同時代人の昭和(土門拳の写真を中心に)

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 敗戦後の路頭でタバコを吸ってる子たちは、自分よりもちょっと歳上の先輩たちですが、たくましく感じられるのですが。この先輩たちは、どう生きていったのかなと思ってしまいます。何もなかった頃、工夫しながら、みんなが遊んでいましたし、家の手伝いをしていたのです。

 ベーコマを回したり、メンコ遊びをし、紙芝居を見て、集団で遊んでいた時代です。取っ組み合いの喧嘩をしたり、肩を組んで歩いたり、みんな下駄履きだったのです。

 女の子たちは、ゴム跳びをしたり、石蹴りをしていたでしょうか。男の子の遊んでいるそばで、女の子なりに遊んでいたでしょうか。まさに「走馬灯」のように、あの頃の光景が思い出されてきます。

 nostalgie 、追憶の世界は、白黒灰の世界だったのです。みんなが貧しく、大人も子どもも懸命に生きていた時代です。物の豊かさは、必ずしも、幸せとは繋がらない時代でもあって、隣の家との心理的な距離が近かったようです。

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秋の陽を浴びての餌取りカモ

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 土曜日、10時になった頃でしょうか、久しぶりに太陽が出てきたので、ベランダに出てみました。曇ったり雨降りに比べたら、気持ちは高揚しますし、気分が朗らかになったのです。

 眼下を流れる巴波川の流れの水草の間を、すごい勢いで素潜りをしている物が見えたので、鯉かと思ったら、カモでした。観光舟の周りにいるカモは、餌の取りっこで突っつきあっていて、餌を取るために首を突っ込む姿は見ていたのですが、あんな勢いよく泳いでいる姿は初めて見たのです。

 首を上げると、嘴に小魚がキラリと光って見えました。食べると、また素潜りをして、スーッと勢いよく、つぎの餌を狙って泳いでいるのです。素早い狙撃兵のような動きで、新発見です。

 ネットで検索してみましたら、「キンクロハジロ」というカモの一種が、素潜りをして餌取りをするとありました。今見たカモは、本能で餌取りしていたのではないでしょうか。でもちょっと違っていそうです。カモにも、そんなに多くの種類があるのですね。人間だって、「十人十色」で、ゆっくり型もいれば、すばしっこい人もいたりですから、当然なのでしょう。

 流れを水中新幹線のように、瓦の上を逃げる鼠小僧次郎吉ようにスーッと動く姿に驚かされた、秋日和に変わって清々しい午前ですした。やっぱり秋っていいな、の季節到来です。

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主の平安を祈る

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 『これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。 彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。 もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。0 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。(ヘブル111316節)』

1. 御国に住まいを 備えたまえる
主イエスの恵みを ほめよたたえよ
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん

2. 浮世のさすらい やがて終えなば
輝く常世(とこよ)の 御国に移らん
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん

3. もろとも勤しみ 励み戦かえ
栄えの主イエスに まみゆる日まで
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん

4. 目標(めあて)に向かいて 馳せ場を走り
輝く冠を 御殿(みとの)にて受けん
やがて天にて 喜び楽しまん
君にまみえて 勝ち歌を歌わん

(”Sing the Wonderous Love of Jesus”
“When we all get to Heaven”/Lyrics E.E.Hewitt 1898/MusicMrs.J.G.Wilson 1898)

 「やがて」、わたしたちを迎え入れてくださる、「永生の望み」があると、クリスチャンは信じています。そこは、「さらにすぐれた」世界で、こここそ、わたしたちを迎えてくださる「ふるさと」、《永遠の故郷》なのです。

 今朝一番、家内の姉が、人生の「馳せ場」を走り抜けて、『平安のうちに召された!』との知らせがありました。6人の兄弟姉妹の二番目の六つ違いの次姉です。病んで家で療養し、最近ホスピスに入院しているとの知らせを聞いていた姉です。家内には、死別は悲しいのですが、この知らせを聞いて、『また会えるわ!』と、家内は言っております。

