大海原を見下ろしながら思うこと

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 丘の上にある家の窓から、太平洋の大海原が望み見えます。白波が立ち、時には外国航路の大型船も遠望できます。ワイキキ寄りの海辺の公園に行きますと、泳いだりサーフボードで波乗りに興じる若者たちがい、沖合ではヨットのセーリングをし、もっと沖では、夕方になると夕陽を観るために観光船が来ては、戻っていきます。

 昨日は、ホノルル在住の家内の姪夫妻とお嬢さんと、久しぶりに会いました。長女と6人で会食をしました。まだ姪がハイスクールに通っていた頃に、グアム島の学校の校長をしていた義姉夫妻の家を、1ヶ月ほど訪ねたことがありました。義父母が近くに住んでいたので訪問したのです。自動車の免許証を取得したりした滞在期間でしたが、長男が3才、長女が1才の誕生日を迎えた時でした。

  招かれて、マキキ聖城教会のメンバーの沖縄料理店で、みんなで会食をしたのです。生まれて初めて琉球そばを食べました。日系移民たちの多いハワイで、その勤勉さで、社会的にも経済的にも文化的にも貢献した人たちです。船ではなく飛行機での来島ですが、気分は、作詞が林柳波、作曲が井上武士の「海」の歌のようです。

♯ 海は広いな 大きいな
月がのぼるし 日が沈む

海は大波 青い波
ゆれてどこまで続くやら

海にお舟を浮かばして
行ってみたいな よその国 ♭

 山の中で、海の見えない村で生まれ育ち、東京で学校を終え、再び故郷に戻って、子育てと伝道をし、みことばに押し出されて隣国に行って、海の近くの街、中華民国時代にはイギリス海軍基地のあった街も残されてい、そこに住みました。ものすごく長い海岸線もあった街で、十数年を過ごしたのです。病を得て、急遽帰国して、再び海なし県で生活していますと、海への憧れは大きなものがあります。

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 こんなに大きく広がった海を、朝な夕なに見るのは初めてのことです。湘南の海ではアルバイトをしたり、子育て中には、静岡の海には、度々出かけたのですが、太平洋の真中に、この1ヶ月ほど過ごしているのです。長女の家の庭に、椰子の木があって、昨日も今日も実が落ちて、道路脇に転がっていました。きっと同じように海辺の木から落ちた、ヤシの実が海流に乗って海を渡り、日本の知多半島に漂着して、歌に歌われました。

 作詞が島崎藤村、作曲が大中寅二の「椰子の実」は、日本の名曲の一つです。

1 名も知らぬ遠き島より
流れ寄る椰子の実一つ
故郷(ふるさと)の岸を離れて
汝(なれ)はそも波に幾月

2 旧(もと)の木は生(お)いや茂れる
枝はなお影をやなせる
われもまた渚を枕
孤身(ひとりみ)の浮寝(うきね)の旅ぞ

3 実をとりて胸にあつれば
新(あらた)なり流離の憂い
海の日の沈むを見れば
激(たぎ)り落つ異郷の涙

思いやる八重の汐々(しおじお)
いずれの日にか国に帰らん

 渥美半島の伊良湖の海辺に漂着していた椰子の実を見つけて、深い感動を覚えた民俗学者の柳田國男が、その感動を親友の島崎藤村に語ったそうです。一個の椰子の実に想を得た親友の島崎藤村は、それを借り受けて、この詩を書き上げたのだそうです。もしかしたら日本人は、漂流民の末裔なのかも知れません。それで、オアフ島の海を眺めている自分も、故郷回帰で、想像を逞しくしたのでしょうか。

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 この島には、ジャスミン、ブルメリア、ブーゲンビリア、シャワーツリーの花が咲き乱れています。木々には南国の花が咲き出でて、路側の家々の庭にも花が、日を追うごとに咲きあふれる季節を迎えています。移民のみなさんが、この島を今のように作り上げてきたのでしょう。子どもの頃の巨人軍に、沖縄からのハワイ移民の子で、与那嶺要という選手がいて、American base ballの走塁や守備やバッティングを見せてくれました。ふたりの兄に、後楽園へ連れて行ってもらって観た覚えがあります。

 ブエノスアイレスでも、サンパウロでも、何代目になるのでしょうか、日系移民のみなさんとお会いしました。どの街でも、一世のみなさんのご苦労を知ったみなさんが、そんな歴史を覚えながら、今もハワイやサンパウロで生活されておいでなのです。お会いした沖縄料理店に店主さん夫妻も素敵でした。家内の姪の子も、沖縄人の血を引き継いでいるそうです。

 ”outgoing“の子孫の島には、冒険や生活上での闘いに足跡が感じられます。ハワイの人口の20%ほどが日系なのだそうです。そのお店に、MLBドジャースで活躍の岩手県出身の大谷翔平の写真やポスターや記事が、たくさん掲げてありました。彼の活躍は、一入(ひとしお)の感慨が日系のみなさんにあるに違いありません。

(いらすとやの椰子の実です)

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自然界の神秘に驚かされて

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 私たち四人の父親は、明治男だったのでしょうか。洋服箪笥と、箪笥の上に置いた二つの衣料ケース、これに夏冬交互に畳んでしまわれていました。その他は本箱があり、靴箱に何足かの父の靴や下駄がありました。戦争を経験したからでしょうか、まだ物質文明の嵐の前だったからでしょうか、実に持ち物の少ない生活をしていました。押入れには、夏と冬の衣料が、交互に出されて仕舞われる行李(こうり)があり、和服は、別の箪笥にあって、母が整理していました。 

