「居残り」だと思っていましたら、時は9月ですから、北から子連れでの帰還なのでしょう。昨日、巴波川の観光舟の舟着場周辺の流れを四羽ほどが、ゆったりと泳いでいました。今朝、目の下の流れを、遡上する二羽を、スマホで撮ってみました。鯉の天下が、鴨と放られる餌を取り合う季節に入ったようです。
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上海と大阪を結ぶ航路があって、よく乗船したのが、「蘇州號」でした。長江の河口の周辺で、もう直ぐ東シナ海の海です。そのあたりを、「黄浦江(こうほこう)」と呼んで、日本人が異国情緒を感じて好んだ街がありました。教え子のご両親が、この街でホテルを経営していて、日本に帰るために、「高鉄(中国版新幹線)に乗って、紅橋駅に下車した時に、同級生と二人で迎えに来てくれました。
そこで一緒に食事をしたのですが、その辺りが、かつて日本人街のあった地で、九十年も百年も前に栄えた街なのに、とても懐かしさを感じたのです。きっと父の若い日に、旧満州にあった南満州鉄道で働いたことがあって、長江の河口の街にも、きっと訪ねたこともあったと、思うと一入の思いが湧いてきました。
戦前も戦後も、懐かしく、この街を歌った歌謡曲が何曲もあったのです。作詞は北村雄三、作曲が大久保徳二郎、唄がディック・ミネで、「上海ブルース」がありました。
1 涙ぐんでる上海の
夢の四馬路(スマロ)の街の灯
リラの花散る今宵は
君を思い出す
何にも言わずに別れたね 君と僕
ガーデンブリッジ 誰と見る青い月
2 甘く悲しいブルースに
なぜか忘れぬ面影
波よ荒れるな碼頭(はとば)の
月もエトランゼ
二度とは会えない 別れたあの瞳
思いは乱れる 上海の月の下
戦前に、日本人が建てた建物は堅牢で、今もなお現役で使われています。石畳の道、四馬路が残されていて、「東洋」と言う言い方が、exotic(エキゾチック)で、懐旧の思いがしたのです。もう地下鉄が縦横に走っていて、激変の街に古い事物が残されているのです。
高校生の頃に読んだ、「人生劇場(戦前のベストセラーだったそうです))に、この上海が登場し、外灘で、吉良の常吉が、花火師となって、花火を打ち上げる箇所がありました。すっかり、花火師になりたい思いにされたのですが、夢のまた夢で、直ぐに醒めてしまいました。
そんな十代を思い出させるように、次男が、多摩市の聖蹟桜ヶ丘駅から歩いてすぐの川岸で、花火大火があって、大金を払って席をようやく購入してくれて招待してくれたのです。席の真上で、ドンと言う音で打ち上げられ炸裂し、パッと見事に開花する花火に、見入って、そこから注文してくれたホットドックと飲み物を摂りながら、その花火を楽しんだのです。
野末なる三島の町の揚花火月夜の空に散りて消ゆなり 若山牧水
終の住処の沼津から、隣町の三島の夜空を焦がす花火を、牧水が見て、詠んだ歌です。自分の子に、「旅人(たびと)」と命名するほど、旅を愛し、杜甫や李白の詩を愛し、彼らのように酒を愛して、43歳での死は早過ぎたのではないでしょうか。同窓に、彼の孫がいました。
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父も花火が好きだったのでしょうか、夏の宵に、みんなを庭に連れ出して、花火を手に持たせてくれ、火をつけて楽しませてくれたのです。筒のある大物から、線香花火まで、色とりどりでした。大きな手で、父が線香花火を、チカチカさせている宵の暗闇の火花で、父の顔が、わずかに輝いていた様子が思い出されます。
この7月に、家内と二人を招待してくれた、次男夫婦と、その三島を訪ねました。富士の伏流水で、身をすすいだ鰻を、感謝してご馳走になったのです。江戸期の東海道五十三次の「天下の嶮」、箱根を見上げ、道行く旅人が休み、歩み出した三島宿です。雲間に隠れた富士も、想像を逞しくして感じることができました。この町の花火は、10月に打ち上げられるようです。
(“ウイキペディア”の上海の外灘、線香花火です)
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子どもたちが集い、養われていた教会の信者さんの家庭や、付属の寄宿舎に入って、私たちの子どもたちは学校に通って、学ぶことがゆるされ、成長することができました。その西海岸にある街を訪ねた時に、その教会でお話しを、”3points Message“でさせていただいたのです。そのことを思い出しながらの今朝のブログの記事です。
私の二人の兄が通っていた小学校が、火事に見舞われて焼けてしまったことがありました。その焼け跡に、アメリカから寄贈された、ボール紙製の防水された缶が焼け跡にありました。そこには、"脱脂粉乳"が入っていて、手ですくっては、むせる様に食べたのです。それが"LARA"の贈り物でした。兄たちが、昼に弁当を食べる時に、いつも出されていた”ミルク”の材料でした。私も、兄たちを追って学校に入ってから、いつ頃まで続いたか覚えていませんが、弁当の時間には、いつも、その"ミルク"が供されて飲んでいました。
敗戦国・日本の「就学児童」の健康のために、アメリカの「篤志団体(在米日本人の働きかけで、教会が中心になっていたそうです)」が全国の小学校に贈ってくれた物だということが、だいぶ後になって分ったのです。
もちろんアメリカも、「植民地主義」で、あの"ハワイ王国"を支配下に置いてしまった様に、戦いに勝利し、占領国となった日本にも、虎視眈々と支配の手を伸ばしつつあったことは、歴史が証明しています。日本が、中国の東北部に「満州国」を建設しようとしていたのと同じようにでした。どの国も、そう言った強い野心があるのです。
しかし、そのアメリカの民間団体から占領国へ「優しい心」を向けた行為は、演技ではなく、その動機は「愛」でした。「日米時事通信社(日米タイムズ)」の編集長だった浅野七之助という、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人が音頭をとった援助運動だったそう です。今、それを思い返して、自分の成長期の体が、そう言った「愛の物資」によって形作られたことが分って、感謝の念を覚えるのです。終戦直後の1946年に始まって、1952年まで続いた援助でした。
