ヘルモン山やカルバリの丘に

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 岩手県に、早池峰(はやちね)山があります。北上山地にある標高1917mの山で、7〜8月にかけて咲く花に、「早池峰薄雪草(はやちねうすゆきそう)」と言う名の花があって、清楚に咲く花で、実に素敵です。

 この花は、エーデルワイス(和名はセイヨウウスユキソウ)と言うヨーロッパ原産の花に似ていて、高山植物の一つです。エーゼルワイスと言えば、この名を題にした歌がありました。ドイツ語ですと、

Edelweiss, Edelweiss,

Jeden Morgen mich gruessen

klein und weiss, rein und weiss,

Du siehst mir aus so froehlich.

Blume von weiss wie du wachs und blum,

wachs und blum fuer ewig

Edelweiss, Edelweiss, Meine Heimat gesegnet!

 この歌を聞いていますと、何か山歩きをしているような気分になって、静かなひと時が、大自然の中で過ぎゆくように感じてしまいます。素敵な歌なのです。山を愛でる人にとっては、どの国も同じで、「ふるさとの山」を誇りに思い、泰然とした様を見るにつけ、護られているような思いに駆られるのでしょう。

 「壬生義士伝(浅田次郎作)」で、子どもたちが三人がいて、下級武士なるが故に、あまりの貧しさに、国を売るというのでしょうか、盛岡藩を脱藩し、国を売って、京都の治安を守るために任じられた新撰組に入隊した、吉村貫一郎が主人公です。組の宴席で、隣の同僚に、ふるさとの自慢話を、貫一郎する下りがあります。

 その隊員手当を、京にある藩の出店を経由して、故郷に届ける家族愛も素晴らしいのを感じました。長男は、文武に長けていましたから、幕末の動乱に巻き込まれ、父の跡を追うように、徳川側に加わり、箱館戦争で果てていきます。娘は、盛岡藩の家老の子に嫁ぎ、満州にわたり、開拓民の医療に携わっていきます。

 岩手盛岡は、幾つもの山を背後に持つのです。貫一郎が取り上げた山の一つが、「早池峰山」でした。私の故郷にも山容の優れた山があり、長く過ごした華南の街にも避暑のために重宝された山があり、今住む街には、大平山、男体山、遠方には筑波の峰々、そして富士山までもが遠く見えます。
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『それはまたシオンの山々におりるヘルモンの露にも似ている。主がそこにとこしえのいのちの祝福を命じられたからである。”(新改訳聖書 詩篇133篇3節)』

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 聖書に出てきますヘルモン山は、神さまに見出されて、遠くカナンの地に「約束の地」として、アブラム(後のアブラハムです)に与えられた地でした。その約束の地の北限に位置するのが、このヘルモン山で、イエスさまは、この山の南限の地である、ピリポ・カイザリヤに行かれています。

 もしかしますと、山の頂で、イエスさまが、光る輝く様に変貌されたことで、「変貌山」と呼ばれたのは、このヘルモン山かも知れないと思われています。また、「山上の説教(山上の垂訓)」が行われ、パンと魚の奇跡的な給食をされたのは、このガリラヤ湖を見下ろせる小高い丘でしたから、ガリラヤの村々からの近い所だったのでしょう。

 また、「平和な都」と言われたエルサレム、そのカルバリの丘は、エルサレムの住民たちにとっても、世界中のクリスチャンにとっても、格別な意味を持つ山のようです。聖書では、「ゴルゴタ」、髑髏(されこうべ/ドクロ)と言われ、イエスさまが、s十字架の家で亡くなられた所なのです。

 ペテロは、『そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2章24節)』と、その手紙に書き残しました。

 この御子の十字架の死なくして、私たちの救いはありません。イエスさまが呪われた者となってくださったことによって、信じる者の呪いを打ち砕いてくださり、「永遠のいのち」に預からせてくださったのです。死なれたイエスさまは、蘇られて、今は父の神の右に着座されておられ、信じるものを取りなし、助け主精霊をくださり、場所を備え、それが備えられたら、私たちを迎えにおいでくださるのです(ヨハネ14章2-3節)。

 もう山には、登らなくなってしまいましたが、でも朝な夕なに眺める大平山に登って、謙信平から関東平野を眺める景観は、驚くほどの広がりを見せていて、上杉謙信ならずとも、驚かされてしまいます。2813mの高さで、一年のほとんどの時期に、雪を頂いているのヘルモン山からの眺望も、優れたものなのでしょう。

(ウイキペディアによる「エーゼルワイス」、「ヘルモン山」です)

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一番

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 この歳になって、初めて「一番」になりました。山の村の秋の運動会で、部落対抗の競走で、幼児の部の代表(他にいなかったからでした)でした。号砲一発、驚いたのでしょう、スタート地点から反対に走り出して、ビリッケツだったのを初めて記録してから、縁遠かった一番を、やっと手にしたのです。

 2025年7月20日、「第27回参議院議員通常選挙」の投票日で、駅前の投票所に出掛け、午前6時55分に到着、投票開始時間の5分前でした。玄関から係の市職員が出て来られて、一番の到着者の私に、『投票箱の確認をして頂きますので、7時までお待ちください!』と言う投票者の役目を仰せつかったのです。

 何と、【一番】の到着者の私へのお願いだったのです。今日は、一緒に出掛けた家内には譲らず、[001]のナンバーリングの投票権をもらって、投票箱の空である確認をさせてもらいました。国の政治を左右する重要な選挙日に、そんな役割をいただいたのです。そして、選挙区選出議員選挙で立候補者の中から選ぶ投票、比例代表選挙区選挙の中で、個人または政党で選ぶ投票を行ったのです。

『いいですか、今しんがりの者があとで先頭になり、いま先頭の者がしんがりになるのです。」(新改訳聖書ルカ13章30節)』

 もうだいぶ暑くなろうとしていたのですが、最高にいい気分でした。【一番】は初めての経験だったのですから、記念すべき日を迎えたわけです。ご褒美はないのだと、係の方が言っておいででした。ところが、神の国では、しんがりの者が一番の祝福を受けることができるのだそうです。

