身震いを感じるほどの

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 『恐れるな。あなたは恥を見ない。恥じるな。あなたははずかしめを受けないから。あなたは自分の若かったころの恥を忘れ、やもめ時代のそしりを、もう思い出さない。(イザヤ544節)』

 生きていく術を教えていただいた宣教師さんから、よく言われたのは、『何をしたかではなく、何であったかが、人に問われるのです!』とい言うことでした。

 成功や成果こそが、人生の重要なことだ、との教えが、本屋にも社会にも満ち溢れています。キリスト教界にでさえ、〈成功の教え〉が取り込まれてしまっています。けっきょく人は何も持たないで生まれてきて、何も持たずに去っていくのですね。褒め言葉も褒章もtitleも、みんな置いていくわけです。

 恥じずに、私も生きようとしたつもりですが、多くの恥を残していくのでしょうか。時々、〈若かったころの恥〉が思い出されて、追い迫られることがありましたが、キリストの十字架は、私の罪も恥も、身代わりに負ってくださったことを信じて、無垢のようにされ、命からがら赦されたことを確信できたことは、感謝に尽きません。

 『数えてみよ主の恵み』と言う聖歌があります。どんなに素晴らしいことが、歌う人のこれまでの人生にあったかを『数えてみよ!』と歌いつつ感謝するのです。私は「憐れみ」の数々を思い出すので、これを数えることにしているのです。

 昨日、前橋の書店で、一冊の本を買いしました。戦時下、治安維持法違反で有罪となり、執行猶予付きの判決に服した、寺尾喜七氏の警察での尋問調書を掲載した、「知られなかった信仰者たち 耶蘇基督之新約教会への弾圧と寺尾喜七[尋問調書]」川口葉子、山口陽一著〈いのちのことば社〉」です。

 今、その本にある「調書」の箇所を読んでいるところです。この教会関係者の検挙に関わった立場の係官たちの様子を、次のように記しています。『刑事も警察関係の人々も、拘束して時たつとともに、容疑者をひそかに真の愛国者とほめ、次第に信者達を尊敬して寛大に取り扱った。中でも寺尾喜七氏をまことにえらい人と驚嘆していた。』とです。

 取調官を驚かせたほどの寺尾喜七氏は、信仰を捨てることをしないで、執行猶予で帰宅してから、自室に閉じこもって、聖書と讃美歌に四六時中親しみ、敗戦直後の1945924日、68歳で亡くなったと、この本は伝えています。

 美濃ミッションやホーリネス教会への迫害は、よく聞きましたが、こう言った信仰を持たれて、「非国民」と呼ばれて刑に服した「恥」を負いながらも、キリスト信仰を全された、《真の信仰者であったこと》に身震いを感じるほどであります。

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Nostalgieの上毛電鉄

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 お世話になった方のプレゼントを買いに、前橋に行ってきました。東京はコロナ禍の直中なので、北関東唯一のクリスチャンブックストアーに行ったのです。お店の店長さんに、懐かしいサイダーをご馳走してもらいました。

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 JR両毛線に並走する様に、桐生と前橋を赤城山麓を行く路線で、両毛線の桐生駅からすぐの西桐生駅から、往復割引切符を買って乗車したのです。木の改札口で、切符に昔ながらのハサミを入れってもらいました。つい『わー、懐かしいなあ!』と、改札嬢に言ってしまったのです。 

 地方には、nostalgie を掻き立てくれる風景や生活が残されているのですね。

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初冬の日の出

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 『 日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。──万軍の主は仰せられる── (マラキ111節)』

 戦争があっても、国境を隣国の軍隊が超えても、政権が揺らいでも、地震で地が揺らいでも、貧困児童がいても、少数民族が虐待されても、高齢者の自動車事故が頻発しても、銃が乱射されても、ガンに侵されても、ブログの変換ミスをしても、神はおられます。問題を起こすのは、いつも人間なのです。

 大自然、天然の世界には、賛美があふれています。陽の昇らない日はありません。遮る雲や問題や悩みで見えない時はありますが、毎朝、陽は昇り、日は巡って来ます。

 今日も、全世界で、神さまがほめたたえられますように!

