赤とんぼ

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 毎日送信してくださる「野生を撮る」に掲載されていた、賀茂台地(呉市郷原町)のマユタテアカネと、家内が撮った栃木巴波川の家のベランダに止まっていた赤とんぼです!

 市の運動公園のグラウンドでは、無数の赤トンボが、秋の陽射しを受けて飛んでいました。でも昨日の栃木は、35℃もあった気温が、今日は嘘のように、秋めいた気温になっています。高気温に踊った今年の夏と秋でしたが、芸術の秋も、食欲の秋も、これを楽しめるのはいいものです。

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時間や瞬間の「間」が

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 『勤勉な人の計画は利益をもたらし、すべてあわてる者は欠損を招くだけだ。(箴言215節)』

 この絵は、下村観山(1873年に和歌山市に生まれ横山大観らと共に日本美術院を創設した人です)の描いた「鵜」という題です。本当の絵はこれよりも大きな画面で、その左下に一羽の「鵜」が描かれているだけなのです。これも日本画の「間(ま)」のある画なのです。大きく羽ばたくように描かないで、空と海の間に位置する一羽の「鵜」の存在が、「間」を生かし、「鵜」が、「間」を生かしている、ものすごい画なわけです。

 「間延び」と言う時間の制止と動きとの間に、「間」があって、それが長過ぎてしまうのを、そう言うのでしょうか。楽観的な人の生き方、動きなどに、そう言った焦らないで、待つような、やり過ごすような「間」があってよいのでしょう。

 「欠損を招くだけ」と聖書が警告しているような生き方のせっかちな私と違って、急がないでゆっくりと、考えながら行動したり、決断する家内の生き方が、今では一番よいと思えるようになってきました。愚鈍な、呑気な、様子待ちの生き方は、四人の男兄弟で育った私には、そんな生き方をしたら置いてけぼりで、おかずをみんな、兄弟たちに食べられてしまうので、食べ急ぐ間に、せっかちの度を上げてしまったのです。

 今朝も鏡に映る顔を見ると、そんな若い頃とは違って、少々間延びをしたような、容貌の作りに変わってきているのが、よく分かります。キリキリして生きていた若い頃は、せっつかれているようで、緊張度が高かったなあと思い出しています。もう、急ぐ必要もない、単調な生き方の許される〈黄昏時〉を迎えて、夕日が伸びていくように、生き方自身が、「時間」に追いかけられたりすることもなく、人に急かされたりしないので、のんびりできていいものです。

 そんな中、「間の美学〜日本的表現〜(末利光著、三省堂選書)」を、図書館から借り出して読んでいるのです。著者の末氏は、NHKのアナウンサーを長年された方で、喋りの巧手という方です。1929年の秋季の六大学野球・早慶戦中継のアナウンスで、『夕闇迫る神宮球場、ねぐらへ急ぐカラスが一羽、二羽、三羽・・・』との語りで有名を馳せたアナウンサーに、語りの「間」の重要性を学んだのだそうです。

 そう言えば、語りの名手の森繁久彌も、元アナウンサーで、旧満州の放送局に勤務されていて、歌も語りも、この人の「間」には魅力がありました。様々な社会の分野にも、この「間」があって、それが実際に効果をあげたり、ゆとりをみせたりしているのだそうです。

 「刑事」の項目で、次のように述べています。『犯罪捜査にも間やリズムがある。事件が終わってみると、それがよくわかる。やたらと焦って追いかけてみても駄目。時として、犯人を泳がせてみることも必要。(誘拐事件では、あえて警察が報道陣に申し入れをして、しばらく報道を差し控えて欲しいということがあります。この間に、犯人の動きを待って、取り押さえようとします。新聞やテレビに出ると、犯人が誘拐した人間を殺してしまわないとも限らないからです。息の詰まるような駆け引きです。「わが社では、事件発生を知っていましたが、人命尊重の立場から、あえて報道をしませんでした。」というのがそれです。』

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 「老い」とは、締めくくりであって、「間」ではなさそうですが、「間」だらけになってしまったようで、ないだ波の港に曳航されてきた老朽船のような思いがしています。市の入浴施設が、6キロほど西にあって、朝10時からでしたので、道の駅での買い物のついでで、出かけてきました。きれいなお湯に、一時間ほど浸かって、延びた「間」を過ごしたのです。

