壁に掲げられた一編の詩

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 ニューヨークに、「物理療法リハビリテーション研究所」があるそうです。その受付の壁に掲げられている詩が、注目されていると聞いたのです。それは「病者の祈り」という題で、よく知られています。南北戦争に従軍して、負傷した兵士が書き残したものだと言われています。

    ーーーA CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED

I asked God for strength, that I might achieve

I was made weak, that I might learn humbly to obey…

I asked for health, that I might do greater things

I was given infirmity, that I might do better things…

I asked for riches, that I might be happy

I was given poverty, that I might be wise…

I asked for power, that I might have the praise of men

I was given weakness, that I might feel the need of God…

I asked for all things, that I might enjoy life

I was given life, that I might enjoy all things…

I got nothing that I asked for — but everything I had hoped for

Almost despite myself, my unspoken prayers were answered.

I am among all men, most richly blessed!w 

 

 ニューヨークに、「物理療法リハビリテーション研究所」があるそうです。その受付の壁に掲げられている詩が、注目されていると聞いたのです。それは「病者の祈り」という題で、よく知られています。南北戦争に従軍して、負傷した兵士が書き残したものだと言われています。

大きなことを成し遂げるために
力をあたえてほしいと求めたのに
謙虚さを学ぶようにと弱さを授かった

偉大なことができるようにと
健康を求めたのに
思いやりを持てるようにと病弱さを与えられた

幸せになろうとして富を求めたのに
賢明であるようにと貧困を授かった

称賛を得ようとして
成功を求めたのに
得意にならないようにと
失敗を授かった

人生を楽しもうと
たくさんのものを求めたのに
人生をよく味わうようにと
平凡な人生を与えられた

求めたものはひとつとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた

私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されていたの

 

 私の入院した札幌の整形外科の病院に、この詩を日本語訳したものが、額入りで掲出されていたのです。人が病んだり、怪我をしたりで、弱くなった時に、初めて気づく事があるからです。これまで何度も入院生活をして来た私は、ほとんどが外科関係の手術をするためでした。体にたくさんのメスの跡が残ってしまいましたが、「男の紋章」と言いたいのですが、「人間の限界」を教えられる傷痕なのでしょう。

 腎臓を壊して、透析治療(腹膜環流透析)を受けていた次兄に、左の腎臓を提供した時に受けた切り傷が残っています。また、自転車で転倒したのと、階段から転落して、両腕の方にある左右両方の腱板を断裂し、その縫合手術を受け他時の傷も残っています。子どもの頃からの喧嘩傷も、手傷脛傷は数え切れないほどにあります。

 玉の肌で生まれて、この体を親を通して、創造主の神さまに頂いたのに、肌を傷つけてしまったのは、申し訳ない思いがいたします。二親は、怪我をさせまいと細心の注意を払って育ててくれたのに、勝手に生きて怪我を負い、病を得て今があります。戦前は、軍隊の兵舎だった、木造の建物を、戦後に病舎として使われていた、国立病院に入院したのです。

 就学前に入院した、その病室は、8人部屋だったでしょうか。若い青年たちが周りにいて、小児は自分だけでした。母が付き添って身の周りの世話をしてくれました。兄たち二人は、週末には来てくれました。我儘な弟が病んで、可哀想に思ってくれた兄たちでした。上の兄がベッドから落ちて、手を便器に入れてしまうハプニングがありました。

 そんな家族に支えられて、死にそうな重篤さから回復できたのです。父が、輸入薬を手に入れて、医師に渡したからだった様です。きっとペニシリンかなんかだったのでしょう。『肺炎が再発したら死んでしまうので注意を!』よ言われて、すでに入学式も済んでしまい、学期も進んでいたのに、一日学校に行けば、何日も休むを繰り返し、登校できないで、家に籠っていた私の世話をし続けてくれたのです。

 九死に一生を得た私は、小4になって元気になっていったのです。小学校の初期の学びがなかったので、漢字の書き順が手前勝手で、教師になって、『先生書き順が違ってる!』と生徒に注意されたほどでした。

 この詩を書き残した方は、重要な仕事ができるための力、健康、富、権力、喜びなどを、神さまに祈り求めた様です。でも、神が与えられたのは、病弱と貧困だった様です。病むことと、願いが叶えられないという重なる経験の失敗者の様な人生を生きたのでしょう。しかし、この方にできることがありました。「祈り」でした。『わたしの心の中の言い表せない祈りは、すべてかなえられた。私は、あらゆる人々の中で、最も豊かに祝福された!』と、神に感謝する心が与えられたのです。