天国への希望を持つ者たちは、その希望があるのです。八十五年の生涯を終えて、父なる神の元に帰っていったことになります。「永遠の御腕(申命記33章27節)」に抱かれて、安息の家であり、故郷であり、永遠の世界にいるのです。母を送る四人の子たちと、その孫たちの上に、主の平安を祈ります。

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JR只見線

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徳川の幕末期、長岡藩の家老・河井継之助が、新政府軍との「北越戦争」で、負傷して会津に落ちて行く途中、山道をたどって只見に至りましたが、塩沢で力尽きて亡くなります。破傷風が悪化したことによります。明治維新に生きていて、国の舵取りをして欲しかった人材の一人でした。

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 継之助の足跡を追うように、『秘境を行く!』と言う触れ込みの「JR只見線」が、上越線の小出と会津若松の間を運行しています。1927年に、若松駅からの鉄道が開業し、延伸しつつ営業距離、区間を増やし、1942年に小出駅から営業が開始されています。全線開通は1971年になって実現して今日に至っているのです。その鉄路を、「只見線」と呼ばれています。

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ここ栃木駅から東武日光線、鬼怒川線、野岩鉄道、会津鉄道を乗り継いで会津若松駅に行くにも、なかなか時間を要する区間で、日帰りを考えながら路線案内を見るのですが、なかなか出かけられないまま、時間が過ぎていきます。10年ほど前の2011年の洪水の被害で、鉄橋が流されたりして、区間運転、バス代行だったのが、この10月1日に、全線が開通したところです。

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沿線の会津坂下駅の近くには、「五浪記念美術館」があります。会津坂下町で生まれ、神奈川県海老名市に居を構えた、小林五浪の作品を展示しています。きっと郷土の誇りなのでしょう。芭蕉と曾良の道行を描いた絵には、言い知れない旅の浪漫、当時の日本の素朴さが描かれた、素晴らしいのではないでしょうか。

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「夢幻鉄道」とも言われるのでしょうか、nostalgie(ノスタルジー)を感じられる、日本の素敵な過去や原風景に接せられるのでしょうか、都会人の人気の鉄路なのです。ツアーを申し込もうとしましたら、ほとんどが終了していました。都会から訪れる人が多いようです。

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この沿線にある只見高校が、「センバツ二十一世紀枠」で、今年の甲子園の春に大会に出場しています。少子高齢化社会で、過疎の街で、冬季は豪雪の街から、晴れの甲子園に出場したのです。多くが私立の野球名門校の中に、ひときわ輝く「県立」の高校です。「真摯」、「明朗」、「健康」を校是とした全日制普通科、全校6学級、生徒数が90名(令和4年4月1日現在)の高校なのです。校歌は、作詞が丘灯至夫、作曲が戸塚三博によります。

一.要害山の 空青く やさしき花は 雪つばき
あこがれこめて 学び舎に 鍛えてつねに 希望あり
ああ 只見 只見高校

二.きらめく夢を 浮べつつ 文化を運ぶ 只見川
明るく清く 学び舎に 励めば心 豊かなリ
ああ 只見 只見高校

三.吹雪はいかに 荒れるとも 浅草岳は たじろがず
教えを胸に 学び舎に 仰げば未来 光あり
ああ 只見 只見高校

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栃木駅から乗り継いで会津若松駅にいき、そこから小出まで行き、浦佐駅で上越新幹線で高崎駅で降り、両毛線に乗り換えるなら、日帰りができそうですが、どうなることでしょうか。少し足を伸ばして、小旅行をしてみたい願いが、湧き上がってまいります。

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福岡県

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 『福岡には、よく行ったとです!』、九州地区の教職員大会が柳川であったり、直方で事務職研修会などがあり、何度も出張したのです。まだ二十代前半の頃でした。職場を離れる開放感があって、まだ肉の塊の若造で、一端の代表のような生意気盛りを生きていたのです。

 そこに、大分の日田出身のスタッフの女性がいたのです。まさに〈東男(本当は中部男でしょう)〉に〈日田美人〉で、九州弁の intonation で話されて異国への旅情緒に溢れていました。かつて九州統治の主要の役所のあった「太宰府」に案内してくれると言うので、わたしは連れて行ってもらったのです。その帰りに、当時、近くに住んでいた兄家族の所にも一緒に行ったでしょうか。でも、今流の遠距離◯◯にはならずじまいだったのです。

