朝顔便り/7月11日

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縁側の窓の下の花壇が、賑やかです。朝顔の蔓が伸びて来て、待ちわびている花が咲きそうな素振りを見せています。華南の街の家のベランダで、家内が育てた朝顔は、みるみるうちに蔓を伸ばして、花を咲かせたのですが、ここ北関東での生育は遅いのです。気温が上がらないからでしょうか。

一昨年、家内が、弟にプレゼントした「ハイビスカス」が、一年中咲き続けていると、知らせてくれたので、『それではわが家でも!』と、先日、長男が来てくれた時に、病院の帰りに、ホームセンターで、一鉢買って来ました。その蕾が膨らんできています。

間も無くわが家でも、庭が花盛りになることでしょう。もう一つの窓の下には、「コスモス」の種を、家内が蒔いていて、もうその背丈が大きく伸びて来ています。花も、暑さの苦手な私も、それでも暑くなって花に元気を与えて欲しいと願いながら、梅雨空を見上げるこの頃です。
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ユダヤの格言に、「友はどんな時にも愛するものだ」とあります。ユダヤ人の間に語り継がれる、有名な《友情物語》があります。『あなたの私への愛は、女のにもまさって、素晴らしかった!』と言わせたほどの愛を、ダビデ王が告白しています。主君の子のヨナタンからの愛は、自分の命を捧げるほどの愛だったのです。それに、ダビデが感嘆していたのです。

これは、畏友ヨナタンの死への哀悼の意を込めた告白であります。ヨナタンは、ダビデを、ただ友愛によっただけではなく、「自分と同じほどにダビデを愛した」のです。これは自己犠牲的な愛を実行していて、ギリシャ語で言う “アガペーの愛” を示していたのでしょう。

王の子は、王位継承権を約束されていたのに、嫉妬に満ちた父サウルの仕業の中で、ダビデを守ったのです。自分が王位を継ぐことよりも、友の命を、父の手から守る方を選んだほどの愛でした。それは、《契約に基づく愛》であったのだそうです。男と男、漢と漢、真正の男の間に交わされ、約束され、誓われたものなのです。

『友人の果たすべき役割は、間違っているときにも味方すること。 正しいときにはだれだって味方になってくれる。』と、マーク・トウェインは言いました。しかし、私の若い日に、多くのことを教えてくれた恩師は、《真の友》とは、事を誤ってしまった時に、味方してくれるだけではなく、間違いや誤りを指摘し、責め、悔いることを勧める、『そんな友を得よ!』と教えてくれたのです。

そう言った友を得たいと願うなら、そのような友に、自らがならなければ、得ることはないのでしょう。中国の街中で、よく見かけるのは、大人の男性が、2人で肩を組み合いながら道をゆく光景です。酔っているのでも、あの可笑しな関係でもないのです。友情を確かめ合う様に、肩を抱いているのです。

中学まで、肩を組み合う友がいましたが、あれ以降、誰の肩も組まないままです。そう、真の友とは、 編み物の縦糸と横糸とが交互に編み合わされる様な,” knitting ” の関係だとも、教えられました。心と心が、ちょうど肩を組む様な近さになることなのでしょう。このユダヤの格言には、実は続きがあるのです。「兄弟は苦しみを分け合うために生まれる」と。

友と兄弟とは、妻と自分との関係と同じほどに近いものなのでしょう。

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気骨

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明治の気骨と言うべきなのか、関東大震災の被災経験があるのか、私の父は、災害時に泰然自若としていたのではありませんでした。台風襲来のニュースを、ラジオで聞くと、雨戸など、まだ、どこの家にもなかった時代、窓という窓の木製の窓枠に、父の手伝いで、板を❌に打ち付させられて、備えをさせました。

地震で家が揺れると、『準、玄関を開けろ!』と言って、出口を確保させたのです。今では昔話になってしまう騒ぎでした。それだけ自然災害の怖さを、父が知っていたと言うことでしょうか。もう何十年も前に、『東京に大地震が起こり、壊滅的な被害がある!』と言う警告を聞いたことがありました。確かに、地震はいつでも起こり兼ねませんし、南に見えた富士の山だって火山爆発の可能性はあったのです。