同じ様に「朝鮮戦争」後の韓国に対しても、同じ様な、食糧、衣料、医薬品などの援助が行われれていたと聞きます。私は、肺炎で死にかけたのですが、"ペニシリン"が投与されて生きる事ができました。これもまた、"LARA"のお陰でした。ですから、「鬼畜米英」ではない、祝福された面があるアメリカ社会には、感謝の思いが湧いてまいります。私たちも、「日本鬼子Ribenguizi」ではない反面を持っているのです。
成長期の自分は、父母が欠かす事なく食べさせてくれたのですが、病気が癒えた後は、いつも<食欲旺盛>でした。だから、あの焦げた《脱脂粉乳》のニオイと味は、"LARA"そのもので、今も鼻と舌が、その匂いと味を覚えているのです。そのことの感謝をお話しさせてもらいました。
そのお話の続きのニ点目です。中学の頃、アメリカ映画に魅了させられてしまったことを話させていただいたのです。西部劇映画が好きで、テキサスの大牧場の邸宅の庭で、一頭の子牛をバーベキューにしていた場面に、圧倒させられたのです。大牧場主、ベネディクト家でのパーティーでした。バンジョーが賑々しく奏でられていたでしょうか、多くの人が轟きのように話し合っていました。
そこに、美味しそうな、焼肉の匂いが、煙と共にしてきそうでした。今住んでいる家の隣に、大繁盛の焼肉店があって、窓を置けると、焼肉の匂いがしてくるのですが、まさにテキサスの邸宅の庭からの匂いを想像できそうです。あんなに、大声で話しながらモリモリと肉を食べる、アメリカならではの裕福な場面に圧倒させられ、「流涎(りゅうぜん)活動(ヨダレのことです)」が激しくて仕方ありませんでした。
ところで、子育て中の母は、街のお肉屋さんで、牛肉をミンチに挽いてもらって、それでハンバーグステーキを焼いて、食欲旺盛の四人の息子たちに、よく食べさせてくれました。手の平で、肉に、ミジン切り玉ねぎやパン粉に玉子を入れて混ぜて、塩と胡椒と醤油で味付けして、大きな小判のような形にして、油で焼いて作って、ソース味で食べさせてくれました。まさに、《アメリカ味》で、驚くほどに美味しかったのです。
それはともかく、そう言った様子を、隅から見ている、斜め被りのテンガロンハット姿のジェットという牧童が登場するのです。ヒネクレたような性格が、大スペクタルな画面の中で、対照的に登場していて感じられたのです。演じていたのが、ジェームス・デーンでした。翳(かげ)のある性格が興味深く感じられ、そして履いているジーンズが履きたくて、上野御徒町に行っては、古着を手に入れて、引っ張り上げながら長いGパンを履いていたのが十代中期の自分でした。
ジェットは、自分の土地を持っていて、石油が埋蔵されているその土地で掘削機を動かして、日を送っていました。ある日、その穴から、原油が噴き出すのです。彼は一躍、テキサスの「石油王」となります。歳を重ね、テキサスのホテルの大宴会場で、酩酊していた初老のジェットが、白いテーブルクロスのかかったテーブルの前で、話している最中に、倒れ込む、度肝を抜かれそうな、圧巻の場面もありました。
驚くほどの演技でした。ハリウッドのスター魂というのに圧倒されたのです。二十代初めの若い俳優の名演技でした。アメリカ映画のスケールの大きさ、realityに驚かされたのです。ホテルの地下にあった。酒の大きな貯蔵庫、酒蔵の中で、ジェットと牧場主ビックとの乱闘にも、驚かされたのです。
また、ビック夫妻と息子夫妻で、ドライブ中に入ったレストランの場面も印象的でした。席に座っていると、アメリカ原住民民の老夫妻が、そのレストランに入ってきたのです。すると、その店主が、保守的なテキサスでしたから、入店を拒否して、出ていくように人種差別をするのです。それを許せなかったビックが、そこでも店主と激しい殴り合いをします。力に勝る店主に殴り倒されたビックの勇気を、奥さんが慰めるのです。ビックの息子の嫁がメキシコ人であったことも、店主の振る舞いをビックが許せなかった暗黙の内に示されていたのです。
かつての大富豪と、それを凌ぐ石油採掘で石油王となった成金男との葛藤と格闘が描かれていて、牛の丸焼きやGパン以上に興味深く見た十代の自分でした。まだ、そのテキサス位荒やってきたアメリカ人宣教師さんとの母を通してに出会い以前の映画でした。
この後に、ジェームス・デーンが主演した「エデンの東」がありました。映画は、創世記のカインとアベルの物語を、第一次大戦下のカルフォルニアのサリナスという農村を舞台に、農場主の一家を、ジョン・スタインベックが描いた小説を映画化したものでした。
最初の人アダムに、二人の息子がいました。弟のアベルは、羊を飼う牧夫で、兄のカインは、土を耕す農夫で、畑で穀物や野菜などを栽培していました。ある日、神さまへの感謝を表すために、弟は羊の子を、兄は畑収穫物を、それぞれ持って、神に御前に出ます。神さまは、弟の捧げ物を、「目に留め」、兄からの物には、「目を止められなかった」のです。、先日、この映画を観たことのなかった家内が、観たいと言って、一緒にprime videoで観ました。
さて映画は、別れた妻に似た次男が、父が自分よりも兄を愛する父親に、拒まれても、その父の愛を執拗に求めていくキャルの心の葛藤、出来のよい兄の実際の心、母親を見つけたキャルに、強引に連れて行かれて健在の母の姿に衝撃を受ける顛末で、おヨーロッパの戦線に志願して行ってしまう兄。それで脳卒中に倒れて伏してしまう父の様子を描いていました。父親の愛を、キャルが獲得するのです。第一次大戦下のアメリカの農村が舞台ですが、自分たち四人の兄弟の父や母のことを考えさせてくれた映画でした。
その後に、彼は「理由なき反抗」で、十代の少年を演じたのです。アメリカで、いつでも、どこにでもある家族の中に起こりうる愛、和解、相克、葛藤、破壊、修復の話を、文化的にも心理的にも掘り下げていく現実、日常茶飯の描写なのでしょうか。
幼児教育を学び、多くの子どもたちの家庭の現実を見てきて、保母として働き、自分の四人の子どもたちの母親であった家内が、こう言っていました。『どんなに素晴らしい保育士も教師も、どんな背景で育ち養育放棄をするような親であっても、親は親であって、それに代わり得る人はいないの!』と言っていました。そんな繁栄の国の背後にある現実を知ったことに、感謝したのです。
第三の点です。