(家内が撮った日の出です)

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山歩きの備え

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 最近聞いたところによりますと、「銃砲刀剣不法所持」の疑いで送検された方が、無罪判決を受けました。この一件は、公園の駐車場で、車内にいた時、防犯警戒中の警察官2名に職務質問を受け、『危ないものがないか確認させてください。』とのことだったそうです。その時、後部座席に置いてあった透明ケースの中に「ノコギリ」と「鎌」とがあって、これが銃刀法違反と判断され、送検されてしまったのです。

 昨年、『大平山にイノシシが出ますよ!」と言われて、ナタを買ったのです。散歩に出かける時に、ザックの中に入れて出かけていたのですが、この話を聞いてから、ナタなんて銃砲刀剣の類の中に入ることになるので、携行するのはやめにしたのです。もちろんきちんとケースに入れ、布で包んであっても、所持違反になります。

 この方も、きちんと刃を、危険のないように包んで、二重にケースに入れていたのに違反だったわけです。近辺の山中で、熊が出たというニュースは、この四年の間に聞いたことがありませんので、大丈夫かとも思うのです。2年ほど前に、「呼び子」のついた wristband を買ってくれたので、熊に出会って、クマったら、左腕の呼子を拭く訓練だけはしてあるのです。

 また、行き倒れだってありそうなので、以前、首にかける「迷子札」も買ってあるのです。そろそろ、猪が出没しそうな雰囲気になって来ましたので、首掛けを注意してみましたら、この紐の間に、whistle がついているではありませんか。襲われても、まだ息があったら、撃退音を上げるか、どなたか助けを呼ぶために吹けるといいのですが。

 以前は、山道に入って、すぐに藪の中に入って、木の枝を探して、杖代わりにしていたのですが、今は、しっかりした折りたたみ式の杖も手に入れて、装備が整っているのです。散歩に出るときには、『「イノシシ鍋」ができるように、担いで帰って来るね!』と家内に言い、『行って帰ります!』と言って出るのですが、まだ鍋食材には出会っていません。

 イノシシがやって来たら、さっと身を翻して仕舞えば、猛進する習性だそうで、突っ走って茂みの中に、転がり込んでしまうでしょうから、大丈夫です。でも〈熊が出たら〉を想定して、冬に向かって散歩装束を整えようと思っているのです。熊と会ってしまったら、一番いいのは、『音を出せ!』と言われましたので、金盥(かなだらい)がいいのですが、かさばってしまうので携行できませんから躊躇しています。

 そう、〈cracker(紐を引くと大きな爆発音のする代物)〉が、よさそうです。でも、とっさに、ポケットから出して、あの細い糸を弾けるかが問題です。人は山を捨てて里に下りたのですから、山は人間の領域ではなく、彼らに優先権があるわけです。でも、あの爪で引っ掻かれたくないのです。まあ謙虚な思いで、彼らの領域に入らせてもらうと思っている晩秋、初冬の夕べです。.

 

まだ咲き続ける花です

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 雨の朝です。昼前には上がるように、Weather News が伝えています.もう日の出の時間が、北関東では6時半頃になっているのですね。11月も下旬ですし、今週水曜日は「勤労感謝の日」です。

 初めてTurkey を食べたのが、今頃でした。色々と教えてくださったアメリカ人宣教師が、どなたかに頂いたのを〈おすそ分け〉で食べたのです。Thank Giving Day の定番で、アメリカ人の家庭では必須のテーブル料理なのです。何時かお腹いっぱい食べてみたいと思ったままの今です。 

 子どもたちがアメリカにいた時に、学校の近くのSUBWAY Tukey サンドを食べたのですが、American sizeを、家内が、『こんなに食べられないは!』と言ったのに反して、ペロリと平らげてしまったのに驚かされたこともあります。

 華南の街の銀座のような繁華街の一郭に、SUBWAY があって、家内を誘って何度か、市バスに乗って、食べに出掛けたのです。もちろんTurkey サンドを注文しました。近くに高中(高校)があって、高校生が大勢いて、たいそう景気良く注文して食べていました。細々のわれわれとは大違いでした。

 『何時かは!』と期しつつの雨の朝です。昨日撮ったベランダの花です。大好きなアサガオがまだ咲いています。ツメレンゲの小さな花が溢れています。

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王の王、主の主をあがめる花

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 『神は祝福に満ちた唯一の主権者、王の王、主の主、(KJ “ the King of kings, and Lord of lords “1テモテ615節)

