こんな人がいました

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『おとめイスラエルよ。わたしは再びあなたを建て直し、あなたは建て直される。再びあなたはタンバリンで身を飾り、喜び笑う者たちの踊りの輪に出て行こう。(新改訳聖書 エレミヤ31章4節)』

 捕囚の民となって、異国に連れて行かれても、父祖に約束された地、カナンに帰って来られるのです。だから今は泣いていても、やがて笑える時が来るという、主の約束のことばを、ユダヤ人は信じ続けています。イスラエルの人たちは、国を追われ異国に住んで、どこででも嫌われてきています。それでも自分たちの民族のアイデンティティを失わず、住み着いた地で、宗教的に同化しなかったので、受け入れられずに嫌われたのです。だから神には認められていました。

 しばらく私たちが過ごした中国にある開封、上海、ハルピンの市街地に、ユダヤ民族のコミニティーがあるのですが、その中で、開封から教え子が来ていたことがあって、遊びに来るように誘われながら、帰国してしまっていたのです。聖書の神に約束された民で、虐げられ、迫害され、嫌われ続けてきた民ですが、神の約束にしがみつきながら生き続けてきた民の子孫で、笑える日が来ることを、彼らは待ち望んでいたのです。

 日本人の中にも、ユダ人の子孫だと主張する人たちがいます。「日ユ(猶太のユ)同祖論者」で、失われたユダヤ十部属の末裔だと信じているのです。皇室にあって、天皇の祖もユダヤ人であり、皇室伝播の諸行事の中に、ユダヤ的なものが残されていると、主張する方もいるのです。

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 日本の軍人の中に、樋口季一郎という方がいました。私の祖父の世代になる方で、戦時下、大陸で、30000人以上のユダヤ人亡命者を助けておられます。その数は、リトアニアの日本領事館で勤務していた、難民に査証を発行した杉原千畝よりも、はるかに多くのユダヤ人だったのです。

 旧ソ連と中国の国境に、オトポールという街があり、中国側には満州里が接しています。そのオトポールに、多くのユダヤ人の難民が逃れて来たのです。1938(昭和13)年3月8日、樋口は、その情報を聞きます。人道的には救助したかった樋口は、自分は軍人であって、同情だけの行動を躊躇したのです。慎重を期して考えた挙句、軍人としての地位からの失脚も覚悟してしまいます。

 そこで、ユダヤ人救出を決意し、食料や衣服の手配する様に、部下に指示を与えました。上海に向けて、南満州鉄道の特別列車を出す様に要請し、それが実現したのです。そして3月12日、その列車で、ハルピンに到着したユダヤ人に、査証(visa)が発行されます。杉原千畝が、リトアニアで発行した「命のビザ」よりも2年ほど前のことでした。

『いま飢えている者は幸いです。やがてあなたがたは満ち足りるから。いま泣く者は幸いです。やがてあなたがたは笑うから。(ルカ6章21節)』

 無事に逃れ切った多くのユダヤ人は、ナチスドイツの図ったユダヤ人撲滅運動から逃れることができたのです。樋口季一郎は、陸軍中将の身分で、敗戦を迎えます。樋口に対し戦犯としての訴えを、ソ連は要求しました。戦前、特務機関員としてソ連に滞在していたことがあったので、ソ連は、「スパイ罪」を突きつけるつもりでいました。

 その危機を救ったのが、樋口に命を救われたユダヤ人たちでした。世界ユダヤ協会(本部はニューヨーク)は、素早く動いて画策するのです。ソ連の要求を飲まない様にするために、アメリカ国防総省に訴えたのです。それで、樋口に対する戦犯とするソ連の画策が終わります。あの狂乱の戦時下に、こんな行動の人がいたということは、素晴らしいことではないでしょうか。

 ユダヤ人は、よくても悪く言われても、神の選民なのです。私は、エルサレムの平和を祈っています。聖書が、そう記しているからです。そして、キリストの教会とユダヤ人のためにも祈ります。双方とも、神の民であり、神さまの愛の対象であるからです。整えられて、救い主イエスさまのおいでを待ちたいのです。

(“ウイキペディア“のイチジクの葉、ハルピン駅です)

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恩師の誕生日に

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 日本キリスト教団の吉祥寺教会の牧師を長年勤められ、多くの方々を伝道と牧会の前線に送り出された、竹森満佐一牧師が、次のように記しておられます。

