咲きました!

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 南米のアルゼンチンの花だそうです、「サンパラソル」がやっと咲きました。酷暑の中、じっと硬く耐えていた蕾が、10月3日になって開いたのです。育て方を知らずに、か弱いままでcareless だったのに、真っ赤な花びらを見せています。

 図鑑を見ますと、5月の花なだそうですが、暑い夏を過ぎて、秋の気配を見せて大たのです。実に綺麗な赤です。

 前に、孫兵衛から送られてきたモネの名画、「パラソル」には似つかないのですが、何かホッとさせられたのです。好いー日になることでしょう。

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こんな出来事がありました

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 もう四半世紀ほど前に、アメリカから、上の兄経由で、一報が入ったことがありました。『コスタさんが、入院先のハンプトンの病院で召されました!』と言う、いわば悲報でした。主の元に帰ったのですから、悲しいことではなく、《凱旋》と言った方が、主の僕として生きた方には、相応しいかも知れません。

 それ以前に、この方が危篤だと知らせてきて、彼の癒しの祈りの要請が、アメリカの教会からありました。ところが奇跡的に恢復して、アフリカ伝道に行かれたとの知らせがありました、ところが今回は、不帰の人となったとの知らせだったのです。不帰と言っても、永遠のいのちにつながる信仰の人ですから、やがてくる神の国の住人となる望みがありますから、帰ってくる場所はあるわけです。

 この方は、兄にも私たちにも、忘れられない出会いと交流があったのです。母が通っていた教会であり、私たちの母教会でもある、この教会の牧師に、兄が就任したのです。その間もない頃に、このコスタさんが訪ねて来ました。その訪問には、トラブルがあって、何とVisa なしでやって来られて、当時の東京国際空港であった羽田飛行場に着いたのですが、入国ができなくて、世田谷の入国関係の施設に収容されていたのです。

 どういった方法でか聞きませんでしたが、兄が交渉して特別措置で入国が許されたのです。身元引受人になった兄が、この方を引き取って、東京郊外にある母教会にお連れしたのです。牧師に就任したばかりの新任牧師を、休暇で帰米中の宣教師さんが、激励しようとして、アフリカ宣教の途上に、この方に寄ってくれるように頼んでの来日でした。

 それで、この方を講師に、特別集会を兄が企画したのです。それまで教会では、集会ごとに、讃美歌や聖歌から賛美をしていたのですが、ところが、

『神よ。あなたに、私は新しい歌を歌い、十弦の琴をもってあなたに、ほめ歌を歌います。(新改訳聖書 詩篇144篇9節)』

との聖書のみことばの勧めによって、chorus による賛美の歌が礼拝で歌われるようになっていたのです。その特別集会で歌えるように、その“ コーラス “ を紹介してくれたのが、コスタさんでした。日本語への翻訳や音合わせが行われ、歌詞を模造紙に書いたりして準備をしたのです。

🎶 心の中でメロディーを 心の中でメロディーを 心の中でメロディーを 王の王にささげよう 主をあがめよう 主をあがめよう 心の中でメロディーを 王の王にささげよう ♬

♬ 主は素晴らし 主は素晴らし 主は素晴らし 私の主 🎶

🎶 主の御霊よ われにあり 病癒し 虜(とりこ)放ち 獄の戸開き 盲(めしい)見させ 主の御霊よ われにあり ♬

などが歌われ始めたのです。『主を賛美するには、こんな歌は少々おかしいのではないだろうか!』と、言われた時期がありましたが、やがて日本のあちらこちらで、自分たちの《オリジナルな賛美》が生まれて来て、アメリカからではない賛美も、礼拝の中で賛美されるようになりました。そんな風に、主の栄光を褒め称えるように変えられていったのです。それが市民権を得るには、時間がかかりましたが、今では、カリスマ教会ばかりではなく、多くの教会でも賛美されるようになってきています。