 そんな簡素な生き方できるのは、父が明治に生まれ、母が大正に生まれたからでしょうか。新婚時は、京で過ごしたと言っていました。和服を解いて、洗い張りをして、縫い直している母の姿を覚えています。良い物を持ち、その持ち物を大事にしている生き方は、合理的で理想であっても、なかなか真似できません。

 父の和服は、独身時代の豊かな時に誂えたとかで、「大島」だと言っていました。「紬(つむぎ)」で、奄美大島の特産の高級な絹織物なのだそうです。それを、母が解いて、私の身丈に合わせて縫い直してくれたことがありました。それを一度、袖を通したことがあったのです。もう五十年以上も経つのに、絹の光沢が失われていませんでした。

 東京に出てきて最初に住んだのが、都下最大の街で、織物で名を馳せた「桑都」八王子でした。一年の後に、隣町に越したのです。そこには、蚕糸試験場があって、隣町の機屋に納めたのでしょうか、蚕業農家が多くありました。桑畑が、台地に広がっていました。桑の枝が、チャンバラの刀に良くて、肥後守で枝を切って、皮をむいて作った刀で斬り合う遊びをした日があります。

 繭を作る蚕が珍しく、不思議で仕方がありませんでした。また糸を撚って、生糸を作る工程を知って驚かされたのです。まさに細い糸から、織物の生地になっていく工程が珍しく、試験場の窓下に捨てられてあった蚕を持ち帰って、桑の葉で育てたこともありました。

 蛹(さなぎ)が、桑の葉を喰んで、蚕(かいこ)の成虫になります。大きな農家で、その葉を喰む音が、何千、何万匹もの蚕の合唱のように聞こえたのです。まさに命の躍動の音でした。すると糸を吐いて、繭を形成していきます。吐いて絹糸を吐きながら繭を紡(つむ)ぎ、その糸は、生糸と呼ばれ、上質な絹糸となって、高価な和服生地になっていくのです。まさに神秘の業ではないでしょうか。


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 中国で、人の手の世話で、蚕が飼われ、生糸が紡がれ、蚕糸業が始まっていますわが国に伝えられ、その産業を試行錯誤で作り上げて行ったのでしょう。それが、「絹の道」と、後になって呼ばれるような商業路で、ヨーロッパに運ばれたのです。徳川の統治下、甲州街道の要衝であった、八王子は、群馬(上野国)や栃木(下野国)を含めた繭の飼育、生産地でした。

 旧国鉄の八高線の沿線に、通った小学校がありました。まさに、それは日本版の「絹の道」でした。両毛線で、高崎、八王子、横浜と鉄路で運ばれ、海外への輸出は、日本の近代化を促した、主要な外貨収入源だったのです。群馬に富岡製糸場、長野の諏訪地方の製糸業は、上質な生糸の生産がなされ、日本の近代化を促したのです。

 絹は、中国語では「丝绸sichou」と呼ばれ、弥生時代には、日本に伝えられたとも言われています。野生の蚕を育てて、養蚕業、生糸生産、絹織物を機織りして、美しい生地を作り上げた知恵は、どこからきたのでしょうか。世界に冠たる自動車メーカーのトヨタ自動車ですが、その創業者は、画期的な機織り機を改良、製造した豊田佐吉でした。

 蚕糸試験場で拾った蚕で、実験してみたり、蚕糸農家で作った真っ白な球状の繭玉を手にして、これが生糸になり絹の生地になるのを知った驚きを、今も思い出すのです。手の上で蠢いていた、拾い上げた蚕の感触も昨日のように覚えています。父の残した大島の着物を、縫い直してくれて着物を着た、心地よいあの感触は、母や父を思い起こさせてくれます。

垂乳根之母我養蚕乃眉隠馬聲蜂音石

[読み]たらちねの 母が飼ふ蚕の繭隠り いぶせくもあるか 妹に逢わずして

( 母が飼っている、蚕が繭(まゆ)にこもっているように、もやもやとした気持ちです。あの娘(こ)に会えないので。)

 蚕や繭は、このように万葉にも詠まれているのです。自分の鬱々とした思いを、蚕が繭の中に籠っている様子を思い浮かべて表現しているのですが、繭の中の世界に閉じ籠って、あんなに光沢のある生糸をはいて、蚕が繭を作るのは、実に神秘の世界です。そういった習性を見抜いた最初の人の観察眼にも、老いという殻の中にいるような自分は、今も驚かされてしまいます。繭の最先端を、どうやって見つけるのでしょうか。驚くべき技術です。この自然界の神秘に驚かされての今です。

(いらすとやの糸を吐く蚕と繭玉と桑の葉、ウイキペディアの奄美大島です)

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謎を解かれるお方がいて

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 箴言に、『深淵もまだなく、水のみなぎる源もなかったとき、わたしはすでに生まれていた。(8:24)』、『神が天を堅く立て、深淵の深い面に円を描かれたとき、わたしはそこにいた。(8:27)』、『神が上のほうに大空を固め、深淵の源を堅く定め。(8:28)』とあります。

