主の赦しと祝福と栄光と

 

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 ルターが、「信仰義認」を掲げて、宗教改革の動機を始めた時に、旧勢力は、異端だとして排斥し、新しく誕生する教会のリーダーたちを、神への反逆、教会への不従順として弾圧し、死罪に定め、断頭台に送ったのです。そうして誕生した福音主義、聖書主義を掲げた教会も、内紛、とくに神学や教理の違いで、反目し合ってしまいます。例えば、ジュネーブで牧会をしたカルヴァンも、「三位一体論の誤り」を理由に、ミシェル・セルヴェを、親しい友であったのに、「火刑」にしています。

 寛容、恩寵、忍耐、和解など、そう言った教会の主の教えとは真反対に、神学上の違いで死罪にしたことは、「時代の誤り」だという追随者の言い訳ではなく、どんな言い訳もできない非寛容な、自分だけを正統とする、憎悪に燃えた罪であったことを忘れてはいけないのです。そう言ったことは、カルヴァンにだけあったのではなく、すべての人の思いの内にあることを覚えなければなりません。「異端」の判別や裁きは、教会の主であるイエスさまだけができること、「キリストに座の裁き」と「最後の審判」に任すべきだからです。

 また、「浸礼」で洗礼を施すことを主張し、後にバプテスト派が誕生した時、旧勢力は、バプテスマを施す教職者を、水の中に抑え込んで溺れ死にさせたことも、教会の歴史の中にありました。さらに、「異言」を語り始めた教会や神学校を、旧勢力は、異端として攻撃しました。教育を受けていない者たちの極端な信仰の表明を、コリントの教会の問題と被らせたからでしょう。そして「カリスマ派」というグループが出てきて、賛美礼拝で、同じ歌詞をしつこく繰り返したり、賜物とか油注ぎなどと非難して、非正統のレッテルをつけて、嫌悪してきています。

 私は、個人的な信仰体験として、1970年の秋に、母教会の夕方の特別集会で、「聖霊のバプテスマ」を受けました。異言が口から、まさに突いて出てきたのです。アフリカに、福音宣教のために遣わされた教え子を訪ねる途上、羽田空港に降り立った、ニューヨークの神学校で教壇に立つ、説教者の按手によってでした。

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 17で信仰告白をし、22でバプテスマを受けていたのですが、煮え切らない back slider で、曖昧だった私の信仰を確かなものにしたのが、その体験でした。その時、イエスさまの十字架の死が、自分の罪を赦すためだということが、突如として分かったのです。信じた神が、「自分の父」だと信じられたのです。それは驚くべき信仰の体験でした。

 これっておかしな、異常なことだと言えるでしょうか。そのパウロが、『私は、あなたがたの誰よりもはるかに多く異言で話せることを私の神に感謝しています(「インターリニア ギリシャ語新約聖書」から)。』と言っています。これは、どのような批判をこえていて、「異言」を肯定しているのではないでしょうか。

 ある著名な牧師が、パウロに、尊敬のあまりでしょうか、『パウロ先生!』と言われた説教を聞いたことがあります。私たちを導いた宣教師のみなさんや、彼らの友人の牧師さんたちは、ご自分を、〈ジャック〉、〈チャック〉、〈トム〉と、先生抜きの名前で呼ぶように願っていました。私は、〈ヒロタさん〉、〈ジュンさん〉と呼ばれてきました。みんな「赦された罪人」であって、兄弟姉妹だからです。

 『もし、食べ物のことで、あなたの兄弟が心を痛めているのなら、あなたはもはや愛によって行動しているのではありません。キリストが代わりに死んでくださったほどの人を、あなたの食べ物のことで、滅ぼさないでください。 (ロマ1415節)』
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 福音を信じて、義とされ、聖とされ、子とされ、やがて栄光化される人たちを、パウロは、「キリストが代わりに死んでくださったほどの人」と言っています。聖書解釈や教理の違い、「異言」を語ることで、その人を嫌ってはいけないのでしょう。新しい賛美を歌うクリスチャンを、正しく評価できるでしょうか。そのような体験に導いてくださった器は、驚くほどの人格的に優れた方でしたし、聖書理解も、その説教も優れておいででした。

 宣教師や英語教師が幕末以降、我が国にやって来た時に、彼らの宣べ伝えた福音を聞いて、昨日まで神々に手を合わせ、仏教や儒教の教えを信奉していた人々が、すぐに十字架を信じることができたことは、神の「恵み」でした。

