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青森県をイメージするイラスト画像
私が生まれた翌年の秋に、サトウハチローの作詞、万丈目正の作曲で、「りんごの唄」が発表され、焼土日本の隅々に、軽快なメロディーが流れ、あふれ、無色の日本に、赤い色彩が色塗られたのです。《りんご王国》と呼ばれる青森県、弘前市は、長くりんごの産地です。
赤いリンゴに くちびる寄せて
だまって見ている 青い空
リンゴは何にも いわないけれど
リンゴの気持ちは よくわかる
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
あの娘よい子だ 気立てのよい娘
リンゴによく似た 可愛いい娘
どなたがいったか うれしいうわさ
軽いクシャミも トンデ出る
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
朝のあいさつ 夕べの別れ
いとしいリンゴに ささやけば
言葉を出さずに 小くびをまげて
あすもまたネと 夢見顔
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
歌いましょうか リンゴの歌を
二人で歌えば なお楽し
皆なで歌えば なおなおうれし
リンゴの気持ちを 伝えよか
リンゴ可愛いや 可愛いやリンゴ
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東北本線の始発駅であり終着駅でもある、青森駅は、高校の修学旅行で、青函連絡船に乗るために、初めて訪ねました。人は「北げる(にげる)」ために上野駅から夜汽車に乗って逃避行をする、そんな小説の舞台の一つでもあります。私たちは、極北寒冷の地に生活してきた日本原住のアイヌのみなさん生活を見せていただくため、また、明治の開拓者たちの営みを知るために、その足跡を追いながら、オホーツクに海を見るバスの旅をしました。
アイヌの民さんの集落にも行きました。まだ観光地化する以前でしたので、普段の生活に触れることができ、木彫りの熊を、家族への土産に、札幌で買った、バター&チーズの飴と一緒に買って帰りました。アイヌは、元は本州にも住んでいたのですが、追われて、海を渡って、北海道に住み始めたと言われています。
さて、県下に鯵ヶ沢という町があって、ここの出身の方が、土木の仕事をされていて、通りがかりで、私たちの素人工事を眺めて、協力を申し出てくれたのです。ユンボを借りてきてくれて、基礎工事を助けてくれたのです。お嬢さんが、上の娘の同学年で、家への行き来もあったのです。いつの間にか、どこかに越して行かれましたが、工事開始の当初に出会った、漢気のある、同世代の方が思い出されます。
私たちの母教会に、青森出身の方がおいでです。多くを話さない方で、うち溶けて話し合ったことは、あまりないのですが、実のある方です。私の家内を、聖会が行われたキャンプ場から、家内一人では帰すことが心配になられて、わざわざ別方向のわが家に送り届けてくださったことがありました。
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母教会の下車駅の駅前に、まだ田んぼがありました。そこに大きな看板があって、それを借り受けて、「教会案内」を書いて欲しいと、兄に頼まれて、 1 週間くらいかけて描いたことがありました。何しろ、看板を道々に立てる広告代理店のアルバイトで、穴掘りはしたことがありましたが、描くのは初めてのことでした。描いては、駅のホームに行っては眺めて、描き終えたのです。
そこに、[あなたの人生に勝利を!]をと、大描きしたのを、この方がご覧になって、教会にやって来られた、信仰を告白し、バプテスマを受け、素敵な姉妹と結婚をされ、お子さんたちを立派に育てられ、教会の中心的なメンバーとなられたのです。朴訥な津軽人が、東京に学びに出てこられて、お仕事をし、クリスチャンになられたわけです。
今は駅前の区画整理で、看板はありませんが、下手な素人が書いた、《人生勝利》の主イエスさまを信じられたのは、献身直前の私への励ましでもあったのです。
