憂国

.

.
藤井武が、次の様な文を書き残しています。1930年7月に、「亡びよ」という題でした。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

日本は興(おこ)りつつあるのか、それとも滅びつつあるのか。
わが愛する国は祝福の中にあるのか、それとも呪詛(じゅそ)の中にか。
興りつつあると私は信じた、祝福の中にあると私は想(おも)うた。
しかし実際、この国に正義を愛し公道を行おうとする政治家の誰一人いない。
真理そのものを慕うたましいのごときは、草むらを分けても見当たらない。
青年は永遠を忘れて、鶏(ニワトリ)のように地上をあさり
おとめは、真珠を踏みつける豚よりも愚かな恥づべきことをする。
かれらの偽(いつわ)らぬ会話がおよそ何であるかを
去年の夏のある夜、私はさる野原で隣のテントからゆくりなく漏れ聞いた。
私は自分の幕屋(まくや)の中に座して、身震いした。
翌早朝、私は突然幕屋をたたみ私の子女の手をとって
ソドムから出たロトのように、そこを逃げだした。
その日以来、日本の滅亡の幻影が私の眼から消えない。
日本は確かに滅びつつある。あたかも癩(らい)病者の肉が壊れつつあるように。
わが愛する祖国の名は、遠からず地から拭(ぬぐ)われるであろう。
鰐(ワニ)が東から来てこれを呑(の)むであろう。
亡びよ、この汚れた処女の国、この意気地(いくじ)なき青年の国!
この真理を愛することを知らぬ獣(けもの)と虫けらの国よ、亡びよ!
「こんな国に何の未練(みれん)もなく往(い)ったと言ってくれ」と遺言した私の恩師(内村)の心情に
私は熱涙(ねつるい)をもって無条件に同感する。
ああ禍(わざわ)いなるかな、真理にそむく人よ、国よ。
ああ◯よ、願わくば御心を成したまえ。

♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡♡

藤井は、明治20年(1888年)、北陸金沢に生まれた人でした。警察畑で働いた後、将来を嘱望されていたのに、官職を退職し、内村鑑三の弟子となります。師にも勝るとも劣らない器でしたので、碩学(せきがく)と碩学の考え方の違いで衝突し、後になって和解するを何回か繰り返しています。しかし、師の死に際しては、告別の任をとっています。彼自身も、42歳で没してしまいました。

私は、若い日、友人の紹介で、彼の全集を買い求めて読み始めましたが、その思想や、生き方や、あり方が潔く、はっきりと主張してやまない様子が好きだったのです。「憂国の士」で、日本の将来を危惧しますが、この様な主張の15年ほど経った時に、日本は米英との戦争に負けて、焼土と化します。

今の日本は、何かしら、藤井が心配した時と、同じ様な国情、国際上の諸国との関係にあって、多くの問題が孕んでいて、同じ轍(てつ)を踏まないか、ちょっと心配です。人心も乱れて、〈民意の高さ〉など、誇れない時代ではないでしょうか。私は、この国を逃げ出しませんが、務めがあるなら、外に出て、そこから祖国を執り成したいと思ってもいます。

(金沢の「銘菓」です)
.

.

world map illustration (globe / sphere). focus on Japan and east asia.

.
「職人」、もう少し適格な日本語表現をすると、「匠(たくみ)」ですが、その「匠の技」を見たことがあります。日光東照宮や二条城などでの建造物ではなく、東京都下の農家の屋根裏に上がった時に、この目にした時でした。屋根裏の骨組みをなしている建築材(母屋〈もや〉)が、真っ直ぐではなく、自然の曲がりのまま使われていて、その曲がりに合わせて、屋根を支える縦の木材(小屋束〈こやづか〉)が、「枘(ほぞ)穴」に、「枘」が寸分の隙間もなく組み込まれていたのです。