 私の知り合いの牧師の友人が作られた、すてきな賛美があります。 

♬ 世界中どこででも
新しい歌をささげよ
主に歌え ほめたたえよ
御救(みすく)いの知らせを告げよ
まことに主は大いなる方
賛美されるべき方
威光と尊厳と栄誉 光栄と力
ただ主だけを礼拝せよ
天をつくり 支えている主 🎶

 そんなコーラス賛美のはしりの頃の出来事を思い出したのです。家内も、上の兄もオリジナル賛美を、作詞作曲しています。この方は、ギリシャ人とアラブ人の血を引いたアメリカ人でした。家内との婚約式に、わざわざ来日してくださって、式でお話しもしてくれ、祝福の祈りもしてくださったのです。気に入られて、私をアフリカに連れて行きたかったようでしたが、実現しませんでした。

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 私たちは、テキサスの一つの教会からやって来られたアメリカ人の宣教師さんが始められた教会で、母が、路上で出会ったご婦人に誘われて、その教会に行くようになったと言う、不思議な出会いがあったのです。その方が、家内のお母さんでした。何人もの宣教師さんが、やって来られて、それぞれの街で伝道をされて、キリストの教会が誕生しました。

 みなさん、軍人上がりだったり、牧師の息子だったりの貴公子然とした方たちでしたが、このコスタは、元ボクサーでクリスチャンになり、ニューヨークの聖書学校の教師をされていた異色の伝道者でした。

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 この方に、散髪もしてもらったり、簡単につけられ、すでに結んであるネクタイをもらったりしたのです。何よりも、主なる神を愛し、キリストの教会を激励するために、素敵な声で賛美し、祈り、異言を語ったのです。このコスタさんが、私の頭に手を置いて祈ってくださった時に、聖霊のバプテスマを体験したのです。私は、母に誘われて、時々、母の教会に行きましたが、そこで異言が語られるようになって、それを奇異に感じていたのです。それなのに異言が、自分の口を突いて出てできてしまったのです。

 その経験と同時に、十字架が分かったのです。十二分に罪人だった自分のために、キリストなるイエスさまが、代わって十字架に死なれたのだと突如として分かったのです。そして罪を悔いて激しく泣きました。そして献身の願いが、思いの中に湧き上がり、一年後に、仕事を辞めて、主の教会に仕え始めたのです。この一連の出来事があったのです。常識や知性以上の霊性上の体験と言ったらよいでしょうか。まだ25歳の秋のことでした。

 その献身を決心した時、ある方に、『教会で働くって、そんなに儲かるの?』と聞かれました。だいたい人が転職するには、高待遇の収入増の仕事だからです。私は、『はい!』と返事をしたのです。儲かるようになったかは別にして、必要はちょうど満たされて、今日まで生活してこられたのは事実で、不足はありません。

 多くの人との出会いを通して、自分の人生が急転直下、変えられたと言えます。神さまは、こんな素敵なことをされたのだと、今も思い返しているのです。でも、青年期に、信仰上の画期的な出会いは、時別なものがありました。とくに、この初めの時期に出会ったコスタさんは、人間として、信仰者として実に魅力的な人であったからでしょうか。

 大きめなナスの中身をくり抜いて、牛肉のミンチ、にんにく、玉ねぎ、くり抜いたナス、研いだお米に、塩などで味付けをし、コンソメ味でぐつぐつ煮込んで、オリーブオイルやトマトケチャップで味付けした料理を、この方が作ってくれたのは、忘れられない味でした。何度、真似て作ったことでしょうか。あれは、きっとギリシャ料理、地中海料理だったに違いありません。また作ってみたくなってしまいました!

