断固反対の論

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 梅雨を忘れるほど猛暑の続く中、一昨日、雷が轟き、稲妻が走り、強烈な雨が、家の前にある駐車場のコンクリートを叩きつけていました。強い風が吹いたかと思うと、ベランダの紫陽花の鉢を横倒しにしていました。

 私たちの県の県都は、「雷都(らいと)」と呼ばれるほどに、雷の名所なので、この街も雷が、よく立ち騒ぐのです。私は、雷が好きで、これほど躍動的な自然現象はないと感じ、雷光、雷鳴、雷雨の三点セットがそろうと、ベランダに出て、光と音と雨を眺めてしまうのです。

 気分が晴れないことは、そう多くはないのですが、あれだけのエネルギーを解き放つ夏の風物詩は、他に見られません。父の家の庭に、手ぬぐいと石鹸を手にして出て、裸で雷雨を浴び、濡れタオルに石鹸をつけて、水浴をしたことがありました。あんなシャワーは一回きりのことでしたが、あんなに爽快な経験はありませんでした。

 ところが、窓の上部の空きガラスから、こちらわ見ている隣家のおばさんと妹さんと、目が合ってしまったのです。這々の体(ほうほうのてい)で家に駆け込んでしまいました。きっと呆れ返って、若者の可笑(おか)しな衝動を眺めていたのでしょう。それから道で会うたびに、ニヤニヤされてしまいました。

 それでもあんなにサッパリしたシャワーは、あれ以来ありません。どんな大人になるのだろうと、呆れられたに違いありません。父の家を出るまで、バツが悪かったのです。あれ以来したことはありませんが、雷がなると、あの時のことが思い出されてしまうのです。

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 北原白秋が作詞し、中山晋平が作曲した、「あめふり」がありました。

あめあめ ふれふれ かあさんが
じゃのめで おむかえ うれしいな
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かけましょ かばんを かあさんの
あとから ゆこゆこ かねがなる
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

あらあら あのこは ずぶぬれだ
やなぎの ねかたで ないている
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

かあさん ぼくのを かしましょか
きみきみ このかさ さしたまえ
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

ぼくなら いいんだ かあさんの
おおきな じゃのめに はいってく
ピッチピッチ チャップチャップ
ランランラン

 この蛇の目の傘さし、下駄履き、雨中の登下校、みんな小学生の自分の経験のようです。傘なしで家に帰り着いたことが、子どもの頃にあり、風邪を引かすまいと、母が、着替えさせ、体を拭いてくれたこともありました。これは遠い日の懐かしい思い出で、健在だった頃の母を思い出させられるのです。

 破れ番傘を弟と差して登校していた級友がいました。しばらくしたら、雨が降ると学校に来なくなったのです。傘が使えなくなったからでした。破れ屋に住んでいた彼を訪ねた記憶があります。お父さんはいなかったと思います。今年は、「戦後80年」だそうで、どの学校、どの学年、どのクラスにも、お父さんのいない級友が、何人もいたのです。お父さんを戦争で亡くし、母子家庭だったからです。

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 昨日、日本プロ野球界の逸材だった、張本勲のインタビュー番組を見ました。兄たち二人の間の学年の人で、野球を語ったのではなく、「戦争体験」、広島で育っておいでで、5歳の時の「被爆体験」を語っておいででした。

 この方も、お父さんを病気で亡くし、母子家庭で育っていて、爆心地の近くに住んでいたので、お母さんもお姉さんも、「ピカドン (原子爆弾の炸裂をそう言っていました)」に合われて、上のお姉さんは原爆症で亡くなられています。

 爆弾が炸裂した時、お母さんは覆うようにして、5歳の自分を庇ってくれたそうです。お母さんの背中は真っ赤に、ガラスの破片で怪我をして、血が流れていたそうです。それで九死に一生を得た自分を語っておいででした。

 水泳好きだった勲少年は、広島球場で、巨人軍の川上哲治一塁手に出会って、宿舎で「牛ステーキ」を食べている姿を見たのだそうです。ひもじく貧しかった張本少年は、うまい物の食べられる野球選手になろうと決めたのです。生涯、3085本の安打の日本記録を残し、打率は3.19の好記録を残しています。最強の野球人です。

 被爆者の悲哀を覚えながら生きて来ましたが、60歳で、一人の少女からの手紙を読んで、被爆者の「語り部(かたりべ)」となる決心をしたのだそうです、それ以来、どこででも、その辛い経験を語り、原爆の製造と使用とに、断固反対の論を語り続けておいでです。

 同世代の私の兄は、山の中の家から、遠い街の上空が、アメリカ軍のB29爆撃機に投下した焼夷弾で、真っ赤に染まっていたと話してくれました。その街も、原爆投下の候補地だったようです。降って良い天来の恵みの雨があり、降らせていけない爆弾があります。

 今も地球上に、戦火が上がっています。聖書に、

『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。(新改訳聖書 マタイ24章6節)』

とあります。人類は戦争を繰り返してきた忌まわしい歴史を忘れないで、どんな理由があっても、戦争を忌み嫌い、断固反対しなければなりません。正しいことを決断実行し、人を不幸にすることを唾棄(だき)すべきです。救い主は、「平和の君」でいらっしゃるからです。

(ウイキペディアの「雷のイラスト」、「和傘」、「原爆資料館の内部展示写真」です)

