いのちの道への道のりを

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 中学生になって、電車通学を始めてから、27歳まで電車利用をし続けました。中学生の頃、電車の前の席に座っている父と同じほどの年齢の男性が、お酒に酔っていたのでしょうか、『♯ 勝ってくるぞと勇ましく 誓って国を出たからにゃ・・・♭』と軍歌を歌っていたのです。生気のない沈んだ眼差しを見せていました。その時、私は『俺は、絶対こんな眼の大人にはならないぞ!』と決心したのです。今でもありありと、その十四の決心を覚えています。きっと過去を引きづらずに生きたいと願ったのでしょう。

 ところが少年期の決心な当て脆くも失われて、23、4になった頃には、薄汚れた青年になっていたのです。バクチと麻薬には決して手を出しませんでした。父が警告として、子どもの頃から教えてくれたNiが抑止力になったのだと思います。それでも一人前に薄汚れてしまっていました。そんな自分に、間も無く大きな転換が起こったのです。そのことを記してみます。

 小学生の頃、近所に、お父さんが電力会社に勤めているご家族がいました。弟と同級の男の子と、その弟がいて、けっこう親しい近所付き合いがあったご家族だったのです。弟の友だちなのに、私も出入りした家でした。ご両親は関西の出身で、物言いの穏やかな方たちで、みなさん病気がちでしたので、静かで穏やかな生活をされていました。それにひきかえ、道路を挟んだ反対側のわが家は、父を加えて男五人は、騒々しくも荒れていて、極め付け対照的でした。

 このご家族は病弱だったからでしょうか、何か信仰をなさっていて、けっこう熱心だった様です。わが家は、母がクリスチャンで穏やかだったのですが、父と4人の男がいて、みな自己主張が強かったので、日常的に父子喧嘩や兄弟喧嘩が繰り広げられて、近所を考えながら遠慮がちに喧嘩をすればいいのでしょうけど、みんな熱かったので、激しいやり取りの日々の連続でした。

 きっと養女の身の上で、実の父母も兄弟姉妹もなく育った母は、喧嘩騒動の絶えない家庭の粗暴さの中で、私たち4人の兄弟の絆の強さ、関係さの緊密さ、手加減さを見て、子どもの時期に喧嘩相手もなく寂しく育ったので、羨ましくも思っていて、けっこう4人の火花を散らす如き喧嘩や叫び声や怒声を楽しんでいたのかも知れません。オロオロしたり、止めに入る様なことはしなかったのです。ある面では、げーむのような私たちの抗争を楽しんでいた母だったかも知れません。

 ですからその街では、けっこう有名な家庭だったのです。家内は、その街の市役所の保育所に勤めていました。その上司が、私と結婚しようとしていた部下の家内に、『あの家族の兄弟の一人と結婚して、ほんとうに大丈夫なの?』と、大真面目に、心配して聞いたのだそうです。ですから、そんな有名な4人の将来を、その街の人たちは危ぶんで観察していたことになります。でも感情的に充分に発散していましたから、引き籠る様なこともなく、学校は面白いし、近所の子どもたちは遊び仲間でしたし、荒々しい家庭であった割には、父は、不義や不正や偽善を嫌い、しっかり拳骨で躾け、『金は残さないが、教育だけは受けさせてやる。あとは自分で生きてけ!』と、教育を受けさせてくれました。

 街のみなさんの心配をよそに、兄が都立高や大学に進んで、運動部で活躍したり、次の兄は甲子園を目指す高校球児でしたし、弟も体育や山登りの好きな元気な男の子でした。自分だけが私立の中学に入れてもらい、我儘に生きていたのです。それぞれ友だちが多くいて、やがて社会的にも、きちんと生きていく様になり、兄は大手の会社に、次兄は大学を出て外資系のホテルに、弟は母校の教師に、自分も教師の職を得て働き始めたのです。

 子どもの頃を知るみなさんは、狐につままれた様に、私たち4人の生長の様子を見ておられました。その心配が裏切られた様に感じられたのでしょう。母の信仰を受け継いだ兄は、その同じ街で伝道し、教会堂を建て上げたアメリカ人宣教師が始められた教会に、母は導かれ、信仰生活をしてきた教会で、その教会の牧師になってしまい、私も兄と同じ道を歩んだのです。

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 「ふたりは、『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』と言った。 (使徒行伝16章31節)」


その母の信仰の原点は、14歳の時に、カナダ人宣教師の家族との出会いを通して信仰に導かれたのです。その宣教師の家庭に暖かな様子に、強烈な印象を受けていたのです。その様子を近くで眺めながら、父親も兄弟姉妹もない自分の寂しさを噛み締めていた頃、父がいることを、教会学校で教えられて知るのです。万物の創造者の神こそが、父であることをです。それは、母の一生をクリスチャンとして生かしていく、「父なる神」との出会いでした。

 80年もの間、信仰を持ち続けた母が、やがて知るのは、自分は、今のお母さんの子ではなく、本当のお母さんは奈良にいると、近所のお節介な親戚のおばさんに聞いて、自分の境遇を知るのです。それで、十七になった頃、母は汽車に乗って奈良に、生母を訪ねたのです。家に入れてもらえず、井戸の傍で、母親に会ったのです。でも、『今の自分の幸せを壊したくないので、出雲に帰ってね。』と言われたそうです。泣く泣く母は、そこを後のしたのです。

 その宣教師家族の暖かな生活の様子、その信仰に憧れたのでしょうか、日曜日になると、母は、兄たちと弟と私を、あのカルガモの親子の様に、電車に乗せて教会に連れて行ってくれました。それが母が子育てでしたいと願った、子への最善だったからなのです。信仰の種蒔きだったのです。

 そんな4人は、ある時点で、みな信仰を告白し、バプテスマを受け、家庭を持って行きました。あの近所のおばさんを訪問した時に、こんなことを私に言いました。『万ちゃんは、国体のラグビーの試合で、瀕死の大怪我をした経験から、クリスチャンになり、牧師になったのは分かるけど、準ちゃんは、そういった経験もないのに、どうして教会に行く様になり、牧師になんかなったの?』と不思議がって聞かれたことがありました。

 人には、だいたい入信の動機というのがあって、大問題、たとえば大怪我、大病、不幸、破産、家庭破壊、失恋などの辛い経験を経て、信仰を持つことが多いのだそうです。そのおばさんも、病弱の中で、関西圏で有名な宗教団体の会員になられた方だと、母から聞いて知っていました。〈健常者には信仰は不要〉という論理です。また、『将来を約束されているのに、牧師までならなくてもいいのに!』という考えでした。

 私たち兄弟は、母の祈りによって育てられたというべきでしょう。ところが表向きは真面目に見せていましたが、内実は罪だらけで真っ黒な私でした。あのおばさんは、心の中は見てはいなかったからです。そんな私が、学校出たてで、福岡県の教員研修会の開催で、水都柳川に出張したのです。当時、その近くの街に住んで、宣教師の帰国中の教会の世話を頼まれていた兄を、早めに出掛けて訪ねたのです。