 『カルヴァンは最も忠実なる御言の役者となろうとした。彼は神の御言とこれを聞く魂との間に、自分が邪魔になることを最も恐れたのである。・・人間的なあらゆる粉飾を取り去って、ただ純粋に御言を伝えたいという願望は、・・精魂を尽くさしめた課題であったのである。カルヴァンの説教を読む者は、その文章のまことに地味な、まことに簡素なことに気付くであろう。・・ここにフランス語をつくった人の一人といわれる文章家であり、同時に歴史の有する最も強力な”ダイアレクテシャン(弁証理論家)”であった彼の御言に対する忠実さを見出さねばならぬ。豊富な才能と美しき教養とに富んだカルヴァンが、ただ御言を純粋に伝えんために、人々に魅力多き『人の知恵』を捨てて、謙遜な神の器になり切ろうとしたところに、われわれは偉大な説教者を見出すのである。ここに、彼がただ御言の講解に力を注ぎ、これを説教の中心にした理由があるのであった(新教出版社刊「イエス伝」)』

 また、イギリス教会史の中で著名な牧師で名説教家であったスポルジョンが、講壇を降りて、家路についた信徒たちの後を帰ろうとした時のことでした。信徒たちが、『今朝のスポルジョン牧師の説教は素晴らしかった。彼の・・』と言う言葉を聞くと、彼は踵を返して教会に戻り、椅子に跪いて祈り始めます。『主よ。今朝の説教で、あなたを会衆に印象付けることをしないで、自分を印象付けてしまったことをお赦ししください!』と祈ったと言われています。いかに彼が主の前で、謙虚であろうとしたかが分ります。

 説教者の誘惑は、会衆に受けること、特に新しく来た人たちに分って欲しいと願うことです。それで面白く楽しく、彼らに距離を置くことなく、冗談や駄洒落を連発してしまいます。ところがカルヴァンやスポルジョンの説教を聴いて(ほんとうは読んでですが)みますと、一見つまらないのです。飾り物や無駄、人の思いが省かれているのです。

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 みことばが直截的に語られ、みことばを解説するのに、みことばだけが用いられているのです。もちろん本を著わすためには、編集がなされたのでしょうけれど、基本的に、装飾を省いて簡素な語り口であったに違いありません。この竹森牧師も、カルヴァンに学んだ教役者でした。

 ずいぶん前に、静岡県下の水窪で行われた「新年聖会」に、二人の講師が来られました。一人は、母教会の開拓をされたJ宣教師、もう一人はS牧師でした。J師は、カルヴァン的な説教をしましたが、S師は、面白おかしく話をされました。半世紀近くが経つのですが、S氏の説教の記憶は面白かっただけで内容を全く覚えていませんが、J師の説教はいまだに記憶の中にとどまっています。

 『あなたの説教は面白くない。A牧師の様に説教をしてください!』と迫った信者さんがいます。この方は、「説教」の本質を理解されておられないのですから、落語会か寄席に行かれた方がいいのではないでしょうか。説教は、時事講話でも漫談でも、自分の神学を語るのではなく、「いのち」を求めて来会される方に「いのちのみことば」を、分かつ霊的作業なのであります。

 説教の機会を与えられて、講壇に立って、初めて聖書から話をした時のことです。それを聞いていた宣教師さんは、二人きりの時に、説教の内容については一言も言いませんでしたが、態度と技巧について、けっこう厳しく批評をして下さったのです。それを忘れません。この方が、熊本においでの時に、献身するかどうかをテストされるために、結婚したての家内と訪ねました。

その時、キャンプ場の夏季聖書キャンプで初めて説教の機会が与えられたのです。その時は一言も批評されませんでしたが、開拓伝道を始めて間もない頃の最初の説教の後でした。そう言われた日を、また思い出したのです。この方は、素晴らしい聖書教師、説教者でした。今日は、Thanks giving day、その宣教師さんの誕生日です。

(“ウイキペディア”によるジュネーブの様子、恩師の古里の特産品の桃です)

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ただ感謝する今を

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 戦国の悲運の武将、真田幸村が、こんなことを言い残しています。

「定め無き浮世ニて候へば、一日さきハ不知事候。我々事などハ、浮世にあるものとハおぼしめし候まじく候(運命の定まるところのないこの浮世のことですから、一日先のことはわかりませぬ。我々などはもう浮世に在るものと思われないようになさって下さい。(出典 上田情報ライブラリー )」