(ウイキペディアによる地中海風景、テキサス州花のブルーネット、ナスの花です)

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病み抜けた母

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 「病み抜ける」、病気からの恢復を、そう言った言い方をするのだそうです。そう言えば、『風邪が抜けまして、元気になりました!』と言ったのを聞いたことがあります。長い間、婦人病で苦しんできた女性が、聖書に出てきます。次のように記されてあります。

『そこで、イエスは彼といっしょに出かけられたが、多くの群衆がイエスについて来て、イエスに押し迫った。ところで、十二年の間長血をわずらっている女がいた。この女は多くの医者からひどいめに会わされて、自分の持ち物をみな使い果たしてしまったが、何のかいもなく、かえって悪くなる一方であった。彼女は、イエスのことを耳にして、群衆の中に紛れ込み、うしろから、イエスの着物にさわった。「お着物にさわることでもできれば、きっと直る」と考えていたからである。すると、すぐに、血の源がかれて、ひどい痛みが直ったことを、からだに感じた。イエスも、すぐに、自分のうちから力が外に出て行ったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、「だれがわたしの着物にさわったのですか」と言われた。そこで弟子たちはイエスに言った。「群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも『だれがわたしにさわったのか』とおっしゃるのですか。」イエスは、それをした人を知ろうとして、見回しておられた。女は恐れおののき、自分の身に起こった事を知り、イエスの前に出てひれ伏し、イエスに真実を余すところなく打ち明けた。そこで、イエスは彼女にこう言われた。「娘よ。あなたの信仰があなたを直したのです。安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい。」(新改訳聖書 マルコ5章24~34節)』

 まさに、「病み抜けた婦人」と言えるでしょうか。現代医学、薬学の時代は、不治の病だと言われてきたのに、優れた診察と治療と薬とによって、回復することができるようになってきました。ガンの告知は、死の宣告と同じであった時代、病んでいる人の家族には言っても、本人には隠していたものです。

 私の母が五十になって間もない頃に、入院したことがありました。病院から、『お話したいことがあるのでおいでください!』と連絡があった時、父は医者に会いたくなかったので、『準、お前が言って聞いてきてくれ!』と言って、武蔵境駅の近くにあった日赤病院に行き、母の主治医に、私が会いました。父は、何を言われるか分かっていたのでしょう、主治医は、父の代わりに来た私に、『君でもいいでしょう!』と躊躇しながら、手術で取り出した、母の卵巣を見せてくれたのです。それは、ガンに冒されていました。

 言いにくそうに、医師は、『お父さまに、お母さまはもう半年の余命ですと伝えてください!』と言われて家に帰りました。父は、『準、覚悟しような!』と言ったきりだったのです。会社を部下に任せて、弟と私に世話をしてくれていて、学校から帰ると、父が作った野菜スープを小さな薬罐のような入れ物に入れて、『お母さんのところに持っていってくれ!と、ちょくちょく言われて、バスで入院先の隣街の地方公務員共済病院に持っていきました。兄たちは、静岡と千葉でサラリーマン生活をしていました。

 母は、信仰者でしたから、自分の教会では、母のために祈ってくれていました。自分が重篤な病気だと、母には分かっていましたが、父も私も病名は言いませんでした。そんな母が、新約聖書のヨハネの黙示録のみことばを読んで、強い確信を得たのです。

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『御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、都の大通りの中央を流れていた。川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした。(ヨハネの黙示録22章1~2節)』

 やがて天から降ると約束された新しい国の都・新エルサレムの大通りに植えられた「いのちの木」を見、その木になる「実」も見ますと、その木の葉が、諸国の民を癒すと書いてあるのを読んだのです。そして『神さまは、自分の病を癒してくださる!』と、母はかたく信じたものたのです。

 母は、それから、半年過ごしただけではなく、九五で帰天するまで、「すこやか」で過ごし、老衰のうちに平安をもって召されたのです。二度も三度も、「病み抜け」ることができました。山陰出雲で、カナダ人宣教師家族と出会い、彼らが伝えた、救い主イエスさまと出会って、信仰者として「生き抜いた」のです。永遠のいのちに蘇る日に、私は、父にも、この母にも、宣教師さんたちにも再会できると信じているのです。

『そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」(1テモテ2章1-2節)』

 もう10月になりました。母の生まれた隣県の鳥取の出身の石破茂氏が、自民党総裁になり、総理大臣に就任します。お母さまもお爺さまもクリスチャンで、若い頃に、鳥取の教会で、バプテスマを受けておいでで、聖書を、よく読まれるとご自身言っておいでです。先週末、訪ねてくれた下の息子が、『(首相になる石破氏のために)祈ろうと思う!』と言っておりました。私も執り成し、感謝の祈りをさせていただこうと思っています。

(Christian clip arts から「長血の女の癒し」、今のエルサレムです)

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朝な夕な山々を眺めながら

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 晴れた日に、四階の家の東側の窓から、筑波山が、くっきりと遠望できます。男体山と女体山の二つの峰があって、ここからの方角が、最も綺麗な山容を見られるのだと、近所に住む友人が言っておられました。日の出の方角で、山陰から登ってくるように見える時季もあるのです。

 茨城県の名山で、広大な関東平野の北に位置していて、よく目立ちます。望遠レンズの付いたカメラで撮ったら、よい写真が撮れそうです。南に富士、西に大平、北に下野男体の山が眺められる、山好きの方からは羨やまがられそうです。

 この筑波山で、歴史的な出来事が起こったことがあったのです。倒幕の発端の一つとなった、尊皇攘夷を掲げる「水戸天狗党」が、1864年に、この山で、挙兵したのです。「天狗」とは、鼻を高くして威張った風に見えたからの命名だったようです。その首謀者は、若干22歳の水戸藩士・藤田藤吾の子であった、藤田小四郎で、同じく水戸藩士の年配者の武田耕雲斎を首領に担ぎ出して、総勢62人によってでした。

 小四郎は、子どもの頃から肝が据わっていて、父・藤吾の尊皇攘夷思想に従って、二十歳そこそこで、長州藩士の桂小五郎や久坂玄端たちと交流していたのです。あの渋沢栄一は、「非凡の天才」と言って、高い評価を下しています。転戦して行きますが、北陸の敦賀で捕られ、耕雲斎とともに処刑されてしまいます。

 この天狗党は、同志を得ようとしますが、思ったようには集めることができず、水戸から宇都宮、日光、そこから例幣使街道を通って、ここ栃木にも来ています。栃木の宿場に火を放って、237軒もの家が消失した、大火事が起きたのだそうです。軍資金を得るために商家を襲ったりしますが、うまくいかなかったのです。大平山に登って、40日ほど過ごしていたようです。資金と仲間をなかなか得られなかったのです。

 家の近くのうずま公園の中ほどに、「供養塔」があります。

[西山謙之助について]

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 『瀬戸の原と云われたうずま公園内栃木駐車場の中に幸来橋木戸にて戦死した、岐阜の侍医のこ23歳の西山謙之助(尚義)の供養塔が建っている。瀬戸の原は明治になり下都賀郡役所が建ち、昭和35年に郡役所職員が浄財を募り、西山謙之助供養塔が建てられた。平成27年の11月に地元の有志により供養塔に祠が設けられている。(「銀次のブログ」の記事です)

 幕末の動乱の中で、会津の藤田小四郎や美濃のl西山謙之助らのように、前途有為の青年が失われたのは、残念なことでした。この街から出征し、外地で戦死されたり、戦後の引き揚げで、命を落とした方々も多くおいでです。だから、私たちは、過去に学んで、平和を何よりも希求していく必要があります。天狗にはならず、謙遜であるのがよさそうです。

(ベランダから望む筑波山です)

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郷愁の味の秋刀魚を

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 「郷愁」、大日本国語辞典によりますと、[名詞]①異郷にいて、故郷を懐かしく思う気持。懐郷の想い。ノスタルジア。[初出の実例]「灯前聴レ雁抱二郷愁一、飛レ月穿レ雲宿処投」(出典)常山文集(1718)七絶)②昔のことを懐かしく思ったり、ひかれたりする気持。(以下省略)