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舞い飛ぶホタルを追った日が

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 次男が小学生の低学年の頃に、山梨県都留市にある都留文科大学の先生が引率してくれて、「ホタル見学会」に出かけたことがありました。食事も用意されていて、夕闇のとばりが降り始める頃から、桂川の支流だったでしょうか、そこを列をなして歩き始めたのです。

 そこは、源氏ボタルの生息地で、お尻の部分で幻想的な光を点滅させて放つ様子を眺めたのです。発光が強く弱く、点いたり消えかけたりを繰り返していたでしょうか。彼は、目をマンマルくしながら、嬉々としてホタルを追っていた姿が昨日のようです。

 それは、初夏の風物詩であって、自分の幼い日に、家の前の小川の上を飛び交う、ホタルを眺めたり、捕まえて、蚊帳(かや)の中に放ったりしながら、過ごした記憶があります。

🎶 ほ ほ ほたるこい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ
ほ ほ ほたるこい ♫

 ふるさとは、父や母や兄や弟がいた懐かしい空間で、過ぎた時の出会いや別れや、喜びや悲しみなどが思い出されて、胸がキュンとさせられてしまう世界です。どなたにもおありでしょうね。二度と帰ってくることのない出来事だからこそ、強烈な印象が残されているのかも知れません。

 五月の節句には、父が鯉幟(こいにぼり)を、庭に立てた棒の先に上げてくれたことがありました。健やかに育つように、日本の親がし続けて来た風習を、父もしてくれたのです。母の故郷から、おばあちゃんが米粉で作って、笹の棒を刺し、笹の葉でくるんだ、粽(ちまき)を、毎年送ってくれました。その荷を解いて、母が蒸してくれて、笹の葉の匂いのする粽に、砂糖醤油をつけて頬張ったのです。

 秋になると、兄たちに後を追いかけて、山の中をかき分けて入って行って、アケビを採ったのです。家に帰って、米櫃(こめびつ)に入れて、追熟をして食べたことがありました。かすかに甘い味がして、あの味も匂いも思い出されてきます。

 家の前に小川があり、大きな岩陰のヤマメでしょうか、ハヤでしょうか、魚を追いかけている兄たちの後を、真似して、ついて行ったこともありました。ホタルが飛んでいたに違いがありませんが、その時の記憶は残っていません。

 都留の桂川の支流で、次男が採ったホタルを、『中野先生に見せてあげたい!』と言って、二人で見せに行ったのです。先生がことのほか喜んでいた顔も思い出されます。次女を担任した先生でもあったのです。

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♫ あゝだれにも ふるさとがある ふるさとがある 🎶

 今朝、このひとつのフレーズが、唇をついて出てきてしまいます。「原風景」は、記憶の中にあるのです。術後の母親の世話をと、やって来てくれた次女と、昔話をしていて、いろいろなことを思い出させられているところです。

 「箴言」の子への戒めのみことばに従って、ピンピン(spank)されたこと、葦簀(よしず)を姉と二人で買って担いで帰って来たことなどなど、兄や弟とのことなど、思い出話に花が咲くと言った時だったでしょうか。子どもたちとの時間が懐かしく思い出されます。

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 そして家庭主婦となって二十数年、夫と二人の子を残して、次女が時間をさいて来てくれたのです。カナダに車で友人と出掛けている娘、二学年を終えて寮から家に帰って来ている長男が、父親と留守をしている今なのです。chatやface timeで、残してきた家族とのやりとりが頻繁になり始めています。一昨晩は、叔母と叔父に電話をしていました。明日には、帰っていきます。

 今日は、彼女の知人が3人で遊びに来るそうで、カレーを作って歓迎のランチにするようです。茜空が綺麗な今日も酷暑の朝です。でも早朝は、窓を開けると、涼しい風が入り込んできます。そろそろ街が動き出す頃でしょうか。

(ウイキペディアの舞い飛ぶ「ホタル」、adobe stock の「アケビ」、撮り立ての今朝の「茜空」です)

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おっかさん

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 母の物入れが、押入れの行李(こうり)の中にあったように覚えています。そこに桐の小箱があって、自分の名前が記してあって、何か黒ずんだ物が、木箱の中に入っていました。何と「臍の緒(へのそのお)」でした。

 私たちの子どもたちにも、同じように、町の助産所から退院する折りに頂いて家にあったと思いますが、引っ越しを繰り返す間に、どこかに行ってしまったようです。自分の母親から出て、お母さんから離れて、独り生きていく記念として、大事にされれるべきものでしたが、わが家は不注意でした。

 何かの初めての経験をする時に、『臍の緒を切って初の・・・!』と言う言い方をよく聞きました。一人歩きができるようになることの大切さを、だれもが感じるのでしょうか。

母が、小さくなっていくのにつれて、子が大きくなっていくのは、親としては寂しさを感じたことを思い出します。

 一度だけ、通院の折に、車から、ちっと距離があった時に、母をおぶったことが、行き帰り二度ありました。軽かったのです。あの頃自分は、80kgくらいありましたが、母は40〜45kgしかなかったのではないでしょうか。あれから、30年も生きて、少女期に得た信仰を全うして、創造者のもとに帰って行きました。

小さな母が生きた時代は、大正期の中頃に、山陰の出雲で生まれ育ち、小学校を出て、グンゼで働き、父の事務所で事務職をし、父の嫁になったのです。父の子を4人産んで、戦時時下を忍び、戦後の物不足にヤンチャな男の子育てに明け暮れたのです。大怪我をし、子宮がんを患いを克服し、95年の一生でした。