 この花は、「皇帝ダリア(Dahlia imperialis/木立ダリア)」で、一昨日、出流で写真におさめたと同じ花です。中南米の標高の高い高地原産のダリア科の花です。気高さを表す花に違いありません、“ Imperial ” と呼んだのでしょう。この花を造られた神は、“King of King ” でいらっしゃいます。

 今朝は日曜日、イエスさまが、十字架に死なれて、墓に葬られたのですが、3日の日に蘇られたのを記念した日なのです。それでキリストの教会は、礼拝の日に定めて、順境の日も逆境の日にも、礼拝を守り続けてきています。 

 この皇帝ダリアも、王の王なる神に向かって、褒め称えるかのようにして咲いているのでしょう。今朝のラジオ体操の後、その仲間のご婦人のお宅の庭に咲く花を鑑賞に出掛けたのです。帰りしな、ご主人が切り取って下さって、家の花瓶にさしました。みごとです。

(Aさんの御宅の庭に咲いていた「皇帝ダリア」です)

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公園の枯葉そうじ

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 昨日の朝、「蕎麦遠足」の前に、「うずま公園」の掃除に出ました。落ち葉が絨毯のように敷き詰められていて、まさに晩秋を迎えた公園で、早朝の奉仕でした。竹ぼうきで面白いほどの枯れ葉が集められ、瞬く間にビニール袋に枯れ葉が押し込まれて、30袋ほどにもなりました。

 枯れ葉を踏む、あのカサカサの音が気持ちよくて、買い物帰りに踏んでいたものの掃除でした。この枯葉は、以前は、「堆肥(たいひ、肥やし)」にするために使われていたのですが、今や化学肥料に取って代わってしまい、出番がなくなってしまったようです。

 まだ子どもたちが小さい時でした、教会学校の「焼き芋遠足」に、郊外の山に中にある山間公園に出掛けました。落ち葉を集め、バケツに何杯もの消化用水を置き、濡れ新聞紙に包んだサツマイモを、火の中に入れて焼いたのです。

 あんなに美味しい焼き芋は、その後食べていません。街中で、落ち葉で焚き火をしたり、焼き芋もできなくなってしまったので、スーパーの入り口付近に置いてある焼き芋は買って食べようとは思いませんが、きっと、野外の自然の中で、冬を間近に秋を感じながら食べたら、どんなに美味しいことでしょうか。

 その後の遠足に、どなたかが、「サクマドロップス」を持ってこられ、バスの中で、缶が回ってきて、一ついただいて舐めたのですが、懐かしい舌の感触がし、子どもの頃の味がしてきて、ジジババ遠足が、遠い日々を思い起こさせてくれました。

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この感動は本物です

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 『 あなたは、私のさすらいをしるしておられます。どうか私の涙を、あなたの皮袋にたくわえてください。それはあなたの書には、ないのでしょうか。(詩篇568節)』

 『まことに、御怒りはつかの間、いのちは恩寵のうちにある。夕暮れには涙が宿っても、朝明けには喜びの叫びがある。 (詩篇305節)』

 私の二つ違いの弟は、ちょっとやそっとのことでは泣かない、強い子どもだったのです。つまり「弱音」を言わないで、グッと我慢できる子どもでした。それに引き換え、私は泣き虫で、痛がりで、弱音を吐く子だった、と言いたいのですが、ジッと我慢して生きてきた母の子なので、弟には及びませんが、〈痛さ〉にも〈撃たれ〉にも〈無視〉にも、けっこう強いのだと自認しているのです。

 かく言いながらも、ある手術をして、ICUで目覚めた瞬間に味わった激痛に、私の顔を覗き込んでいた看護婦さん(当時はそう呼んでいました)に、『痛くて耐えられないので、痛み止めを打って!』と女々しくも嘆願してしまったのです。きっと身体の中で、最も深いところを手術していたのでしょう、今まで味わった痛さ、上の兄にぶん殴られた時の数百倍の痛さを感じたのです。

