令和の青年よ、立て!

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 同志社大学を起こした新島襄の伝記の中に、開学の経緯が述べられています。当時の文部大臣の森有礼の目指した教育方針は、《軍隊式の徳育教育》でした。やがて日本が軍国主義化していく発端となるのですが。そういった動きの中で、一人の青年の思いに、危機感を覚えさせたのは、主でいらったに違いありません。

 アメリカのアマースト大学で学んだ新島は、私立学校を建てる必要性を強く感じたのです。『青年は天真爛漫であるべきである!』との信念から、青年の自主性や能動性を育てる《自由教育》をしたかったのです。彼自身が自由と自治の国で学んだからでした。私は、この大学に入りたかったのです。

 実は、中学の修学旅行で、京都に行った私は、数日間、私たちをガイドしてくれたバスガイドの「京ことば」に魅了されたのです。男4人兄弟の中で育ち、男だけの中学校で学んでいた私は、その優しい話し振りの彼女に、ほのかな恋心を覚えたのです。それで、『大学は京都に来る!』、中学3年、14才の私は、そう決心したのです。それが志望の動機でした。  

 ところが、中学生の淡い恋は、日常生活に戻ると、すぐに忘れ去られてしまいました。なんとなく運動部に所属しながら3年がたとうとしていた時に、進学を考えたのです。そうしますとB学院の入学案内が目に飛び込んで来たではありませんか。

 その表紙の写真に、楽しそうに笑っている綺麗な女子大生がプリントされていて、やけに私に微笑みかけて、『入学して、一緒に勉強をしませんか!』と誘っている様に感じたのです。それを断りきれなくて、入学させてもらいました。でも、補欠入学でした。ちょっと悔しかったのですが、結構、その4年間は、恋をしたり、泣いたり、笑ったり、楽しく過ごさせてもらいました。『勉強をした!』と言うよりは、残念ながらアルバイトをして学費を稼いだ年月だったのです。でも、本を読んだり、渋谷や新宿の「ル・ノアール(喫茶店)」で、未熟な考えで議論したり、ケンカしたりでした。同志社ではなかったのですが、それなりに心が高揚したり、落胆したりの意義の有った4年でした。

 振り返ってみますと、これまでの日々のすべて!が、その様にお導き下さったのだと、痛切に感じるのです。人の考えや思いをはるかに越えた主のみ心が、そのすべての歩みにあったわけです。主を信じて「神の子」とされるなら、自分の生涯に起ったすべての出来事に、意味や価値のあることが分るのです。

 新島襄の青年期の転機は、密出国の準備中に、函館で、「漢訳聖書」を読み、創世記の巻頭の「初めに、神が天と地を創造した」を読んだ彼は、『この神こそ真の神に違いない!』と信じたと言われています。上海に上陸した時に、どうしても買い求めたかった「新約聖書」を手に入れています。

 日本の行方に暗雲が立ち込めつつあります。不穏な空気が充ちつつあるように感じてなりません。この21世紀にも、聖書の巻頭言を読んで、新約聖書を読んで、信仰を持つ人たちが生まれて、明日の日本を憂える人が起こるようにと願います。令和の新島よ、立て!

(新島襄の群馬県安中の住宅です)

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