 やがて、待ち望んできた「瞬間」が来るのです。永遠への序曲が奏でられ、その世界への約束が実現間近なのでしょうか。考えもしなかったような時が巡ってきて、そんな老いを生きられて、もう怠けているように思うことも無くなったのです。

 11の講座のある市民教養大学に申し込んで受講中です。先週末は、「まちぐるみで認知症高齢者を支える」という一般公開の講座で、獨協医科大学・日光医療センターの脳神経科の渡邊由佳医師の講演がありました。「間」を、意味のある生活をしていけるようなお話でした。

 これまで、学校と教会とで、長く話す仕事をしてきましたので、上手に話すのは、経験が与えてくれることですが、話の「間」が大切だというのが学んだことかも知れません。立板に水よりも、「間」を置いて話す方が、聞き手には好いようです。祈りも説教も、ちょっとした「間」があると、聞いてくださる神さまも、ホッとされるかも知れません。

 今は、ことば、意見、思想、チャット、小声、大声などが洪水のように溢れかえっている時代です。表現の自由が、溢れて、こぼれ落ちている感がします。世の中が、早口言葉のように、speed up してしまい、止まることも、休むこともなくなっているので、かえって「間」が必要になっているのではないでしょうか。

 聖書の「詩篇」と「ハバクク書」に、「セラ」が出てきますが、私たちの母教会を訪ねてくださった聖書教師が、説教の中で、『セラは小休止の意味と思われます。』と教えてくれたことがありました。まさに、それこそ、神の定めら、私たちに求めておられる「間」なのではないでしょうか。

( 下村観山」の「鵜」、「四分休符」です)

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名月

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 『2023年の中秋の名月は、929日です。「中秋の名月」とは、太陰太陽暦(注)の815日の夜に見える月のことを指します。中秋の名月をめでる習慣は、平安時代に中国から伝わったと言われています。日本では中秋の名月は農業の行事と結びつき、「芋名月」などとも呼ばれることもあります。(中央天文台)』

 上の絵図は、中央天文台のサイトで掲示されたもの、下の写真は、西に筑波を仰ぎながらの昨晩の 6時頃の「名月」です。このあとは、雲があって見えませんでした。河南の町では、この数日前に、「月餅yuebing 」を、食べきれないほど頂き、困ったほどです。今は、みんなで寄り合って、何種類もの月餅を小さく刻んで、話し合いながら食べて交わりました。それがなくて帰国後は寂しいかな、です。

 

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あんなことこんなこと

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 6年間通った学校の近くに、少年院と刑務所がありました。運動部に入っていた時の冬季練習は、この刑務所の塀の外を、三周回ったのです。その敷地面積26万2058㎡(東京ドーム5、6個分とのこと)です。けっこうな距離だったのです(一周が1.8kmだそうです)。塀の外には、ところどころに、ツツジだと思いますが、ある一廓に生垣がありました。いつでしたか、前を走っていた上級生が、ヒョイと消えてしまったのです。生垣の中に潜り込んで、一周分か、二周分を誤魔化していたわけです。

 塀を見上げて走りながら、『いつか、ここに入る時があるだろうか?』と、つい思ってしまったことがありました。高くて、灰色だったでしょうか。娑婆と塀の中とは、1、2mほどの違いで、自由と拘束が仕切られていたのは、複雑な思いでした。

 少年院は、門扉の間から中が伺えて、人影は見えなかったのですが、たくさんの同世代が収容されていたのでしょう。ここに入らないでいる自分と、入っている連中との違いをいつも意識していたのです。スレスレのところで過ごしながら、彼らは自由を奪われ、こちらには自由気ままな生活があったわけです。矛盾でしょうか。

 入った学校に、” BBSBIig brothers  and sisters と呼ばれるクラブがあって、そのクラブにいたことがありました。少年法の学びとか、慰問とか、虞犯の少年少女との接し方、BBS運動の歴史などを学んでいました。ところが深く関わらないまま、卒業してしまったのです。自分の居場所がなかったように感じてです。

 そう言ったことに関心があるのは、自分の過去に、そんなことがあったり、自分の兄弟姉妹の中で、警察問題を起こした者とか、家裁送致されたり、鑑別所や少年院に行った者がいたりした学生が、クラブには多かったようです。いつの間にか、この自分が、荒れた思春期の一時期の麻疹(はしか)のような時期を過ごしたことが、つい数年前にありましたから、クラブの活動の対象者のように思えて、境界線がはっきりしなくなったわけです。