 神さまに祈れるということほど、人生の資源は他にありません。どんな境遇の中でも生きていける力は、置かれた環境や境遇の中で、祈ったり、賛美したりして、神に思いを向け、委ねることで、それを実行できるのです。

『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい。(新改訳聖書 1テサロニケ5章15~17節)』

そう聖書は約束していてくださるのです。

(ウイキペディアの「ニューヨーク・セントラルパーク」です)

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公正や質実さを求めて

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『わたしは冬の家と夏の家とを打つ。象牙の家々は滅び、多くの家々は消えうせる。--主の御告げ--」(新改訳聖書 アモス3章15節)

 子どもたちが、石鹸水をストローにつけて、吹くと、シャボン玉が風で飛んでいく様子を見ていたことがありました。形あるものも、中身がないと、瞬間的に消えてしまうのは、はかな過ぎて、何となく心までもが消沈してしまう様でした。

 雨が降った後に、東の空に夕陽を受けて、半円形の虹が出て、感動させられるのですが、夕陽が落ちると同時に、虹も消えてしまうのも、寂しいものです。もちろん、ノアが方舟から出て、地が乾き始めていく中で、二度と大洪水で、地を滅ぼす様なことはないと、神さまが約束され、その印として与えてくださった虹は、別ですが。

『わたしはあなたがたと契約を立てる。すべて肉なるものは、もはや大洪水の水では断ち切られない。もはや大洪水が地を滅ぼすようなことはない。」(創世記9章11節)』

 飛び去っていく時間、消費してしまう物質、堅固そうに見える住宅、一時の奢侈贅沢の飽食の生活、みんな泡沫(うたかた)のように消え去ってしまう代物(しろもの)です。今夏、大風が吹き、大波が押し寄せ、何もかも薙ぎ倒す地震や大風の猛威を、ニュース映像で見て、人の築き上げた形ある物が、瞬間で崩れ去っていったわけです。

 極東ロシアのカムチャッカ半島での地震は、茨城南部を震源地として、私たちが住んでいる家を揺するものとは、規模が格段に違う大地震なのです。幸いカムチャッカ半島は、高層の建造物がなく、集落も密集してない地ですので、被害情報は出てきていません。また、鹿児島県の島嶼部の十島村も、頻発地震のニュースが絶えません。北から日本列島を南北に南下する列島全体に地震が起こっています。あの大正期の関東大震災に近い、被害をもたらす大地震を起こすのではないかと、私も心配しているのです。

 旧約時代、預言書を書き記したアモスは、いちじく桑を栽培する農夫であり、羊を草場に導いて飼う牧夫でした。その彼が預言した「時」が特記されています。

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『テコア出身の牧者の一人であったアモスのことば。これはユダの王ウジヤの時代、イスラエルの王、ヨアシュの子ヤロブアムの時代、あの地震の二年前に、イスラエルについて彼が見た幻である。(アモス1章1節)」

 「地震の二年前」とあります。ドスンという突き上げや、ギシギシと音がして揺れて、建物が軋む音を感じると、このアモスの予言を思い出してしまうのです。そして、今から40年近く前になるでしょうか、東京都心の教会で、イギリスからやって来た、二人の伝道者が、新宿の高層ビルを揺らし、崩壊していく大きな地震の起こる幻を見て、警告のようにかたられた預言を聞いたのを思い出します。

 あの時よりも、もっと起こり得る可能性が大きくなって来ていないでしょうか。いつ起きてもおかしくないように感じてなりません。イエスさまも、主の再臨の兆候を次のように話されました。

『戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」  それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現れます。(ルカ21章9~11節)』

 前兆が見られるのですが、その一つが、この「地震」なのだとおっしゃったのです。戦争だって、暴動だって、疫病だって、昨今は、地球のあちらこちらで起こっているではありませんか。「飢饉」だって、地球上で、いつ起こるか分かりません。猛暑が続いた今夏、秋のお米の収穫や、野菜や果物の不作が起こりかねないと思えたのですが、杞憂でした。でも、来年はどうでしょうか。その可能性は大きいかも知れません。

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 自然界の異変は、人の生活と無関係ではなさそうです。この預言者のアモスは、「商人たちの不正と暴利」を預言しています。商人たちの贅沢ぶりです。彼らは、一揺れの地震で崩壊してしまう様な、冬の家、夏の家、象牙の家を持って豪奢な生活をしていました。都市で、定住生活をしている堕落した贅沢な暮らしぶりだって、潰(つい)えてしまうことを取り上げているのです。暴利を貪って、巨万の財産を築き上げた商人たちの奢侈贅沢な生活を、そう糾弾しています。