建て売りの家の普請しか見たことがなかった私は、すっかり驚いてしまったのです。宮大工でもない、二百年も、いえ、もっと前の、田舎の村で名前などないに等しい大工さんが、それほど精緻に大工仕事をしていたことに、驚いたのです。そこは見られることなどない隠れた箇所であって、興味深い私の様な者でなければ、見ようとしない陰の部分でした。

小学校を過ごした街の通学路に、二軒の桶屋がありました。プラスチック製品など無い時代でした。風呂桶や手酌や寿司桶などを、何種類もの独特な鉋(かんな)や鋸(のこぎり)や鑿(のみ)などを使って、板床に座り込み、木屑にまみれて作業をしていたのです。水を張ると、一滴の水さえ漏れない様な作業をしていました。檜の木の匂いが好きで、座り込んでは、おじさんの手の動きを眺めていたのです。

出来上がった、この方の作った桶を、わが家でも風呂桶に使っていたのです。井戸水を、ポンプで汲み上げて、薪で沸かして柔らかく揉まれたお湯が気持ちよかったのです。ただの大工のオヤジ、桶屋のオヤジの磨き上がった手の技は、子どもの私にも、興味が尽きませんでした。工場で大量に作るのではない、コンピューターなんかない時代の手作業の「匠の技」には、度肝を抜かされてしまったのです。

地球の位置は、どうでしょうか。太陽の熱量の恩恵は、絶妙な距離に保たれているのです。もう少しでも近ければ、金星の様に砂漠化してしまいます。遠ければ火星の様に凍りついてしまうに違いありません。地球の重力の大きさも重要です。重力が小さ過ぎると、月のように無重力になり、不毛の地になってしまうのだそうです。また大き過ぎると、木星の様に、生命体がいたとしても、有毒ガスが発生して窒息してしまいます。

まさに絶妙なバランスに、宇宙はあるわけです。そのバランスには、知恵があり、計画があり、目的があるのです。家や桶や鉋に作り手があるなら、それらに勝る地球や太陽系や宇宙に、「造り手」がいないはずはなさそうです。桶屋のおじさんは、独特な寸法を測る道具を持っていて、驚くほどに研ぎすまされた技を持っていました。地球は、《何をかいわんや》です。

今年も、この地球の上で、時々、揺れ動く日本で、このところ想像を絶する様な量の暴雨が降り、エアコンの効かないほどの暑さに見舞われそうですが、「正宗の職人」の「匠の技」、「創造の業」の上にある安心感は、まだまだ大丈夫で、持ち堪えそうです。

.

駅伝とアメフト

.

.
今年も、とても面白かったのです。シード校10校と予選を勝ち進んだ10校の20校、そして学生連合チームを加えた21チームが参加して、正月の二日、三日と、東京と箱根を結ぶ200kmを、往路5区、復路5区の10区を、襷を繋いで競う「箱根駅伝(東京箱根間往復大学駅伝競走)」が、今年96回目が行われました。

往路も総合も、青山学院大学が優勝しました。娘たちの家族がいるのに、テレビを持たないわが家で、朝から昼過ぎまで、ラジオにかじりついて、私は中継放送を聞いていました。母校の名誉のために、自分の学校の襷を、次走者に渡して、ゴールを目指す奏者たちの姿が、実に素敵なのです。13年振りになるでしょうか。

もう一度、スポーツができるなら、箱根駅伝の走者として、走ってみたい思いが、ずっとしています。力尽きてしまったり、足がつってしまったりで、棄権することもあります。緊張のあまり寝不足だったり、風邪をひいたりで体調管理ができないこともあります。それでも、襷をつなごうとする思いがあって、その思いが積まれて、走り切るのです。
.


