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『廣田先生、ご無沙汰しています!』と声をかけられて、話しかけてくれた方の顔を思い出せませんでした。ある大学で2ヶ月ほど会話を教えたことがありましたが、その時の30数名いた学生の一人が、彼でした。ホテルのフロント・ボーイとして、眼をキラキラ輝かせてゲエストを送り迎えしていたとき、私の姿を見かけて呼びかけてくれたのです。日本から来られた方と面会するので、そのホテルのロビーにいた時のことでした。どこでだれと会うかわからないのですね。僅かの間しか教えていませんのに、教室の椅子に座って、教壇の上に立ち、机間を歩きまわる教員を凝視するのですから、彼らは忘れることはないでしょうか。でも私は、もう5年も前の学生の顔は忘れてしまっていたのです。20前後の若者の成長の変化は大きいのですから、ある面では仕方がないかと、言い訳をしています。
『「お名前は何でしたっけ?」と聞くと、「〇〇です」と答える。「うん、苗字は覚えているんだけど、下の名前は何でしたっけ?」と聞くことにしている!』と、私の弟が教えてくれたことがあります。そうすると忘れてしまったことの言い訳をしないで、名前を聞くことができる、名前を聞き出す優れものなのだそうです。彼は、幼稚園から高校まである私立学校の教師ですから、名前を覚えるのは大変です。幼児から高校生まで、幅広く体育教師をして教えているのですから大変です。どんなに記憶力が優れていても、全員を覚えることは至難の技なのでしょうか。来年、母校の管理職を最後に退職するそうです。
ある時、『たまには東京に出てきませんか。会わせたい人がいますから!』と連絡がありました。地方都市にいた私に、ある大学で教えている知人からの電話でした。この方とは、「高野山」で行われた研修会で同席し、その後、何くれとなく世話をしてくださった方でした。『ここの胡麻豆腐が美味しいんです。いっしょの食べに行きましょう!』となんども誘ってくれて、宿坊の中でご馳走してくれました。お父様が、有名な哲学者で、彼もまた学者でした。息子のようにでも思ってくれたでしょうか、とても面倒をよくみてくれたのです。約束の帝国ホテルに参りましたら、この方と同年輩の夫妻が待っていてくれました。ある私立学校の理事長でした。『私の学校で働いてみませんか!』とのお誘いだったのです。『今回、私の学校の卒業生で、廣田鐵も招聘しているのですが・・・』と言われたのです。お話しが途切れたとき、『その廣田は、実は私の弟です!』と口を挟みました。このご夫妻も、私を呼んでくださった方も、眼を丸くして驚いていました。それは全くの偶然だったのでしょうか。兄弟とは知らないで、弟と私を教師として、同じ時に迎えようとしていたのですから、私も驚きました。
私は意を決して、働いていた学校を退職し、アメリカ人実業家の新規事業の助手となり、彼から教えられることを願って、彼に従って東京から出て、地方都市に行ったのです。それをやめるわけにはいきませんでした。当時、私は、早朝、中央蔬菜市場で競りに参加して、野菜や果物を扱う仲買商の荷運びのアルバイトをしていました。学校に通っていたときにもしたことのある仕事でしたから、苦にならず、運動とバイト料の一挙両得で楽しい時期でした。待遇面から比べると、比べ物になりませんでした。私を紹介してくださった方には申し訳なかったのですが、理由をはっきりとお話しして、お断りしてしまいました。理事長夫妻も分かってくれました。それなのに、数年後、この方は、自分の務めている学校に、また私を招いたのです。東京に出てきて、その学校に彼を訪ねました。今度は女子大でした。長女も生まれていた頃ですから、物入りも多かったので、いろいろと心配してくれたお話しでした。その優しい配慮は肝に入りましたが、条件や将来の約束の良さで、意を覆すことができなかったのです。またお断りしてしまいました。
それでも大過なく子供たちを育て上げることができました。大きな組織の中にある安定から、個人がささやかに始めた事業の不安定さに移っても、満足度は十二分に覚えることのできた事業への参加でした。自分を建て上げるためには貴重な年月だったと、振り返りながら思います。その実業家も、彼の友人たちも亡くなってしまいました。ふと頭を見ると、李白の「白髪三千丈(坊主頭ですから当てはまらないでしょうか)」です。髪の寝癖を直すのに、毎朝、蒸しタオルを使っていたことなど、今のこの頭を見たらだれも信じてくれないでしょうね。「月日は百代の過客にして行かふ年また旅人なり。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす」と記した芭蕉に同感の今です。ゆったり時が流れていくのですが、中国の社会の発展の速さに、眼を回されてしまう、間もなく師走の十二月であります。
(写真上は、「胡麻豆腐」、下は、今の「帝国ホテル」です)