 現代は、どうでしょうか。今夏、米価の値上げが、まさに人為的なものであって、その連鎖で、あらゆる物の価格が上昇して、便乗しての物価高騰を産んだのです。アモスの預言は、彼の時代の社会問題への糾弾であったのですが、現代にも通じないでしょうか。

『洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。悪事を働くのをやめよ。 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」(イザヤ1章16~17節)』

 神さまは、人に、「公正」さを求めておいでです。正しい秤(はかり)を用いること、的確な儲けで売価を決めることを求めておいでなのです。商いをする人も、物作りをする人も、「儲け」を公正に設定するのを期待しています。神さまは不正がないお方だから、人にそれを求めておいでです。暴利を求めない生き方です。それは、人の大きな負担の上に、自分の人生を築かないことなのでしょうか。

 私の父は、必要以上に贅沢をしない生き方の人でした。象牙の家を建てるようなことがなかったし、一軒の小さな家を持っただけでした。そんな「質実」な生き方を見て育った私も、同じように生きようとしてきました。ギルティーではなく生きられたと、今になって感謝をしているのです。

(ウイキペディアの「シャボン玉」、「地震の分布図」、「象牙」です)

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もみじの秋を感じて

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 郷愁を誘う秋の歌に、高野辰之の作詞、岡野貞一の作曲の「もみじ」があります。

秋の夕日に照る山もみじ
濃いも薄いも数ある中に
松をいろどる楓(かえで)や蔦(つた)は
山のふもとの裾模樣(すそもよう)

溪(たに)の流に散り浮くもみじ
波にゆられて はなれて寄って
赤や黄色の色さまざまに
水の上にも織る錦(にしき)

 私が小学生の頃を過ごした街は、遠望の富士、大晶寺山、多摩川があり、学校は木造りの学舎、木製の廊下や机、水道の飲み水場、校庭、校門、金次郎像、百葉箱(気象観測のインド系や質憧憬に入った⒈5m高さの白色の鎧戸の箱)、小使さんが振って知らせてくれた鐘の音、春の桜、夏のプール、秋の紅葉、冬の校庭の雪、石炭やコークスを燃やしたストーブ、弁当、黒板、チョーク、そして担任の先生がい、級友たちがいました。

  イタズラ小僧だったのに、音楽の授業だけが好きで、よく歌を大声で唱和していました。秋になると、「もみじ」を歌ったのです。今、口ずさむと、思いが湧き上がってきて泣きそうになります。教室の後ろに、廊下に、そして校長室に立たされて、一緒に立たされた、立たされ仲間が家に帰って行ってしまい、迎えに行かされたことがありました。一緒に帰らないガンコ野郎でした。

 弾き始めに、ギイギイ音を出し始め、美しい音色が奏でられ、もう懸命に歌ったのです。担任は、どんな思いで、この手に付けられない学習障害児の歌を聴いていたのでしょうか。音楽の時間だけは、いい子なのだからです。腑に落ちなかったのは、はたきで、担任に叩かれたことでした。みんな担任の名前は覚えていますが、この1年間の担任は、呼び捨ての中村でした。今でも許せないのです。

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 お父さんがいない級友の家に行くと、お母さんは必ずサイダーの栓を抜いてくれて、飲ませてくれたのです。「小学◯年生」という月刊誌をとっていて、それが出るたびに、見せてもらいにも行き、読みたいのとサイダーが欲しくてよく行ったのです。

 優しいお母さんで、美人でした。どうしてお父さんがいないか聞けなくて、遠慮していたのを思い出します。きっと戦死だったのでしょう。成績が良くて、おとなしくて、ケンカなどしない優等生でした。なぜか成績の競争相手でもあったのが不思議でした。

 仲が良かったし、彼の友人の一人でした。家でサイダーなんか、買ってくれて飲ましてもらわなかったので、あんなシュワーとした甘い飲み物が、じつに美味しかったのです。店構いの立派な酒屋さんをしていた級友でした。卒業以来会うことがなかったのですが、後に地元の市長をしたと聞きました。

