カラオケ

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世界には、日本から始まったものが多くある中で、ここ中国でも盛んなのが、「カラオケ」です。学生さんに誘われた事がありましたが、一度も一緒に歌ったことがありませんでした。昔、何かの機会で、一度だけ歌ったことがありました。忘れもしない、「なみだの操」でした。”ミリオンセラー“とかで、街中でもラジオでもテレビでも、1970年代だったでしょうか、よく聞かされ、メロディーを覚えてしまっていました。歌詞を見ながら、デユエットに誘われて歌ったのです。

何年か前の夏に、この街の北の山の方の民宿に泊まったのですが、板に布が敷いてあるベッドで、薄掛け布団も、干された事がなさそうで、カビくさかったので、なかなか寝付かなかったのです。その上、近所の民宿で、大音量の“カラオケ”をしていました。『もう、そろそろ・・・』と誰も言えなかったのでしょう、きっと“◯長さん”でしょうか、一人で延々と歌って、零時を回っていました。上手なら子守唄になるのですが、音程が外れて、がなり声、絞り声で聞くに耐えませんでした。

実は、この小区でも、一昨日あたりから、夕方になると、同じ声の”おじさん“が、<独りよがり>で、ちっとも周りを気にしないで、歌い続けています。きっと、“◯長さん”の横暴に違いありません。わが家に来れば、カラオケ代とタクシー代を上げてもいいので、街中の個室で歌って欲しいほどです。<下手の横好き>なのでしょう。

この街の大学の外語学院で、しばらく学んだ時に、一人の老師が、歌を紹介してくれました。台湾の葉啓田と言う歌手が歌ったもので、「爱拼才会赢」と言う題でした。日本の演歌の様に、“こぶし”が入っていて、覚えてしまったのです。それで、新入生に「発音」の授業をやる時に、日本の歌と一緒に、この歌を台湾語で歌うことにしたのです。結構、雰囲気作りに好かったですし、大受けしました。

アッ、騒音が止みました。これで晩御飯が美味しく頂けそうです。一週間ほど前には、女性が、<変な猫(失礼!)>の様に、とても高い声で歌っていました。歌の上手くない人は、自分の歌を録音して聞かれても、下手だとは思わないのでしょうね。自信があるから、ああやって歌うに違いありません。真の友人は、言って上げるべきです。『もう、そろそろ・・・』と。そう言うのは、私の仕事(工作gongzuo))ではありませんので。どうしたらいいのでしょうか。

(いつか食べたい「牛肉麺(高雄市名物)」です)

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父の日

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今日は、出先で、可愛らしい女子中学生から、“ガーベラ”の花を二輪頂いて帰りました。そう、「父の日」でした。世界中のお父さんは、少々疲れ気味でしょうか。4人の子どもたちが、自立し、それぞれ所帯を持って生活している今、親業を卒業したのかも知れませんね。一生懸命働き、家内と子育てをした日々が懐かしいのです。<卒親>としては、これから、どう残りの日々を生きて行くか、やはり、《終活》をすべきなのでしょうか。

前に、「象の背中」という映画を観た事がありました。「余命半年」を医師に宣告された主人公が、し残した事、しておかなければいけない事をリストアップして、人を訪ねるくだりが、ちょっと悲しかったでしょうか。身につまされる思いでした。体に、痛い所はありますが、まだ跳ねたり、小走りだってできますし、出掛けたい所もあります。生かされている自分を感じながら、もう少し意味のある生き方を続けようと思います。

最近仕切りに、父の事が思い出されてまいります。結構し残した事が、父にはあったのではないかな、と思ったりしています。して上げたかった事も多いのです。母似だと言われたのですが、父の若い頃の写真を見た方が、『よく似てます!』』と、先日言っていました。ちょっと嬉しい気持ちがいたしました。

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野の花の如く

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昨夕、配信してくださった"hp「里山を歩こう」"の写真です。上は「イガタツナミソウ(伊賀立浪草/三重県伊賀で発見されて命名されてそうです)」、下は「フナバラソウ(舟原草)」です。こういった花々は、里山や土手が、日本から消えて行ってしまったので、花々も消えて行くのだと聞きました。同じ立浪草でも、伊賀で咲く種類には、それに適った命名がなされるのですね。驚くのは、見てすぐに、「フナバラソウ」だと分かる観察眼です。

家内が学んだ学校の先生は、よく里山や野原に、学生たちを連れ出しては、『これは◯◯、どこどこによく咲いているんだ!』と教えてくれたのだそうです。専門は農学で、農業に携わるみなさんに、養鶏や、特別な作物の植え付けを指導して、経済的に自立する様に勧めていたそうです。

