散歩道で見た工事の様子が

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 ここ栃木市に、住み始めた2019年の秋に、東日本を襲った19号台風で、市内に豪雨が降り、巴波川と長野川が氾濫して、激震災害をもたらせたのです。お借りして住んでいた家が、床上浸水に見舞われてしまいました。

 いつもは、一階の奥の部屋を寝室にしていたのですが、天気予報を聞いて、危険を感じた私たちは、二階にその晩は休んだのです。朝起きまして一階に降りますと、一階部分は、床上に水が溜まっていて、スリッパが浮かんでいたのです。その午前中は、床上の水の掻き出しをし、玄関前のコンクリートの三和土(たたき)には、土砂が堆積していて、それをスコップで掻き出しで、過ごしたのです。

 まだ子育て中に頃のことでした。住んでいたアパートの3階の一室が、ガス爆発を起こしたのです。階下の私たちの住んでいた部分の玄関鉄扉が開いてしまい、ベランダ側の窓ガラスが、爆風で割れ落ちました。私は、ステテコ姿で、駆け上がって、モクモクと新建材を燃やす煙で、中が見えない玄関から、消火器を吹き付けましたが、役立たずでした。やがて火の手が上がり、中から、住んでいたご婦人の呻めく声が聞こえたのです。

 消防に連絡があって、だいぶ経ってから消防車と、後から駆けつけた地元の消防団が消化活動を開始しました。四番目の子が家内のお腹の中にて、3人の子とを車に乗せて、近くにあった、私たちの教会堂に避難させたのです。同じアパートに住む妊娠していたご婦人も、お連れしたでしょうか。その間、消化の放水で、わが家も水浸しになってしまいました。

 火の中、水を通って、無事に守られたのです。後で、消防署員と警察の現場検証に立ち会いましたが、『階上の家の漏れたガスに、お宅に引火しなかったのが不思議です。あり得ません!』と言っておられました。家内は、早朝にガスの匂いを感じたのでしょうか、窓際に寝ていた3人の子の布団を引っ張って、部屋の奥に移動させていたのです。ガラスの破片から、子どもたちが守られましたが、私だけは、頭に30箇所くらいにガラスの破片が刺さっていたのです。騒ぎの中、全く感じなかったのです。午後になって、事故が落ち着いた後、近くの整形外科に行き、診てもらい、抜き取ってもらいました。

 これまで散歩に数度、火災と洪水の被害を受けて、避け得なかったのを感じているのですが、こちらに住んで、散歩する機会が増えて、ほぼ、東西南北に散歩コースを持っているのですが、北コースは、わが家の脇を流れる巴波川の土手道なのです。その川の脇の沿道で、昨年来、二箇所で土木工事が行われています。何をやっているのかが、少し経って、工事をされている方にお聞きして分かったのです。

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 その工事名は、地下に「捷水路(しょうすいろ)」を造るもので、正式には、「巴波川激震災害対策特別緊急事業」と言います。巴波川の洪水を防ぐために、川の流れの水の「逃げ道」を、地下に造る工事なのです。初めは護岸工事をしてるのだろうと思っていましたが、結構大規模の工事になっていたのを機に、担当者にお聞きしたのです。地下10mに、直径5.5mのトンネルの水路を敷設しようとしるのです、とのことでした。

 日本の掘削機械(shield machine/シールドマシン)は、世界に誇るものがあって、あの青函トンネルの工事に活躍した、掘削機器には、驚かされましたが、さらに新技術が開発され、あの当時よりもさらに躍進して、新鋭の掘削機が導入されているわけです。30年の年月をかけて堀り貫いた「青の洞門」は、曹洞宗の僧、禅海の「高さ2丈、径3丈、長さ308歩」を手堀りであったことを思うと、この長足の進歩には、驚かされます。

 土木の道に進みたかった子どもの頃の自分は、その夢は敗れて、違った道を歩んでしまったのですが、今だに、土木工事の現場付近を見ますと、あの頃の願いが思い出されてなりません。二十一世紀の機械モグラ、「シールドマシン」を駆使して、2.4kmの地下水路の2027年の竣工を、この眼で見ることができるでしょうか。

(ウイキペディアの「地下水路の図面」、「シールドマシン」です) 

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添加物のこわさを知って

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 在華13年の間、街中のレストランに、友人や、教会の愛兄姉に、よく招待されました。どこの店も同じで、どの料理も同じ味でした。私は、安くて美味しい、塩味の麺で海鮮の牡蠣、海老、それに豚肉、多種の野菜で塩味の「鹵麺(卤面)ルーミエン」が大好物だったのです。同僚の日本語教師で、しかも同窓の日本語教師が教えてくれた、日本の湯麺(タンメン)に似た中華麺なのです。

 お宅に招かれると、どこも同じで一家のご主人が、台所に立って、鍋ふりをされるのです。何種類もの料理を作っては、食卓に並べてくれるのです。中華料理店と同じ味は、やはり調味料でした。でもその食卓には、交わりの手を延べた愛情が溢れているので、おいしさは違っていたでしょうか。