『私は、夜昼、祈りの中であなたのことを絶えず思い起こしては、先祖以来きよい良心をもって仕えている神に感謝しています。 私は、あなたの涙を覚えているので、あなたに会って、喜びに満たされたいと願っています。 私はあなたの純粋な信仰を思い起こしています。そのような信仰は、最初あなたの祖母ロイスと、あなたの母ユニケのうちに宿ったものですが、それがあなたのうちにも宿っていることを、私は確信しています。(2テモテ1章3~5節)』
私の二十代から三十代の8年の間、アメリカ人の宣教師さんの膝下で、聖書を学び、伝道者として生きていくための備えをしていただきました。この宣教師さんのビジョンは、パウロが、若いテモテを、福音の働き手となるように育てたように、私を育てたいと願われたのです。粗野で荒削りの私に忍耐した年月でもありました。
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このテモテは、聖書に登場する使徒パウロの忠実な弟子で、パウロが第二次宣教旅行をしていた時に、ルステラで出会っています。その街の教会で評判がよく、聖霊に促されて、パウロは宣教旅行の同労者として誘われるのです。テモテは、まだ20才ほどの若者でした。その彼の信仰ですが、お母さんのユニケ、お祖母さんのロイス譲りの信仰を受け継いだ、健全な「信仰の継承者」だったのです。
パウロがコリントにあった教会に書き送った手紙に、次のようにテモテについて触れた箇所があります。
『そのために、私はあなたがたのところへテモテを送りました。テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です。彼は、私が至る所のすべての教会で教えているとおりに、キリスト・イエスにある私の生き方を、あなたがたに思い起こさせてくれるでしょう。(1コリント4:17)』
パウロは自分の子のように思い、忠実な信仰者として見ていたのです。両者には深い信頼関係があったわけです。それで、マケドニアやアカヤにあった教会に、おもに困難な状況下にあったエペソの教会などに働き人として、テモテを遣わしていたのです。子が親に仕えるように、彼がしていたからでした。
新約聖書の「テモテへの手紙第一」、「テモテへの手紙第二」は、パウロが若いテモテの奉仕を励まし、教会の指導者として、どうあるべきか、その聖書的な教えを示しています。
パウロのテモテに対する信任は篤く、「テモテは主にあって私の愛する、忠実な子です」、「主のみわざに励んでいる」などと、まるで自分の子のように、手紙の中で、父親のように、愛を示し、その奉仕を高く評価しているにです。ピリピ人への手紙には、
「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいない」、「子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました」と言っているほどです。ところで、このように評価されたテモテその人の性格は、パウロが心配して「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく」と語っていますから、きっと彼は気が小さく、くよくよする性質だったのではないでしょうか。
また、彼の信仰が「純粋」であったとありますから、反面では悩むことも多かったのではないでしょうか。胃腸が弱かったというのも、性格から考えると何となく分かる気がします。少量の葡萄酒を摂るように勧めていますから、消化器官に弱さがあったのかも知れません。創建でない点では、私を導き教えてくださった宣教師さんも、胃潰瘍気味だったのです。それだけ、プレッシャーを感じる敏感な人だったかも知れません。
それで、宣教師さんは祈り、賛美し、よく断食をしながら、聖書を必死に学んで、細かく分析しておいでだったと思います。パウロは豪胆な人というよりは、繊細な学者肌の人だったかも知れません。同じように、この方が、「ローマ人への手紙」を深く学んで、チャートにした研究原稿を、残してくれたのです。CDもありますが、録音状態がよくなく、再生できませんが十分に学べるのです。
パウロは、宣教の助け手として、次の時代の宣教、教会形成を担っていけるように、テモテを選んで、宣教旅行に同行させ、育てたのです。このように気弱で臆病だったとも思えるテモテは、前述のようにパウロによって、「私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいない」と言われるほどの人物だったのです。
さらに不思議というより、考えさせられることは、パウロはこのテモテに特別な思いがあったようです。パウロが獄中という孤立的な状況の中で、「あなたに会って、喜びに満たされたい」、「早く私のところに来てください」、「何とかして、冬になる前に来てください」と記していますが、そこにはただ用事があるからと言うだけではなく、励まされたい、親しい交わりを切望していたようです。一見、強くて大胆そうなパウロですが、内気で気弱なテモテに共感する心が、赦された罪人の内にあったのではないでしょうか。
パウロが、福音に仕え、諸教会を、異教の世界に打ち建ていくという働きは、容易な業ではないことを、身をもって知っていたから、真の理解者を、身近に起きたかったに違いありません。私が仕えた、霊的な戦いの最前線で戦いをしておいでの宣教師さんのことを思い返しながら、その真の理解者、同労者でいて欲しかったのだろうと、今思うのです。
同時に、まだ若かった自分を、顧みて思いますと、足りなかった自分だったのです。伝道者として生きてきて、今になっての反省が、人の常なのでしょうか。外国人が、異教の地で宣教をするというのは、送り出し祈っていてくださる母教会や、生まれ育った地の親族と離れている孤独感、祈られていても、戦いは大変だったのだろうと思うのです。家内と二人で13年を過ごした地でのことを思い出しながら、自分を育ててくださったことに、今、新たな思いで、宣教師さんへの感謝が湧き上がってまいります。
『一切れのかわいたパンがあって、平和であるのは、ごちそうと争いに満ちた家にまさる。(箴言17:1)』
『教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1:23)』
