起きて半畳寝て一畳

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 父の仕事仲間というのでしょうか、ずいぶんと親しくされていた方の中に、「まつださん」がおいででした。父よりも一回りほど年配の方でした。どうして父の友人を知っているのかと言いますと、『昼ごはんを食べよう!』と言っては、父は中学生の私を連れ出して、自分の机のある、東京の日本橋室町にあったビルの一室に連れていってくれて、そこで紹介されたからです。

 旧海軍の関係者だったと思いますが、それぞれに戦時中は、軍に関わる仕事をされていたのでしょう。お互いに情報交換やアドヴァイスをし合ったりして、戦争が終わって、平和の時代になって、それぞれの背景や特技を活かして、新しい生き方を始め、気が合っていたにちがいありません。5、6人の方々と、三越の近くのビルの一室に、机を並べていたのです。

 それぞれの机に、自分の電話を置き、ロッカーに書類を置いて、それぞれに自分の事業をされていたようです。父は、浅草橋や新宿にも会社を持っていたり、顧問をしていましたが、気の合う個人経営者たちが、助け合ったり、情報を共有しあったりして、その一室で、それぞれの事業を展開していたのでしょう。

 その他にも、日商の一部上場の会社にも連れて行かれたことがありました。そこには、兵学校の校長をされたと言うお父さまをお持ちの方や、皇室の宮さまの縁戚だとか言う方が、役員をされていました。父が紹介してくれたから知ってるのです。その中には、有名な薩摩武士のお子さんという方もおいででした。

 今思うに、まだ中学生の子ども私を、そんなところに連れて行ってくれたのが不思議でなりません。会社の組織の中にいる人たちと、組織の外の人たちとの出会いでした。日本橋の事務所にいた人は、個人事業者で、実業の世界には、こういった二様の形態があるのを知らされたのです。

 この「まつださん」と、とくに父は親しかったようで、手狭な家に住んでおいでだったそうです。そういった生き方に、父も倣って、大きな家に住むことがありませんでした。尊敬の念を込めての交流があったようです。都下の6人の家族で過ごした家は、電車で、東京駅まで小一時間の所にあって、幾つも会社に関わる男にしては、狭くって窮屈な家でしたが、父は平気でした。

 「起きて半畳寝て一畳」、人が必要とする居場所は、広くなくていいのでしょう、父は頓着しなかったのです。そんな父の生き方を見て、育てられて、とうとう家一軒持たずに、今になってしまいました。借家住まいの連続で、物を持つ煩わしさから解放されてきたのです。頂いた物を捨てられずに、持ち続けてきた家内の持ち物、着る物を、先日訪ねてくれた次女が、『天国に持っていけないから!』と、母親を納得させて処分してくれました。ずいぶんスッキリしたのです。

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 ロシアの文豪のトルストイに、「人にはどれほどの土地がいるか」という短編の小説を書き残してあります。一人の農民の男が、広い土地を求めていました。ある時、一つの村を訪ねるのです。村人が、こんな提案を彼に告げます。『一日歩き回った分だけの土地を安く売りましょう!』と、持ちかけたのです。それには一つの条件がついていました。日没までに出発点に戻って来なければならなかったのです。

 それで彼は、夜明けと同時に、宿を出て一日中歩き続けました。欲に負けて、折り返すのが間に合わなくなって、出発点に戻りますが、日が暮れてしまっていました。そこで何と絶命してしまうのです。結局は、葬られてしまいますが、その墓は「6フィート(約180センチ)」に満ちませんでした。

  人が必要としている時間も限られていて、聖書は、「七十年、長くて八十年」という時間の制限の中にもあると記しているのです。物も時間もこの身体も、必要とするところは、「わずか」なのです。父には、秘蔵の宝物がありませんでした、育った家の床の間に、山奥で軍のために働いた時の贈り物に頂いたのでしょうか「鹿の角」、軍名で働いた時に掘り出された一部の「水晶の結晶」、これだけが、父の「お宝」でした。父が帰天した時、どこにも、それが見当たりませんでした。

 一棹(ひとさお)の洋服ダンスと、その上部に衣装ケースを二つほどと小さな書架があって、靴も二足とサンダルが下駄箱にあっただけです。母は、父よりも小さな整理タンスと柳行李が三つほど、押し入れの中にあっただけで、持ち物の少ない人たちでした。いつでも引っ越せるような、身軽な生き方だったのです。

 天国に行く時に、持っていけない物は持たないで、今ある物で満足で生き続けて八十年、恥ばかりは多い人生でしたが、赦されて、神の子の身分を頂けたことへの溢れる感謝で、後は塵芥(ちりあくた)のみです。自分の大切なオモチャを壊してしまって、それを握って、「茫然自失」していた近所の男の子の顔を思い出します。

 義兄は、18歳でブラジルの開拓移民をして、サンパウロの近郊の街で時計や宝石や小物の商いを、小じんまりしていました。サンパウロの宝石屋に連れ出してくれて、イタリヤ系の宝石店で、義兄が作らせて、贈ってくれた「指輪」がありました。天津に住んでいた、7階の家の洗面台のストレートな排水管の中に落としたのは、初めて指にしたダイヤモンドでした。

 大事にしていたので指から外して、顔を洗っていて無くしたのです。涙と血を流した移民の悲哀の年月の中から這い上がって、やっと事業に成功した義兄が、義弟に心からの贈り物として頂いた、高価な指輪でした。その兄も召されましたが、キリストの救いに預かっているので、再会の望みがあります。その時、なんと言ったらいいのでしょうか。

 様々な人たちとの出会いがあって、ここに私がいます。素敵な思い出の中に、みなさんがおいでです。自分があるのは、この方々がいて、その交わりがあったからに違いありません。感謝ばかりの台風接近の日の朝です。

(ウイキペディアの「三越本店」、「孫娘と歩むトルストイ」です)

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朝顔咲く朝

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 今季第一号の朝顔です。猛暑のせいでしょうか、葉落ちや葉枯れなどで、なかなか生育しませんでした。やっとここで一輪だけ、今朝開花したのです。可憐というのでしょうか、遠慮深く咲いてくれました。