 街中にある師範学校の旧キャンパスの近くの店が、一番美味しかったのですが、店主が変わってから、ちょっと味が変わってしまいました。最初は2元の値段でした。でも瞬く間に、倍倍倍になってしまいました。でも、思い返すと、あの味も、化学調味料がベースにあったようです。それで、「うまさ」と「危うさ」を知らされたのかもしれません。

 あちらでは、「味精」という名の調味料で、どこの食品売り場でも山高く大袋で売っていました。中国の食堂は、どこも調理場が奥まっていて客が見ることができない構造なのですです。コックさんは、大きなオタマに、大きな丼に入れた化学調味料を付けて、鍋に具材を入れて調理していたようです。

 どれも、同じ化学調味料の味なのです。素材の味は、わずかに、目を楽しませますが、みんな化学調味料のグルタミン酸ナトリュウムの味でした。

 化学調味料が、父の家で食卓に登ってから、小さな瓶に入った調味料が、ほぼ主役になっていました。小皿に醤油差しから醤油を注いぐと、すぐに調味料を振り出して加えるのです。味のないものや、味がきついものも、この調味料は、どんなも料理も「うまい」に変える魔術がかかったように、「うまい」のです。舌の唾液腺が刺激されて、魔術にかけられたように、うまくなってしまうのです。「うまさ」と「こわさ」は、同系列上にありそうです。

 結婚してからのわが家には、この化学調味料はありませんでした。味噌味、醤油味、砂糖、醤油のほかには、わが家の台所にはありませんでした。ところが、味醂、味付酢、チキンパウダー、コンソメなどが出始めてきたのです。栃木に住み始めまあいたら、この街のソースとかがあって、やはりグルタミン酸ナトリュウムの調味料を使って、うまみ成分の添加物で、美味しいのです。

 旨(うま)み、日持ち(➡︎腐敗防止)、増量などをもたらすのが、この添加物なのです。自然素材ではなく、化学の分野で、その飽くことのない研究成果で、作り出されて、化学物質なのです(グルタミン酸ナトリュウム=C₅H₈NO₄Na化学式)。

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 添加物を作り出し、営業で売り、会社に大きく貢献したお父さんが、子どもに、『食べちゃダメ!』と言ったら【ミートボール】は、子どもたちの支持を得て大人気で、「うまい」のです。よその子どもには、食べるように奨励しながら、生産に携わった科学者で営業マンは、自分の子どもと大多数の子どもたちとの間に、はっきりした線を引いのです。その欺瞞、自己矛盾に耐えられなくなって、会社を辞めてしまいます。

 良心が傷んだのでしょう。それで、今度は、添加物の抱えている問題点を指摘して、全国を巡回して真実の啓発運動をする人になったのです。餃子作りも職人も豆腐屋さんも、自分の作った物は食べませんし、家族にも食べさせないのです。添加物を警戒してです。そう子どもを育てた親たちの良心は、どうなっているのでしょうか。「本物志向」、この時代の生き方、食べ方ではないでしょうか。食品の魔術にかけられた現代人は、危なさそうです。「試験管」にた端を発する食品に注意、注意です。

↪︎阿部司著「食品の裏側」東洋経済新聞社刊

(よく食べた「鹵麺(卤面ルーミエン)、ある物資の「化学式図」です)

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水無月に咲く花々が

 

 

 六月になりました。この月の別名は、「水無月(みなづき)で、その由来については、いろいろな説があります。水無月の「無」は「ない」だけではなく、助詞の「の」なのだそうです。そうしますと、「水の月」となります。まさに天から降る梅雨の雨の月なのです。

 米作りに励んできた私たちの国では、この梅雨の雨によってお米が育っていき、その秋には収穫されるお米が、武士の給金の石高だったのです。今、米の高騰が大きな話題になっています。わが家は、「四つ葉生協」という協同組合の会員を紹介されて、こちらに住み始めてすぐに、会員になりました。

 極力、農薬を使わないで米作りをする農家が生産する米が、毎週届けられるパンフレットに掲載されていて、そのお米を炊いて、食べ続けてきています。ところがこのところ、米の項目が欠品なのです。何種類かあって選べたのですが、もうなくなってしまいました。米騒動の煽りによるのです。

 江戸時代以降の米の流通の複雑さ、今だに受け継がれていて、どうも米価格の高騰の原因のようです。インフレーション(Iinflation)が起きて、何もかも価格上昇で、何か便乗のように感じてなりません。こうやって不景気になっていくことが、歴史の中に見られましたが、今や、そに不景気の現れなのでしょうか。

『ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。(新改訳聖書 黙示録18章23節)』

 魔術のように、物の値段を高くしていく商人たちの暗躍なのでしょうか。欺きや偽善や悪徳というのは、終末の世の特徴だと、聖書は言います。言い知れない不安や恐怖が、人の心を襲うのでしょう。万軍の主、栄光の王は、この時代を生きる私たちに、「恐るな」と仰っておいでです。花は美しく咲いて、物価高騰の世を慰めています。