.
第1回大会は、1920年に行われ、東京高等師範大学(現在の筑波大学)が優勝しています。オリンピックに出場した金森四三は、『オリンピックで日本を強くするには、長距離、マラソン選手を育成したい!』と考えて、この「箱根駅伝」が始められたそうです。その考えの中には、かつて東海道を飛脚が、宿場と宿場を走って、繋いでいたことと関係もありそうです。

かつてはマイナーだったのが、年々人気が高まり、テレビ中継が行われる様になり、爆発的な人気を博して、もう《国民的正月行事》となっています。個人の人気もありますが、母校の名誉をかけて走る下向きさがいいのでしょう。もう根性で走るだけではなく、科学的にも一年をかけて準備をしていくチーム作りに、コーチングスタッフの指導も欠かせなくなってきています。

アメリカでは、一月一日に、百年以上の伝統のある、アメリカンフットボールの「ROSE BOWL」が行われ、14才の孫と婿殿と一緒に、ネット中継の試合を観戦しました。オレゴン大学とウイスコンシン大学の対決で、1点差で、彼らの地元のオレゴン大学が勝ったのです。このスポーツ競技もアメリカでは、野球と双肩を競うほどのものです。勝って、狂喜しないで、冷静に孫が喜んでいていました。このチームは彼のお父さんの母校なのです。

.

小さな幸せ

.

.
「団欒(だんらん)」、暮に実家に帰って来た娘たちの家族と、8人で、正月気分を味わっています。お雑煮、おせち料理、温州蜜柑を、娘たちが用意してくれて、その味に馴染んで過ごしてきた「正月」を、肩を触れ合う様な狭い洋間に、テーブルと炬燵を囲んで、和気藹々(わきあいあい)で迎えています。

口から食物を摂れない家内が、窮余の治療で、首の血管から、栄養剤を入れるようにされた姿を見て、家内の最期を予測した私にとっては、この元旦に、テーブルで、娘たちの作った「お雑煮」を口に運んで、『美味しい!』と言っているのを眺めて、感無量です。

鶏肉、小松菜、三つ葉、醤油鰹節味の祖父流、関東風仕立てで、食べて育った娘たちが、同じ味を受け継いでいるのです。ヨーロッパ移民のアメリカ人家庭で育った二人の婿殿たちが、それを上手に箸を使いながら、たづくり、なます、松前漬け、数の子、蒲鉾、伊達巻、昆布巻きなども、躊躇しながら口に運んでいました。さらに二人の孫たちも、文句なしで食べていたのです。

孫たちは、イワシの丸干が並んでいるテーブルを囲んでいました。幼い日に、スーパーの魚売り場を、鼻をつまみながら走り抜けていた初孫が、高校生になった今、家内が焼いた干物の匂いを懐かしんでいる母親を横目で眺めながら、昨晩の食卓を、鼻をつまむこともなく囲んでいたのです。

元旦には、私の弟が、姪の運転で、この家を訪ねてくれ、お昼を一緒にし、夕食には、元旦営業のスーパーで、高級ずしと有名店のシュークリームを買ってくれて、それに娘たちの料理を加えて、「新年会」を持つことができました。弟と元旦に、同じテーブルを囲むのは、半世紀ぶりになるでしょうか。

昨日は、巴波川の河岸を、一緒に散歩をし、婿殿や孫たちの放る餌に群がる鯉や鴨を相手にしながら楽しんでいる様子を、家内が微笑みながら眺めていました。歩けるのに、婿や孫に、車椅子を押してもらって、私には見せない満面の笑みを浮かべていたのです。

お昼は、スーパーの弁当売り場で、それぞれの好みに応じて、弁当やサンドイッチや唐揚げを買って、フードコートですませたのです。婿たちが、前の番に美味しく食べたシュークリームが気に入ったのか、また買ってくれて、たい焼きもデザートにしてくれて、一緒に過ごしました。

実に感謝な時を、共にしながら、「小さな幸せ」を、最大限楽しんでいる家内は、満ち足りて、心溢れております。明日は、二人の息子が家族で訪ねて来ます。日光の近くの宿泊施設で、泊りがけで、過ごす予定になっているそうです。そして明後日は、ついぞしたことのない、《家族写真》を14人で、明治五年開業の老舗の写真館で撮ることにしています。これは家内の《たっての願い》によります。

こんな素敵な「2020年」を、共に迎えられて感謝でいっぱいです。娘たちは食後、孫たちの要望で「ユニクロ」に行きましたが、先に家内と家に戻った私は、また〈転寝(うたたね)〉をして、正月早々、家内に叱られてしまいました。

(“アートバンク”の正月風景です)
.