 そんなこともあって、この福岡は身近に感じた県でもあった地です。小倉に後輩がいて、九州旅行をした時に泊めてもらったこともありました。初めて飛行機に乗ったのも、福岡空港から羽田までの航路でした。あの寝台特急のチケットをキャンセルして、航空券い買い換えてくださった事務局長さんは、お元気でおいでしょうか。

 玄界灘、元寇、博多湾、防人、個人的には、義母の出身地、初めて下関で水揚げし、博多でフグを初めて食べた街、度々出張した街、そんな福岡です。県都は福岡市、県花は梅、県木は躑躅(つつじ)、県鳥は鶯(うぐいす)、人口は512万で九州一の人口を持つ県です。


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 わたしは九州弁(筑後弁、博多弁、肥後弁など)が好きで、よく真似たとです。でもよく喋れずじまいでした。好きな政治家の出身地である福岡(博多)であることも、福岡贔屓なわけなのかも知れません。その人が、広田弘毅です。外務大臣をされた方で、後に総理大臣も務めた方です。

 石材店を経営するお父さんを持ち、東京大学を出て、外務省に入り、オランダで公使の務めを果たしています。その公使の時に、一首の俳句を詠んでいます。

風車 風が吹くまで 昼寝かな

 左遷させられて不遇の時に、こんな句を詠んだことに、どう生きていたかや人間性を窺い知ることができます。そんなですから風が吹き始めて、総理大臣の重責を果たしたのです。ところが、南京事件の時の政治責任を問われて、戦後の東京裁判で、死刑の判決を受け、処刑されています。自分に有利になる証言で、同じ法廷に立つ被告仲間が、不利にならないように配慮して証言をした人だったと伝えられています。

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 その「潔さ」に、人間性の高さを感じたのです。文人でありながら、戦争責任を問われながら、言い訳をしないというのは、だれにでもできないことです。仲間を売ってまで生き延びようとする人の中で、そたことに驚かされます。東京裁判で、オランダのベルト・レーリンク判事は、広田弘毅の無罪を主張しています。そんな土性骨(ドショッポネ)の座った人がいて、九州人が、好意的に評価されるのではないでしょうか。

 歴史的事実を、『もしかしたら?』と考えてしまう傾向がわたしにもありますが、「元寇」で、強敵の蒙古軍に敗北していたら、日本はどうなったでしょうか。フビライ・ハーンの送った国書を、鎌倉幕府は無視した結果、三万もの蒙古、高麗軍に攻められるのですが、奇跡的な勝利を遂げています。福岡はおろか九州全体、いえ日本全体が、元の領土となって、どこでジンギスカン鍋(実は日本で始まった料理なのです)〉が一大日本料理になって、今晩も、多くの人が鍋を囲むことでしょう。


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天地の神を祈りてさつ矢貫き筑紫の島をさして行くわれは

大君の命のまにま ますらおの 心を持ちて あり巡り

 この歌は、下野国の人が、筑紫国、福岡に馳せ参じて歌ったものです。妻子や父母を残し、農作業の鋤(すき)や鍬(くわ)を置いて、長い陸路を、防人の努めのために行く人の「あわれ」が感じられてなりません。

 律令制下では、西海道で筑紫国江戸期には、筑前(太宰府や博多や小倉の地域)と筑後(久留米や大牟田)の二国に分けられています。江戸時代の福岡藩は、黒田氏が統治していました。この黒田藩の藩士たちが、「黒田節」を歌って、自分た ひ黒田武士の鑑の藩主を讃えています。

 この福岡藩の分藩の秋月藩主、長貞の娘・春姫が、日向国秋月藩主・秋月種美(たねみつ)に嫁いでいます。この春姫が生んだ子が、後に、婿養子として入った米沢藩で、名君と謳われた上杉鷹山でした。わたしは、優れた人を産み育てた母親が、どんな人であったかが気になって仕方がないのです。福岡は、驚くほどの人材を世に送っています。