 やっと涼しい風が頬を撫でてくれるようになり、昨日は、通院時に長袖、長ズボンで、電車を乗り継いで、大学病院に出かけたのです。今や、痛みのひかない膝、それに腰まで、MRIやレントゲンで撮影するのです。半月板に水が溜まっているとかで、次回、精緻な検査結果が出るようです。ローカルですので、乗り継ぎ駅で、お腹は空くし、一時間も待たされてしまいました。

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 そう栗や柿が食べたくなってきてしまいました。在華中、この季節になると、好きなことを知ってくれて、小ぶりの栗に、ナイフで切り込みを入れた栗を茹でて、聖書研究の集いに行きますと、必ず出して下さったのです。ホクホクして、大陸の栗も美味しいのです。

 十数年過ごした華南の地なので、紅葉は見られず、短いのですが、秋も感じられる日も、短かったのですがありました。街路樹や学校の校内の木に、綺麗に亜熱帯の花が咲いていたのです。でも、秋の風情は、日本でしょうか。日光の中禅寺湖畔、足尾山地、県北の那須や塩原あたりは、激暑の今夏を追いやる様に、秋色が溢れてくることでしょうか。渡瀬渓谷鉄道に、また乗って、秋を逍遥してみたい思いがしてまいります。

 今朝、今夏の暑さでなかなか咲けなかった白色朝顔が二輪咲きました。どうも去年のタネが、秋口になって芽を出して咲いたのかも知れません。『生きていて、生かされていてよかった!』と思わず言ってしまいました。バラも、ベコニアも咲いてくれています。まさに秋到来、残りの夏の風情で、ベランダが明るくなりました。

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いちじく

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 暑かったせいで、今夏、美味しかったのが「無花果(いちじく)」でした。糖度が高いのですが、8月から10月には、スーパーマーケットの店頭の果物コーナーに並び始めると、つい手が伸びてしまい、買ってしまうのです。

 きっと、一番懐かしくて、美味しい思い出があるから、好きになったのかも知れません。実は、小学校の通学路を、少し外れた小道に民家があって、その庭に、無花果が植っていたのです。つい手が伸びて、とって食べたのが始まりでした。柿ドローボーならぬ、無花果ドロボーでした。

 アメリカの西海岸に、日系キリスト教会の牧師さんがおいでで、毎月、週報をまとめて、mail で送ってくださるのです。4、5年前に、その週報送付の感謝の感謝をしたのです。この牧師さんの奥様の実家が、東京郊外の街にあって、その家の無花果こそ、私が毎年の様にとって食べていた代物なのです。

 道路の方に枝が伸びていて、まるで『採って食べて!』と言うそぶりをしていたので、その誘惑に負けた私の所業でした。それを急に、思い出して、無花果ドロボーのお詫びをしたのです。

 もう時効になっていましたし、その方のご両親も亡くなっておいでで、その家もなくなってしまって、無花果の木もないのですが、良心に責められた私の謝罪だったのです。一時季に一つ、二つと、小学生の頃の何年かにわたって食べたのです。そう告白しましたら、大笑いをされてしまいました。

 子どもの頃の東京の郊外の街の農家には、柿や庭グミや苺の実が、庭に植えられていたのです。わが家の庭にも、父が好きだった葡萄を、父の友人がご存知で、その苗木を下さったのです。それが狭い庭に植えられていました。でも自分の家にない無花果は誘惑的だったのです。

 冷蔵庫に、もう二つほど残っているでしょうか。もう高級果実の様になってしまって、驚かされるのです。『あんな不味くて硬いのを、よく食べましたね!』と、先輩、同じ学校の大先輩なのですが、そう言われたのです。

 四字述語に、「悪木盗泉(あくぼくとうせん)」があります。どんなに困窮していても、不正や恥ずべき行いには手を出さない戒めを、そう言うそうです。どんなに食べたくても、無花果を盗むことをしない決断を、今再びしている私です。

 ちゃんとお詫びをし、きちんと支払いをし、正しく食べる無花果は、今年も、格別に美味しいのです。そういえば、聖書にも、無花果が登場しているのを思い出します。

(ウイキペディアの「無花果」です)

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正鵠を射ることばを

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 「正鵠(せいこく)を射る」と言うことばがあります。AIによりますと、「物事の核心や要点、急所を正確に捉えることを意味します。弓の的に描かれた中央の鳥(正鵠)を射外さないように、物事の最も大切な部分を的確に見抜くことを例えた表現です。 」とあります。

 有能な司会術を心得ている方は、その的確な質問を、質疑応答の流れの中で、ちょうど、弓矢が的を射る様に、相手の本心にぶっつけていくのです。話の流れを折らずに、隠れている事実を浮き上らすかの様に、相手に話させてしまうテクニックでしょうか。