音と臭い

.

.
毎朝、朝6時になると、鐘の音が六つ聞こえてきます。近くのお寺の鐘です。鐘楼の鐘を突く音だと、もっと情緒があっていいのでしょうけど、スピーカーの合成音の様です。なんだか百年ほど、タイムスリップしている様に感じてしまいます。元旦の朝も、同じように聞こえてきました。

♭ ゆうやけこやけで ひがくれて
やまのおてらの かねがなる
おててつないで みなかえろ
からすといっしょに かえりましょう

こどもがかえった あとからは
まるいおおきな おつきさま
ことりがゆめを みるころは
そらにはきらきら きんのほし ♯

空気が澄んだ日は、踏切の列車通過を知らせる音も聞こえてきたりします。ひっきりなく聞こえてくるのは、救急車の患者搬送のサイレン音です。消防署と救急病院の間に住んでいるからです。

♭ 昨日の夢 流行の唄 君の言葉 響く靴音
町のざわめき踏切の前立ち止まり

頭の中真っ白になるまで考えてたいんだ
それは君の事でも僕の事でもなんでも構わない

目の前をいつの間にか通りすぎていた
八月の風を感じながら

気がつけばそこは人ゴミ溢れ
かき消されたため息さえもう何も届かない

何が何だか もうさっぱりだ声を聞かせておくれ
一体何だって言うんだ!?何か言っておくれ

交差する電車猛スピードで目の前を加速する
一瞬僕から音が遠ざかる…

気がつくと踏切の前
同じ場所にいる僕がいた
何も変わらない何者でもない
僕がここにいただけ ♯

また最近は、夕刻になると、拍子木を打つ音がしてくるのです。『火の用心、しゃっしゃりませ!』の口上はないのですが、冷たい空気の中に響いてくる音も、随分と懐かしく感じられます。

♭ チョキチョキ チョッキン 火の用心 ♯

子どもの頃に聞いた音で、もう聞くことのできない音が、いくつもあります。〈焼き芋売り〉の呼び声です。自転車に乗った〈トーフ屋〉のラッパ音、〈納豆売り〉の呼び声、〈竿竹売り〉の呼び声、〈ちり紙交換)の呼び声、〈包丁とぎ/鍋穴の修理/傘の修理〉の呼び声なんか、もうどこでも聞こえなくなってしまいました。

華南の街には、一組の竹の板や茶碗を片手で打ち鳴らして、何ていうのか知りませんが、伝統のお菓子を売り歩くおじさんがいました。一度だけ買って、興味津々で食べたことがあったのです。きっと故郷の懐かしい味なのでしょう。長葱と独特の味噌と小麦粉で作った物を、リヤカーに独特な窯を載せて、そこで焼きながら売り歩いている知人がいました。家内が、それを頂いて帰ってきたことがありました。

音だけではなく、臭いが思い出され、幼い日が蘇ってきそうです。アッ、カーバイトのアセチレンの臭いがありました。電池のない時代には、携帯ランプとして使われたり、お祭りの屋台の照明に使われたりしていました。あの匂いは、もう一度かいでみたいものです。

今年は、どんな珍しく、郷愁を誘う懐かしい音を聞くことができるでしょうか。華南の街の音楽堂で、演奏会があって、何度か招待状をいただいて、聴きに行ったことがありました。音楽大学の教師が、そんな機会を設けてくださったのです。懐かしい正月の雰囲気が、何と無くして来る朝です。

(カーバイトランプです)

.

人生にイエスと言う!

.