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 何度も、人に[マザコン]と言われたことが、自分にありましたし、善意と好感とで[お母さんっ子]とも言われました。小さい時に、悲しそうにしていた母を、心配して声をかけた時に、『✴︎✴︎ちゃんは!』と言って、『娘だったらよかったのに!』と言ってくれました。4人の男の子の母親で、寂しかったこともあったのでしょうね。

 上の3人は、戦争中の生まれですから、3人も国を守り兵隊さんになれる子を産んだのだと、「皇国の母」で、表彰されたのでしょうけど、母は戦争は嫌いで、「平和の君(イザヤ9章6節)」である、救い主と出会って、キリスト者となって「平和主義者」だったのです。

 父と出会う前に、広島の江田島にあった海軍兵学校に入学した、凛々しい学生が、自分の「おっかさん(江戸時代の母への呼びかけだったようです)」は好きだったそうで、秘蔵ののアルバムに写真を残していたのです。戦時下の乙女の憧れは、兵学校の学生だったのでしょう。そんな青年期のことを話してくれた日がありました。「母恋し」、歳を重ねた私の思いです。

(ウイキペディアの「大正期の女学生」、〈いらすとや〉の母親です)

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旅、これも望郷なのでしょうか

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 もう何年も、飛行機や新幹線に乗っていないのです。3ヶ月に一度、中国新幹線の「和階 hé xié(”Harmony ”を意味して車体に印字されてあります)」に乗車して、厦門(アモイ)で下車して、台湾領の金門島に行く船に乗船したのです。それはビサの滞在期限3ヶ月の更新で、出国入国を繰り返していました。ドイツと日本との技術提携で始まった中国の高速鉄道でしたが、けっこう乗り心地は良かったのです。

 家内の両親や兄姉妹が、海外にいたことや、友人で牧師さんのご好意で、子どもたちがアメリカで学ぶ機会が与えられて、よく飛行機に搭乗したのです。それまで、初めての飛行機の利用は、最初の就職先の出張で、福岡に行った時に、そこの事務局の方が、飛行機のチケットを買ってくれて、板付空港(現在の福岡空港です)から羽田空港まででした。それまで見上げて眺めていただけの飛行機に乗れたのです。

 母の故郷に、兄弟四人で出かけた時には、東京駅から東海道線、福知山駅から山陰線に乗り換えて出雲市駅まで、鈍行列車の旅をした覚えがあります。初めての長距離旅行でした。狭い客車にすし詰めで、トイレは遠いし、食事は、停車駅ごとの駅弁でした。飲み物は、ペットボトルなどなかった時代、土瓶入れのお茶だったのです。母一人で、四人の男の子の世話をしてくれた大変な旅でした。

 これまで一番の長旅は、成田からカナダのトロント、トロントからフロリダ、フロリダからブラジルのサンパウロ、サンパウロからアルゼンチンのブエノスアイレスへの航空機乗り継ぎの旅でした。34時間ほどの旅程で、あんなに疲れた、空の旅はありませんでした。ほぼ地球の裏側まで出かけて、アルゼンチン版のガウチョ(カウボーイのことです)の草原の食べ物、薪の直火焼きの牛ステーキを食べに行ったのです。

 でも、他の参加者にほとんどを食べられてしまって、ほんの一切れの肉片だけが、私には残されていて、それしか食べられませんでした。みんなガウチョ化して食べていて、ちょっと遅れて、火と肉の周りに行きましたら、わずかな残り物だけで、それを一口食べただけだったのです。参加者は、名だたる日本の牧師さんたちだったのに、みなさんの全くの無作法に残念な目にあってしまったのです。

 その旅は、世界で名を馳せた教会形成に成功しているブエノスアイレスの教会でのセミナーに参加した時でした。みなさんは牧師さんたちでした。延々とパンパ平原を西にバスでの長旅をしたのも大変でした。日本の魂の救いのために祈っていてくださる教会があって、その教会への表敬を込めた訪問でした。

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 実は、私は、17歳の時に、アルゼンチン移民を考えていたのですが、それを果たせずにいたので、この機会を得て、アルゼンチンへの果たせなかった夢を思い出すのが、第一の目的だったのです。また南十字星を見たかったですし、赤道を越えてみたかった私としては、胸を躍らせるような旅だったわけです。もし、あの十七の夢が実行されていたら、この自分が、どんな生活を、ブエノスアイレスで送っていたかを思ってみて、一入の思いがあったのです。

 義兄は、十八で、ブラジルに、移民していましたので、彼を訪ねたい願いもあって、旅の一行から離れて、一人サンパウロを訪ねたのです。空港に迎えに来てくれた義兄の車で、サンパウロから1時間ほどの彼の街に行きました。大歓迎をしてくださったのです。

 同世代の移民の子で、和歌山からお母さんと子どもさんたちで移民船に乗ってやって来られた方がおいででした。義兄の親友で、リンゴ園を経営し、大きな貯蔵所を持っていて、収穫したフジ種のりんごを貯蔵し、時期を見て出荷するような大きな規模で会社を経営しておいでの方でした。この方が、フジのリンゴを一箱届けてくださったのです。母子家庭の子だったそうですが、辛苦の末、農業移民の成功者となったお一人でした。