(ウイキペディアによる「投票箱」です)

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頂いた命を生きる

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 学校に行くようになって、16年間教育を受けさせてもらって、その学校教育を受けて、感じたことの中で、漢字、言葉を覚えたことは大きかったのです。日本人として、言葉を両親や兄たちから、先ず学んだわけです。きっと食いしん坊の私は、食べ物から学び始めていたに違いありません。食べ物を「まんま」と学んだのでしょう。美味しいのを、「うまうま」と言ったに違いありません、水は、「ブー」だか「プー」だったのでしょう。

 どうも「あ行」の言葉から始まっているのでしょうか。あまり手癖も良くなく、欲張りでしたから、財布(フウフウ)とか金(ゼゼ)とか株(カカ)を覚えたことでしょう。

 父が、広辞苑を買ってくる前に、家には、父の書架に一冊の小型の辞書があっただけでした。自分で引けるような辞書がありませんでしたから、よく上の兄に、分からない言葉の意味などを聞いたのを覚えています。たとえば兄の読んでいた本を、チラっと読んだ時に、「くるわ」と言う言葉が出て来たのです。難しい漢字で「廓」でした。『何のこと?』と聞きましたら、兄はお茶を濁して答えてくれませんでした。

 今でしたら、スマホやiPadで検索することができますが、とっさの疑問には聞く以外なかったわけです。1955年11月に、広辞苑が刊行されるとすぐに、父が買って帰ってきました。言葉への関心が強くなっていったでしょうか、中学生になっていましたから、「言葉遊び」のように、次から次と関連している言葉を、その辞書で引いては、覚えていったのです。

 けっこう、人の前では言えないような言葉を見つけては、自分の秘密にして、大人の世界の闇に中に滑り込んでいったのです。上の兄が、文学部志望だったようで、よく小説を読んでいましたので、兄の読みかけて置いてある本を開いては読んだのです。

 その一冊が、田宮虎彦の「足摺岬」でした。それは、自殺願望者の独白で、四国高知の足摺岬を目指して、それを遂げようとする青春懐古記なのです。汽車を乗り継いで、岬まで行くのです。行き交う人の中に巡礼者や商人たちがいて、彼らと同宿して、その宿での会話が綴られていました。

 死のうとしている学生の行状記を、活字で読んで、初めて「死」の問題を考え始めたのです。夏だったでしょうか、近所の子どもが、腐ったものを食べて、疫痢で死んだとか、川で泳いでいて溺死したとか、米軍機のパイロットが、基地帰還の折に墜落して死んだとか、列車事故で近所の線路でアメリカ兵が死んだとか、叔父が太平洋戦争で戦死したとか、会ったことない祖父母の死とか、見たり聞きしましたが、死に行く様子を見たことはなかったのです。

 死とか自殺など、中学生の自分には考えもつかないことで、死のうとしている心理と、それを思いとどまらせようとしていく大人たちとの会話が、その本に記されてあって、驚き怪しみながら読んだのを覚えています。けっきょく自殺はしないで、その学生は東京の学校に戻っていくのです。

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 もう一つ、『悠々たる哉天壤、遼々たる哉古今、五尺の小軀を以て此大をはからむとす。』と辞世の句を残して、日光の華厳滝で自殺をした、藤村操の話を、父から聞いたと思います。哲学を学んでも、生きることの「不可解さ」に破滅したのです。十六歳という年齢での自死を、衝撃的に聞いたのです。 

 あの時代の旧制高校の学生の語彙力にも驚かされたのです。田宮虎彦は思い止まり、藤村は実行した、この違いが、問いかけられたようでした。小6の修学旅行で、この華厳の滝に行った行きましたが、その後だったかに、この人の死を聞いたのです。

 5年ほど前に、日光の宿泊施設で過ごした時に、施設の親会社の職員の方が、『午後時間が取れるから、中禅寺湖方面にお連れしましょう!』と言って、家内と二人、連れ出してくれたのです。その折に、華厳滝にエレベーターと階段を歩き継いで、見晴台まで行ったのです。初秋の景色は美しく、こんな美しいところで自らの命を絶ったことを思い返して、『もったいない!』と改めて思ったのです。

 どうして日本人は、自殺願望に誘惑されやすいのでしょうか。日本的な宗教的な背景があって、薄ぼんやりとした、未知な世界に逃げ込む思いが、挫折すると強くなるからでしょうか。死生観、とくに死についての備えがはっきりされていないからではないでしょうか。それで生きるのも難しくなります。

 いのちの付与者の神さまは、『生きよ!』と言います。神から離反された者である破壊者、謀叛者は、『死ね!』と誘惑して、共に罪に堕ち、破滅に誘うのです。死のうとする決断があるなら、生きられるのにです。

 曖昧なままでいるので、不安に駆られてしまうに違いあります。神さまの警告を破って、罪を犯し、自責の念に駆られたアダムに、『あなたは必ず死ぬ(新改訳聖書 創世記2章17節)』と、いのちの付与者は言われました。こうして全人類が罪を犯した結果、『アダムは全部で九百三十年生きた。こうして彼は死んだ(創世記5章5節)』、最初の人は、罪の故に、「こうして死んだ」のです。

 父も母も、義妹も、甥も、恩師たちも、級友たちも、先輩たちも死んでいきました。ところが、それで終わりではないと、聖書は言うのです。聖書は、「永遠」に言及しています。死があるように、永遠があるのです。で、どこで、その永遠の時を過ごすかについても言っています。「永遠のいのち」に生きるか、「永遠の死」、すなわち「第二の死(黙示録21章8節)」の世界にい続けるかの二者択一が決まるのです。

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 亡くなった人は、墓にいるのか、仏壇にいるのか、黄泉に世界にいるのか、はたまた極楽や天国にいるのか、だれも知りません。「死の世界」にいるのです。そこにいる死者は、例外なく、神の前に立つのです。そして、行いに応じて裁かれます。これを免れる者は誰一人いません。ところが、私には、「弁護者」がいてくださると信じているのです。主でいらっしゃる救い主キリスト、生ける神の御子イエスさまがです。