 散りばめるように、降るように、瞬きをしているような、夜空の星々を見上げながら、息を飲んでいた子ども心に、聖なる感動を覚えた日々がありました。吸い込まれるような、泳ぎたいような星々の間を歩みたいような思いにされたでしょうか。今も夜空を見上げます。

 今いるオアフ島は、火山帯に位置していて、この島の名所のDiamond headは、その名残です。海岸は溶岩が多いのですが、砂が残留してか、運ばれてきてか砂浜ができ上がっているのです。ワイキキあたりの観光名所には、人工的に砂浜が作られて、維持されているようです。先日の散歩の時には、「ハワイモンクアザラシ」の母子が、その砂浜にいて、周りに網が張られて保護されていました。

 その頭数は激減していて、絶滅危惧種だそうです。観光客が情報を得てでしょうか、大勢やってきて、遠巻きに眺めていました。元々はハワイアンアザラシの生息地だったのに、観光開発の波に、多くが追われてしまい、ホテルや公園ができ上がってしまったのでしょう。それもまた人による自然破壊なのかも知れません。
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 この地球も、歌では「星はなんでも知ってる」とか「ちっちゃな星」だとか歌われていますが、これが長い年月の間に形成されてきたと言われますが、本当にそうでしょうか。あのアザラシが、子を産み育てる様子を見て、海岸にも、娘の家の庭にも生い育つ椰子の木が、年輪を加え、葉を出しては落とし、実も実らせているのは、当たり前なのでしょうか。

 それを眺め、海に入って泳いだり、サーフやヨットで休暇を楽しみ、娘を訪ねる私たちを乗せて、大空を飛んで来た飛行機を作り、その人の食べる野菜や穀物や果物、肉や魚介類を作る人は、どうのように誕生したのでしょうか。

 全宇宙に、「大空を固め、深淵の源を堅く定め」たと聖書は記しています。創造者がいて、維持者もいて、自然界は誕生と維持がなされていることになります。全宇宙が無限のように、科学者によって言われますが、この全存在に、「淵」や「果て」があると、聖書は言います。

『人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24章31節)』

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 地球に「果て」があるように、何億万光年と言われる広がりを持って、さらに拡大していると、天文学者が言う、この天にも「果て」が定められていることを、聖書は記しています。未曾有の距離の向こうに、「果て」も「淵」もあるのですし、何よりも、天が張り伸ばされた時に、「わたし」と言われるお方がいたと言うのです。この「わたし」とはどなたでしょうか。天地の万物が創造された時に、その「かたわら」にいらっしゃったのは、「神の御子」、救い主イエスさまです。このお方こそ、「わたしはすでに生まれていた」、「わたしはそこにいた」、私たちのイエスさまです。

『神は仰せられた。「地が、種類にしたがって生き物を生ぜよ。家畜や、はうもの、野の獣を、種類にしたがって。」そのようになった。(新改訳聖聖書 創世記1章24節)』

 すべてのものは、自然発生したのではなく、創造者の意図、ご計画によって、全てが創造されています。そうされたからこそ、神であり、創造者でいらっしゃるのです。その被造物に中で、最高傑作が、「地球」であり、「人」であるのです。しかも「愛の対象」なのです。それが分かりますと、全宇宙の謎、人が不可解と思い続けてきた全宇宙の謎が解けるのです。

(浜辺にいるハワイモンクアザラシの母子、“ウイキペディア”の空です)

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ラーゲリから愛をこめて

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 ソヴィエト軍は、1945年8月9日に、日本軍に宣戦布告して、旧満州帝国に侵攻を開始しました。日ソ中立条約を破って、対米の無条件降伏を決定づけた侵攻し、満州の在留邦人は、慌てて逃げますが、混乱の中、不意の参戦は、大きな悲劇を生みました。その最たるものが、あの残留孤児問題でした。

 もう一つは、軍人や軍属などのシベリアの収容所への強制送致でした。凍土シベリヤを開発しようとして、長く収容所に留めたのです。テレビの連続ドラマ「不毛地帯」で、その様子が放映されていました。山崎豊子が、後に総合商社・伊藤忠で働いた瀬島龍三をモデルに、旧軍の名参謀を主人公に、サンデー毎日に連載したもののテレビ劇化でした。

 父と同世代人で、国策で軍需工場で、石英の採掘を命じられた姿と重ねて、実に興味深く、Youtubeで観ました。父は、軍隊だったら中佐ほどの立場だったそうで、街にあった連隊長と、任務上の交流があったようです。瀬島は、終戦後、11年間、その収容所の一つで過ごしています。

 今回、長女の家で、ビデオ鑑賞で、「ラーゲリより愛をこめて」を観たのです。旧南満州鉄道の調査部で働いていて、戦犯容疑でソ連軍の捕虜となってしまいます。それが、主人公の山本幡男を主人公です。辺見じゅんが、1989年に著した「収容所(ラーゲリ)からの遺書(文芸春秋社刊)」を映画化したものです。

 先の見えない収容所生活が、どんなに過酷で絶望的だったかは、「不毛地帯」も、戦時下のユダヤ人強制収容所に顛末を著したヴィクトール・フランクルの「夜と霧」に通じるものがあります。それらには「飢餓」、「過酷な労働」、そして「絶望」との闘いだったなどが描かれていました。山本は、たらい回しにされた、どの収容所でも、仲間を言葉と行動で励まし、希望を持つようにと勧めるのです。そして、俳句作りを仲間としていきます。