.
迎えた新しい2020年、私はどんな人と出会うのだろうか、どんな時を過ごすのか、どこに行くのか、何が起こるのか、ワクワクしたり、驚いたりするのだろうと、寝床の上で、年明けの今、考えています。

人には、先が知らされていないのが好いのだそうです。将来が誰の前にも、秘密にされて見えないわけです。もちろん願いや希望はありますが、人はそうやって生きて来たわけです。

私の誕生に関わった両親、その両親から生まれた二人の兄と、ひとりの弟のいる家族の中で育ったこと、終戦間近の暮れに、父の赴任地の山奥で生まれたことは、全部偶然ではなく、なるべくしてなった必然でした。それから年を重ね、多くの人と時と出来事と出会い、自分の意思だけではなく、何か大きな力に押されたり、引かれたりして生きて来ました。

昨年末、新しく住み始めた家、親元に、長女夫婦が帰って来ました。翌日、次女家族四人が続いてやって来ました。長男は、嫁御の実家に帰る所だと、高速道路のサーヴィスエリヤから連絡があり、正月四日にはやって来ることになっています。次男も、嫁御の実家で正月を過ごして、ここに来ると電話してくれました。彼らの親になったことも、育てたことも、不思議な出会いであり、配剤だったに違いありません。

私に最高、最善の伴侶が与えられ、次々と生まれて来た四人の子どもたちと一緒に、同じ家で過ごし、同じものを食べて、家族として、同じ空の下で過ごし、時至って、それぞれに彼らが独立して、各自の人生を生き始めて行ったのです。親子や兄弟や結婚の絆とは、不思議さ、言い知れない導きがあったと思い返してます。

私の学んだ中学の校長が、『離合集散常ならず!』とよく、全体朝礼の講話で言っていました。人、時、出来事の出会いや別れは、不可思議な力に押されたり、引かれたりしていると教えられた通り、今を迎えています。

私の愛読書に、『見よ。わたしは新しいことをする!』とあります。繰り返されることではない、《真新しいこと》、これまで経験したことのないことが起こると言うのです。《新しい人》、《新しい時》、《新しい出来事》との出会いがあるのです。

これまで、そうであった様に、喜んだり、あるいは悲しんだりするのでしょう。それら全てをひっくるめて、人の一生があるわけです。臆せず、慌てず、意気阻喪しないで、喜び、躍り上がったりもするのでしょう。あらゆる境遇に対処する秘訣を身につけ、人生の機微を楽しみ、耐えて生きたいものです。

みなさんの今年が、意味や価値のある一年であります様に。健康も病気も、出会いも別れも、それらを引き受けて、助けられ、励まされ、また叱責されたりして、何でも起こりうる人の世で、すべてのことを感謝して、「温故知新」で生きて行きたいものです。フランクルが言った、『それでも人生にイエスと言う!』、そんな一年を生きたいと、空(から)の巣に帰って来、帰って来ようとしている子たちを、家内と共に迎える正月です。

(福寿草です)
.

.

.
私たちの「今年の漢字」は、[謝]です。昨年末に、体調を崩した家内を、省立医院の夜間救急診療にお連れ頂き、血液検査をし、元旦に、MRI撮影、入院治療、一週後に帰国し、獨協医科大学病院に転院し、4月15日に退院し、その後、三週、四週ごとの通院で、今年を過ごしての今日の大晦日です。

中国の華南の街の友人たちの愛に溢れたお世話を頂き、入院中、病床で何くれとなく助けて頂きました。入院費、治療費もみなさんが払ってくださり、お見舞いの志も溢れるほどでした。帰国の飛行機は、ビジネス席を買ってくださったのです。帰国してからは、3組の方が遠路をお見舞いに来てくださり、家内に本場中華料理を作って食べさせてくれたり、家の掃除までしてくれました。お米や食料品を、何度もどっさり買ってくださった夫妻もいました。