花には目もくれずに、チャンバラをして遊んで、少年期を過ごしたので、花の名前も知らない自分が、ずいぶん無知だと認めています。今になって、名のない草の美しさがわかり始めてきたのは感謝です。恩師が、「野の花の如く咲きなむ!』と言い残してくれたのを思い出します。

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残る悔い

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日本に帰化された、日本文学研究者のドナルド・キーン氏が、次の様に語っています。

『・・・私は反戦主義者で、戦争を徹底的に嫌いましたが、戦争という悪行にも人間のためになることがあります。日米戦争が始まった時、陸海軍が日本語のできるアメリカ人は極めて少ないことに気付いて、あわてて日本語学校を設立して、一流大学の最もすぐ優れた学生―特に或る外国語を習得した学生―を選んで集中的に日本語を教えました。全部で二千人位の若者が日本語を覚え、戦時中日本軍が戦場に残した書類や日本の捕虜の尋問をするようになりました。戦争が終わってから、日本語学校を卒業した人達の大多数は戦前に希望していた職業に就きましたが、そういう人達も日本に関心が深く、日本人が好きでした。日本と戦争していたにも関わらず日本語を覚えた若い人達に敵愾心はありませんでした。』

このキーン氏も、アメリカ軍の語学学校で、やがて占領する国で、戦後処理をするために、日本語を学んだ人でした。その学校のカリキュラムは、驚くものだったそうです。短期間の学びで、日本の日刊紙が読める様になったそうです。そう言えば、私が、“サンノゼ(サン・ホセ/カルフォルニア)”を訪ねた時に、一人のアメリカ人兵士と会いました。彼は、二十歳でしたが、『私は日本語を半年学んでいます!』と、流暢な日本語で話しかけてくれたのです。

戦時下だけではなく、1990年代の終わり頃にも、アメリカ軍は、希望する兵士に、外国語の学習をさせて、軍務だけにではなく、学問や文化の面で、人材を要請していたのです。日本語の上手な方に、何人もお会いしましたが、短期習得の方法があるのですね。私も、中高大と、何年も英語を学び、アメリカ人起業家とともに働いたのですが、英語力は不足しているままです。

後になって、『もっと熱心に学んでおくべきだった!』と、<後の後悔>をしたのです。どなただったか忘れましたが、「嵐が丘(Wuthering Heights )」を翻訳本ではなく、原典で読みたくて、イギリス英語を学び直した人がいると聞いたことがありました。それを聞いた時、決心して学ぼうと自分も思ったのですが、そのまま、今日を迎えてしまいました。孫たちと交流するためにも、学び直さないといけないと思っているところです。

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作文

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こちらに来てから、一昨年までの7年間、毎年、50〜70人ほどの学生の「作文」の科目を担当しました。作文の仕方を教え、自分の習得した語彙を使って、毎週毎週、様々な資料を作り、それに沿って作文してもらいました。その書き上げた「作文」を家に持ち帰って、”赤ペン“で添削し、翌週、学生に手元に返しました。「修正点」を板書して、どう正すかの作業をしてもらいました。

ある時、「三行ラブレター」を書いてもらったことがあります。ご両親、祖父母、教師などに、愛と感謝を込めての短い作文でした。結構、泣ける様な文章を書く学生もいて、感激しながら読んだり添削したりする楽しみもありました。学生数が70数人の年は、大変でしたが、週毎に、作文の腕を上げて行くのを知る喜びもありました。

先日、ある少女の書いた「作文」を読みました。学齢前の、五歳の少女にしては、素晴らしい文章でした。ただ、それは《謝罪文》であり、《誓約文》でした。『どうして、こんな事を、父親は書かせたのだろうか?』と思う事しきりでした。そして多くの読者が、読まれて悲しくなり、涙したことでしょう。

「 ママ もうパパとママにいわれなくても しっかりとじぶんからきょうよりかもっともっとあしたはできるようにするから もうおねがいゆるして ゆるしてください おねがいします
 ほんとうにもうおなじことはしません ゆるして きのうぜんぜんできてなかったこと これまでまいにちやってきたことをなおす これまでどんだけあほみたいにあそんだか あそぶってあほみたいだからやめるので もうぜったいぜったいやらないからね ぜったいやくそくします。」

