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わが家にも「野球小僧」が一人いました。スポ少の野球部に入って、いつかはプロの世界での活躍を夢見て、練習に励んでいました。日曜日にも練習、試合があって、『じゃあ礼拝はどうする?』と、牧師の子は悩んだのです。その悩み解消のために、二階の礼拝室で、早朝礼拝をしていました。
家内と私と長男とで、賛美をし、聖書から話をし、祈って、彼を送り出したのです。それはイエスを愛する少年が、guiltyに感じないで、練習や試合に臨める方法でした。中学3年間、それを守りました。1学年下のピッチャーが、主戦投手になって、スタメンから、長男が外されてしまっていたのです。でも、腐らずに、野球部員であり続けたのです。
息子の高校進学に際して、『学習塾に行かせてほしい!』と言ったのです。『新聞配達をして、塾費を払うから!』と、新聞少年にもなって、野球もアルバイトも続けたのです。でも受験に際して、アメリカ留学の夢を持った彼は、県立高校や、特待生の枠での推薦が受けられ、私立校のへの誘いを断って、両方とも受験しないでいました。
結局、ハワイの教会の牧師さんが、『私がお世話しましょう!』と言ってくれて、ハワイのPublic Hightchool に入学することができたのです。中学での英語の成績はよかったのですが、入学したクラスでは、最初はあチンプンカンプンだったようです。そんな辛い時期に諦めなかったのです。それで卒業時には、優秀生の表彰されたのです。
それから日本に帰国し、アルバイトをして、秋には、西海岸のCommunity College に入学して2年を終了し、州立大学の三年時に編入学して、そこを卒業したのです。どのような道に進むのかを見守っていましたら、教役者への道に進みたいとの願いで、ホノルルの教会のプログラムで学ぶ道に進み、日本人スタッフとなって、教会の奉仕の道を選んだのです。
あの野球小僧の夢は果たせませんでしたが、教会の牧師になって今は、東京の教会で奉仕をしております。その息子も、野球小僧でしたが、同じように夢を果たせませんでした。そして今春、大学に進学したのですが、彼も祖父、叔父、父親と白球を追いかけた四代目の野球小僧でしたが、野球の夢をつなげずの今を迎えています。次女の子も、アメリカ版の野球小僧でしたが、大学へのスポーツ推薦を蹴って、自分の学びたい分野に進んでいき、今秋には3年生になります。
そんな夢を繋げずにいる野球小僧たちにとって、MLBで大活躍している日本人大リーガーたちの活躍を、どう見てるのでしょうか。体格も経験も、見劣りすることなく、かえってアメリカ人やプエルトリコ出身の選手たちを凌ぐような体格で、夢に届いたのです。しかもトップで活躍し、好成績を上げ、注目の街となっている時代が到来しています。
もう日本野球界で活躍した名選手たちが、老いていき、脚光が向けられなくなっていく中で、活躍の大谷翔平の輝きには、驚かされてしまいます。今や、長嶋茂雄が逝き、張本勲が杖をつき、江夏豊が車椅子に乗って、マウンドの立つ様子を見るにつけ、強者どもの栄光の過去と、この時代の大リーガーたちの活躍の対照に、野球小僧たちは、どんな思いでいるのでしょうか。
野球ばかりではなく、サッカー界でも、欧州リーグやアメリカンリーグで、しかも男ばかりではなく、女性選手たちの活躍を目にする現代、日本人の劣等感を吹き飛ばす大活躍は、目を見張らせてくれます。
戦後の荒廃の中から、精神定的にも、経済的にも、父の世代が、敗戦の憂き目を苦にしないで、シャニムに働いて、家族を養い、家族を養い、欧米に負けない国づくりに励んでの今があります。そんな動きの時代に、両親に育てられたことには、感謝するばかりです。そして宣教師さんたちから受けたことも甚大だったと思うこと仕切りなのです。
少女期に信仰をもって、夫に仕え、四人の男の子を育て、朝から晩まで忙しくしていた母には頭が上がりません。その母を支えていたのがキリスト信仰だったのです。毎晩、教会に出掛けて行き、賛美をし、聖書を学んで、心の糧、霊の糧を得ることをないがしろにしませんでした。そんな生きる姿を見て、私たち息子たちは信仰を継承できたのだと思うのです。もちろん、神さまの憐みがあってのことでした。
父や母から受け継いだことが何だったのかを思い返しますと、父が自分の弱さを超えて、家族を養うために懸命に働いてくれたこと、子育てに、我を忘れて励んでくれた母がいて、その母の祈りの支えがあって、この歳を迎えることができています。これ以上何が言えるでしょうか。
病んだり、入院したりすることが多くなっている今ですが、隣人や若い友人たちの激励があり、子どもたちの訪問などがあるのです。先週も、次女が2週間ほどの滞在で、今いてくれます。祖祖父母の時代、祖父母の時代、子供たちの親の世代、孫の世代、激変の100年余りの時の流れの中で、四世代、五世代が、各役割を果たしてきていることになります。
価値観の変化、文化の相違、世代間のギャップなどがあって、どこに向かっているのでしょうか。確かな価値観の上に立たない限り、混乱ばかりになってしまいそうです。知恵者が、次のことばを残しています。
『11 神のなさることは、すべて時にかなって美しい。神はまた、人の心に永遠を与えられた。しかし人は、神が行われるみわざを、初めから終わりまで見きわめることができない。
12 私は知った。人は生きている間に喜び楽しむほか何も良いことがないのを。
13 また、人がみな、食べたり飲んだりし、すべての労苦の中にしあわせを見いだすこともまた神の賜物であることを。
14 私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。それに何かを加えることも、それから何かを取り去ることもできない。神がこのことをされたのだ。人は神を恐れなければならない。(新改訳聖書 伝道者4章11-14節)』
万物の創造者は、不変のお方です。この変動と変容の時代の只中にあってでもです。価値観の転倒や過去の否定があり、価値の転倒が主張され、改革や変化は声高に叫ばれる時代にあっても、永遠不変のお方がいて、私たちがあります。「神を畏れよ」と言う声が聞こえてこないでしょうか。
新しい動きは、過去にあったことの再登場で、真実を再確認するのです。もう一方では、罪や誤謬は繰り返されることも承知し、そんな動きに抗して、長い時間をかけて真理を守り通してきた先人のみなさんの闘いと労苦とを、正しく評価しなくてはなりません。「キリストを知ること」こそ、今の時代に必須なこと、死守すべきことに違いありません。
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