昔からの友人、家内の姉妹たち、兄の遺家族、従兄弟、華南の街でお交わりをさせていただいた日本人のご婦人たち、私の兄弟らに物心両面に支えられ、励まされることができました。《匿名》で支えてくださった方もおいでです。子どもたちの友人、娘息子たちの配偶者の家族の激励がありました。

首都圏から、退院後の家内の通院のためにやって来て、車で送り迎えを、し続けてくれた長男の〈母孝行〉の犠牲は大きかったのです。次男は、免疫促進に良いとのサプリメントを買って送ってくれ、来るたびに「よもぎ餅」を、高島屋で買って来てくれました。入院直後には、娘たちが家族を家に置いて、駆けつけて、助けてくれました。二人の兄、弟が、退院した家内を温泉に連れて行きたいと、鬼怒川に招待してくれました。

省立医院の主治医、獨協医科大学病院の主治医、研修医、看護師など医療従事のみなさんから、適切な治療と看護を頂きました。私たちの帰国で、住む家をお貸しくださり、鍋釜、皿や丼や箸、寝具、暖房機器、娘たちが配偶者や孫たちと、家内を見舞うために、アメリカからやって来た時には、寝具や暖房機器を揃えてくださっり、数え切れないほどの助けをくださった友人夫妻からの、兄弟にも優っても劣らない愛をお示しくださいました。

台風19号の水害で被災した私たち、とくに治療中の家内が、床上浸水した家にい続けては、健康被害があるといけないと、その友人夫妻のご子息が言って、高根沢町在住の友人に連絡し、避難を打診してくださったのです。その方のご好意で、事務所の二階のゲストルームをお世話くださり、被災の翌日から三週間弱の間、私たちに避難所を提供してくださいました。その二階に住み始めた私たちに、お米や柿や、ブドウやリンゴ、和菓子までお届け下り、ある方はお見舞いの志までくださいました。

ここ栃木で、初めてお会いした方が、新鮮で、有機栽培や無農薬の野菜や果物、家内の病状に良い物を見付けては、退院後、今日に至るまで、毎週毎週お届けくださっています。一昨日は、インフルエンザ流行の兆しが見えて、感染を予防するための〈医療用マスク〉、枸杞(くこ)の実、棗(なつめ)を届けてくださいました。継続して、献身的に家内を支え、私の健康まで気遣ってくださっています。様々な医学や食に情報を、家内に提供してくれています。まるで《弟》の様にしてです。

来年、新年早々、家内が通院するのですが、その足のために、車で送り迎えしてくださると、こちらの方と結婚された中国人のご婦人が言ってくださっています。この方が、家内のために餃子を作って、先日、届けてくださったのです。また華南の街で、長くお交わりを頂いたご夫妻が、正月明けに、家内を見舞うために来日してくれます。

もうお返しができないほどのご好意と、犠牲と、愛をお示しくださったみなさんへの感謝や深謝や謝意の[謝]なのです。このいろいろな出来事のあった、この年を越せ、新しい年を迎えられるのも、愛するみなさんがお示しくださった愛のゆえです。家内はもちろん、4人の子どもたち、婿たち、嫁たち、孫たちと共に、みなさんに、この欄をお借りして感謝を申し上げます。迎える新年が、祝福に満ち溢れます様に、心から願っております。ありがとうございました。

(乾燥させた「枸杞の実」です)
.

心の栄養

.

.
今年、〈花林糖断ち〉を宣言したのですが、一度だけ食べてしまいました。息子のお土産に買って、帰りに持たせるつもりでしたが、『要らないよ!』と言われて、しばらく乾物ケースに入っていたのですが、『まあいいか!』で、手をつけてしまいました。宣言違反でした。

そうしましたら、家内が交わりをしていた、華南の街にあった〈奥様会(既婚者女子会〉〉のメンバーで、日系企業の総経理をされていた方の奥様が、一足先に帰国されていて、家内の病気を知って、お見舞いにきてくださったり、宅配してくださったりで、「日田羊羹」を二度も頂きました。お嬢様の嫁ぎ先の金沢の「きんつば」までも。