 そうする時には、視聴者がいるわけです。テレビが、父の家に入ったきっかけは、兄がしていた運動部が、関東リーグで優勝をして、日本選手権を、関西リーグの優勝校と対決するという、日本選手権がテレビで中継されると言われた時でした。父は、電気店からテレビジョンを買って、わが家の中心に鎮座しました。

 ラジオにない、映像で時事や事件や流行を、聞くだけではなく、観られると言った、一大マスメディアの侵入でした。大切な家族間の語らいが、そのテレビの映像に奪われたと言ったらいいでしょうか。どなたかが、テレビに出現を、「一億白痴時代の到来」と言っていました。

 流暢に、早口に捲し立てるだけではなく、的確に、的を得て話し合う能力は、天賦のものなのでしょうか。それとも鍛錬、努力の結果なのでしょうか。高橋圭三というアナウンサーが、NHKにいました。「私の秘密」、「ジェスチャー」という、人気のテレビ番組があって、その司会をされた方でした。

 初期のアナウンサー、今ではキャスターという様ですが、ほとんどが男性でした。女性が、お飾りに様な立場から、キャスターになるのは、ずっと後になってのことでした。その女性キャスターに、国谷裕子という方がおいでで、実にsmartで、明晰で、はっきりものの言える方でした。

 1993年4月5日から、「クローズアップ現代」のレギュラーキャスターを番組開始時からされました。ところが2016年1月12日付で降板してしました。日本にいなかった私は、降板の事情は知りませんでしたが、強力な圧力がかかったと言われていました。なにか強く影響を受けた方たちからのものだったかも知れません。

 後になって、2016年5月1日に発刊された、「世界(岩波書店)」で、次の様に、国谷裕子は書いています。

『インタビューで私は多くの批判を受けてきたが、23年間、私に与えられた「クローズアップ現代」キャスターの仕事の核は、問いを出し続けることであった様に思う。それはインタビューの相手だけではなく、視聴者への問いかけであり、そして絶えず自らへの問いかけでもあった気がしてる。言葉による伝達ではなく、言葉による問いかけ。これが私にとって、キャスターは何をする仕事なのかという問いに対する答えかも知れない。』

 語ること、言葉で飯を喰ってきた我が身を考えますと、語ったことの反響が大きいことを痛感してきました。誤解されること、反発されること、感情が傷つけられることで、非難を被ってきたのです。聖書の枠を超えない話をしたつもりですが、例話の仕方の間違いなどでの誤解がありました。

 使徒ヤコブが、その書き送った書簡で、次の様に記しています。

『私たちはみな、多くの点で失敗をするものです。もし、言葉で失敗をしない人がいたら、その人は、からだ全体もりっぱに制御できる完全な人です。(新改訳聖書 ヤコブ3章2節)』

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 「舌は・・・不義の世界(6節)』、『舌を制御することは、だれにもできません。それは少しもじっとしていない悪であり、死の毒に満ちています。(8節』と言っています。

 一方では、剣の様に危うかったりします。言葉は、人を殺しも生かしもする、ものすごいEnergie  と破壊力、そして創造力、回復力を持っています。

 最も善意的で力ある言葉は、「聖書」です。主である神さまは、「ことば」と言われます。ギリシャ語で、“logos(聖書のイエスさまの時代、日常的に語られていた言語は、アラム語でした。このアラム語で「ことば」は、「メモラ」だと学んだことがあります)“ で、イエスさまの人格を表しています。

 人を生かす「ことば」で、数限りない人を生かし、激励し、導き、用いてきたのです。家内の母は、学生の頃、神田の古本屋街を、何度も「真理」を探し歩いたそうです。終戦後、上の娘が、駅前でもらった、「約翰傳(ヨハネの福音書の文語版)」を読み始めて、「太初に道(ことば)あり道は神と偕にあり道はすなわち神なり」の「ことば」が、義母の心を、矢が的を射る様に、射たのです。

 その頃、栄養事情が悪く、肋膜炎を起こして、東京郊外の清瀬にあった「結核病院」に通っていました。病友に女子大生がいて、医師の不用意な〈ことば〉を聞いて、ショックを受けた女学生は、その晩に亡くなったそうです。権威や立場のある人の言葉の重さに、人の死期を早めるような言葉を使った、その医師を、義母は激しく責めたのだそうです。