 先週金曜日の朝食で、焼き秋刀魚をいただきました。フライパンで焼き、おろし大根を添えて、醤油をかけて食べたのです。小学生の頃に、、映画「二等兵物語」で主演をされた、“ばんじゅん(伴淳三郎)” が、その秋刀魚の出てくる主題歌を歌っていたのです。それを思い出して、すっかり郷愁に浸ってしまったのです。

 1950年代のこの時季、日本中の夕餉(ゆうげ)の食卓に登ったのが、「秋刀魚」でした。どの家も、外に七輪を置いて、炭火を起こし、そのコンロの上に金網を置いて、焼けてくると油が火の中に、ジュッと音を立てて落ちて、燃えてモクモクと煙を上げて、煙と秋刀魚の焼け焦げた匂いで溢れかえっていました。

 それは、1950〜60年代の「昭和の光景」の一つでした。大漁だったのでしょうか、値段も安かったのでしょう、「一億総秋刀魚」は、今で言うと、社会現象だったことになります。スーパーマーケットなんかなく、ましてや冷蔵庫なんかない時代でした。母が買って来たのは、新鮮な秋刀魚だったのが不思議でした。流通だって、冷凍や冷蔵のトラックなどなく、トラックに、氷詰めで乗せられて運ばれて来ていたのでしょう。そんな頃に、秋刀魚の出てくる歌が流行っていました。

🎺 粋な上等兵は 思いもよらぬ
せめてつけたや 星二つ
雪の夜中に ふんどし一つで
鳥肌逆立て 捧げ銃(つつ)
ひでえな ひでえや こいつはひでえや
「コラ、何をガタガタふるえちょる、アーン?
貴様年はなんぼか?」
「ハッ、三十一でありまし」
「馬鹿者ありましとは何たる事か、標準語を使え、年はなんぼか?」
「年は三十一であり、あり、ハッハッハックション!」
敵が落とした 焼夷弾が裂けて
髭の隊長が 腰ぬかす
ありゃりゃこりゃりゃと よくよく見たら
何と隊長の 髭が無い
すげえぞ すげえぞ 焼夷弾はすげえぞ
「隊長殿、御立派な髭が燃えちまって見当たりません!」
「馬鹿者!髭など問題じゃないんだ。司令部の屋根っこさ燃えちょる分かんねぇのか早く消さんか!」
月も出たのに 休めはまだか
若い班長が 恨めしや
どこで焼くのか さんまの匂い
風が吹くたび 鼻が鳴る
つれえな つれえや 二等兵はつれえなぁ 🐟

 

 1955年から61年頃まで、続編続編の劇場映画で上映され、主題歌が、巷の有線やラジオ放送で流れていたのです。戦時中、兵隊さんが戦地に行く前に、各地の原隊で、軍事訓練が行われていて、ずいぶん厳しいものだったそうです。そんな中で、新兵さんたちに、気晴らしのようにして歌われていたのが、このような「◯◯小唄」と言われたものでした。

 同じ頃、あの映画の終盤編の頃、月が出て来て、辺りが夕闇に包まれ始めてきた頃、近所の市営住宅から白い煙が、ハンドボールの練習するグラウンドに、たなびいてきていました。空(す)きっ腹に、秋刀魚を焼く匂いと煙とが攻めて来たのです。あの光景と秋刀魚の臭いとが、この季節になると、決まって16、7の頃の思い出が甦ってくるのです。

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 曼珠沙華の真っ赤な花が、校庭の隅っこに咲いていたでしょうか。頭の薄かった中学の担任、慶應ボーイで上品な高校の担任、一緒にスコップで土を掘り返して、古人の住居跡を一緒に探り当てた顧問の教師も、級友たちも、先輩もOBもいたのです。郷愁にひたるのも、この時季は一番かも知れません。