 移民でやって来た初期に、故郷が恋しくてホームシックにかかって、自死してしまった仲間を、土を掘って墓を作り、葬った経験などを、義兄が話してくれたのです。移民秘話は多くあるようでした。青空マーケットに、義兄の奥さんが、連れて行ってくれたことがありました。そこに移民1世の日本人のお婆さんが、ご家族と一緒に来ておいででした。あんなにさびしそうにしていた姿を見て、一代目の移民のご苦労を見てしまったようです。

 サンパウロの地下鉄の日本人街のリベルターデ駅前の石のベンチに、日本人からの移民の年配者の方が、黙って座っていました。それもまた寂しそうにしておられ、ポルトガル語を覚える余裕のなかったご自分の世代と、お孫さんたちの世代との隔絶があるのだと、義兄に聞きました。ご苦労の連続の日々だったのでしょう。それは、アルゼンチンも同じで、移民でたどり着いた港は、うら寂れていて、哀愁が漂っていました。

 そこに、イタリヤやスペインからやって来た初期開拓者たちが港の外をを眺め、はるか大西洋の彼方の故国を懐かしんで、やってくる場所の一つなのだと聞きました。ハワイもオレゴンもカルフォルニアも、同じ日本移民の地なので、そんな歴史を残しているのでしょうか。

 今は、生まれ故郷や育ったま街から、けっこう離れて住んでいますので、七年目の街でありながら、時々故郷を思い出し、兄たちと過ごした時期を懐かしんでしまうのです。歳をとるとは、そういうことなのだと思うこの頃です。誰にもある故郷を、遠くに思うのです。これも望郷なのでしょうか。

(ウイキペディアの「南米移民募集ポスター」、ブエノスアイレスの「ラ・ボカ・
港」です)

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Trail

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 「トレイル(Trail)」ということばは、引き摺った跡、通った路、痕跡、舟跡、航跡、けもの道、手がかり、踏みならされた路、小道、流星の尾といった意味があります。

 ある高校や大学には、ワンダーホーゲル部というクラブがあって、登山部とは一線を画して、急峻で有名な山を登頂するのではなく、ただ山歩きをする活動をしていたのです。ドイツ語で、Wandervogel と言って、自分の国を歩いて知るという目的で、若い人だけではなく、多くのドイツ人が、国中を歩くのです。

 ワンゲルの一種でいいのでしょうか、時には一万歩近く歩く日があっての「散歩」が、私にはあります。歳をとると、時間ができるのとは反対に、体力が落ちてきたり、病気がちで運動不足になるので、健康維持法の一つとして、この散歩を励行しているのです。

 朝の仕事を終えると、小物入れを肩にかけて、四つの散歩コースを、その日の気分で選んで、歩き出すのです。足の向くまま気の向くままの散歩の日もありますが、散歩コースの脇に咲く花が綺麗で、春先が一番楽しいかも知れません。
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 立ち止まって、スマホをかざして、その花々を撮るのです。もうスマホはいっぱいになって、編集をしないとパンクしそうです。先週末は、紫陽花を観ようと、その訪問中の次女の運転で家を出て、この地の名所の大平山に、朝早めに出掛けたのです。雨も降っていたのですが、車から降りて、坂道を少し登っての花見でした。

 次に車に戻って、山道を登る側道に、やはり紫陽花が咲いていて、それを眺めながら、上杉謙信が、大中寺の会議の途中に立ち寄った箇所として有名な、「謙信平」を通り過ぎたのです。たぶん謙信は馬上からだったのでしょうが、私たちは、車中から眺めたのです。冬場に晴れればフジが眺められるので有名な名所です。

 そこから、娘の提案で、足利に行くことになり、フラワーパークに向かったのです。開園時間の間もない頃に到着しましたら、チケット売り場に人が、もう並んでいました。ちょうど「県民の日」とかで、入場料のサーヴィス・デイだったのです。県民を証明するものを提示するように言われたのですが、家内だけ保炎証をもっていてパスしたのですが、娘と私は持っていませんでした。

 娘の交渉とチケット娘さんの裁量で、私は、住所を暗唱し、娘はパスポートでOKで、無料で入場できたのです。噂に聞いていただけで、初入場で、大いに花を楽しむことができたのです。貧乏性で、入場料が高いと思って敬遠していたのに、こんな機会が与えられて小雨の中、さまざまに咲く園内を散策しながら、楽しんだのです。こんなに心を躍動させるなら、もっと早く訪ねたかったなと思うほどでした。
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 猿回しの二人芝居、一匹と一人でしたが、初めて見ることもできました。娘は、虐待の匂いがして、かわいそうに猿を眺めていましたが、猿に似た私は、猿の悲しい境遇を感じはしたのですが、エンターテナーとして、ごほうびのおやつで踊る一生懸命さに、拍手を送って上げたのです。猿でなくてよかったなと思いまいました。

 お昼には、婿殿の奢りということで、娘が、ご当地で、ちょっと高級人気店の食堂で、ご馳走をしてくれたのです。リストに名前を記入して、呼ばれるのを待つ間、お腹が『グー!』と鳴っていたでしょうか、美味しくいただくことができました。

 例幣使街道の近くを辿っ「よきTrail」の一日を楽しむことができました。やっぱり車での移動はいいものでした。娘と娘婿にいっぱいの感謝の目とお腹に美味しかった一日でした。

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人の心は水のように流れる

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 「syndrome/シンドローム」と言う言葉があります。日本語には、「症候群」と訳されていて、ずいぶん前から、少々、流行語にように、今起きている心理的な、また病的な傾向を言い表すのに、よく使われてきています。

