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日本の風景の中でも、ひときわ美観を備えているのは「箱根」ではないでしょうか。標高1438mの頂から見下ろす太平洋は実に綺麗です。この箱根を会場に、「五月聖会」が行われていて、何度か参加したことがありました。東海道の難所で、「箱根の関」が置かれ、西は関西、東は関東と呼ばれたのですが、この歌の歌詞に出て来ます「函谷関」は、中国の関所のことで、中原と関中を東西に分けた、重要な地点でした。ここで、戦いが行われ、秦の始皇帝が勝利します。
この始皇帝は、今から約2200年前に、中国史上初の国家統一を遂げて、初代皇帝の地位に着いた覇王でした。権力と富を手中にした、専制君主だったのです。後に起こる権力者たちは、支配者の立場を得るためにも、その権勢を維持するためにも、この始皇帝がモデルだったのでしょうか。中国史上、その野心を成就しようと、始皇帝に真似た人は10本の指でも数えられない程に多かった様です。
その都が「咸陽(現在の陝西省)で、当時、世界最大の都だったのです。古代中国で、有名な都市は、長安(現在の西安)で、天山回廊を経て、地中海世界と結んだ交易路があって、後になって「シルクロード(絹の道)」と呼ばれます。奈良の東大寺の近くにある「正倉院」に至る道も、その延長線上にある様に言われます。この正倉院には、絹の道で運ばれて来た宝物が、9000点も収蔵されているのです。
秦は「しん」と呼びますが、「はた」とも呼んで、「秦氏」が、日本に渡来して、「機(はた)織り」などに従事したと言われていて、この「秦(はた)」の苗字のみなさんがおいでで、大陸からの渡来人の子孫であると言われています。日本は、この中国と深く関わりがあるには周知のことです。在華中に、この西安や函谷関に行く機会がなかったのはちっと残念でした。
さて、始皇帝が征服したかったのが、もう一つ「死」でした。そのために、不老不死の妙薬(仙薬)を探させたのです。その任を託されたのが、「徐福」でした。始皇帝の命を受けた徐福は、ここ日本に来たのでしょう。その名の「福」と、日本の「福」の付く地名は、彼が訪問したか、部下を派遣したかで、関わりがあったのだとか、そうおっしゃる研究者が、けっこう多いのです。
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そんな権力者であっても、ままならなかったの自分の寿命でした。「永生」を願って、最後の敵である「死」に打ち勝ちたかったのです。剣では得られない代物でした。「蓬莱の島」と呼ばれていた日本に、大軍団を組んで来た徐福は、任務を果たせなかったので、西安に戻るなら処罰されるのを恐れて、随行員とともに、日本に滞留したと言われています。
徐福は、その始皇帝に仕える「方士」で、呪術、祈祷、医薬、占星術、天文学に通じていたと言われています。出自は、始皇帝に滅ぼされた斉の国の皇子で、才能豊かな人物だった様です。ありもしない仙薬など、見つかるはずがなかったわけです。
歴史に登場した権力者、支配者は、その座を得ても、言い知れない死の恐怖にさいなまれたのでしょうけど、始皇帝は、50歳になる前に、死んでいったのですが、絶対の権力者の彼でさえままならなかったのが、「老い」と「死」だったわけです。天下の覇王も、夢の中で去っていきました。
死を免れた徐福に、渡来伝説、「徐福伝説」があって、日本各地に伝えられている様です。とくに佐賀には、数多くの伝承が残されていて、昔から「徐福さん」と呼ばれ親しまれているそうです。その古代のロマンに捉えられた方が多くいらっしゃる様です。私の歯を診てくださった方も、治療台に座ると、治療よりも、この徐福伝説を、熱く話されていて、検証のために、あちこちと出掛けると言っておいででした。
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関東の北、栃木や群馬や茨城にも、そんな伝説が残っているのでしょうか。文字のなかった時代、記録が残されていませんが、古来、今に至るまでも、お隣の中国と日本とは、切っても切れない関係が積み上げられて来ているわけです。
「一帯一路」、21世紀のシルクロードの交易のために、中国は力を入れた様ですが、やはり今でも、政治や経済の世界で、世界の中心にいたい願いが強いのでしょう。壮大な理想を掲げましたが、人為的なものは、やはり実現は難しそうです。江戸五街道の旧道の端で生活したことがあり、今も例幣使街道の脇に居を置いていますが、多くの人の夢が動き、野心が動いた道も、昔語りの出来事だったのでしょう。でも本物の「夢」は運んでみたいものです。
(ウイキペディアのシルクロード、函谷関、箱根の関所です)
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