(家内への近所の友人のプレゼントの花束、サボテンの花、母の日に弟に頂いた胡蝶蘭、娘が家内に誕生日に届けてくれた胡蝶蘭、弟の家に咲くハイビスカス〈2017年8月に家内が弟に贈った物がベランダで咲き続けているそうです〉です)

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会津人たちの足跡の中に

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 本州の最果て、青森県の下北半島に、明治になって誕生した藩があったのをご存知でしょうか。わずかな年月の間に、存在しただけでした。幕末に、徳川方に従い通した、徳川御三家に次ぐ藩であり、幕末には「朝敵」となった会津藩が、戊辰戦争に敗れ廃藩とされ、転封の地に割り当てられたのが斗南(となみ)でした。その地に誕生したのが「斗南藩」でした。

 薩長土(薩摩と長州と土佐)の同盟軍、新政府軍が、鳥羽伏見の戦いで勝利し、東征をして行きます。越後国の長岡藩を下し、さらに会津の地に進軍して行きます。有名な白虎隊の壮絶な戦いと、少年たちは自刃して果てていく戦いの果てに、会津藩は敗北するのです。新政府軍に刃を向けたことで、下北の地に移って行きました。

 その斗南に、立藩、家名再興が許され、松平容大が藩主となります。主君への恩義を忘れない、会津の幕末に際しての処し方に、武士の志を感じてなりません。敗者でありながらも、明治の新しい時代を生きていかれた会津の人々の生き方に、日本の良さを感じてなりません。それをきっと、「会津魂」と言うのでしうか。

 極北の地に、鍬を持って移住して行った生き様に、落ちゆく武人の生き方を、身も心も震えるような感じがしてなりません。会津からは、明治の世に、日本の近代化のために寄与した人材があったことは、素晴らしいことなのです。私が学んだ明治学院の総理を務めた井深梶之助、同志社を起こした新島襄に嫁した山本八重、明治の元勲・大山巌に嫁した山川捨松、ソニーを起こした井深大などの人を存知上げています。

 明治の世に、なかなか受け入れらええなかった会津でしたが、政治の指導者にはならなくとも、キリストの福音に触れて、生きていった会津人にあった、主の祝福を見て、社会に大きく貢献されたことに、感謝を覚えます。

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 第一次大戦後に、日本の捕虜になったドイツ人(オーストリアやハンガリーの兵士もいました)の将兵を収容した、収容所がありました。坂東市(現在の徳島県鳴門市です)にあった「板東捕虜収容所」だったのです。ただ捕虜を、捕虜として取り扱ったのではなく、人として寛大に、友好的に接した、その収容所の所長が、松江豊寿大佐で、この人は会津人だったのです。

 日本軍の捕虜への取り扱いでは、異例の収容所でありました。捕虜たちが兵士以前に民間人であった折の専門職の職人たちの活動がありました。印刷所が設けられ、週刊新聞が刊行され、鍛冶屋、床屋、靴屋、仕立屋、肉屋、パン屋などがあったのです。それを許し、励ました、松江所長の寛大さに驚かされます。

 世界に類を見ない、捕虜収容所の運営に当たった、松江大佐の意気に、感動を覚えたのです。ドイツ軍が降伏して、第一次世界大戦が終結したことで、この収容所が閉鎖され、捕虜の帰還が許されるのです。そのためにイベントが開かれ、ベートーベンの「第九」が演奏されることになるのです。この演奏会には、多くの板東の街の住民が集まったのです。大拍手の内に演奏会は終了します。

 こんな民主的な収容所に収容された捕虜たちは、異国での捕虜生活でしたが、実に素敵な3年ほどの時期を送ったことになります。今では、収容所にあった地は、「ドイツ村公園」とされ、2018年には、「100周年記念コンサート」が催され、「第九」が演奏されたのです。「バルトの楽園」という題で、映画化もされています。

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 松江豊寿は、退役後に、若松市(現在の会津若松市です)の市長として、1922年から1925年の間、第九代市長にもなっておられます。悪評の多かった日本の旧軍人の中では、注目に値する一人でした。

 (ウイキペディアによる弊社の見取り図、移築された捕虜収容所の兵舎、会津若松市の市花の「タチアオイ」です)

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この花の思い出が

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 ミニサボテンが、一昨日咲きました。ご覧のとおり、綺麗です。母体のサボテンには、トゲがあるのに、花は可憐で、清楚で、トゲが見られません。

 ここに住み始めてから間もなく、自治会のラジオ体操があるのを誘われて、参加し始めました。たまに、夏休みになった小学生が参加することがありますが、ほとんどは、老人たちが集っているのです。小学校の頃にやった、第一体操と第二体操を連続してやります。

 何十年もやらなかったのに、体が覚えていたのが不思議でなりませんでした。小学校の頃に、全校生徒で、ラジオ体操の時間があって、なぜが朝礼台の上に立って、全生徒の前で、やっていたのです。何の役にもつかなかった、16年間の学校生活の中で、唯一の役を与えられていたのです。

 そんなことで、日曜日の朝7時半開始のラジオ体操は、唯一、この時だけ飛び跳ねたりしているのです。悲しいのは、一人、また一人と、亡くなられる方がいるのです。寂しい思いをしますが、みなさん自分に定められた人生の旅を終えられたわけです。

