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作詞が藤田 まさと、作曲が阿部 武雄の「流転」という歌謡曲が、昭和12年に発表されました。その頃のヒット歌謡曲だったそうです。
男命を みすじの糸に
かけて三七(さんしち)二十一目(さいのめ)くずれ
浮世かるたの 浮世かるたの浮沈み
どうせ一度は あの世とやらへ
落ちて流れて 行く身じゃないか
鳴くな夜明けの 鳴くな夜明けの渡り鳥
意地は男よ 情は女子
ままになるなら 男を捨てて
俺も生きたや 俺も生きたや恋のため
『恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。 あなたの神、主であるわたしが、あなたの右の手を堅く握り、「恐れるな。わたしがあなたを助ける」と言っているのだから。(イザヤ41篇10、13節)』
もう小学生の頃から、わたしは「死ぬこと」を考えていたのかも知れません。就学前に、肺炎に罹って、入院し、死ぬようなところを通ったからでしょうか、「死」を身近に感じていました。中学生になった頃でしょうか、高田浩吉という映画俳優で歌手が、復刻版だったのが後に分かる、この「流転」を歌っているのをラジオで聞いたのです。
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この歌を、最初に歌ったのが、上原敏でした。この人は、秋田県大館の出身で、わたしの父の同世代人でした。専修大学で野球をしていて、五大学リーグで投手として活躍していたのです。卒業後、製薬会社に勤めますが、声が良かったので、誘われて歌手の道に進んで、大変な人気を得たのです。
1938年から1942年にかけて、中国大陸への戦地慰問団に加わって、兵士の激励をしていましたが、戦争が本格化して、彼にも召集令状が届きます。上原敏は、顔色を変えることもなく、身支度をし、夫人同伴で東京から汽車に乗って、故郷の大館に戻り、入隊をします。流行歌手という理由で、内地の報道班に残るように勧められますが、彼は外地での兵役につき、南方で戦死するのです。
自分も死にかけた経験から、彼の本歌である「流転」の二番の歌詞に、強烈に惹きつけられて、それをよく口ずさんでいたのです。それで、彼の戦死のことも知ったのです。
『どうせ一度はあの世とやらに 落ちて流れて ゆく身じゃないか・・』、人はいつか死ぬんだという強烈で、それでいて漠とした思いが焼き付けられたのです。死への恐れ、『父も母も兄たちや弟も、いつか死ぬ、そして自分も!』と言う思いは、誰にでもあるのでしょう。母の養母の死、母の生母の死、父の養母の死などを聞き、父のお供で、横須賀に葬儀出席したこともありました。「死」が身近に起こりうることとして、自分にも打ち消せない現実であったのです。
母が信じていたのは、十字架の上で死んだイエス・キリストでした。このお方は死んだだけではありませんでした。死と墓とを打ち破って、蘇られていたのでした。それは、わたしの罪の身代わりの「死」であり、わたしを生かす「復活」だと言うことが信じられたのです。それまでは、『このまま死んしまったら、どうしよう?地獄に落ちるのか?』と、深く怯えていたのです。
でも信仰を持った時から、あのようにいい知れなく怯えていた死が、怖くなくなったのです。死んでも、やがて《永遠のいのち》に蘇られると信じられたからです。死を恐れながらも、あの特攻隊のように潔く死のうと考えていたわたしは、何か「死に場所」を得たと同時に、『生きなければならない!』、とも感じたのです。
それまで自分は、罪という意識の中で、だれに指摘されずとも、いっぱしの罪人だったからです。身の毛がよだつような震えを覚えることもあったのです。呵責を覚えて、這い上がれない弱さだけを覚えて、好きでもない酒を煽って、愚かなことに溺れ、その酔いが覚めると怯えていました。
そんな頃、福岡の地にいる兄を訪ねて、兄の変わりっぷりに衝撃を受け、自分の生きる軌道が変えられ始めたのです。光が見えた、と言った方がいいかも知れません。無機質に感じられる「死」、「あの世」に落ちて、流れて行きたくない思いが湧き上がって来たのです。
神に触れられる、そういった経験が待っていたに違いありません。幼い日に母のお供で教会学校に行き、母の教会の特別集会に、母に誘われて集ってはいましたし、17で教会にいた老婆に導かれて信仰告白し、22でバプテスマも受けたのですが、でもback slide して、罪の生活に舞い戻り、惨めに生きていたのです。
《神の憐れみ》によって、やがてわたしは、死への恐れから解放され、《永遠のいのち》への望みを抱くようになったのです。そう人は一度死ぬのですが、「あの世」ではなく、永遠の神の都に行ける、死も病むこともない世界に行けるとの望みをいただいたのです。それが「恩寵」と言うのでしょうか。
(「サイコロの目」、「大館市」、「死の影を歩む」です)
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