 すごく嬉しい朝です。

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今夏の雷様も

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 線状降水帯という、新しい呼び名は好みませんけど、さながら、中国大陸に轟き渡り、雷光が西から東に飛雄馬の如く走って、大雨を降らせる「雷様(らいさま)」が大好きな私は、昨日も、雷鳴を聞きますと、すぐに窓を開けてベランダに出て、雷鳴と雷光と雷雨とに、目と耳と思いとを向けたのです。

 晴れない気分でもあって、気晴らしをもたらす、この天体気象が好きなのです。宇都宮人が、「雷様」と読んだのは、恵みの雨はpもたらされることへの溢れるような感謝があったからなのでしょう。

 米作農家によっては、恵の雨は、何にも替え難いものであり続け、間もない秋の収穫への序章曲だったに違いありません。自然現象への畏敬、大自然の神秘さへの感動、創造の神への賛美のように思えるのでしょうか。時として自然は敵ともなりますが、母のように父のように慈愛に溢れた世界で、親しみを込めた表現で、そう呼ぶのは、溢れる感謝があるからなのでしょうか。

 華南の町の師範学校の教員住宅で、その光と音と雨の雷は、驚くほどに大規模でした。天が裂けるのではないかと思わせるほどの雷光、空が割れるのではないかともわせる雷鳴、車軸どころか家も押し流すほど雷雨に見舞われたのです。

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 日本の箱庭のような、盆栽のような、コンパクトな雷ではなく、地球をひっくり返すのではないかと思わせるほどの雷には、驚かされました。よく春雷と言いますが、春だけではなく、一年中鳴り響くのが、大陸の雷でした。

 今日の午後の雷様は、それを思い起こさせるように、大きかったのです。地上に起こる、人や国の争いなど、比べようがないほど、大暴れで、気分がスカッとさせられた午後でした。私たちの幼き友人が、私の好きの真反対で、この雷が大嫌いで、怖そうに電話をしてきました。家内が、慰めていた夕方でした。

(ウイキペディアによる俵屋宗達の「風神雷神図」、いらすとやの「雷におびえる少女」です)

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King Charles – King Jesus

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 ” Charles“ 、中国の一頭のアルファ犬に与えられた名前です。そして、この犬に、一つのTitle が与えられて、「愛犬倶楽部」で、“ King Charles “ と呼ばれています。「実力者」であって、自ら群れの中の抗争をへて、その立場を得たのです。この犬を、英語は、“Alpha dog”と呼びます。闘争心に溢れていても、横暴ではなく、自分のテリトリーを守るのです。中国の犬の一つのcommunityのリーダーなのです。YouTubeで、そのリーダーシップぶり、支配の様子を観たのです。

 「実力の世界」と言うのは、人間の社会よりも、動物の世界の方が本物のようです。両親が見栄えが良く優れ、体格が良く、生まれながらに血統が優秀で、学問もあり、優秀な人材が、そういう立場を得るのですが、必ずしも優秀ではないのでです。いつも真価が試されるのです。“ Charles ”は、その犬のコミュニティーの中で、立場を実力で獲得し、堅持しているのです。

 私たちの母親は、小学校を終えると、女学校に行きたかったのですが、養女で、養父母はそれを許してくれなかったそうです。それで諦めて、家の近くにあった、「群是(GUNZE)」の紡績工場で、靴下や下着の製作で働いたようです。そんなことで、織物に関心のあった私は、グンゼが、「女工哀史」のような金儲けの会社ではなかったのを知りました。また学校で、豊田佐吉の発明、成功の話を聞いていました。

 母の時代に、製糸業や織物業に世界で、画期的な発明をしたのが、この佐吉でした。紡いだ糸で布を織る「織物」というのは、手と足とを使う、手動の織機が長く使われてきていました。苦労して布を織っている、母の姿を見ていた佐吉は、大工の子で、小学校を終えて、お父さんの仕事を継承していた人でした。

 手先が器用な人でしたので、その織機に目をつけたのです。試作を繰り返して、自動織機の新鋭機を作り出して、一躍、q織物業界で画期的な発明を遂げました。日本の紡績業や織物業が、世界に通用し、世界を牽引するようになった、貢献者の一人でした。

 人の社会では、何代も何代も家柄が良くて、資産に富み、政治力や財力があるなら、その立場を得られるでしょうか。例えば、トヨタ自動車ですが、トヨタ織機を生み出したことで有名な豊田佐吉は、努力の人、工夫の人で、才能の豊かな人でした。その「トヨタ」の名は、世界の製造業界、とくに自動車業界では、欧米の名だたる会社を凌ぐ、世界最高の企業になっています。

 先日、トヨタ自動車の社長をされていた章夫氏の「ハブソン大学(マサチューセッツ州)」での卒業式でされた講演を聞きました。この方が留学し、学んだ母校で、同窓の学生たちの前で、お話をされていたのです。おおよそ二代目、三代目で、優秀な企業が、伸び悩み、負債を生み出すような経営になってしまうようなケースが多い中、自動車レースに熱中したような人で、『大丈夫かな?』と、思っていた人物でした。

 ところが、蛙の子は蛙の子、実力を備えた経営者で、今は、経営を生え抜きの社員の中から抜擢して、その方に任せておいでです。講演内容は、機智に富み、トヨタの一時代を作り上げ、業績を大きき伸ばした、実力者である自身も実力も備えていて、母校での話の内容も豊富でした。人望もあり、一級の経営者だと言えそうです。

 でも、良い祖父や父親を持ったから、実力者だとは言えません。犬の世界でも同じでしょう。高崎山の猿の社会も、まさに実力の世界でした。オレゴンの海岸に洞窟があって、そこはアザラシの群生地だったのです。そこに娘婿に連れて行ってもらったことがありました。夥しい数のアザラシが鳴く声と、動物臭の立ち込める世界でした。よく見ていますと、一段と高い岩の上に、一匹のリーダーがいました。

 高き支配の座に君臨し、多くのアザラシが、傳(かし)仕えていて、まさにこの一頭の王国のような感じでした。高崎山も、そのオレゴンの洞窟も、その様子を見て知っていましたので、先日観た“ King Charles “ の統率力、支配力、仲間内の争いの調停などは、実に優れているのです。