大学ノートに、“ひらがな“で書かれてあったそうです。お母さんの連れ子の少女を、お母さんの新しい主人は愛せなかったのでしょうか。その感情が歪曲してしまい、長期の虐待で、とうとう亡くなってしまったのです。こう言った事件が頻発する日本の社会は、異常です。

先日、カルガモの一行の移動の様子を映した動画を見ました。九匹の雛を、母ガモが見守る姿に、《母性愛》が溢れていました。少なくとも、カルガモの母以上のお母さんが、あの少女をかばえなかったのは致命的です。虐待を続ける夫に、嘆願や哀願だってできたはずです。愛が異常です。世界中のお母さん、カルガモに倣って、子どもを守り、かばってください!結婚と家庭が深く傷ついているからです。

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西郷山公園

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明治維新政府の元勲で、海軍大臣や内務大臣を歴任した、元薩摩藩士の西郷従道(じゅうどう)がいました。兄の隆盛が「西南の役」で、逆賊の汚名を着せられた事で、総理大臣に推挙されても、従道は、それを固辞し続けたそうです。一国の命運を担っその責務を果たすのに、的確な器だったのですが、そういった名誉を、潔く捨てたのです。

この従道が、お兄さんのための邸宅を建てたのが、東急東横線の代官山駅からしばらく北の方に歩いた所にありました。従道は、兄思いの弟だった様です。その建物は、ずいぶん前に、明治村に移築してしまったので、その敷地は、今では「西郷山公園」になっています。お兄さんの隆盛は、粗衣粗食の人で、物欲のない人だったそうで、そんな立派な住宅を好まなかったのでしょう、そこに住むことがなかったのです。

とても好い場所にあって、建てられた頃は、閑静な所だったのでしょう。私たちも、<お上りさん>で、この公園に、二、三度行ったことがあります。今では、代官山は、東京でも人気のある地域で、小さな駅や小道は、多くの若者、乳母車を押した若い母子で賑わっています。美味しいケーキの店、喫茶店があって、とても好い街です。

渋谷区に近い目黒区にあって、都立第一商業高校が近くにあり、ハンドボールで、何度か対戦した学校なのです。周りには、多くの外国大使館があって、国際色も豊かな地域で、日中の賑わいはともかく、夜間は静かな住宅地です。次男が、しばらく住んでいた事もあって、馴染みを感じる街です。

西郷山公園の今頃は、花々で綺麗な事でしょう。紫陽花(あじさい)の花も咲いていた記憶があります。梅雨の時期、どこも紫陽花が、雨の中に綺麗に咲き誇っている事でしょう。そういえば、私たちに住んでいる街の北の山の中にも、紫陽花が咲いていたのを見た事があって、『ここでも咲くんだ!』と、嬉しくなった事がありました。

(西郷山公園と河口湖の天上山の紫陽花です)

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夫婦

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『昨年の年末に、大喧嘩をしてしまったんです!』と言うご夫婦がいます。それまで、そんなに本気で、夫婦で衝突したことがなかったのですけど、本気で思っていることを、感情に任せてぶっつけ合ったそうです。小学校三年生の息子さんmがいるのですから、10年以上の結婚生活を共にしてきて、正直に気持ちを込めて言い合ってから、夫婦の関係が強くなり、吹っ切れたそうです。

それ以来、ご主人と共に過ごすことが多くなり、よく、”カード遊び“に出掛けていたご主人が、家にいるようになったようです。おっとりしているご主人に対して、"やり手"の奥さんは物足りなさを感じていたのかも知れません。ご主人への期待が大き過ぎたのでしょう。それ以降、そう行った気持ちが少なくなってきているようです。

吉野弘に、「祝婚歌」と言う詩があります。夫婦のあり方への勧めとして有名です。

二人が睦まじくいるためには
愚かでいるほうがいい
立派すぎないほうがいい
立派すぎることは
長持ちしないことだと
気付いているほうがいい
完璧をめざなないほうがいい
完璧なんて不自然なことだと
うそぶいているほうがいい
二人のうちどちらかが
ふざけているほうがいい
ずっこけているほうがいい
互いに非難することがあっても
非難できる資格が自分にあったかどうか
あとで
疑わしくなるほうがいい
正しいことを言うときは
少しひかえめにするほうがいい
正しいことを言うときは
相手を傷つけやすいものだと
気付いているほうがいい

改めて、この詩を読みますと、『そうだよなあー!』と思ってしまいます。お互いに肩や肘を張らないで、期待過剰、また関心希薄にならない関係を保つことの勧めでしょうか。この奥さんは、『夫への愛が強くなったのです!』と言うのです。自分の思うような夫になって欲しいのが、夫にふさわしい妻になろうとしたからでしょうか。円満円満。

