の若き友人(日本人のお母さん)が来て下さいました。大学受験の準備を始めている息子さんの受ける"TOEFL"ために、〈英語の単語帳作り〉をして上げながら、お世話下さっています。再来年、日本の大学に〈帰国子女枠〉として、また中国の大学に進学の予定です。ほとんど毎日、ここに来て細かなことをして下さっているのです。

毎日、午前・午後・夜と三交替で、一人、また二人と、元旦から今日六日まで、間断なくお世話をして、支えていて下さるのです。午後一時になると、また何人かのご婦人が来てくださる様です。

外国で病んで、入院生活をするのは、大変さを感じますが、多くの愛を受けて、なんの不自由もないことに、大いに感謝しているところです。かえって受ける愛の大きさと、多さとに圧倒されております。申し訳なさを言うと、『你们跟我们是一家/あなたたちは私たちの家族だよ!』と言ってくれています。

この国で、家族扱いを受けるなんて、すごい特権ですね。四人の息子娘たちに代わって、彼ら以上に敬意や愛や親切を示して頂けるのは、在華13年の祝福のすべてです。今、午後番のご婦人が、差し入れの食べ物を持参して来てくれ、申し送りをされて、朝番の方が、ご主人と小さな子どもさん二人の待つ家に帰って行かれました。

(ここからは夕方に記しました)日曜日に、病院で過ごすのは、一昨年の初に札幌の整形病院に入院以後、初めてのことです。病棟の向こうの小高い山の裾野が、低い雲に隠れて見えます。静かな日曜の午後になりました。12年の間、いつもお世話下さったご婦人が来てくれました。大学の法学部の先生です。あの検察官のお母さんは、この方の教え子です。今夜は、古書を買取販売する方のご夫人がお世話下さいます。下の世話までみなさんがして下さるのです。また四人の方が見舞って下さいました。感謝で一杯です。

(1月6日記す)