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鉄道フアンに、[見鉄]という方たちがいるでしょうか。どうも手前勝手の造語かも知れませんが、私は、この「見鉄」なのです。東京に出て来て、二度目に住んだ町の家が高台への坂道の中途にあって、その井戸端から、下の方に、旧国鉄の線路が見えました。朝な夕なに通過する電車や列車を眺めることができたのです。級友のお父さんが旧国鉄勤務で、その官舎に住んでいて、けっこう広さのある作業場が、そこにありました。その空き地が、子どもたちの遊び場だったのです。
そこには、国鉄の引き込み線があり、貨車からの荷の積み下ろしをしていて、丸通(日本通運)のトラックが行き来していました。今のようにヤマトとか佐川という運送会社のない時代で、一強、この運送会社は、国鉄の主要駅に支店や支所を置いて、国鉄に深く関わる、主力な運送会社として活躍していました。
東京駅に行き来をする電車や、貨物車の運行を、間近に見ていましたから、自分は[見鉄]だったのでしょうか。砂場で遊ぶことはなく、元気な時は、陣取りとか宝島とか宝取りとか馬跳びを、日没になるまで、その広場で遊んだのです。傍(かたわ)らで、女の子たちが縄跳びや石蹴りをしていて、一緒に遊ぶことはなかったのが不思議でした。
その近くに、国鉄の「保線区」の作業場もあり、国鉄の本線の踏切もあったでしょうか、その踏切の遮断機の上げ下げをさせてもらったこともあります。鉄路の安全のための保守点検や線路や枕木の交換をするための重い鉄製の道具だって、触らせてくれました。
大人の背丈ほどもあるような大きなバールがあって、あの重い鉄製のレールを、何人かの作業員が動かしていました。照明器具のカンテラ用のカーバイトなど、あの仕事場の匂いをまだ覚えています。ですから[触れ鉄]でもあったのです。
中学に入って、その踏切の近くに、駅のホームがあって、そこからぐるりと回って改札口に行き、電車に乗って、電車通学をしました。[乗り鉄]の開始でした。
そして今、目覚めたように、本物の「乗り鉄」になることを考えているのです。JR両毛線は、関東平野の北辺に位置し、東京から100kmほどの東西に走る北端の群馬と栃木と、水戸線で茨城とを繋ぐ、明治以降、伝統ある鉄路なのです。
数ヶ月前に、家内が登校班の班長で、通学を助けていた、ピカピカの一年生だった方が、わが家を訪ねて来たのです。一緒に1年間、電車に乗って、隣駅にあった小学校に通学を共にしていたそうです。その時のお姉さんに会いに来たのです。実に懐かしそうに、二人で、その当時のこと、その後の近所の変化を、引っ越してしまった家内に話していました。その会話に加えてもらったら、彼女の鉄道趣味を話してくれたのです。
このご婦人も、[乗り鉄]の旅をするのだそうです。退職後、仕事から離れた男性は、趣味に生きるのだそうで、盆栽を始めたら、次は、「石の収集」がなされるのだと聞いたことがありました。20人ほどのグループで、北京から初めて数カ所の街を訪ねたことがありました。一人の牧師さんと最後の訪問地で、別行動をとって、香港から一緒に帰って来たことがありました。
この方は、その「石の収集」をしていると言っていたのです。銘石や宝石を集めるのではなく、訪ねた街で見つけた小石を、旅の訪問の記念に、持ち帰るのだと言っておいででした。もう30年も前の話ですが、今もなさっておいででしょうか。
石集めもしましたが、2、3個で卒業してしまいました。気が多いからでしょうか。今回は、この「大回り乗車」が面白そうだと思っているのです。JR線内の東京圏、新潟圏、名古屋圏、関西圏、福岡圏などで、JRの特例で、合法的に[乗り鉄]ができるのだそうです(東武電鉄も一箇所できます)。
通過駅や乗り換えのハブ駅には、「エキュート」とか「アトレ」と言う駅ビルが、改札内にあって、ショッピングだってできるようです。そこで買い物や食事や喫茶ができるのです。電車乗車が好きで、車窓の風景や多くの列車を認めたり、駅舎を目にするのを楽しみたい方には、もう一つの[食べ鉄]の楽しみがありそうです。
『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は、苦しみを分け合うために生まれる。(新改訳聖書 箴言17章17節)』
この「乗り鉄」のご婦人が、「回り鉄」で、3種類のルート図を見せてくれ、残していかれたのです。それを楽しんでいる風にお話になっていました。
見鉄、触れ鉄、撮り鉄、乗り鉄があって、[食べ鉄]が加えられそうです。まだ脚が丈夫なうちに、やり始めようと計画中でおります。まず兄や弟を誘って、それぞれの至近駅から、[乗り鉄]でやって来て、大型駅のレストラン街で、食事をしながら、苦楽を共にして来て、いまや老いを迎えているのを機に、二親や子どもの頃のことを語り合うことを夢計画中なのです。
すでに計画原案は完成なのです。こんな趣味が、他の国でもあるのでしょうか。在華中、果たせなかったのは、南満州鉄道、「満鉄」の残された鉄路を走る汽車に乗ることで、父が青年期を過ごした奉天(現在の瀋陽です)や撫順を訪ねたかったからです。
もう一つは、級友の父君が亡くなった山西太原に、さらには、大陸に理想国家を建てるとの国家的な思惑とは違って、福音宣教を志して、大陸に出かけ、消息をたった一人の伝道者の足跡をたどりたかったのです。ところが、果たせずに帰国してしまいました。
でも、それで良かったのかも知れません。今は、「大回り乗車」をして、自分の人生の最後の地、ここ栃木から鉄道の環状路線を訪ねて、付録付きで、この国を眺め直してみたいのです。「回り鉄」と言えるでしょうか。本やサイトまであって、隠れて、ひっそりと鉄道旅や駅弁や改札内の蕎麦屋や、大型駅のレストランで食事までできそうです。
実際に、いつできるか、この楽しみを噛み締めながら、あれやこれやと計画中なのです。無賃乗車ではなく、それが合法的だというのが、何か余韻があって素敵だなと思うのです。し遂げましたら、その様子をアップしたいと思っております。今は、猛暑で、二の足を踏んでおります。秋口にできるでしょうか。
(ウイキペディアの「東京近郊路線図」、「旧国鉄D51 蒸気機関車」、「エキュート大宮」です)
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