 浮世、今生の世のことを言うのでしょうか、そこには何時までもはいられずに、必ず去らねばならないと、戦国の名武将の真田幸村(信繁)は嘆いています。運命に従わなければならない、自分の一生なのでしょう。明日のことは知る由もなく、皆目分からないのです。幸村は、そんな一生を忘れ去って欲しかったのでしょうか。亡くなったら、自分なんかいなかったと思っていいですよ、と言ってる様です。

 関ケ原の戦いで西軍に加わって敗れてしまいました。家康は、幸村を死なせないで、高野山へ幽閉させるのです。彼はお父さんの昌幸と二人で、そこにいました。妻を娶り、子が与えられて家庭生活を許され、高野山の麓の部落に住み着いたのです。兄の信之らからの仕送りでの生活は厳しかったそうで、援助をたびたび願う手紙を出しています。

 十数年、そこでお父さんは、志半ばで死んでいきます。大坂夏の陣が始まると、幸村は戦場に駆けつけるのですが、戦死してしまうのです。信州上田に生まれ、最後には異国に住み、戦さで果てた悲運の武将だったわけです。その生き様を思うと、昭和の平和な時代に生まれ、今、令和の時代を生きられて幸せなのかも知れません。聖書は、次の様に記します。

『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(新改訳聖書 詩篇90篇10節)』 

 過ごした年月を思い返して、アッという間に年月は過ぎ去り、飛び去っての今です。自分の一生が、不思議なものであったことを思い返し、一日たりとも、一時たりとも偶然はなく、いのちを付与してくださった創造主に導かれてきたのです。人と機会とに出会って、あちこちと動き回って、北関東の静かな街に住み着いて、ここでも多くの人と出会ってきました。

 そして、これまで関わってきた人たちとの死別が時々あり、人生の短さを痛切に感じてしまう年齢になってきました。人は亡くなると、告別式が行われ、故人の遺徳や思い出が語られるのです。みなさんが善人として一生を過ごしているのでしょうか。汚職、選挙違反、家庭を顧みない、ふしだらの行状、税金の不正申告などの過去を持ち、どうでなくても不満ばかりの一生だった人が亡くなって、その方への弔辞を聞いて、時には、『ウソだ!』と思っている弔問客が多くおいでなのではないでしょうか。

 ところが、好々爺だった晩年に知り合った、過去や真実を知らない人は、『素晴らしい人生を生きたのですね!』と、隣席の方に言っています。スクリーンに映し出された故人の写真は、どうも苦笑いしているのでないでしょうか。なぜ笑ってるのかと言うと、そうではなかったからです。

 被害者は、鞭打ちたいほどに憎い相手なのに、死んでもらって、ホッとしている人だっておいでです。なぜ日本人は、死んでしまうと、みんな善人になってしまい、神や仏になってしまうのでしょうか。と言うよりは、悪い過去は封印してしまい、触れないのです。だから故意に、そう「してしまう」のわけです。過去はともかく、日本人は、みんな成仏して冥土に行けるとになっているのです。

 きっと葬送する人が、自分の時を迎えたら、悪口や真実を語らないで、良い人で、極楽往生したいから、美辞麗句をならべるのでしょう。秀吉は、「浮世のことは夢」だと言う辞世の句を詠んだのですが、どうして善いことばかりではなく、辛いことも暗いことばかりなのに、死んでしまうと、褒められてしまうのでしょうか。真実を知る人にとっても、被害を被った人、貶め入れられた人、痛烈に嘘で訴えられた過去を過ごした人がいるのにです。

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 今改めて、自分の最後について、子どもたちに思いを書き記しておこうと思っています。失敗や行き過ぎが多く、短気で、すぐに怒ってしまい、それて最悪なのは、一晩眠ってしまうと、したことを都合よく忘れててしまうのです。ちっとも良い夫や父親でなかったこと、『善い人でした!』なんて言われたくないのです。それでも、赦されて、精一杯生きてこられたのです。

 それで、葬儀不要、墓不要、持ち物は全部廃棄、骨は粉末にして眼下の川に流すこと、これらを守って欲しいだけなのです。総合的に思い返しますと、いい人生だったと思うのです。思い置くことは多くないので、召される日まで、生かされ、赦されて、みなさんには、もう少し我慢をしていただこうと願うばかりなのです。

『もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(新改訳聖書 1ヨハネ1章9節)』

 ただ憐れみ深い父なる神さまに罪赦されて、ここまで生かされてきました。この不動の確信を、主イエスさまが与えてくださって、聖霊なる神さまが、その証印を押して下さって、今があります。それだけで他は要りません。ただ感謝あるのみなのです。

(“いらすとや“ のありがとうのイラスト、朝まだき巴波川です)

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新蕎麦を食べに行く

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 うずま公園の落ち葉の掃除を、朝7時30分に始めて、きれいにしてから家に帰り、11時過ぎに、知人が車で迎えに来て下さって、ラジオ体操仲間のみなさんは市営バスに乗って、出流山の麓の蕎麦屋さんに、他のみなさんはふれあいバスに乗って、総勢14人ほどで行きました。

 蕎麦粉を打って、茹で上げられた「新蕎麦」に、秋野菜の天麩羅、煮しめ、ゆず大根の漬物で、蕎麦会がもたれたのです。秋の味覚を堪能したお昼でした。毎年秋の恒例行事で、ほぼ同じメンバーの参加だったのです。

 今では、栃木市になっていますが、かつては鍋山村と呼ばれ、幕末の変動の時期には、名が上がった出流山万願寺の山門近くで、お蕎麦屋さんが何軒も軒を連ねていて、秋蕎麦を提供しているのです。

 近くは、石灰石が算出されていて、旧国鉄の両毛線の栃木駅へ10kmの距離を、石灰が人力鉄路で搬出されていたのです。今では大型のダンプカーがとって代わって、運び出されていて、時々、行き合うのです。柚子のお土産を、お店に店長さんに頂いて帰路につきました。紅葉と蕎麦は秋の味覚、見覚の遠足でした。

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秋トマトが育って

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 猛烈な暑さがおさまりかけた頃でした、咲き終わった鉢から芽が出てきて、そんなに気に留めなかったのですが、スクスク育っていくではありませんか。緑色の草が大きくなると、なんだかトマトの様な葉を見せて来たのです。その葉の匂いを嗅いで見ると、まさしくトマトでした。

 その枝の先に、黄色い花が咲き始めたのです。しばらく経つと、丸い実ができ始め、少しずつ大きさを増していくではありませんか。11月16日、今朝ベランダに出てみると、ミニトマトほどの丸みをおびた緑色の実に生長しているのです。

 今朝6時の気温は、6℃の中、しっかりとした実が目に入り、スマホを取り出してきて撮影してみました。はたして、霜が降る前に、赤みを着くでしょうか。寒い地域だと、今朝はもう零下5℃だ、とのニュースを聞きましたから、赤く熟すことはないのでしょう。でもしっかり鉢の土に、根を張っているのが分かります。始まりは細っピーの枝でしたが、今では、しっかり土を掴まえていて、離しません。

 その生き生きとしたトマト を眺めると、真っ青な、未熟な頃の自分を思い出してしまっているのです。背伸びの時期でしょう。中学3年間の担任が、髭の濃い先生で、『男は、髭の剃り跡の青さが紋章なんだ。男の子は髭の濃い男になりなさい。女性にモテる様にもなるから!』と言ったことがあって、なおさらそうなりたかったのです。それと、父の様な髭の濃い男になりたくて、風呂に入る度に、父の安全剃刀で、鼻の下や顎を、父がしている様に剃ったのです。ちょっと大人になった様な、背伸びをした気持ちを楽しんでいたのでしょう。

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 その剃刀は、フェザー製の刃で、父は、髭剃りを終えると、ガラスコップの中に水滴をつけて、右手の人差し指で、丸みに合わせて左右に動かして、その刃を磨き研ぐのです。あんなに大事に、一枚の歯を指にして、手入れをして、物を大切にするんだと思って感心したのを思い出します。どうも父には届かずの今です。

 中1の夏に、臨海学校に行った時、級友たちと一緒に風呂に入った時、体格の大きな同級生は、もう生えていて、自分が遅れている様に感じて、劣等感に苛まれていました。それでもケンカだけは強かったのです。チビで奥手の自分だったのに、それでも、いつも間にか、性徴期を迎えたのでしょう、上と下と脇の下に体毛が生えてきたのです。

