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「糟糠の妻」とは、男性が、一人の妻を得て以来、貧しくて、何もかも、うまくいってもいかなくても、苦楽を共に味わった妻のことを、そう言うそうです。「糟(そう)」は酒かす、「糠(こう)」は米ぬかのことで、「粗末な食べ物」を言っています。そんな物を食べ合った相手を言うようです。
「糟糠の妻は堂(どう)より下(くだ)さず」、貧しい時代から暮らしをともにしてきた妻は、出世したからといって家から追い出すことはできないという意味です。[AI辞典]によりますと、
「糟糠の妻」という言葉の出典は、中国の歴史書「後漢書」の宋弘伝です。この故事は、貧しい時に苦労を共にした妻を、富貴になった後も大切にするという美徳を表しています。 具体的には、後漢の光武帝が、姉の再婚相手を探す際に、家臣の宋弘を候補として考えました。その際、宋弘は「貧賤の交わりを忘れるべからず、糟糠の妻を堂より下さず」と述べ、貧しい時に苦労を共にした妻を大切にすることを表明しました。この言葉が「糟糠の妻」という言葉の由来となり、故事成語として広まりました。
この中国の故事は、友情や夫婦の情愛の大切さを伝える教訓として、現代でも広く知られています。 このことばを覚えた頃に、有名になった、成功した男が、慢心するのでしょうか、油断でしょうか、感謝を捨てて、妻を離縁してしまう話を何度か聞きました。
ある歌手は、奥さんの励ましがあって、温泉施設のボイラーマンをしながら、民謡や三味線を学びながら、歌謡界にデビューします。美声の持ち主でしたし、歌唱の指導などをへて、一躍、歌謡曲界の超人気の歌手となるのです。大手のレコード会社の看板歌手に上り詰め、出すレコードが、どれもミリオンセラーとなっていきました。
ところが苦労をしていた時の妻を捨ててしまったのです。色と欲とに、お金と名声を得て負けてしまいました。人生の成功者でありながら、一人の女性、妻を愛しきれなかった彼を、テレビに見た時に、やはり疾(やま)しさが表情に見え隠れしていたのです。富も名も得ないままの私でしたが、そんな不義理はすまいと決心させられたのです。
もう一人、関西圏の田舎の街の出身で、プロ野球界で名を馳せた男がいました。お父さんを戦争で亡くし、母親の手一つで育てられ、貧しい少年期を過ごしています。自分もアルバイトをして家計を助けたりしていたのです。それでも高校に進学させてもらい、野球部に入り、体が大きかったからでしょうか、キャッチャーになります。子どもの頃から、川上や大下といったプロ野球のスター選手に憧れて、野球をしていたのです。
高校を卒業して、テスト生として、野球の球団に入るのです。彼の初期の様子を、記録に読んでみますと、この男が、正捕手の位置を得るには、活躍していた捕手の怪我などが積み重なって、廃業しようとすると、出場の機会を得るといったことが何度かあったようです。その上、天性も才能もあって、努力の末に、やがて名捕手になるのです。
守りのキャッチャーだけではなく、シーズンのホームラン王や首位打者に何度もなって、大活躍をします。引退後には、幾つもの球団に呼ばれて名監督の名をほしいままにします。その采配は、弱小チームを優勝させるほどでした。日本プロ野球界では指折りの野球人でした。
ところが、名のない下積み時代を支えてくれた奥さんを捨ててしまうのです。ミス▷□になったほどに綺麗で、しかも弁の立つ結婚経験のある女と出会い、色と欲とに負けてしまいます。苦労時代を支えてくれた奥さんを離縁してしまうのです。野球人としては成功者でしたが、「糟糠の妻」を、自分の心のミットに受け止め得なかった、結婚の失敗者でした。
こう言った話、事例は枚挙にいとまありません。私は、そういった話が好きだからではなく、結婚軽視をしてしまう男の生き方をみて、教訓を得たいのです。
1970年代に、欠点だらけの二人が出会って結婚して、四人の子どもの養育を委ねられから、もう私たちの結婚生活は、54年なっています。この間、一度、家内が家出をしたことがありました。口をきいてもらえないことは何度かありました。また、言うことを聞かなくて、癇癪を起こした私が、叩いてしまったことが一度あったのです。
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来た道に、山も谷もありながらの年月でした。まだ捨てられずに、私は、一人の女性と生活をさせてもらい、互いに病んだり、入院したり、世話をさせたりしたり、泣いたり笑ったり、人を迎えたり送ったり、転んだり立ち上がったりの今を、二人で励まし合いながら、赦し合いながら、一緒に過ごしているのです。
私たち二人の「仲保者なる主」がいてくださっての今なのです。出会わせてくださって、共に歩ませてくださった主なる神さまがいて今があります。結婚という絆、契約の中に、このお方が留まらせてくださったから、一緒に過ごせたのでしょう。そして、家内の忍耐があったからです。
昨日も、中国の東北部で、在留日本人の子として生まれ育って、中国人の方と結婚したご婦人が、一番下の小学校2年生のお嬢さんを学校を休ませて連れて、東京から訪ねてくれました。家内の退院後の見舞いと激励に来てくれたのです。
『水餃子を作って食べさせたい!』と言ってでした。材料とエプロンと餃子作りの道具、そしてお土産持参でです。おいししい餃子と、二種類の中国の東北部の料理も作って添えてくれました。家内は小麦粉をあまり食べないので、米粉で、わざわざ作ってくれたのです。作ってくださっている間、お嬢さんと「しりとりゲーム」をして、一緒にテーブルを囲んで食べたのです。ほんとうに美味しかったのです。
私たちの生き方を見て、慕ってくださるのです。そんな方がいて、今を過ごしています。「出会い」って、不思議な、いえ奇跡的な出来事、人生の重要な Epoch ではないでしょうか。華南の街にの大きな住宅群の7階に住んでいました時に、門から出てきたご婦人が、所用から帰って来て入ろうとしていた私たちと行き合ったのです。すれ違い様に、『好夫婦haofuqi!』と声をかけて通り過ぎて行きました。仲良しな夫婦に見えたのでしょうか、「ピッタリ合ってる良い夫婦」と言った意味なのでしょうか。そのことばが忘られません。
(“いらすとや” の「夫婦」,「山」です)
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