 例えば、国際連盟の副次長を務め、「武士道」を著した新渡戸稲造は、15歳で札幌農学校に入学します。その学校の教授と殴り合うほどの荒くれ男で、「アクチーブ(行動派)」と仇名されていたのです。それが、福音を信じてから、今度は級友たちに「モンク(修道士)」と呼ばれるほど劇的な変化をしています。スリが劇的に変えられて善人になったり、極道や香具師が、瞬間的に回心して牧師になったりするように、福音には力があり、それは聖霊の働きによるのです。

 『わたしはもう世にいなくなります。彼らは世におりますが、わたしはあなたのみもとにまいります。聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。それはわたしたちと同様に、彼らが一つとなるためです。(ヨハネ1711節)』

 それぞれ違った方法で、さまざまな背景から、人は基督者になっています。そして様々な教派が生まれてきています。歴史性があって、縹渺する特徴点が違うからです。宣教師の出身国や出身教会によっても違いがあります。そんな違いがあっても、それぞれに補い合い、助け合うのは良いのです。ですが、その違いで争わないで、「一つになること」こそが、教会の主の願いなのです。

 ジュネーブの教会の牧師のカルバンは、生涯の終わりに、『わたしは非常な苦しみを経験するでしょう。わたしは十分死のつらさを受けるでしょう。それでもなお心は確かであると思います。・・・神の御旨を待ちつつ、慎ましく楽しむために。』と言い残しています。そして、1564年5月27日に、55年の生涯の全てを主の手にお任せし、罪の赦しを確信して、罪の呵責から解き放たれて、主の元に帰ったのです。

 人は過ちを犯しますが、それでも、人は赦されて、主に栄光を帰します。そして贖われた教会も、栄光を、主にお帰しするのです。主が、「第一のお方」でいらっしゃるからです。

(「水のバプテス」、「聖霊降臨」、「ジュネーヴの風景」です)

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再びエルサレムの平和を祈る

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 『ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。主が御民の繁栄を元どおりにされるとき、ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。(詩篇147節)』

 『エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。 エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。 おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」 私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。(詩篇122篇~9節)』

 『恐れるな。虫けらのヤコブ、イスラエルの人々。わたしがあなたを助ける。──主のことば ──あなたを贖う者はイスラエルの聖なる者(イザヤ41:14)』

 『わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。 (ヨエル3章2節)』

『 万軍の主は飛びかける鳥のように、エルサレムを守り、これを守って救い出し、これを助けて解放する。」 (イザヤ31章5節)』

 『あなた(アブラハム)を祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」(創世記123節)』

 『諸国の民よ。主のことばを聞け。遠くの島々に告げ知らせて言え。「イスラエルを散らした者がこれを集め、牧者が群れを飼うように、これを守る」と。 (エレミヤ31章10節)』

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お米の話

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『主を恐れる者に食べ物を与え、その契約をとこしえに覚えておられる。(詩篇111篇5節)』

 ここ関東平野の北の栃木では、黄金色に実った稲の収穫の季節を迎えて、ほぼ刈り取りが終わりかけています。ここでは、「西方米」が美味しいと言われていますが、わが家は「四つ葉生協」のお米を食べていて、結構安全で美味しいのです。といっても、一カップを二人で分け合うほどなのですが。

 華南の街の街角の商店に、「秋田小町」と名札をつけて、お米が売られていたのです。早速買い求めて、炊いてみました。とても美味しく食べたのです。お米をいただくことが多かったのですが、それ以来、買う時のは、この「秋田小町」に決めていたのです。

 どこで作られていたのかと言いますと、東北部の黒竜江省だと、袋に印字されていて、日本米の栽培が行われてきているのを改めて知ったのです。そう言えば、この地域には、戦前は、日本人が開拓団を組んで入植し、お米の栽培をしてきていたわけです。

 そう言った旧満州国時代に、この地で行われていた農業は、その後も受け継がれていったようです。とくに、戦後、1980年代にはいると、田中稔を団長とする日本稲作技術団の田中稔を団長として、この地にやって来られて、ビニールハウス・箱育苗・機械田植技術(大棚箱育苗機械田植技術)が導入されています。5年ほどの間、田中稔は毎年訪問して農業指導をされたいたのです。

