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『アクティブ・リスニング(Active Listening)とは、相手の話を注意深く聞き、理解しようと努めるコミュニケーションスキルです。単に言葉を耳で聞くだけでなく、相手の感情や意図を汲み取り、共感を示すことが重要です。』と、AIは記しています。
中学校の3年間、学級担任をしてくださった先生は、朝礼でも終礼でも、社会科の授業の開始と終了の挨拶でも、教壇から降りて、私たち生徒と同じ床の上に立って挨拶をしてくれました。同じ立ち位置で、一人の日父の思いを、上下ではない、並列に置く人間観をお持ちだったのです。長い学校生活の中で、ただ一人、そうされた教師でした。
私は、東京と中国q華南の学校で、教師をさせていただいた時に、この先生に倣って、教壇から降りて、学生さんたちへの挨拶をしたのです。教師と生徒という上下関係ではなく、対等に学び合う関係を心掛けてくださった、K先生の教師の在り方に感銘を与えられていたからでした。
東京大学を出て、大正デモクラシーの時代に建学された、私立校の教師となられ、高校と中学で教えられていたのです。きっと戦時中には、軍隊の経験もお持ちだったのでしょうけど、体育教師などと違って、まった軍隊調の様子はありませんでした。髪の毛の薄い、髭の濃い「漢(おとこ)」でした。
地理を教えてくださった時には、必ず、教材に、背丈よりも大きな掛け軸になった地図や統計図や参考になる箇所を示すスティックなどを、教室で使って授業をしてくださったのです。生徒を呼んで、教材を準備させたり、持たせたり、後片付けをさせることはありませんでした。およそ大声で威嚇したり、叱り付けたりしない、じつに穏やかな先生でした。
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あの先生の姿勢が、”アクティブ・リスニング”だったのでしょうか。同じ床の上に立っ姿勢で教えてくれました。兄が二人、自分にはいましたし、背伸びして不良っぽいことに憧れていたので、鼻持ちならない小生意気な中学生で、ずいぶん手こずらせたのです。何度も、母が学校に呼び出されたりしていました。
通学駅で、盗みをして捕まったりして、通報されていたのに、停学処分を受けませんでした。購買部のパンを盗み食いもしたり、理科準備室の備品も失敬したのに、叩かれたり、叱られたり、退学処分にもされませんでした。呼び出された母にも叱られなかったのです。また父に叩かれたりもしませんでした。
何年生の時だったか忘れましたが、遠足のバスの中で、『いやじゃありませんか 軍隊は 鉄の茶碗に竹の箸 仏様でもあるまいに 一膳飯とは情けなや!』と、「軍隊小唄」を歌ったのです。その時に、振り返って自分の顔を見た担任の表情が、不快を表していましたが、目が合ったのに、それにお構いなく、自分は終わりまで歌い切りました。
そんな軍歌まがいの歌など歌う生徒は、誰一人いなかったのに、きっと辛い軍隊経験をお持ちだったでしょうに、やめさせることも、叱ることもないままだったのです。そんな生徒が、毎年、先生の教えられたクラスには、何人かいたのでしょうか。そんな中学3年間を過ごして、最後の学年末、中学最終の通知簿に、『よく立ち直りました。高校ではしっかりやりなさい!』と書いてくれていました。
同じ学校の高等部を出て、進学させてもらい、卒業後、教育関係の研究機関と高校とで、五年働きました。同じ教会の姉妹と結婚し、キリストの伝道者になるために献身し、宣教師さんのもとで指導を8年間受けました。ここでも、自己主張の強さや日本精神が、宣教師さんを手こずらせたのです。9歳違いで、兄についで2人目の母教会での伝道志願者でした。
中学三年生で、高校進学を控えていた長男を連れて、母校訪問をしたことがありました。自分が6年間学んだ学校を見せたかったことと、担任だったK先生に会わせたかったからです。先生は、その時には、女子部の主事をされておいででした。大勢を教えてきた恩師が、長男を見て、『君は、お父さんと違いますね!』と言ったのです。どう言うことでしょう、私とは違って見えたのです。真っ直ぐに見えたのでしょうか、親のようではなかったのでしょう。
そして、『結局、君はお母さんと同じ道を行かれているのですね!』と、意外な職業選択をした教え子を見て、そう言っておいででした。何百という生徒を教えてきた先生の印象でした。母は自分がキリスト者だということを、呼び出された時に、話し、証ししていたのでしょう。
思い出せば、赤面の至りで、逃げ出しい思いでいます。だから、今があるのでしょうか。破落戸(ならずもの)とか、無頼漢にならないで、真っ当な人生を生きられたのですが、心ひそかに隠している部分も数多くあり、もしそれが白日(はくじつ)の元に晒されたら、アウトに違いありません。
でも、いのちの付与者、救い主に赦されての今でもあります。ある「聖歌」に次のようにあります。
♬ 人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し 🎵
26歳、結婚式で、この聖歌を、私は歌ったのです。小嵐ではなく、大嵐の中を、ドップリと潜って、人には言えないような破廉恥な青年期を過ごしてきて、父や母の期待に背いた一端(いっぱし)の罪人でした。
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その罪を悔い改めて、赦されて、結婚できたのです。それを祝福してくれた一人が、元ボクサーで、アラブ人とギリシャ人の背景のアメリカの聖書学校の教師で、私を育ててくれた宣教師さんの友人でした。父も母も兄弟たちも、母教会も祝福してくれました。四人の子が与えられ、今は、人生の黄昏期、思秋期でしょうか、仕上げの時でしょうか、そこにある家内と私を、4人が気遣っていてくれているのです。
思えば、最も、アクティブ・リスニングのあるスキルを持って受け止めてくださって、こんな自分を、「友」と呼んでくださったのは、キリスト・イエスさまだったのでしょうか。聖書に、次にように記されてあります。
『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46章4節)』
今やオンブしてくださる、主の背にある心持ちでおります。まさに、このお方は「王の王」でいらっしゃいます。これが救いの一部なのでしょうか。長く歩いて来て、足も膝も弱くなり、痛むのですが、老いを楽しむことにいたしましょう。みなさんも自分も、優しくなっています。
(いらすとやの「聞く人」、ウイキペディアの「教卓」、Christian clip artsの「良きサマリヤ人」、「王の王イエス」です)
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