 手術前、見舞ってくれた方たちの前で、『イエスさまの十字架の苦しみ、痛みを少しでも味わえるなら嬉しい今なのです!』と豪語した私でしたが、『主よ。わたしは良いことをしたのですから、この痛みを取り去ってください!』と必死で、交渉の祈りをしてしまいました。主の十字架の痛さの数億分の一でも味わえっこない自分の限界を知らされて、もうそういうことは言わないでおります。

 一番多くの涙を流して泣いたのは、父が召されたと聞いて、勤務先から、父の亡くなった病院までの間、電車の中で泣き続け、涙を流し続けていたことがありました。特愛の子だったのに、父を喜ばせて上げられないままの突然の死別だったので、不徳の三男の自分を恥じたのです。でも父にはまた会えると信じています。

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 今でもお話や映像を観て、感動してしまい泣きたくなることが、時々あります。それですっと立ち上がって、ほかの室に移って、泣き顔を家内には見せないようにしているのです。

 でも一番の涙は、当然滅ぶべきだった自分が、神の子にされたという、25の秋の喜びと感謝の涙だったに違いありません。地獄に落ちるほどのギリギリのところで、拾い上げられたからでした。

 『しかし、あなたがたのことについては、私たちはいつでも神に感謝しなければなりません。主に愛されている兄弟たち。神は、御霊による聖めと、真理による信仰によって、あなたがたを、初めから救いにお選びになったからです。 2テサロニケ213節)』

 人の功績も修行も悟りも、人が救われるために不要なのだと、聖書は言うのです。『初めから救いにお選びになったから・・・』、義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化されるのです。

 聖書が一番問題にしている「罪」は、「的外れ」だと言われています。神が意図したこと、「義の基準」からずれてしまっていることです。だから的を得て、神が意図された人生の目的に戻ることが、神の刑罰という「永遠の死」から、「永遠のいのち」をいただく「救い」なのです。何一つ良くない私が、罪に呻吟しながら生きていた25の私が、「子」とされたのは、

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ289節)』

 これを、《一方的な恵み》、《恩寵》と言います。追い迫る罪の呵責から解放され、躍り上がるような「赦し」を実感をさせていただいた25の秋の「涙」と「喜び」を、決して決して、わたしは忘れません。流した滂沱(ぼうだ)のような、私の涙は、きっと「皮袋」に収められていることでしょう。

 昨日は、住んでいる地域のみなさんと、栃木市寺尾の出流の地の「名物蕎麦」、しかも「新蕎麦」を食べに行きました。煮物(芋と人参と蒟蒻)、漬物、芋の蔓の煮物などが添えられた、特別仕立てでした。そこは、幕末の尊王攘夷の志士たちが立て篭もったお寺の山門前の店でした。山の狭間で萌えるような紅葉が溢れていました。流れ下る川の瀬水も清く、創造の世界は、泣きたくなるような驚くほどの晩秋の美しさで、感動的でした。

(出流の紅葉、ふれあいバス停に咲く皇帝ダリアの花です)

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出逢いと別れ

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『まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」(1コリント人2章9節)』

 2000年代に入る直前になりますが、兄のように慕っていた牧師さんに誘われて、アメリカ北西部、オレゴン州にある一つの教会を訪ねたことがありました。その教会は、Portlandと言う大きな街に隣接する Beaverton にあって、教会全体で私たちを大歓迎してくれたのです。Mehl 牧師がサインしてくれたみことばが、上記のあq聖句です。

 空港からホテルに着きますと、部屋のテーブルの上に、白い布製のバッグに、果物とクッキーやチョキレートやチーズがいっぱいに入れられて置いてありました。中にはカードがあって、歓迎の旨が手書きされて入れてありました。そのカードには 100$札" が添えられていたのには驚かされたのです。

 父親や母親にもらって以来の《お小遣い》で、遠足気分が盛り上がってしまいました。どうも牧師夫人のアイデアだそうで、どんな歓迎ぶりだったかがお分かりいただけると思います。この街から北の方角に、Mt.フッドがそびえていて、お隣の「バラの町」(The City of Roses)」と呼ばれるポートランドのベッドタウンなのでしょう。そこはアメリカで、メル牧師も奥さまも、他の州qの出身でした。