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宝庫

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あの「入笠山」に、こんなに多くの種類の花が咲いてるのには驚かされます。頂上を極めるだけの「登山」だけしかしなかったのが、随分損をしていたんだと、今になって分かりました。「湿原」を歩いたのですが、観察ではなく、ただ雰囲気を味わうだけで、花々を見る事をしなかったのは、残念なことでした。

あそこは「自然の宝庫」、「花の宝庫」だったのですね。中学一年の時に、一人で、五日市線の終点駅で降りて、そこから山に向かって歩き始めたのが、初めての登山(ハイキング?)でした。ただ山の中に分け入ってみたくてでした。道の脇で働いていた木こりのおじさんが、猥雑な事を言っていました。中一の私には、父が、そんなことを言ったことがなかったので、ちょっと驚きでしたし、大人不信に陥ったりの経験でした。

でも、奥多摩の山の匂いと、踏みしめる山道の感触は、快適でした。まだ登山ブームが起こる前の事でした。五十くらいの頃でしたか、深田久弥が登山中に亡くなられた、「茅ヶ岳」にも登った事もありました。この花は「サクラソウ」、「キバナアツモリソウ」、「ツマトリソウ」です(☞「里山を歩こう」から)。花を理解しめでる人は、生きている、こんな喜びや楽しみがあるのですね。

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柳絮

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2007年の5月頃でしょうか、天津の語学校で、中国語を学んでいました時に、自転車で通学していました。その朝、街の中を、白い「わたげ」のようなものが飛んで、幻想的な光景を見せていたことがありました。タンポポが咲き終わった後に似た光景でした。吹き溜まりに、雪の様に集まって、吹く風に揺れているのです。

街いっぱいにあふれるといった感じでしょうか。それを、「柳絮(りゅうじょliuxu))」と言い、学校で、先生に聞くと、北京や天津など東北地方の風物詩なのです。まるで雪が降っているよう様に感じられ、私が育った田舎や東京の都下の街では見たことがありませんでした。

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昨日配信された「HP里山を歩こう」に、この「柳絮」の写真(このサイトに投稿されてあったものです)が載っていました。埼玉県の志木市辺りを流れる「柳瀬川」で撮影された写真(上の写真です。下は、中国のサイトからダウンロードしたものです)です。今頃の日本でも、飛ぶのですね。

11年前の天津では、街中が、まるで雪が降った様に、白くされていて、その「柳絮卯」を避けたり、手で払いながら自転車をこいでいました。『ああ、中国に来たんだ!』と思った事でした。

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入笠山

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いやー懐かしい!これは「入笠山(にゅうがさやま)」に咲く花だそうです(☞「里山を歩こう〜八ヶ岳編〜」から)。この山は三度登った、いえ、正確に言うと、二度半登った事があります。二度は、子どもたちを連れて、駐車場から登山道を登りました。頂上に立つと、まさに360度の眺望が開けて、晴れていましたから、爽快でした。それで大好きな山になったのです。

3度目には、爽快な気分を満喫させて上げたくて、家内を誘って、同じコースで登り始めたのです。登るに連れて、雪があって、徐々に多く、深くなって行くではありませんか。二日ほど前に、諏訪周辺は雨だったのです。それを考えないで、11月に、山登りを実行したわけです。平地や麓は雨でも、11月の山(2000m弱)では初冬の雪だったのです。このままでは、"初老の夫婦、入笠山で遭難!"になってしまうと、登山を中止し、林道に向かったのです。

閉まっている案内所の軒下で、お弁当を食べて出た林道は、雪が積もっていて、鹿やウサギの足跡さえ残っていました。凍ってもいたのです。家内には、凍った雪道を歩くためのゴム製で、着脱できるスパイクを履かせたのですが、一人分しか持っていきませんでした。三回ほど、私は滑って転倒していまい、家内は泣き出してしまったのです。

林道を幾つも曲がっては進み、曲がっては進むのですが、車を停めた駐車場に、なかなか至りません。もう夕暮れになってしまっていました。スズランが群生していたり、原生林が広がる綺麗な山なのに、ここで死んでしまっては、申し訳ないと、家内を励まし、家内は私を励ます、そんな家内の手をとって、やっと下山した、そんな思い出のある山なのです。

「サラサドウダン」、「ホテイアツモリソウ」です。今頃の入笠山には、こんなに綺麗に咲いているのですね。もう一度、春か初夏にでも、四度目の入笠山に登ってみたくなりました。

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