 筑後川に行ったことがあります。久留米市の街中を流れる川で、かつては舟運の物流で賑やかな川だったそうです。義母が生まれ育った街で、お父さんは小さい頃に亡くなって、母親の手一つで育てられたのです。ここ栃木も同じ舟運の栄えた商都であったように、久留米も物の集散地で、義母の母親は、夫亡き後、商いに励んだそうです。


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 荷車が、店や倉庫の前には溢れかえっていたそうで、豊かな家庭だったのです。家の蔵にあるお米を出してきては、義母は子どもの頃に、貧しい人たちを助けようと分け与えていたのだそうです。その船の行き来する筑後川で夏は真っ黒になって泳いでいたのだそうです。宮家が、街に来訪した時、お茶出しをしたそうです。そんな時代、そんな誉にあった義母も、すでに帰天しています。

 結婚して、久留米を訪ねた時に、義母の実家を訪ねたことがpありましたが、昔の繁栄の影は見られませんでした。久留米絣を創業した井上伝、八女牛島ノシを援助した家系だったそうです。やはり福岡は馴染み深い地であります。県都は福岡市、県花はうめ、県木は躑躅(つつじ)、県鳥は鶯(うぐいす)、人口は512万人、博多は日宋貿易で栄えた港町でした。

 明治維新以降は、八幡で官営製鉄業が行われ、日本の富国強兵政策を牽引した地でした。大陸からの鉄鉱石、三池炭鉱の石炭の供給で、製鉄業が隆盛を極めました。直方に行った時に、石炭クズの「ボタ山」が、その繁栄の残影を見るようで印象的でした。

 父や母の故郷でもないのに、何か故郷を感じさせてくれるので、『また行かんとね!』という思いが、沸々と湧き上がってまいります。

(「県花のツツジ」、「防人」、「太宰府府庁の跡」、「炭鉱の町」です)

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裁き続けずに仲直りをしなさい

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 『 ですから、すべて他人をさばく人よ。あなたに弁解の余地はありません。あなたは、他人をさばくことによって、自分自身を罪に定めています。さばくあなたが、それと同じことを行っているからです。(ローマ21節)』

 人を裁く人の手の動きが、上の図です。人差し指を、人に向けて、自分の義によって、その人を裁くのです。ところが中指と薬指と小指とは、自分に向かっていて、結局は、相手を裁きつつも、実際は自分をも裁いているのです。そればかりではなく、天に向かって、創造者に向かって親指は裁きの手を向けていることになります。

 『供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ524節)』

 人を裁きつつ、自分を裁き、神を裁くわたしたちへの勧めなのです。ここで、人を裁く前に、《仲直り》の勧め》を、イエスさまがされました。わたしたちが、主を愛し、主に従い、礼拝を守り、賛美をし、パンと盃を共にし、聖書を読み、献金をし、祈り会に出て、イエスさまがキリストだと証ししていても、《等閑(なおざり)にしているもの》があると、イエスさまが言われたのです。

 クリスチャンとして、守り行うことを忠実にし続けていても、それ以上に重要なことがあると言うのです。それを忘れてしまうことが、極めて多いと言う指摘です。と言うか、それをしないで、故意に忘れようとしていること、その最重要なことをしない言い訳で、信仰上の行為で隠そうとしているのかも知れません。

 例えば、わたしが熱心に病者のために祈り、家庭問題で苦しむご方に適切な助言を与え、病む人の癒しを祈り、献金をし、聖書から説教をし、イエスさまがキリストであることを生活と言葉で証をしていても、欠けたものがあり得るのです。

 また諸教会に呼ばれて聖書を解き明かし、大きな大会の実行委員や集会の司会をし、聖書の世界のエルサレムやエジプトに行き(行きたかったのですが出来ずじまいです)、信仰覚醒( revival )の起こった国を訪問し、隣国に聖書を運び、宣教師となって非公認教会に席を置いたとしても、欠いてしまってはいけないことのです。

