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『イエスがオリーブ山ですわっておられると、弟子たちが、ひそかにみもとに来て言った。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」 そこで、イエスは彼らに答えて言われた。「人に惑わされないように気をつけなさい。 わたしの名を名のる者が大ぜい現れ、『私こそキリストだ』と言って、多くの人を惑わすでしょう。 また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。 そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。 また、そのときは、人々が大ぜいつまずき、互いに裏切り、憎み合います。 また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。 不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。 しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。 この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます。(マタイ24章3~14節)』
16日の夕刻、突然、突き上げるような響きが、建物にありました。埼玉県加須(かぞ)市を震源地とする、震度5弱の地震でした。ここ栃木でも震度4で、すぐに東日本大震災が起きた、2011年3月1日14:46の時、長男の家の二階にいたのを思い出したのです。家内の胆嚢摘出手術で待機していた時でした。家を出て近くのスーパーの駐車場に出ました。まだ電柱の電線が左右に揺れていたのです。
地震が起こると、『準、玄関を開けろ!」と、父に言われて、そうしたのです。関東大震災の経験者だった父は、退路を確保ししければならないとの教訓を学んでいたので、そう咄嗟に言ったのです。中国にいた時も、知人の七階の家で、招かれたテーブルについて食事をいただいている時に大きく揺れる地震を経験したのです。ここでも、茨城南部を震源とする地震に、たびたび揺すられ、突き上げられています。
楽しく美味しい夕餉の食事を摂っている時、ホッとしていた時に、突如として平安を打ち破るような地震でした。何度揺すぶられてきたことでしょうか、「方々に・・・地震が起こ」るのだと、イエスさまはおっしゃいました。『平和だ、平和だ!』と言っている時に、戦争が起こり、飢饉も地震も起こるのです。民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」と、一連の出来事が起こると、警告されたのです。
日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦、第二次世界大戦が起こり、今もウクライナロシア戦争、イスラエル対イラン戦争があり、有史以来、因縁の民族紛争は現実として絶えません。そればかりではありません。人と人、家と家、集団と集団の紛争、抗争は枚挙に暇(いとま)がありません。不和や争いは避け難い現実でもあります。イスラエルの主は、「平和の神」でいらっしゃいます。
『ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。(イザヤ9章6節)』
ところが、「平和の君」でいらっしゃるイエスさまは、
『わたしが来たのは地に平和をもたらすためだと思ってはなりません。わたしは、平和をもたらすために来たのではなく、剣をもたらすために来たのです。(マタイ10章34節)』
いやー、そんなことを、『地には平和、御心にかなう人にあれ(ルカ2:14)』と言われたイエスさまは、矛盾で、混乱させるために、そんなことを言ったのでしょうか。「剣をおさめさせた」のに、ペテロは剣を持っていましたし、それ自体がおかしいのに、それを鞘から抜いて、大祭司の僕の耳を切り落としてしまうのです(ヨハネ18:10)。それを見たイエスさまは、「剣をさやに収めなさい。」と言いました。
それなのに、『「しかし、今は、財布のある者は財布を持ち、同じく袋を持ち、剣のない者は着物を売って剣を買いなさい。(ルカ22:36)』と仰られています。若い頃、剣ではなく、「拳」を、巻藁で鍛えたことがあります。喧嘩が強くなるためではなく、面白半分でしたが、それは、殺意に繋がりそうで、怖くなってやめました。まさに、これは、「剣をおさめること」であり、金属の剣ではなく、誘惑や攻撃を退ける心の防備のための武具を着けるように言っているのではないでしょうか。
世の動きを見るに、「終末」の様相を呈している時代と言えるでしょうか。あらゆる「欺きや反逆」が起こっているではありませんか。『えっ、そんなことを説教するの?』、「偽預言者」、おかしな非正統な聖書解釈をする牧師や教師が、世界中で輩出しているそうです。一昨日の地震を経験したら、心を急に突き上げるような、そんな思いが強くされてしまったのです。主のおっしゃるような時の到来なのでしょう。心して、慌てず、「聖書」に記されている主のみ声に、耳を傾けていかなければならなさそうです。
ところが、ある説教者が、やがて世界中の宗教が、エキュメニカル運動によって一つにされる、と言っていました。聖書を誤りなき神のことばと信じる人たちは、もう政治的な発言や社会改革の主張をしなくなる。そして聖書を固く信じ、聖霊なる神さまに導かれ、聖霊に満たされていく。世界の宗教は、そんな風に、二分されていくかも知れない、とです。
昨晩、こんな讃美歌が口を突いて出てきました。
千歳の岩よ わが身を囲め
さかれし脇の 血しおと水に
罪もけがれも 洗いきよめよ
もゆる心も たぎつ涙も
罪をあがなう 力はあらず
わびしき我を 憐れみたまえ
み救いなくば 生くる術なし
知らぬ陰府(よみ)にも 審きの日にも
千歳の岩よ わが身を囲め
はるか昔の聖徒たちが口ずさんだ讃歌です。年経た盤石の信仰を生きたみなさんに倣って、この時代を生きていきたいな、と思う今宵です。主に栄光あれ!
(”いらすとや“の苔むす巌、日本刀です)
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