.
.
『福岡には、よく行ったとです!』、九州地区の教職員大会が柳川であったり、直方で事務職研修会などがあり、何度も出張したのです。まだ二十代前半の頃でした。職場を離れる開放感があって、まだ肉の塊の若造で、一端の代表のような生意気盛りを生きていたのです。
そこに、大分の日田出身のスタッフの女性がいたのです。まさに〈東男(本当は中部男でしょう)〉に〈日田美人〉で、九州弁の intonation で話されて異国への旅情緒に溢れていました。かつて九州統治の主要の役所のあった「太宰府」に案内してくれると言うので、わたしは連れて行ってもらったのです。その帰りに、当時、近くに住んでいた兄家族の所にも一緒に行ったでしょうか。でも、今流の遠距離◯◯にはならずじまいだったのです。
そんなこともあって、この福岡は身近に感じた県でもあった地です。小倉に後輩がいて、九州旅行をした時に泊めてもらったこともありました。初めて飛行機に乗ったのも、福岡空港から羽田までの航路でした。あの寝台特急のチケットをキャンセルして、航空券い買い換えてくださった事務局長さんは、お元気でおいでしょうか。
玄界灘、元寇、博多湾、防人、個人的には、義母の出身地、初めて下関で水揚げし、博多でフグを初めて食べた街、度々出張した街、そんな福岡です。県都は福岡市、県花は梅、県木は躑躅(つつじ)、県鳥は鶯(うぐいす)、人口は512万で九州一の人口を持つ県です。
.
.
わたしは九州弁(筑後弁、博多弁、肥後弁など)が好きで、よく真似たとです。でもよく喋れずじまいでした。好きな政治家の出身地である福岡(博多)であることも、福岡贔屓なわけなのかも知れません。その人が、広田弘毅です。外務大臣をされた方で、後に総理大臣も務めた方です。
石材店を経営するお父さんを持ち、東京大学を出て、外務省に入り、オランダで公使の務めを果たしています。その公使の時に、一首の俳句を詠んでいます。
風車 風が吹くまで 昼寝かな
左遷させられて不遇の時に、こんな句を詠んだことに、どう生きていたかや人間性を窺い知ることができます。そんなですから風が吹き始めて、総理大臣の重責を果たしたのです。ところが、南京事件の時の政治責任を問われて、戦後の東京裁判で、死刑の判決を受け、処刑されています。自分に有利になる証言で、同じ法廷に立つ被告仲間が、不利にならないように配慮して証言をした人だったと伝えられています。
.
.
その「潔さ」に、人間性の高さを感じたのです。文人でありながら、戦争責任を問われながら、言い訳をしないというのは、だれにでもできないことです。仲間を売ってまで生き延びようとする人の中で、そたことに驚かされます。東京裁判で、オランダのベルト・レーリンク判事は、広田弘毅の無罪を主張しています。そんな土性骨(ドショッポネ)の座った人がいて、九州人が、好意的に評価されるのではないでしょうか。
歴史的事実を、『もしかしたら?』と考えてしまう傾向がわたしにもありますが、「元寇」で、強敵の蒙古軍に敗北していたら、日本はどうなったでしょうか。フビライ・ハーンの送った国書を、鎌倉幕府は無視した結果、三万もの蒙古、高麗軍に攻められるのですが、奇跡的な勝利を遂げています。福岡はおろか九州全体、いえ日本全体が、元の領土となって、どこでジンギスカン鍋(実は日本で始まった料理なのです)〉が一大日本料理になって、今晩も、多くの人が鍋を囲むことでしょう。
.
.
天地の神を祈りてさつ矢貫き筑紫の島をさして行くわれは
大君の命のまにま ますらおの 心を持ちて あり巡り
この歌は、下野国の人が、筑紫国、福岡に馳せ参じて歌ったものです。妻子や父母を残し、農作業の鋤(すき)や鍬(くわ)を置いて、長い陸路を、防人の努めのために行く人の「あわれ」が感じられてなりません。
律令制下では、西海道で筑紫国江戸期には、筑前(太宰府や博多や小倉の地域)と筑後(久留米や大牟田)の二国に分けられています。江戸時代の福岡藩は、黒田氏が統治していました。この黒田藩の藩士たちが、「黒田節」を歌って、自分た ひ黒田武士の鑑の藩主を讃えています。
この福岡藩の分藩の秋月藩主、長貞の娘・春姫が、日向国秋月藩主・秋月種美(たねみつ)に嫁いでいます。この春姫が生んだ子が、後に、婿養子として入った米沢藩で、名君と謳われた上杉鷹山でした。わたしは、優れた人を産み育てた母親が、どんな人であったかが気になって仕方がないのです。福岡は、驚くほどの人材を世に送っています。
筑後川に行ったことがあります。久留米市の街中を流れる川で、かつては舟運の物流で賑やかな川だったそうです。義母が生まれ育った街で、お父さんは小さい頃に亡くなって、母親の手一つで育てられたのです。ここ栃木も同じ舟運の栄えた商都であったように、久留米も物の集散地で、義母の母親は、夫亡き後、商いに励んだそうです。
.
.
荷車が、店や倉庫の前には溢れかえっていたそうで、豊かな家庭だったのです。家の蔵にあるお米を出してきては、義母は子どもの頃に、貧しい人たちを助けようと分け与えていたのだそうです。その船の行き来する筑後川で夏は真っ黒になって泳いでいたのだそうです。宮家が、街に来訪した時、お茶出しをしたそうです。そんな時代、そんな誉にあった義母も、すでに帰天しています。
結婚して、久留米を訪ねた時に、義母の実家を訪ねたことがpありましたが、昔の繁栄の影は見られませんでした。久留米絣を創業した井上伝、八女牛島ノシを援助した家系だったそうです。やはり福岡は馴染み深い地であります。県都は福岡市、県花はうめ、県木は躑躅(つつじ)、県鳥は鶯(うぐいす)、人口は512万人、博多は日宋貿易で栄えた港町でした。
明治維新以降は、八幡で官営製鉄業が行われ、日本の富国強兵政策を牽引した地でした。大陸からの鉄鉱石、三池炭鉱の石炭の供給で、製鉄業が隆盛を極めました。直方に行った時に、石炭クズの「ボタ山」が、その繁栄の残影を見るようで印象的でした。
父や母の故郷でもないのに、何か故郷を感じさせてくれるので、『また行かんとね!』という思いが、沸々と湧き上がってまいります。
(「県花のツツジ」、「防人」、「太宰府府庁の跡」、「炭鉱の町」です)
.