 動物の生態学者でなくとも、その実力に興味津々なのです。権力闘争を繰り返す様子が映し出されていて、その統率力に舌を巻きました。一度だけ、小学校五年生の時、クラスの番長だった自分としては、公平にクラスを統率できなかったので、器ではありませんでした。6年になった時に、色の浅黒い大きな子分に、立場を奪われてしまいました。

 そんな自分に就いてきてくれたのがY君、ただ一人だけでした。6年を終えて、みんなは町の中学に行ったのですが、自分は、電車通学の私立中に、親に言われて行ったので、抗争は終了してしまいました。実力に欠けているのに、番を張ったのは間違いだったと、今は認めるのです。それでも、一対一の喧嘩は、兄たちに揉(も)まれたからでしょうか、強かったのです。

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 その“  Charles “ は、大型犬に怯(ひる)みません。真正面から立ち向かい、背を見せません。打ち伏せて、上向きにさせた相手の腹や首に、足を一本、二本のせて、勝利宣言をしているようです。弱いものいじめをする犬は制裁しますが、傷を負わせるようなこともしません。まあ、真のりダーシップを持っているのです。

 怯まない心持ちは、いまだに自分は持ち続けていますが、大器でないことは十分承知しています。喧嘩の強さは、何にもなりませんが、上の学校に入った時に、他の学校の学生たちの間で、自分のことが噂になっていたそうで、「喧嘩の強い準」なのだそうで、それを聞いて恥じました。男は公平なリーダーでなければなりません。

 それにしても、“ King Charles “ は、人間にしたいほどに、気持ちの良い実力者だと思えます。それでいて、ドーベルマンやチャウのような獰猛さも、威嚇もないのです。でも熾烈な戦いを繰り返して、King の座を守り続けているのです。ちょっと不謹慎かも知れませんが、われらの救い主イエスさまは、真の実力者、指導者なのです。人を滅びの罪に誘った、地獄に堕ちる罪を、十字架で処分なさったからです。腕力でも、財力でも、知力でもない、「愛」と、「罪への憎しみ」、そして父なる神への「従順」によって、闇の力と対決し、自らを任せられたのです。

 十字架の死は、人としては敗北なのですが、贖罪という人類救済事業としては、父の御心を成し遂げられた、「成功」と「勝利」の御業なのです。死と墓と黄泉から、父が、このイエスさまを蘇らせなさったのです。今は父の右に着座されておいでです。そこは、信じる者の救いの勝利の座なのです。

 復活の主イエスさまは、今、信じた者のために執りなしの祈りをしていてくださり、また助け主、聖霊を与えてくださり、さらに私たちを迎えるために場所を設け、設けられたら迎えに来てくださると約束されておいでです。ご自分が罪となられて、信じる者の罪を負われて、罪のないお方が罪となられて、父の怒りを受けて、死の代価を払って、死んでくださったのです。

 私たちを赦し、生かすために、そこまでしてくださった「キリスト」、「救い主」でいらっしゃいます。罪も裁きも滅びも、私たちにはないのです。これが「救い」なのです。それを確かにするために、主イエスさまは、死から蘇られて、生きておいです。今や、罪に立ち向かって勝利された、真のリーダー、友、「実力者」でいらっしゃいます。何よりも、「王」、「栄光の王」、「王の王」でいらっしゃいます。

(“King Charles”、”Christian clip arts“「受膏者のイエスさま」です)

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My Ending について

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 市の広報で、配布依頼があったのでしょうか、先週、ポストに、見慣れないノート形式の冊子が入っていました。いつも、手紙やそう言った広報などの書類を置く、居間のソファーに目をやって見つけたのです。「マイエンディングノート」とあります。表紙の下に、名前を記入する欄があり、裏表紙には、「セレモニーホール」のスポンサー広告が印刷されているではありませんか。

 戦後生まれのBaby Boomerたちが、高齢化して来て、夥しく老人人口が増えたからでしょう、どうも、『死ぬ準備をしておきなさい!』と言う行政指導らしいのです。もちろん考えていないわけではありませんが、〈ポイ〉と入れられた感が拭えず、ちょっと、『おやおや!?』と思ってしまいました。老齢世帯への配布依頼があって、自治会の係の方が、入れてくださったのです。

 こう言った形で、「死に行く準備」をしておく必要があるのでしょう。悪気はないのでしょうけど、この〈ポイ〉に、ちょっと嫌だなあと、ふと思ってしまったのです。きっと慌てないように、学校で習った言葉、「用意周到」を実行するようにとの計らいなのかも知れません。

 開いてみますと、第二表紙に、第三表紙にも、広告が掲載されているではありませんか。葬儀社と、司法書士事務所の『お任せください!』のスポンサーです。確かに、高齢者の死は間近に考えられますが、だれにでも、その死は訪れてくるのです。余命年齢と、死期の到来とは別です。

 ですから、いつでも死ぬ準備はしておくべきです。ではどう準備すべきなのでしょうか。その「マイエンディングノート」に書き込むことなのでしょうか。葬儀への希望、どこに埋葬するか、財産はどうするか、だれ に死の報告をするか、預貯金の使い道よりも、優先して備えべきことがあるように感じています。

 

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 40年前に、腎臓を摘出した時に、家族宛の遺言状を書きました。次男が3歳でした。どこかに、それが仕舞われてあるそうです。あれから40年経ちましたので、死ぬ確率は、さらに高くなってきました。不整脈が見つけられて、「心房細動」の症状が出ているとの医師の診断で、主治医に勧められて、カテーテル・アブレーションの手術を、2024年の12月24日に受けました。

 もう確実に、死期が迫っていると思われます。でも、どこにいくかの確信が、自分にはあるのです。肉体は焼かれて灰になってしまいますが、霊は、この命の付与者である神さまの元に帰り、私と言う魂は、キリストの故に、永遠の安息に入ると、自分は確信しています。

 25歳の時に、聖霊に満たされた時に、永遠の滅びから、永遠の命に救われた確信を得たからです。まさに聖霊の証印を押してくださったのです。あれから55年が経ちますが、その確信は揺ぎません。裁かれ、滅びに定められていた私の罪を、キリストでいらっしゃるイエスさまが、身代わりに罪となられて、十字架で血を流してくださって、死んでくださったことが、心から信じることができたかったからです。