 みなさん、永遠に向かって、生きていきましょう。そして、生きつづけてまいりましょう。

(ウイキペディアの「足摺岬」、「華厳滝」、Christian clipartsの「イエスさま」です)

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アクティブ・リスニング

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『アクティブ・リスニング(Active Listening)とは、相手の話を注意深く聞き、理解しようと努めるコミュニケーションスキルです。単に言葉を耳で聞くだけでなく、相手の感情や意図を汲み取り、共感を示すことが重要です。』と、AIは記しています。

 中学校の3年間、学級担任をしてくださった先生は、朝礼でも終礼でも、社会科の授業の開始と終了の挨拶でも、教壇から降りて、私たち生徒と同じ床の上に立って挨拶をしてくれました。同じ立ち位置で、一人の日父の思いを、上下ではない、並列に置く人間観をお持ちだったのです。長い学校生活の中で、ただ一人、そうされた教師でした。

 私は、東京と中国q華南の学校で、教師をさせていただいた時に、この先生に倣って、教壇から降りて、学生さんたちへの挨拶をしたのです。教師と生徒という上下関係ではなく、対等に学び合う関係を心掛けてくださった、K先生の教師の在り方に感銘を与えられていたからでした。

 東京大学を出て、大正デモクラシーの時代に建学された、私立校の教師となられ、高校と中学で教えられていたのです。きっと戦時中には、軍隊の経験もお持ちだったのでしょうけど、体育教師などと違って、まった軍隊調の様子はありませんでした。髪の毛の薄い、髭の濃い「漢(おとこ)」でした。

 地理を教えてくださった時には、必ず、教材に、背丈よりも大きな掛け軸になった地図や統計図や参考になる箇所を示すスティックなどを、教室で使って授業をしてくださったのです。生徒を呼んで、教材を準備させたり、持たせたり、後片付けをさせることはありませんでした。およそ大声で威嚇したり、叱り付けたりしない、じつに穏やかな先生でした。

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 あの先生の姿勢が、”アクティブ・リスニング”だったのでしょうか。同じ床の上に立っ姿勢で教えてくれました。兄が二人、自分にはいましたし、背伸びして不良っぽいことに憧れていたので、鼻持ちならない小生意気な中学生で、ずいぶん手こずらせたのです。何度も、母が学校に呼び出されたりしていました。

 通学駅で、盗みをして捕まったりして、通報されていたのに、停学処分を受けませんでした。購買部のパンを盗み食いもしたり、理科準備室の備品も失敬したのに、叩かれたり、叱られたり、退学処分にもされませんでした。呼び出された母にも叱られなかったのです。また父に叩かれたりもしませんでした。

 何年生の時だったか忘れましたが、遠足のバスの中で、『いやじゃありませんか 軍隊は 鉄の茶碗に竹の箸 仏様でもあるまいに 一膳飯とは情けなや!』と、「軍隊小唄」を歌ったのです。その時に、振り返って自分の顔を見た担任の表情が、不快を表していましたが、目が合ったのに、それにお構いなく、自分は終わりまで歌い切りました。

 そんな軍歌まがいの歌など歌う生徒は、誰一人いなかったのに、きっと辛い軍隊経験をお持ちだったでしょうに、やめさせることも、叱ることもないままだったのです。そんな生徒が、毎年、先生の教えられたクラスには、何人かいたのでしょうか。そんな中学3年間を過ごして、最後の学年末、中学最終の通知簿に、『よく立ち直りました。高校ではしっかりやりなさい!』と書いてくれていました。

 同じ学校の高等部を出て、進学させてもらい、卒業後、教育関係の研究機関と高校とで、五年働きました。同じ教会の姉妹と結婚し、キリストの伝道者になるために献身し、宣教師さんのもとで指導を8年間受けました。ここでも、自己主張の強さや日本精神が、宣教師さんを手こずらせたのです。9歳違いで、兄についで2人目の母教会での伝道志願者でした。

 中学三年生で、高校進学を控えていた長男を連れて、母校訪問をしたことがありました。自分が6年間学んだ学校を見せたかったことと、担任だったK先生に会わせたかったからです。先生は、その時には、女子部の主事をされておいででした。大勢を教えてきた恩師が、長男を見て、『君は、お父さんと違いますね!』と言ったのです。どう言うことでしょう、私とは違って見えたのです。真っ直ぐに見えたのでしょうか、親のようではなかったのでしょう。

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 そして、『結局、君はお母さんと同じ道を行かれているのですね!』と、意外な職業選択をした教え子を見て、そう言っておいででした。何百という生徒を教えてきた先生の印象でした。母は自分がキリスト者だということを、呼び出された時に、話し、証ししていたのでしょう。

 思い出せば、赤面の至りで、逃げ出しい思いでいます。だから、今があるのでしょうか。破落戸(ならずもの)とか、無頼漢にならないで、真っ当な人生を生きられたのですが、心ひそかに隠している部分も数多くあり、もしそれが白日(はくじつ)の元に晒されたら、アウトに違いありません。

 でも、いのちの付与者、救い主に赦されての今でもあります。ある「聖歌」に次のようにあります。

♬ 人生の海の嵐に もまれ来しこの身も
不思議なる神の手により 命拾いしぬ
いと静けき港に着き われは今 安ろう
救い主イエスの手にある 身はいとも安し 🎵

   26歳、結婚式で、この聖歌を、私は歌ったのです。小嵐ではなく、大嵐の中を、ドップリと潜って、人には言えないような破廉恥な青年期を過ごしてきて、父や母の期待に背いた一端(いっぱし)の罪人でした。

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 その罪を悔い改めて、赦されて、結婚できたのです。それを祝福してくれた一人が、元ボクサーで、アラブ人とギリシャ人の背景のアメリカの聖書学校の教師で、私を育ててくれた宣教師さんの友人でした。父も母も兄弟たちも、母教会も祝福してくれました。四人の子が与えられ、今は、人生の黄昏期、思秋期でしょうか、仕上げの時でしょうか、そこにある家内と私を、4人が気遣っていてくれているのです。

