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『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。(新改訳聖書 箴言17章17節)』
兄が二人と弟一人の四人兄弟がいて、自分は育ちました。どうも良い意味でも悪い意味でも、評判の四人だったのです。父譲りで、運動神経はまあまあだったでしょうか、自分以外の兄弟たちは丈夫で、学校では運動部に所属して活躍していた兄たちと弟でした。
小学校の四年ごろから、健康を取り戻した自分も、遅まきながら活躍していた兄たちを真似たのでしょうか、モデルの様にしていて、その後を追いかけていました。上の兄は陸上の中距離、アメリカンフットボール、ラグビーなどをし、次兄は野球一筋、弟は小さいころから柔道をし、大学では少林寺拳法やアイスホッケーをし、登山も水泳もやり、体育教師になりました。
自分もバスケットボールやハンドボールやテニスの運動歴がありますが、苦しい練習やシゴキで鍛えられたのと、父母の支えで健康を回復でき、兄たちに負けずにと過ごせたのには感謝がつきません。ワガママな弟、弟には目の上のタンコブの兄の自分を、我慢してくれた兄弟たちの忍耐があってここまで生きてこれました。
みんなすばしっこくて、足が早かったのです。そうケンカも強かった様で、兄弟間でもよくやったので、近所の評判でもありましたが、長じて落ち着いたのを見た近所のみなさんは、驚いていたのだそうです。
弟が来年には八十路に到達で、病んだり怪我の連続をこえて四人とも、父よりも20年も多く生きられています。キャッチボールをしてくれた、父の投球フォームが思い出されて参ります。あのケンカだって、人生の肥やし、鍛錬になったのでしょう、今はいたわり合っている様子に、周りで羨ましく感じているのです。そんな家にはいつも優しい母がいてくれました。
昨日、ひさしぶりに上京したのです。東武日光線、伊勢崎線、JR武蔵野線、中央線を乗り継いででした。『次兄が弱くなっているよ!』と、先月訪ねてくれた弟に聞いていたので、体調もよかったので、弟を誘って、その兄を訪ねたわけです。野球小僧も八十路半ば、テレビにも出る様なホテルマンで、懸命に働いた兄です。どんな兄を義姉や姪家族が応援団をしている様です。
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優しくいつも気遣ってくれ、自分に我慢してくれ、中学生の自分のズボンを、マンボスタイルに縫い直してくれた器用な兄なのです。四十代の初めに、腎臓を壊してしまったのですが、持ち前の頑張り屋でしたから生き抜いたのです。
姪が運転の車で、途中で高級な寿司を、みんなでお昼をしようと、弟が買ってくれ、それを持参での訪問でした。歯医者通いの母の車の運転に助けで、実家に帰っていた姪もいっしょでした。オジたちの訪問を知ってか、キンピラごぼうや煮しめやケーキを用意して、迎えてくれました。
姪たちが羨ましがる様に、今は仲の良い兄弟でいられるのも、二親あっての今なのだと感謝したひと時でした。年相応の今をさまざまに感じながら、いろいろと父や母のことなど、老いていく二親に仕えててくれた義姉への感謝など、あふれるような昔話に盛り上がったひと時でした。兄弟っていいもんだなあ、と改めて感じた兄訪問だったでしょうか。
「苦しみを分け合う」」、そのことのために、神さまは、兄たちや弟、妻や子や姪や甥を与えてくださったのです。もう人生のラストページ、終章にありますが、老いても明日に希望をつないで、今を感謝して過ごしたいと願わされています。ツヤツヤと輝いていた過去から、燻銀の様な今に、Stage up しているんだと思うことしきりです。
兄の最初の職場の車で、免許証を取ろうと自動車学校に通っていた自分が、運転練習をしようと車に乗り込んで、側溝に落輪してしまったことがありました。翌日、兄がこっぴどく叱られたのです。そんな昔話までしてしまったのです。
美味しくって楽しくって、涙が出そうな兄訪問でした。家に帰ったら夕食の用意がしてあって、楽しそうにして帰ってきた自分を迎えて、家内が様子を聞きたがっていた夕べだったのです。キンモクセイの花の香りがしてきた秋満載の栃木と東京都下でした。
(ウイキペディアのキンモクセイ、“いらすとや“のイラストです)
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