『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(新改訳聖書 ヘブル9章27節)』

『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(同22節)』

 人の罪が赦されるのは、キリストの血以外にはないのです。その血によって贖われた者は、今や、義とされ、子とされ、聖とされ、やがて栄光化される救いに預かるのです。イエスさまは、こうおっしゃいました。

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11章25節)』

 さらに、聖書に次のようにあります。「信じる者」が頂けるのです。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2章8-9節)』

『願はくはわれを瞳のごとくにまもり汝のつばさの蔭かげにかくし(文語訳聖書 詩篇17篇8節)』

それで、私は、よくこう賛美します。

♫ なが瞳のように守り 死ぬことのないように みつばさのかげに われを匿いたまえ ♬

 神さまは、「いのちの書」をお持ちです。聖書に次のようにあります。

『しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。(黙示録21章27節)』

 誰の名が記されているかは、私たちは知りません。教会も牧師も知りません。ただ自分の名は、姓名がしっかりと・【小羊のいのちの書】に書き記されてあると確信するのです。それこそ聖霊の証印によるに違いありません。両親の名も、妻も4人の子どもたちの名も、そして、こんな私の名も記されてあると信じているのです。まさに信じた者が頂いた限定的な特権なのです。

 永遠のいのちに預かれる救いは、誰も奪えません。すでに救い主であるイエスさまの御手の内にあるのです。

 それで、私のための葬儀も墓も不要なのです。自分の一生のけじめを、そう家族には言ってあります。式に集って、常套句のように、『良い人だった!』と、みんなに言われたくないのです。全く良くはなかったからです。良いのは、主だけです。

 パウロが自分を言ったように、この私も、真性の「罪人の頭」だからです。滅ぶべき当然の私を、罪の奴隷市場から買い戻して、『赦してくださった!』と、信じたからです。そのパウロの確信を継承する者が、頂ける「赦し」だからです。

 一昨年の暮れに、父の体質を受け継いだのでしょう、脳梗塞が起き、即入院した後に、死後のことを家族に伝えてあります。ただ願うのは、聖書が記す「空中携挙」をしたいのです。死を経験しないで、生きたままで空に携え上げられ、再臨のキリストに見(まみ)えたいのです。

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 ドイツのバートボルトの教会の牧師だったクリストフ・ブルームハルトは、教会の入り口に、馬に引かせる馬車を用意してあったのだと伝えられています。『主がおいでです!』と言う知らせを聞いたら、その馬車で、救い主のもとに駆け付けるためにでした。私は、この方に真似て、自転車を玄関に用意してあります。でもそれは、生きている者の「再臨待望の 姿勢」であって、実際には、携挙されるので、自転車も馬車も車も飛行機も不要なのです。

 単純な福音を、単純に受け継げたのです。『主よ来たりませ!』、その「エンディングノート」不要の私の弁であります。私の迎える「死」は、「罪の赦し」と「永遠のいのちへの救い」なのです。決して滅びないとの確信です。救い主は、「審判者」。なのです。この主が、代わって「審判」お受けくださったからであります。それが、「十字架」です。次男が、幼い日、『イエスさま、痛かったんだね!』と泣いて言っていました。

 さあ、自分は、死の準備はできました。病んでも、主の定めてくださった一生を、ありのままで感謝して受け入れようと覚悟しています。パウロも、ペテロも、ポリュカルポスも殉教しています。聖書の読み方から妻の愛し方まで教えてくださった、牧師や宣教師さんたちの、ほとんどのみなさんは病で亡くなって行きました。

『また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20章11-15節)』

 でも、出会って一緒に過ごしたみなさんは、主のみ前に、魂だけではなく、栄光の体で蘇るのです。「白い座の裁き」には、キリストの血のゆえに、立たずにすみます。

『なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリント5章10節)』

 ただ私は、「キリストの座」の前に立つのです。そこには、弁護者なるキリスト・イエスさまと聖霊なる神さまがおいでです。それは裁きではなく「報酬」なのです。24人の長老たちが、主の前で、頂いた冠を投げ出すように、「赦された罪人」として立つのです。

 「マイエンディング」、どのように死期を迎えるのでしょうか、書類上のことだけではなく、心の中で、どう迎えるかの備えこそ、今必要なのだと思っています。元気に動ける今、一緒に二親の養育のもとにいた二人の兄と弟に会いたいのです。そして、父と母への感謝を語り合いたいと願っております。

 家内が、肺腺癌の治療を、入院して始めた、帰国して間もない頃に、すぐ上の兄と弟が、電車に乗って訪ねてくれました。入院先には面会不可でしたが、家に二、三度来てくれたのです。退院後には、鬼怒川温泉に、上の兄と下の兄が夫妻で、奥さんを亡くした弟が、私たち夫婦招待して、退院を祝ってくれました。実に嬉しかったのです。兄弟喧嘩に明け暮れていたのに、それも懐かしい思い出です。共通の過去を持つ兄弟は格別なのです。

(”Christian clip arts“、1947年初め頃の家族写真、”illust image”のイラストです)

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防人の詠んだ歌を想う

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 国防上、倭(大和)朝廷は、大陸からの襲撃を防ぐために、九州の筑紫、壱岐で迎え打つために、主に東国の関東から衛兵を求めたのです。それで派遣されていた人を、「防人(さきもり)」と呼びました。中国の唐代の制度に倣(なら)ったのです。朝鮮半島の内乱であった、「白村江の戦い」に、古代日本の倭朝廷は、百済(くだら)を後押しして、兵を派遣します。

 しかし、隣国の争いに介入したはよいのですが、軍隊の形をなしていなかった倭軍は敗北してしまいます。この屈辱の経験から、国の防護を固くするために、兵力の増強や兵法術の強化を図ります。そのための用員を、関東から求めて、辺境の地であった九州防護の任に就かせたのです。

 小学生の頃、佐藤先生から、この歴史を学んだのです。「防人」ですが、防ぐ、予防などで学んでいた「防」の漢字を、「さき」と読み記すことが、難しく不思議でなりませんでした。漢字の持つ不思議さに驚かされたのです。地名もそうで、青梅を「おうめ」、福生を「ふっさ」と読ませるのにも戸惑った記憶があります。「ことば」が先にあって、それに漢字を当てたからだったのかも知れません。