 将来の役職を約束されていた兄が、期することがあってでしょう、その会社を辞めたのです。最初の子に期待し、望みをかけていた父の落胆は大きかったのです。そして献身し、わずかな若者たちのお世話を、九州の街でし始めたのに驚いたのです。蹴飛ばされたり殴られた私は、兄の激変振りを見届けたくての訪問でした。学生時代には花形運動選手で、オフシーズンには、酒に酔い、麻雀の虜になっていた兄だったのです。

 一晩、兄を連れ出して、その筑後の裏街の寿司屋に一緒に入りました。出張手当てで懐の温かい私が兄を、初めて奢ったのです。美味しかったのか、久し振りの高級寿司だったからか、兄が鼻血を出すほど満足した様子でした。泊めてもらったのが教会の建物の離れで、『タバコ吸っていい?』と聞いたのです。『ここは・・・』と兄が言ったので、親に隠れて子どもの頃から、父の煙草盆に手を出して吸い始めていた一服をやめただけではなく、出張先の料亭接待で出た酒は、美味しく呑んだのですが、タバコだけは吸わなかったのです。それで、出張を終えて、東京に戻ったわけです。

 実は、その兄家族の訪問が、まだ二十代前半なのに、いろいろなことがあって、一端の男をしていた私の人生を大きく方向転換させ、曲げたのです。『何が、あの兄を変えてしまったのか?』が、その訪問で分かったからです。次の年、ある学校から招聘されて、教員になるために、その職場を辞めました。その教員生活の途中で、殊勝にも私は教会生活を始めたのです。兄が東京に戻って、宣教師から教会の責任を受け継いだので、その応援のつもりもありました。

 義理で日曜礼拝に出て、やがて水曜日の聖書研究会にも、ついには、自分の意思で祈祷会にも出る様になっていました。祈っていた時に、なぜかひとりの女子大生が私を、車で訪ねて来て、遊びに誘ったのです。それを断ったことがありました。断ることなどなく生きてきた自分にしては、自分でも呆れる様な出来事でした。

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 「私は、自分でしたいと思う善を行わないで、かえって、したくない悪を行っています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行っているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。(ローマ人への手紙7章19~20節)」

 d『すまい!』と言って心に誓っのですが、大人の遊びに引き摺り込まれて、やめられないでいたのです。奈落の底に落ちる様な中から出る力がなく、ズルズルしていたのに、いわゆる断捨離ができる様になったのは、兄の劇的な変化の目撃でした。その頃から驚くべき力、恵み、憐れみが自分の人生にも、強く作用し始めたわけです。強烈な誘いを断わることのできる意思と力を与えられたに違いありません。それでトゲを抜かれて縮こまってしまった自分に、自分自身で驚いてしまっていました。それが次の一歩だったのです。

 異国のエジプトに、兄たちに売られたヨセフが、王の高官の夫人から誘惑された時に、掴まれた袖を残して、走り逃げた様に、誘いの時と場所から逃れる力って、何だったのだろうと思い返すと、その力の根源が分かったのです。

 教会生活を始めた頃に、ちょっと斜視で口髭を生やした、元ボクサーのアラブ人とギリシャ人の血を引くアメリカ人説教者が、来日して、兄の牧会し始めたばかりの教会にやって来たのです。アフリカに宣教に遣わされている教え子を訪問する途上のことでした。聖書の聖句をそのまま歌う “ chorus ” と言う賛美の歌を、力強く歌っては、聖書を理知的に説き明かす方でした。

 その特別な夕べの集いに、私も参加する様に招かれたのです。ところが強烈な力で、『行くな、出るな、よせ!いつもの様に下宿先に帰ったほうがいい、!』と、集会出席を阻む力が強烈に働いていました。何かが起こってしまうことを阻止しようとしてです。それでも、兄の教会で夕食を食べ、兄の住んでいた家に住み始めていて、都内に通勤していた私は、外食すればいいのに、次の晩も仕事帰りに、駅近の教会によって、食事をしてしまったわけです。

その食卓に、その元ボクサーが着いていて、青い目で私をチラチラと見ていました。まさに穏やかな視線だったのです。最初の晩には何も起こりませんでした。そうして次の晩も同じ様にして、教会の席の後ろの方に座って、この人の歌う賛美を聞き、説教を聞いていたのです。話が終わりかけた頃、『祈りますから前においでください!』と、彼が招きました。

 それを聞いた時に、『出るな、絶対出るな!』と、また強烈な内なる迫りが再びあって、自分の椅子にしがみつく様にして踏みとどまっていました。ところが私の席に来た兄に促されて、前に出てしまったのです。そんな私に、五十ほどの年齢のニューヨークの神学校の教授が、頭の上に手を置いたのです。そして、この方が異言で祈り始めたではありませんか。

 この異言ですが、それを聞いていますと、通常の感情表現には思えず、知的な私には異常にしか思えませんでした。その言葉を、それまで母が導かれ、熱心に礼拝や聖書研究を守る教会で、ある時期から、時々、母に誘われて出席する集会で聞き始めたのです。とても嫌悪感を感じていたものでした。ところが、そんな私が、その異言を語り始めてしまったわけです。

 

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 「私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、(1コリント14章18節)」

 それは望外のことでした。突然、泉が湧き出す様に流暢に異言を語ってしまいました。私は冷静だったのです。異言を体験したことのない人たちが言われる、〈我を忘れた恍惚状態〉などではなかったと思います。神の存在は信じられたのですが、イエス・キリストの十字架が分からなかったのが、突然、『俺のためだった!』と分かったのです。同時に、私は激しく泣きました。悔恨の涙だったのです。それで赦された実感が心を満たしたからです。「義認」や「選び」を明らかにしたパウロは、「異言」を語ることの祝福を知っていて、賜物としての聖霊が語らせてくださる「異言」を語ることを恥じないばかりか、公言しています。

 17で信仰告白をしてバックスライドし、22でバプテスマを受けてバックスライドし、そして25で、その異言を語って、聖霊に満たされたのです。自分が何者かが分かり、罪が分かり、激しく泣いたのです。その体験によって、力と自由を、私は得たのです。それ以来、半世紀の年月が過ぎますが、強い誘惑は私を強烈に誘うのですが、それを拒む力が、その聖霊体験によって与えられたに違いありません。そればかりではありません、《献身の願い》が、同時に起こったのです。

 当時、私が働いていた女子高は、大正期に開学された伝統校でしたが、教師たちは驚くほどに低劣でした。三十代の音楽教師が、『廣田くん、ちっちゃな恋人(〈可愛い娘〉と言ってました)を持ってもいいんだよ!』とか、アメリカに旅行した一人の化学教師が、〈ポルノ写真〉を持ち帰って来て、『見ませんか!』と言うのです。また、生徒の帰った後の視聴覚教室で、あの類いの8mmフィルムを上映をすると言うのです。『みんなと一緒に準先生もどうですか?』と誘うではありませんか。