その所為(せい)でしょうか、私の知人は上京する時に、瓦礫の道を歩けるような靴を履き、食料をリュックサックに詰めたり、野宿できるような備えをして出かけるのだそうです。そして、交通網が機能しなくなったら歩いて帰宅するそうです。私は思ったことはありますが、備えをしたことがありません。

でも、しておきたかったのは、子どもたちとの集合場所を決めておくことでした。まだ携帯電話などなかった時、大災害が起こって消息不明や連絡方法がなかったら、落ち合う場所を決めておこうと考えて、彼処でもない、此処でもないと考えたのです。橋の袂や駅の前やデパートの前などはどうかと思ったのですが、崩壊してしまう可能性があって無理だと結論したのです。

そうなんです、行きはぐれて会えない事態を恐れたからです。ところが、4人の子どもたちが、それぞれ独立した今は、5ヶ所に分かれて住んでいて、その上、娘たちは外国住まいですから、『地上では会えないかも知れないかな!?』、と思っているところです。

〈備えあれば憂いなし〉と分かっていても、水や乾パンやチョキレート、ラジオや軍手や簡易トイレや新聞紙などと思うのですが、父の様な経験がない私は、なかなか腰を上げません。チョコレートなど、しまった場所を、しっかりおぼえていて、手をつけて食べてしまうことでしょう。どこかのスーパーマーケットで、防災グッズ一式を売っていたことがありますが。

最近のニュースを聞くと、身辺で何が起こっても不思議ではないので、真剣にならなければならないのでしょう。アメリカ西海岸、ロサンゼルス近郊で、マグニチュード6.4、7.1の地震があり、余震もあって、住む家が大揺れに揺れたそうです。怖いでしょうね。

さて、備えで家内と私だけが肥え太っていたら、『あの家には食料がたくさんあるに違いない!』と、襲撃されかねないかと心配してしまいます。そんな怖い時代が来ているのでしょうか。やはり、昭和の気骨で、備えるべきでしょう!

(江戸を襲った安政のだいじしんの「浮世絵」です)
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この両者には、違いがあります。上は、“キャラメル” で照りを加えているのに、下は、そう言った照りを省いて、自然のままの焼きですませているのです。見た目には、上の鰻の方が、輝きがあって美味しそうですが、やはり人工的な見栄えが加えられています。

「通(つう)」と言う言葉があります。“漢字ぺディア”には、「①ある物事に非常に詳しい人。もの知り。「食の―」 ②世情や人情に通じてもの分かりのよい人。」とあります。食通、鰻通の人に言わせれば、『見た目よりも味!』と言うのでしょう。先週の足利の鰻は、ウマイのです。

もう50も60年も経ちますが、鰻よりも、「泥鰌(どじょう)通」の父は、私を浅草駒形の土壌料理屋に連れて行きたかったのです。『準、いつか駒形で泥鰌を喰おうな!』と言ったままなのです。弟や友人に、一緒に行こうと誘いをかけているのですが、いまだに実現できないままです。ここから特急に乗れば、一本で浅草なのです。近くて遠おきは、泥鰌鍋です。
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国花

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私たちの国には、国家として制定した国花はありませんが、この「桜」と「菊」が、国の象徴の花として考えられています。「桜」は庶民の花、「菊」は皇室の紋章に使われる花だと言えます。

お隣の中国にも、国が法定した国花はありません。それでも、「牡丹」と「梅」を国花と主張する人たちに二分されている様です。学生のみなさんに尋ねましたら、50%50%の答えが帰って来たことがあります。台湾は「梅」、韓国には「木槿(むくげ)」、フィリピンには「サンパギータ(Sampagita)」です。
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私の青年期に移住を真剣に考えていたアルゼンチンは「セイゴ(アメリカンデイゴ)」で、上の花の様に真紅の綺麗な花です。これは、鹿児島県の「県木」で、和名は「カイコウズ(海紅豆)」だそうです。