 その中に、床屋さんがいました。学童疎開で、東京からやって来た子どもたちが、住んだ山間の村のお寺に、時々、ここ栃木から出掛けては、子どもたちの頭髪を刈るボランティアを、お父さんがしていたのだそうです。その方が、ポツッとそんな話をしてくれました。お店は、今は息子さんの代になっているのlです。

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 この方のお父さんの故郷には、関東の名刹、出流山万願寺があるのです。今から150年前に、明治維新前後に、水戸の天狗党が立て籠って、そこから下山して、ここ栃木にやって来て、刃を交わしたのだそうです。その寺の門前に、お蕎麦屋さんがあり、秋の新蕎麦が出回る頃に、ラジオ体操仲間が、市営バスに乗って出かけるのは、毎年の恒例になっているのです。その出流山の終点のバス停に、大輪の皇帝ダリアが咲いていました。

 その蕎麦会に、この街の古老、長く県の農政部で働かれた方がおいででした。ご自分で育てられた、シンビジュウムの鉢植えを何度か頂いたのです。なかなか育てるのが難しく、枯らしてしまったのですが、このミニサボテンも頂いたものなのです。そして、何度目かの夏を迎えて、今年も咲いたのです。株分をしては、お分けしてきました。

 人は去り、愛でて育てた鉢植えは残り、人の目を喜ばせてくれます。子分けした鉢に中で、もう咲いた花もあるかも知れません。花は、いのちを受け継ぐのですが、神さまの最高傑作である私たちは、一度きりの人生を生きています。あの人この人、みなさん去りましたが、クリスチャン、神の子とされたみなさんは、主の声を聞いて甦り、永遠のいのちに、生き続けられるのです。聖書が、そう約束しておりますから。

(ベランダのミニサボテンの花、出流山の皇帝ダリアの花です)

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幸福度を高める感謝の思い

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  “ stress coping “ (ストレスコーピング)」と言うことばを、最近耳にしました。”coping “ は、英語で「対処する・処理する」という意味がありますので、圧迫感や緊張感を覚えることで、今や、一億総ストレスの時代で、ほっとできないような圧力がかかっているのでしょう。それで、どう処理するかが騒がれているのです。

 米の価格上昇のニュースが持ちきりで、聞かない日はありません。田植えのシーズンになって、東武宇都宮線の沿線の田んぼでは、田植えが行われている季節の到来です。昨秋に蒔いたビール麦が、黄金色になっているのと、隣りの田んぼの苗の青さが対照的です。ビール畑も刈り取りがすすんで終わると、今度はそこが耕されて田んぼになり、稲が植えられていきます。

 悪代官が、米の問屋と結託して、米相場を捜査して、賂(わいろ)を得ていた時代があって、米騒動が、江戸期には起こったのでしょうか。令和の世になっても、誰かが、何かの団体が、米を止め置いて、価格操作をして、江戸期以来の儲けを画策しているのでしょう。

 農水産省の大臣が更迭されて、新しく就任した大臣が、対策を講じていますが、功を奏することができるのでしょうか。誰でしたか、『米なんか買ったことがなく、いつももらっている!』と、庶民感覚を逆撫でするようなことを言っていました。そう言った立場の人もいるのだと思わされたのです。

 わが家にも、続けて何人かの人が、お米を持って来てくれて、買わないでいた時期がありました。華南の街に住んでいた時期にも、よく10kgの米袋を、電動自転車に乗せて、持って来てくれた姉妹がいました。ケーキとパンを製造して、5店舗ほどを出店して、大きく事業をしていた方の工場があり、そこで働いておいででした

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 そこで、毎週「聖書研究会」があって、お話しをしていた時に、出席していたご夫妻からでした。他の省の農村から出稼ぎで来ていた方たちで、子どもさんたちを、おじいちゃんとおばあちゃんとに預けて、給料を送金していたのです。急遽帰国しましたので、このご夫婦に、感謝をしないままだったのを思い出している今なのです。

 そんなお米にまつわる思い出が、私たちにもありますが、1カップのお米を二人で食べる今は、お米の高騰のストレスは感じていませんが、それでも子育て中の家庭は、パン食が増えたとしても、大変なストレスがあることでしょう。

 あれよあれよの瞬く間の米価格の吊り上げがあって、全ての物価に影響があって、悪循環なのです。国連の「幸福度調査」の調査結果も、我が国は毎回、幸福享受からかけ離れていっています。高収入、高度医療などの恩恵、文化的な生活をしていながらも、幸福でないのは、何なのでしょうか。

 持ち物の豊かさ、生活の便利さ、溢れるような娯楽や行楽の機会に預かりながら、心が満たされないでいるのは、何なのでしょうか。聖書は、次のように言っています。

『さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(新改訳聖書 2コリント9章1-2節)』

 激しい試練、極度の貧しさの中で、「満ちあふれる喜び」を、マケドニアの諸教会のクリスチャンたちは持っていたというのです。しかも、その喜びは、あふれ出ていました。彼らよりも貧しさに喘ぐ人たちに、そんな環境にありながら、「施し」をしていたからです。そう言った生き方が、2000年も前に行われていたのです。