 かつて、そんな世界を彷徨っていた自分でしたが、教職者には無縁の世界のことだと思っていたのとは違う、あの女子校の教員たちの現実は、確かに職業とは無関係なことであっても、教育に命をかけようとしていた私とは別世界のことでした。生徒を教える教室で、あんなものを見ようとする彼らに驚き、怪しんだのです。二度と再び、吐き出した汚物の中に戻りたくなかった私でした。そんな魔界の誘いを唾棄する様に断りました。

 私は、それまで素晴らしい教師に恵まれて教えられ、矯正されたので、教育者となる機会が与えられて、この道で生きていく決心をしていたのです。そして将来は、その学校の系列の短大で教え、ある大学で講座を持てる様に道筋が、恩師によって、その青写真ができ上がっていました。しかし、私の願いではなく、神は、私を伝道者の道に導かれたのです。聖霊に満たされる以前に、伝道の道に生きる願いなど微塵もありませんでした。ところが、聖霊のバプテスマを受けた瞬間に、教会の主は、私の思いに中に、福音に仕え、教会に仕える様に導き、強い願いを起こされたのです。

翌年の夏休みに、結婚したての家内と、同世代のご夫婦と、当時、九州熊本の地で、友人の宣教師がアメリカに帰国中の教会のお世話のためにおられたA宣教師を訪ねたのです。その滞在の期間中に、青年キャンプが行われ、前もって、そのキャンプで、若いみなさんにお話をするように頼まれていました。それで、「箴言」をテキストに説教を準備して出掛けたのです。私の最初の説教は、熊本でなされたのです。それを終えて帰京しまして、しばらくして、その宣教師も東京に帰って来られたのです。

 この方が、東京を離れて別の街で開拓伝道をすると言うのです。伝道者の訓練を受けながら伝道の助手をしながら、彼から学ぶ様に、献身を挑戦されました。その頃、共に伝道者として仕え、助け手となれる一人の姉妹と、すでに結婚していました。翌年には子供が生まれる予定でした。また責任上、もうしばらくその学校で働くことにしたのです。

 家内と共に、主と教会に仕えるため、私は、その招きの応じて、躊躇なくその学校を、その年度で依頼退職しました。ある方が、転職していく私に、『教会の伝道者になるって、そんなに儲かるんですか?』と聞いてきました。儲かりませんでしたが、人に物を乞うことなどせずに今日を迎えています。真の自由人となった実感を得たのです。

 ある時、銀座にある書店の社主を訪ねたのです。この方は父の友人でした。戦後、アメリカから宣教団が来日されたおり、しばらく通訳をされて、日本中の諸教会で奉仕された方でした。私が宣教師と一緒にいて、個人的な訓練を受けていること知って、『宣教師と一緒にいたってだめだよ。僕の神学校で学びなさい。奥さんは、系列の保育園で教えたらいい!』と誘ってくれたのです。つまりその神学大学に推薦すると言ってくれたのです。私はパウロがテモテを育てた様な、初代教会方式に導かれていたので、その推薦をお断りして、家族と宣教師の元に帰ったのです。

 これが私の暗闇の世界からの《exodus/エクソダス(出国とか脱出)》でした。あの学校の現実がなければ、また、あの兄の強引な働きかけがなかったら、その決心は鈍っていたに違いありません。それもこれも、憐れみと恵みに満ちた神の接近だったの違いありません。そんな中での聖霊体験だったことになります。


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「私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。(1テモテ1章13節)」

 喧嘩ばかりし、堕落の道をつき走って、奈落の底に落ちかけていた私の暴走を押し留めた聖霊体験でもあったのです。母に宿った信仰を受け継いで、受けた恩寵は計り知れません。聖書信仰も贖罪信仰も、子とされることも義認も聖化も、やがて栄光化されることも、浸礼も聖霊のバプテスマも、復活も再臨も空中携挙も千年王国も神の永遠の統治も、教えられた様に、学んだ様に信じられているのです。

 「私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる。主のあわれみは尽きないからだ。 (哀歌3章22節)」

 滅びかけていた私に働いた力は、多くの罪人を聖徒としてきた聖霊の御業に違いありません。一方的な恩寵、無価値な者への憐れみ、絶望していた者への将来への啓示でした。あの兄の家の留守番に誘われたことも、兄夫妻の愛に動機付けられた策略だったのを後で知りました。出世や成功を夢見て生きていこうとしていた私を、兄夫妻に、まんまと嵌められて、いえ、神の憐れみの差配、導きによって変えられ、生かされ、そして文句なしの今があります。

 あのA宣教師のもとに8年間いました。それは、私の厄介な「日本精神」を取り扱う日々だったのです。子どもの頃の ” give me chocolate!” 世代の過去を、少年期から青年期にかけて、「恥」が思い出されて、アメリカ人への敵対や憎悪が湧き上がって来たのです。そんなことを子どもの頃にしてしまったのを、後悔したわけです。それでアメリカ兵に喧嘩を挑んだり、アメリカ人への不遜な態度を露骨にして、その過去の恥をすすごうとして躍起になっていたわけです。アジアに侵略を仕掛けるヴェトナム戦争を繰り広げるアメリカと米兵を憎みました。

 そんな私への聖霊の取り扱いは、続いたのです。私の中の「日本精神」を、A宣教師は初めから見抜いていたのです。彼への反抗、悪い態度があって、関係の決裂の危機にありました。断られましたが、愛媛県にいた老牧師を訪ねて、弟子志願したこともありました。そんな時、兄や、静岡県下にいたB宣教師が仲介してくれて、決裂を避けることができました。やがて、変えられた私に、宣教師は、教会の責任を任せて、他の宣教地に移って行かれたのです。

 神学校ではなく宣教師、しかもアメリカ人のもとで学び、訓練を受ける決断をさせたのも、神さまの働きだったに違いありません。あんなに嫌っていたアメリカ人のもとに、8年も踏み留まらせたのは、私の内に潜むものを、神さまが取り除くためであったのでしょう。それがなければ、中国での13年はなかったに違いありません。

 明治生まれの父も、クモ膜下の出血で入院中に、期待を裏切られた長男に導かれて、信仰を告白したのです。『俺の腰から出た息子が聖職に就いたのか!』と、子どもへの期待への裏切りを、母に、そう語ったのだそうです。間もなく、入院先で脳溢血で亡くなりました。その兄の最初の葬儀の司式が、父でした。遂に妻の積年の祈りに、神さまが応答されて、永遠の命の救いを、父も受けられたのです。幼い日、父は、祖父に連れられて、横須賀市内の教会に連れて行かれていたそうです。それででしょうか、「主我を愛す」を、炬燵に横になりながら口ずさんでいたことがよくありました。

 一人の信仰者への溢れるほどの恩寵が、夫と子どもたちを「救い」に導いたことになります。いえ憐れみと恩寵に満ちた神さまによったのです。今も感謝が尽きません。以上が、私の魂が解き放たれた信仰上の歩みなのです。自由を得た道のりであります。