 そんな思春期があって、青い子が、黒ずんできて、大人の仲間入りは複雑な思いでした。ベランダの青いトマトと、十代初めの自分がoverlapしてきてしまいました。間もなく本格的な冬がくることでしょう。冬用の上着などを、ちょうど昨日出したところです。

(“いらすとや”のトマトです)

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足尾への周遊の遠足で

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 秋晴れで暖かな昨日、日光周辺への小遠足をしてきました。朝8時に家を出て、栃木駅に着き、東武日光線で、東武日光線駅まで急行電車に乗車したのです。駅前から、足尾行きの市営バスに乗り、わたらせ渓谷鉄道の通洞駅前で下車しました。駅横のベンチで、早めの昼食を摂ったのです。そして、そこから電車でJR両毛線の桐生駅に行き、栃木駅に帰る一日遠足でした。

 日光駅からの市営の小型バスは混んでいて、家内だけの空席があったのですが、私は座れませんでした。まあいいかで、家内の横に立ったのです。すると一人の男の人が、席から立ったではありませんか。中学生ほどの男の子を連れたご両親の一行でした。押し問答をしたのですが、この方が『没問題(OK! 構いません)』と立って、席を譲ってくれたのです。通常ですと、この場面では、座ってる方は、スマホや車外に目を向けたまま、無視を決め込むのですが、私の目を見て席を譲ってくれました。

 中国人のご家族でしたので、中国語で感謝をしたのです。そこで、どこから来られたのかを聞きましたら、『我们広東来了!』と答えてくれたのです。中国の南の広州省の省都で、『行ったことがあります!』と話して、しばらく会話をしました。

 私たちが、中国に行きましたのが、60を過ぎてからでした。初老の私たちがバスに乗り込むと、すぐに何も言わないで、若者のみなさんは、席を立ってくれて、『坐吧zuoba お掛け下さい!』と席を譲ってくれたのです。しかもいっせいにでした。『谢谢xiexie 』と言って、いつも座らせてもらったのです。

 中国人のみなさんは外国に来ても同じなのです。敬老の思いが強いからです。途中で、席を代わろうと言ったのですが、手を横に振って座ろうとはしませんでした。横で、奥さんはニコニコと眺めておいででした。足尾地内に入ってから、途中で降りて行かれたので、家内は、『一路平安 yilupingan 旅のご無事を!』と言って見送っていました。

 日光から足尾への道筋で、中国人魂に触れて、13年過ごした中国での出会いや出来事や交わりを、懐かしく思い出した、バス車内での一時でした。旅行中の外国の方に、そんな親切を受けて、なんとも気分の良い晩秋の遠足でした。

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 乗車した「わたらせ渓谷鉄道」は、元は国鉄線で、それ以前は足尾銅山の銅鉱石の搬出鉄道でした。初期は人車、馬車による鉄路で、鉱夫のみなさんや食糧物資の搬送にも使われていた様です。鉱山が盛況の頃には、この足尾は、宇都宮に次ぐ人口の町だったそうです。中国や朝鮮半島からやって来て、鉱山で採鉱に従事していた方たちが多かったのです。精錬された銅は、年間6000トンほどもあった様です。悲喜交交(ひきこもごも)、さまざまな人生劇が繰り広げられ、日本勃興期、近代化に役割を果たした町だった様です。その歴史の一ページを記したことになる町です。

 秋の旅行シーズンで、一輌だけの電車は混んでいました。沿線の紅葉も見事で、しかも晴れ渡った秋晴れで一入美しかったのです。旅行シーズンでも電車の運行は、単線でしたので、駅での停車時間が長めで、ローカル電車の趣にあふれていて、平常は運転手さんだけでの運行なのですが、シーズンでしたので車掌さんも乗車していて、切符の精算だけではなく、記念品の販売の売り子さんも兼ねていて、これまた地方色を感じられたのです。

 家を出て、電車とバスの利用の一日で、周遊ということで途中下車なしで、それでも7時間ほどの遠足だったのです。秋の陽を浴び、心も体も温もって、家内は満足そうに、来県以来初めての小遠足に疲れたのか、もう座席に暖房も入っていましたし、心地よい揺れもあって、転寝(うたたね)三昧(ざんまい)の遠足後半でした。また遠足しようね、の感謝の一日でした。