育った自分の家庭環境、両親の現実が理想には程遠くても、創造主である神と出会うなら、だれも回復、修復、補填されるのだと、固く思っています。神さまに、《赦されること》か鍵です。もしかすると人生とは、《赦し赦されること》に尽きるのかも知れません。それが、家庭であり、教会なのでしょう。そのように、キリストの教会に関わり続け、家庭建設をしてきたことに感謝する今なのです。
(“Christian clip arts“のイラスト、「エデンの東」のジェームス・デーンです)
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《アンダーパス》、NHKニュースで、線上降水帯の発生による集中豪雨で、車の走行の危険箇所を知らせ、水没しやすい箇所のつうか知らせるために、道路や鉄道線路と立体交差する、雨水の溜まりやす地下道を、そう言っているようです。大阪市の広報に、
『アンダーパスとは、交差する鉄道や道路などの下を通過するため、周辺の地面よりも低くなっている道路のことをいいます。地形的に雨水が集中しやすい構造となっています。』と、大阪市の広報に解説がありました。道路が大雨で冠水している可能性があるので、走行に十分に注意をするようにとの知らせなのです。
その英語表現が、分かる人には理解できても、疎い私には、聞き様によっては、under pass、under path、under passportなのか、どうも判断がつかず、どんな状態なのか、ニュースで聞いただけでは意味が分かりませんでした。その原稿を書く人は、音声で聞く人を思いながら、言葉選びをしなくてはならないのでしょう。意味調べで辞書を引いているうちに、水溜まりにはまってしまいそうです。
『道路に深い水溜まりができた箇所ができています。侵入しないように!』、『注意⚠️前方水没!』でしたら、分かるのではないでしょうか。この数年、カタカナ表記の英語が、NHKニュースでは、よく聞かれます。検索して意味を調べて、納得しますが、ニュース原稿に作成をされる方は、そういう視聴者の現実を知っておいでなのでしょうか。
英語の発音の上手なアナウンサー、キャスターと言うのでしょうか、時折、native speakerのような発音で語られる方がいますが、それならよいのですが、「カタカナ英語」は判断が難しいのです。
によりますと、
・path 発音記号・読み方 、pˈæθ(米国英語), pάːθ(英国英語)
・pass 発音記号・読み方 pˈæs(米国英語), pάːs(英国)
との発音なのです。台湾に出掛けて、新幹線に乗車と下車を繰り返して、台北から高雄まで、3、4ヶ所の都市の教会を訪ねて、お話をさせていただいたことがありました。通訳してくださる牧師さんや姉妹が、打ち合わせで、異口同音に言われたのが、『カタカナ英語を使わないで!』とお願いされたのです。それは日本語であって、英語ではないからです。英語を使うなら、英語発音をすれば、分かってもらえるのです。
アメリカ西海岸の教会で、証詞させて頂い時に、「アメリカと私」というテーマで、とくに3点を取り上げて、日本語でお話をしたのです。通訳をしてくださったのは、ご両親が日本で宣教されていた方で、その奉仕の間に育った方でしたから、日本語が堪能で、カタカナ英語でもしっかり通訳してくれました。
私の子どもの頃に、アメリカの在住のクリスチャンのみなさんが呼び掛けて、“LARA“と言う支援物資を送ってくださったことがありました。その主な物は、「脱脂粉乳(skim milk)」 で、それを沸かして、大きなヤカンで、教室に運ばれてきて、アルマイト製の器で飲んだのです。栄養価は高かったのですが、残念ながら、生の牛乳でないので美味しくなかったのです。
“ララ“は、License Agency for Relief in Asia(「アジア救済連 盟」)の頭文字で、第二次世界大戦後の日本は、衣・食・住の全てが欠乏していました。人々は食糧難での生活を強いられていました。焼け跡に、バラックを作って雨露をしのぎ、着た切り雀のように衣料も不十分でした。「米穀通帳」と言う町発行の通帳で、スズメの涙ほどの配給を受けていたり、後に、母に言われて、その通帳持参で、お米屋さんに買いに行ったのです。そんな毎日だったのです。
父の仕事が、戦時下での軍関係で、村長さん、農協役員、郵便局長さんと同じほどの村での立場だったので、戦中戦後のしばらくの間は、お米や野菜を農家から頂いて、糊口をしのいでいたのだそうです。都市部で、戦後を生活した家内の家は、お母さんの嫁入りで持ってきた着物を、農村に行って、芋や雑穀と交換していたと言っていました。当時の学校では、「欠食児童」がほとんどで、日本は一時期、栄養失調を経験したのです。
その窮状を救ったのが、この《ララ物資》だったのです。粉乳以外にが、1946年(昭和21年)11月、横浜港に待望の輸送第一船(ハワード・スタンズベリー号)が、ミルク、米の粉、バター、ジャム、缶詰を運んでくれ、衣類や医薬品もありました。
その《物資援助》を始められたのが、在米の浅野七之助氏で、「ララ物資の父」と言われています。盛岡市の出身で、サンフランシスコに住んで新聞記者をされておいででした。戦後、祖国の窮状を知って、日系人を中心に、日本に対しての救済運動を、全米に呼びかけて、展開されたのです。それは主に、クリスチャンたちの協力によった運動でした。
兄たちの通っていた、山奥の小学校に火事があって、焼け落ちてしまい、保管されていた脱脂粉乳缶も被害を受け、焼け跡でオコゲになっていました。それを火事場で手に取って舐めた記憶が、私にあります。確かに学童へのミルクは、大きな感謝があったのです。その感謝を、教会のStageからお話しさせて頂いたのです。
二つ目は、アメリカからやって来られれた宣教師さんたちが伝えてくださった福音宣教への感謝でした。自分の母は、カナダからおいでの宣教師さんとの出会いを通して、昭和初期にキリスト信仰を持ったこと。戦後、東京に出てから、アメリカからの宣教師さんの教会の一員になったこと。私の兄弟たちは全員、その母の教会で、バプテスマを受けたこと。また四人とも、その教会で結婚式を挙げたこと。さらに上の兄と自分は、そこで献身し、聖書やさまざまなことを学ばせて頂いたことなどを感謝したのです。
家内の母親も同じでした。当時住んでいた東京都下の街の駅頭で、「ヨハネ伝(ヨハネの福音書)」の分冊を、家内の上の姉が貰って帰って来て、それを手にして、義母が読んだのです。その巻頭には次のようにありました。
