丘の上にある家の窓から、太平洋の大海原が望み見えます。白波が立ち、時には外国航路の大型船も遠望できます。ワイキキ寄りの海辺の公園に行きますと、泳いだりサーフボードで波乗りに興じる若者たちがい、沖合ではヨットのセーリングをし、もっと沖では、夕方になると夕陽を観るために観光船が来ては、戻っていきます。
昨日は、ホノルル在住の家内の姪夫妻とお嬢さんと、久しぶりに会いました。長女と6人で会食をしました。まだ姪がハイスクールに通っていた頃に、グアム島の学校の校長をしていた義姉夫妻の家を、1ヶ月ほど訪ねたことがありました。義父母が近くに住んでいたので訪問したのです。自動車の免許証を取得したりした滞在期間でしたが、長男が3才、長女が1才の誕生日を迎えた時でした。
招かれて、マキキ聖城教会のメンバーの沖縄料理店で、みんなで会食をしたのです。生まれて初めて琉球そばを食べました。日系移民たちの多いハワイで、その勤勉さで、社会的にも経済的にも文化的にも貢献した人たちです。船ではなく飛行機での来島ですが、気分は、作詞が林柳波、作曲が井上武士の「海」の歌のようです。
♯ 海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む
海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら
海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国 ♭
山の中で、海の見えない村で生まれ育ち、東京で学校を終え、再び故郷に戻って、子育てと伝道をし、みことばに押し出されて隣国に行って、海の近くの街、中華民国時代にはイギリス海軍基地のあった街も残されてい、そこに住みました。ものすごく長い海岸線もあった街で、十数年を過ごしたのです。病を得て、急遽帰国して、再び海なし県で生活していますと、海への憧れは大きなものがあります。
こんなに大きく広がった海を、朝な夕なに見るのは初めてのことです。湘南の海ではアルバイトをしたり、子育て中には、静岡の海には、度々出かけたのですが、太平洋の真中に、この1ヶ月ほど過ごしているのです。長女の家の庭に、椰子の木があって、昨日も今日も実が落ちて、道路脇に転がっていました。きっと同じように海辺の木から落ちた、ヤシの実が海流に乗って海を渡り、日本の知多半島に漂着して、歌に歌われました。
作詞が島崎藤村、作曲が大中寅二の「椰子の実」は、日本の名曲の一つです。
1 名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月
2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ
3 実をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂い
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙
思いやる八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか国に帰らん
渥美半島の伊良湖の海辺に漂着していた椰子の実を見つけて、深い感動を覚えた民俗学者の柳田國男が、その感動を親友の島崎藤村に語ったそうです。一個の椰子の実に想を得た親友の島崎藤村は、それを借り受けて、この詩を書き上げたのだそうです。もしかしたら日本人は、漂流民の末裔なのかも知れません。それで、オアフ島の海を眺めている自分も、故郷回帰で、想像を逞しくしたのでしょうか。
この島には、ジャスミン、ブルメリア、ブーゲンビリア、シャワーツリーの花が咲き乱れています。木々には南国の花が咲き出でて、路側の家々の庭にも花が、日を追うごとに咲きあふれる季節を迎えています。移民のみなさんが、この島を今のように作り上げてきたのでしょう。子どもの頃の巨人軍に、沖縄からのハワイ移民の子で、与那嶺要という選手がいて、American qbase ballの走塁や守備やバッティングを見せてくれました。ふたりの兄に、後楽園へ連れて行ってもらって観た覚えがあります。
ブエノスアイレスでも、サンパウロでも、何代目になるのでしょうか、日系移民のみなさんとお会いしました。どの街でも、一世のみなさんのご苦労を知ったみなさんが、そんな歴史を覚えながら、今もハワイやサンパウロで生活されておいでなのです。お会いした沖縄料理店に店主さん夫妻も素敵でした。家内の姪の子も、沖縄人の血を引き継いでいるそうです。
”outgoing“の子孫の島には、冒険や生活上での闘いに足跡が感じられます。ハワイの人口の20%ほどが日系なのだそうです。そのお店に、MLBドジャースで活躍の岩手県出身の大谷翔平の写真やポスターや記事が、たくさん掲げてありました。彼の活躍は、一入(ひとしお)の感慨が日系のみなさんにあるに違いありません。
(いらすとやの椰子の実です)
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