 子育てを終えて、巣立っていく子どもたちを送り出してしまって、急に家の中が隙間だらけになって、残された家が、「空の巣」になってしまって、その現実についていけない両親に見られる、不安な心理状態を、「空の巣症候群」と言うようです。

 面白いのは、「ピーターパン症候群」があります。アメリカの心理学者のダン・カイリーが、そう言い始めて、1983年に、その題の本を表しました。ピーターパンは、人として、未成熟さを持っていて、大人になりきれないのです。子どものままに、自己中心的で、責任をとらない、反抗的、怒りやすいと言った特徴を持っています。社会的に未成熟で、社会の一員として生きれないのです。そんな人をそう言ったのです。男性だけに見られると言われ、それに対して女性は、「シンデレラ」を登場させています。

 最近、「ストックホルム症候群(Stockholm Syndrome)」と言う心理的な症状を言うことがあるようです。犯罪や虐待にあった被害者のみなさんが、危害を加えてた相手に対して、憎んだり恨んだりするのが普通でした。ところが反感ではなく、強い「親近感」を感じてしまう人たちがいることを指摘しています。

 誘拐事件にあったり、DVの被害を受けた人が、その加害者に対して、一緒に時を過ごしている間に、憎しみとは反対の感情が生まれてくることがあるのだそうです。人間の心理とは不思議なものなのです。まったく反対の感情が、心の中に湧き上がってくるのです。

 もう50年も前、1970年昭和45年)3月31日に、飛行機をハイジャックした事件がありました。羽田空港から福岡の板付空港に向かった、日航機の「ヨド号ハイジャック事件」と呼ばれています。犯人は、学生たちで、赤軍派と呼ばれた9人でした。大事件として新聞やテレビの報道を賑やかせたので、よく覚えています。

 日本の公安警察が、航空機を北朝鮮ではなく、韓国のソウルの飛行場に着陸させて、北朝鮮だと言って騙そうとしたのですが、犯人に、北朝鮮では内地見破られた一幕があったりで、うまくいきませんでした。けっきょく、山村政務次官が、人質となっていた乗客122人の解放のために、ソウルの金浦空港で解放のために交渉し、自ら人質になって、ピョンヤン空港に連れて行かれ、一躍人気を博したのです。

 ところが乗客たちに中に、この「ストックホルム症候群」を見せた人たちがいたのです。1970年代に、スウェーデンの首都ストックホルムで、銀行強盗事件が起きた時、犯人たちが人質をとって、銀行内に立て籠ったのです。人質は、犯人の許可がないと、何の行動も取れない状況の中で、犯人は食事を配ってくれたりする間に、好意を感じたり親近感を感じたり、同情したりしたりするようになったのです。その心理状況を、そう言っています。

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 もしかすると、生き延びるために、犯人に協力した人たちもいたようで、ストックホルムの強盗事件では、人質の中には銃をとって加担した人もいたようです。人は、状況によっては、不思議な感情や心理に陥り、不可解な行動に出るのでしょうか。

 犯罪者を犯罪者として見るのではなくなると言ったことが起こりうるのでしょう。人とは摩訶不思議な行動や心理を見せるものなのでしょうか。恐怖心と緊張の中で、通常では考えられない、信じられない行動を取ったり、心理状況に陥るのでしょう。人の心は、水のように低い所に流れていく傾向にありそうです。危険回避のためにでしょうか。

(ウイキペディアの「ストックホルム中央駅」、「湯西川」の流れです)

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栄枯盛衰、今昔の時を

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 わが家にも「野球小僧」が一人いました。スポ少の野球部に入って、いつかはプロの世界での活躍を夢見て、練習に励んでいました。日曜日にも練習、試合があって、『じゃあ礼拝はどうする?』と、牧師の子は悩んだのです。その悩み解消のために、二階の礼拝室で、早朝礼拝をしていました。

 家内と私と長男とで、賛美をし、聖書から話をし、祈って、彼を送り出したのです。それはイエスを愛する少年が、guiltyに感じないで、練習や試合に臨める方法でした。中学3年間、それを守りました。1学年下のピッチャーが、主戦投手になって、スタメンから、長男が外されてしまっていたのです。でも、腐らずに、野球部員であり続けたのです。

 息子の高校進学に際して、『学習塾に行かせてほしい!』と言ったのです。『新聞配達をして、塾費を払うから!』と、新聞少年にもなって、野球もアルバイトも続けたのです。でも受験に際して、アメリカ留学の夢を持った彼は、県立高校や、特待生の枠での推薦が受けられ、私立校のへの誘いを断って、両方とも受験しないでいました。

 結局、ハワイの教会の牧師さんが、『私がお世話しましょう!』と言ってくれて、ハワイのPublic  Hightchool に入学することができたのです。中学での英語の成績はよかったのですが、入学したクラスでは、最初はあチンプンカンプンだったようです。そんな辛い時期に諦めなかったのです。それで卒業時には、優秀生の表彰されたのです。

 それから日本に帰国し、アルバイトをして、秋には、西海岸のCommunity College に入学して2年を終了し、州立大学の三年時に編入学して、そこを卒業したのです。どのような道に進むのかを見守っていましたら、教役者への道に進みたいとの願いで、ホノルルの教会のプログラムで学ぶ道に進み、日本人スタッフとなって、教会の奉仕の道を選んだのです。