また、来年大学受験の男の子さんを持つお母様も、そのメンバーで、息子さんよりも一足、二足早めに帰国されて、京浜の街でお仕事をされているのです。帰国子女枠で、有名大学の受験準備を、お母様もなさっておいでです。この方からも、関西圏の銘菓が送られてきて、〈甘党〉は、脆くも誘惑に落ちてしまった今年の後半です。美味しかったです。《心の栄養》で感謝しています。

どこの老舗でしょうか、羊羹の紙袋に入ったお金を、もらった政治家がいたそうですが、不届きですね。羊羹の紙袋は、あくまでも羊羹にのみ使うべきです。これで〈日本カジノ〉に綻びが入って、破談になるといいですね。合法、非合法問わず、賭博は、競馬や競輪や競艇、パチンコにしろ、人を不幸にし、家庭をダメにさせる元凶だからです。

社会勉強で、若い頃に一度だけ、立川競輪場に行ったことがありました。車券は買わないで、夢中になって赤鉛筆をなめなめして、勝ち予想をしている人の真剣な顔を、眺めて帰ってきました。“ ジャンジャンジャン ” の鐘の音の響きが、魔物の様な音で聞こえていました。クワバラ、クワバラです。

ところが上の息子が、ボランティアで来栃の折、“ 二日遅れのシュトーレンー “を差し入れしてくれ、華南の街で食べた味を思い出して、美味しいのと懐かしいのを味わいました。昨日、半分を出先に持って行き、みなさんに差し入れしました。小豆にしろ、レーズンにしろ健康食品です。娘が、もう一本持ってきてくれました。次女や次男は、持ってこないでしょう。次男は、《正宗(zhèngzōng/中国語で〈正統派〉という意味です)の「よもぎ餅」》を、母親の身体に好いと、毎回、持参で訪ねてくれます。

(大分日田の赤司日田羊羹です)
.

書を読み

.

Students Youth Adult Reading Education Knowledge Concept

.
首相官邸が、災害時の「非常持ち出し品」のリストをまとめています。

* 飲料水、食料品(カップ麺、缶詰、ビスケット、チョコレートなど)
* 貴重品(預金通帳、印鑑、現金、健康保険証など)
* 救急用品(ばんそうこう、包帯、消毒液、常備薬など)
* ヘルメット、防災ずきん、マスク、軍手
* 懐中電灯、携帯ラジオ、予備電池、携帯電話の充電器
* 衣類、下着、毛布、タオル
* 洗面用具、使い捨てカイロ、ウェットティッシュ、携帯トイレ
* ※乳児のいるご家庭は、ミルク・紙おむつ・ほ乳びんなども用意しておきましょう。
  
ところが、ユダヤ人は、子どもたちに、『お前が家を焼かれて、財産を奪われたとき、持って逃げるものは?』と言う問いに、次の様に教えるのだそうです。それは無形、無臭、無色なものだと言う条件付きです。その答えは「知性」だそうです。

どうも、「本」、良書との出会いや携行を言っている様です。親が子に処世の術を教える時に、日本の内閣府が見落としていることに、注目させている様です。人は、物、パンだけで生きているのではなく、思想とか、精神とか、知性とかで生きるのであって、子どもたちの物を得ようとの思いから、目を転じさせようとしているわけです。

件の災害持ち出し袋の中に、「本」がないのは残念でなりません。物質主義が横行し、物で氾濫した世の中で、物よりも大切なものがあることを、ユダヤ人は教えているわけです。例えば、『旅先で、故郷の人が知らない本に出合ったら、必ず持ち帰れ!』、『貧しい時に売るのは金、宝石、家、土地。しかし本は売ってはならない!』、『本は敵にも貸さなければならない。さもないと知識の敵となる!』などの格言が残っているそうです。

父は、小学生の私に、『辞書をひいて本を読め!』と、よく言いました。現代の日本人は、本を読まないのだそうです。スマホの影響だけではなく、知識欲が衰退しているに違いありません。批判や批評能力は相当なものを持ちながら、知性的な貧困が見られるのです。避難所で、電気も何もないなら、蛍雪や月明かりでも、本を読むことはできます。

『書を捨てよ!』と主張した寺山修司は、口にすることとは裏腹に、驚くほどの読書量があったのを見落としてはなりません。二十一世紀の若者に、『書を懐に旅に出よ!』と言いたい、いえ、旅には出なくとも老人にもです。そんな思いの2019年の年の暮れです。

.