 そういう生き方こそは、喜び、幸福を観たらせたのです。それに比べて、私たちの国では、不安や、言い知れない恐れが蔓延しているのでしょうか。 

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 今年の国連の「幸福度調査」によりますと、日本は、世界で58位、去年の54位から、さらに後退しています。156の国と地域で各3000人を対象に、幸福度調査が行われています。「1人当たりの国内総生産(GDP)」、「健康寿命」、「社会的支援の充実」、「自由度」、「腐敗度」、「寛容さ」の6項目から分析されている調査なのです。

 その順位を見てみますと、トップはフィンランドで、デンマーク、ノルウェー、アイスランドと北欧諸国が続いています。日本は過去最低の58位で、[健康寿命]は2位、[GDP]は24位と上位だったものの、[自由度]は64位、[寛容さ]は92位でした。それに比べて、貧しくても、「施す富」にあふれていたマケドニヤの諸教会のあり方には驚かされます。

 心の貧しさこそが、幸福度の低さなのでしょうか。一億総貧乏だった80年前には、貧しさでも考えるのではなく、まず励んで生きていた父や母の時代の生き方に、やり直そうとした強烈な意志がありました。破れたズボンに針を通して繕っていた母を、懐かしく思い出します。貧しさに負けなかった時代の一つの生き方です。もしかすると、感謝の足りなさが、幸福度を低くしているのかも知れません。

(ウイキペディアの「田植え」、「棚田」、「国連本部」です)

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申す、申す、注意を!

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  日本の地震学会が、火山大国で、断層に囲まれた日本列島には、大きな地震が起こる可能性の高さを指摘してから、随分と時間が経ちます。『いつでも起こりうる!』ほどなのだそうです。

 1923年9月1日に起こった「関東大震災」を、その時、13歳だった私の父は、神奈川県の横須賀に住んでいて、その大きな揺れを経験し、被害状況も目撃しています。また6歳だった母も、地震の起きた南関東から遠く離れた、山陰の出雲に住んでいて、『その揺れを覚えている!』と言っていました。

 子どもの頃、地震が起こると、父は大声で、『玄関と戸を開けろ!』と叫んでいたのを覚えています。子どもの頃の想像を絶した恐怖体験が、そうさせたのでしょうか、私は、急いてガラス戸を開けたのです。ですから今でも、地震が起きると、玄関に飛んでいき、鉄製の扉を開けるようにしています。

 その関東大震災が起きた直後に、「デマ(流言蜚語/るげんひご)」が拡散したと伝えられています。『朝鮮人や中国人が井戸に毒を投げ込んだ!』と、全く根拠のない噂を立てて、地震ばかりではなく、大騒動が起きたのです。その騒動で、虐殺が起こって、多くの犠牲者を生んだのです。

 根拠のない情報が、人を狂気に連れていくことの怖さが、大問題とされたのです。社会がパニックに陥った時に、人が群集心理に動かされ、小さなデマが、憎悪を産んでしまうということがあったとしたら、今でも、そう言ったことが起こりうるのです。

『実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。 正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。(新改訳聖書 イザヤ59章3-4節)』

 情報の溢れかえる現代、デマ情報が溢れています。人の耳は、容易に、その偽情報を聞いて、信じ込んでしまうのです。不安が大きくなればなるほど、デマを拡散する人が増え、騒乱を起こすために、故意にそのデマを拡散させる者たちが起きてきます。

 作為的にデマを拡散することは、人類史上、よく起こってきています。ユダヤ人への憎しみが、誹謗になり、あのホロコーストをもたらせ、夥しい数のユダヤ人が、あのナチスドイツ、ヒトラーによって虐殺されています。ユダヤ人への憎悪を増し加えて、ドイツ国民の支持を得たのです。

 第一次大戦でのドイツに敗北、莫大な金額の賠償金の負担、ドイツ人社会を圧迫した背景で、その元凶こそがユダヤ人だとし、彼らへの憎悪が増幅されて行き、それが大虐殺に至ったのです。歴史を見ますと、人の心は、容易にデマに冒されるの危険性に満ちていると言うことです。

 何気ない小さな嘘が、瞬く間に拡散し、拡大し、火のように燃え始め、燃え広がって大火事になるように、噂は、人の間、群衆の間を駆け巡って行きます。

 現代は、偽情報が、簡単に拡散していく危険性を帯びています。冷静さの中にいる間はいいのですが、パニックになってしまう時には、常軌を逸してしまって、嘘を簡単に信じてしまう心理状況に、簡単に陥ってしまいます。人の悪意や憎悪は、ものすごい勢いで広がり、影響し、汚染してしまいます。

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 こんなに小さなスマホは、情報発信元に容易に繋がり、膨大な情報が流れ出てきます。今や、このツールが、デマの道具に、手段に、回路になります。人を嫌わせたり、憎ませたり、死なせたり、殺させたりする道具になる怖さを感じて、心が震えるほどです。心って、それほど欺瞞に満ちていて、嘘に支配されやすいのに、気付き、護る必要があります。