 あの野球小僧の夢は果たせませんでしたが、教会の牧師になって今は、東京の教会で奉仕をしております。その息子も、野球小僧でしたが、同じように夢を果たせませんでした。そして今春、大学に進学したのですが、彼も祖父、叔父、父親と白球を追いかけた四代目の野球小僧でしたが、野球の夢をつなげずの今を迎えています。次女の子も、アメリカ版の野球小僧でしたが、大学へのスポーツ推薦を蹴って、自分の学びたい分野に進んでいき、今秋には3年生になります。

 そんな夢を繋げずにいる野球小僧たちにとって、MLBで大活躍している日本人大リーガーたちの活躍を、どう見てるのでしょうか。体格も経験も、見劣りすることなく、かえってアメリカ人やプエルトリコ出身の選手たちを凌ぐような体格で、夢に届いたのです。しかもトップで活躍し、好成績を上げ、注目の街となっている時代が到来しています。

 もう日本野球界で活躍した名選手たちが、老いていき、脚光が向けられなくなっていく中で、活躍の大谷翔平の輝きには、驚かされてしまいます。今や、長嶋茂雄が逝き、張本勲が杖をつき、江夏豊が車椅子に乗って、マウンドの立つ様子を見るにつけ、強者どもの栄光の過去と、この時代の大リーガーたちの活躍の対照に、野球小僧たちは、どんな思いでいるのでしょうか。

 野球ばかりではなく、サッカー界でも、欧州リーグやアメリカンリーグで、しかも男ばかりではなく、女性選手たちの活躍を目にする現代、日本人の劣等感を吹き飛ばす大活躍は、目を見張らせてくれます。

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 戦後の荒廃の中から、精神定的にも、経済的にも、父の世代が、敗戦の憂き目を苦にしないで、シャニムに働いて、家族を養い、家族を養い、欧米に負けない国づくりに励んでの今があります。そんな動きの時代に、両親に育てられたことには、感謝するばかりです。そして宣教師さんたちから受けたことも甚大だったと思うこと仕切りなのです。

 少女期に信仰をもって、夫に仕え、四人の男の子を育て、朝から晩まで忙しくしていた母には頭が上がりません。その母を支えていたのがキリスト信仰だったのです。毎晩、教会に出掛けて行き、賛美をし、聖書を学んで、心の糧、霊の糧を得ることをないがしろにしませんでした。そんな生きる姿を見て、私たち息子たちは信仰を継承できたのだと思うのです。もちろん、神さまの憐みがあってのことでした。

 父や母から受け継いだことが何だったのかを思い返しますと、父が自分の弱さを超えて、家族を養うために懸命に働いてくれたこと、子育てに、我を忘れて励んでくれた母がいて、その母の祈りの支えがあって、この歳を迎えることができています。これ以上何が言えるでしょうか。

 病んだり、入院したりすることが多くなっている今ですが、隣人や若い友人たちの激励があり、子どもたちの訪問などがあるのです。先週も、次女が2週間ほどの滞在で、今いてくれます。祖祖父母の時代、祖父母の時代、子供たちの親の世代、孫の世代、激変の100年余りの時の流れの中で、四世代、五世代が、各役割を果たしてきていることになります。

 価値観の変化、文化の相違、世代間のギャップなどがあって、どこに向かっているのでしょうか。確かな価値観の上に立たない限り、混乱ばかりになってしまいそうです。知恵者が、次のことばを残しています。

『11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
14 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かを加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(新改訳聖書 伝道者4章11-14節)』

 万物の創造者は、不変のお方です。この変動と変容の時代の只中にあってでもです。価値観の転倒や過去の否定があり、価値の転倒が主張され、改革や変化は声高に叫ばれる時代にあっても、永遠不変のお方がいて、私たちがあります。「神を畏れよ」と言う声が聞こえてこないでしょうか。

 新しい動きは、過去にあったことの再登場で、真実を再確認するのです。もう一方では、罪や誤謬は繰り返されることも承知し、そんな動きに抗して、長い時間をかけて真理を守り通してきた先人のみなさんの闘いと労苦とを、正しく評価しなくてはなりません。「キリストを知ること」こそ、今の時代に必須なこと、死守すべきことに違いありません。

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こんな事件が起こりうるのです

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 父の家に、一年に一度、「富山の薬売り(売薬行商)」のおじさんが訪ねて来て、富山の薬を置いて行くのです。ダンボールやプラスチック製品のなかった頃でしたから、柳行李に薬を詰めて、肩にかついででした。自転車に乗って来ていたような記憶もあります。その中には、風邪薬、胃薬、切り傷薬、絆創膏などが入っていて、薬箱に入れて、家庭の常備薬として、使われていたのです。

 翌年になると、それを置いた家を訪ねて来て、使った数を数えて精算して、請求があり、新薬を置いていくと言う行商です。多くの家が、その常備薬を利用して、重宝していたのではないでしょうか。その薬箱から、ケガのために塗った赤チンなどを使った覚えがあります。

 この越中富山の売薬は、江戸時代から続いていて、この薬の行商は、富山藩が財源を得るために、漢方薬の製造を奨励し、製薬が盛んに行われて来ていたのです。その薬を入れた柳行李を肩にかついで、おじさんたちは全国を売り歩いていたのです。

 それは、富山だけではなく、讃岐(今の香川県です)でも、薬作りと行商が行われていたのだそうです。その売薬の一団が、千葉県東葛飾郡福田村(現在の野田市です)にやって来ました。時は、あの関東大震災が起こった数日後のことでした。15人の数家族が、薬を売ろうとその村に入ったのです。