 先日、弟からのメールに、彼岸花、曼珠沙華とも言いましたが、この花が咲き始めた様子を知らせて来ました。こちらでも、散歩の途中の河辺に、隣家の庭に、赤く咲いているのが見られる季節になりました。西洋花がいっぱい売られて、家庭花壇には、その花が溢れて来ています。

 そんな中で、日本の土壌で、咲き続けて来た季節の花が、たくさんあるのです。多くは、自生していたか、中国大陸から植え移されたものです。その最たるものが、朝顔でしょうか。涼しくなって急に勢いよく咲いて来て、今は終盤を迎えています。

 また桔梗が、また息を吹き返して来たように蕾をつけ、咲いてくれています。散歩道には、キンケイギクが咲き溢れています。いい季節かなと思いましたら、今日は、ぶり返しの暑さなのだと天気予報で言っていました。今週は、もう十月です。

(ウイキペディアによる七輪の上の秋刀魚、曼珠沙華の花です)

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少年時代

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 戦争末期に、学童疎開を体験をした、藤子不二雄(二人の漫画家の共同の名前)が、自分の体験と、これも同じく、疎開をしたことのある小説家の柏原兵三が書いた「長い道」をもとに、漫画を描きました。東京が空襲されると言うので、富山県の海辺の街に学童疎開をした、その体験談の漫画化でした。昭和十九年(1944年)の北陸富山の海辺の村を舞台にした物語です。

 それをもとに、映画化が行われ、「少年時代」が制作され、1990年8月に封切りされました。地元の少年たちと、東京モンの主人公の物語です。国民学校(小学校を戦時下には、そう呼んでいました)5年の男組に、疎開(正式には叔父の家なので縁故疎開です)して来た進二が、級長でクラスの番長の武との友情と、それとは逆にいじめもあったり、クラスの権力闘争など、あの時代にありそうな出来事の連続でした。それを、YouTube で家内と一緒に、秋分の日の祭日に観たのです。

 武の様子が印象的に描かれていて、一匹狼の太、前のリーダーの須藤が入院先からクラスに帰って来て、武に対抗するグループを形成し直すために、両者が、東京から疎開して来た進二を味方に誘う動きが、微妙に描かれていました。十歳ほどの男の子の間に見る権力闘争があって、けっこう難しいもののようです。腕っぷしと知力の強く優れた子どもたちの覇権争い、権力闘争なのです。

 騎馬戦あり、軍事教練あり、子どもたちが隊列を組んで軍歌が歌われているのも興味深いものでした。あの時代の子どもたちが、唱歌ではなく、軍歌を一生懸命に歌って、時代を反映していたわけです。映画の中で、『武運長久』、『進め一億火の玉だ』の幟(のぼり)が垂れ下がっていました。

「予科練の歌」

若い血潮の 予科練の
七つボタンは 桜に錨
今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ
でっかい希望の 雲が湧く

「荒鷲の歌」

見たか銀翼この勇士
日本男児が精こめて
作つて育てたわが愛機
空の護りは引受けた
来るなら来てみろ赤蜻蛉
ブンブン荒鷲ブンと飛ぶぞ

「轟沈」

可愛い魚雷と 一緒に積んだ
青いバナナも黄色く熟れた
男世帯は 気ままなものよ
髭も生えます
髭も生えます 無精髭

 こんな歌を、国民学校五年生がを歌っていました。一億総戦意高揚の時代って、大変な時代だったわけです。でも、進二と武の友情も育まれているのです。富山の街の方面の空が真っ赤だった場面がありました。B 25の焼夷弾の空襲による火災です、私の上の兄は、山奥の村から、街の空が真っ赤に燃えている光景を覚えていると言っていました。