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今更

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七月七日は、〈二十四節気〉で、「小暑」にあたります。この〈二十四節気〉が作られたのは、紀元前の中国の黄河流域の「中原(ちゅうげん/東周時代の首都が、この中原の「洛陽」でした)であったため、日本の気候とは、だいぶずれがあります。

この〈二十四節気〉の内、「立春(2月上旬)」、「立夏(5月上旬)」、「立秋(8月上旬)」、「立冬(11月上旬)」の4つの節気は、それぞれ春夏秋冬の始まりを言っていますが、『春と言うには名ばかり!』と、時期尚早な思いを、私たち日本人は感じますが、よく『暦の上では・・・』と言って、その「ずれ」を表現します。

華南の地に12年住みましたので、この「小暑」の時期が、小さな「热re/中国では〈暑さ〉を〈熱〉で書き表します」どころではなく、酷暑になっています。今頃体感温度は、40℃を超えていることでしょう。もう学校も夏休みに入っていて、ホッとしている時期です。

こちらの街中も、期末試験中の高校生が、早めに帰宅してる姿が見られます。何せ高校が八校もある街だから、見事です。また海のない県だから、夏休みには、湘南や茨城の海に、海水浴に行くのでしょうか。

車に4人の子をのせて、静岡の伊豆や相良の海に出かけた日が懐かしく思い出されます。行く道のサービスエリヤで、〈イカの姿焼き〉が食べたかったみんなに、食べさせてあげたいと思っている、「小暑」の今更の老父です。

(洛陽の旧市街の写真です)
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遠足

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日本人の間に、ウナギを食べる習慣が一般にも広まったのは、1700年代後半、江戸時代だったそうです。日本最初の〈キャッチコピー〉は、ウナギの売れ行きが悪かった鰻屋が、平賀源内に相談し、

“「本日丑の日」
土用の丑の日うなぎの日
食すれば夏負けすることなし ”

と言う看板を出すことを勧めたそうです。そうしましたら、うなぎのぼりに売上が上がって、大繁盛したのだそうです。ちなみに今年の「土用の丑の日」は、7月27日に当たるそうです。

今日、友人夫妻が、家内と私を「遠足」に誘い出してくださって、「足利学校」で有名な足利市にある、鰻屋さんで、二重にウナギを重ねた「うな重」をご馳走してくださったのです。この鰻屋さんは、一日の串の本数を決めて、〈売り切り閉店〉の営業をされているのです。お父様が始められて、今の主人が二十代で暖簾を継いで40年になるそうです。普段は鰻に串を刺し、串焼きの仕事をする〈頑固な親爺さん〉なのですが、休みには、1500ccの大型バイクに跨ってレクレーションをするのだそうです。なんだか羨ましい生活をされる方です。

暑くなく、雨もなく、涼しい一日を、「遠足」の様にして、外を出歩くことができた家内は大喜びでした。血液を取られるための通院ではなく、青田を眺め、峠道を走り、「道の駅」で買い物をし、ぶどう園の脇を通過した半日は、この半年なかった経験でした。港町の老人ホームに問安して以来です。美味しい鰻と友情の一日に、感謝で思いがいっぱいです。

帰って来て、この夕べ、このご夫妻に感謝のメールを送りました。

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正人さんご夫妻

ありがとうございました。
まさに半年、7ヶ月ぶりの、気の晴れるような半日を過ごせたと、家内が言っています。
去年の12月の初め頃、馬頭rと言う港町に老姉妹がいる老人ホームを訪問しました。
◯師の娘で医師をしていた100歳の姉妹や85歳の元教師、その他の方を訪ねたのです。
とても好い交わりをして、『みなさんでお昼を食べておかえりください!』と、お昼代まで頂いて、その港町で食事をした時以来です。
家内は帰宅しても疲れた様子がありません。
帰ってから少し休んだ後は、元気です。
お二人のお気持ちに強められたのでしょう。
ありがとうございます。
家内への足利遠足、小生への温泉浴、
お気遣いを、心から感謝します。
ありがとうございました。
心から御礼申し上げます。