 今も思い起こすと、ケンカっ早い、危なっかしい自分が、その時期を超えられたのは、母の祈りがあって、神さまの憐れみによったのに違いないのです。必死に祈る母がいて、いつの間にか矯正されていったのでしょう。父からも、母からも説教じみたことを聞きませんでした。不気味なほど、静かだったのです。中学校も、警察も、同じように静かでした。

 処罰されて、切れて、ヤケクソになって生き始めていたら、道を誤って、踏み外していたに違いないのに、すんでのところだったのです。〈恥な過去〉、脛に傷を持つ者として、今もその恥を感じるのです。でも、神さまが赦してくださったと、確信できた日があったのです。恥にも、意味があるかなと思うのです。

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 華南の街の隣り街から、中年のご夫婦が、私たちの家を訪ねて来られたことがありました。息子さんが、日本で働いていて、何かの事件を起こして、刑務所に入っていると言っていたのです。『日本に帰国したら、ぜひ息子に会っていただけないでしょうか。精神的な病気があるので、その様子を、会って見てきて欲しいのです!』とのことでした。

 その息子さんがいたのは、私が高校生の頃、塀の外を走っていた刑務所だったのです。帰国してから、私は刑務所を訪ねて、面会を申し出たのです。しばらく、話し合っていたと思います。『家族以外の面会はできないので、申し訳ありませんが許可するこ
とができません!』との返事でした。それで、差し入れを残して、刑務所を出たのです。

 17で心配していた刑務所の入所が、こんな形で叶えられたのです。帰ってから、その経緯を告げ、役立たずの面会をお詫びしたのです。果たせなかったこの依頼は、それで終わったのです。入所でも、面会でも、やはり刑務所は刑務所でした。これからも無縁の領域で終わるのでしょうか。

(「塀」のイラスト、隣国の海です)

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武士の妻の老いに

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 武士の生き方とは、ずいぶん厄介なものだったのでしょうか。明和八年(1771年)、三河国の伊織という名の武士が、刀を買うのです。150両という値で、30両を侍仲間から借金していました。よほどの名刀だったのでしょう。

 その刀の披露のため一席を設け、友人知人を招くのですが、お金を借りた同僚を招かずにいましたら、席の途上に、この同僚がやって来て、言い争いになり、その刀で伊織は切ってしまうのです。その傷が原因で、3日の後に、同僚は死んでしまいます。武士も些細なことで癇癪を起こし、刀を抜いて、人を殺め殺してしまうのです。江戸から越前国丸岡に「永のお預け」の処罰が下されるのです。妻るいと結婚して、四年目の出来事、若気の至りだったのです。

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 これは、鴎外の小説で、「ぢいさんばあさん」という題で、そのあらすじなのです。このことが起って37年後、伊織が赦免されて、るいの元に帰って、仲睦まじく老いを生きている様子から始まっています。その間、るいは、義父母の世話をし、見送り、授かった息子も見送ってきたのです。独り身になったるいは、筑前国黒田家に奉公に上がって、31年間仕えてきたのです。今や、年老いて、その仕事を辞しています。

 そのるいが、時の将軍徳川家斉から、褒美を授かるのです。今で言う年金と考えても良さそうです。その額が、銀十枚、今のお金で、7080万円になるそうです。るいは、夫の不始末で、寂寥(せきりょう)の年を重ねるのですが、この金銭的な慰めよりも、夫との老後を、共に生きる静けさが、なんとも好い「武士(もののふ)の妻の老い」ではないでしょうか。

 人生って、どう言うふうに展開するか、誰も予測できません。意地張りの短気で、人生の好い時を棒に振る人もいます。ただ忠実に働き上げて、趣味に老いを過ごす人もおいでです。ただ悔やんで、人生を振り返るよりも、残された日々を、どう生きるかが、いのちの付与者から問われていることなのかも知れません。鴎外は、還暦になった年に、『馬鹿馬鹿しい!』と言ったとかで病没しています。
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 カレブは、次のように言っています。