 そんな時期に読み、出会った「神の子イエス」を表す「ことば」を知ろうと、冊子を配ったアメリカ人宣教師を訪ねたのです。問答を重ねて、ついに、「ことば」である神、十字架で、信じる者の罪を負って、身代わりに死んでくださった、イエスをキリストと信じたのです。101歳で召されるまで、信じ続けて、主の安息に入ったのです。

 また私の母は、聖書が語る「ことば」を聞いて、神さまが「父」であることを知って、父なし子の欠けを、私生児の惨めさや孤独を埋め合わせて余りある「救い」に預かりました。95歳で召されるまで、信仰を持ち続けたのです。

 人の言葉に、驚くほどの力があるなら、神さまのことばは、想像を絶する力があります。今は、世の中に驚くほどの言葉が溢れかえっています。そんな中で、命を生み出し、弱った者に、力や激励を与えることばを語り、「正鵠を射たことば」を聞きたいものです。

(ウイキペディアの「流鏑馬」、クムラン洞窟の「イザヤ書」です)

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出し渋りの秋風が涼と吹く

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 この時季の野草に、「エノコログサ」があります。バッタが好んで食べるのだソウ(草)で、あまり有名な草ではなさそうですが、漢字では「狗尾草」と書きます。草の穂が、犬の尻尾に似ているので、昔の人は、ソウ名付けたようです。

 日本語、とくに大和言葉には、「情緒」を感じさせる言葉や名称があって、それだけ聞いても、この年の異常な暑さを忘れさせてくれたのではないでしょうか。そう言った日本人の観察眼が素敵ですね。即物的で、慌てた様子もないゆとりが、昔はあったのでしょうか。

 ソウ言えば、鈴虫は、リンリンと鳴くのでしょうか、古語では「松虫草」、英語では、” bell cricket “ と言うのだそうで、英語圏でも、季節や場所に応じて粋な名付けがなされている様で、”poesy “ で、詩的で素敵な名前ではないでしょうか。

 鈴虫ですが、喉で鳴くのではなく、羽をこすり合わせる音が、鳴く音に聞こえてくるのを知らされて、驚いた子どもの頃を思い出します。

 どうも、虫や草の名には先人たちの生活のテンポには、穏やかさや余裕があったので、slow life、時間に追い迫られないで、悠々自適、悠々自得な暮らし振りが感じられて、『いいなー!」と思うのです。まさに、もうこの頃の自分の生活が、そんな感じです。

 どなたもソウなのですが、しなければならない仕事に、朝は起こされ、出掛けたり、机に向かったり、訪ねて来られる方と話したりしていたのです。在華中は、二つの街で過ごしたのですが、車を運転しませんでしたので、自転車と市バス、時々は知人の運転する車で出かけました。時間の流れが変わったのを感じたのです。

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 それに比べますと、この7年の北関東の生活は、実にslow pace になっているのです。今日は、家内の3ヶ月ごとの通院日で、電車に乗って、駅からはバスで行く予定です。図書館や市役所、買い物でのスーパーマーケット、たまにはラムレーズンを食べに行くのですが、二人で歩いていると、近所の方に、『仲がよくて!』と言われます。

 日常の義務から、医者通いに代わっていて、苦笑いをしています。この月曜日には、誘われてお絵描き会に参加しました。中学以来のことで、ワイワイガヤガヤしながら、手取り足取りで、5枚ほどのハガキに、水彩画を描いたのです。全然しなかったことをしている自分の変わりように、驚いています。

 下手な仕上がりですが、力作だとみずから思って、四人の子どもたちに出そうと宛名を書いたのですが、出し渋りの秋風が涼と吹き、やっと秋を感じられる早朝です。今日の天気予報は、最高気温が27℃だそうで、やっと一息つけそうです。行って帰ります。

( ウイキペディアの「エノコクサ」、“ いらすとや “ の「鈴虫」です)

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秋が来れば思い出す

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 家族で、海水浴に行く途中、ある公園で休んでいたことがありました。そこに歌碑があったのです。千葉県の成東町(現在は山武市成東)の城址にあった公園でした。その歌碑には、「里の秋」の歌詞が刻まれていました。作詞者は、斎藤信夫で、この成東町(現・山武市)の出身だったのです。

 この歌は、戦時下に、戦地にいるお父さんの慰労の思いを詠んだ詩でした。一億日本が、その戦争を「聖戦」と定めて、戦勝祈願をして、勝ち戦を願っていたのです。国民学校(小学校)の教員であった斉藤信夫も、そう願って、「星月夜」と言う題で、作詞したのです。一番と二番は同じで、三番と四番は次の様でした。