『1:1 太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。 1:2 この言は太初に神とともに在り、 1:3 萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。 お11:4 之に生命あり、この生命は人の光なりき。』
この「言(ことば)」を読んだ時、食糧事情が悪く、6人の子に食べさせるのに精一杯で、お母さんは食べたり食べなかったりで、ついに「肋膜炎(結核)」に罹ってしまいました。それで近くの結核病院に通院していたのです。そこに若い女子大生の病友がいて、主治医から『もう治らないし、そう長くは生きられないよ!』と言われたそうです。それを聞いた晩に、Shockだったのでしょう、亡くなってしまったことを知って、通院日に、そう言った医師に、強く叱るように抗議したのです。『医者の語るの言葉は、病人を生かしも殺しもするのだから、語る言葉にじゅうぶんに注意してください!』とです。
そんな悲しい出来事があって、「ことば」の重さを痛烈に感じていた時に、『太初に言があった!』と読んで、その冊子を配った宣教師を訪ねたのです。納得するまで質問をし、答えを得るまで執拗に通い続けたそうです。それで、「ことばなるイエス・キリスト」を知って、クリスチャンとなり、後に出会う私の母と同じ教会で、礼拝を守るようになっていました。不動の信仰者でした。
戦後、マカーサーの要請に応答して、来日されたアメリカ人宣教師に、日本語を教えたそうで、それには後日譚があります。『私はニンジンが好きでした!』教えたら、『私はニンゲンを生で食べます!』と、その宣教師さんが言ってしまったそうです。生ニンジンが好きだった方の笑い話です。
昨日は、両毛線の線路の高架下を、under pass して買い物に行きました。水溜まりにはなっていませで、自転車でもあったので無事でした。
(“いらすとや”の車の冠水、“Christian clip arts“の福音宣教者のパウロとシラスです)
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ローマの街を、ヨーロッパのとある国の王女さまが、手に「ジェラード」を持って歩くシーンが映画の中にありました。
アイスクリームではない、「氷菓」を食べているのですから、きっと季節は、夏から、秋になる頃ではないでしょうか。10才になる前に作られ、上映されたアメリカ映画のスチール写真で観た覚えがあります。マセていて、クラスに、目のパッチリとまつげの長い女の子が、主演のアン王女(オードリーヌ・ヘップバーンが演じていました)にソックリでした。
それが初恋だったのでしょうか、それと共に、「ジェラード」が美味しそうだったのです。アイスクリームはまだ食べたことがなく、アイスボンボンと言う瓢箪のような形のゴム製の袋の中で凍っている果物味の氷を、歯で食いちぎって頬張った、冷たさを知っていましたから、うらやましかったのです。そんなジェラードの季節が秋口だったので、9月になると、パッチリ目の同級生と、アン王女と、ジェラードが思い出されるのです。
大人になって、テレビで放映していたのを観たのですが、オードリーの綺麗なのに、少年は胸パクでした。アメリカの青年との恋物語ですが、ローマのスペイン広場、階段、何よりもジェラードに釘付けでした。美味しいなと思って食べたのは、住んでいた街のスーパーの入り口に開店した、ジェラード屋ででした。その店長さんに呼び止められて、次男が何度も頬張っていたのです。色々な果物味の氷菓でした。あれがジェラードの始まりだったに違いありません。
秋口、初秋の味の一つの思い出です。気象異常の続いた夏は、いつ終わるのでしょうか。それでも北関東のここ数日は、吹く風が秋のようですが、まだまだ暑さはおさまらないのだそうで、ホッとできる頃には、まだ台風シーズンが続くのでしょうか。被害も尋常ではなく、世界中が戦々恐々としています。被災の国々、地方のみなさんが心配でもあります。
2019年の秋に、19号台風で、市内の永野川と巴波川とが氾濫して、今の家に引越しさせられました。家のベランダに、バラ、日々草、それに朝顔が綺麗に咲いて、猛暑、酷暑の8月に、心和ませてくれました。この日曜日に午後、訪ねてくださった隣りのご婦人から、美味しいシャインマスカットをお土産に頂き、次男持参の洋菓子で、コーヒーを淹れて一緒に飲んで語らいました。
この街の実家のこと、職場のこと、ご家族のこと、昔のここと、話題が尽きませんでした。家内のフアンで、よき先輩女性なのでしょうか。お祖母さまが、宇都宮の教会に行っておられたのだそうです。素敵で感謝な日曜日の午後でした。
さあ、今日から、「長月」の9月です。美しく、美味しく、夜長な素敵な季節でありますようにと願う朝です。
(“ウイキペディア”のローマのスペイン広場です)
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『ノアの生涯の六百年目の第二の月の十七日、その日に、巨大な大いなる水の源が、ことごとく張り裂け、天の水門が開かれた。 そして、大雨は、四十日四十夜、地の上に降った。 ちょうどその同じ日に、ノアは、ノアの息子たちセム、ハム、ヤペテ、またノアの妻と息子たちの三人の妻といっしょに箱舟に入った。 彼らといっしょにあらゆる種類の獣、あらゆる種類の家畜、あらゆる種類の地をはうもの、あらゆる種類の鳥、翼のあるすべてのものがみな、入った。 こうして、いのちの息のあるすべての肉なるものが、二匹ずつ箱舟の中のノアのところに入った。 入ったものは、すべての肉なるものの雄と雌であって、神がノアに命じられたとおりであった。それから、主は、彼のうしろの戸を閉ざされた。 それから、大洪水が、四十日間、地の上にあった。水かさが増していき、箱舟を押し上げたので、それは、地から浮かび上がった。 水はみなぎり、地の上に大いに増し、箱舟は水面を漂った。 水は、いよいよ地の上に増し加わり、天の下にあるどの高い山々も、すべておおわれた。 水は、その上さらに十五キュビト増し加わったので、山々はおおわれてしまった。(創世記7章11~20節)』
