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市の広報で、配布依頼があったのでしょうか、先週、ポストに、見慣れないノート形式の冊子が入っていました。いつも、手紙やそう言った広報などの書類を置く、居間のソファーに目をやって見つけたのです。「マイエンディングノート」とあります。表紙の下に、名前を記入する欄があり、裏表紙には、「セレモニーホール」のスポンサー広告が印刷されているではありませんか。
戦後生まれのBaby Boomerたちが、高齢化して来て、夥しく老人人口が増えたからでしょう、どうも、『死ぬ準備をしておきなさい!』と言う行政指導らしいのです。もちろん考えていないわけではありませんが、〈ポイ〉と入れられた感が拭えず、ちょっと、『おやおや!?』と思ってしまいました。老齢世帯への配布依頼があって、自治会の係の方が、入れてくださったのです。
こう言った形で、「死に行く準備」をしておく必要があるのでしょう。悪気はないのでしょうけど、この〈ポイ〉に、ちょっと嫌だなあと、ふと思ってしまったのです。きっと慌てないように、学校で習った言葉、「用意周到」を実行するようにとの計らいなのかも知れません。
開いてみますと、第二表紙に、第三表紙にも、広告が掲載されているではありませんか。葬儀社と、司法書士事務所の『お任せください!』のスポンサーです。確かに、高齢者の死は間近に考えられますが、だれにでも、その死は訪れてくるのです。余命年齢と、死期の到来とは別です。
ですから、いつでも死ぬ準備はしておくべきです。ではどう準備すべきなのでしょうか。その「マイエンディングノート」に書き込むことなのでしょうか。葬儀への希望、どこに埋葬するか、財産はどうするか、だれ に死の報告をするか、預貯金の使い道よりも、優先して備えべきことがあるように感じています。
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40年前に、腎臓を摘出した時に、家族宛の遺言状を書きました。次男が3歳でした。どこかに、それが仕舞われてあるそうです。あれから40年経ちましたので、死ぬ確率は、さらに高くなってきました。不整脈が見つけられて、「心房細動」の症状が出ているとの医師の診断で、主治医に勧められて、カテーテル・アブレーションの手術を、2024年の12月24日に受けました。
もう確実に、死期が迫っていると思われます。でも、どこにいくかの確信が、自分にはあるのです。肉体は焼かれて灰になってしまいますが、霊は、この命の付与者である神さまの元に帰り、私と言う魂は、キリストの故に、永遠の安息に入ると、自分は確信しています。
25歳の時に、聖霊に満たされた時に、永遠の滅びから、永遠の命に救われた確信を得たからです。まさに聖霊の証印を押してくださったのです。あれから55年が経ちますが、その確信は揺ぎません。裁かれ、滅びに定められていた私の罪を、キリストでいらっしゃるイエスさまが、身代わりに罪となられて、十字架で血を流してくださって、死んでくださったことが、心から信じることができたかったからです。
『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(新改訳聖書 ヘブル9章27節)』
『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(同22節)』
人の罪が赦されるのは、キリストの血以外にはないのです。その血によって贖われた者は、今や、義とされ、子とされ、聖とされ、やがて栄光化される救いに預かるのです。イエスさまは、こうおっしゃいました。
『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11章25節)』
さらに、聖書に次のようにあります。「信じる者」が頂けるのです。
『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2章8-9節)』
『願はくはわれを瞳のごとくにまもり汝のつばさの蔭かげにかくし(文語訳聖書 詩篇17篇8節)』
それで、私は、よくこう賛美します。
♫ なが瞳のように守り 死ぬことのないように みつばさのかげに われを匿いたまえ ♬
神さまは、「いのちの書」をお持ちです。聖書に次のようにあります。
『しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。(黙示録21章27節)』
誰の名が記されているかは、私たちは知りません。教会も牧師も知りません。ただ自分の名は、姓名がしっかりと・【小羊のいのちの書】に書き記されてあると確信するのです。それこそ聖霊の証印によるに違いありません。両親の名も、妻も4人の子どもたちの名も、そして、こんな私の名も記されてあると信じているのです。まさに信じた者が頂いた限定的な特権なのです。