めぐりめぐって時はうつろう

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 物書きをする方は、よく親を書き残そうとします。「文藝春秋」に、以前、自分の母親を語る欄がありましたし、「毎日新聞」にもオフクロ欄がありましたが、双方とも、今では終了してしまっている様です。その投稿者が、亡き母や老いた母を、思い思いに語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、けっこう面白い記事だと感心していました。『この人にはこんな母親がいたんだ!』と思うこと仕切りです。 年配者が、自分の母を語る語り口は実にほほえましいものがあります。

 とくに男の子にとっての母親は特別な人だと思います。神さまが極めて親密な関係に置かれた関係でして、9ヶ月間その母の胎の中で育まれ、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた養育者でありました。その記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。

 30分ほどの散歩道に、二十ーー年ほど前に、1000mほど地下を掘って、湧き出た温泉の掛け流しをしています。そのぬるめになった湯の箇所があって、そこに水が落ちる様になっているのです。流れ落ちる温泉水は、小川のせせらぎの様に聞こえて、目を瞑って聴くのが好きで、一番快い箇所に陣取って、温泉浴をするのです。そうすると得も言われないほどの安心感を覚えるのです。きっと、母の胎内で、羊水に覆われていた頃の水音を覚えているからなのでしょうか。

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 駆除か捕獲かに意見が揺れ、別れている、熊騒動がにぎやにぎしい昨今ですが、月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を支配するほどの重要な意味が、母子の関わりの中にあるのだそうです。生きていくことを学ばさせ、子はそれを習得していくわけです。

 ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされていく様子が分かります。もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それを神がお許しになられたことを認めるなら、欠けたるところを、神さまは充分に補ってくださるに違いないのです。

 ある方が、『おかあちゃんに会いて-よー!』と泣いて、うっぷした様子を見させて頂いたことがありました。ちょっと酔い加減で、料理屋のカウンターででした。どうもお父さまとは難しいこともあったのでしょうけど、いくつになっても母は母で、別格なのだと思わされたのです。

 自分の説教を聴かれたご婦人に、《マザコン牧師》と非難されたことが以前ありました。自分の母を懐かしく語ったことが、その方にはずいぶんと不愉快だったのかも知れません。人には様々な過去と背景がありますから決して傷つけようとしたのでも、無配慮にでもなく、母の教えに感謝して語ったのですが。

 同じ母の子でも母に対する思いや評価は、兄弟でも各々に違うわけですから、仕方がなのかも知れませんね。聖書は、

「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ(新改訳聖書 箴言23章22&25節)」
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と記しています。もう何年前になるでしょうか、86才の私の母が、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったりして弱くなってきていました。2度の大病を、主に癒され励まされて、その難しい病む時を越えてきた母が、ひと回り小さくなってきていたのです。その母の通院に付き添いましたが、駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母を背負いました。

 負ぶってもらった記憶はありますが、それまで母親を背負う機会がなかったのです。平成の啄木の様に、砂浜ではなく、ビルの駐車場、医院の廊下をニ百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を歩みました。やはり軽かったのです。その時「砂の上の足跡」と言うクリスチャンの作られた有名な詩がありますが、その詩を思い出したのです。

 母を86年間、とくに14才の少女の時からおぶってくださったのは、主イエスさまだったことに気付かされた、雨の初冬の夕方で、隣国からの帰国中のことでした。健康が回復され、心配ばかりかけた息子のために、ずっと祈りで支え続けてくれた母でした。あの母があっての今の自分を思う晩秋の朝であります。

(“いらすとや”のイラストです)

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秋の陽だまりで思うこと

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 「文藝春秋」に、以前、おふくろ欄があり、「毎日新聞」にも自分の母親を語る欄がありましたが、双方とも今では終了してしまっている様です。その投稿者が、亡き母や老いた母を、思い思いに語っているのです。千差万別、様々な母親の思い出や影響があることを読んで、けっこう面白い記事だと感心していました。『この人にはこんな母親がいたんだ!』と思うこと仕切りです。 年配者が、自分の母を語る語り口は実にほほえましいものがあります。

 とくに男の子にとっての母親は特別な人だと思います。神さまが極めて親密な関係に置かれた関係でして、9ヶ月間その母の胎の中で育まれ、誕生するや自分で飲んだりすることの出来ない赤子だった私たちを、実に献身的に世話をしてくれた育児者でありました。その記憶は全くないのですが、体が覚えているわけです。さらに初めて身近にした女性でもあるわけです。

