この花の思い出が

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 ミニサボテンが、一昨日咲きました。ご覧のとおり、綺麗です。母体のサボテンには、トゲがあるのに、花は可憐で、清楚で、トゲが見られません。

 ここに住み始めてから間もなく、自治会のラジオ体操があるのを誘われて、参加し始めました。たまに、夏休みになった小学生が参加することがありますが、ほとんどは、老人たちが集っているのです。小学校の頃にやった、第一体操と第二体操を連続してやります。

 何十年もやらなかったのに、体が覚えていたのが不思議でなりませんでした。小学校の頃に、全校生徒で、ラジオ体操の時間があって、なぜが朝礼台の上に立って、全生徒の前で、やっていたのです。何の役にもつかなかった、16年間の学校生活の中で、唯一の役を与えられていたのです。

 そんなことで、日曜日の朝7時半開始のラジオ体操は、唯一、この時だけ飛び跳ねたりしているのです。悲しいのは、一人、また一人と、亡くなられる方がいるのです。寂しい思いをしますが、みなさん自分に定められた人生の旅を終えられたわけです。

 その中に、床屋さんがいました。学童疎開で、東京からやって来た子どもたちが、住んだ山間の村のお寺に、時々、ここ栃木から出掛けては、子どもたちの頭髪を刈るボランティアを、お父さんがしていたのだそうです。その方が、ポツッとそんな話をしてくれました。お店は、今は息子さんの代になっているのlです。

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 この方のお父さんの故郷には、関東の名刹、出流山万願寺があるのです。今から150年前に、明治維新前後に、水戸の天狗党が立て籠って、そこから下山して、ここ栃木にやって来て、刃を交わしたのだそうです。その寺の門前に、お蕎麦屋さんがあり、秋の新蕎麦が出回る頃に、ラジオ体操仲間が、市営バスに乗って出かけるのは、毎年の恒例になっているのです。その出流山の終点のバス停に、大輪の皇帝ダリアが咲いていました。

 その蕎麦会に、この街の古老、長く県の農政部で働かれた方がおいででした。ご自分で育てられた、シンビジュウムの鉢植えを何度か頂いたのです。なかなか育てるのが難しく、枯らしてしまったのですが、このミニサボテンも頂いたものなのです。そして、何度目かの夏を迎えて、今年も咲いたのです。株分をしては、お分けしてきました。

 人は去り、愛でて育てた鉢植えは残り、人の目を喜ばせてくれます。子分けした鉢に中で、もう咲いた花もあるかも知れません。花は、いのちを受け継ぐのですが、神さまの最高傑作である私たちは、一度きりの人生を生きています。あの人この人、みなさん去りましたが、クリスチャン、神の子とされたみなさんは、主の声を聞いて甦り、永遠のいのちに、生き続けられるのです。聖書が、そう約束しておりますから。

(ベランダのミニサボテンの花、出流山の皇帝ダリアの花です)

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幸福度を高める感謝の思い

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  “ stress coping “ (ストレスコーピング)」と言うことばを、最近耳にしました。”coping “ は、英語で「対処する・処理する」という意味がありますので、圧迫感や緊張感を覚えることで、今や、一億総ストレスの時代で、ほっとできないような圧力がかかっているのでしょう。それで、どう処理するかが騒がれているのです。

 米の価格上昇のニュースが持ちきりで、聞かない日はありません。田植えのシーズンになって、東武宇都宮線の沿線の田んぼでは、田植えが行われている季節の到来です。昨秋に蒔いたビール麦が、黄金色になっているのと、隣りの田んぼの苗の青さが対照的です。ビール畑も刈り取りがすすんで終わると、今度はそこが耕されて田んぼになり、稲が植えられていきます。

 悪代官が、米の問屋と結託して、米相場を捜査して、賂(わいろ)を得ていた時代があって、米騒動が、江戸期には起こったのでしょうか。令和の世になっても、誰かが、何かの団体が、米を止め置いて、価格操作をして、江戸期以来の儲けを画策しているのでしょう。

 農水産省の大臣が更迭されて、新しく就任した大臣が、対策を講じていますが、功を奏することができるのでしょうか。誰でしたか、『米なんか買ったことがなく、いつももらっている!』と、庶民感覚を逆撫でするようなことを言っていました。そう言った立場の人もいるのだと思わされたのです。

 わが家にも、続けて何人かの人が、お米を持って来てくれて、買わないでいた時期がありました。華南の街に住んでいた時期にも、よく10kgの米袋を、電動自転車に乗せて、持って来てくれた姉妹がいました。ケーキとパンを製造して、5店舗ほどを出店して、大きく事業をしていた方の工場があり、そこで働いておいででした

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 そこで、毎週「聖書研究会」があって、お話しをしていた時に、出席していたご夫妻からでした。他の省の農村から出稼ぎで来ていた方たちで、子どもさんたちを、おじいちゃんとおばあちゃんとに預けて、給料を送金していたのです。急遽帰国しましたので、このご夫婦に、感謝をしないままだったのを思い出している今なのです。

