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「出藍の誉れ」ということばが、印象深く感じられてしまいました。これは、弟子が師匠の学識や技量を越えることのたとえ。[由来]「藍」は染料に使う藍草のこと。藍草で染めた布は藍草よりも鮮やかな青色となるが、その関係を弟子と師匠にあてはめて、弟子が師匠の学識や技術を越えるという意味。学問の重要性をうたった荀子の言葉に由来する。[出典]「荀子」勧学。
“ ワールド・ベースボール・クラッシック(World Baseball Classic )” で、日本野球がアメリカチームを破って、優勝を決めました。この野球の起源ですが、次のように説明されています。
『野球の起源は明確にはされていないが、イギリスの球技である「タウンボールtown ball」が、イギリス系移民によってアメリカに持ち込まれた後に変化し、野球として形成されたと考える研究者が多い。1830年代から1840年代に原型が成立した後、主にアメリカの北部で盛んとなり、南北戦争(1861〜1865年)を機に南部にも伝えられたことでアメリカ全土において人気を博するようになった。19世紀後半を通じてルールに大幅な改良が加えられ、現在の形となった。(ウイキペディア)』
日本に伝えられたのは、次のようにです。『南北戦争に従軍後、お雇い外国人教師として来日する。1873年(明治5年)に第一大学区第一番中学で英語や数学を教える傍ら生徒に野球を教えた。同校は翌年から開成学校(現東京大学)となり、立派な運動場ができると攻守に分かれて試合ができるまでになった。これが「日本の野球の始まり」といわれている。同校の予科だった東京英語学校(後に大学予備門、第一高等学校)、その他の学校へと伝わり、そこで野球を体験した人達が中心となって野球は日本全国へと広まっていった。現在の繁栄する日本野球の種をまいた人としてその功績は計り知れない。(「野球殿堂博物館」より)』
アメリカに始まり、日本に伝えられてから150年の節目に、WBCの大会で、AmericaのNational team を、3対2で破って勝って、優勝を決めてしまったのです。これは、まさに「出藍の誉れ」ではないでしょうか。
ウクライナでは、兵器を用いた〈戦い〉が行われて続けている現在、ボールとバットを用いて、野球の世界選手権が、平和の内に行われたのです。母国の名誉のために、平和的な《闘い》が行われるのは、人類が、どれほど平和を希求しているかの象徴的な表れだと感じてなりません。
子どもの頃に、石ころや水たまりの中で、三角ベースの野球をし、父と家の前の道路でキャッチボールをし、青田や千葉や川上や小鶴や大下などのスター選手の活躍に胸を踊らされたのです。そこには夢がありました。すぐ上の兄は、その夢を追いかけ、野球が好きで、高校野球に青春を燃やしました。
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あの太平洋戦争には、日本はアメリカに負けたのですが、戦時下には、中学校野球、都市対抗野球、東京六大学野球などの大会が相次いでが中止された中、「職業野球(今のプロ野球です)は、野球ファンにとって唯一の娯楽だったのです。敗戦国日本は、そのアメリカの助けで、廃墟から立ち上がることができました。
敗戦国の子どもたちの栄養補給のために贈られた “ LARA 物資 “ の粉末牛乳(鍋で煮て教室で配られました) を飲んで、強固な体をいただいた、われわれ祖父の世代、その孫たちの世代が、平和の内に、闘いを繰り広げて決勝で、《恩》を返すことができたのでしょう。
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投打に秀でた大谷翔平選手が、相手チームの善戦ぶりを賞賛する姿は、まさに、麗しい Sportsman ship で、感動的でした。勝って、有頂天になって驕らない態度は素晴らしかったのです。
さて、私たちの孫が、アメリカの高校の〈YAKYUboy 〉で、選抜チームで活躍中です。日米の血を継いでいるので、今回の日本チームに招聘された ラーズ・ヌートバー(Lars Taylor-Tatsuji Nootbaar )選手の背景と同じなのです。
やはり野球は面白いスポーツです。準決勝で、メキシコチームに向かって、大声援の中で、短く拍手したのが大谷翔平でした。彼には、相手に対しての respect (敬意)が溢れています。勝っても、相手への思いを忘れないのは、どんな賞にも劣らない優れて高貴な振る舞いでした。試合後のインタビューで、ダルビッシュ選手が、臆する若手に、楽しく野球できるような務めを果たしたことを、大谷翔平が大きく評価していたことが素晴らしかったのです。
今日は、たまの温泉日でしたが、施設のテレビ中継に見入ってしまい、勝利の瞬間を見届けることができました。
(高校生の時に作成した「大谷翔平ノート」です)
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