永遠のいのちに預かれる救いは、誰も奪えません。すでに救い主であるイエスさまの御手の内にあるのです。
それで、私のための葬儀も墓も不要なのです。自分の一生のけじめを、そう家族には言ってあります。式に集って、常套句のように、『良い人だった!』と、みんなに言われたくないのです。全く良くはなかったからです。良いのは、主だけです。
パウロが自分を言ったように、この私も、真性の「罪人の頭」だからです。滅ぶべき当然の私を、罪の奴隷市場から買い戻して、『赦してくださった!』と、信じたからです。そのパウロの確信を継承する者が、頂ける「赦し」だからです。
一昨年の暮れに、父の体質を受け継いだのでしょう、脳梗塞が起き、即入院した後に、死後のことを家族に伝えてあります。ただ願うのは、聖書が記す「空中携挙」をしたいのです。死を経験しないで、生きたままで空に携え上げられ、再臨のキリストに見(まみ)えたいのです。
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ドイツのバートボルトの教会の牧師だったクリストフ・ブルームハルトは、教会の入り口に、馬に引かせる馬車を用意してあったのだと伝えられています。『主がおいでです!』と言う知らせを聞いたら、その馬車で、救い主のもとに駆け付けるためにでした。私は、この方に真似て、自転車を玄関に用意してあります。でもそれは、生きている者の「再臨待望の 姿勢」であって、実際には、携挙されるので、自転車も馬車も車も飛行機も不要なのです。
単純な福音を、単純に受け継げたのです。『主よ来たりませ!』、その「エンディングノート」不要の私の弁であります。私の迎える「死」は、「罪の赦し」と「永遠のいのちへの救い」なのです。決して滅びないとの確信です。救い主は、「審判者」。なのです。この主が、代わって「審判」お受けくださったからであります。それが、「十字架」です。次男が、幼い日、『イエスさま、痛かったんだね!』と泣いて言っていました。
さあ、自分は、死の準備はできました。病んでも、主の定めてくださった一生を、ありのままで感謝して受け入れようと覚悟しています。パウロも、ペテロも、ポリュカルポスも殉教しています。聖書の読み方から妻の愛し方まで教えてくださった、牧師や宣教師さんたちの、ほとんどのみなさんは病で亡くなって行きました。
『また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。
また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。
海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。
それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。
いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20章11-15節)』
でも、出会って一緒に過ごしたみなさんは、主のみ前に、栄光の体で蘇るのです。「白い座の裁き」には、キリストの血のゆえに、立たずにすみます。
『なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリント5章10節)』
ただ私は、「キリストの座」の前に立つのです。そこには、弁護者なるキリスト・イエスさまと聖霊なる神さまがおいでです。それは裁きではなく「報酬」なのです。24人の長老たちが、主の前で、頂いた冠を投げ出すように、「赦された罪人」として立つのです。
「マイエンディング」、どのように死期を迎えるのでしょうか、書類上のことだけではなく、心の中で、どう迎えるかの備えこそ、今必要なのだと思っています。元気に動ける今、一緒に二親の養育のもとにいた二人の兄と弟に会いたいのです。そして、父と母への感謝を語り合いたいと願っております。
家内が、肺腺癌の治療を、入院して始めた、帰国して間もない頃に、すぐ上の兄と弟が、電車に乗って訪ねてくれました。入院先には面会不可でしたが、家に二、三度来てくれたのです。退院後には、鬼怒川温泉に、上の兄と下の兄が夫妻で、奥さんを亡くした弟が、私たち夫婦招待して、退院を祝ってくれました。実に嬉しかったのです。兄弟喧嘩に明け暮れていたのに、それも懐かしい思い出です。共通の過去を持つ兄弟は格別なのです。
(”Christian clip arts“、”illust image”のイラストです)
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