 はるか古代に、防人のいたことは、強烈な印象をもって学んだ記憶があるのです。漢字が、「大陸」から、仏教と仏典の渡来で、伝えられて、「政(まつりごと)」の案件や記録や通達文などが記され、残されるようになっていきます。そのために紙が必要とされ、製紙技術も大陸から伝わってきています。口伝で言葉や命令が伝えていたのが、紙に記され、記録され、配布されて残されていったわけです。

 その防人たちが、和歌を詠んでいたのも驚きでした。「五七五七七の三十一文字」からなる和歌が詠めるほど、ことばの語彙(ごい)力が、当時あったことも驚きでした。防人の多くは、農民たちだったからです。ところが、「聖書」は、それよりも遥か以前に、記されてあって、その内容は現代にも、翻訳文で通じているのですから、驚きです。

 口承で伝えられ、記憶されていた創世からの人類の誕生と歴史、神の選民、ユダヤ人(イスラエル人)の歴史が、さらにはイエスさまの行動や教えが記録され、イエスさまの弟子たちの書き送った手紙や行動も、誕生した教会の進展なども記録され、送られ、読まれたわけです。

 文字として記されたのが、紀元前6世紀頃と、学問的に言われています。そして、旧約聖書の「死海写本」が、1947年頃に、死海の近くに位置しているクムラン洞窟で発見されています。学者たちの手で研究され、そして翻訳され、書写され、やがて印刷機が誕生して、印刷されたのです。私の手元にも、ヘブライ語、英語、漢語、日本語などに翻訳されたものがあります。

 完璧な言語、今と変わらない思想や言葉があって、心の動きがあり、互いに意思の疎通がなされているのです。21世紀の今と寸分違わない言葉が語られ、記されたわけです。それこそ神のことばの伝播と記録なのです。
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 さて防人ですが、彼らの詠んだ和歌が、「万葉集」として残されてあるのです。この本に魅了された、土佐藩の下級武士の鹿本雅澄(かもちまさずみ)は、この万葉集を研究した市井の研究者でした。この人の歌碑が、大山岬にあると聞きましたので、足摺岬に行く途中、車を停めて、そこに足を運びました。

あきかぜの福井の里にいもおきて 安芸の大山越えかてぬかも

 この和歌が刻まれているのを「愛妻之碑」と呼んで、土佐の海の波打ち際に立っていたのです。鹿持は、「徒士(かち)」と呼ばれた武士でしたが、50年の歳月を万葉研究に捧げて。「万葉集古義」をまとめ上げています。

 城内城下を離れた、この赴任地から、高知城下にいる夫人を思って、一首詠んだのです。どんな夫人だったのでしょうか。車では数時間で行ける距離、わらじ履きでは遠い地で、妻から離れて独り住まいをしていたわけです。

白浪のよろる浜辺に別れなば いともすべなみ八たび袖振る

 下毛野(栃木)、上毛野(群馬)、常陸(茨城)辺りから、家族と離れて、やって来ていた、勇猛果敢の防人たちの想いに、通じるものがあったのでしょうか。このように、防人たちは詠んだのです。遥か遠隔の地、箱根の坂の東「坂東(ばんどう)」とか、「関八州」といった東国から、西国の辺境の地の防備に、やって来ていた、足利(あしかが)出身の防人が、こんな歌を詠んでいたのです。

 故郷の家族を思う想いが、切々と詠まれたのです。太平洋戦争で、学徒出陣の若い特攻兵も、国を思い、故郷を思い、家族を想って短歌や俳句、詩や手記を残しました。

新しき光に生きんおさな子の 幸を祈りて我は散らなむ

 八十年前に、一人の特攻兵の残した短歌です。子を残して、殉じた若き父の子を思う想いに、心が震えてきます。この人たちの家族への想いがあって、われわれの世代は、平和な時代を生きることができて、今や八十になるのです。「戦後八十年」、何人もの同級の友たちは、父(てて)なし子でしたが、健気にこの年月を、精一杯に生きてきたことになります。

(ウイキペディアの「太宰府の跡地」、熊本山鹿市にある「防人の碑」です)

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20年、50年経ったら、どう?

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 今、家の近くの公園のベンチに座っています。先日、痛めた左足の筋が、怪我を忘れて足を延ばしたら、痛くて歩けないくなってしまたので、ベンチに、やっとたどり着いて座ったところなのです。

 目の前を真っ白な半袖シャツに黒ズボン、背中にザックを背負い、ズック靴の高校生が、二、三人の集団でまた1人でと、次々に通り過ぎていきます。駅に向かう通学生で、近隣の街から電車通学をしているのでしょう。けっこう真面目な学生たちに見えます。

 この公園に隣接する、もう一つの公園に、だいぶ砕けて、シャツの裾を出した高校生の一団が、嬌声を上げながら、噴水の周りで、ズボンを捲って、水に入ったりしてふざけ合っているのです。女子高生も混じっていて、その横を通って来たばかりでした。

 期末試験があるのでしょうか、今日の科目が終わった開放感で、高校生たちの二様の様子を眺めているのです。もう60数年前の自分を思い出して、どちらの集団に属すのか思い返していました。大学生の兄の真似で、帽子に溶き卵を塗って、フライバンの油で揚げて、それをこすってこすってを繰り返して、バンカラ風に磨き上げたのをかぶっていました。

 私立校のジャバラの制服で、テカテカ帽には校章がついていて、どこの高校生か一目瞭然でした。もう今では言わない、トッポい目立ちたがり屋の格好だったわけです。もちろん同じ学校の多くの高校生たちは、キチンとしていましたから、わけありの自分は、だいぶはみ出し者でした。

 どうも噴水で、嬌声を上げている一団は、自分のようで、目の前を通り過ぎて行くのは、名門伝統校進学校の高校生ですから真面目で、自分には似ても似つかなかったのです。東大に何人という風に数え上げられている高校の生徒なのだそうです。

 双方とも、若さを精一杯に生きているのですが、表現と格好と行動が違うのです。でも20年、いや50年、時が経ったら、この両者は、どれほど違うのかは皆目分かりません。これまでで、一番だと思う恥ずかしい経験は、同じクラブで走ったり跳んだり投げたりした同級生が、自分の働いていた職場を、突然訪ねて来たのです。