 思えば、最も、アクティブ・リスニングのあるスキルを持って受け止めてくださって、こんな自分を、「友」と呼んでくださったのは、キリスト・イエスさまだったのでしょうか。聖書に、次にように記されてあります。

『あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。(イザヤ46章4節)』

 今やオンブしてくださる、主の背にある心持ちでおります。まさに、このお方は「王の王」でいらっしゃいます。これが救いの一部なのでしょうか。長く歩いて来て、足も膝も弱くなり、痛むのですが、老いを楽しむことにいたしましょう。みなさんも自分も、優しくなっています。

(いらすとやの「聞く人」、ウイキペディアの「教卓」、Christian clip artsの「良きサマリヤ人」、「王の王イエス」です)

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起きて半畳寝て一畳

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 父の仕事仲間というのでしょうか、ずいぶんと親しくされていた方の中に、「まつださん」がおいででした。父よりも一回りほど年配の方でした。どうして父の友人を知っているのかと言いますと、『昼ごはんを食べよう!』と言っては、父は中学生の私を連れ出して、自分の机のある、東京の日本橋室町にあったビルの一室に連れていってくれて、そこで紹介されたからです。

 旧海軍の関係者だったと思いますが、それぞれに戦時中は、軍に関わる仕事をされていたのでしょう。お互いに情報交換やアドヴァイスをし合ったりして、戦争が終わって、平和の時代になって、それぞれの背景や特技を活かして、新しい生き方を始め、気が合っていたにちがいありません。5、6人の方々と、三越の近くのビルの一室に、机を並べていたのです。

 それぞれの机に、自分の電話を置き、ロッカーに書類を置いて、それぞれに自分の事業をされていたようです。父は、浅草橋や新宿にも会社を持っていたり、顧問をしていましたが、気の合う個人経営者たちが、助け合ったり、情報を共有しあったりして、その一室で、それぞれの事業を展開していたのでしょう。

 その他にも、日商の一部上場の会社にも連れて行かれたことがありました。そこには、兵学校の校長をされたと言うお父さまをお持ちの方や、皇室の宮さまの縁戚だとか言う方が、役員をされていました。父が紹介してくれたから知ってるのです。その中には、有名な薩摩武士のお子さんという方もおいででした。

 今思うに、まだ中学生の子ども私を、そんなところに連れて行ってくれたのが不思議でなりません。会社の組織の中にいる人たちと、組織の外の人たちとの出会いでした。日本橋の事務所にいた人は、個人事業者で、実業の世界には、こういった二様の形態があるのを知らされたのです。

 この「まつださん」と、とくに父は親しかったようで、手狭な家に住んでおいでだったそうです。そういった生き方に、父も倣って、大きな家に住むことがありませんでした。尊敬の念を込めての交流があったようです。都下の6人の家族で過ごした家は、電車で、東京駅まで小一時間の所にあって、幾つも会社に関わる男にしては、狭くって窮屈な家でしたが、父は平気でした。

 「起きて半畳寝て一畳」、人が必要とする居場所は、広くなくていいのでしょう、父は頓着しなかったのです。そんな父の生き方を見て、育てられて、とうとう家一軒持たずに、今になってしまいました。借家住まいの連続で、物を持つ煩わしさから解放されてきたのです。頂いた物を捨てられずに、持ち続けてきた家内の持ち物、着る物を、先日訪ねてくれた次女が、『天国に持っていけないから!』と、母親を納得させて処分してくれました。ずいぶんスッキリしたのです。

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 ロシアの文豪のトルストイに、「人にはどれほどの土地がいるか」という短編の小説を書き残してあります。一人の農民の男が、広い土地を求めていました。ある時、一つの村を訪ねるのです。村人が、こんな提案を彼に告げます。『一日歩き回った分だけの土地を安く売りましょう!』と、持ちかけたのです。それには一つの条件がついていました。日没までに出発点に戻って来なければならなかったのです。

 それで彼は、夜明けと同時に、宿を出て一日中歩き続けました。欲に負けて、折り返すのが間に合わなくなって、出発点に戻りますが、日が暮れてしまっていました。そこで何と絶命してしまうのです。結局は、葬られてしまいますが、その墓は「6フィート(約180センチ)」に満ちませんでした。

  人が必要としている時間も限られていて、聖書は、「七十年、長くて八十年」という時間の制限の中にもあると記しているのです。物も時間もこの身体も、必要とするところは、「わずか」なのです。父には、秘蔵の宝物がありませんでした、育った家の床の間に、山奥で軍のために働いた時の贈り物に頂いたのでしょうか「鹿の角」、軍名で働いた時に掘り出された一部の「水晶の結晶」、これだけが、父の「お宝」でした。父が帰天した時、どこにも、それが見当たりませんでした。

 一棹(ひとさお)の洋服ダンスと、その上部に衣装ケースを二つほどと小さな書架があって、靴も二足とサンダルが下駄箱にあっただけです。母は、父よりも小さな整理タンスと柳行李が三つほど、押し入れの中にあっただけで、持ち物の少ない人たちでした。いつでも引っ越せるような、身軽な生き方だったのです。

 天国に行く時に、持っていけない物は持たないで、今ある物で満足で生き続けて八十年、恥ばかりは多い人生でしたが、赦されて、神の子の身分を頂けたことへの溢れる感謝で、後は塵芥(ちりあくた)のみです。自分の大切なオモチャを壊してしまって、それを握って、「茫然自失」していた近所の男の子の顔を思い出します。

 義兄は、18歳でブラジルの開拓移民をして、サンパウロの近郊の街で時計や宝石や小物の商いを、小じんまりしていました。サンパウロの宝石屋に連れ出してくれて、イタリヤ系の宝石店で、義兄が作らせて、贈ってくれた「指輪」がありました。天津に住んでいた、7階の家の洗面台のストレートな排水管の中に落としたのは、初めて指にしたダイヤモンドでした。