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 この田中稔は、冷害に強くて、低温の中に生育する「藤坂5号」と言うお米を作り出した人で、「稲の神様」と言われる、日本の米作の貢献者の一人なのです。夭逝したお父さんの出身地の山形県の高擶村(現在は天童市です)で大きくなり、三重高等農林学校で、遺伝学とともに、稲作栽培法を学んだ方で、卒業後、農林省に入られ、その後、秋田県大館市にある陸稲試験地で稲の品種改良の仕事に従事しています。

 そんな経歴の後、農林省が、「凶作防止試験地」を各地に設置した時に、その一つが「藤坂村(現在の青森県十和田市藤坂です)」で、そこで産み出されたのが「藤坂1号」だったのです。日本の米作は、冷害によって、収穫減に見舞われたのですが、画期的な米作が行われ、「藤坂5号」が生産され、今日に至っています。

 ササニシキは、この「藤坂5号」の系列で生み出された人気のお米なのだそうです。戦後の食糧危機にも、このお米が、日本の食糧危機から救ったと言えるようです。きっと、母が炊いてくれたお米も、この種の物があったことでしょう。今夏、そして秋にかけての猛暑は、このお米にも影響を与えていて、秋田でも、今年の収穫されたものは、一等米の評価はわずか1.4%だと報告されています。これまでは90%以上だったのに、生産者は減収になってしまうようです。あの「秋田小町」もそうなのでしょうか。

 食欲の秋、先日家内の友人が、新米を持って訪ねてくれました。炊こうかどうしようかを思案しながら、まだ、そのままにしてあります。長い桶目を食べてきた日本人の私も、《塩おにぎり》や、お米の上に、新鮮な魚の切り身を載せた《寿司》は、何よりも、『うまい!』を覚えてしまう、根っからの日本人の裔(すえ)なのです。

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主を賛美するために平和を祈る

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『しかし、主よ。あなたはとこしえに御座に着き、あなたの御名は代々に及びます。
あなたは立ち上がり、シオンをあわれんでくださいます。今やいつくしみの時です。定めの時が来たからです。
まことに、あなたのしもべはシオンの石を愛し、シオンのちりをいつくしみます。
こうして、国々は主の御名を恐れ、地のすべての王はあなたの栄光を恐れましょう。
なぜなら、主はシオンを建て、その栄光のうちに現れ、
窮した者の祈りを顧み、彼らの祈りをないがしろにされなかったからです。
次のことが、後の時代のために書きしるされ、新しく造られる民が主を賛美しますように。
主はその聖なるいと高き所から見おろし、天から地の上に目を注がれました。
捕らわれ人のうめきを聞き、死に定められた者を解き放つために。
人々が、主の名をシオンで語り、エルサレムで主を賛美するために。
また、国々の民や、王国が共に集められるとき、主に仕えるために。(詩篇 102篇12~22節)』

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『エルサレムの平和のために祈れ。「おまえを愛する人々が栄えるように。
おまえの城壁のうちには、平和があるように。おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」
私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。「おまえのうちに平和があるように。」
私たちの神、主の家のために、私は、おまえの繁栄を求めよう。(詩篇122篇6~9節)』

(“ Christian clip  arts “ より)

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新しい一歩を踏み出して

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 この写真は、この秋、次女の子(私たちの最初の孫)が、学校に入学して、入寮したdomitory と、自分に割り当てられた部屋の様子を撮って送られてきたものです。この寮は、彼の家族が所属する教会が、若者たちのために長く運営しているものなのです。彼の両親や叔父や叔母が、青年期に、ここで過ごしていました。ここへは家から通えるのですが、18の彼は自分で願って、家族から離れて、test されて入寮したのです。といっても、学校にも、教会にも至近な距離にあり、今晩は、入学以来初めて帰宅したのだと、娘が言ってきました。

 部屋の中を撮った写真の中に、壁に三つのものが掲げられています。一つは、「色紙」です。墨を浸した筆で書かれた書で、彼が生まれた時に、彼のお父さんが教えていた、長野県南部の高等学校の年配の先生が、彼の誕生を祝して書いてくれたものだそうです。