3 きれいなきれいな椰子の島/しっかり護って下さいと/ああ父さんのご武運を/今夜も一人で祈ります

4 大きく大きくなったなら/兵隊さんだようれしいな/ねえ母さんよ僕だって/必ずお国を護ります

 戦意高揚、戦地に赴いた兵隊さんたちの慰労の思いを込めて、戦時色の濃い歌詞だったのです。そんな一億の願いは叶わず、戦争に負けてしまったわけです。そんな戦後に、詞を書き変えて、この歌をレコーディングすると言うことになって、斎藤は「里の秋」と改題し、三番と四番に変わる歌詞を作り直す様に、レコード会社から要請されたのです。

 斎藤は、教師として、戦時下、戦勝を願い、日本精神で鼓舞したことに、教師としての戦争責任を感じて、教職を退いていたのです。それで改作した「里の秋」を、NHKから、川田雅子の歌唱で放送しました。この歌が放送されると、驚くほどに強烈な反響を呼んで、小学生ばかりではなく、敗戦に打ちひしがれていた全国民が愛唱する歌の一つとなったのです。

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1    静かな静かな 里の秋
お背戸(せど)に木の実の 落ちる夜は
ああ母さんと ただ二人
栗の実煮てます いろりばた

2 明るい明るい 星の空
鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
ああ父さんの あの笑顔
栗の実食べては 思い出す

3 さよならさよなら 椰子(やし)の島
お舟にゆられて 帰られる
ああ父さんよ 御無事でと
今夜も母さんと 祈ります

 尾瀬は、夏が来るとですが、秋が来れば思い出すのは、この童謡なのです。有名な観光地ではなく、どこの村にも、どこの町にも、普通にあった日本的な佇まいを思い起こすわけです。

 戦時下に生まれたからでしょうか、予科練や海軍兵学校に憧れた、戦後の流れに反した願いを心のうちに温めた自分ですが、割烹着を着た母の、料理していた姿、掃除をしていた振る舞い、買い物籠を下げて買い出しに行っていた背中が思い出されるのです。負けて手にした平和は、何よりも大きな安心でした。

 ウクライナやパレスチナでの戦争、東アジアの不穏な動き、旧東欧諸国や中近東諸国に燻り続けるいざこざは、どうなっていくのは、不安材料は尽きません。二度とすまいと掲げた誓いも、薄ボンヤリしてしまっている日本も、そんな中で、どう対応していくのでしょうか。平和の主は、どんな思いでおいででしょうか。

(“いらすとや”の「葡萄」と「くり」です)

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ラムレーズンを食べて

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 人生には、「楽しいこと」が必要です。生きていく励みになるからです。でも、「苦しいこと」も、また付き物の様にしてあります。「苦楽同在」、裏と表の様に、楽しいことが続くと、また苦しいことがやって来て、そういった変化が、人生を深く掘り下げていくのでしょうか。

 明治期に、300年ほどの鎖国政策のもとに置かれた日本が、維新と共に、欧米諸国と立ち遅れに晒されます。欧米に追いつき、追い越すことを掲げて、殖産興業に躍起になりました。明治政府が目指した「強い日本」、それが行き過ぎたのでしょうか敗戦を喫しました。そこからの立ち直りの時期には「豊かな日本」を作ろうとしたのです。そして現首相は、その施政方針で掲げたのが、「楽しい日本」でした。

 確かに、子どもたちを、車に詰め込んで、ディズニーランドの行って過ごしたのは、実に楽しい一日でした。学業や、日常の義務から解放されて、思いっきり、amusementに彩られた夢世界で過ごせて、子どもたちばかりではなく、親の私たちも、実に手放しで楽しめました。

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 アメリカンドリームでしょうか、日常から解放されて、機械仕掛けの遊園地は、夢の国でした。朝早く家をで、終日遊んで夕暮れの家への帰り道は、疲れ果てた子どもたちが、帰りの車中では、全く違う、宿題や家事手伝いの現実に戻らなければならないのですが、最初は、あれやこれやと語り合って賑やかでしたが、やがて喜び疲れた彼らは、爆睡してしまっていました。

 楽しい社会、学校、家庭、職場、クラブ、近隣は必要です。余暇を楽しむことは、現代人には、とくに必要です。でも、人生に楽しさは錯覚で、現実は、厳しいものがあるわけで、そこを見極めないと、苦楽を上手に体験できないからです。