 『主のしもべモーセがこの地を偵察するために、私をカデシュ・バルネアから遣わしたとき、私は四十歳でした。そのとき、私は自分の心の中にあるとおりを彼に報告しました。 私といっしょに上って行った私の身内の者たちは、民の心をくじいたのですが、私は私の神、主に従い通しました。 そこでその日、モーセは誓って、『あなたの足が踏み行く地は、必ず永久に、あなたとあなたの子孫の相続地となる。あなたが、私の神、主に従い通したからである』と言いました。 今、ご覧のとおり、主がこのことばをモーセに告げられた時からこのかた、イスラエルが荒野を歩いた四十五年間、主は約束されたとおりに、私を生きながらえさせてくださいました。今や私は、きょうでもう八十五歳になります。 しかも、モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。私の今の力は、あの時の力と同様、戦争にも、また日常の出入りにも耐えるのです。(ヨシュア14711節)』

 なんと言う告白でしょうか。『・・・モーセが私を遣わした日のように、今も壮健です。』と言うのです。今の壮健さは、自然にできたとは考えられません。しっかりとした自己管理をしてきた結果、今、手にしているものなのでしょう。85のカレブは、日常の必要を、十分に果たせる健康体だったのです。

 度々訪ねては、激励してくださった主の器も、病を得て亡くなりました。婚約式にも、その時に合わせて来てくださって、奨励をしてくれたのです。彼は、食べ物にも気をつけていたのです。脂身の肉は食べませんでしたし、冷たい水もコーヒーも飲みませんでした。結婚生活も、常にご夫人を、会衆の前で褒めて、単身旅行中も、結婚の枠の中にとどまる予防線を張っていたのです。自己管理の人でした。アフリカ宣教に誘ってくださったことがありましたが、後に私たちが隣国に行ったことは知らずでしたが、それを是としてくれることでしょう。

 この方が、「心の中でメロディーを(Making Melody in Your Heart )」、「主はすばらしい(Oh God is good)」、「主の御霊よ」などの賛美コーラスを紹介してくれ、独身時代の家内たちが翻訳していました。当時、讃美歌や聖歌で礼拝時に賛美していたのに、

 『新しい歌を主に歌え。主は、奇しいわざをなさった。その右の御手と、その聖なる御腕とが、主に勝利をもたらしたのだ。 (詩篇981節)』

 『主に向かって新しい歌を歌え、その栄誉を地の果てから。海に下る者、そこを渡るすべての者、島々とそこに住む者よ。(イザヤ4210節)』

の聖書のみことばに従って、礼拝賛美が始められて、作詞作曲がなされたのです。あの頃、よく賛美が作られたのを思い出します。歳を重ねた今も、あのメロディー、あの歌詞が思い出されて、皿を洗いながら、洗濯物を干しながらも、道を歩きながらも賛美するのです。鴎外の書いた「ばあさん」の家内も、「ぢいさん」の私にも、まだ唇と心に、歌い慣れた賛美がとどまっているのです。

(「三河国」の古図、青空文庫版、ブドウを担ぐカレブです)

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花と無花果と

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 今日の散歩道の農道の脇の水辺に、曼珠沙華(まんじゅしゃげ)の花が咲き残っていました。どんなに暑くても季節季節に、咲く花に、いつも驚かされています。

 忙しくて、花など眺める余裕がなく、仕事をし、子育てをし、やっと終わって頭をもたげたら、綺麗に咲いて、季節を告げる花に出会って感動を覚えさせてもらえました。

 そう言えば、今日も無花果が、農家の庭に片隅になっているのです。もう何週間も前から、スーパーの棚で売られていましたが、手の届きそうな所で熟していたのです。

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 『「盗んだ水は甘く、こっそり食べる食べ物はうまい」と。 (箴言917節)』

 小学校の通学路を離れた小道の脇の家の中から、垂れ下がって、美味しそうになっていて、この時期なのでしょう、一つももぎ取ってたべてから、どの甘さに誘われて、時々失敬し、何年か繰り返したのです。

 この無花果の持ち主の家のお嬢さんが、同じ教会のメンバーで、 同じ学校の先輩で、共通の恩師の薫陶を受けていたのです。お父さんは、父の仕事と関係にあった旧国鉄の研究所勤務だったそうです。

 何年か前、イチジクドロボーの罪を告白したのです。もうご両親は亡くなられていましたが、罪の告白って、ある面で自由にされるのでしょうか。なんかスッキリして、わだかまりが消えてしまったようでした。