 そんなお米にまつわる思い出が、私たちにもありますが、1カップのお米を二人で食べる今は、お米の高騰のストレスは感じていませんが、それでも子育て中の家庭は、パン食が増えたとしても、大変なストレスがあることでしょう。

 あれよあれよの瞬く間の米価格の吊り上げがあって、全ての物価に影響があって、悪循環なのです。国連の「幸福度調査」の調査結果も、我が国は毎回、幸福享受からかけ離れていっています。高収入、高度医療などの恩恵、文化的な生活をしていながらも、幸福でないのは、何なのでしょうか。

 持ち物の豊かさ、生活の便利さ、溢れるような娯楽や行楽の機会に預かりながら、心が満たされないでいるのは、何なのでしょうか。聖書は、次のように言っています。

『さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(新改訳聖書 2コリント9章1-2節)』

 激しい試練、極度の貧しさの中で、「満ちあふれる喜び」を、マケドニアの諸教会のクリスチャンたちは持っていたというのです。しかも、その喜びは、あふれ出ていました。彼らよりも貧しさに喘ぐ人たちに、そんな環境にありながら、「施し」をしていたからです。そう言った生き方が、2000年も前に行われていたのです。

 そういう生き方こそは、喜び、幸福を観たらせたのです。それに比べて、私たちの国では、不安や、言い知れない恐れが蔓延しているのでしょうか。 

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 今年の国連の「幸福度調査」によりますと、日本は、世界で58位、去年の54位から、さらに後退しています。156の国と地域で各3000人を対象に、幸福度調査が行われています。「1人当たりの国内総生産(GDP)」、「健康寿命」、「社会的支援の充実」、「自由度」、「腐敗度」、「寛容さ」の6項目から分析されている調査なのです。

 その順位を見てみますと、トップはフィンランドで、デンマーク、ノルウェー、アイスランドと北欧諸国が続いています。日本は過去最低の58位で、[健康寿命]は2位、[GDP]は24位と上位だったものの、[自由度]は64位、[寛容さ]は92位でした。それに比べて、貧しくても、「施す富」にあふれていたマケドニヤの諸教会のあり方には驚かされます。

 心の貧しさこそが、幸福度の低さなのでしょうか。一億総貧乏だった80年前には、貧しさでも考えるのではなく、まず励んで生きていた父や母の時代の生き方に、やり直そうとした強烈な意志がありました。破れたズボンに針を通して繕っていた母を、懐かしく思い出します。貧しさに負けなかった時代の一つの生き方です。もしかすると、感謝の足りなさが、幸福度を低くしているのかも知れません。

(ウイキペディアの「田植え」、「棚田」、「国連本部」です)

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申す、申す、注意を!

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  日本の地震学会が、火山大国で、断層に囲まれた日本列島には、大きな地震が起こる可能性の高さを指摘してから、随分と時間が経ちます。『いつでも起こりうる!』ほどなのだそうです。

 1923年9月1日に起こった「関東大震災」を、その時、13歳だった私の父は、神奈川県の横須賀に住んでいて、その大きな揺れを経験し、被害状況も目撃しています。また6歳だった母も、地震の起きた南関東から遠く離れた、山陰の出雲に住んでいて、『その揺れを覚えている!』と言っていました。

 子どもの頃、地震が起こると、父は大声で、『玄関と戸を開けろ!』と叫んでいたのを覚えています。子どもの頃の想像を絶した恐怖体験が、そうさせたのでしょうか、私は、急いてガラス戸を開けたのです。ですから今でも、地震が起きると、玄関に飛んでいき、鉄製の扉を開けるようにしています。

 その関東大震災が起きた直後に、「デマ(流言蜚語/るげんひご)」が拡散したと伝えられています。『朝鮮人や中国人が井戸に毒を投げ込んだ!』と、全く根拠のない噂を立てて、地震ばかりではなく、大騒動が起きたのです。その騒動で、虐殺が起こって、多くの犠牲者を生んだのです。

 根拠のない情報が、人を狂気に連れていくことの怖さが、大問題とされたのです。社会がパニックに陥った時に、人が群集心理に動かされ、小さなデマが、憎悪を産んでしまうということがあったとしたら、今でも、そう言ったことが起こりうるのです。

『実に、あなたがたの手は血で汚れ、指は咎で汚れ、あなたがたのくちびるは偽りを語り、舌は不正をつぶやく。 正しい訴えをする者はなく、真実をもって弁護する者もなく、むなしいことにたより、うそを言い、害毒をはらみ、悪意を産む。(新改訳聖書 イザヤ59章3-4節)』