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 あの八月十五日が来て、日本は米英の前に、敗戦を喫して、戦争が終わるのです。年が明けた頃でしょうか、進二は、東京の両親から送られて来た荷物を受取りに、隣町に木炭バスで出かけます。その街の悪童たちにからまれるのです。それを救ったのは、自転車で追いかけて来た武でした。形勢不利で物陰に隠れた後、武は、進二と二人で、この町の写真館に入って、二人で写貴を撮ってもらうのです。

 チャイムのない時代、授業の開始と終了の時間は、小使いさん(これは差別用語で用務員さんがいいのでしょうか)が、手で打ち鳴らす鐘で知らせていた場面がありました。小学校に通っていた頃、同じような鐘の音が聞こえたのを思い出したのです。優しいいおじいさんで、小太りで、頭に毛のないおじさんが、腰に手ぬぐいを下げて校庭に出て打ち鳴らしていました。習字の内容も「少年兵」、「軍用犬」が墨書されて、教室の後ろの壁に掲出されてありました。

 戦争終結間もない時に、進二のお母さんが、東京から迎えに来るのです。翌日の汽車の切符が、すでにお父さんの手で用意されていました。駅には、進二を見送る友人たちが、ホームに集まりますが、餓鬼大将の座を、須藤に奪い返された武は、そこにはいませんでした。進二の乗る汽車を、駆け足で追い、手を振り合って無言の別れを、二人はするのです。

 二年に満たない間の出来事でしたが、とてつもない経験をしながら、少年時代を通って、彼らは戦後を生きて来たわけです。宝のように持ち続けてきた、父親にもらった、有名な軍艦のベルトのバックルを、武に、進二は残すのです。家内の姉たちは、この租界の経験者だったようです。平和な時代でも、子どもの世界は様変わりしても、今でも同じように大変そうです。

(ウイキペディアによる学童疎開の様子、米軍B25爆撃機です)

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感謝ばかりの今を

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 この秋の風景、三葉の写真です。東に見える筑波山と西に見える大平山です。そして先週の大雨の日の朝顔です。家内が、スマホで撮りました。なかなかの撮影の angle(アングル)です。ベランダに立って、そこに咲く花を角度を変えながら撮ったり、散歩で立ち止まって風景を撮ったりして、いまや素敵な趣味に開眼しています。

 飛行機で華南の街の空港から、ビジネスクラスの搭乗券を買っていただいて成田に向かう機内のリクライニング・シートで、帰った翌日に入院した病室で、そこに3ヶ月経過で居られなくてやむなく退院して帰って来てベッドに横たわっていた時、やっとつかまり歩きしていた頃、そんな時々が嘘のような今の家内です。こんなに回復するとは、驚いています。みなさんにお祈りいただいたからです。

 『我はエホバにして汝を癒す者なればなり(文語訳聖書 出エジプト15:26)』、家内の創造者、救い主、導き手でいらっしゃる神さまの恩寵なのです。今日は、お隣のご婦人にお誘いいただいて、体操仲間のお二人のご婦人と、私たち夫婦で、「痴呆症予防の講演会」に、車に乗せていただいて行く予定です。

 秋風のもと、隣町の文化会館までの「小遠足」のようです。毎朝、起きると家内のベッドを覗き込んで、『生きていてくれる!』、『生かされている!』と思い続けた日を重ねて恢復している、感謝ばかりの今なのです。

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コスモスと吾亦紅が

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 ラジオ体操仲間で、近所の方が、庭に咲いていたコスモスと吾亦紅(われもこう)を摘んで、持ってきてくださり、テーブルの上に置いてあります。この時期の花です。何年も前に、信州の街道沿いにコスモス畑があって、花見の後、テントでお昼が出る、と言うので、ちょうど子どもたちが来ていて、一緒に出かけたのです。

 街道沿いの畑二枚くらいに植えられていましたが、人々を呼び集めるほどではなかったのです。ちょっとがっかりでしたのですが、お昼を用意してくださっていたので、それを美味しくいただいたのです。ガッカリが帳消しになって、満腹で、そこを後にしました。