 あの盗んだ無花果の実が、これまで食べた中で、一番甘かったのに、この先輩は、『あんな渋いのをよく食べたんですね!』と言われたのです。今晩の無花果も、大変甘くて、しかも安かったのです。好きな果物を食べて、今晩の幸福度はだいぶ高そうです。

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[街]上海

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 作詞が嶋田 磬也、作曲が大久保 徳二郎で、D.ミネが歌った「夜霧のブルース」が発表されたのは、戦争が終わった直後の1947年でした。映画の主題歌として歌われた歌謡曲で、1930年代の中国の上海の街を懐かしそうに謳っています。

青い夜霧に 灯影が紅い
どうせおいらは ひとり者
夢の四馬路か 虹口の街か
ああ 波の音にも 血が騒ぐ

可愛いあの娘が 夜霧の中へ
投げた涙の リラの花
何も言わぬが 笑ってみせる
ああ これが男と 言うものさ

花のホールで 踊っちゃいても
春を持たない エトランゼ
男同志の 合々傘で
ああ 嵐呼ぶよな 夜が更ける

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 私の教え子のご両親が、この上海でホテルを経営していて、上海から大阪まで船で帰ろうとした時に、彼女と友人が、この街を案内してくれたのです。私が泊まるとために予約していたのは、youth hostel で、 “ Captain  Hostel (船長旅館)と言う、上海の外灘waitan と呼ばれる、旧市街が今も残っている地域にあったのです。教え子のお父さんのホテルでは、『無料で泊まってください!』と言われるのを避けたいため、自分で予約していたのです。

 中国新幹線で、虹橋という駅に、もう春節の休暇の間近で、親元へ帰省していた彼女たちが出迎えてくれたのです。ちょうど、そのHostel は、この歌の四馬路や虹口(小東京と呼ばれていたようです)の近くで、かつて日本人街があったところにあったのです。どうも、戦前からの煉瓦造りの建物で、経営者が日本人から中国の人に移っていたような雰囲気でした。

 外灘は、かつての上海港があった所で、世界中から、この港に、人々が事業や観光の目的で行き来していたのです。私の父の青年期に、きっと訪ねていたのだろうと思うのです。私が、この国に初めて行き、北京、呼和浩特(フフホト)、広州と、この上海に行った時には、もう父は召されていましたから、もっと父の若い日のことを詳しく聞きたかったのですが、叶えられなかったのは残念なことでした。

 そんなことで、親近感が上海にはあって、初めて訪ねた時も、初めてのような気がしなかったのは、父のことを思っていたからなのでしょう。戦後は、ハワイやロサンゼルスやパリなどが、観光名所になっていたのですが、戦前は、「東洋の魔都(大都市すぎて本体が掴めなかったりして呼ばれた街を言ったのでしょう)」、一度入り込んだら厄介な場所もあったのかも知れません。

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 対岸に、この街のシンボルの大きなテレビタワーがあって、东方明珠广播电视塔と呼ばれています。東京の顔のような東京タワーやスカイ・ツリーに匹敵するような、上海の顔とでも言えそうです。最初に訪ねた時に、このタワーの展望台に登って、みたのです。この街には、中華民国の文学者の魯迅や郭沫若という方々と親交のあった内山完造(岡山県出身)の経営する書店が、かつてありました。東京と上海で、文化の発信をしていたのです。この内山はクリスチャンで、日中友好に尽力した人でした。

 市内の街路には、城市や人の名が付けられていて、福州路、中山路、愛迪生路(エジソン)、延安路などがあり、かつては「租界(そかい/ 各国の治外法権の地で、外国扱いされた地域のことです)」があり、実に無礼なことに、日本租界には、『犬と中国人、入るべからず!』と、立て札があったほどだったそうです。

 アジア最大の街であって、東京に匹敵する大都市です。親しくしている、華南の町で製パン会社を経営している方は、この上海で修行をして、ご自分の出身した省た街に多くのパン店を展開しておいです。製パン機やパンの原材料の卸などをされていて、今東京に住んで、行き来をしておられます。何年か前から神奈川県下に工場を作る準備中なのです。

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 長江の下流、上海の街中を通って、東シナ海に流れ込む黄浦江に流れの脇に、外灘があって、戦争が終わり、中国の革命運動も終わっても、この街は、かつての様相を残したままのようでした。周辺の省や内陸からの出稼ぎの人たちの多い街ですし、学生たち学びの府でもあったのです。文化的で、古い中国が残る、混ぜ合わされたような街ではないでしょうか。