 この教会のメル牧師さんは、背の高い方で、私と同世代でした。聖書学校時代の学友同士で結婚されて、お二人の男のお子さんがおいで、当時は公務員だったのですが、今は献身されておいでと聞きました。メル師は、しばらく白血病と闘っておられて、牧師室を訪ねた時は、ちょうど Chemotherapy の治療の日でした。私たちが待つ中に、帰って来られて、大きな腕でハグの歓迎をしてくれたのです。

 その様子を、男性の秘書が苦い表情をして俯いて、椅子や机などを白い布で拭いていたのです。キモ治療をしたら、握手とかハグは禁物なのです。感染しやすいので要注意で、それを心配した秘書の方の行動だったようです。当のメル牧師さんは、そんなことはお構いなしで、ニコニコしながら談笑していたのです。こちらが注意すべきでしたが、それほど遠路をやって来た一行を暖かく受け入れてくれていたわけです。

 この教会には、40人近いスタッフがいて、歓迎会の時に、互いに挨拶を交わしたのです。訪問団には、他に一人の、同じ団体の牧師さんと、小学生のお嬢さんの混じる兄弟姉妹とがいました。そのお嬢さんも白血病を病んでいて、そんな親密さがあって参加されたそうです。メル牧師さんは、殊の外、このお嬢さんに気を使っておいででした。

 スタッフの中に、近くの街で、以前伝道されていたのですが、疲れ果ててしまって退職されていた方が、ロン牧師さんと出会い、その交わりの中で癒され、招かれて、その教会の奉仕に迎えられたと、涙を流しながら感謝して話してくれました。そういった方々が何人かいて、互いに受け入れ合い、感謝しながら、素敵な教会を形成されておいででした。

 私たちのところに、アメリカからやって来られた宣教師さんたちも同じなのですが、立場や呼称といったものへの拘りを持たないので、権威主義に流れることがなく、みなさんが友人のように接してくれました。それでも神の権威を持たれているのが分かる、実に柔和な教会人が、このメル牧師さんたちでした。美味しい日本式ステーキハウスに招いてくださった時の写真が、残っています。

 この方が書かれた本が、全米のキリスト教界のベストセラーになっていて、孫も娘も私も、愛読の一書に加えています。その一冊の題名は、” God Works Night Shift “ で、Golden Medarion という、アメリカのキリスト教出版の賞を受けたものです。聖書学校で出会った親友のロイ牧師に謹呈されて出版されています。同じ州で牧会をしていて、毎晩、電話で激励し、祈り、支えてくれた友への感謝が巻頭に記されてあります。

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 そのロイ牧師が、他の州で奉仕をした帰り、ご自分で操縦する飛行機の事故で亡くなってしまったのです。その時に、その教会に所属し、教会の domitory (寄宿舎)に住んで、学校で学んでいた長男がいました。そんなことで、不思議な関わりのある、このお二人には感謝でいっぱいなのです。『Ron meal 牧師は、2003530日に、家に帰られました。』と言う教会のお知らせを聞きました。私たちが訪ねて、四年ほど経った時のことでした。

 実はこの牧師さんたちの所属する団体で、中国宣教をされた方が、中国の政変で国外退去になり、日本にやって来られ、東京近辺で宣教活動をされたのです。私は、メル牧師さんの教会での歓迎会で、『戦後間もない時、私の家内の家では、みなさんの教団から、最初の日本宣教をされた宣教師夫妻の家庭集会が行われていたのです。』と話しましたら、驚いたり喜んだりしてくださったのが昨日のようです。

 その後、このメル牧師に会わせたくて、家内を連れて、ビーバートンを訪ねたことがありました。結婚三十年の記念も兼ねてだったのです。日曜日に礼拝に出席した後、ちょうど娘たちがそこに来ていて、メル牧師は親子だと分かったようでした。

 下の娘の家族は、メル牧師の親友、ロイ牧師さんの始めた教会の礼拝に集い、婿殿は、時々青年たちへの務めをしています。長男、長女、次女、次男の4人の子どもたちが、礼拝を守ったことがあります。今は孫たちも学生会に加わって、次女夫婦と共に教会生活を送っております。