(幼い日の孫たちが行く家の前の道です)

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なおき者にふさわしい賛美を

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『私はあらゆる時に主をほめたたえる。私の口には、いつも、主への賛美がある。私のたましいは主を誇る。貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。私とともに主をほめよ。共に、御名をあがめよう。(詩篇34篇1~3節』

 「凝り性」と言われる人が時たまおいでです。飽きっぽい自分とは対極にいる人です。同級生に、映画オタクがいて、とくにアメリカ映画が大好きで、封切られると、上映館に飛んで行って観るのだと言っていました。そんなに小遣いを、親からもらうのかと思って驚いていました。英語の勉強にはなったのでしょうか、歳を重ねた今も、同じように、映画専門チャンネルにアクセスしてるのでしょうか。そんなに夢中になれる彼が羨ましかったのです。

 『犬を連れ、桜を愛(め)でて、寿司を食う!』、日本人の好きな物事を調査した、NHKの「放送文化研究所」の榊原一所長は、日本人を端的に、そう表現していました。2007年3月に行われた、その調査の結果は、現代の日本人の特徴を捉えているようです。動物では「犬」、木や花では「桜」、食べ物では「寿司」という答えは、男女差と年齢差のない、おしなべて日本人の総体的な好みなのだそうです。

 いつでしたか、モーツアルトの作曲した楽曲が聴きたくなって、まだCD全盛期の頃に、買ったことがありました。そのタイトルは、「音楽療法のモーツアルト」だったのです。きっとあくせく日を過ごしていた頃だったので、温泉にでも行って、ゴロッとして、聴きたくなったからだったでしょう。

 実はクラシック音楽は、“ジャジャジャ、ジャーン!”をラジオで聴いていたからでしょうか、嫌いだったのです。朝、NHKのラジオ放送で、「名演奏家の時間」と言う番組がありました。肺炎になって入退院を繰り返していた就学前から、小学校の3年生ほどまでの間、微熱が出ては、けだるくて学校に行けなかった時に、聴いたのです。

 母に連れられて病院に行かない日は、布団の中で過ごしていました。その時、ラジオから聞こえてきて記憶がはっきりしているのが、クラシック音楽だったからです。目が回って、セキが出て、ウトウトしながら聴いていたのですから、子守唄の記憶ではないのです。学校に行けない惨めさの中で聴いたからでしょうか、クラシックを聴くと病んでいた日々が思い出されたのです。

 学校に行きたいのに行けないのです。給食もない時代でしたから、給食に誘われもしないのに、学校が好きでした。行けば、行ったで、『ちっとも落ち着いていないわ!』と、担任に言われるし、いたずらの度が過ぎて、廊下や校長室に立たされるのですけど、学校に行きたいのです。でも行けないのです。

 怠けているようですが、天井の節目を見ていると、グルグルと目が回ってしまい、浅い眠りに誘われ、またセキがでる、そう言った繰り返しでした。もしかしたら、モーツアルトを聞いて元気にされたかったのかも知れないかな、とも思って、自分としては珍しい行動でした。でも今、改めて、このアマデウス・モーツアルトを聴きますと、本当に元気になれそうなのです。

 私が一番好きなのは、JAZZなのです。これを聴いていると、心がうきうきしてくるし、明日に希望を持って生きていこうとする活力が湧き上がるようなのです。隠れジャズ・ファンだったのですが、教会に、自分の意志で行き始めた頃に、アメリカから伝道者が母教会に来られて、アメリカのカリスマ派の教会の礼拝で、賛美されている「コーラス」を紹介してくれたのです。それはJAZZ調、ハワイアン調のメロディーで、実に軽快でした。

 その後、多くのコーラスは、作ろうとして作って、技巧的なものが多くなってしまっているように感じられますが、彼が紹介して、教会のみなさんが翻訳したコーラスは、きわめて単調でした。聖霊なる神さまが、与えてくださったメロディーと歌詞なのです。

 そんな私の趣味を知った子どもが、Cuban JazzのCDを紹介してくれたのです。その中に、”Buena Vista Social Club chanchan“だったでしょうか。もう30年も前になってしまいました。どこかに紛れ込んでしまっている今、それでもYouTubeで聴くこくことができます。

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 教会の賛美で、初期のコーラスは、ジャズの影響を強く受けていたでしょうか。そのワーシップ・ソングスのCDも、買ってきてくれましたし、注文して買ったたこともあります。母教会に、平松実馬と言う伝道者がこられた時に、「人生劇場」の替え歌で賛美しているのを聞いたことがありました。驚かされましたが、素晴らしくインパクトがあったのです。

 でも短調よりも長調のメロディーに、主の臨在 があふれているように感じられます。難しくなく《単調!》がいいようです。「山路越えて」の讃美歌も好きです。母教会で、英語の歌詞を、翻訳していた光景が、時々思い出されてきます。瞬く間に、多くの教会で賛美されるようになっていきました。聖書のことばにメロディーが付けられて歌われていたのです。

『正しい者たち。主にあって、喜び歌え。賛美は心の直ぐな人たちにふさわしい。(詩篇33:1)』

 まだ幼なかった子どもたちと一緒に、主を愛(め)でて、賛美を歌った日々がありました。それは素晴らしい日常だったのです。次男が来ると、ウクレレで、母親と一緒に主を賛美しています。賛美の凝り性はいいものです。

(“Christian clip arts”に賛美です)

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過去を知り、明日を拓く

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 中学生の頃だったでしょうか、父が一冊の写真集を買ってきたことがありました。広島に原爆投下された後に、撮影された生々しい写真が表表紙から裏表紙まで、今のように加工できない時代の、ありのままの被爆後の広島の街の様子が映し出されてありました。

 その悲惨でむごい様子に、目を逸らすほどで、息を呑んだのです。長崎の被害状況も同じだったのでしょう。それは、戦争末期に、アメリカ軍の空襲で、日本の多くに街に焼夷弾落とされて、焼け野原になっていった、最後の巨大爆弾の投下によるものでした。

 両親と二人の兄と私は、戦時下の父の任務が、中部山岳の地にあった、軍需工場の責任者を拝命し、防弾ガラスに原石である石英に採掘に従事していました。陸軍の連隊のあった麓の街も、米機による空襲にあって、市街地が焼けてしまったのですが、父の作業場は、空襲目標地ではなく、無傷でした。ふもとの街の空が真っ赤になっていた様子を、6歳だった上の兄は覚えていると言っていました。

 自分は生後7ヶ月でしt。その時の様子を、学校で学んだ覚えがありませんが、父は、歴史の事実を知るようにと、原爆投下後の広島の街の惨状を、写真集を買って、見るようにしてくれたのです。確かに、息を飲んで見たのです。

 今日、8月15日は、81回目の終戦記念日でした。戦没者のための行事が例年行われてきて、今年も日本武道館に行われたとニュースが伝えていました。暑く大雨に見舞われている今夏でも、あの写真の悲惨さは忘れることができないのですから、被曝された当事者のみなさんは、どれ程の鮮明な体験をお持ちなのかと思わされています。

