《39歳の時》に、主イエスさまの教会を牧する責任を負って、4人の子に養育を、家内と二人でしていたでしょうか。〈不惑〉の年齢になる前年でしたが、その責任の重さを感じながら、精一杯励んでいたのです。
新渡戸稲造が同じ《39歳の時》に、台湾総督府の民生長官だった後藤新平の招聘を受けて、台湾に渡って、殖産局長心得、臨時台湾糖務局長の重責を負っています。アメリカにいた時の要請でしたが、後藤の招きに、新渡戸は病弱でしたが、即座に応えたのです。赴任早々から、台湾全島を歩いて、この島で、何を植えて育てるべきか、農業の道を探します。それで思いついたのが、「サトウキビ」の栽培の近代化で、精糖業の整備だったのです。
清朝時代から、台湾では精糖業が行われていたのですが、それを改善し、産業として確立するための術を模索していくのです。それで、パリで行われた万国博に出席した帰りに、ジャワ島に立ち寄って、そこで行われている精糖業の全てを視察します。そして、「糖業改良意見書」を後藤長官に提出するのです。
その意見書を見て、後藤は新渡戸を糖業局長にします。京都大学に招かれて、植民政策の講座を担当するまで、3年間、その職に心血を注いで、台湾糖業の近代化の基礎づくりに腕を振るうのです。
.
.
この新渡戸稲造に、心服した人物がいました。台湾の第三代の総督に就任していく、李登輝です。台北高等学校を終えて、尊敬する新渡戸が、かつて教授職にあった、京都大学農学部に入学して、新渡戸が専攻し、講義した「農業経済学」を学んでいます。李登輝、19歳でした。〈22歳まで日本人〉であったと、この人は言っています。時代の子でしょうか、日本で教育を受け、アメリカに留学し、1961年に、クリスチャンとなり、その後、政治の道に進んでいきます。
台湾で12年間、難しい時代の台湾の総統の責務を果たして、2020年に、97歳で帰天しています。その李登輝が、最も強く影響を受けたのが、農業経済学の教師であり、クリスチャンであった新渡戸稲造だったわけです。
台湾には、上の兄と一緒に、台北から高雄まで、2週間ほど、教会巡りをしました。お招きくださった教会で、説教をさせていただきました。その代わり、説教後のおもてなしで、5kgも体重増になってしまったのです。確りした信仰を持たれる政治指導者の国は、落ち着いていて、豊かでした。新渡戸や、嘉義農林学校で野球部を指導した近藤兵太郎、台南に農業用水にダムを建設した八田與一など、台湾の農業や学校スポーツに寄与した人物が、何人もいます。
その日本人への評価の高い国で、新渡戸やその他のみなさんのおかげでしょうか、歓迎され、熱く迎えてくださり、奉仕をさせていただいたのです。今、日台の関係が保たれていくように願うのです。大陸の華南の街にいた時に、ビサの関係で、3か月ごとに、厦門(アモイ)から金門島まで通いました。街の雰囲気が、大陸の街とはガラッと変わっているのに驚かされました。
華南の街のある会社で、聖書研究会をしていた時、通訳をして下さった姉妹が、今は、台北に戻られておいでです。台湾に、主の祝福を心から祈っています。
(さとうきび畑、台湾のフリー・イラストです)
.