 日本は、飽食を経験し、美味しいものや珍しいもの、つまり楽しいことだけを追い求め当てしまったのです。「楽しい日本」だけではダメなのに、何度もその経験を積み上げていくと、本質を忘れ、失ってしまいます。

 思いもよらなかった、暗くて怖い日本が出来上がってしまったのです。もうニューを聞きたくないほどです。それに温暖化は度を越してしまい、うなされる体温の40℃が平均値になってしまいました。それでも、神さまは、こんな不敬虔な現代人に、地面が、ジューと音を立てるかの様に、雨を降らせてくださるのです。

 気付かなければならないのでしょうか。富や楽しさだけを追求した社会が、限界点に達していることをです。毎年、夏前からか追い迫られ、刺されて、こんどは刺されない様に、蚊帳の中に逃げ込んできたのですが、なんと今夏は、蚊に一度しか刺されませんでした。奇跡の如しです。また、毎年楽しませてくれた朝顔が、その蕾を開かないのです。でも、このところ六分ほど開いてくれる花になってきたのです。

 来年のことを言うと、何某かが笑うのだそうですが、来夏の暑さは、きっと今年以上になるのかなと思ってしまいます。富裕層は、夏の家と冬の家を併せ持っていて、避暑避寒を繰り返す人たちがいるのだと、聖書にも記されてあります。

 そんなことの叶わない私の猛暑の今年の慰めは、隣家からスイカが半分届いたこと、弟と姪が訪ねてくれたこと、そして子どもたちが、何やかやと気遣ってくれたこと、それに、何度かラムレーズンを食べたこと、これらがあって、乗り越えられたのかも知れません。心が豊かでなくては、生きるのを楽しめません。

(”SOZAI GOOD”の「ラムレーズンアイスです)

ねえ、全然違うでしょう!

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 昨日、午後3時過ぎに、家に近いスーパーに、買い物に出かけました。家の近くの路上で、電気工事店に前を通ると、そのご主人と行き合って、『おはようございます。』と挨拶し、当世お決まりの『ひどく暑いですね!』と言われたのです。何人も従業員がおいでで、『外での工事なんかできないですよ!』と嘆いていたのです。

 もう少し行きますと、3人ほどの小学1年生を引率した、同世代の方と行き合ったのです。軽く会釈しましたら、話しかけてこられました。『これ使わないんですか!』、と話しかけてこられたのです。すなわち、傘が、灼熱の日差しを避けられるのだそうです。そのさしておいでの傘を、サファリ帽を被った私にさし掛けて、持たせてくださったのです。『ねえ、全然違うでしょう!』と、21世紀の灼熱のアスファルトの路上での会話でした。

 確かに、一瞬、熱射が遮られたのです。どうも優れ物の様です。去年あたりから、手持ちの扇風機をかざす高校生を見かける様になりました。その頃に、次男が、来てくれた時に、その扇風機を家内に持って来てくれたのです。今夏も大助かりしています。

 先週、次男が来てくれた時には、サファリ形式の帽子を、私に持ってきてくれたのですが、その作りも、日傘同様、熱射を遮断できる素材でできていました。これを被ると、顔周りは熱射避けができそうです。どうも、傘も帽子も、同じ素材の様です。

 そんな暑さ対策の goods が出回る様になって、冷やしたU字系の首巻きや、お腹周りを冷やす充電式の手持ちの冷房機が、今季は見かけます。もう、そんな暑さ対策が必要になってきている様です。工事現場や路上での安全指導員の方には、うってつけかも知れません。

 今年の夏休みは、学校でのプールでの泳ぎはできなかった様です。『水温と気温の温度差が大きいいからなんです!』と、日傘の方が、お孫さんを見ながらが言っていました。今日は、熱射遮断のサファリ帽を被って外出することにしましょう。

(ウイキペディアのモネの「日傘の婦人」です)

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朝顔だより

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 最高気温38℃、ちょっとフラつくほどの関東平野の内陸部への熱射ですが、わが家のアサガオがヒッソリと咲いています。開き切れないでいるもどかしさを、ヒシと感じてしることでしょう。

 もう葉が黄色く枯れ始めてきて、疎な朝顔棚になってしまいました。山車会館の裏手に、毎年、このアサガオが植えられているのですが、今夏、いつ行っても咲いていません。でも、今朝は満開ではありませんが、これほどに咲いてくれて、慰められています。

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