 広島では56万もの人が被爆し、長崎でも20万人が被爆者であったのです。亡くなられた方は、今なお増え続けています。第二次世界戦での日本の戦没者は、310万人だと報告されています。毎年繰り返される式典ですが、被害状況は知らされるのですが、父が掘った鉱石を原料にした防弾ガラスを搭載した爆撃機で、私が、13年過ごした天津と華南の街には、日本軍支配の歴史や爆撃の記録が、大きな記念館のなかに、また、大きな河川の堤防に、石板に刻まれて 掲出されていたのです。

 

 

 30年ほど前、中国からの留学生と、住んでいた街で出会いました。国立大学の工学部の大学院で研究をしていた方です。当時、彼女が言った言葉が忘れられないで、今も思い出されます。この方は、広島の原爆記念館を見学して帰って来られた頃のことでした。

 『どうして日本は、被害者の記念館を作るだけで、加害者としての記念館を作らないのでしょうか。それは片手落ちではないんでしょうか!』と、厳しい口調でおっしゃっていました。軍靴で踏み荒された故国の歴史を思い返して、正直な応答でした。私は、『そうですね。』と、ただ認めるだけでした。加害者として、戦時下に、アジアや太平洋諸島で、軍人や民間人を含めて、な亡くなられた方の総数は、1000〜2000万人、それ以上に上ると言われています。

 この8月がくると、その女子留学生の言葉が、重く思い出されるのです。歴史学習が、歴史の中の事実の学びが、日本では足りないのではないでしょうか。歴史の中で起こった真実、その事実を学んでないと、事実が曖昧にされて、次の世代に、正しく継承されないままなのです。

 東京大学の一年生の庭田杏珠さん(広島女学院出身)が、「AIとカラー化した写真でよみがえる戦前・戦後(光文社新書)」を、東大大学院情報学環教授の渡邉英徳さんと共同で、6年ほど前に刊行されました。

 「記憶の解凍」の活動を通して、「平和教育の教育空間」について研究されてたのです。この本は、戦前戦後に撮られた白黒写真を、カラー化することによって、色彩を持った過去の事実を表現する努力をされています。付け加えているのは、感情ではなく、色彩だけです。写真を眺めていると、過去の現実が、いま蘇っているかの様に感じられらのです。

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 過去をありのままに、いえ、より現実化させて、わが生後7ヶ月の時の前後の事実を、思いっきり知らされる様で、素晴らしい写真集です。その中に、戦後の「青空教室」の写真があって、全てのものを失っても、教科書を喰い入る様に見ている、子どもたちの向学心の旺盛さに触れ、戦後復興の第一歩が、この小学生たちから始められたのを感じたのです。未来に自分たちの夢や理想や幻を解き放そうとしたのでしょう。

 でも過去の加害者としての歴史的な事実は、伝えられる必要があるのです。華南の街で出会った高齢のご婦人は、子どもの頃、上海の北の方の村で、日本軍が焼き討ちで放った火で、火傷を負われておいででした。懇願して、見せていただいた左腕に、ケロイド状の火傷がありました。彼女のお孫さんが、日本のアニメが大好きで、わが家に週一で訪ねて、それで知り合った方なのです。家内を歓迎して、その腕でハグしてくれるほど、過去の出来事を赦しておいででした。

 その華南の街には、日本軍の爆撃機が投下した爆弾で、四十人近い人が亡くなっていたと記録されていました。また、海から上陸した日本軍が、井戸に毒を投げ込んだりしたとも言っておいででした。

 もちろん過去は忘れてはなりません。ただ感情的に修飾された過去はいけません。事実と真実を学ぶのです。それは、輝ける明日、未来に向かって思いを向けて行くためにです。来週、一緒に礼拝を守って、今は上海の近くの大学で法律を教えている姉妹が、家内の見舞いに来てくださると言っておいでです。

(“いらすとや”のイラストです)

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老若、古今東西を

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ヤングはスタスタと、爺さんはヨボヨボと歩き

ヤングはスニーカーを、ジイさんは下駄を履き

ヤングは意地を、ジイさんは膏薬を張り

ヤングはスポーツカーに、ジイさんは車椅子に乗り

ヤングは渋谷を、ジイさんは谷根千を歩き

ヤングは上を 、爺さんは下を見て

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ヤングは心が、ジイさんは手が震え

ヤングは夢が、ジイさんはのどがつまり

ヤングは将来が、ジイさんは過去にあふれ

ヤングはアイミョンを、バアさんはひばりを聴く

ヤングはタコスを、爺さんは酢だこを食い

(“いらすとや”の若者、老人です)

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街のスポットと珈琲が

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 昨日は、テレビで有名な女優さんに『母さん!』と呼ばれているご婦人が、フラッと立ち寄ってくれました。季節の果物の梨と桃を持ってでした。しばらく昔ばなしや友人のことを話され、入院検査のことにも触れていました。

 近くの公園の近くのベンチに、お二人にご婦人が座って、日向ボッコ仲間と話をしてるところを、家内が通りかけた時に、挨拶しましたら、会話が始まって以来の交流なのだそうです。そう言えば、見知らぬ土地に住み始めて、出会って、コーヒーを一緒に飲む方が、よく訪ねて来られるのです。美味しいのだそうです。京都からコーヒー豆を送ってくださる、中国で出会った方がいて、その有機栽培のアフリカンコーヒーが美味しいのです。

 《過ぎたるは及ばざるが如し》で、一日一杯に決めて飲むのですが、来客にお淹れすると、つい、節を曲げて、一緒に飲んでしまうこともあって、それも、『まあいいか!』でのコーヒー通気取りです。

 お世話くださった宣教師さんが、“ Blue mountain“、コーヒーの愛飲家で、一緒に飲むことがあって、こだわりのコーヒーは自分にも、抜群に美味しかったのです。それに倣おうかなと思うのですが、いまだに手の出ないままでおります。何度か、その味を思い出しては、喫茶店に入った時に、“ Blue mountain“ を注文したりはしたのですが、まぼろしのコーヒーのままです。

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 昨日、木村拓哉が、銀座の珈琲店に入って、飲んでいたのが、美味しそうだったのです。”  Bacha coffee “ というお店で、勧められるまま飲んでいたのが、” Sweet Mexico Coffee“ だったのです。香り高いコーヒーを飲み進んで、三分目ほどになって添えられているCreamもSugarも、『好き!』とか、『よかった!』とか、『うれしい!』のだそうで、木村拓哉が言うほどですから、格別に美味しそうでした。

 今や、病院通いの自分には、銀座なんかに行く用がないのですが、学校の裏門から、都電で一本で行けたので、時々行った銀座ですが、演技達者な俳優が、演技だけでなく、実に美味しそうに飲むので、今の銀座に、今のコーヒーを飲みに行きたくなってしまいました。