 所属する団体や教団は、歴史性の違いで、ちょうど上着やコートの作りや製造所が違うのと同じなのでしょうか。〈違うこと〉ではなく、《同じこと》を共有できる喜びがあって交流ができるのです。訪問をお誘いくださった牧師さんが、先月召されたのです。いつかは、その時が来るのですが、出逢ってお交わりをせていただいた方々が、最近、主の御許に帰って行かれています。懐かしくも楽しかった交流は、忘れられません。でも、同じ馳せ場を走り抜けたみなさんとの再会の望みがあると言うのは、なんとも素晴らしいことではないでしょうか。

(写真は現在のこの教会のHPによる礼拝の様子です)

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通学路の関門を通り過ぎて

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 詩人の辻征夫に、「まつおかさんの家 」という題の詩があります。

ランドセルしょった
六歳のぼく
学校へ行くとき
いつもまつおかさんちの前で
泣きたくなった
うちから 四軒さきの
小さな小さな家だったが
いつも そこから
ひきかえしたくなった
がまんして 泣かないで
学校へは行ったのだが

ランドセルしょった
六歳の弟
ぶかぶかの帽子かぶって
学校へ行くのを
窓から見ていた
ぼくは中学生だった
弟は
うつむいてのろのろ
歩いていたが
いきなり 大声で
泣きだした
まつおかさんちの前だった

ときどき
未知の場所へ
行こうとするとき
いまでも ぼくに
まつおかさんちがある
こころぼそさと かなしみが
いちどきに あふれてくる
ぼくは べつだん泣いたって
かまわないのだが
叫んだって いっこうに
かまわないのだがと
かんがえながら 黙って
とおりすぎる

 松岡さんの家に、よく吠える犬がいたのでしょうか。それとも怖いお爺ちゃんが、家の前を通ると、彼らをにらんでいたのでしょうか、お兄ちゃんも弟も、通学路、しかも家の近くに「難関」があったようです。それでなくとも、初めての一人での登校で、気の弱い兄、そして弟が、同じような体験を、小学校一年時に繰り返したのです。

 「初めての学校(幼稚園)」、「初めてのお使い」などは、多くの子は、ドキドキものなのでしょうね。私は、そう言ったドキドキ感とか、親と離れがたい経験とかがないのです。幼稚園などなかった山村に住んでいたので、幼稚園通いなどありませんでした。お遊戯とかブランコ遊びとか積木などで遊んだ経験もありませんでした。小学校の入学式にも、入院中で行けなかったのです。幼児教育の欠落です。

 父が、靴から靴下、Yシャツ、帽子、制服からランドセルに上履き入れなど、全てを買い揃えてもらったのに、退院後に写真を撮っただけだったのです。東京に出て、時々、行った小学校では、家で甘やかされた<内弁慶>の私でしたが、それでも物怖じも、登校拒否はなかったのです。違った環境には、順応できたのでしょう。ですから、体調がよくて、たまに行く学校の教室に、同級生が何人もいるのが珍しくて、いたずらをしては、叱られていたのです。だから叱られ経験は溢れるほどにありました。

 ですから私には、「まつおかさんの家」経験がないことになります。東京に出て来て住んだ街の近所に、守田さん、権藤さん、月下さんなどの家がありました。四十過ぎになってでしょうか、ある時、その隣近所の家の前を、市内のミニバスに乗って通過したのです。どなたも引っ越してしまっていた様です。思い出の中にだけ残っている風景になっていて、寂しい思いをしたのです。

 華南の街で、幼稚園のそばに住んでいたことがありました。年度初めの登園風景をよく目にしたことがあります。泣きじゃくって、送ってきてくれたお父さんやお母さん、お爺ちゃんやおばあちゃんから離れられない子が、必ずいました。今でも、ぐずってる子がいそうですね。きっと自立の時期の早い欧米では、そんな光景は見られないのでしょうか。

 で松岡兄弟は、どうなったのでしょうか。家に逃げ帰らないで、通り過ぎたのは偉かったですね。浅草生まれの彼が育ったのは、向島の「花街」と「鳩の街」の間でした。戦後の東京の復興の中を過ごした方なのでしょう。きっと小学生のお二人は、浅草から東武鉄道で大平下駅まで来て、大平山に遠足で来たこともあったのでしょうか。山にない浅草周辺の子供にとっての山は、大平山だったことでしょう。14歳で詩作を始めています。育ったのは東京の歓楽街でしたが、詩情を持った少年になって、教師をしながらの詩人として生涯を終えています。

(「向島」の古写真です)

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