 大事にしていたので指から外して、顔を洗っていて無くしたのです。涙と血を流した移民の悲哀の年月の中から這い上がって、やっと事業に成功した義兄が、義弟に心からの贈り物として頂いた、高価な指輪でした。その兄も召されましたが、キリストの救いに預かっているので、再会の望みがあります。その時、なんと言ったらいいのでしょうか。

 様々な人たちとの出会いがあって、ここに私がいます。素敵な思い出の中に、みなさんがおいでです。自分があるのは、この方々がいて、その交わりがあったからに違いありません。感謝ばかりの台風接近の日の朝です。

(ウイキペディアの「三越本店」、「孫娘と歩むトルストイ」です)

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朝顔咲く朝

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 今季第一号の朝顔です。猛暑のせいでしょうか、葉落ちや葉枯れなどで、なかなか生育しませんでした。やっとここで一輪だけ、今朝開花したのです。可憐というのでしょうか、遠慮深く咲いてくれました。

 すごく嬉しい朝です。

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今夏の雷様も

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 線状降水帯という、新しい呼び名は好みませんけど、さながら、中国大陸に轟き渡り、雷光が西から東に飛雄馬の如く走って、大雨を降らせる「雷様(らいさま)」が大好きな私は、昨日も、雷鳴を聞きますと、すぐに窓を開けてベランダに出て、雷鳴と雷光と雷雨とに、目と耳と思いとを向けたのです。

 晴れない気分でもあって、気晴らしをもたらす、この天体気象が好きなのです。宇都宮人が、「雷様」と読んだのは、恵みの雨はpもたらされることへの溢れるような感謝があったからなのでしょう。

 米作農家によっては、恵の雨は、何にも替え難いものであり続け、間もない秋の収穫への序章曲だったに違いありません。自然現象への畏敬、大自然の神秘さへの感動、創造の神への賛美のように思えるのでしょうか。時として自然は敵ともなりますが、母のように父のように慈愛に溢れた世界で、親しみを込めた表現で、そう呼ぶのは、溢れる感謝があるからなのでしょうか。

 華南の町の師範学校の教員住宅で、その光と音と雨の雷は、驚くほどに大規模でした。天が裂けるのではないかと思わせるほどの雷光、空が割れるのではないかともわせる雷鳴、車軸どころか家も押し流すほど雷雨に見舞われたのです。

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 日本の箱庭のような、盆栽のような、コンパクトな雷ではなく、地球をひっくり返すのではないかと思わせるほどの雷には、驚かされました。よく春雷と言いますが、春だけではなく、一年中鳴り響くのが、大陸の雷でした。

 今日の午後の雷様は、それを思い起こさせるように、大きかったのです。地上に起こる、人や国の争いなど、比べようがないほど、大暴れで、気分がスカッとさせられた午後でした。私たちの幼き友人が、私の好きの真反対で、この雷が大嫌いで、怖そうに電話をしてきました。家内が、慰めていた夕方でした。

(ウイキペディアによる俵屋宗達の「風神雷神図」、いらすとやの「雷におびえる少女」です)

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King Charles – King Jesus

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 ” Charles“ 、中国の一頭のアルファ犬に与えられた名前です。そして、この犬に、一つのTitle が与えられて、「愛犬倶楽部」で、“ King Charles “ と呼ばれています。「実力者」であって、自ら群れの中の抗争をへて、その立場を得たのです。この犬を、英語は、“Alpha dog”と呼びます。闘争心に溢れていても、横暴ではなく、自分のテリトリーを守るのです。中国の犬の一つのcommunityのリーダーなのです。YouTubeで、そのリーダーシップぶり、支配の様子を観たのです。

 「実力の世界」と言うのは、人間の社会よりも、動物の世界の方が本物のようです。両親が見栄えが良く優れ、体格が良く、生まれながらに血統が優秀で、学問もあり、優秀な人材が、そういう立場を得るのですが、必ずしも優秀ではないのでです。いつも真価が試されるのです。“ Charles ”は、その犬のコミュニティーの中で、立場を実力で獲得し、堅持しているのです。

 私たちの母親は、小学校を終えると、女学校に行きたかったのですが、養女で、養父母はそれを許してくれなかったそうです。それで諦めて、家の近くにあった、「群是(GUNZE)」の紡績工場で、靴下や下着の製作で働いたようです。そんなことで、織物に関心のあった私は、グンゼが、「女工哀史」のような金儲けの会社ではなかったのを知りました。また学校で、豊田佐吉の発明、成功の話を聞いていました。

 母の時代に、製糸業や織物業に世界で、画期的な発明をしたのが、この佐吉でした。紡いだ糸で布を織る「織物」というのは、手と足とを使う、手動の織機が長く使われてきていました。苦労して布を織っている、母の姿を見ていた佐吉は、大工の子で、小学校を終えて、お父さんの仕事を継承していた人でした。

 手先が器用な人でしたので、その織機に目をつけたのです。試作を繰り返して、自動織機の新鋭機を作り出して、一躍、q織物業界で画期的な発明を遂げました。日本の紡績業や織物業が、世界に通用し、世界を牽引するようになった、貢献者の一人でした。

 人の社会では、何代も何代も家柄が良くて、資産に富み、政治力や財力があるなら、その立場を得られるでしょうか。例えば、トヨタ自動車ですが、トヨタ織機を生み出したことで有名な豊田佐吉は、努力の人、工夫の人で、才能の豊かな人でした。その「トヨタ」の名は、世界の製造業界、とくに自動車業界では、欧米の名だたる会社を凌ぐ、世界最高の企業になっています。

 先日、トヨタ自動車の社長をされていた章夫氏の「ハブソン大学(マサチューセッツ州)」での卒業式でされた講演を聞きました。この方が留学し、学んだ母校で、同窓の学生たちの前で、お話をされていたのです。おおよそ二代目、三代目で、優秀な企業が、伸び悩み、負債を生み出すような経営になってしまうようなケースが多い中、自動車レースに熱中したような人で、『大丈夫かな?』と、思っていた人物でした。