 30分ほどの散歩道に、三十年ほど前に、1000mほど地下を掘って、湧き出た温泉の掛け流しをしています。そのぬるめになった箇所があって、そこに水が落ちているのです。流れ落ちる温泉水は、小川のせせらぎの様に聞こえて、目を瞑って聞久野が好きで、一番快い箇所に陣取って、温泉浴をするのです。そうするとえも言われないほどの安心感を覚えるのです。きっと、母親の胎内で、羊水に覆われていた頃の水音を覚えているからなのでしょうか。

 駆除か捕獲かに揺れている、熊騒動がにぎやかな昨今ですが、月の輪熊の母子の様子がテレビで放映されているのを観たことがありますが、その関係の影響力は、その子熊の一生を支配するほどの重要な意味が母子の関わりの中にあるのだそうです。生きていくことを学ばさせ、子はそれを習得していくわけです。

 ペンギンでも狼でも猫でも、その母子関係は実に細やかで、実務的な教育がなされていく様子が分かります。もちろん病死などの離別で、母親の思い出や影響の全くない方もおられるのですが、それを神がお許しになられたことを認めるなら、欠けたるところを、神さまは充分に補ってくださるに違いないのです。

 ある方が、『おかあちゃんに会いて-よー!』と泣いて、うっぷした様子を見させて頂いたことがありました。ちょっと酔い加減で、料理屋のカウンターにでした。いくつになっても母は母なのだと思わされたのです。

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 自分の説教を聴かれたご婦人に、《マザコン牧師》と非難されたことが以前ありました。自分の母を誇って語ったことが、その方にはずいぶんと不愉快だったのかも知れません。人には様々な過去と背景がありますから決して傷つけようとしたのでも無配慮にでもなく、母の教えに感謝して語ったのですが。

 同じ母の子でも母に対する思いや評価は、兄弟でも各々に違うわけですから、仕方がなのかも知れませんね。聖書は、

「あなたの年老いた母をさげすんではならない。あなたを産んだ母を楽しませよ(新改訳聖書 箴言23章22&25節)」

と記しています。もう何年前になるでしょうか、86才の私の母が、老いを迎えて、息苦しくなったり高血圧であったりして弱くなってきていました。2度の大病を、主に癒され励まされて越えてきた母がひと回り小さくなってきていたのです。その母の通院に付き添いましたが、駐車場から診察室まで遠かったので、帰りに、母をおんぶしたのです。

 おぶってもらった記憶はありますが、今まで母親を背負う機会がなかったのです。平成の啄木の様に、砂浜ではなく、ビルの駐車場、医院の廊下をニ百歩ほど背負ったでしょうか。『このおじさん何してんの?』といった顔を向ける若者の間を歩みました。やはり軽いんですね。その時「砂の上の足跡」と言うクリスチャンの作られた有名な詩がありますが、その詩を思い出したのです。

 母を95年間、とくに14才の少女の時からおぶってくださったのは、主イエスさまだったことに気付かされた、雨の初冬の夕方で、隣国からの帰国中のことでした。健康が回復され、心配ばかりかけた息子のために、ずっと祈りで支え続けてくれた母でした。あの母があっての今の自分を思う秋の午後であります。

(“いらすとや”の紅葉と熊の親子です)

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名ピアニストにならなくても

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 「スポ少」、四人の子育て中に盛んだったのが、この「スポーツ少年団」でした。その理念は、「子どもはスポーツを楽しむだけでなく、学習活動、野外活動、レクリエーション活動、社会活動、文化活動などを通じて協調性や創造性を養い、社会のルールや思いやりのこころを学びます。」と言うことで、現在ではどうか知りませんが、あの頃の子ども文化だったのでしょう。

 今では、有料クラブに参加して、高度のスポーツ技術を、大人顔負けで、厳しい練習や指導で、叩き込まれて、プロを目指している少年少女がいて、様変わりしています。生ぬるい楽しい練習では、しのぎを削る様な戦いに勝てないのです。例えば、高校野球の選手たちのほとんどが、中学校の部活ではなく、リトルシニアリーグのクラブに所属していたのです。サッカーも同じで、欧州リーグに名を連ねている選手も、プロリーグのチームの株組織とか、チームの教室の出身者がほとんどの様です。