 「アムール句会」、これは、シベリヤのハバロフスク収容所に抑留されていた捕虜のみなさんの文化活動で、俳句を学び合った仲間の句会の名です。日本語を忘れないため、美しい母国を想い描きながら、収容所の付近を流れるアムール川にちなんだ句会で、俳句作りに励んだのです。

 その句会の発起人だったのが、山本でした。ところが、咽頭癌に冒されて、家族のもとに帰ることなく、45歳で亡くなるのです。病床で、遺書を書くように勧められ、書き上げるのですが、ロシア兵に没収されてしまいます。ところが複写をしておき、しかも4等分にした遺書を、四人で暗記するのです。

 子どもの頃、毎夕、ラジオでは引揚者の消息が、「尋ね人の時間」で、引き揚げが始まった時から、ずっと放送されていました。それを何度も聞きました。その頃よく聞いたのが、「ハバラフスク小唄」だったのです。
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1 ラララ ハバロフスク
ラララ ハバロフスク
河の流れは ウスリー江
あの山もこの谷も 故郷(ふるさと)を
想い出させる その姿

2 母の顔 ラララ 母の顔
ラララ 母の顔
浮かぶ夜空に 星が出る
ただひとつ呼んでいる あの星は
遠い我が家の 窓あかり

3 元気でね ラララ 元気でね
ラララ 元気でね
やがて帰れる その日まで
今宵また逢いに行く 夢で行く
可愛いあの娘(こ)の 枕元

 さて収容所の病院のベッドの上で記した、山本幡男の遺書ですが、1956年以降、一人また一人と幡男の家族の住む家を訪ねるのです。記憶した幡男の遺書の内容を、妻に、子どもたちに、そして母親に、四人四様に、その遺書を暗記し、口頭で伝えたのです。その場面が圧巻でした。山本の高潔な人間性の思い出が語られるのです。人は極限の中でさえも、山本幡男のように生きれるのです。

地に書いてうなづき合うや日向ぼこ

 これが、山本幡男の記した俳句の一句です。東京都下に住んだ家内の家の近くには、引揚者住宅があり、満州開拓団の引揚者の級友たちがいたそうです。同世代の両親の子、片親の子、孤児なども、多くいたのです。去年、那須地方の街に住むご婦人と、宇都宮で出会った。のですが、この方は、満州からの引揚者で、同年生まれで、戦後を生きてきたそうです。級友には、大陸や南方でお父さんを亡くしたり、牧師仲間にも、大陸からの引揚者がいて、引き揚げ後の生活の厳しさを聞いたことがあります。

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 フランクルにしろ、山本幡男にしろ、収容所の過酷な環境の中を、家族に会えると言う、明日への希望を持って生き、生きるように同囚に仲間にも励ましたのです。あの過酷で絶望的な状況下、逆境の中を生き抜いた人たちが、私たちの戦後80年に多くいたと言うことです。日本が、1941年12月8日に攻撃した真珠湾に、ほど近い所で、この二週間ほど過ごしています。85年ほど経った今、複雑な思いで、過ぎた日の出来事を思い返させられているのです。

(“ウイキペディア“のアムール川、山本幡男の4人の子どもたちです)

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人間五十年にあらず

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 コンピューターが、まだ一般的に使われる前、アメリカの研究室で、人類の過ごしてきた日数の中で、《一日》と、《10時間》とが失われていると言うことが、弾き出されたのだそうです。

 これは私に聖書を教えてくださった宣教師さんが、ある日の学びの中で言われたことでした。一体、これはどう言うことだったのでしょうか。実は、ヨシュア記10章12〜13節に、次のように記されてあります。

『主がエモリ人をイスラエル人の前に渡したその日、ヨシュアは主に語り、イスラエルの見ている前で言った。「日よ。ギブオンの上で動くな。月よ。アヤロンの谷で。」 民がその敵に復讐するまで、日は動かず、月はとどまった。これは、ヤシャルの書にしるされているではないか。こうして、日は天のまなかにとどまって、まる一日ほど出て来ることを急がなかった。』

 列王記第二20章4〜11節にも、次のように記されてあります。

『イザヤがまだ中庭を出ないうちに、次のような主のことばが彼にあった。 「引き返して、わたしの民の君主ヒゼキヤに告げよ。あなたの父ダビデの神、主は、こう仰せられる。『わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。見よ。わたしはあなたをいやす。三日目には、あなたは主の宮に上る。 わたしは、あなたの寿命にもう十五年を加えよう。わたしはアッシリヤの王の手から、あなたとこの町を救い出し、わたしのために、また、わたしのしもべダビデのためにこの町を守る。』」 イザヤが、「干しいちじくをひとかたまり、持って来なさい」と命じたので、人々はそれを持って来て、腫物に当てた。すると、彼は直った。 ヒゼキヤはイザヤに言った。「主が私をいやしてくださり、私が三日目に主の宮に上れるしるしは何ですか。」 イザヤは言った。「これがあなたへの主からのしるしです。主は約束されたことを成就されます。影が十度進むか、十度戻るかです。」 ヒゼキヤは答えた。「影が十度伸びるのは容易なことです。むしろ、影が十度あとに戻るようにしてください。」 預言者イザヤが主に祈ると、主はアハズの日時計におりた日時計の影を十度あとに戻された。』