 ところが、蛙の子は蛙の子、実力を備えた経営者で、今は、経営を生え抜きの社員の中から抜擢して、その方に任せておいでです。講演内容は、機智に富み、トヨタの一時代を作り上げ、業績を大きき伸ばした、実力者である自身も実力も備えていて、母校での話の内容も豊富でした。人望もあり、一級の経営者だと言えそうです。

 でも、良い祖父や父親を持ったから、実力者だとは言えません。犬の世界でも同じでしょう。高崎山の猿の社会も、まさに実力の世界でした。オレゴンの海岸に洞窟があって、そこはアザラシの群生地だったのです。そこに娘婿に連れて行ってもらったことがありました。夥しい数のアザラシが鳴く声と、動物臭の立ち込める世界でした。よく見ていますと、一段と高い岩の上に、一匹のリーダーがいました。

 高き支配の座に君臨し、多くのアザラシが、傳(かし)仕えていて、まさにこの一頭の王国のような感じでした。高崎山も、そのオレゴンの洞窟も、その様子を見て知っていましたので、先日観た“ King Charles “ の統率力、支配力、仲間内の争いの調停などは、実に優れているのです。

 動物の生態学者でなくとも、その実力に興味津々なのです。権力闘争を繰り返す様子が映し出されていて、その統率力に舌を巻きました。一度だけ、小学校五年生の時、クラスの番長だった自分としては、公平にクラスを統率できなかったので、器ではありませんでした。6年になった時に、色の浅黒い大きな子分に、立場を奪われてしまいました。

 そんな自分に就いてきてくれたのがY君、ただ一人だけでした。6年を終えて、みんなは町の中学に行ったのですが、自分は、電車通学の私立中に、親に言われて行ったので、抗争は終了してしまいました。実力に欠けているのに、番を張ったのは間違いだったと、今は認めるのです。それでも、一対一の喧嘩は、兄たちに揉(も)まれたからでしょうか、強かったのです。

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 その“  Charles “ は、大型犬に怯(ひる)みません。真正面から立ち向かい、背を見せません。打ち伏せて、上向きにさせた相手の腹や首に、足を一本、二本のせて、勝利宣言をしているようです。弱いものいじめをする犬は制裁しますが、傷を負わせるようなこともしません。まあ、真のりダーシップを持っているのです。

 怯まない心持ちは、いまだに自分は持ち続けていますが、大器でないことは十分承知しています。喧嘩の強さは、何にもなりませんが、上の学校に入った時に、他の学校の学生たちの間で、自分のことが噂になっていたそうで、「喧嘩の強い準」なのだそうで、それを聞いて恥じました。男は公平なリーダーでなければなりません。

 それにしても、“ King Charles “ は、人間にしたいほどに、気持ちの良い実力者だと思えます。それでいて、ドーベルマンやチャウのような獰猛さも、威嚇もないのです。でも熾烈な戦いを繰り返して、King の座を守り続けているのです。ちょっと不謹慎かも知れませんが、われらの救い主イエスさまは、真の実力者、指導者なのです。人を滅びの罪に誘った、地獄に堕ちる罪を、十字架で処分なさったからです。腕力でも、財力でも、知力でもない、「愛」と、「罪への憎しみ」、そして父なる神への「従順」によって、闇の力と対決し、自らを任せられたのです。

 十字架の死は、人としては敗北なのですが、贖罪という人類救済事業としては、父の御心を成し遂げられた、「成功」と「勝利」の御業なのです。死と墓と黄泉から、父が、このイエスさまを蘇らせなさったのです。今は父の右に着座されておいでです。そこは、信じる者の救いの勝利の座なのです。

 復活の主イエスさまは、今、信じた者のために執りなしの祈りをしていてくださり、また助け主、聖霊を与えてくださり、さらに私たちを迎えるために場所を設け、設けられたら迎えに来てくださると約束されておいでです。ご自分が罪となられて、信じる者の罪を負われて、罪のないお方が罪となられて、父の怒りを受けて、死の代価を払って、死んでくださったのです。

 私たちを赦し、生かすために、そこまでしてくださった「キリスト」、「救い主」でいらっしゃいます。罪も裁きも滅びも、私たちにはないのです。これが「救い」なのです。それを確かにするために、主イエスさまは、死から蘇られて、生きておいです。今や、罪に立ち向かって勝利された、真のリーダー、友、「実力者」でいらっしゃいます。何よりも、「王」、「栄光の王」、「王の王」でいらっしゃいます。

(“King Charles”、”Christian clip arts“「受膏者のイエスさま」です)

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My Ending について

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 市の広報で、配布依頼があったのでしょうか、先週、ポストに、見慣れないノート形式の冊子が入っていました。いつも、手紙やそう言った広報などの書類を置く、居間のソファーに目をやって見つけたのです。「マイエンディングノート」とあります。表紙の下に、名前を記入する欄があり、裏表紙には、「セレモニーホール」のスポンサー広告が印刷されているではありませんか。

 戦後生まれのBaby Boomerたちが、高齢化して来て、夥しく老人人口が増えたからでしょう、どうも、『死ぬ準備をしておきなさい!』と言う行政指導らしいのです。もちろん考えていないわけではありませんが、〈ポイ〉と入れられた感が拭えず、ちょっと、『おやおや!?』と思ってしまいました。老齢世帯への配布依頼があって、自治会の係の方が、入れてくださったのです。

 こう言った形で、「死に行く準備」をしておく必要があるのでしょう。悪気はないのでしょうけど、この〈ポイ〉に、ちょっと嫌だなあと、ふと思ってしまったのです。きっと慌てないように、学校で習った言葉、「用意周到」を実行するようにとの計らいなのかも知れません。

 開いてみますと、第二表紙に、第三表紙にも、広告が掲載されているではありませんか。葬儀社と、司法書士事務所の『お任せください!』のスポンサーです。確かに、高齢者の死は間近に考えられますが、だれにでも、その死は訪れてくるのです。余命年齢と、死期の到来とは別です。

 ですから、いつでも死ぬ準備はしておくべきです。ではどう準備すべきなのでしょうか。その「マイエンディングノート」に書き込むことなのでしょうか。葬儀への希望、どこに埋葬するか、財産はどうするか、だれ に死の報告をするか、預貯金の使い道よりも、優先して備えべきことがあるように感じています。

