『新潟県境の福島に出かけて、魚を釣ったので、お裾分けしたいのです!』と言うことで、先日の夕方に、お電話を頂きました。これから持っていくのでと、お持ちくださったのです。清流も、最も上流に棲む、「岩魚(いわな)」を、綺麗に調理済みで、5尾も頂いたのです。
大学を出て、先輩に誘われて、22歳から始めて、釣りが趣味になったのだそうです。60数年の釣り歴があるのだそうです。草藪の中を分け入り、岩場の川の上流を歩いて、釣りのポイントを見つけて、糸を垂れるのだと、言っておられました。
かく言う私も、学校を出て、勤め始めた職場の同僚の方の誘いで、神奈川県北部から山梨県にかけて流れる桂川などに、週末のまだ明けやらぬ頃合いに出かけたのです。岩場を、トントンと移動していた時に、その岩から滑り落ちて、ドボンと頭まで深みにハマってしまったのです。秋の口でしたが、枯れ木を歩めて焚き火を焚いてくれて、それで、着物を乾かしてもらったことがありました。
まだ、《深呼吸の原則》がなかった時で、見事濡れネズミになってしまったのです。魚を釣っり上げた記憶もなく、生乾きの服で家に帰ったのを、鮮明に覚えているのです。それ以来、釣りはしていないのです。
そんなことで、今朝は、買い物に出掛けて、葡萄を一房買って、お皿を返すついでに、感謝をしたのです。この方は、明治2年創業の写真店の四代目の当主なのです。初代は、日光東照宮の警護をする武士団の一人で、会津藩士だったそうです。明治の御代になって、家禄を失った武士たちが、第二の人生を見つけるのですが、九代目の会津武士だった曾祖父が、写真術を身につけたのだそうです。
浦賀にペリー艦隊がやって来た時に、随行の写真家が、写真技術を、日本の若者に教えてくれたのだそうです。その若者から写真術を学んだのが、お爺ちゃんで、ここ栃木で独立して開業をした様です。日本写真界の黎明期に習得した技術で、二本差しを投げ捨てて、身を立てたわけです。
戊辰戦争で、徳川方の会津藩は、維新後の明治では、賊軍でしたが、「会津魂」を捨てることなく、文明開化の不遇の世を、生き抜いたのです。明治以降の栃木周辺の街の様子を撮り続けて、その写真の原板を残しておられ、それを見せていただいたり、徳川家から拝領した品々もたくさんおありで、市誌作りにも当たられてこられたようです。
姿の良い岩魚は、釣り上手でないと釣り上げられないほど俊敏なのです。清流の魚で、釣り立てでしたので、塩焼きにして食べたのです。この方が、家内の入院手術をご存知で、『新鮮なのを食べて、はやく恢復されます様に!』と言われて頂いたのです。私たちは、この方とラジオ体操仲間なのです。
人との素敵な出会いがあり、『お茶を飲みにおいでください!』と何度も誘われていたところに、岩魚を頂いたわけです。今は息子さんにお店を任せていて、多くのお弟子さんたちが、この写真館から独立していったそうです。明治、大正、昭和、平成、令和と、地方都市の変遷や各時代の人々を撮り続けてこられた御一家です。
冷凍した分も残してありますので、早い内に頂こうと思っている、酷暑の栃木です。海水魚とは違った味覚で、とくに清流に棲む岩魚や山女は、千金にも値するほど美味なのです。
(ウイキペディアの「ニッコウイワナ」、「只見川」です)
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