明治維新は、日本の近代化への大きな節目だったに違いありません。大政奉還を決定をさざるを得ず、徳川の支配が終わって、遅れていた日本が、近代化していきます。その上で、欧米の技術や思想を、吸収していく必要を感じていました。
1853年に、木造の帆船や手漕ぎ船しか持たない我が国に、蒸気機関を動力にした黒船が浦賀への来航したことが、日本中で知ることになりました。アメリカ政府の意向で、幕府への要求書を手にした海軍提督、ペリーの乗船していた鋼鉄船だったのです。日本の一大変化の起爆剤的な出来事でした。有史以来の突出した大きな出来事でした。
江戸遊学中の河井継之助(長岡藩士)、坂本龍馬(土佐藩脱藩浪士)なども出向いて、黒船を目の当たりにしています。すでにイギリスが、アヘン戦争で、清国に勝利した知らせをうけます。そのアヘンの蔓延の悲惨さを目撃したのが、幕府の派遣で、清国上海を訪ねた長州藩の高杉晋作らからの報告でした。徳川幕府は、次は我が国に、と言った脅威を覚えたのです。
アメリカは、アジア進出を企て、まず日本に開国を突きつけるために、このペリー総督を派遣して、それを迫ったのです。煙を吐く鉄製の軍艦の脅威は、当時の日本にとって尋常ではなかったわけで、十五代将軍の徳川慶喜は、大政奉還を決断し、薩長軍の動きに押し切られていきます。時流の動きには、どんな権力者も逆らえなかったのです。
鎖を解く開国の要求は、霊的な意味でもなされていき、アメリカの長老派のキリスト教会は、宣教師を送り込む準備をしていました。清国の厦門に来ていたヘボンは、日本行きを決心して、一旦自国に戻り、1859年に日本に来ます。神奈川宿の成仏寺をあてがわれます。ヘボンは医療宣教師でしたので、そこに施療院を開き、多くの患者を受け入れて治療を開始します。
その家の世話をする使用人が雇われるのですが、彼は使用人に扮した密偵でした。怪しい行動をとるなら、ヘボンを切り捨てる使命を負っていたのです。どんなに監察しても、ヘボンの生活には怪しい点を見つけられませんでした。それで暇乞いを願い出て、退去するのです。高潔な人格を認めたからでもありました。夫人も英語を教えていましたが、第220代内閣総理大臣となる高橋是清は、少年期に、その英語塾で学んでいます。ヘボン塾は、明治学院の前身です。
明治の文明開化の時流の中で、昨日までは、仏教の宗門改人別帳に代表されるように、禁教であった「キリスト教」が、雪崩のように日本の社会の中に、進入して、多くの若者たちの心を掴んでいきました。孔子や老子や朱子(朱熹)の儒教の教えで育ってきた若者たちが、宣教師や外国人講師との接触の中で、聖書を読み、十字架の福音を信じ、生涯を、その信仰で全うした若者たちが、多く出ました。
函館から密航を企てて外国船の乗り込み、そこにあった漢訳聖書の巻頭言『起起初神创造天地。』を読んで、『神がいるとしたら、このお方こそが神だ!』と思い始めた新島襄。キリスト信仰をみち、京都に同志社を創設しました。アメリカ人教頭のクラークと出会った札幌農学校の上級生たちに導かれた内村鑑三。村や街に祀られている神社の鳥居の前に来ると、拝礼を欠かさなかった人だったそうですが、官の道を閉ざされ、キリスト伝道の生涯を以後送るのです。
内村の同窓で生涯の友となった新渡戸稲造。すぐに怒って喧嘩になり殴りかかる「アクティブ」と仇名された少年が、「モンク(修道士)」と呼ばれるほどの人に変えられます。漂流して外国船に救助されて、アメリカの社会の中で教育を受けた、元漁民のジョン万次郎。岩倉具視の使節団が渡米した折に、呼ばれて通詞として活躍したのです。
同じように暴風雨で難船にあって、太平洋を漂流し、アメリカに漂着した、尾張国小野浦の水夫の音吉(美浜出身)、岩吉、久吉ら3人は、中国のマカオでギュツラフの助けをして、「カシコキモノゴザル」と福音書の翻訳に協力をします。聖書の翻訳者でした。オトソンと名乗ってシンガポールで亡くなります。
横浜にやって来た医師ヘボンや宣教師のバラやブラウンに導かれ、明治学院の総理となった、会津武士の井深梶之助、第二十代総理大臣になる高橋是清などなど、明治期には、新しい精神性を培われた人たちがいました。信仰復興(リバイバル)をした時代でもあったのです。
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女性たちの中にも、同志社を建て上げた新島襄夫人となる山本八重。会津藩鉄砲組頭の父の影響で、戊辰戦争で若松城に立て込もって、官軍に対して鉄砲を手に戦ったのです。女子教育を担った津田梅子、幕臣で新潟奉行として仕え、幕府の英語通辞となった津田仙の娘で、6才で選ばれてアメリカに官費留学をし、日本語を忘れてしまうほど、11年間、英語と聖書を学びます。帰国後は女子の意識向上や社会的進出を願って教育事業で、津田塾大学を興し、女子教育に生涯を捧げます。
その桜井女学校附属看護婦養成所の一期生として学び、日本最初の看護婦となり、看護婦の養成に尽力した大関和(ちか)。黒羽藩の家老の娘として生まれ、領内を馬で疾走するほどの活発な娘だったそうで、縁あって結婚しますが、夫の不貞に三行半を投げつけて、二人の娘を親に預けて東京に出て学びます。植村正久牧師と出会ってクリスチャンとなるのです。1887年にバプテスマ(受洗)を受けます。『俺病む人に寄り添うことは、神の愛を人の世に示すことです。』という信仰が、和の看護の精神的な土台だったようです。
大関和の同級生の鈴木雅。静岡の出身で、陸軍士官の夫と死別をして、二人の子どもを養育しながら、看護婦となります。「フェリス・セミナリー(今のフェリス女学院)」で学び、英語が堪能だったようで、キリスト信仰をもって生きた女性でした。
廃娼運動をした八島楫子。結婚生活で苦しみ、酒乱の夫と離婚をへて、苦労して39歳で熊本から上京し、1878年に教員となります。『女性は職業を持って自立すべき!』と言う考えをもって生きます。千代田区一番町にある女子学院の初代院長に就任し、キリスト教婦人矯風会をも設立した人でもありました。
さらに広瀬梅がいました。「女三界に家なし」と言われてきた女性が、福音に触れて、教育や医療の面で社会的な活躍をしたのは驚きです。これまで、就学前の肺炎での入院、中耳炎、インフルエンザ罹患、肋骨骨折、鍵盤断裂の縫合手術、鼓膜再生手術、ヘルニア手術、静脈瘤手術、脳梗塞、心房細動、半月板手術(予定)と言った病歴があります。医師や看護師の働き、によって、生きてこられたと言えます。そのことに感謝でいっぱいの私です。
(ウイキペディアの黒船来航、明治の女子留学生、
右から二人目が大関和です)
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