律令制下では、陸奥(みちのく)は、「陸奥国」と「出羽国」とに分けられていて、今の福島、宮城、岩手、そして青森が、「陸奥国」でした。多賀城が国府で、国分寺は、そこから離れた現在の仙台に建てられています。平安末期には、奥州藤原氏の支配に服した地でした。栄耀栄華を極めて、欧州平泉には、往時を偲ぶことのできる中尊寺に「金色堂」が残されています。源頼朝に征服されて滅びでしまっています。
江戸期には、転譜などがあって、津軽氏が弘前藩を治め、明治維新を迎えています。県都は青森市、県花は「りんごの花」、県木は「檜(ひば)」、県鳥は「ハクチョウ」で、人口は 120 万人ほどです。やはり果実のリンゴを代表とする農業県で、1891年に、上野青森間に鉄道が開業してから、青森は注目され始めています。その交通網を利して、漁業も農業も発展して来ているのです。
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「三内丸山遺跡」は、平成 4 年( 1992 年)から始まった発掘調査で、縄文時代の前期から中期(紀元前約 3,900 ~ 2,200 年 現在から約 5,900 ~ 4,200 年前)の大規模な集落跡が見つかりました。たくさんの竪穴建物跡や掘立柱建物跡、盛土、大人や子供の墓などのほか、多量の土器や石器、貴重な木製品、骨角製品などが出土し、「世界文化遺産」に登録されています。
大きな集落があって、秋に収穫された栗の実などが収められた貯蔵庫も発掘されています。霧の木を植えて、栗栽培が行われていたとも考えられています。それ以外にも、海産物も大き収穫されていたようです。大きな共同体があったからでしょうか。南の九州の吉野ヶ里遺跡、北の青森の三内丸山遺跡、私たちの祖先の生活の営みがあったことになります。
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「青い森のメッセージ〜青森県民の歌〜」があります。作詞が山内美空、補作詞が伊藤アキラ、作曲が鈴木キサブローで、2001年元旦に発表されています。
あなたが花になれば 私は草になろう
毎日少しゆれて 話を続けよう
氷や雪になれば 私は空になろう
こごえた指をとかす 言葉をみつけようそして春夏 秋冬がめぐり
森は大きく きのうより明日この森から lalala 夢は始まる
青い 青い森のメッセージ
この森から lalala 人はかがやく
青い 青い森のメッセージだれかが山になれば だれかが川になって
流れる雲を招き 絵巻をつくるだろう
小枝や鳥になれば 私は水になろう
かわいた胸にしみる 雫をあつめようやがて宇宙に 星たちがめぐり
人と人とが 森になる季節この森から lalala 道はひろがる
青い 青い森のメッセージ
この森から lalala 歌は生まれる
青い 青い森のメッセージ
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素敵な市の県民歌です。「じょっぱり」と言われるようで、まさに《我慢強さ》が、青森県民の県民性だと、自他ともに認められていているそうです。津軽、南部、下北との違いも大きそうですが、どこの県にも頑固者もいますし、融通性のきく人もいるからです。
高校生の頃に、弘前市の出身の石坂洋次郎の作品を、岩波文庫で読みました。活字を追いながら、出来事を想像しながら、面白くて、笑いながら、次から次へと読んだのです。街の銭湯に、学校の先生たちが入って来て、風呂屋の子が語る談義が面白くて、大笑いをしてしまいました。
弘前高等女学校の教師をしていた経験から、学校もの、青春ものが多かったでしょうか。読書しながら、難しくて考え込むような内容ではなく、当たり障りのない日常を読み取って、至極楽しかったのです。ですから、青森県の印象は、ずっと好いことばかりでした。
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家内は、八甲田山の麓に住む同級生を訪ねたことがあって、家人と旧級友とがする会話が、全くわからなかったのが印象的だったと言っていました。厳しい自然の中で、なるべき大きな口を開けないでしゃべるので、やはりくぐもっていたのでしょうか。基地があったり、廃棄物処理場、今では、〈原子燃料サイクル施設」と呼び替えているのですが、村の経済のためにも、そうせざるを得ずに、今の時代に必要に応えておいでです。
さて染井吉野の桜前線が北上して、桜名所の弘前城の桜が見頃になるのは、いつ頃になるのでしょうか。