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八染躑躅

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これは「ヤシオツツジ(八染躑躅、八汐躑躅)」で、栃木県の県花に指定されている花です。城を持たなかった武田信玄は、「躑躅ヶ崎」に居を構えた戦国武将でした。歴史に「もしか」はないのですが、『信長、秀吉、家康と同年齢だったら、きっと天下を取っていただろう!』と、甲州人は言いたそうです。

ここ栃木市は、信玄の宿敵、上杉謙信が戦った大平山に、躑躅が自生していたのか、後になって植えたのか、躑躅の一大名所になっています。下野国に、廃藩置県によって、宇都宮県と栃木県が置かれましたが、二県が一つとされ、県名は栃木、県都は宇都宮になって、東北本線も東北新幹線も、宇都宮を経由しています。宇都宮は「軍都」でしたし、栃木は「商都」だったと言えるでしょうか。

私は、まだ宇都宮を訪ねたことがありません。県民として表敬の意を表すために、県庁や県立美術館を訪ね、〈餃子〉を食べに行きたいものだと思っています。

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紫陽花

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栃木市の市花は、「紫陽花(あじさい)」です。紫、白、ピンクなど色鮮やかな「紫陽花」が、学校や公園など市内のいたるところで見ることができます。一つ一つの小さな花が集まって、大きく鮮やかな姿をみせる紫陽花が、市民一人一人が力を合わせ、協働のまちづくりを進める本市のイメージにふさわしいとして、「市花」とされています。

(友人が撮影した「紫陽花」です)
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平和

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旧国鉄車両の制御部分の部品を取り扱う仕事を、戦後、父がしていました。また家の近くに、保線区があったり、日本通運の貨車からの荷の積み下ろしの作業場があった関係もあって、動く物、とくに電車や過密列車に、人一倍関心が、子どもの頃にありました。

東京オリンピックの開催に合わせて、その準備が東京を中心に行われていました。その一つが「東海道新幹線」だったのです。この新幹線の構想、開業準備、試運転、開業などについて、NHKの”プロジェクトX“に、DVDがあって、それを教材に、華南の大学の日本語科の授業で教えたことがありました。

この1964年10月に開業した新幹線、その構想は、敗戦の中から起死回生で、立ち上がるための国家的プロジェクトに繋がり、日本国有鉄道は、十河総裁と技師長の島秀雄の下、高速運転が可能な鉄道計画が決定します。1959年に、新丹那トンネル熱海口で起工式が行われて始まっています。
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この技術チームの中に、三木忠直がいました。かつて日本海軍の技術少佐で、終戦間際に「桜花」と言う特攻機を設計した人でした。多くの青年たちのいのちを犠牲にした、その罪責を強く感じていた三木は、戦後に生き残った元軍人として、学び実践した技術を、今度は《平和利用》に用いたいとの信念で、この新幹線に情熱を注いだのです。

三木はインタビューで、『とにかくもう、戦争はこりごりだった。だけど、自動車関係にいけば戦車になる。船舶関係にいけば軍艦になる。それでいろいろ考えて、平和利用しかできない鉄道の世界に入ることにしたんです!』と答えています。軍靴で踏みにじった中国大陸で、大学の教壇に立つ機会が与えられた私は、旧軍人の『もうこりごりだ!』との悔恨の思いが、新幹線を生んだ事実を、反日教育を受けてきた若い学生に伝えたかったのです。

この「桜花」の防弾ガラスは、父が、軍命で携わった軍需工場の責任者として掘り起こした、「石英」を原料としていました。奇しくも、三木と父とは同級の世代でした。父は、私が、中国の大学の教壇に立つことなど知ることなく召されましたが、父もまた悔恨の念を抱きながら、戦後を生きたのでしょう。

東京駅を発射する新幹線に、帝国ホテルのビュッフェがありました。そこに食材を運び込む作業をアルバイトでし、この開業後の新幹線ホームで〈逆立ち〉を最初にしたのは私でした。そんな私が、大陸の青年たちに、平和を希求する者の一人として、新幹線の由来を教えられたのは感謝なことでした。

(開業時の東海道新幹線の先頭車両、「桜花」を背後にした特攻隊員たちです)
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