 食べ物も美味しかったですし、この上海の波止場(港)は、欧米や日本への通路でもあり続け、大きな国際空港も整備された街なのです。日中関係が、不安定であっても、日本の商社も工場も多くあって、今も日本街は元気なようです。

(新旧の上海の外灘、紅焼肉はホンシャオロウ、テレビ塔、内山書店です)

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思い出から消えていくもの

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 JR中央線に、いくつかの名物がありました。駅舎でユニークだったのが、国立駅、日野駅、豊田駅、高尾駅(浅川駅)でした。学園都市の国立には、一橋大学、国立音楽大学、東京女子体育大学、桐朋学園、国立高校、第五商業高校、国立小学校などがありました。その駅舎を何度振り返ってみたかも知れません。

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 国立駅から二つ目が日野駅で、駅舎が農家の茅葺(今は、トタン葺き)と同じで、独特な佇まいでした。日野自動車、小西六(コニカ)、羽田ヒューム管、オリエント時計、神鋼電機(神戸製鋼所)などの大手の会社がある街で、かつては宿場町で、多摩川の渡し船が、立川との間を結んでいました。ここに踏切があって、そのメカニズムや仕組みを、面白くて科学していたことがあります。

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 この駅の近くに引き込み線もあり、ほろ苦い思い出の場所でもあります。貨車の最後部の車掌室の固い椅子に横になって、夜を明かすと言うのは切ないことでした。お腹は減るし、水だって飲みたいし、ほろほろと鳥は鳴き、犬も遠吠えしていました。引き込み線のメカニズムだって、おかげで学べたのです。

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 日野駅の隣りが豊田駅で、今では、もう面影が残っていませんが、駅舎は開業当時は独特でした。日野台団地と浅川との間の段丘に、線路が走っています。公団住宅による多摩平団地が、1958年に作られ、大東京の西のベッドタウンとして注目されていました

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 中央線の終点が、浅川駅でした。のちに高尾駅に駅名の変更がありましたが、ここも、高尾山の下車駅で、何度もこの駅から山に登り、相模湖に下って、ハイキングをしたことがありました。八王子と高尾の間には、西八王子駅があり、多摩御陵(大正、昭和の天皇の墓所)の至近の駅です。でも、昭和初期には、京王電鉄が、ここまで線路を敷設し、御陵駅があったそうです。

 父や兄妹や父と共に、通学や通勤途で、JR中央線が長らく利用したのですが、級友と電車に乗り合わせて、一緒に通った思い出があります。学校の下車駅の駅名の看板に、悪戯書きをしたのを、高等部の国語の教師で、「奥の細道」の特攻をしてくれた教師に見つけられ、『消しゴムを持って、消してきなさい!』と注意され、共犯の級友と消しに行ったことがありました。

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 別の級友が、三鷹駅の近くに住んでいて、広い車輌センターの近くで、線路に入って、十円玉を、線路の上に置いて、走ってくる電車の轢かせて、薄べったい硬貨作りをしていました。危険極まりない悪戯でしたが、国鉄からも学校からも見付からずにすんでしまいました。その子の家の近くに、跨線橋があって、そこも遊び場でした。

 その跨線橋は、太宰治が利用したことで有名でしたが、今年末、2023年の12月に撤去されるのだそうです。鉄橋の撤去、駄洒落にもなりませんが、懐かしい景色が、思い出の中から消えていくのは、ちょっと寂しいものです。もう一度渡ってみたいものです。吉祥寺駅も西荻窪駅、荻窪駅も阿佐ヶ谷駅も、時々利用してきました。

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 『彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」(黙示録21章4〜5節)』

 過去の出来事、出会い、別れ、そして涙、悲しみ、叫び、苦しみなどは、消えたり、薄れたりしておぼろげになりますが、それでいいのでしょうか。もしそれらが鮮明過ぎてしまったら、今がボケていってしまうかも知れません。今は一箇所にとどまり、行動範囲が狭くなったこともあり、新体験は少なくなりましたが、《新発見》はできそうです。聖書は、新しい天と新しい地とが、やがて到来し、『みよ、わたしは、すべてを新しくする。』と、主イエスさまは言っておられるのです。

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