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 「神のみ前で」、自分がどうあるかが問われているのです。もしかすると、ここで言う、《仲直り》をすべき相手が頑なであり続けて、取りつく島がなくて、こちらの《仲直り》の接近を受け入れないとしても、つまり、《仲直り》が不可能のように思われても、神さまのみ前で、《仲直り》の努力をすべきなのです。

 そうしますと、人との関係は、神との関係に密接されていることになるのです。言い訳をしたり、相手が悪いのだと訴えても、神との関係を損なってはいけません。それほどに、《対神関係》が大切なのだと言うのです。人への躓き、人を躓かせることは、避けられないのですが、神との関わりは、どうでもいいわけにはいかないのです。

 人との関係で、たとえ恥になっても、神との関係を蔑ろにしてはいけないのです。そのような重要なことは、結構後回しにしたり、覆いをかけてしまう傾向があるようです。

 別なことばで、「和解」なのです。『わたしは、天国に行ける!』と言う、母に教えられた子どもの頃に持った信仰に立って、《七十路》の今を生きています。天国には、不和、憎悪、赦せない思い、悪感情、蔑み、妬み、怒り、悪い記憶などはありません。そう言ったものが入り込む余地などない世界だからです。でも、分かっているのに故意に、〈蔑ろにした事事〉は、どうなのでしょうか。

 天国の門の手前で、廃棄庫に投げ込めるのでしょうか。いえ、そんな廃棄庫があるのでしょうか。逆戻りでこの世に帰って来ても、相手は亡くなってしまっていたら、後の祭りです。和解できなかった後悔も、天国には入れません。

 『なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。  人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。(ローマ10910節)』

 この約束のみことばに叶うなら、だれもが救われているのです。でも救われているのに、すべき《仲直り》や《和解》をしないままだったら、どうなるのでしょうか。死の直前に、神のみ前で解決しておかなければ、持ち越すことのできない重要案件であります。

 さあ、思い出す限り思い出して、この《仲直り》、《和解》をしなければなりません。その仲直りすべき相手、和解すべき相手のところに出かけて、恥を恐れずに、しなければなりません。同じ街を歩いていて、相手を認めても、目を背けて、避けてしまうようなことが、躓いている相手、躓かせている相手を、そのままにしていてはいけないのです。

 もし相手が亡くなっていたり、心の門を閉じて会おうとしないなら、神のみ前に、和解すべき相手を置いて、赦すのです。赦しの告白をするのです。そう、聖書は勧めて、いえ命じています。《仲直り》や《和解》は、万物に創造者、統治者、父なる神からの命令なのです。

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死ぬことと生きること

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 作詞が藤田 まさと、作曲が阿部 武雄の「流転」という歌謡曲が、昭和12年に発表されました。その頃のヒット歌謡曲だったそうです。

男命を みすじの糸に
かけて三七(さんしち)二十一目(さいのめ)くずれ
浮世かるたの 浮世かるたの浮沈み

どうせ一度は あの世とやらへ
落ちて流れて 行く身じゃないか
鳴くな夜明けの 鳴くな夜明けの渡り鳥

意地は男よ 情は女子
ままになるなら 男を捨てて
俺も生きたや 俺も生きたや恋のため

 『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。  あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(イザヤ411013節)』

 もう小学生の頃から、わたしは「死ぬこと」を考えていたのかも知れません。就学前に、肺炎に罹って、入院し、死ぬようなところを通ったからでしょうか、「死」を身近に感じていました。中学生になった頃でしょうか、高田浩吉という映画俳優で歌手が、復刻版だったのが後に分かる、この「流転」を歌っているのをラジオで聞いたのです。

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 この歌を、最初に歌ったのが、上原敏でした。この人は、秋田県大館の出身で、わたしの父の同世代人でした。専修大学で野球をしていて、五大学リーグで投手として活躍していたのです。卒業後、製薬会社に勤めますが、声が良かったので、誘われて歌手の道に進んで、大変な人気を得たのです。