 悲しかったのは、華南の街に住んでいた時に、郊外に大きなバスターミナルがあって、その地域で、あの日華事変の折の悲劇を聞いたことです。侵攻してきた日本軍が、井戸に毒を投げ込んで、多くの犠牲者が出たという話でした。民間人に対する罪は大きいのです。どう弁明もできずに、私ができたのは、『对不起duibuqi!』とのお詫びだけでした。その一件はデマではなく、真実だったのです。そんな過去のある中での13年間でした。

 もう一言申し上げたいのです。

『そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。(エレミヤ51章46節)』

 エレミヤは、預言者として、将来に関して多くのことを書き記しました。その一つは、「うわさ」に関してです。まるで戦争が起きるように、噂が溢れる時代の到来の預言なのです。『あの国で、あの人が、こんなことを言っている!』と言う、「噂」が増え広がる時代が到来することの預言でしょうか。人心を不安にさせる噂に弄(もてあそ)ばれてしまうのです。注意、注意!

(ウイキペディアによるミケランジェロの描いた「エレミヤ」、「初代iPhone」です)

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滅ぼされた「死」、だから恐れるな!

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 人間の究極的な敵とは何でしょうか。どんなに素晴らしいダムを建設し、宇宙の果てを見極める望遠鏡を発明し、火星に足跡を記し、ガンを制圧するような医学の驚異的な進歩があったとしたとしても、私たち「人」には、「死」の問題は、厳然として残ります。

 私は、若い頃に、師弟の間で交わされた会話を、亀井勝一郎の随筆本で読んだことがありました。師は倉田百三、広島県の庄原市に生まれ、浄土真宗の宗教的な環境の中で育ったのです。後に、一燈園(争いのない平和を求めて奉仕や農事や教育を行う団体)の生活を体験したり、親鸞の教えをまとめた「嘆異抄」を熟読します。

 一高に進学し、西田幾太郎の「善の研究」に惹かれています。また日本アライアンス教団の教会にも出入りし、聖書を読み、讃美歌を歌い、ある時は、教会の講壇に立って、説教までしています。このアライアンスの群れは、A.B.シンプソンの教えた「四重の福音(イエス・キリストが救い主、聖別主、神癒主、再臨の王)」を掲げていて、その影響が、百三には強かったのです。

 27歳の百三は、6幕の戯曲、「出家とその弟子」を書き上げています。それには、親鸞の教えとキリストの教えの影響を強く受けたもので、大正期には、16万部もの部数を売り上げたベストセラーであったそうです。親鸞の教えとともに、聖書の記事に強く影響されてもいたのです。

 晩年に至って、百三は、次の様なことを書き残しています。「二十三歳で一高を退き、病いを養いつつ、海から、山へ、郷里へと転地したり入院したりしつつ、私は殉情と思索との月日を送った。そして二十七歳のときあの作を書いた私の青春の悩みと憧憬と宗教的情操とがいっぱいにあの中に盛られている。うるおいと感傷との豊かな点では私はまれな作品だろうと思う。あれをセンチメンタルだと評する人もあるが、あの中には「運命に毀たれぬ確かなもの」を追求しようとする強い意志が貫いているのだ。(1936年12月7日付の「劇場」所収)」

 そんな百三が、死期の迫ったころに、弟子であった亀井勝一郎に、一つの問い掛けをします。『亀井、亀井、極楽はあるのだろうか?』とです。その時、百三は、肺結核や肋骨カリエスで病床にあって、死期が迫っていました。病床を見舞いに来ていた亀井に、そう語り掛けたのです。

 百三にとっても、この「死」の問題は、重大であったのでしょう。親鸞に傾倒し、キリストの教えに共鳴しながら、模索の生涯、51年を送ります。どうも、迫り来る死についての、言い知れない不安が溢れていたのでしょう。その「死」について、はっきりとした答えを、百三は持っていなかったのです。

 少なくとも聖書は、この問題を避けていません。知りたいと願う私たちに、答えを提供しているのが、永遠のベストセラーと言われる「聖書」なのです。何と言ってるのでしょうか。新約聖書の多くを記したパウロは、死の問題を明確に、次のように述べています。

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『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。(新改訳聖書 ローマ5章6-10節)』

 あの十字架の上でなされた、「キリストの死」によって、罪に落ちた人類への「神の怒り」から救われ、「和解」されるのだと言います。それは、旧約時代に預言者イザヤが語った、次の聖書箇所の成就でもあります。

『この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。この御救いを楽しみ喜ぼう。」(イザヤ25章7-9節)』

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 「永久に死を滅ぼされる方」がいると言うのです。生きとし生きるものに命を付与された神が、罪を犯して、死ぬものとなってしまった私たち人に、「救いの道」を切り開いてくださったのです。ただ一人、人は空(むな)しく、寂しく、定められた70〜80年の生涯をたとえ終えたとしても、永遠の世界が残されているのです。 