 人類史の中に「欠落している日時」があると言うのです。AI時代に突入した現代では、聖書の神秘を、コンピューターが弾き出すのは、さらに深まるのではないでしょうか。神さまにかかわることで、まだ覆われ、隠されれている神秘が、一つ一つ明らかにされていくことでしょう。

『天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道者3章1節)』

 時を定め、支配される神がおいでだと言うことです。無為に時が過ぎていくのではなく、永遠の計画の中に、時や事が進んでいると言うことにちがいありません。この戦国の雄であった織田信長は、出陣などに際して、「舞」を舞ったと言われています。とくに好んだのが、「幸若舞(こうわかまい) 敦盛」だったのです。

 十六歳の平家の総大将の平敦盛は、源氏の熊谷直実(なおざね)と一騎打ちをし、敦盛は直実に打ち取られて果ててしまいます。すでに死んでしまった自分の子と同い年の若者を、直実は討ち取らなければならなかったのです。源平の争いの渦中に、直実の苦衷の決断で打たねばならず、のちに出家してしまいます。の座根はでした。哀れを感じた直実は、敦盛の遺品を親元に送り返すのです。

 その敦盛の若き死を悲しんだ直実を覚えつつ、室町時代の武将の桃井直詮(なおあき)、幼名「幸若」が舞ったので、「幸若舞」と呼んで、武人に好まれて舞われています。それが口伝で伝えられてきています。その一文です。

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「思へばこの世は常の住み家にあらず

草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし

金谷に花を詠じ、榮花は先立つて無常の風に誘はるる

南楼の月を弄ぶ輩も 月に先立つて有為の雲にかくれり

人間(じんかん)五十年、下天のうちにくらぶれば、無限の如くなり

一度生を享け、滅せむもののあるべきか

これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しき次第ぞ」

 「幸若舞 敦盛」を好んで舞った信長が、本能寺で果てたのが、四十九歳でした。五十を前にして、全国制覇の完成を前に、「口惜(くちお)しく」も果ててしまったわけです。その召された年齢は、その時代の平均余命でもあったのです。

 聖書では、『私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。(詩篇90篇10節)』と言っています。

『まことに、あなたの目には、千年も、きのうのように過ぎ去り、夜回りのひとときのようです。 あなたが人を押し流すと、彼らは、眠りにおちます。朝、彼らは移ろう草のようです。 朝は、花を咲かせているが、また移ろい、夕べには、しおれて枯れます。 まことに、私たちはあなたの御怒りによって消えうせ、あなたの激しい憤りにおじ惑います。(詩篇90篇4~7節)』

 まさに人の一生は、「一息」の内に終わるです。名も誉も業績も、どれほどの地位も立場も存在も、一生涯の営みの全てを、持っていくことはできません。私たちはみな、全天全地の支配者でいらっしゃる神さまの御前に、呼び出されるのです。

『次のように書かれているからです。「主は言われる。わたしは生きている。すべてのひざは、わたしの前にひざまずき、すべての舌は、神をほめたたえる。」 こういうわけですから、私たちは、おのおの自分のことを神の御前に申し開きすることになります。(ローマ14章11~12節)』

 神さまのみ前に立って、だれもが「申し開き」をするのですが、その時、私たちのそばにいてくださる方がいらっしゃるのです。

『しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。  私の子どもたち。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。もしだれかが罪を犯すことがあれば、私たちには、御父の前で弁護する方がいます。義なるイエス・キリストです。(1ヨハネ1章7〜10節、2章1節)』

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 罪深い者である私たちのために、「弁護する方」がいてくださると言うのです。そのお方こそが、「義なるイエス・キリスト」でいらっしゃいます。私に代わって、十字架に死んでくださり、私たちを生かすために死んでくださった救い主、イエスさまが、御父の前に立ってくださって、弁護してくださると言うのです。

 私は、一度だけ、裁判所の証言台になったことがありました。東南アジアから来ていた方で、犯罪を犯して拘置された方に請われてでした。その方は、国外退去の処分を受けて、強制送還されたのです。それから随分経って、もう一度日本で働きたいので、呼んで欲しいと言ってきました。日本で働く機会を得るために、宣教師の肩書きでの来日希望だったのです。平安がありませんでしたので、それをしませんでした。再び不法滞在を繰り返すことが明らかだったからです。

 イエスさまは、「罪を言い表す者」のために、弁護してくださるのです。いえ、罪を犯した私の身代わりに、十字架で処分を受けてくださったイエスさまだからこそ、弁護者となってくださるのです。そこは、「キリストのさばきの座」なのです。審判ではなく、《報酬を与えてくださる座》だと言われています。何の功(いさお)しのない私なのに、報酬を与えてくださるのです。これが「救い」であります。私はこの不動に救いの確信に立っております。

(“いらすとや”の時計、“ウイキペディア”の本能寺の変、最高裁の法廷です)

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日系移民の高評価の礎が

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 『それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(新改訳聖書 マルコ16章15節)』