 都内のお嬢様学校で、けっこう歴史のある学校で、旧国鉄線や地下鉄線で通学してくる学生たちの学校に、勤めていた自分を、『本当かどうか?』を、その目で確かめに、同級生を代表してやって来たわけです。目をマンマルくして信じられないように、驚いていたのです。まさかが本当だったので、それでも手土産の和菓子と金一封を持参してくれたのです。

 まあ、あの学校での格好と行動を見て、高校教師になるだろうとは予測もできないで、肩透かしを食った風に確かめて、背中を向けて帰って行きました。彼は、背番号5のバックスをしていた、大きな駅の近くで、大きな豆腐店をしていた家の息子で、彼のお兄さんも同窓でした。

 人生には、意外なことが溢れているのです。まだ意外なのか、当然なのか、関東平野の北の街に住んで、下野訛りの喋りをするみなさんの中に住んで、西の空を見て、明日は晴れとか曇りとか雨降りとかを、思ってみる人生の展開に、ビックリしているのは、この自分に違いありません。

(“いらすとや”の「噴水、“イラストレイン“の「高校生」です)

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畳一畳から永遠の広がりに

 一人の人の必要な空間は、五尺の体を横たえるのには、畳一畳ほどでよいのだそうです。そこに、布団を敷いて、横になって眠ることができ、寝具を畳んでテーブルを置くなら、食卓になり、学生なら学習机にもなるのです。ある芸能人の家は、300坪だそうです。そこは畳600枚を敷くことができる広さになるでしょうか。

 私が生まれた時には、6分の1畳もあれば十分でした。母が出産してくれた嬰児だった私は、3kgにも満たなかったはずです。村長さんの奧さんが、山の渓谷の狭間の参詣客用の旅館の離れの一室で、厳冬の師走の早朝4時35分に、自分を取り上げてくれたことを、父の手帳を読んで知りました。それから学齢直前に、肺炎に罹って、街の国立病院に入院したこともあったのです。

 国立病院の大部屋にあった、1畳ほどのベッドに寝かされて、治療を受けました。医師が、当時希少の輸入薬を取り寄せて投与され、母の手厚い付き添いの世話があって、一命を取り留められたのです。さらに病弱の小学校時代を過ごしましたが、恢復することができ、ちょっと小ぶりでしたが、兄たちに負けずに生長して行きました。

 あれやこれやがあって、80年の年月が経ちました。学ぶ機会を得て、社会人となり、中国の地にも仕事を得て出掛け、13年を過ごしました。中国の大地の2DKほどの借家に住んで、一畳よりは少し大きなベッドがあって、そこで休むことができました。これまで乗った飛行機でも、電車でも、バズでも、40cm平方ほどの椅子に座っていたわけです。

 そんな風に生きてきて、最後には、1畳にも満たない棺に、無理やりに収められてしまい、自分の足ではなく、担がれて家を出ていかなけばならないわけです。社会的な栄誉を受けて、表彰されてる、そんな機会を得ることもなく、誰にも悲しまれずに去っていく人もいます。やがて、その時が必ず、自分にもやって来るのを、覚悟しておかなければなりません。

『この世で富んでいる人たちに命じなさい。高ぶらないように。また、たよりにならない富に望みを置かないように。むしろ、私たちにすべての物を豊かに与えて楽しませてくださる神に望みを置くように。 また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。 また、まことのいのちを得るために、未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。(新改訳聖書1テモテ6章17-19節)』

 私たちの一生は、70年、長くても80年だと、聖書(詩篇90:10)は記しています。つまり、必ず終わりがあるわけで、その時のために、『未来に備えて良い基礎を自分自身のために築き上げるように。』と勧めています。まず心を「備える」ことに違いありません。l

 聖書は、終始、「永遠のいのち」のあることを語っています。時間的には永遠に、地理的には広大な世界が、待ち受けていることが約束されているのです。人を制限づけてきた限られた空間ではない世界が、私を待っていてくれると言い、そう自分は信じています。一畳、広くても一坪ほどの世界ではなく、宇宙大に広がる世界があると約束されているのです。

 今の自分の想像力では、理解し得ないほどにl広大で、永遠の世界が待ち受けていると言うのが、聖書の使信のことば、約束なのです。母の胎に宿った日から、神さまの憐れみと恵みがあり、それで、病気や怪我や事故に出会っても、生きてくることができました。

『すべての人は、罪を犯したので神からの栄誉を受けることができず、(ロマ3章23節)』

 ところが、人類の始祖アダムの犯した罪を、自分は継承していますが、その生まれながらの罪を悔い改めて、罪を赦される方法があるのを知って、17歳の時に悔い改めました。それで、自分は永遠のいのちに救われたと信じさせていただいたのです。それで、神さまの赦しを今も信じているのです。

 赦されるには、罪の「悔い改め」、イエスがキリストと信じる「信仰」が必要なのだと、聖書に記されていることを、母から聞かされました。母自身が、14歳の時に、カナダ人宣教師との出会いを通して、信じていたのです。人の悪口を言わない、週刊誌など読むこともなく、かえって近所の弱い方をお世話していた母に育てられました。日曜日には、礼拝に出掛け、私たち兄弟四人を、母は引き連れて、教会学校にも連れて行ってもらいました。

 17歳で信仰を告白し、22歳でバプテスマを受け、25歳で聖霊のバプテスマを、自分は受けました。それからキリスト者として生き始めて、今日に至っています。何度も怪我をして入院をし、39歳の時には、臓器の摘出手術を受け、70過ぎて脳梗塞、心房細動などで入院加療をして、けっこう賑やかな病歴を重ねてきているのです。

 聖書は、人の一生を、次のように言っています。

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『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(詩篇90篇10節)」

 もう、そろそろ飛び去る時qを迎える年齢になりました。自分は、死と棺の向こうに、「永遠のいのち」に救われて、永遠を生きられると、信じています。正直、まもなく迎えようとしている未知の死への怖さはあります。しかし死の向こうに、私の霊も魂も肉体も、完全に守られ、神と共にある世界が待ち受けている、との聖書の約束を得て、安堵しています。