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 市の運動公園のそばに、小さな喫茶店があって、散歩途中に何度か入ったことがあります。全国区のチェーン店も昔ながらの喫茶店も、この街には多いのです。時間帯にもよりますが、年配のご婦人が独り美味しそうに飲まれる街なのです。cheese cakeに、コスタリカ種のコーヒーを飲んでいるのは、実にこの街のstatus、絵なのでしょうか。

 《何々さんが足繁く通った!》、《何と言う映画に出てきた!》と言う名喫茶店が、世界中にあるようで、ついのせられて、浮き足立ってしまう自分です。『昔アラブの国の誰某(だれそれ)さん』、が飲んだ琥珀色の飲み物が、こんなに世界を席巻してしまうのは、歌のせいでも、映画のせいではなさそうです。

(“いらすとや”のコーヒー、Bacha Coffee、“ウイキペディア”のコーヒーの個人消費量の比較図です)

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My utmost for his highest

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 信仰が確信されて、それまで目向きもしなかったっみちを一途に歩み始めて間もない頃でした、「いのちのことば社」の月刊誌「百万人の福音」に、オズワルド・チェンバースの「マイ・アットモスト・フォー・ヒズ・ハイエスト(彼の没後に神学校で教えた講義の原稿から編集されたもの)」と言う通読日課の欄があって、1971年の9月号から翌年の8月号まで連載されていました。

 いのちのことば社の文書伝道を兼務されていた湖浜馨牧師が、翻訳されたものでした。残念なことに掲載されていた「百万人の福音」誌にスペースが限られていたので完訳ではなかったのです。それでも、その文章の格調の高さと忠実な翻訳とに、心動かされ教えられていた私は、それを切り抜いて合本にして、いつも手元において読んでいました。

 その後、英語版の原本 ”My utmost for his highest”を買い求めたのです。その英語は大変難しいもので、辞書と首っ引きで読むのですが、それでも大変手を焼かせるものでした。ところが、それから20年ほどたちました1990年に、「いと高き方のもとに」との題で、加筆の手を加えて、デヴォーション用に一冊の本として出版されたのです。

 早速買い求めました。それ以後、数冊買ったのですが、次男のために家内が買い求めて『1999年1月5日「母」』と書き込まれたものが手元にあります。次男が東京に行く際、置き忘れていったものです。それを家内と、朝食のテーブルで、毎朝読んでいるのです。もう二十数年、この本に集中してきています。

 この方は、レイモンド・エドマンという牧師が、『最高の生涯を送った聖徒です!』と紹介した人です。1874年にスコットランドで、バプテスト教会の牧師の子として生まれています。あのロンドンの教会で説教をし続けた、スポルジョンの説教を聴いて回心したと言われています。

 伝道者として生きた彼は、その生涯の最後の5年間、ロンドンの聖書学校で、多くの青年たちを教え、伝道者として養成しました。彼の講義は、青年たちの魂を感動させ、揺り動かしたのです。そして1917年、エジプトで病を得て、43才で天のホームに帰って行かれました。
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 その教えを、教室の傍に座って速記していたチェンバース夫人が、膨大なノートから編集をし、デボーションの本として出版したのです。その本は、多くの言語翻訳されていて、中国語訳も、華南の街の秘密の福音文書の書店にも置かれてありました。もちろんホノルルやシンガポールや銀座でも、福音文書店で見つけることが出来るものです。世界中で、いまだに読み継がれているのです。「霊性の高さ」とか「人格の高潔さ」とか言ったものが溢れているからであります。

 それは、聖書学校で、主に従って生きようとしていた青年たちに、真剣に語ろうとして語った事々だからでしょうか、聞き手の受けを狙おうとするところが見られません。聖書を忠実に解き明かしているのです。

 私たちを育ててくれた宣教師の説教CDや著書を、聞いたり読んだりすることが、今でもあります。語っている内容に感じ入ることが多いのですが、語っている彼らの人格や品性が、驚くほどに迫ってくるのです。彼らも、面白おかしく語ろうとしていませんでした。真剣に聞こうとする聞き手に、驚くほどの敬意を表しながら語っておられるのが感じられるのです。人の「霊的いのち」に対する責任と使命とが、彼らにあったからなのでしょう。実に感謝なことであります。

 そのデボーションの本の今朝の箇所は、主題が「危機に臨んでも」で、聖書箇所が「なぜこわがるのか、信仰薄いものたち(マタイ8:26)」で、次のように記されてあります。

 「私たちは恐れに取りつかれると、神に祈ること以外は何もできなくなる。しかし私たちの主は、神の御名を呼ぶ者たちが、どんな時でも彼に信頼することを望まれる。

 神は、ご自分を信頼している神の子どもたちが、どのような危機にあっても動じないでいることを望んでおられる。私たちはある一定のところまで、神に信頼し、その限度を超えると、まるで神を知らない者ように、恐れに取りつかれただけの幼稚な恐れへと戻っていく。その時私たちは、自分が神を少しも信頼しておらず、神がこの世界を支配しておられることも信じていなかったことを知る。そして、神をあたかも、眠っておられるかのように考え、目に映るものはすべて、白く砕ける波のようになる。

 『信頼の薄い者たちだ!』このようにイエスに指摘された弟子たちは、どんなに心が傷んだことだろうか。私たちにも同様なことが言える。私たちも、どのようなことがあったとしても、イエスに信頼し続け、心からイエスにある喜びを持つことができたはずだと考えて心を痛める。

 人生には波風の全く立たない時がある。しかし、危機が迫った時にこそ、私たちが何によりたのんでいるかがわかる。私たちが神に信頼することを習得しているなら、危機が臨んでも、私たちの神への信頼は崩さされることはない。」

 これこそが人生の機器管理の極意に違いなさそうです。崎谷は台風が直撃して、渦巻くように吹き荒れて、今朝は石川県方面に去って行きました。地震、洪水、山火事、世界中で、自然界が悲鳴を上げています。どんな危機に直面しても慌てず、怖がらず、創造者なる神に、日々に信頼して行きたいものです。

(“ウイキペディア“の英語版と、チェンバースの写真です)

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二人の青年に想いを寄せて

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準さんへ

 肩のけがの具合は、どうですか?お見舞いに行きたいのですけど、お忙しそうなので、手紙を書きます。準さんご夫妻が、ずっと僕のことを応援してくれたことを母から聞きました。ありがとうございました。まだ高校は確定していないけれど、9月からがんばります。またお会いできるのを楽しみにしています。お体お大事になさってください。    

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 これは、昼前に届いた、宅配のお見舞いの品々と一緒にあった、龍さんからのお便りです。しっかりした日本語が書けていて驚きました。日本人のお母様が、こちらの方と国際結婚をされて生まれた"中学3年生"で、こちらの教育を受けてこられています。今は、「高中(高校)」の受験を終えられて、その結果を待っておいでです

 返信のメールに、『・・・暑い夏です、お体に気をつけてください。夢を追いかけて、溌剌と生きる青年であってください。ありがとうございました。』と書き添えておきました。肩のための湿布薬、2種類の紅茶、そして《肝油ドロップ》を、『ボクの肝油、病後にも良いと書いてあるから、使ってもらって!』と、お母様に言われて、同封してくれました。思いやりのある、優しい子で、嬉しいこと仕切りです。私の《小朋友xiaopengyou》です!