 海や浜辺での健康志向、リゾート地でも信仰への思いのあるハワイです。泳いだり、波乗りをしたり、ヨットのセーリングをしたり、カヌー競技の練習、ジョギングや海浜体操のグループが、それぞれに活動をしています。そればかりではなく、日曜日には、椰子の林の中で、賛美したり聖書を学んだりし、ワイキキ周辺には教会堂も見られます。

 ハワイに原住する人たちに、福音を伝えるために、アメリカのボストンから宣教師がやって来たのが、1820年だったそうです。1885年には、ハワイ島のさとうきび畑で働くために、日系の移民が始まります。3年契約で1ヶ月26日労働で、4ドルの契約だったそうです。得たお金を、酒と博打に使ってしまい、喧嘩などで、心が荒んだり身をもち崩していく日系移民の彼らへのハワイでの評判がすこぶる悪かったのです。それで伝道が、サンフランシスコのメソジスト派の牧師たちによって行なわれていきます。

 その一人、美山貫一牧師は、『兄弟よ。お互いに日本人であることを光栄とし、その体面を保つためにはどんな苦労もしようじゃありませんか。怠けたり不品行すれば、自分が一文無しになって困るだけでなく、万世一系の我が国体を傷つけ、汚名は同胞3千万の頭上に繋がるのだから!』と、移民たちの働くハワイ島のコナで、福音を説き、禁酒を勧め、英語の学習会も始めるのです。

 その福音宣教を受け継いだのが、土佐藩の郡奉行を父に生まれ、京都の「同志社」で学んだ奥村多喜衛牧師で、ホノルルを拠点に、その生涯を、日系移民への伝道に捧げたのです。教育や娯楽、共済組合、医療事業や慈善事業、売春の廃娼運動の面にも貢献しています。奥村牧師の始めた小学校の卒業生の中から、エール大などで学んで、ハワイの日系社会の柱になっていく人物も起こされていきます。3年の契約を延長し、生涯を、その働きに捧げたのです。

 お城のような建物の教会が、ホノルルにあります。この群れは、奥村牧師が伝道して建て上げた教会なのです。勤勉で礼儀正しい日本人は、偶然に生まれて来たのではなく、奥村牧師のような献身的に、日本人社会を形作った人たちによって、多くの課題や苦難を越えていること、戦時中には日本人排斥運動があり、ハワイ哀史などある、それらの哀しみも越えて今があるのも忘れてはなりません。


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 身体も精神も霊性も、健全である願いがあって、アメリカの社会は、多様なのですが、全存在が活動的な印象です。80年代の中頃に、山中湖で聖会が開かれ、そこにハワイ島で伝道を始められた教会の牧師さんが、講師として来られたのです。この方との出会いで、その教会の信者さんの家庭で、長男と次女が高校生活を送ることになったのです。礼拝を守り、愛と好意を、十代の時期に受けることができたのです。

 その牧師さんが、ホノルルの高校の講堂を、日曜日ごとに借りて、土曜日と日曜日に、礼拝を長く守っていたのです。そのために、メンバーのみなさんの奉仕で、礼拝のために楽器や歓迎ブースなどのセッティングがなされ、その週末に行われる、週ごとに3、4回の礼拝が終わった後の片付けや掃除が、あのレビ人のように、教会でボランティアでなされていました。借りる前よりも綺麗にし続けて、学校側から感謝されていたのです。

 西海岸にあった学校に、長男は進学をし、学び終えて、ここホノルルで、その教会の奉仕をし、やがてスタッフになり、教会で行われていた聖書学校で学んで、市内にあったマスターコースの聖書学校でも学びつつ過ごしたのです。日本人留学生がたくさんいましたので、メッセージの通訳もしていました。

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 その教会の礼拝に、この日曜日に出席したのです。賛美に溢れ、福音が説かれ続けています。この教会を始められた牧師さんは、その務めを後任に任せて、西海岸の街での伝道牧会を始められ、若い人々の教育にもあたっておいでです。日系社会の初めの時期から、伝道がなされてきた尊い歴史を覚えつつ、ハワイで過ごす今に感謝しております。

(“ウイキペディア」のサトウキビ畑、ボート競技の練習をするクルー、椰子の海岸です)

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ブルマン、地中海、テニス

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 最高に美味しかったのは、ブレンダーで挽いたコーヒー豆を、布製の漉し器で漉して、陶器のカップに注いでくれたコーヒーでした。それは最高のコーヒー豆、Blue mountain種だったのです。かぐ香りも、飲む味も最高にリッチでした。『準哉、一緒に飲もう!』と言ってくれた宣教師さんの、丁寧に淹れてくれた香(かぐわ)しいコーヒーだったのです。

 北欧からの宣教師たちが、日本で生活するために、別荘を持っていたのに、私たちに関わってくれた宣教師のみなさんは、借家に住んでおいででした。この方が召されて何年になるでしょうか、不肖の弟子の私ですが、今朝も懐かしく思い出してしまいます。

 この方は、アメリカのジョージアの田舎町の大きなGeneral electricの電気機器ストアーの御曹司だったそうです。AtlantaにあるGeorgia Tec(ジョージア工科大学)から休暇で帰省すると、家の地下室の大きな冷蔵庫の中に、お父さんが行って、息子のために、吊るされた牛肉の一番美味しい部位を切り取って、お母さんに調理してもらった、beef steakを食べさせてくれたのだそうです。そんなお父さんの思い出を語ってくれたことがありました。