 だから、「恐れるな」と言われる、救い主イエスさまのことばを聞くことができているのです。死が、「不死」を着ると言う、新約聖書第1コリント書15章59節の約束があるのです。神さまの創造の世界である宇宙を思う時、神のいますこと、救い主キリストのいますこと、聖霊のいますことを、今朝も信じ、これから迎える日の来るのを、心して待とうと思っています。

 そろそろ陽が昇ってきそうです。今日も猛暑の1日なのですが、まず散歩に出て、帰ってから朝食の準備をして、家内と食事をし、洗濯をして日常の Rotationを始めることにしましょう。子どもたちにも、今日も守られていると、チャットを送りましょう。

(” Christian clip arts “のイラストです)

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『おとっつぁん!』の愛と義が

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 『おとっつぁん!』、江戸期に、子どもたちは、自分の父親に、この呼びかけをしていたようです。江戸に始まる「落語」に、この呼び名が出てきますので、庶民の間で使われていたのであほうか。武士階級は、「父上」だったでしょうか、藤沢周平や葉室麟の作品に、そうありました。

   私は、父親と関係のよい時には、『おとうさん!』と呼んでいたのです。コッピどく叱られ、叩かれたりしたら、腹の中でか離れてかで、『××オヤジ!』、『××ジジイ!』と捨てゼリフをしていたのです。きっと、父も、そんな風に父親に接していたのでしょうか。私には、二親の二系に、おじいちゃんとの交流がありません。父からは、『準が、髭を生やしたらオヤジそっくりだよ!』と聞いただけで、写真で見たことがありましたが、母からは、自分の生みの親は、下関の人だと聞いたことがあったのです。

 時代劇では、『ちゃん!』と、幼子が呼んでいる場面が、よく見られました。「父」を省いて、下の部分だけで、そう呼ぶのですが、親愛の情のこもった呼び方で、『いいなあ!』と思っていただけで、そう呼んだことはありませんでした。父子関係が良好の場合に使われているに違いありません。一度呼んでみたかったのですが、もう、父が亡くなって五十数年も経ってしまいました。え

 きっと、ちょっと上級国民の間では、『父様(ととさま)』とか、『お父さま』と言うのでしょうか、皇室では、伝統的な言い方がありそうですが、堅苦しくて、われわれ市井(しせい)の民には、真似られないほどの壁を感じてしまいます。

 サンパウロの空港の長椅子に座っていた時に、『ジュンチャンあ!』と呼ぶ声がしたのです。異国のほとんど知った人のいない、国際都市の大空港で、自分の名を呼ぶ声に、瞬間戸惑っていたら、それは上の兄だったのです。自分は、義兄と義妹を訪ねて、義妹の車で、サンパウロ空港にやって来て帰国しようとして、搭乗待ちで、椅子に座っていました。

 あの時は、天国からの呼びかけかと思ったほどに感じたのですが、聞き覚えがあったのです。先日の兄からメールに、「驚いたこと」として、この一件が取り上げられていました。兄も、その偶然性にとても驚き、再会を喜んでいたのです。同じ二親の子なのに、似ていたり、そうでなかったり、真似たり、兄の学ランを着たりした日がありました。

 今も兄弟四人が健在でいて、子どもの頃から、「ちゃん」付けで呼んでいて、この年齢になっても、まだ、そう呼び合っているのです。喧嘩相手、殴られたり、殴り返したり、呼び捨てしたことが多くありましたが、年老いて、穏やかになり、会う機会が少なくなった今では、メールやチャットや電話で、そう呼んでは言葉を交わしたり、近況を問い合っています。

 聖書の箴言に、

『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(17章17節)』

 子どもの頃は、激しく大声で、拳や足を振るって、大喧嘩をして、近所でも評判の兄弟でしたが、みなさんの過去の心配をよそに、今では、人が羨むほどに仲が良いのです。嫁さんたちは、入り込む余地がなさそうにしてきたのです。

 中国で13年過ごした間、何度も何度も精神的にも物質的にも助けてくれたのを思い出して、感謝しているのです。いまだに助け合って、励まし合っています。病弱で、それでわがままで、内弁慶な三男坊の私は、ずいぶん〈やな奴〉だったに違いありません。

 秋になって、木製の寝台の中に座った私が、好物のブドウ手に食べては、皮をポイと捨てると、父は、兄たちに拾わせていたのだそうです。一人だけ、純毛の毛布を使わせてもらったり、栄養補給に山羊の乳や輸入品のバターを、一人飲んだり食べさせてもらい、若殿様のようにしている弟は、兄たちには、じつに鼻持ちならなかったに違いありません。

 それだからと言って、父の目を盗んで、小突いたり、蹴飛ばしたり、罵詈を飛ばされたりしたことは、全くなかったのです。そんなことすると、私の訴えを聞いて、父がゲンコツを兄たちに見舞ったことでしょう。〈しょうがねえ弟〉だったのでしょう。上の兄が、子どもの頃を思い出してでしょうか、私を、父の寵愛を受けた「ベニヤミン」だと言ったことがありました。

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 イエスさまは、神さまを、『アバ!』と呼んでおいででした。どうも、聖書時代、パレスチナの庶民の話し言葉のアラム語で、「お父ちゃん」、まさに、『おとっつぁん!』、『ちゃん』と呼んでおいででした。万物の創造者で支配者、絶対的な主権者、慈愛の父でありながら、厳父で罪を裁かれる神を、そう呼べるのは、実に感謝なことであります。

 私の信じた神さまは、『おとっつぁん!』なのです。ご自分の御子を、信ずる者の身代わりに十字架で処罰され、死なせ、墓に葬らせる以外に、救いの道はありませんでした。それほど人の罪は重かったのです。「義」を成就させるためには、十字架で血を流す以外に、人の救いはなかったのです。それに従われたのがイエスさまです。ここに、『おとっつぁん!』の愛があります。愛が義を全うするために、この方法以外にないからです。

 その真実の証のためにこの神さまは、御子を死と墓から甦らせなさったのです。信じた者が滅びないためです。

( “ Christian clip arts ” のイラスト、漢字の「義」の旧体字です)