聖書を読んで、『「ノアの箱舟(はこぶね、方舟)」の記事は、ただの物語であって、実際にあったことではないのです!』と言う方がおいでです。「天地の創造」、「紅海の海底歩行によるエジプト脱出」、イエスさまの「処女マリアの聖霊による懐妊」、「死者の蘇生」」、「湖上歩行」、「世の終わりの審判」などもただの創作物語だと言っています。
神の御子イエスさまの奇跡も審判も救いもない、ただ道徳的に正しく生きただけのちょっと奇妙な人間イエスの戯言(ざれごと)だと言うのです。でも、私の息子は、4歳ほどの時に、涙を流してイエスさまの十字架の苦しみに同情していました。しかも十字架の死は、『ボクのためだったんだね!』と、全く疑うことなく、『ごめんね!』とまで言っていました。聖書を聞いた通りに信じていたのです。46になった今でも、イエスさまを、神の御子と信じて、心から賛美しています。
先日、千葉市や船橋市、さらに埼玉県や石川県と富山県への大雨のニュースを伝えていました。また、氷河の溶解による土石流で非常事態のネパール、異常防雨の中国や韓国でも、ヨーロッパのフランスなどでも、水害、熱射被害、暴雨被害、さらに地球規模で、地震など、枚挙に暇(いとま)ありません。一夜の雨で、あれほどに雨が降って、日常が破られ、街の機能は麻痺し、被災されたみなさんは、死の危険に恐怖で怯え、眠られぬ夜を過ごしておいでです。現実としての自然災害なのです。
ノアの時代の大雨は、40日40夜降ったと記されてあります。そればかりではなく水門が破れ、地下水が溢れ出し、地表を覆ったと記されています。単なる物語だと思ってきた21世紀の人々は、こんな暴雨のニュースを聞いて、送信されてくる現実の映像を見て、モーセの洪水を引き起こした、全地を覆ってしまう、大雨もありうると思い始めているのではないでしょうか。
このノアの時代の大洪水は、どうして起こったのでしょうか。神さまは短気で怒りやすいから、堪忍袋の緒を切ったことが原因で起こったのでしょうか。聖書は、
『地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。 神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。(創世記6章11~12節)』
地上の人の生活が、堕落、暴虐、道を乱す、と言う状況下にあったのです。文語訳聖書には、
『時に世神のまへに亂れて暴虐世に滿盈ちたりき 。神世を視たまひけるに視よ亂れたり其は世の人皆其道をみだしたればなり。(NKJ聖書訳“The earth also was corrupt before God, and the earth was filled with violence. And God looked upon the earth, and, behold, it was corrupt; for all flesh had corrupted his way upon the earth.”)』
と翻訳されています。ひとが、人のあるべき道から外れて、人心を乱し、暴虐に満ち溢れ、人の生活の道が乱れていたのです。今や、21世紀のこの地上に見られるのは、寸分違わない状況だったのではないでしょうか。創造者なる神さまには、見るに耐えられない状況下にあったのです。
ノアの時代の裁きは、人の悪が地にはびこり、その心に思いはかることが、いつも悪い事ばかりであったからでした。ノアの時代の人たちは、諸悪を犯していた殺人者であり、姦淫者であり、詐欺師であったのです。何よりも神を神と認めようとしなかったのです。
そのような時代に、神さまを信じて歩んでいるノアとその家族8人を、人々が見て、知っていても、まことの神さまの言われることに、耳を傾けたり、時の動きを見聞きしても、神を信じようとしなかっのです。地に住む人の世に、悪や犯罪が満ち溢れていたわけです。
現代でも、世界的には、日常に見聞きするような、大災害が増えています。各国の政府や多くの人がその為に尽力しています。人々は災害復旧のために尽力して、善行に励んでいても、警告される神さまを信じていないのなら、その人を、神さまは、決して義と認めることはできません。きっと災害は、人々を悔い改めを迫る、神さまの憐みに満ちた働きに違いありません。
レビ記26章、申命記28章には、イスラエルに対する神さまからの祝福と呪いについて記されていますが、この原則は、今の21世紀の時代にも当てはまるのではないでしょうか。それは黙示録に記してあるように、
『これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、 その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(黙示録9章20~21節)』
のです。人に及ぶ災いを、神に立ち返るための機会として、信じようとしていません。大雨や地震の襲う21世紀の私たちへの注意勧告は、『命の助かる可能性が高まる行動をとって、身を守り、安全の確保を最優先をするように!』と、公共放送は、同じように言っているのです。
あの「ノアの方舟」に、乗り込んだ8人によって、人類は再出発をしています。イエスが来られ、教会が誕生した時も、使徒たちが宣教をしてから、時が移って、21世紀のキリスト教会も、
『私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。(ローマ1:16)』
ノアの時代、神さまは、ノアが方舟の建造を、神のご計画の通りにするのを、あの時代の人々は眺めていました。方舟の戸は閉じられないまま開かれていたので、その方舟に入れる機会があったのです。でも誰一人、そこに入ろうとはせず、眺めているだけでした。それは、まさにノアの時代の人々への警告をされておいでだったのです。今日日の大災害も同じです。
明らかに、自然界も、人間界も、荒れて、途方に暮れているような状況になっていないでしょうか。ノアの日の前夜のように感じてならないのは、私だけではなさそうです。神さまは、悪や罪を憎まれ、洪水で裁かれますが、「方舟」によって救いの御業をなさったように、この時代には、十字架による「救い」が定められていて、これを全力でなさいます。
『昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。(1ペテロ3:20)』
