上の兄が、中学校の英語の先生の影響で、新宿の寄席「末広亭」に出入りしていたことを知った私は、忠実な弟だったので、兄に真似て落語なるものに関心を持ち始めたのです。「小噺」とか「落し噺」とか「洒落」とかいった言葉を、そのころ覚えたのだと思います。『明日、神宮球場で、早稲田と慶應の試合があるんだってねえ!』、『そーけー!』とか、『隣に塀ができたって言うじゃあねえか!』、『ヘー!』といった寄席での話を兄から聞かされて、これも兄の猿真似で、学校に行って、早速やったのですが、級友たちの反応は全くなかったのを思い出します。日本語は、同じ音の言葉が多いので、駄洒落天国の言語だと言われています。「きかい」という言葉ですが、機械、機会、棋界、奇怪、鬼界、貴会、まだまだあります。そういえば子どもの頃は、ラジオで、よく寄席中継をしていましたし、浪花節や講談も耳にする機会が多くありました。
上の兄が、大学受験の勉強を、ラジオの講座で聞いていた時でしょうか、早めにスイッチを入れると、村田英雄が、「人生劇場(尾崎士郎作)」という歌謡浪曲をやっているのが耳に入りました。大正時代、早稲田で学んだ青成瓢吉が主人公の「青春編」や、吉良常が主人公の「任侠編」といった出し物で、難解なところもあったのですが、毎回楽しみにラジオの前に座って、一生懸命に背伸びをして聞いていました。文庫本で、原作を読んだこともあります。けっこう続編が続いていましたが。ラジオで声を聞いた村田英雄も先年亡くなってしまいましたね。こう言ったのを「雑学」と呼ぶのでしょうか、知識欲旺盛な子どもの頃に吸収したものは、良いことも意味のないことも、時がたっても忘れないのが不思議でなりません。
落語家には、古今亭志ん生とか柳家小さん(五代目)とか三遊亭金馬がいました。おかしくて腹を抱えたこともありましたから、小学生の私にも筋が分かったわけです。その落語家、噺家の中で、「名人」と言われた一人が、六代目の三遊亭円生でした。大阪で生まれたのですが、江戸弁で、『そうでげす!』といた言葉を話しているのを聞きましたから、それが今でも耳に残っています。この円生は、6才の時に、20ほどの演目を持って、高座に上るほどの天才少年だったそうです。通常、「真打(しんうち)」は、30~40年の間に努力を重ねて、100席ほどの演目を身につけるのが普通なのだそうです。ところが円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることのできた、稀代の噺家だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・・』と言って話し出す落語ですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられ、さらに落語好き人間とされてしまったのです。
そんなですから、学校帰りに、新宿で降りて、伊勢丹の隣にあった「末広亭」に何度通ったことでしょうか。級友を誘って行ったことがあって、北海道の札幌から、卒業式に出席するために上京された、彼女のご両親に、『娘を落語に連れていってくださったそうで、ありがとうございました!』とお礼を言われて、なんだか気恥ずかしかったのです。感謝されるんだったら、オペラとか歌舞伎に連れていってあげればよかったのですが、寄席の木戸銭(入場料)は、学生の私でも二人分くらいは、難なく払えるほど安かったのです。
今では、「大喜利」というのが人気で、テレビで中継されているのを、よく聞いたことがあります。日本語の面白さが、噺家の口から語りだされて、抱腹絶倒し、あとで思い出してはニヤニヤして笑ってしまうのには困ったものです。江戸でも上方でも、庶民の芸能が盛んで、そんな落語の世界の言葉で、日本語が形作られたのだとも言われています。夏目漱石は落語通だったようで、その作品にも落語が登場しますし、落語で聞いた会話がヒントとなって、小説が書かれているのです。漱石は、三代目の柳家小さんの落語を、ことのほか好んだと言われていますから、名作「吾輩は猫である」の作品は、猫に語らせる落語の手法だと言われて当然なのかも知れません。大衆文化が、こんなに隆盛を極めたというのは、逆に言いますと、上からの押し付けが厳しい時代の息抜きとして、江戸時代に庶民芸能が好まれたに違いありません。
停滞ムードの立ち込めている今日日の日本、江戸の庶民に倣って落語でも聞いて気晴らしができたら、欝にならないで、現実を明るく見つめて、明日に希望をつないで生きることができるのではないか、そんなことを、大陸の片隅で切々と思う霜月の15日であります。そういえば、兄に付いて行って、新宿の「ガンちゃん」の家でご馳走になったことがありましたから、私は昭和の与太郎だったに違いありません。
(写真は、新宿の「末広亭」です)