 

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 40年前に、腎臓を摘出した時に、家族宛の遺言状を書きました。次男が3歳でした。どこかに、それが仕舞われてあるそうです。あれから40年経ちましたので、死ぬ確率は、さらに高くなってきました。不整脈が見つけられて、「心房細動」の症状が出ているとの医師の診断で、主治医に勧められて、カテーテル・アブレーションの手術を、2024年の12月24日に受けました。

 もう確実に、死期が迫っていると思われます。でも、どこにいくかの確信が、自分にはあるのです。肉体は焼かれて灰になってしまいますが、霊は、この命の付与者である神さまの元に帰り、私と言う魂は、キリストの故に、永遠の安息に入ると、自分は確信しています。

 25歳の時に、聖霊に満たされた時に、永遠の滅びから、永遠の命に救われた確信を得たからです。まさに聖霊の証印を押してくださったのです。あれから55年が経ちますが、その確信は揺ぎません。裁かれ、滅びに定められていた私の罪を、キリストでいらっしゃるイエスさまが、身代わりに罪となられて、十字架で血を流してくださって、死んでくださったことが、心から信じることができたかったからです。

『そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、(新改訳聖書 ヘブル9章27節)』

『それで、律法によれば、すべてのものは血によってきよめられる、と言ってよいでしょう。また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです。(同22節)』

 人の罪が赦されるのは、キリストの血以外にはないのです。その血によって贖われた者は、今や、義とされ、子とされ、聖とされ、やがて栄光化される救いに預かるのです。イエスさまは、こうおっしゃいました。

『イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです、いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。(ヨハネ11章25節)』

 さらに、聖書に次のようにあります。「信じる者」が頂けるのです。

『あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身からでたことではなく、神からの賜物です。 行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。(エペソ2章8-9節)』

『願はくはわれを瞳のごとくにまもり汝のつばさの蔭かげにかくし(文語訳聖書 詩篇17篇8節)』

それで、私は、よくこう賛美します。

♫ なが瞳のように守り 死ぬことのないように みつばさのかげに われを匿いたまえ ♬

 神さまは、「いのちの書」をお持ちです。聖書に次のようにあります。

『しかし、すべて汚れた者や、憎むべきことと偽りとを行う者は、決して都に入れない。小羊のいのちの書に名が書いてある者だけが、入ることができる。(黙示録21章27節)』

 誰の名が記されているかは、私たちは知りません。教会も牧師も知りません。ただ自分の名は、姓名がしっかりと・【小羊のいのちの書】に書き記されてあると確信するのです。それこそ聖霊の証印によるに違いありません。両親の名も、妻も4人の子どもたちの名も、そして、こんな私の名も記されてあると信じているのです。まさに信じた者が頂いた限定的な特権なのです。

 永遠のいのちに預かれる救いは、誰も奪えません。すでに救い主であるイエスさまの御手の内にあるのです。

 それで、私のための葬儀も墓も不要なのです。自分の一生のけじめを、そう家族には言ってあります。式に集って、常套句のように、『良い人だった!』と、みんなに言われたくないのです。全く良くはなかったからです。良いのは、主だけです。

 パウロが自分を言ったように、この私も、真性の「罪人の頭」だからです。滅ぶべき当然の私を、罪の奴隷市場から買い戻して、『赦してくださった!』と、信じたからです。そのパウロの確信を継承する者が、頂ける「赦し」だからです。

 一昨年の暮れに、父の体質を受け継いだのでしょう、脳梗塞が起き、即入院した後に、死後のことを家族に伝えてあります。ただ願うのは、聖書が記す「空中携挙」をしたいのです。死を経験しないで、生きたままで空に携え上げられ、再臨のキリストに見(まみ)えたいのです。

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 ドイツのバートボルトの教会の牧師だったクリストフ・ブルームハルトは、教会の入り口に、馬に引かせる馬車を用意してあったのだと伝えられています。『主がおいでです!』と言う知らせを聞いたら、その馬車で、救い主のもとに駆け付けるためにでした。私は、この方に真似て、自転車を玄関に用意してあります。でもそれは、生きている者の「再臨待望の 姿勢」であって、実際には、携挙されるので、自転車も馬車も車も飛行機も不要なのです。

 単純な福音を、単純に受け継げたのです。『主よ来たりませ!』、その「エンディングノート」不要の私の弁であります。私の迎える「死」は、「罪の赦し」と「永遠のいのちへの救い」なのです。決して滅びないとの確信です。救い主は、「審判者」。なのです。この主が、代わって「審判」お受けくださったからであります。それが、「十字架」です。次男が、幼い日、『イエスさま、痛かったんだね!』と泣いて言っていました。

 さあ、自分は、死の準備はできました。病んでも、主の定めてくださった一生を、ありのままで感謝して受け入れようと覚悟しています。パウロも、ペテロも、ポリュカルポスも殉教しています。聖書の読み方から妻の愛し方まで教えてくださった、牧師や宣教師さんたちの、ほとんどのみなさんは病で亡くなって行きました。

『また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物が開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行いに応じてさばかれた。

海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行いに応じてさばかれた。

それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示録20章11-15節)』

 でも、出会って一緒に過ごしたみなさんは、主のみ前に、魂だけではなく、栄光の体で蘇るのです。「白い座の裁き」には、キリストの血のゆえに、立たずにすみます。

『なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現れて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(2コリント5章10節)』

 ただ私は、「キリストの座」の前に立つのです。そこには、弁護者なるキリスト・イエスさまと聖霊なる神さまがおいでです。それは裁きではなく「報酬」なのです。24人の長老たちが、主の前で、頂いた冠を投げ出すように、「赦された罪人」として立つのです。

 「マイエンディング」、どのように死期を迎えるのでしょうか、書類上のことだけではなく、心の中で、どう迎えるかの備えこそ、今必要なのだと思っています。元気に動ける今、一緒に二親の養育のもとにいた二人の兄と弟に会いたいのです。そして、父と母への感謝を語り合いたいと願っております。