 そんなことを、テーブルの上のコスモスと吾亦紅を眺めながら思い出してしまいました。

(家内が撮った写真です)

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栗ご飯のにおいがしてきて

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 平安の歌人、西行が、こんな和歌を詠んで残しています。

やまかぜに みねのささぐり はらはらと にわにおちしく おおはらのさと

 『一度は!』と思っていた、関西空港に着く便で、帰国した折に、京の北、大原の里に、二年続けて寄ったたことがありました。その夕食に、民宿自家製の味噌鍋が出て、感激したのです。ご承知の様に、中華料理は、油で炒めた料理が多く、秋刀魚を市場で買っては、電気コンロにフライパンで焼いて、おろし大根を添え、アサリの味噌汁で食べたりしていましたが、民宿仕込みの味噌を使った鍋は、もうまるっきりの日本料理でした。

 日本のよさを舌と胃袋で感じた、なんとも感謝な時でした。その時は、大原は、シーズンオフで、旅行者はまばらでした。村中にあった、感じのよい喫茶店に入りましたら、マスターがご婦人で、すっかり三人の話が打ち解けてしまいました。『次に来られたら、家の玄関の方の呼び鈴を押してください!』とのことでした。地元の野菜や蜂蜜やお菓子などの店を訪ねたりの一泊追加で、2泊3日の味噌日の連続でした。

 もう栗の季節は過ぎて、雪が舞う十二月でした。大原女(おはらめ)が歩いて京の都に行き帰りの山道を、路線バスで行き来したのです。京の奥座敷と言っていいのでしょうか、元の西安の都に真似た都なのに、それ以上に、都らしい風情の古都を眺めながらの訪問でした。

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 この下野日光にも、栗の木があって、西行が聞いた篠栗(ささぐり)が地に落ちる音を、私も聞きたかったのですが、毱(いば)に入ったままの栗が散らばっていて、子どものように嬉々として栗拾いをしたのです。持ち帰って、茹でて美味しかったので、大粒を選んでお隣さんにお分けしたのは、二年前の九月ででした。

 栗拾いも、小動物と競争で拾わないと、みんな彼らの胃袋に持って行かれてしまいます。

 果物の豊富な秋、もう柿が店頭に並んでいますし、りんごも無花果も、出回っていますが、値段が、嘘のように高いのには目が飛び出そうです。あの芭蕉も、きっと栗に目がなかったのでしょうか、よく、栗を俳句の中に歌っているようです。木から落ちた栗を見て、こんな句を詠んでいます。

世の人の みつけぬ花や 軒の栗

 福島の須賀川で、谷内弥三郎(俳号は可伸)の生き方に共感したのか、栗の木に咲く花は、衆目を集めるほどの花ではないようですが、世人の評価など求めない、可伸の凡凡たる生きる姿が、芭蕉は気に入ったのでしょうか。

行く秋や 手を広げたる 栗の毬(まり)

 誰にも故郷があるように、芭蕉は、自分が生まれ育った伊賀の地に立ち帰っています。死期を間近にしていた時に、こう詠んだのです。故郷の栗の木に、イガを開いたままに残るイガグリを眺めて、まるで手のひらを開いているようにしている様子が印象的だったのでしょう。イガは、栗の実を包んで、時期が来ると弾けるのです。栗の木の一年一年の終わりを見せていたのと、自分の死が間近なのを知って、共感感していたのかも知れません。

 栗の実を 食べさせたいと 孫思い

 秋の味覚の松茸はともかく遠慮して、母が炊いてくれた「栗ごはん」が食べてみたいな、と思う朝です。生の栗の皮を剥き、渋沢を取るには大変そうですね。面倒を厭わずに炊いてくれた日を思い出す、もう秋なのですね。

(ウイキペディアによる大原女、栗です)

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