 では、この「死」に対して、仏教ではどう言っているのでしょうか。浄土真宗を始めた親鸞は、次のように言いました。生と死は、紙の裏表のようなもので、「生死(しょうじ)の問題」、「生死の壁」と言っています。「後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)」のことです。まるで、人の一生は、さまざまな感情が表され、怒ったり、腹立しかったり、悲しんだり、そして喜んだりします。親鸞は、「生死出(しょうじい)づべき道」と言って、生死の問題を説きました。

 ただ、死についての解決の道は語っていません。死が滅ぼされることにも触れませんでした。ただに「極楽浄土」が西方にあるとの教えは語っています。倉田百三は、「魂の遍歴」を述べますし、浄土真宗の盛んな地で生きながら、その教えに帰依したのですが、それでも聖書を読んで、聖書の話を聞いて、聖書のが説く「隣人愛」に強く共鳴しました。そして讃美歌を歌い、教会では説教もしていた人だったのだそうです。

 でも、自分の死期が迫ったときに、「極楽浄土」があると言う確信が、百三の内で揺らいだのです。

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。死は勝利に飲まれた。(1コリント15章54節)』 51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。パウロは、次のように語ります。 53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15章)』とです。

さらに、

『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ1章10節)』

 イエスさまが、「死を滅ぼした!」と言います。そのキリストは、死と墓と黄泉とを打ち破って、蘇られたのです。そして、今も生きておられ、私たちにために執り成しの祈りをしていてくださり、やがて、私たちを迎えに来てくださると約束されたのです。

(ウイキペディアによる「出家と弟子」の初版本、デゥラーの描いた「パウロ」、「死海写本」です)
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誤解

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 「人間万事塞翁が馬」、飼っていた馬が死んでしまって、その代わりに駿馬を、老人が手に入れるのです。ところが、息子がこの馬に乗っていて、落馬して足を悪くしてしまう不幸に見舞われます。ところが戦争が起きてた時に、足が不自由になってしまったが故に、兵役につかずにすんだのです。この中国に伝わる諺が誕生した由来です。

 悲嘆に暮れるような不運が、いつかは幸運に変わるものなのでしょう。「カス」で素行の悪い息子だって、鷹揚な親の養育の中で、ありのままで、精一杯育て上げたら、立派な大人にもなれる、「子はカスがいい」と育てた母親は、その子から、やがて慰められるのです。

 家内がよく言っていたのですが、『どんな愚かで、悪い親でも、その親に育てられる方が、立派な赤の他人に育ててられるよりもよいのです!』とです。私は、子育ての最中に、『親は親なるが故に親として遇する!』という格言を知って、親は神さまが、その子に与えたのであるから、どんな愚かで、無教養の親でも、親であるから、親として受け入れ、感謝し、尊敬するようにと教えられて、親の欠点だけ見て非難するのではなく、親であるが故に、親として受け入れ、敬意を表すべきだと理解したのです。親の恩は、忘れてはならないのです。

 良い指導者に恵まれた人が、優秀な人材になって、自分の努力ではなく、親や指導者の忍耐で、有為の人間になり、本人も、お母さんや教師のお陰だと感謝したことでしょうか。と言うのは、いつだったか、ある家庭雑誌を読んでいました時に、ひとりのお母さんの勘違い、誤解だったのを、横道に逸れた息子の可能性を信じ、立派に立ち直らせたと言う話を読んだことがありました。

 このお母さんは、『子はカスがいい!』と聞いて、そう信じ切って、どうにも手のつけられない〈カス〉のような素行不良の子を、ありのままで受け入れて、立派に育て上げたのです。学業も素行もよくないわが子を諦めないで、捨てもしないで、育てたお母さんの〈勘違い〉を、実に微笑ましく読んだことでした。

 生意気で、不純物だらけの〈滓(かす)〉のような私を、父も母も諦めないで育て上げてくれたことを思い返して、子どもの頃を振り返ると、親の温情への感謝が想い出されて、感謝が涙と一緒に、胸の奥からあふれてきそうです。何度も学校に呼び出されて、いろいろ注意を受けても、母は悲観しなかったのでしょう。退学処分を受けず、いつの間にか、上の学校にも進学し、学校の教師にまでになり、四人の子の父親になった私は、不思議でなりません。

 「子は鎹(かすがい)」と言う言葉の誤解だったわけです。夫婦を繋ぎ止める子どもの役割について、そう言う様です。木造建築で、持ちられる「鎹」の様に、お父さんとお母さんの危機的な状態を、繋ぎ止める「鎹」の役割を、子が担っているのです。

(”フォトライブラリー“の「鎹」です)

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Giant

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 アメリカ映画が、その意味深い原作、規模、華麗さ、演出の巧みさ、個性的な俳優たちでした。ただの娯楽でも、アメリカ文化の宣伝だけでもlなく、世に問題を問い、人のあるべき生き方、明るい将来などを提供してくれたことが、ここ日本でも、高い評価を下されたのです。

 「エンターテイメント(entertainment)」や「もてなし」だけでなく、「思想」や「夢」や、「将来」が、スクリーンに溢れていたように思えたのです。とくに、立川の映画館で観た、「ジャイアンツ(Giant)」には圧倒されたのです。アメリカで、ジョージ・スティーヴンスが監督をし、莫大な額の制作費で製作され、 1956年の10月に公開されています。日本では、翌1957の暮れに公開されていたのです。