「桃李不言 下自成蹊」、「史記」の中に、司馬遷が書き残したものです。「桃李(とうり)ものいはざれども、下おのづから蹊(こみち)を成す。」と読み、その意味は、『桃や李(すもも)は何も言わないが、美しい花や良い香りの果実を求めて人が集い、その樹木の下には自然と蹊(こみち・小道)ができるという、李広将軍その人を讃えた故事である。桃や李は、人格者であることのたとえで、そのような人物は黙っていても、徳を求めて人々が集まってくる。』

 同僚の子の誕生に際して、立派な人格者となるように願って墨書してくださったものを、自分の家の部屋に架けていたのです。それを持ってきたわけです。英語で、” Way Maker “ と言う、この書の「成蹊」は、彼の救い主イエス・キリストが、そうしてくださることでしょう。

 二つは、「リンカーンの肖像画」です。彼の曾祖父のオフイスの壁にあったものを譲り受けたのです。南北戦争が行われたゲティスバーグの地でのリンカーンの演説が残されています。私たちが学んだのは、  government of the people, by the people, for the people ” が有名だったでしょうか。9歳の時に亡くなった母ナンシーは、『あなたは百エーカーの農場を持つよりも、一冊の聖書を持つ者となりなさい。』と語っていたそうです。また、次のようにも言っています。

 『息子よ、まずこの家の家計を考えねばなりません。わたしたちは裕福ではないのです。家族みなが食べてゆくことさえ思うままになりません。そんな状態なのに、あなたはきれいな服が欲しいと言えますか?自分の家の状態にふさわしくふるまいなさい。いずれあなたは自分にふさわしい状態になります。他の人の言葉にいじけてはなりません。自信をもって生きなさい。自信こそすべての成功の根源です。』

 さらに、リンカーンの継母サラは、母ナンシーの亡くなった後、2年ほどで、父親のところに来ています。『お母さん!」と呼びかけ、一緒に、しかも毎日、聖書を共に読んでくれたのだそうです。貧しい家庭で、公教育を受ける時間は一年足らずでしたが、独学をし、弁護士となります。その生涯で、奴隷解放をした、今でも、もっとも慕われるアメリカ合衆国大統領になったのです。このリンカーンの優れた人間性に、孫は感銘を覚えているようです。実に humble な人だったのを認めているのです。

 そんな humble  な人になる願いが、孫にあるのでしょうか。この孫は、ドイツ系とフランス系アメリカ人のお父さん、日本人のお母さん、自分自身はアメリカ国籍のアメリカ人で、アメリカ人である「誇り」と共に、自分の内に流れる日本人に家系の意識も強固なのでしょう。そう言った意味で、「日の丸」を壁に掲げたのです。今夏の家族での訪問時に、どこかで手に入れたのでしょうか。両親の元を離れて生活の一歩を過ごす自分に部屋(もう一人のルームメイトと共用です)、その部屋の壁に、もう一つの「誇り」を掲げたのです。

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 彼の専攻は、” liberal arts “ で、教壇と学生席の教室ではなく、円卓を囲んで、“ debate (対話形式授業)で学んでいくのだそうです。娘によると、” Great books curriculum (グレイト・ブックス・カリキュラム)をテキストに学び始めているようです。34人ほどの学生数ですが、歴(れっき)とした大学で、自分で選んだ学校を楽しんでいくことでしょう。

 私たちの孫たちが、《神と人とに愛される人》となって生きていけるのを願っています。聖書を読み、祈り、主を賛美し、隣人を愛し、主を畏れて生きていって欲しいだけです。

(「円卓」のイラストです)

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今こそアメリカのために

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 このところ、アメリカ合衆国の様々な面で、危機に迫られているのを感じてなりません。政治的にも、国際影響力にも、国内の経済状況も、青少年の非行の激しさ、家庭の崩壊など、山積している問題で溢れているからです。

 私を8年もの間、忍耐して導いてくださった宣教師が、聖書研究の中で分かち合ってくださったことで、大統領付きの chaplain の語られたことで、「アメリカが崩壊しない3つの理由」を、再び思い出していたのです。1つは、建国の父たちの祈りとその祈りを祈っている現代のキリスト者たちの存在、2つは、献金をささげて、多くの宣教師を海外に送り出してきている宣教、3つは、アメリカの使命や存続のために海外のクリスチャンたちが祈っている祈りだそうです。