 すると村の自警団が、この集団と悶着を起こして、銃や棒やとび口などを手に、突然襲いかかったのです。よそ者で、『五十銭!』言わせたら、讃岐の方言で答えたので、どうも朝鮮語の訛りだと思い込んだのです。震災直後でしたし、不安と恐怖が相まい、流言蜚語は飛び交い、思い違いの中の暴挙だったのです。

 9人の大人と子供が殺害され、その遺体を利根川の流れに捨ててしまいます。この人たちは、「穢多(えた/部落民、被差別民、新平民などと呼ばれて差別されていた人たちのことです)」でした。江戸時代に、村八分にあったりして、村から逃散(ちょうさん)した人たちの子孫でした。村の人たちに差別扱いをされて、暴行され、殺害されたのです。

 明治政府は、そう言った意味で、差別と見られる記載を、戸籍簿に書き添えてたのです。戦争が終わって、新戸籍法ができるまで、そう言った戸籍を編んでいたのです。朝鮮半島から来られた人たちも、このエタと呼ばれた人たちも、差別を被り続けた人たちでした。

 学校の同級生に、朝鮮半島から家族で来られていた人たちもいました。父も母も、そう言ったみなさんへの差別の思いを持つことはありませんでした。父と母は、戦前のある時期は、朝鮮半島の京城に、鉱山の仕事で住んでいたことがあり、懐かしく、「アリラン」」の歌を口ずむきともあったのです。ですから私たち4人の子どもたちも、そんな思いを持ちませんでした。
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 この事件は、「福田村事件」として、当時の社会を驚かせ、人種による差別や、根も葉もない偏見が、そんな事件を起こすことへの教訓となったのです。奈良の法隆寺を建てた大工さんたちは、朝鮮半島(百済/くだら)からやって来た人たちだったと言われています。金剛組と呼ばれる会社は、聖徳太子が、飛鳥時代に招聘した宮大工で、578年に創業しているのです。

 今も大阪市に会社があって、世界最古の企業だと言われています。私たちの間に、溶け込んで長く住んだ人たちもいますし、明治以降、日韓併合によって、出稼ぎにやって来た人たちの子孫も多くいるのです。同じ肌の色をした、きっと民族的には同根に違いありません。それなのに、そんな事件が起こったてしまったのです。実に悲しい事件でした。世が不安になると、そんな事件も起こりかねません。注意、注意です。

(ウイキペディアの「富山の売薬」、「百済」の位置図です)

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散歩道で見た工事の様子が

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 ここ栃木市に、住み始めた2019年の秋に、東日本を襲った19号台風で、市内に豪雨が降り、巴波川と長野川が氾濫して、激震災害をもたらせたのです。お借りして住んでいた家が、床上浸水に見舞われてしまいました。

 いつもは、一階の奥の部屋を寝室にしていたのですが、天気予報を聞いて、危険を感じた私たちは、二階にその晩は休んだのです。朝起きまして一階に降りますと、一階部分は、床上に水が溜まっていて、スリッパが浮かんでいたのです。その午前中は、床上の水の掻き出しをし、玄関前のコンクリートの三和土(たたき)には、土砂が堆積していて、それをスコップで掻き出しで、過ごしたのです。

 まだ子育て中に頃のことでした。住んでいたアパートの3階の一室が、ガス爆発を起こしたのです。階下の私たちの住んでいた部分の玄関鉄扉が開いてしまい、ベランダ側の窓ガラスが、爆風で割れ落ちました。私は、ステテコ姿で、駆け上がって、モクモクと新建材を燃やす煙で、中が見えない玄関から、消火器を吹き付けましたが、役立たずでした。やがて火の手が上がり、中から、住んでいたご婦人の呻めく声が聞こえたのです。

 消防に連絡があって、だいぶ経ってから消防車と、後から駆けつけた地元の消防団が消化活動を開始しました。四番目の子が家内のお腹の中にて、3人の子とを車に乗せて、近くにあった、私たちの教会堂に避難させたのです。同じアパートに住む妊娠していたご婦人も、お連れしたでしょうか。その間、消化の放水で、わが家も水浸しになってしまいました。

 火の中、水を通って、無事に守られたのです。後で、消防署員と警察の現場検証に立ち会いましたが、『階上の家の漏れたガスに、お宅に引火しなかったのが不思議です。あり得ません!』と言っておられました。家内は、早朝にガスの匂いを感じたのでしょうか、窓際に寝ていた3人の子の布団を引っ張って、部屋の奥に移動させていたのです。ガラスの破片から、子どもたちが守られましたが、私だけは、頭に30箇所くらいにガラスの破片が刺さっていたのです。騒ぎの中、全く感じなかったのです。午後になって、事故が落ち着いた後、近くの整形外科に行き、診てもらい、抜き取ってもらいました。

 これまで散歩に数度、火災と洪水の被害を受けて、避け得なかったのを感じているのですが、こちらに住んで、散歩する機会が増えて、ほぼ、東西南北に散歩コースを持っているのですが、北コースは、わが家の脇を流れる巴波川の土手道なのです。その川の脇の沿道で、昨年来、二箇所で土木工事が行われています。何をやっているのかが、少し経って、工事をされている方にお聞きして分かったのです。