 1938年から1942年にかけて、中国大陸への戦地慰問団に加わって、兵士の激励をしていましたが、戦争が本格化して、彼にも召集令状が届きます。上原敏は、顔色を変えることもなく、身支度をし、夫人同伴で東京から汽車に乗って、故郷の大館に戻り、入隊をします。流行歌手という理由で、内地の報道班に残るように勧められますが、彼は外地での兵役につき、南方で戦死するのです。

 自分も死にかけた経験から、彼の本歌である「流転」の二番の歌詞に、強烈に惹きつけられて、それをよく口ずさんでいたのです。それで、彼の戦死のことも知ったのです。

 『どうせ一度はあの世とやらに 落ちて流れて ゆく身じゃないか・・』、人はいつか死ぬんだという強烈で、それでいて漠とした思いが焼き付けられたのです。死への恐れ、『父も母も兄たちや弟も、いつか死ぬ、そして自分も!』と言う思いは、誰にでもあるのでしょう。母の養母の死、母の生母の死、父の養母の死などを聞き、父のお供で、横須賀に葬儀出席したこともありました。「死」が身近に起こりうることとして、自分にも打ち消せない現実であったのです。

 母が信じていたのは、十字架の上で死んだイエス・キリストでした。このお方は死んだだけではありませんでした。死と墓とを打ち破って、蘇られていたのでした。それは、わたしの罪の身代わりの「死」であり、わたしを生かす「復活」だと言うことが信じられたのです。それまでは、『このまま死んしまったら、どうしよう?地獄に落ちるのか?』と、深く怯えていたのです。

 でも信仰を持った時から、あのようにいい知れなく怯えていた死が、怖くなくなったのです。死んでも、やがて《永遠のいのち》に蘇られると信じられたからです。死を恐れながらも、あの特攻隊のように潔く死のうと考えていたわたしは、何か「死に場所」を得たと同時に、『生きなければならない!』、とも感じたのです。

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 それまで自分は、罪という意識の中で、だれに指摘されずとも、いっぱしの罪人だったからです。身の毛がよだつような震えを覚えることもあったのです。呵責を覚えて、這い上がれない弱さだけを覚えて、好きでもない酒を煽って、愚かなことに溺れ、その酔いが覚めると怯えていました。

 そんな頃、福岡の地にいる兄を訪ねて、兄の変わりっぷりに衝撃を受け、自分の生きる軌道が変えられ始めたのです。光が見えた、と言った方がいいかも知れません。無機質に感じられる「死」、「あの世」に落ちて、流れて行きたくない思いが湧き上がって来たのです。

 神に触れられる、そういった経験が待っていたに違いありません。幼い日に母のお供で教会学校に行き、母の教会の特別集会に、母に誘われて集ってはいましたし、17で教会にいた老婆に導かれて信仰告白し、22でバプテスマも受けたのですが、でもback slide して、罪の生活に舞い戻り、惨めに生きていたのです。

 《神の憐れみ》によって、やがてわたしは、死への恐れから解放され、《永遠のいのち》への望みを抱くようになったのです。そう人は一度死ぬのですが、「あの世」ではなく、永遠の神の都に行ける、死も病むこともない世界に行けるとの望みをいただいたのです。それが「恩寵」と言うのでしょうか。

(「サイコロの目」、「大館市」、「死の影を歩む」です)

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様々な秋

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 日曜日の朝の「日の出」、筑波山も見えています。ベランダでまだ咲き続ける「あさがお」、8月から一輪一輪と咲き続ける「サンパラソル」、土曜日に息子が訪ねて来てくれ帰り道のうずま公園で撮った「金木犀」です。

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ありのままの闘魂

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 1948年に、作詞:吉川静夫、作曲:上原げんと、唄:津村 謙の「流れの旅路」が世に出ました。ラジオから、しっきりなしで聞こえてきたのです。歌詞の歌い出しの印象が強かったので印象的でした。