 学校を出て、アメリカ空軍のパイロットをしていた時にでしょうか、テキサスの街の教会のカンファレンスに参加したそうです。そこで日本宣教をして、休暇で帰って来ておられた宣教師さんのお話を聞き、交わりをしたのだそうです。その交わりで、彼もまた宣教の願いを入れられて、この日本に来て、Man to manで聖書を学び、宣教の思いを強固にしたのです。

 第二次世界大戦が終わって、たくさんの青年たちが、そのテキサスの教会で、毎年夏季行きました。日本にやって来られて、日本宣教に就かれた方たちも何人かいたのです。東京の教会にしばらくいた後、静岡や熊本に出掛けて行ったのです。母が導かれ、二人の兄たちも弟も、そして自分も、その東京の教会で信仰告白をし、バプテスマを受けたのです。

 オランダから来られた方が、兵庫県下で伝道されて教会が始まっていました。この教会も加えて、けっこう広範囲の地域から一堂に会して、正月と5月に聖会がもたれたのです。そこに自分が初めて参加した時の講師は、ニューヨークの聖書学校で教えていた教師で、テキサスの教会で出会った方でした。アフリカ諸国で宣教をする若い宣教師たちを問安する途中、日本に寄られた時に、初めて会ったのです。テキサスの教会のConference で出会った《信友》同士だったようです。

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 自分たちの婚約式の時に合わせて、この方が来てくださり、お話をしてくれました。まだ賛美歌や成果での賛美だけだった時代、アメリカの一部の教会で賛美されていたコーラスを紹介してくれたのです。聖書のみことばにメロディーをつけた賛美が多くささげられたのです。♯  Making melody in my heart  ♭ が、最初に紹介された一曲でした。ギリシャとアラブの気質でしょうか、明るく、奥さんやお子さん自慢の愛妻家だったのです。

 台所に立って、地中海風のナスと牛肉とのスパイシーな料理を作って、振舞ってくれたこともありました。アフリカに連れて行きたかったそうでしたが、それは実現しないまま、主の身許に、思い出や聖書の教えを残して、この方も帰って行かれました。Blue mountainコーヒーや、このアラブ系のギリシャ人の背景の伝道者のニンニク🧄を丸かじりしていた姿が思い出されてきます。一緒にテニスに興じた方もおいででした。

(“いらすとや”のイラアウトです)

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ハワイの移民文化の中で

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 ”out going“、自国から他国に移り住んできた民族を上げますと、ユダヤ民族と中華民族とが双璧でしょうか。この両民族を比べてみますと、ユダヤ民族は強いてそうされてきましたが、中華民族は自発的だったと言えるでしょうか。あのアヘン戦争後には、大勢の移民があって、世界中に出掛けて行きました。

 サンフランシスコ、ブラジル、アルゼンチン、シンガポール、そして今回訪ねていますハワイには、横浜にあるような「中華街」があるのです。どこも、開放的で、活気にあふれていて、中華コミュニティ。華僑社会を形作っています。中華のみなさんの結束力の強さが感じられる、コミュニティなのです。

 「市場shichang」と呼ばれる一廓に、小さな商店が軒を連ねて、賑々しく商いがなされています。野菜や肉類や魚類や香辛料などの食材、そして雑貨や衣類が並べられていて、食堂もある一廓です。家族や友人たちでテーブルを囲んで、大声で箸を振るいながら喋りながら食べる、実に生命力が溢れている世界です。

 13年過ごした、天津と華南の街にも、中国中に点在する街には、市场があって、ご婦人同士が取っ組み合いで転げ回りながら、髪を引っ張り合って喧嘩したりしていて、小競り合いを何度も目撃しました。流石、その喧嘩は、ハワイやシンガポールでは見られませんでした。あれって、率直で直情的な中華の文化の一部なのかも知れません。

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 みなさん人懐っこく、逞しく生きているのです。喧嘩は少ない部分で、大体は、人間関係が濃くて、親切で、助け合い、情報を交換し合いながら、そこに生きておいでです。中国を感じさせたいと言う、長女に従って、中華街をブラブラ歩きをして、アジア風の野菜や果物を見つけては、買い求めtあのです。ちょうど昼時でしたので、日本の鮪や鰤の漬け丼の「ポキ(丼)」を、長女と次男と私たちで、ツッツキ合いしながら食べ、婿殿の土産に弁当を買ったのです。

 独特のタレに漬け込んだ刺身は新鮮で、こちらに来たばかりの時には、「Uber eats」の宅配を、次男がスマホ注文&決済でとってくれて、昨日は二度目で舌鼓を打ったのでした。ワイキキのショッピングセンターのフードコートで、30年近く前に、長男に案内させてもらって食べたことがありました。ハワイだから、格別に美味しいのかも知れません。


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 喧騒で雑然としている界隈(かいわい)に、ヨーロッパ系の人たちも混ざり、人気エリアなのです。日本の地方の街々にも、朝市がたつのですが、元気一杯のご婦人たちが中心に、朝一番で野菜や魚を売ってきたのは、やはり同じ東洋文化なのでしょう。でもイタリヤなどのラテン系の国々の街にも見られる世界のようです。そぞろ歩く買い物客相手の風景は、活気に満ちて、美味しそうです。