 そのアメリカで、わたしたちの四人の子どもたちが学ばせていただいたことに、心から感謝するのです。彼らが学びつつ教会生活をさせていただいた教会と牧師さんへの感謝をこめて、そのアメリカ北西部にある教会を訪問した時、この教会の牧師さんが、その日曜日の礼拝で、証詞をする機会を与えて下さったのです。何をお話しようかと考えていました時に、《自分の過去と今とアメリカとの関わり》について話すことにしました。

 私は、アメリカから来日された宣教師が建て上げられた教会で、信仰を持ち、献身したこと。その後任の宣教師が、母教会から100キロメーターほどの距離で、開拓伝道をされると言うことで、開拓地を選ばれました。そこは私の生まれ故郷でした。そのお手伝いをさせて頂きながら、私は伝道者となるための訓練を受けたこと。聖書の読み方や解釈の仕方、説教の仕方も伝道の仕方も、家内の愛し方も、この宣教師から学ばせて頂いたことを思い出しながらお話ししたのです。

 そして、子どもの頃の経験もお話ししたのです。戦争が終わった後、この国から送られた「ララ物質(LARA; Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)」が贈られ、滋養に富んだ粉ミルクを飲ませていただいたこと。そして、この国で作られた映画を、teenager の時に観て、夢が育まれたこと。とくに、ジェームス・ディーンが主演した「エデンの東」や「理由なき反抗」や「ジャイアンツ」などを何度も観たことを、感謝を込めて話したのです。

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 そのような感謝は、教会であるみなさんを激励するのでしょう。戦後の日本の教会の復興は、経済援助だけではなく、霊的な復興でもあったのです。何もかも失い、より頼むものをなくした多くの人が、福音を受容したのです。その後の信仰の歩みは、私には分かりませんが、家内の家族は、その宣教の働きでクリスチャンホームとなっていました。

 『また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。 (コロサイ118節)』

 それは、教会の主のお働きです。私たちの母教会を始めた宣教師の奥様は、病弱でした。陽当たりの悪い、山の陰に教会堂を建てられたのですが、宣教師の住まいの部屋の屋根の一部をガラス張りにされて、奥様の健康をお考えになられて居場所を作って、伝道をされたのです。

 家内の最初の聖書は、この宣教師夫人から頂いたのだそうです。また彼女が病んだ時、毎日、回復のために良い飲み物を作っては届けてくれたのだそうです。その受けた愛が、彼女の信仰を強固なものにしたのでしょう。

 教会に何が起こっても、主が立ててくださった牧師と、自分の牧場である教会から離れずに、所属し続けたのです。大人になって、宣教師の強さも、人としての弱さも、全てが分かっても、信頼と感謝を揺るがすようなことはなかったと、彼女は言っています。

 やっぱり、その地方にある教会は、“ on the way(完成への途上)にあって、赦し合ったり受け入れ合ったり、時には訓戒し合ったりして、それらが成長しながら、主の体である教会が、形作られていくのです。そのために労してくださった宣教師さんを送ってくださった、アメリカの再建、とくに霊的な再建のために、主を賛美し、祈る必要を感じております。多くの祝福を受けたからです。

 

ムクゲ

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 大好きな花は「木槿(むくげ)」なのです。韓国の国花だそうですけど、自分の祖先は、どこから来たのか分かりませんが、父も母も、朝鮮半島の出身ではないのです。民族性にはよらないのですが、毳毳(けばけば)しくなく、健気に《清楚》に咲いてるのが好きな私です。

 長く過ごした街の高速道路の出口に、この木槿の花が、暑い炎天の盛りに咲いていて、強烈な印象を受けたことがあったのです。白色もピンクも、どちらもいいですね。

 先日の散歩道、明治8年開業の和菓子屋さんの近くの家の庭先に咲いていた花です。もし庭のある家に越せたら、白とピンクの木槿の木を一本ずつ植えたいと願っております。

 もう十月になって晩期の花ですが、これからは菊花薫る季節になりそうです。真っ黒な土の中から、様々な色の花が咲き出す神秘さに圧倒されています。咲いては散り、咲いては散りする花の命に、どれほど慰められてるか分かりません。
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[ことば]立派な人間になれ

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 俺だって本当は高校に行きたかったけど、そんな余裕のある家庭じゃあないからね。じゃあ、何も持たない自分が這い上がるにはどうすればいいのか。体一つで戦えるボクシングしかないと思った。