紅いマフラーを いつまで振って
名残り惜しむか あの娘の馬車は
遥かあの丘 あの山越えて
行くかはるばる 流れの旅路

旅の一座の 名もない花形
ビラの写真の さみしい顔よ
遥かあの町 あの村過ぎて
行くかはるばる 流れの旅路

紅いマフラーは 見るのも辛い
別れ惜しんだ あの娘がいとし
遥かあの空 あの星見ては
行くかはるばる 流れの旅路

 きっと戦争で失ったものの中に、「色彩」があったように思うのです。物心のつき始めた頃、そんな幼い日を思い出します。灰色か黒の一色の社会だったのではないでしょうか。ズボンも上着も下着も、黒か白だったでしょうか。時代が暗かったし、テレビもスマホもなかったのです。でも自然界にある色だけは、まさに天然色だったのです。

 そんな頃に、「赤いマフラー」を振る女性の登場する歌が流行って、まだ就学前のわたしの思いの中に、強烈な色彩が飛び込んできたのです。無色の世界に、明るい色が差し込んできたような思いがあったんだと思います。「赤い靴」を履いてた女の子も、「赤いリンゴ」に唇を寄せる歌も、いっきに、日本の社会に色が回復されてきたのです。

 そんなことを思い出させたのが、アントニオ猪木でした。日本のプロレス界を引っ張ってきた人です。いつの頃からでしょうか、赤いマフラーをなびかせて、「闘魂注入ビンタ」をしていました。自分とは一才歳上で、家内の兄と同じ、ブラジル移民で、同じような苦労をしたことでしょう。

 その彼が、昨日、亡くなられたとニュースが伝えました。われわれ世代は力道山、次の世代はジャイアント馬場、そしてアントニオ猪木だったでしょうか。行動が大げさで、国会議員になったり、北朝鮮になんども出掛けたりしていました。

 病んだ後のこの人の、在り方が素敵だったのではないでしょうか。輝かしい過去、日本を興奮させた人気、鍛えた肉体、フアンを喜ばした performance 、次に何をしたり言い出すかが期待できた、そんな人が、病気で変化していく自分を、mass media に露出したことが、すごく勇気があるのではないでしょうか。

 病んで、衰えていく自分の姿を見せたくない心理が、普通に働くのに、彼は恥じず、動ぜずに、カメラの前に、《ありのままのご自分》を置き続けたのは、素晴らしい生き方、そして終わり方だったのではないでしょうか。映像でしか知らない人ですが、病んでいる人にも勇気を与えたに違いありません。

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金木犀の花のかおる朝に

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 『恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。(詩篇8510節)』

 いつの時代でも、どこの国でも、自分の子や孫に、召集者は「赤紙(陸軍省が送付した召集令状の俗称です)」を送りたくないのです。昔、「一銭五厘(明治32年の葉書代で昭和12年からは二銭でした)」だったそうです。わたしの叔父は、これで南方に遣わされ、戦死しています。わたしの友人たちのお父さんも、行って帰らず仕舞いでした。帰らない可能性があるなら、自分の子や孫には、情が動いて出せなかったのでしょう。でも余所の子には、代わって行ってもらっても平気だったのだそうです。

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 そんな身勝手さや抜け道が罷り通ってしまった時代でした。今だって、これからだって、応召を促す「赤紙」を、彼らは理由をつけてもつけなくても、自分の子や孫には出しません。そんなことをして疚(やま)しくなかったのでしょうか。余所の子や孫は、行って当然なのです。

 ロシアでは、おおがかりな「予備役招集」が、有無を言わせずに行われ、ウクライナに派兵しようとしています。無謀な戦争を回避するのが政治の責任を負った者であるのに、そうできない狂気に驚かされます。いったん転がり出すと、歯止めが効かないことが問題のようです。

 平和教育を受けた私たちの世代は、それを希求して、二十世紀の後半から生きて来ました。あの悲惨な悪夢から覚めたと思った国々が、過去に舞い戻るのは残念で仕方がありません。わたしたちの国でもあるのでしょうか。それでも、『地に平和があるように!』と祈る、金木犀の匂いの漂う朝です。

 今日は、10月1日、中国では「国慶節」、「春節」につぐ、国民総移動の祭日です。その前日、ここ栃木市では、『ドスン!』と地が揺れて、震度4の地震がありました。elevator が緊急停止していましたが、今朝は動いています。

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