 若者二人で下げらる保冷庫を持ち込んで、食べ物屋の主人と交渉していました。早朝に漁に出て、釣ったのか網で獲ったのか、その保冷庫には新鮮な魚がありそうでした。顧客がいるのでしょう、魚市場には出さずに、重宝する顧客との商談が聞こえてきました。それもまたハワイの下町文化の一つなのかも知れません。

 子どもたちは、みんなここで十代、二十代初期を過ごしていて、長女は、不思議に導かれて、ここに住み始めています。歳を重ね、体の弱くなった家内と私を招いてくれ、婿殿と親孝行をしてくれているのです。大切な連休を、この私たちに、次男は同行してくれています。昨日、bird flowerの花束を買って、母親に手渡していました。優しいのです。

 またBig islandの高校で、牧会する友人のお世話て3年学んだ後、この街の教会で長く奉仕をした長男は、家に迎えに来て、羽田空港まで送ってくれました。また帰りには、車で出迎えてくれると言ってくれています。またBig islandの高校で学んだ次女と家族も月末には、ここに駆け付けてくれるようです。家内のすでに召された次兄も次姉も、この街に住んでいた時期がありました。通過駅ならぬ、まさに此処は、わが家の「通過街」になるのでしょうか。

(ホノルルの中華街、ポキ、bird of paradiseです)

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陽気な心で

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『陽気な心は健康を良くし、陰気な心は骨を枯らす。“A merry heart doeth good like a medicine: but a broken spirit drieth the bones.(King James version)“(新改訳聖書 箴言17章22節)』

 創建で、薬も医師も必要なく生きている方を、『医者いらず!』と言うようです。父が医者にかかったのも、家で伏せっている姿を見たことがありませんでした。布団を敷いたままでいることが一度もなかったのです。早寝早起きを励行し、滅多にないことでしたが、体の具合が良くないと、母に、風呂を熱く沸かさせて、ウーッと唸りながら入って、頭にハチマキをして、早々と布団の中に入ってしまいました。

 翌朝、スパッツと起き上がって、朝食を摂ると、ワイシャツにネクタイ、ピカピカに磨かせた黒革靴を履いて家を出て、電車で東京に出勤して行くのです。背丈は高くなく、小太りで、血色も良く、背筋を伸ばして颯爽として、格好が良く、健康だった印象の強い父でした。

 中央線に乗って、引っ越してからは、小田急線に乗り換えて電車通勤をしていました。そんな父が、小田急線の電車が急ブレーキをかけた時に、くも膜下出血を起こしたのです。帰宅後でしょうか、具合が悪いとのことで、町立病院にかかって、入院してしまいました。材木を運ぶトラックの助手席ににっていて、河原に転落して、怪我をしたこと以降の出来事だったのです。

 そこから退院する日の朝に、脳梗塞起きて、そのまま亡くなったのです。なんの前触れもなく、目と目を合わせることもなく突然の死でした。牧師になったばかりの上の兄が、その父の告別式をしてくれました。明治末期に生まれ、61歳の誕生日を迎えたばかりの短い生涯でした。初めて大泣きをしました。

 見送ることもない別れでしたが、思い出はたくさん残してくれたのです。父に比べ、就学前に肺炎で死線をさまよった自分ですが、こんなに生きることができているのは、オマケのような今を感じてなりません。五月になると、鯉幟を買ってきて、庭に柱を立てさせて、四人の息子たちの健康を願い、祝福してくれたのです。

 母の里からは、祖母の手作りの「粽(ちまき)」が、毎年送られてきました。蒸篭(せいろ)で、母が蒸してくれて、砂糖醤油をつけてほうばったのです。伝統的なしきたりを守ることのない父と母のもとでの、唯一の季節感のあった時節だったでしょうか。中国での13年間に、教会においでのみなさんから、また近所の方たちから、笹の葉で包んだ、胡桃や肉や豆入りの、地方や田舎の伝用的な粽を、よく頂いたのです。サツマイモやライチ、鮑や生魚なども頂いたりでした。

 食べ物でも着る物でも、生き方全般に、「健康志向」や、懐かしい「ふるさと回帰」が、日本でも中国でも、ここハワイでも見られるのでしょう。一昨日は、家内の病後と健康維持のために、何種類ものサプリメントを買ってきてくれています。街中で、その商売をしている方が、いろいろなサプリメントを扱っているそうで、それを長女も次男も求めてくれています。

 また迎えるのに、また買い物ついでに、長女が「アロハシャツ」を買ってくれています。以前、娘が買い贈ってくれた「甚平(じんべい)」を持参したのですが、なんとなくこの両者は、似た物同士のようです。日経移民が、日本の着物に愛着があって、それにヒントを得て、和装のリメイクで作られ、売られてきたのが、アロハシャツなのだそうです。リゾート着にも式服にも用いられるそうで、Tshirt流行りの昨今でも人気があるようです。
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 知り合った牧師さんのお世話があって、長男から始まって、娘たち、そして末の子の次男まで、ここオアフ島やビッグアイランドのハワイ島で学ぶ機会が与えられてきましたので、肝入りのハワイなのです。一仕事を終えた今、こんなにゆったりした時を、脇役に回ったのか、主役に返り咲いたのか、子どもたちの思いを受けて、こんな風に過ごさせてもらっていることに、二親は感謝と喜び、陽気な心でおります。

(カピオラニ公園からの夕陽です)

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