 大都市で、大学や成功的なスポーツや芸術、その他の分野での名指導者に教えを請わないと、バレー、ピアノ、バイオリン、絵画などなど、一流にはなれません。趣味ではダメで、猛訓練をしてくれる様       な先生やお師匠さんの教えや指導が必要なのです。かつては地方では、そんな指導者がいませんでしたが、今では地方にも逸材がおいでで、また強力な指導体制が、事業としてできていて、東京や大阪に行かなくとも、良いお師匠さんに出会えるのです。

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 高校生だった長女が、月に一度、ピアノを教えてくださる、牧師さんのお嬢さまのおられる東京に、電車で数時間をかけて出掛けていた時期がありました。お陰さまで、ピアノが上達したのです。本当はピアノ学科に進学したかったのですが、何も言わずに諦めて、東京の夜間の短期大学に入学し、昼間、お蕎麦屋さんのお運びをしたり、喫茶店チェーンの店でアルバイトをして卒業し、私の兄に資金を借りて、アメリカに留学してしまいました。シンガポールに長くいた時期には、教会の礼拝で、ピアノの賛美奉仕をしていました。

 一流のピアニストにはなりませんでしたが、教会で奉仕し、活ける神への賛美礼拝できるのは特権で、穏やかに謙虚にピアノを弾けるのも賜物で、今でも牧師さんのお嬢さんの指導には感謝しています。Gift(賜物)を何のために、誰のために用いるかは、とても大切だなあと思うのです。もし自分に与えられた賜物が、早い時期に分かったら、それをどう活かすか、活かすためにどう環境が働いてくれるか、環境を司るのも創造の神のみ業に違いありません。

 私が好きな野球選手は、子どもの頃に、お父さんが漁師で、その手伝いを、伝馬船に乗って、櫓を漕いでいたそうです。そういった生活環境の中で、足腰肩が鍛えられて、後に日本プロ野球の名ピッチャーとなりました。これはご両親から受け継いだ体を、鍛錬した結果であって、ご自分の生活環境の中で作り上げた、タラントを用いられた事例だったのでしょうか。

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 子どもの頃の手伝いが、強固な意思と壮健な体を作り上げられたことを、稲尾投手は、お父さんとお母さんに感謝したことでしょう。この方は、驕らず、誇らず、謙虚だったそうです。そう大分県別府の出身の稲尾和久投手でした。すでに亡くなられておいでですが、同チームの中西太という名選手が推薦して、ピッチャとなる一歩を踏んだのだそうです。そして、今日日、MLBで大活躍の山本由伸にも勝る成績を収めています。MLBに行くことはありませんでしたが、伝説の名ピッチャーでした。

 誰にも、大小、高低、上手下手の差があったり、見付けられたり、埋もれたまま見過ごされたりすることはありますが、きっと、どなたにも与えられたタラントがあるに違いありません。それが、人や国家や人類の益のために用いられるなら、感謝ですし、埋もれたままであるなら、それも認めて、精一杯生きるなら、それでいいのでしょう。

 文化勲章やノーベル賞、街の文化祭の賞状やメダルは与えられなくても、他者に益 する生き方は誰にでもおできになります。それでよいのでしょう。

( “いらすとや”のピアニスト、天馬船の漁、お運びさんです)

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カモ帰る

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 鴨が帰って来て、巴波川が賑やかになりました。最初3、4羽でしたが、今ではざっと50羽ほどになって、エサの取り合いをしているのが見うけられます。

 生まれ故郷のシベリヤ、カムチャッカ、モンゴル、黒竜江省あたりに帰って、そこで産卵して、雛を育てるのだそうです。遠距離を飛べる体力がつくと、家族で戻ってくる様です。カルガモが、道路を横切る様子が、ビデオで見られる様に、7、8羽が群れているのですが、そんな大家族でなさそうで、どうかなと思案してしまいます。

 トマトの種が地に落ちて、芽を出して、すくすく育って、11月と言うのに、小さな実をつけています。ウインターコスモスの切り花を家内の和歌の同人からいただいて、テーブルの上で咲いています。散歩道の小学校の花壇と、いつも花のお世話をして、きれいな花を咲かせているお家の庭に、菊の花が咲いていました。

 もう冬の足音がして来ています。南に富士の高嶺が見え始めました。

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