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好夫婦

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 「糟糠の妻」とは、男性が、一人の妻を得て以来、貧しくて、何もかも、うまくいってもいかなくても、苦楽を共に味わった妻のことを、そう言うそうです。「糟(そう)」は酒かす、「糠(こう)」は米ぬかのことで、「粗末な食べ物」を言っています。そんな物を食べ合った相手を言うようです。

 「糟糠の妻は堂(どう)より下(くだ)さず」、貧しい時代から暮らしをともにしてきた妻は、出世したからといって家から追い出すことはできないという意味です。[AI辞典]によりますと、

 「糟糠の妻」という言葉の出典は、中国の歴史書「後漢書」の宋弘伝です。この故事は、貧しい時に苦労を共にした妻を、富貴になった後も大切にするという美徳を表しています。 具体的には、後漢の光武帝が、姉の再婚相手を探す際に、家臣の宋弘を候補として考えました。その際、宋弘は「貧賤の交わりを忘れるべからず、糟糠の妻を堂より下さず」と述べ、貧しい時に苦労を共にした妻を大切にすることを表明しました。この言葉が「糟糠の妻」という言葉の由来となり、故事成語として広まりました。

 この中国の故事は、友情や夫婦の情愛の大切さを伝える教訓として、現代でも広く知られています。 このことばを覚えた頃に、有名になった、成功した男が、慢心するのでしょうか、油断でしょうか、感謝を捨てて、妻を離縁してしまう話を何度か聞きました。

 ある歌手は、奥さんの励ましがあって、温泉施設のボイラーマンをしながら、民謡や三味線を学びながら、歌謡界にデビューします。美声の持ち主でしたし、歌唱の指導などをへて、一躍、歌謡曲界の超人気の歌手となるのです。大手のレコード会社の看板歌手に上り詰め、出すレコードが、どれもミリオンセラーとなっていきました。

 ところが苦労をしていた時の妻を捨ててしまったのです。色と欲とに、お金と名声を得て負けてしまいました。人生の成功者でありながら、一人の女性、妻を愛しきれなかった彼を、テレビに見た時に、やはり疾(やま)しさが表情に見え隠れしていたのです。富も名も得ないままの私でしたが、そんな不義理はすまいと決心させられたのです。

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 もう一人、関西圏の田舎の街の出身で、プロ野球界で名を馳せた男がいました。お父さんを戦争で亡くし、母親の手一つで育てられ、貧しい少年期を過ごしています。自分もアルバイトをして家計を助けたりしていたのです。それでも高校に進学させてもらい、野球部に入り、体が大きかったからでしょうか、キャッチャーになります。子どもの頃から、川上や大下といったプロ野球のスター選手に憧れて、野球をしていたのです。

 高校を卒業して、テスト生として、野球の球団に入るのです。彼の初期の様子を、記録に読んでみますと、この男が、正捕手の位置を得るには、活躍していた捕手の怪我などが積み重なって、廃業しようとすると、出場の機会を得るといったことが何度かあったようです。その上、天性も才能もあって、努力の末に、やがて名捕手になるのです。

 守りのキャッチャーだけではなく、シーズンのホームラン王や首位打者に何度もなって、大活躍をします。引退後には、幾つもの球団に呼ばれて名監督の名をほしいままにします。その采配は、弱小チームを優勝させるほどでした。日本プロ野球界では指折りの野球人でした。

 ところが、名のない下積み時代を支えてくれた奥さんを捨ててしまうのです。ミス▷□になったほどに綺麗で、しかも弁の立つ結婚経験のある女と出会い、色と欲とに負けてしまいます。苦労時代を支えてくれた奥さんを離縁してしまうのです。野球人としては成功者でしたが、「糟糠の妻」を、自分の心のミットに受け止め得なかった、結婚の失敗者でした。

 こう言った話、事例は枚挙にいとまありません。私は、そういった話が好きだからではなく、結婚軽視をしてしまう男の生き方をみて、教訓を得たいのです。

 1970年代に、欠点だらけの二人が出会って結婚して、四人の子どもの養育を委ねられから、もう私たちの結婚生活は、54年なっています。この間、一度、家内が家出をしたことがありました。口をきいてもらえないことは何度かありました。また、言うことを聞かなくて、癇癪を起こした私が、叩いてしまったことが一度あったのです。

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 来た道に、山も谷もありながらの年月でした。まだ捨てられずに、私は、一人の女性と生活をさせてもらい、互いに病んだり、入院したり、世話をさせたりしたり、泣いたり笑ったり、人を迎えたり送ったり、転んだり立ち上がったりの今を、二人で励まし合いながら、赦し合いながら、一緒に過ごしているのです。

 私たち二人の「仲保者なる主」がいてくださっての今なのです。出会わせてくださって、共に歩ませてくださった主なる神さまがいて今があります。結婚という絆、契約の中に、このお方が留まらせてくださったから、一緒に過ごせたのでしょう。そして、家内の忍耐があったからです。

 昨日も、中国の東北部で、在留日本人の子として生まれ育って、中国人の方と結婚したご婦人が、一番下の小学校2年生のお嬢さんを学校を休ませて連れて、東京から訪ねてくれました。家内の退院後の見舞いと激励に来てくれたのです。

 『水餃子を作って食べさせたい!』と言ってでした。材料とエプロンと餃子作りの道具、そしてお土産持参でです。おいししい餃子と、二種類の中国の東北部の料理も作って添えてくれました。家内は小麦粉をあまり食べないので、米粉で、わざわざ作ってくれたのです。作ってくださっている間、お嬢さんと「しりとりゲーム」をして、一緒にテーブルを囲んで食べたのです。ほんとうに美味しかったのです。

 私たちの生き方を見て、慕ってくださるのです。そんな方がいて、今を過ごしています。「出会い」って、不思議な、いえ奇跡的な出来事、人生の重要な Epoch ではないでしょうか。華南の街にの大きな住宅群の7階に住んでいました時に、門から出てきたご婦人が、所用から帰って来て入ろうとしていた私たちと行き合ったのです。すれ違い様に、『好夫婦haofuqi!』と声をかけて通り過ぎて行きました。仲良しな夫婦に見えたのでしょうか、「ピッタリ合ってる良い夫婦」と言った意味なのでしょうか。そのことばが忘られません。

(“いらすとや” の「夫婦」,「山」です)

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