 家内が、肺腺癌の治療を、入院して始めた、帰国して間もない頃に、すぐ上の兄と弟が、電車に乗って訪ねてくれました。入院先には面会不可でしたが、家に二、三度来てくれたのです。退院後には、鬼怒川温泉に、上の兄と下の兄が夫妻で、奥さんを亡くした弟が、私たち夫婦招待して、退院を祝ってくれました。実に嬉しかったのです。兄弟喧嘩に明け暮れていたのに、それも懐かしい思い出です。共通の過去を持つ兄弟は格別なのです。

(”Christian clip arts“、1947年初め頃の家族写真、”illust image”のイラストです)

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防人の詠んだ歌を想う

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 国防上、倭(大和)朝廷は、大陸からの襲撃を防ぐために、九州の筑紫、壱岐で迎え打つために、主に東国の関東から衛兵を求めたのです。それで派遣されていた人を、「防人(さきもり)」と呼びました。中国の唐代の制度に倣(なら)ったのです。朝鮮半島の内乱であった、「白村江の戦い」に、古代日本の倭朝廷は、百済(くだら)を後押しして、兵を派遣します。

 しかし、隣国の争いに介入したはよいのですが、軍隊の形をなしていなかった倭軍は敗北してしまいます。この屈辱の経験から、国の防護を固くするために、兵力の増強や兵法術の強化を図ります。そのための用員を、関東から求めて、辺境の地であった九州防護の任に就かせたのです。

 小学生の頃、佐藤先生から、この歴史を学んだのです。「防人」ですが、防ぐ、予防などで学んでいた「防」の漢字を、「さき」と読み記すことが、難しく不思議でなりませんでした。漢字の持つ不思議さに驚かされたのです。地名もそうで、青梅を「おうめ」、福生を「ふっさ」と読ませるのにも戸惑った記憶があります。「ことば」が先にあって、それに漢字を当てたからだったのかも知れません。

 はるか古代に、防人のいたことは、強烈な印象をもって学んだ記憶があるのです。漢字が、「大陸」から、仏教と仏典の渡来で、伝えられて、「政(まつりごと)」の案件や記録や通達文などが記され、残されるようになっていきます。そのために紙が必要とされ、製紙技術も大陸から伝わってきています。口伝で言葉や命令が伝えていたのが、紙に記され、記録され、配布されて残されていったわけです。

 その防人たちが、和歌を詠んでいたのも驚きでした。「五七五七七の三十一文字」からなる和歌が詠めるほど、ことばの語彙(ごい)力が、当時あったことも驚きでした。防人の多くは、農民たちだったからです。ところが、「聖書」は、それよりも遥か以前に、記されてあって、その内容は現代にも、翻訳文で通じているのですから、驚きです。

 口承で伝えられ、記憶されていた創世からの人類の誕生と歴史、神の選民、ユダヤ人(イスラエル人)の歴史が、さらにはイエスさまの行動や教えが記録され、イエスさまの弟子たちの書き送った手紙や行動も、誕生した教会の進展なども記録され、送られ、読まれたわけです。

 文字として記されたのが、紀元前6世紀頃と、学問的に言われています。そして、旧約聖書の「死海写本」が、1947年頃に、死海の近くに位置しているクムラン洞窟で発見されています。学者たちの手で研究され、そして翻訳され、書写され、やがて印刷機が誕生して、印刷されたのです。私の手元にも、ヘブライ語、英語、漢語、日本語などに翻訳されたものがあります。

 完璧な言語、今と変わらない思想や言葉があって、心の動きがあり、互いに意思の疎通がなされているのです。21世紀の今と寸分違わない言葉が語られ、記されたわけです。それこそ神のことばの伝播と記録なのです。
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 さて防人ですが、彼らの詠んだ和歌が、「万葉集」として残されてあるのです。この本に魅了された、土佐藩の下級武士の鹿本雅澄(かもちまさずみ)は、この万葉集を研究した市井の研究者でした。この人の歌碑が、大山岬にあると聞きましたので、足摺岬に行く途中、車を停めて、そこに足を運びました。

あきかぜの福井の里にいもおきて 安芸の大山越えかてぬかも

 この和歌が刻まれているのを「愛妻之碑」と呼んで、土佐の海の波打ち際に立っていたのです。鹿持は、「徒士(かち)」と呼ばれた武士でしたが、50年の歳月を万葉研究に捧げて。「万葉集古義」をまとめ上げています。

 城内城下を離れた、この赴任地から、高知城下にいる夫人を思って、一首詠んだのです。どんな夫人だったのでしょうか。車では数時間で行ける距離、わらじ履きでは遠い地で、妻から離れて独り住まいをしていたわけです。

白浪のよろる浜辺に別れなば いともすべなみ八たび袖振る

 下毛野(栃木)、上毛野(群馬)、常陸(茨城)辺りから、家族と離れて、やって来ていた、勇猛果敢の防人たちの想いに、通じるものがあったのでしょうか。このように、防人たちは詠んだのです。遥か遠隔の地、箱根の坂の東「坂東(ばんどう)」とか、「関八州」といった東国から、西国の辺境の地の防備に、やって来ていた、足利(あしかが)出身の防人が、こんな歌を詠んでいたのです。

 故郷の家族を思う想いが、切々と詠まれたのです。太平洋戦争で、学徒出陣の若い特攻兵も、国を思い、故郷を思い、家族を想って短歌や俳句、詩や手記を残しました。

新しき光に生きんおさな子の 幸を祈りて我は散らなむ

 八十年前に、一人の特攻兵の残した短歌です。子を残して、殉じた若き父の子を思う想いに、心が震えてきます。この人たちの家族への想いがあって、われわれの世代は、平和な時代を生きることができて、今や八十になるのです。「戦後八十年」、何人もの同級の友たちは、父(てて)なし子でしたが、健気にこの年月を、精一杯に生きてきたことになります。

(ウイキペディアの「太宰府の跡地」、熊本山鹿市にある「防人の碑」です)

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