郷愁

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 子どもの頃、我が家へは、道路の側面を流れる小川に架かった木橋を渡って庭に入りました。木製の戸を開けて玄関を入り、廊下を渡って、木と紙でできた「障子」を開けて、井草と布で作られた畳の敷かれた部屋に入り、木と紙で作られた襖(ふすま)を開けて、鹿の角や水晶や掛け軸のある床の間の部屋に出入りしました。着替えや布団は押入れに収め、木で作られた椀に味噌汁を注ぎ、木や炭で炊いた御飯を木の箸で食べて、夕餉を木製の食卓を家族で囲んでとりました。夕べには、木で作られた風呂桶に、井戸からポンプで汲み上げた水を張り、薪を燃料に湯を沸かし、木の桶で湯を取って使い、ほとんど毎日入浴をしました。母は、綿と布で作られた布団を畳の上に敷いてくれ、おなじようにしてできた上掛けを掛けてくれ、蕎麦殻と布でできた枕で就寝しました。毎年、五月五日の頃には、家の親柱に、背丈を兄が刻んでくれました。歌の文句のようですが、出雲の田舎から祖母が送ってくれたチマキも、毎年食べました。家の外壁も木の板、かろうじて屋根だけは、トタンでした。

 中国に来て、住んだ家はコンクリート造りで、切り石の床、ビニール塗料のぬられたコンクリートの壁でした。遠足で連れていってもらった天津の郊外の農村は、煉瓦造りの家で、土間があり、煉瓦と土壁で出来ていました。美味しい餃子をお腹いっぱいご馳走になったのです。アメリカに旅行し、韓国のソウルに旅行しても、アルゼンチンやブラジルやカナダやシンガポール、どこに行っても、昔の木造平屋作りの、木と紙の織り成す質素な日本の家屋の独特な情緒と接することはありませんでした。高度成長期に入った日本では、木造からコンクリートの家に代わってしまい、モルタルの塗りこまれた壁の中に閉じこめられてしまいました。最後に住んだ家には、障子も襖も床の間も長押も木板の木目のある天井も、もうなかったのです。それでも山がに友人が借りて住んでいた築何十年(もしかしたら百数十年)の農家は、藁葺で全くの木造で、壁も床も床柱も囲炉裏の煙でくすんで黒光りをしていました。貧しさの象徴かもしれませんが、長い歴史を感じさせ、人の技のやさしい機微が残されていて、『ああ、いいなー!』と、嘆息してしまいました。

 実は、この7月から住み始めた家も、コンクリート造りの「公寓(アパート)」なのですが、大家さんが、田舎から運んできた楠で床を張り、同じ楠で部屋に収納や机や寝台を作ってくれたのです。木が持っている独特の匂い、温かさというのは、家内と私、訪ねてくる客人の心を、なんともいえなく落ち着かせてくれます。私の原風景の記憶の中にも、こういった、「木」と「紙」で出来上がった温もりがあります。日本人は、狭い国土の中に住み続けてきましたが、自然の恩恵に浴すことのできた《特恵の民》だと思うのです。春の草木の様々な青葉若葉の緑、夏の濃い葉の緑や真っ白な入道雲や海の波しぶきの白、秋の紅葉の赤や黄、秋晴れや冬の小春日和の真っ青に抜けるような空、こんなに豊かな色彩に囲まれている民は、この地上に、そう多くないのではないでしょうか。染井吉野の桜のほんのりした色彩は突出しています。木造の家屋に住み、木で作られた道具を使い、楮(こうぞ)といった木の表皮で造られた和紙に文字を記し、様々な文化活動を行って来て、独自の文化を育んできたのですね。

   
 木工法にしろ、紙の製造にしろ、紙の上に記す文字も、その墨汁も、すべてが、ここ中国から朝鮮半島を経由して伝来しているのは、歴史が記録しているところであります。「日本書記」の記述の中に、紙が使われ始めたのが、610年であるとの公式な記述があるそうです。紙消費の驚くべき多さも、私たち現代の日本人の特徴でしょうか。映画監督の大林宣彦が、『風通しのいい木と紙の家が育んだ日本の文化は、「気配を思いやる文化」だ・・・ことばを交わさずとも、今だれが幸せで、だれが傷ついているか分かった。』と言われたことばが、読売新聞の編集手帳で紹介されていました。NHKの「おしん」の中で、真冬、雪が家の隙間から吹きこんで、寝ているせんべい布団や掛け布団に真っ白に積もっていたシーンが思い出されますが、たしかに「風通しの良い家屋」で、夏向きだったのは確かです。今のようにサッシの窓も鉄製の扉もなかった時代、北風がピューピューと隙間から吹き込んでき、ストーブもエアコンもなかったのに、『寒かった!』という記憶が、ほとんどないのです。すぐ上の兄の同級生が、よく鼻をたらしていて、それを袖口で拭いて、光っていたのを思い出します。

 味噌・醤油・塩の蛋白な味つけ、畑の野菜、畳や障子や襖の紙や木や草の感触で育った文化や生活は、やはり独特な、侘びや寂を感じさせて、東洋の神秘さを漂わすのでしょうか。秋の野辺に、真っ赤な柿の実が残されていて、からっ風に揺れていた光景が思い出されます。『俺って、やっぱり、浪花節や演歌やオデンの好きな、飛びっ切りの日本人なんだ!』と納得させられます。今頃、日本は富有柿が美味しいでしょうね。この時期に、日本にいない歴六年になりますので、この富有や次郎や御所といった、極上美味の柿の味が恋しくて仕方がありません。アッ、沢庵や野沢菜漬けやらっきょう漬、けんちん汁や豚汁、すき焼きや水炊きなどが食べられないのも、実に口惜しく感じてしまいます。そろそろ食事の時間のようです。

(写真上は、「染井吉野」、下は、「畳」です)

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