 とりあえず近所の人の紹介で東京の会社に就職しました。入社してすぐ、会社のみんなで元フライ級&バンタム級で世界チャンピオンのファイティング原田さんの試合中継を見ていた。その時、俺は社長さんに「俺もボクサーになりたいから、ボクシングジムに通わせてください」と申し出た。すると社長さんは「おまえみたいな人間が、あんな偉い人間になれるわけない」と言ったね。

 まだ十五だよ。ショックだったね。ああ、東京も田舎も一緒だ。俺みたいなやつにチャンスはないんだ、と思って、すぐに会社を辞めて田舎に戻った。

 村の人たちに見つかると「あそこの息子、もう仕事をやめて帰ってきた」と噂されるから、真夜中にひっそりと帰って、昼間、誰にも見られないようにふるさとを歩いたんだ。山、川、田んぼ、畑・・・・ふるさとの自然に抱かれてるうち、「よし、俺はやっぱり東京へ行く」と言う思いが湧いてきた。

 もう一回上京する日、おふくろはいつも通り朝早くに土方仕事へ出て行った。帰ってきた数日間も、忙しくてろくに話もできなかったから、駅に向かう途中に仕事場に立ち寄ってみたんだね。

 「もう一回東京へ行ってくるぞ」と言うと、おふくろは泥だらけの手で前掛けのポケットをゴソゴソやって、一枚の千円札をくれたんだ。俺はいつも悪さばかりしていたから、「サツ(札)はサツでも、警察のサツは使えねえぞ」といってね。

 そしてハラハラとな涙をこぼしたかと思うと、「偉い人間になんかならなくていい、立派な人間になれ」と言った。うちのおふくろさんは学歴はないけど、やっぱり苦労を重ねて生きてきた人だから言葉に力があったよね。すっと心に沁みて、それはいまも忘れない。

 結局、その時もらった泥のついた千円札はずっと使えなくて、いまでも大切に持っていますよ。

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 これは、「11話、読めば心が熱くなる365人に仕事の教科書(致知出版社刊)」に、元WBC世界ライト級チャンピオンのガッツの記した、お母さんとの思い出話、お母さんの《ことば》です。

 ガッツ石松は、栃木県上都賀郡粟野町(現在の鹿沼市)の生まれで、私たちに栃木市から、北に、ふれあいバスに乗って、西方ふれあいパークで下車して、しばらく歩いて行ける農村です。そこは寒村で、農家の子が生きていくには難しく、東京で転職を重ね、ついにボクシングを始めて、世界チャンピオンに上り詰めたのが、このガッツ石松なのです。

 チャンピオンの時にファイトマネーで、故郷の粟野の父母の家を新築して、プレゼントしたのだそうです。素敵なお母さまのことばですね。

(boxing のグローブ、「野州麻」の畑です)

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黄金の花

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『神よ。わたしに清い心をつくりゆるがない霊を私のうちに新しくしてください。』詩篇51:10

 ここの自治会の老人倶楽部では、いろいろな行事があって家内と参加させていただいています。この月曜日には、「三線に合わせて沖縄ソングを歌おう!」会参加のために、公民館に集いました。その中で、一つ気に入った歌がありました。

   「黄金の花」

黄金(こがね)の花が咲くという
噂で夢を描いたの
家族を故郷ふるさとに
置いて泣き泣き出てきたの
素朴で純情な人たちきれいな目をした人たちよ
黄金でその目を汚(よご)さないで
黄金の花はいつか散る

楽しく仕事をしてますか
寿司や納豆食べてますか
病気のお金はありますか
悪い人には気をつけて
素朴で純情な人たちよ
言葉の違うひとたちよ
黄金で心を汚さないで
黄金の花はいつか散る

あなたの生まれたその国に
どんな花が咲きますか神が与えた宝物
それはお金じゃないはずよ
素朴で純情な人たちよ
本当の花を咲かせてね
黄金で心をすてないで
黄金の花はいつか散る

素朴で純情な人たちよ
体だけはお大事に
黄金で心を捨てないで
本当の花を咲かせてね♪

 〈お金〉が、人の心や生き方をを汚すのですね。聖書も次のように記しています。

 『金銭を愛する者は金銭満足しない。富を愛する者は収益に満足しない。これもまた、むなしい。 (伝道者510節)』

 『金銭を愛することが、あらゆる悪の根だからです。ある人たちは、金を追い求めたために、信仰から迷い出て、非常な苦痛をもって自分を刺し通しました。 1テモテ610節)』