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 その工事名は、地下に「捷水路(しょうすいろ)」を造るもので、正式には、「巴波川激震災害対策特別緊急事業」と言います。巴波川の洪水を防ぐために、川の流れの水の「逃げ道」を、地下に造る工事なのです。初めは護岸工事をしてるのだろうと思っていましたが、結構大規模の工事になっていたのを機に、担当者にお聞きしたのです。地下10mに、直径5.5mのトンネルの水路を敷設しようとしるのです、とのことでした。

 日本の掘削機械(shield machine/シールドマシン)は、世界に誇るものがあって、あの青函トンネルの工事に活躍した、掘削機器には、驚かされましたが、さらに新技術が開発され、あの当時よりもさらに躍進して、新鋭の掘削機が導入されているわけです。30年の年月をかけて堀り貫いた「青の洞門」は、曹洞宗の僧、禅海の「高さ2丈、径3丈、長さ308歩」を手堀りであったことを思うと、この長足の進歩には、驚かされます。

 土木の道に進みたかった子どもの頃の自分は、その夢は敗れて、違った道を歩んでしまったのですが、今だに、土木工事の現場付近を見ますと、あの頃の願いが思い出されてなりません。二十一世紀の機械モグラ、「シールドマシン」を駆使して、2.4kmの地下水路の2027年の竣工を、この眼で見ることができるでしょうか。

(ウイキペディアの「地下水路の図面」、「シールドマシン」です) 

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添加物のこわさを知って

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 在華13年の間、街中のレストランに、友人や、教会の愛兄姉に、よく招待されました。どこの店も同じで、どの料理も同じ味でした。私は、安くて美味しい、塩味の麺で海鮮の牡蠣、海老、それに豚肉、多種の野菜で塩味の「鹵麺(卤面)ルーミエン」が大好物だったのです。同僚の日本語教師で、しかも同窓の日本語教師が教えてくれた、日本の湯麺(タンメン)に似た中華麺なのです。

 お宅に招かれると、どこも同じで一家のご主人が、台所に立って、鍋ふりをされるのです。何種類もの料理を作っては、食卓に並べてくれるのです。中華料理店と同じ味は、やはり調味料でした。でもその食卓には、交わりの手を延べた愛情が溢れているので、おいしさは違っていたでしょうか。

 街中にある師範学校の旧キャンパスの近くの店が、一番美味しかったのですが、店主が変わってから、ちょっと味が変わってしまいました。最初は2元の値段でした。でも瞬く間に、倍倍倍になってしまいました。でも、思い返すと、あの味も、化学調味料がベースにあったようです。それで、「うまさ」と「危うさ」を知らされたのかもしれません。

 あちらでは、「味精」という名の調味料で、どこの食品売り場でも山高く大袋で売っていました。中国の食堂は、どこも調理場が奥まっていて客が見ることができない構造なのですです。コックさんは、大きなオタマに、大きな丼に入れた化学調味料を付けて、鍋に具材を入れて調理していたようです。

 どれも、同じ化学調味料の味なのです。素材の味は、わずかに、目を楽しませますが、みんな化学調味料のグルタミン酸ナトリュウムの味でした。

 化学調味料が、父の家で食卓に登ってから、小さな瓶に入った調味料が、ほぼ主役になっていました。小皿に醤油差しから醤油を注いぐと、すぐに調味料を振り出して加えるのです。味のないものや、味がきついものも、この調味料は、どんなも料理も「うまい」に変える魔術がかかったように、「うまい」のです。舌の唾液腺が刺激されて、魔術にかけられたように、うまくなってしまうのです。「うまさ」と「こわさ」は、同系列上にありそうです。

 結婚してからのわが家には、この化学調味料はありませんでした。味噌味、醤油味、砂糖、醤油のほかには、わが家の台所にはありませんでした。ところが、味醂、味付酢、チキンパウダー、コンソメなどが出始めてきたのです。栃木に住み始めまあいたら、この街のソースとかがあって、やはりグルタミン酸ナトリュウムの調味料を使って、うまみ成分の添加物で、美味しいのです。

 旨(うま)み、日持ち(➡︎腐敗防止)、増量などをもたらすのが、この添加物なのです。自然素材ではなく、化学の分野で、その飽くことのない研究成果で、作り出されて、化学物質なのです(グルタミン酸ナトリュウム=C₅H₈NO₄Na化学式)。

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 添加物を作り出し、営業で売り、会社に大きく貢献したお父さんが、子どもに、『食べちゃダメ!』と言ったら【ミートボール】は、子どもたちの支持を得て大人気で、「うまい」のです。よその子どもには、食べるように奨励しながら、生産に携わった科学者で営業マンは、自分の子どもと大多数の子どもたちとの間に、はっきりした線を引いのです。その欺瞞、自己矛盾に耐えられなくなって、会社を辞めてしまいます。

 良心が傷んだのでしょう。それで、今度は、添加物の抱えている問題点を指摘して、全国を巡回して真実の啓発運動をする人になったのです。餃子作りも職人も豆腐屋さんも、自分の作った物は食べませんし、家族にも食べさせないのです。添加物を警戒してです。そう子どもを育てた親たちの良心は、どうなっているのでしょうか。「本物志向」、この時代の生き方、食べ方ではないでしょうか。食品の魔術にかけられた現代人は、危なさそうです。「試験管」にた端を発する食品に注意、注意です。

↪︎阿部司著「食品の裏側」東洋経済新聞社刊

(よく食べた「鹵麺(卤面ルーミエン)、ある物資の「化学式図」です)

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