里帰り

.
.
.
13年前に、天津の語学学校で、中国語を学ぶために出かける決心をして、35年分の所帯道具を整理しました。ほとんどの物を、『エイッ!』と廃棄した中で、 家内の妹に、使って欲しくて上げた物がいくつかありました。それが、先日、送り返されてきたのです。

次女の婿殿の母君が、芸術家で、ご自分で作られた物を何点かいただいたのを、差し上げたのですが、栃木に住み始めた家内に、戻してきたわけです。壁などにかける飾り物なのです。〈出戻り〉でしょうか、〈里帰り〉でしょうか、久しぶりに手にして、懐かしくなってきました。

母君は、お病気で、数年前に召されたのですが、料理上手で、何度かご馳走になったこともありました。太平洋の港町に、白亜の別荘を持っていて、泊めていただいたこともありました。創作の場でもあった様です。この方のご主人が、面白い趣味をお持ちなのです。太平洋の波に運ばれた浮遊物が、砂浜に打ち上げられるのですが、それを朝早く、拾い集めて歩くのだそうです。

魚網につけるガラス製のブイや、波に削られた木材や、まあ思いもよらない物もある様で、もし自分も海岸に住む様なことがあったら、真似をしてみたくなる趣味です。実際に泊めていただいた時、海岸を物色したのですが、何も手にできませんでした。
遅かりし内蔵助でした。東日本大震災の津波で、三陸海岸などから、漁船やオートバイなど、様々な物がさらわれて、海流に乗って、アメリカの海岸に打ち上げられているそうです。

知多半島の美浜町に、「三吉漂流記念碑」と言う碑があります。街の広報に、次の様にあります。

『(小野浦の漁民の岩吉・久吉・乙吉が)1832年、宝順丸という千石船に乗り江戸へ向かう途中嵐に遭い、太平洋を1年2か月も漂流した後、アメリカ西海岸へ漂着。その後イギリス経由でマカオに送られ、そこでドイツ人宣教師ギュツラフの聖書の和訳に協力、翌年モリソン号に乗り日本へ。しかし浦賀、鹿児島で砲撃を受け帰国を断念。中国にて、多くの日本人漂流民の援助を行い、送還の手助けをする。また、イギリス海軍の通訳として日英交渉に力をつくした。美浜町が生んだ日本最初の国際人。』

海外渡航を禁じた徳川幕府は、石数(こくすう)の小さな船底の浅い船だけに制限したため、当時の漁船や運搬船は、大嵐に耐えられなかったので、宝順丸も難船してしまったわけです。三浦綾子が、「海嶺」と言う本を書き、映画化されました。土佐のマンジロウも、難船した船員でしたが、賢い人だったそうで、幕末明治に語学に通じていたことで、大変有為な仕事をされています。

「雪中花」と呼ばれる水仙は、中国の河を下り、海に出て、波に運ばれて、日本の海岸に漂着して根付いたので、日本の海岸線に多く棲息し続けてるのだそうです。椰子の実だけではなく、様々なものが渡来してるのは、ロマンがあって興味深いのです。日本人の一部は、その海流に乗って渡来した民なのでしょう。

渥美半島の突端で、何かないかと砂浜を見て歩きましたが、収穫がなかったことがありました。波ではなく、郵便によって〈里帰り〉した額が、今、食卓を見下ろしています。

(知多半島の美浜町の海岸です)
.