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 上記したのは、10数年前のお見舞い品に添えられて送られてきた「手紙」の文面です。この方は、お父さまが中国の方で、お父様は日本の方で、国際結婚をしたご両親のお子さんでした。中国の大学に進学しないで、東京の大学に留学をし、その大学を出て、東京の会社に就職をなさっておいでです。

 左腕の鍵盤断裂で、札幌の整形外科病院に入院して手術をした私に、「湿布薬」、「紅茶」、それに「肝油ドロップ」のお見舞いに添えて、この文面の手紙を頂いたのです。そのお見舞いと激励が、綺麗な文字で書かれてありました。

 お母さまは、岡山県の出身で、東京の会社で働いていた時に、ご主人に出逢われたと言っておいででした。実に穏やかなご主人で、日本語もきれいにお話しになっておいででした。龍さんも、優しいお子さんでした。家内が、日本人のご婦人たちの集いに誘われて、その時に知り合い、わが家にも、龍さんをお連れくださっていました。

 子育ての頃に、わが家でも、子どもたちに滋養のある肝油ドロップを、よく食べさせていたのですが、龍くんも日本に来て、岡山のおばあちゃんを訪ねると、そのドロップを買っては帰り、飲み続けていた貴重品だったのです。それを、術後の回復のために分けてくれたのです。

 龍くんと会ってから、明代の大陸で活躍した人、鄭成功のことを思い出したのです。父は鄭芝龍、母は田川マツで、国際結婚で、長崎で誕生しています。成功は、中国大陸で明が衰退し、清が勃興した時代の変革の大混乱期に「抗清復明(清を倒し、明を復興する)」をかかげた反骨漢で、大活躍した人物でした。

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 福建省の厦門(アモイ)に、教え子がいて、何度か招かれて、家内と二人で訪ねたことがありました。お父さまが、アモイの街を案内してくださって、海辺の高台に、馬に跨った成功の巨大な像があって、彼が行き来した台湾に目を向けているのです。今でも篤く尊敬されています。

 病没するまで、成功は明王朝の復興を願い、大陸の清と戦ったのです。日本では、近松門左衛門の有名な人形浄瑠璃、「国姓爺合戦」のモデルとして。とても有名です。今でも上演されていて、歌舞伎のp演目の中にもあります。

 鄭成功記念館は、長崎県の平戸にもあります。平戸は、東アジアの英雄成功が7歳まで育った地でした。彼の生家を再現すると共に「鄭成功」の偉業を顕彰し、後世に伝えるため再現されているそうです。

 鄭成功は、戦乱に明け暮れた英雄ですが、龍くんも、二国の血を引いて、平和の時代に、肝油ドロップを食べて育った青年で、優しい心の青年でした。あの愛子さんの在学と同じ時期に、学習院大学に学んでおいででした。

(“いらすとや”のドロップ、“ウイキペディア“の鄭成功を主人公の歌舞伎です)

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音吉らによる聖書翻訳が

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 ずいぶん前に、三浦綾子原作の「海嶺」が映画化されて、映画館で観たことがありました。知多半島、小野浦の「宝順丸」が、大阪で米を積んで、江戸に運ぶ途中、遠州灘で、颯風(はやてかぜ)にあって遭難してしまいます。1832年(天保三年十月)のことでした。

 宝順丸の船長の決断で、帆柱を切り捨ててしまう場面があり、そう決断せざるをえない状況が、とてもリアルに描かられていたのです。なぜなら、帆柱を失えば、船は航行不能になってしまうからです。案の定、宝順丸は東風に任せて、太平洋を漂流するのです。その間、壊血病で水夫は次々と亡くなっていき、岩吉、音吉、久吉の若者3人が生き残ります。

  宝順丸は、1834年にアメリカ太平洋岸のワシントン州ケープ・アラバ付近にたどり着くのです。インディアンのマカ族に助けられた後、イギリス船がやって来て3人は救われます。コロンビア川をさかのぼった場所にある毛皮商人に助けられ、そこで3人は、英語とキリスト教に出会います。彼らは、ハワイを経てロンドンに至るのです。

  3人はロンドンを見物したりしますが、けっきょくイギリス政府は日本との交渉に熱心ではなかったため、中国ののマカオへ送り出されてしまいます。すでに知多半島の小野浦の港を出てから、3年の月日が経っていました。

  マカオは、外国人居留地だったのです。そこで、3人の世話をしてくれたのは、ドイツ人宣教師のカール・ギュツラフです。語学に自信のあるギュツラフは3人を相手にして聖書の翻訳に取りかかり、1年がかりで「ヨハネ伝福音書」や「ヨハネの手紙」の日本語訳、ギュツラフ訳聖書を完成し、出版したのです。

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 マカオで聖書翻訳に協力した3人は、日本に帰国するために、モリソン号で日本に着くのですが、外国船打払令で、江戸幕府も薩摩藩も大砲で脅して3人の帰国を許しませんでした。それで、音吉は、上海に行き、そこで、日本人の漂流民を助けるのです。

 長男の嫁は、この知多半島の出身で、結婚披露宴の折に、ここを訪ねた折に、「三吉顕彰碑」に行ってみました。幕末の変動期とは違って、穏やかな海風が吹いていたのです。

 そこでご馳走になった、伊勢湾の「海老」が、こんなに美味しいものかと驚かされるほどのもてなしをいただいたのです。音吉たちが、年配の船乗りたちが、次々と亡くなっていくのを見た若者たちは、何を感じたのでしょうか。雨水を集めては飲み、生魚をとっては食べて生き延びたのは、奇跡的だったのでしょう。

 漁師や商人の船に、遠洋航海をさせないように、船舶の重量や船艇の深さに制限を加えたことの結果、夥しい数の船が難船したわけです。まさに鎖国政策の大きな問題であったわけです。沼津の人、山田長政が、遠洋に漕ぎ出して、シャムに渡って、アユタヤに日本人街を形成し、東南アジアで大活躍した、江戸初期との違いを知らされて、三吉は、どんなに残念だったことでしょうか。

 三浦半島の出の父も、日本海軍の軍港で生まれ育って、海に出たかったのかも知れませんが、真反対の陸の奥、山に入って鉱脈を掘り起こした青年期を過ごしたようです。音吉は、望郷の思いを持ち続けて、1867(慶應3)年1月18日に、50歳で、シンガポールで亡くなっています。明治開化の前年のことでした。

(“ウイキペディア”による千石船、ギュツラフ訳聖書です)

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咲いた朝顔!

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 咲きました!

