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一週五日ほど、朝4時起きで支度をして、まだ薄暗い中、家を出て、うずま公園の園内を横切って、巴波川の側道を、その流れの上流に向かって歩き始めて、散歩をしています。陽が昇り始めますと、川面が、その光を受けて金波銀波を見せてくれるのです。川の静かな流れを眺めていて、「方丈記」を思い出してしまいました。
「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。お玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。」
高校の「古文」の時間に、習い覚えた、冒頭の部分、「行く川のながれ」が、思いの中に蘇ってくるのです。長明は、下加茂神社(通称は下鴨神社です)の禰宜(ねぎ)の職にあった、お父さんの次男でした。この職は、宮司の一階級下の職であったのです。父の死後、その職を継ごうとし、後継争いの末に、その職に就くことができませんでした。
当時、和歌を学んでいたことで、和歌所寄人に任命されます。しばらくして、下鴨神社の系列の神社の要職に推挙されるのですが、またもや後継争いに負けてしまうのです。神職の道が閉ざされてしまった長明は、出家するのです。東山、大原、伏見の寺などを経て、和歌で生きていく機会が、鎌倉に開くのですが、結局、これにもなれずに終わった様です。
どうも挫折の連続で、思う様に生きていく道が閉ざされてしまい、伏見の醍醐に庵を設けて、閑居生活をしたのです。ところが、「方丈記」を、そこでえ書き残すことによって、昭和の高校生の私は、後にS女子大学教授になる先生から、「古文」の時間に、それを学ぶことができたのです。長明は、あの時代、昭和の世まで名を残す人物だったことになります。
日本の随筆の中でも、最も有名で、価値あのあるなものの一つに数えられるのが、この「方丈記」です。不遇な人生を生きてきた長命が、四十歳になってから、越し方を思い返して綴ったわけです。宮司にも、禰宜にも任じられることがなかった長命が、京間で四畳半ほどの面積の庵、それを「方丈」と呼んだのですが、そこに起居して、思いを書き残したのです。
人生の無情を知らされるのは、夢や野心に燃える高校生の私には、ピンとこなかったのを思い出します。もっとバラ色で、冒険心を満足させ、前途洋々たる自分の人生を、形を変えて、流れに身を任す水の様に、移り変り、どうにでも形を変えて流れ下る姿を見せる水や、「うたかた(泡沫)」の様に、水中から上ってきて、パッと破裂してしまう様な水泡とは考えたくなかったのです。
信長が、「人間五十年」と、敦盛を舞い唄って果てていった様に、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢。」と辞世の句に詠んだ秀吉の様に、「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾ちせ耐へて今日の初霜」と、辞世の句を詠んで、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で、自刃して果てた三島由紀夫も、やはりみなさんは、儚い一生を閉じたのです。
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二千年ほど前のこと、エルサレムの宮に両親に抱かれて、やって来て、幼子のイエスさまは、誕生後、40日ほど経過した時に、主にささげられるために、両親に連れられて、エルサレムの宮に入って来たのです。その様子を宮で見ていたのがシメオンでした。
「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。(新改訳聖書 ルカ2章25節)」と聖書が記す人でした。
シメオンは、「・・主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた(ルカ2章26節)」人物だったたのです。この彼が、エルサレムの宮で、幼な子イエスさまを抱いて、こう言いました。
『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。(ルカ2章29~32節)』
生涯の最後に、キリストでいらっしゃるイエスさま、マリヤの胎に、聖霊によって孕られ、生まれたばかりの神の子を見たのです。そう聖霊の示しを受けていたシメオンは、召される前のキリストとの出会いを感謝しつつそう言い残したのです。
救い主なるイエスさまを、幼いままの嬰児子を、「キリスト」と看破できたのは驚くべき信仰でした。それよりも、神さまが、その様に導かれたからです。果たして、私たちは、まだ生後40日ほどの赤子を、「キリスト」と認め、礼拝することができるでしょうか。その様にして、シメオンは、自分の一生を終えるのです。
天下人となった、秀吉でさえ、悶々として、一生を悔いながら、自分の築き上げた天下を、任し切れない子に託して、死んでいったのです。泡沫の様な一生を終えたです。私は、単純な信仰を、母から継承し、牧師さんや宣教師のみなさんに導かれて、「福音」を、「十字架」を、「赦し」を信じて、定められた一生を終われると確信しているのです。ただ、憐れみと恩寵によります。
巴波川の流れ下る水に流れを目にして、人生の流転は夢幻のことでも、泡沫でもなく、《赦された一生》と感謝して死んでいきたいのです。いえ、再臨のキリストをお迎えして、携挙されたい願いで、心が満ちているのです。
(早暁の巴波川の流れ、ウイキペディアの「エルサレム」です)
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