 母の所属した教会を始められた方が、テキサスの出身だったと聞いていましたので、当時、アラスカは、まだ準州でしたから、最大の州は、このテキサスだったのです。そのテキサスを舞台にした、壮大な30年間の牧場主のベネディクトとジェットとの生き様が描かれていました。

 東部から、花嫁を連れて、個人所有の列車で、私有の大牧場を横切る大パノラマでした。大邸宅の庭ででしょうか、子牛が一頭、バーベキュウされている場面は、もう羨ましくて、ヨダレを出しながら食い入るように観て、アメリカの物量の凄に圧倒されたのを昨日のように覚えています。まだ、和牛ブランドなどが出現する前のことでした。

 1952年に、エドナ・ファーバー(Edna Ferber)が、執筆した小説の映画化で、小説の題名も、「ジャイアント(Giant)」でした。使用人ジェットの所有地から、オイルが噴き出す場面にも圧倒されました。彼は、オイル王の大富豪になるのですが、多くの招待客のあった大パーティーで、白髪になっていたジェットが、酔いながら話をする場面で、そのテーブルに倒れ込む場面がありました。若干24才のJimmyの演技の素晴らしさも圧巻でした。

 こんな国に宣戦布告した日本が、勝てなかった理由が、この映画を見た中学生の私を納得させられたのです。あの戦争に負けた現実を、まざまざと思わさせられた映画でした。それ以上に、人種的な差別や偏見のあった現実も、この映画は取り上げていたのです。私たちの国でも、アイヌのみなさんや、逃散したみなさんへの偏見があったことも忘れてはなりません。

 牧場主夫妻に、子どもが与えられ、家族旅行をしているときに、レストランに入ったのです。賑わっている店に、メキシコ系の老夫婦と娘とが入って来たのです。店主は、その様子を見ている間に、三人は、席に着きます。するとエプロン姿の屈強な店主は、その席に近づいて、出ていくようの鋭く語り、テーブルの上に置いた帽子を、老人の頭に被らせ、むんずと肘を掴んで立ち上がらせます。老人は、お金を見せるのですが、有無を言わせません。

 その様子を見ていたのが、あの牧場主、初老になっていたベネディクト夫妻と娘と息子の嫁と孫でした。席から立ち上がったジョーダンは、『おい、あんた!』と、オーナーシェフに声を掛けながら近づくのです。話している間も、コック姿の店主は、席から立ち上がらせて出そうとします。それを許せなかったジョーダンは、大男に、一発のパンチをかますのです。

 この映画の主題曲が流れる中、二人の大男は殴り合いを繰り広げます。形勢は、ジョーダン不利で、シェフの大男がついに殴り倒してしまったのです。その場面を観ていて、メキシコ系やアフリカ系のアメリカ人への長い人種差別や偏見の様子を目の当たりに見せられたのです。まだ公民権運動など起こる以前のアメリカの南部で、しかも奴隷制の行なわれてきたテキサスを舞台にした、ジョーダンのメキシコ人家族を庇おうとした勇気に喝采をしたのです。

 実はジョーダンの息子の夫人は、メキシコ系の方で、孫も、その血を引いていたのです。家族への思いも重なって、ジェッとにも殴られ、また大男にも殴られているジョーダンの気持ちが素敵でした。喧嘩だけは強かった自分が、変わって、この大男を殴り倒したい気持ちが湧き上がってしまっていたのです。

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 また成り上がりの石油採掘者のジェットと大富豪のジョーダンとの若い頃からの30年にも及ぶ確執も、この映画の観どころだったでしょうか。大きなパーティー会場に舞台裏で、ジョーダンとジェットの喧嘩の場面もありました。物凄い量のワインを収めたワイセラーが倒れ込んで、割れていく様子には、度肝を抜かれたのです。

 まだ泥沼のように長引いたベトナム戦争の始まる前の映画でした。自分の育った街は、大きな米軍の空軍基地のあった街の隣にあったのです。米軍機の爆音が頭上に響き、時には河川敷にジェット機が墜落し、破片拾いに出掛けていましたし、基地の司令官の住宅も、自分の住んでいた家のすぐそばにありまました。最初に覚えた英語が、〈give me chocolate〉だった世代の自分でした。

 大男のオーナーシェフが、ジョーダンを殴り倒したときに、壁にかかっていた額(we reserve the right to refuse service tore  anyone が記されてありました。その訳は、『私たちは、すべての人のサービスを拒否する権利を保持します。』でした)を取って、横たわるジョーダンの胸の上に置きました。『俺にだって、客を断る権利があるんだぞ!』と言っていたわけです。

 アメリカ人が持つ権利と、アメリカ人の良識が衝突しているのでしょう。アメリカ映画に、娯楽以上のものがあった時代の輝きが、この映画にはあったように思えるたのです。中学生では分からないことが、今になって分かったことでもあります。65年ぶりの映画鑑賞でした。

(ウイキペディアの「Blue jeans」、「油田」です)

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