驚天動地の出来事が起こっても、絶望する前に、『神を信じ、わたしを信じなさい。(ヨハネ 14:1)』とおっしゃられるイエスさまをことばを信じるのがよさそうです。そこに「救い」が用意されているからです。
(“いらすとや”の「ノアの方舟」、“Christian clip arts“のイエスさまです)
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『父なる神の御前できよく汚れのない宗教は、孤児や、やもめたちが困っているときに世話をし、この世から自分をきよく守ることです。(ヤコブ1:27)』
多くの人に集まる場所の吹き曝しの寒い片隅で、赤児を抱いた年寄りが、その赤ちゃんの世話をしています。多くの人が、その様子を眺めながら通り過ぎて行ったことでしょう。路傍で、生きあぐねた人を眺めた時、出会った時に、自分はどうしてきただろうかと思い返しています。
新宿の西口と東口を繋ぐ地下道がありました。そこに、いわゆる浮浪児が何人もいたのを見かけたことがありました。また、上野駅に周辺でも、そう言った浮浪者を見かけたのです。ところが自分には、父とははがいて、一軒の家があり、そのちゃぶ台を囲むと母の作ってくれた食事を、山盛りによそってくれたご飯や焼き魚や煮しめ、味噌汁に佃煮やお新香で、三食食べられたのです。
華南の街の13年の間、街の繁華街の交差点の角に、車で連れて来られて、物を置くように置かれた足が萎えた若い男の人がいました。足元に、お金を入れてもらう缶だか箱が置かれ、憐れみを訴えるようにしていました。親方が、手配師で仕事のようにされていたのを、たびたび見かけました。福祉や社会事業の行き届かない地方都市の日常でした。
見過ごしにできないみなさんが、5元、10元と入れて通り過ぎて行っていました。世界中の巷間で見られる光景でした。社会の中で、体や心が不自由な人がおいでで、経済的にも、心理的にも身体的にも、生きていく上で、どなたかの援助を要しているのです。中学から電車通学を始めた頃も、小学生の時に、父に連れられて都内に出かけた時、浮浪児と言われた子どもや、戦争で、眼球や手や足をなくした「傷痍軍人」を、車内や駅頭で見掛けました。
孤児や浮浪児や傷痍軍人を、病む人やを、弱くなっていくご老人を、この自分は、どう見て、どう接してきたかを思い返しています。優しい心や、同情心を持って、手助けをしてきたかを考えさせられているところです。私たちの救い主のイエスさまが、求めておいでなのは、義務感でも使命感でもないのです。単なる優しさでも、同情心でも足りません。
ドージャースタジアムの球場の外の片隅に、乳飲み子を抱いたホームレスの老人が寒さを避けながらいるのを、大谷翔平が見つけました。助けてあげたい、と思ったのです。高飛車に、善行をする慈善家のようにではなく、その老人を恥ずかしめたり、尊厳を傷つけないように配慮して、注意深く見て、近づくのです。それほど心と時間を使っていました。寒さを防ぐために、自分の上着を、この方にかけてあげようとしました。一方的に行動することなく、その許可を、老人に、まず求めています。
その球場から追い出すように思われないように、助けを必要とする人の、受ける側の思いにまで気配りをして接近しています。一緒にいた、通訳をしているアイアトンさんを介して、助けようとしたのです。あくまで相手の尊厳を守るためにでした。球場の管理者でも、市政府の役人のようにでもなく、深く配慮してです。そのことを聞いて、そんな思いで人にアプローチをする小谷翔平の心に驚かされたのです。
MLBの大選手としてではなく、一人の人として、今は弱い立場にある人に、それほどの心配りをする、「優しさ」や「配慮」を、自分はしてきただろうかと思い返したのです。自分の善意が、相手のプライドを傷つけずになされるようにとの、大谷翔平の心の思いの動きは、驚くものでした。
隣国に福音を携え、お邪魔して、13年ほど過ごさせていただいた時に、イエスさまのような「心」、「優しさ」で、みなさんに接しただろうかと思い返させられたのです。
新宿の地下道にいた家なし、親なしのあの子を、華南の街の路上で物乞いをさせられていた、あの若者を、どんな心で見ていた自分だっただろうかと思い返いさせられた昨夜でした。果たして、《きよく汚れのない宗教心を育ててきただろうか》、《心のやさしい人》となれただろうか。自分なりに心の動機を真に思いながら、さあ今はどうだろうかとも、心の中を覗き込んでいます。
(“ウイキペディア”のロサンゼルスのドジャースタジアムです)
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『麗しさはいつわり。美しさはむなしい。しかし、主を恐れる女はほめたたえられる。 彼女の手でかせいだ実を彼女に与え、彼女のしたことを町囲みのうちでほめたたえよ。(箴言3章30~31節)』
教員をした時期が、短期間ですが、私にありました。その2年目に、高2と高3の学年をまたいだ「特別講座」を担当するように、教科主任に要請されたのです。それで、何を、どう教えるかも任されましたので、しばらく時間をもらって、テーマを決めたのです。
女子校でもありましたから、戦争後に強くなったのは、「ストッキング」と「女性」だと言われ続けてきていましたので、これから70年代、80年代を生きていく女子高生に、「平塚雷鳥」を取り上げて、この人を取り上げてみたかったのです。
雷鳥は、明治44年に、「青鞜社(せいとう社)」を建て上げ、婦人を読書の対象とした、婦人月刊誌「青鞜」の初刊号を発行するのです。やがて、大正デモクラシーの動きの中で、婦人たちの意識を高めていくための啓蒙活動の画期的な働きをし始めていきます。その初刊号の初めに、
『元始、女性は太陽であった!』
と書き出して、『真性の人であった。今、女性は月である。』と続けたのです。遥か昔、女性は輝いていたのに、今は自ら輝くことなくなってしまっていたからなのです。それは画期的な主張でした。『女三界に家なし。』、一生涯、父、夫、子のもとにあり続けて生きるので、そう言われていた女性でした。女性は権利を主張することなく、男に隷属するだけで、そんな立場を捨て、女性は権利や立場を獲得しなければならないとの声を、青鞜社は上げたのです。