 2026年8月7日の朝です。今季は、種蒔きが6月に入ってからでしたので、7月には咲きませんでしたが、嬉しいですね!自然界は、忠実です。去年は、秋口になってやっと花開いたので、今年も遅いと思っていましたが、8月の声を聞いて、甲子園の高校野球選手権の大会が始まってすぐの開花は嬉しい限りです。遣唐使が大陸から持ち帰って、日本中で植えられ、愛でられてきた花なのです。華南の街の家のベランダでも咲いてくれました。

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世知辛い世の Fake News

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 「美談ビジネス」と言うのがあるのだそうです。つまり、善行や美談を物語にして、YouTubeなどでアップしているビジネスなのです。そして、その物語の多くが、“ Fake News ”だと言われています。現に、YouTubeに、金稼ぎを目的に記事やAIによってビデオ映像を作成し、それを観て共鳴した人たちに〈チャンネル登録〉の誘いが多くされています。

 世の中が、世知辛くなって、殺伐とした様相を見せてくると、美談に耳を傾けるお人好しが、それを読んだり聞いたりしては、涙するのです。高校生の頃に、フジテレビ系列局で、1959年12月6日から1961年12月30日まで放映された西部劇で、「拳銃無宿(スティーブ・マックィーン主演)」がありました。「賞金稼ぎ」の話です。それは、お尋ね犯罪者を捜して、退治する物語でした。でも善人を騙しての金稼ぎは頂けません。

  つい騙されやすい自分がいて、それを信じては、ブログにアップしてしまうのです。大谷翔平の美談を、Youtubeにあっても時々アップされていますが、そんなことをしそうな善意に溢れた人柄ですから、それは、まあいいかなと思うのです。でも彼自信はどう思うかを聞いてみたいし、真実を知りたいものです。

 人をハッピーにさせる話は、さもありなんでよいのですが、脚色をし過ぎて、面白おかしく泣かせたい人は、直木賞や文学賞でも狙って、筆を振う方がよいのではないでしょうか。

 2026年熊本地震の被害も多大で、余震も多く起こっているとニュースが知らせていますが、落ち着いて眠ることもできず、車中泊をされている方も多くおいでだそうです。親しい友人や知人の多い地で、心配しております。そこでも、偽情報が飛び交ってると聞きます。どんな心理が働いて、そんな情報を流すのでしょうか、人間の悪意というのは計り知れず、残酷さが溢れています。

 AIの時代になって、だれもが指先と口先で情報を発信できるようになってきてる時代に、溢れかえる情報に翻弄されている現実がありそうです。正しく” judge(判別)”できないと、その偽情報に、こころを踊らされてしまいそうです。

 「右往左往」と言う言葉がありますが、混乱している様子を表すようですが、まさに現代社会は、上下左右に、揺さぶられているように感じられてなりません。情報過多の中、どうしても必要とされるのは、選択能力ではないでしょうか。正しく判断、見極める冷静さと、真実を求める願いに違いなさそうです。

 朝のラジオニュースを聞いたり、配達された新聞を読んで、世に中で何が起こっているかを知っていた時代と、今とでは、情報量は比べ物にならないほどに膨大です。父から聞いて、世の中で何が起きているかを初めて知って、社会性を養われたのです。でも今や、ボタンを押すだけで、またチャンネルの選択一つで、真逆なニュースを聞かされる時代になっているようです。

 家内が、息子にスマホを買ってもらって、新聞もテレビも見ない中を生活してきて、爆発的に情報量が増えてきていて、どうも戸惑いを見せているようです。しかも疑うことをしないで信じやすい性格ですから。子どもの頃から聖書を読んで、生きてきていますし、教会の狭い善意の人の多い社会の中で育ったので、視野が狭いかも知れません。

 でもこの世は、海千山千、悪意や抗争や儲け話の坩堝(るつぼ)です。前世紀の遺物のように、娘たちに評されてしまっている家内ですが、世間ズレていないと言う意味では素晴らしいのですが、悪意と出会うと、善意さが邪魔をして、どうも戸惑ってしまっていそうです。

 戦後、アメリカからの援助物資を、宣教師さんから頂いて、それを着て学校に行ったたばかりに、ハナタレの悪童にいじめらたことがあったのだそうです。また高校生の頃に、根性曲がりの級友に、帰宅時にカバンを持たされ続けたり、ありもしない噂を立てられたりしていたこともあったそうです。

 ケンカをしてきた男と結婚して、反発心も身につけたようですが、彼女は根っからのお人好しなのです。いじめた相手を見つけ出して、『ブン殴ってやる!』と言っても、大笑いして、本気にしないままの今です。いじめた子は、残念なことに、教会の中にもいたのです。その同級生は、すでに亡くなっているのです。いじめた子は、何の罪責感もなく、全く覚えていないのが常です。ところが、いじめられた子には、心の深みに傷が残されているので、やっかいなのです。
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 私たちの救い主のイエスさまも、悪意の中で過ごされました。とくに当時のユダヤ教の指導者から、訴えられて、ピラトの法廷に、ユダヤ社会の律法を守らずに、神を冒涜したとの汚名を着せられて、法廷に立たされます。エルサレムの住民の支持を得ようとした、ローマ総督のピラトは、「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」と、手を洗って責任を逃れてしまいます。

 不実の罪を着せられて、カルバリーの丘に立てられる十字架に架けられて死なれたのです。宗教界の悪意によって殺されたのですが、それは、イエスを信じる者の罪の身代わりの死だったのです。信じる者を永遠の命に救うための死でした。イエスさまは、

『三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。(マタイ27:46)』

と、十字架上で言われました。人となられて今の今まで、父なる神の愛の視線を受けながら生きてこられたのに、十字架上で、その父に視線を逸されたのが判ったイエスさまが、そう叫ばれたのです。罪なきお方が、罪となられた姿を、御父は正視できなくなって、目を逸らされたからです。

 その死は、信じる者の身代わりであって、信じた者たちに永遠のいのちをくださるためだったのです。私は、子どもの頃から、母のてに引かれて兄弟四人で教会に連れて行かれました。17で信仰告白をし、22でバプテスマを受け、25才で、聖霊の満たしを受けて、その十字架の意味が明確に、電撃的に解ったのです。

 このことも、物語であって、fakeだと言う言う人が、教会の中、それも指導者と言われる人たちから言われているのです。天地創造も、奇跡的なエジプト脱出も、イエスさまのなさった奇跡も、眉唾物、単なる創作された物語にされてしまっています。科学的な目を持ってしまった説教者には、もう聖書を信じられなくなっているのです。

 幼いわが家の子が、長岡輝子さんの朗読する「聖書ものがたり」をテープで聞いて、『イエスさま、ごめんなさい。ボクのために重い十字架をかついで、痛かったんだね!』と、涙を流して泣いたことがありました。今や四十代になった、その彼が、わが家にやって来ると、決まってウクレレを持ち出してきて、この神を、この救い主イエスさまを、弾きながら賛美するのです。そう今も信じ続けているではありませんか。

(“いらすとや”の金塊、ウクレレです)

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