 若い頃に聞いた話ですが、1952年に、創業した“ Kentucky fried chicken ” を始めたカーネル・サンダースは、収益の10分の9 を献金したのだそうです。得たお金を、どう使うかの方法論です。これは献金をすることの勧めでではなく、自ら決心して、主を第一にして生活をした結果、彼の始めた事業が栄えたということなのです。

 ところが、最近の教会の教えの中に、「繁栄の祝福」が再び強調されているのです。人生の成功は、『何をしたか!』なのでしょうか。それとも『どう生きたか!』なのでしょうか。《内面的な人格の高さ》、《勇ましく高尚な生涯》、《高邁な精神で生きた!》と言うことこそ、もし人を測る尺度があるなら、これらではないでしょうか。少なくとも、汚されない心を持ち続けて生きたいと、今も思うのです。

(「沖縄の海」です)

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馬耳東風

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 『たきぎがなければ火が消えるように、陰口をたたく者がなければ争いはやむ。  陰口をたたく者のことばは、おいしい食べ物のようだ。腹の奥に下っていく。 (箴言262022節)』

 『私の恐れていることがあります。私が行ってみると、あなたがたは私の期待しているような者でなく、私もあなたがたの期待しているような者でないことになるのではないでしょうか。また、争い、ねたみ、憤り、党派心、そしり、陰口、高ぶり、騒動があるのではないでしょうか。(2コリント1220節)』

 人の寄り集まりの集団の中で、陰口、悪口が聞かれることがあるようです。どうもキリストの教会の中にもあって、少なくともコリントの教会の中にはあったようです。コリントには、政治的な問題、異教徒との問題、夫婦関係など、道徳上の問題もあったのです。

 コリント教会の近くにあったケンクレアの教会に、姉妹で「フィべ」がいて、パウロがこの姉妹を、「執事(奉仕者)」と言っています。この姉妹は、パウロの伝道を、個人的に助けていたのです(⇨ロマ1612節)。手紙を届けるために、その任を、このフィべに託していますから、信頼の篤い姉妹だったことが分かり、ローマの教会に、彼女を助けるように依頼しています。
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 そのような信仰の篤い、忠実な姉妹だけではなく、パウロがテモテに書き送った手紙の中にも出てくるような、『そのうえ、怠けて、家々を遊び歩くことを覚え、ただ怠けるだけでなく、うわさ話やおせっかいをして、話してはいけないことまで話します。 1テモテ513節)』、当時も、うわさ話、悪口、影口をする者もいたのです。

 これが、キリストの教会の内実であって、理想的な信者ばかりではなく、パウロが頭を痛めるような人たちもいたのです。パウロ自身も、陰口や悪口の対象でもあったのでしょう。この現実は、どうも避けられないことなのかも知れません。

 キリストの教会は、「教会の主」であるイエスさまが願われる理想の姿を描けるのですが、現実は、「赦された罪人」たちの集まりであって、さまざまの問題を抱えて、今日に至っているのです。エルサレムの教会から始まったキリストの教会は、内紛があり、対立があって、別の道に行く人たちが、教派を作り、教団を作り、『自分たちが、一番油注がれた群れである!と思い、さらに、その対立の溝を深めてきているのです。

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 あらぬ噂を立てられたのか、実際それだけのものでしかなかったのか、陰口に翻弄された覚えが、私にもあります。火のないところに煙が立たないのですから、非があったのでしょう。きっと、私だけではなくどなたにもおありでしょう。私は、人のことを、闇雲に他の者に話すことはしないで生きてきました。ある方が、「団扇(うちわ)」を書いて送ってくれたことがあったのです。当事者間だけに、すなわち「内輪」なことにしたらとの勧めで、私たちの決心を後押ししてくれたのです。

 何を言われても構いませんが、周り回って、家族の耳に入るのは困ったものです。でも、主は、それを許されておいでなのだと思って聞き過ごしてきました。大切なことを学んだのですが、馬耳東風に聞き流すことです。与太っ口(ある地方の方言で「無駄話」のことです)に、どなたも煩わせられないことです。

 やがて教会は、教会の主をお迎えする花嫁のように、聖くされて、その婚姻の席に出るのです。今は煩わしいことばかりかも知れませんが、御前に立つことのできる者とされる、この希望を持ちながら、この世の中で、主が願われるような者と、さらに変えられていきたいものです。

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