それ以前、与謝野晶子は、歌人として世に出て、「君死にたもうなかれ」と詠んで、弟の日清戦争出征を、姉として憂えて、明治の中頃に世に出ていました。今でこそ女性に参政権が認められ、国会議員にも多くの女性が選ばれ、党首になったりしていますが、戦後の1945年12月17日に、衆議院議員選挙法が改定され、翌1946年(昭和21年)に、衆議院議員選挙が行われて、39名の女性代議士が誕生します。
雷鳥は、明治維新政府の高級官吏の子として生まれ、東京女子師範大学(現在のお茶の水女子大学です)に学んでいます。その雷鳥らの発刊した「青鞜」とは、英語の“ Bluestocking “ の邦訳で、すでにイギリスでは、そう呼ばれた女性の女性の知的交流を目的に、活動が起こっていました。その影響を受けての月刊誌の発刊だったのです。なかなか認められないままでしたが、女性の間では、活発な啓蒙運動が行われていきます。
その動きに加わったのが、慶應義塾の教授を父に生まれ、小説家の物集和(もずめ和子)がいました。途中で脱退していますので、自らには脱退者だと言っていたそうです。その他にも、何人もの賛同者がいました(写真を参照ください)。
しかし、第一次世界大戦勃発による、用紙価格の高騰、1914年の平塚の引退・出産、後の編集人になる伊藤野枝の無政府主義者の大杉栄との愛人騒動などで、「青鞜」は、1915年(大正4年)の第6号を刊行して、発刊を停止し、青鞜社も事実上解散となって行きます。
でも、そう言った声を上げたことは、新しい時代を迎える、礎石となったのは事実で、意義深かったと思われます。恋愛、結婚、心中未遂事件などがあって、それらによる非難は、男だけではなく女性たちの中からもあって、賛同を得られなく、その啓蒙活動は挫折してしまいます。
津田英学塾(現在の津田塾大学です)の学生であった、長崎出身の神近市子は、この青鞜社の働きに参加していました。戦後に台頭し、政治家として活躍した女性でした。あの大杉栄と伊藤野枝との日陰茶屋事件で、殺人未遂を犯して服役しますが、戦後、社会党の国会議員になって五期当選しています。
声を上げていく女性の社会運動の中で、恋愛問題や金銭問題が枷(かせ)となって挫折していくことが、けっこう目立つのですが、権利主張は、男女平等の精神の中で活発ですが、その限界を超えていく必要を感じます。そんなことで、学びたかったので、短期間でしたが、意識の向上と、20〜21世紀を強く生きていく女性であって欲しくて、一緒に学んだのですが、あの生徒のみなさんは、どうのように生きていっているのかが、気になります。
権利の主張は強くても、義務を生きていっているでしょうか。聖書は、
『同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 むかし神に望みを置いた敬虔な婦人たちも、このように自分を飾って、夫に従ったのです。 たとえばサラも、アブラハムを主と呼んで彼に従いました。あなたがたも、どんなことをも恐れないで善を行えば、サラの子となるのです。(1ペテロ3章1~6節)』
妻帯者だったイエスさまの弟子のペテロは、『・・・むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。』と勧めました。内面的で霊的な必要に触れているのです。日常の義務に生きることは、つまらないことではありません。
子どもを保育所に預けて、市民活動、政治活動を活発にしていたお母さんたちは、自分の産んだ子を、「社会の子」だと言って、育児放棄をして、社会改善運動にのめり込みました。結局、ある方は恋愛問題を起こして、結婚も家庭も失う結末を迎えてしまいました。母親の務めは、つまらないものではありません。立派に、子どもたちを育て上げたお母さんは、素敵に輝いた人生を過ごしているのです。
(“ウイキペディア“の「落穂を拾うルツ」、”CS教材”の「落穂を拾うルツ」です)
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平安時代の「古今和歌集」に、次のような和歌があります。
夏と秋と ゆきかふ空の かよひぢは かたへすずしき 風や吹くらむ
今季の猛暑は、昨年以上の暑さが、列島を覆って、台風の襲来で、強風が吹き、大雨が、これほどまでかと思わせ、大きな被害を置き土産にして去っていきました。まだ8月、これからも台風が生まれ、列島をうかがうことが予想されます。
それでも、昨日今日、ベランダから見上げる空は、この和歌のように、夏と秋とが、オシクラマンジュウでもしてるかに見えるのです。
国際紛争も、内戦もなく、平穏な時代だったのでしょうか、空を見上げて、入道雲とうろこ雲がせめぎ合うように、詠み手にはうかがえたのでしょうか。移ろいゆく季節を、そう感じられる感性の持ち主、凡河内躬恒(おおあしこうちのみつね)が羨ましいのです。
この住宅の手入れをしていない植え込みには、もう芒(すすき)の穂が、初秋の風を受けて静かに揺れています。「涼風」と言いたいのですが、まだ熱風なのです。でも季節は、確かに秋になっていて、虫も鳴きはじめています。
それで、この季節の初秋の空を、「行合(ゆきあい)の空」と、昨日の朝のNHKの天気予報の担当の方が、そう言っていたのです。人と人とが、この人の世では行き合うのですが、季節にも、雲にも、人に出会いがあるようにあるのだと感じたのでしょう。なんとも文学的で素晴らしい言い回しです。
心なしか、昨日今日は夏が行き、秋が来ていそうに感じられるようです。こんな季節の移ろいの日本語の表現は、実に趣があります。
そういえば、数えきれないほどの出会いや行き合いがあったでしょうか。 そんな出会いが、幻燈のように脳裏に蘇ってまいります。多くの方は、すでに召され、思い出ばかりになっていますが、磨かれ、気付かされ、教えられてきたみなさんです。
たしかに、願わなくても、会うは別れの始めなのです。父とは、もう少し、孝行の真似事でもしてみたかったし、社会人としてどう生きていくか、信仰者としてどう、神のみ前にあるかをみて、忠告や叱責をして欲しかったのですが、父61、自分が26の時に、死別してしまいました。父が老い始めた頃で、突然の別れでした。でも再会の望みがあります。驚き、感謝することでしょう。
(“ウイキペディア”の夏の雲の積乱雲です)
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