 情報の溢れかえる現代、デマ情報が溢れています。人の耳は、容易に、その偽情報を聞いて、信じ込んでしまうのです。不安が大きくなればなるほど、デマを拡散する人が増え、騒乱を起こすために、故意にそのデマを拡散させる者たちが起きてきます。

 作為的にデマを拡散することは、人類史上、よく起こってきています。ユダヤ人への憎しみが、誹謗になり、あのホロコーストをもたらせ、夥しい数のユダヤ人が、あのナチスドイツ、ヒトラーによって虐殺されています。ユダヤ人への憎悪を増し加えて、ドイツ国民の支持を得たのです。

 第一次大戦でのドイツに敗北、莫大な金額の賠償金の負担、ドイツ人社会を圧迫した背景で、その元凶こそがユダヤ人だとし、彼らへの憎悪が増幅されて行き、それが大虐殺に至ったのです。歴史を見ますと、人の心は、容易にデマに冒されるの危険性に満ちていると言うことです。

 何気ない小さな嘘が、瞬く間に拡散し、拡大し、火のように燃え始め、燃え広がって大火事になるように、噂は、人の間、群衆の間を駆け巡って行きます。

 現代は、偽情報が、簡単に拡散していく危険性を帯びています。冷静さの中にいる間はいいのですが、パニックになってしまう時には、常軌を逸してしまって、嘘を簡単に信じてしまう心理状況に、簡単に陥ってしまいます。人の悪意や憎悪は、ものすごい勢いで広がり、影響し、汚染してしまいます。

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 こんなに小さなスマホは、情報発信元に容易に繋がり、膨大な情報が流れ出てきます。今や、このツールが、デマの道具に、手段に、回路になります。人を嫌わせたり、憎ませたり、死なせたり、殺させたりする道具になる怖さを感じて、心が震えるほどです。心って、それほど欺瞞に満ちていて、嘘に支配されやすいのに、気付き、護る必要があります。

 悲しかったのは、華南の街に住んでいた時に、郊外に大きなバスターミナルがあって、その地域で、あの日華事変の折の悲劇を聞いたことです。侵攻してきた日本軍が、井戸に毒を投げ込んで、多くの犠牲者が出たという話でした。民間人に対する罪は大きいのです。どう弁明もできずに、私ができたのは、『对不起duibuqi!』とのお詫びだけでした。その一件はデマではなく、真実だったのです。そんな過去のある中での13年間でした。

 もう一言申し上げたいのです。

『そうでないと、あなたがたの心は弱まり、この国に聞こえるうわさを恐れよう。うわさは今年も来、その後の年にも、うわさは来る。この国には暴虐があり、支配者はほかの支配者を攻める。(エレミヤ51章46節)』

 エレミヤは、預言者として、将来に関して多くのことを書き記しました。その一つは、「うわさ」に関してです。まるで戦争が起きるように、噂が溢れる時代の到来の預言なのです。『あの国で、あの人が、こんなことを言っている!』と言う、「噂」が増え広がる時代が到来することの預言でしょうか。人心を不安にさせる噂に弄(もてあそ)ばれてしまうのです。注意、注意!

(ウイキペディアによるミケランジェロの描いた「エレミヤ」、「初代iPhone」です)

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滅ぼされた「死」、だから恐れるな!

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 人間の究極的な敵とは何でしょうか。どんなに素晴らしいダムを建設し、宇宙の果てを見極める望遠鏡を発明し、火星に足跡を記し、ガンを制圧するような医学の驚異的な進歩があったとしたとしても、私たち「人」には、「死」の問題は、厳然として残ります。

 私は、若い頃に、師弟の間で交わされた会話を、亀井勝一郎の随筆本で読んだことがありました。師は倉田百三、広島県の庄原市に生まれ、浄土真宗の宗教的な環境の中で育ったのです。後に、一燈園(争いのない平和を求めて奉仕や農事や教育を行う団体)の生活を体験したり、親鸞の教えをまとめた「嘆異抄」を熟読します。

 一高に進学し、西田幾太郎の「善の研究」に惹かれています。また日本アライアンス教団の教会にも出入りし、聖書を読み、讃美歌を歌い、ある時は、教会の講壇に立って、説教までしています。このアライアンスの群れは、A.B.シンプソンの教えた「四重の福音(イエス・キリストが救い主、聖別主、神癒主、再臨の王)」を掲げていて、その影響が、百三には強かったのです。

 27歳の百三は、6幕の戯曲、「出家と弟子」を書き上げています。それには、親鸞の教えとキリストの教えの影響を強く受けたもので、大正期には、16万部もの部数を売り上げたベストセラーであったそうです。親鸞の教えとともに、聖書の記事に強く影響されてもいたのです。

 晩年に至って、百三は、次の様なことを書き残しています。「二十三歳で一高を退き、病いを養いつつ、海から、山へ、郷里へと転地したり入院したりしつつ、私は殉情と思索との月日を送った。そして二十七歳のときあの作を書いた私の青春の悩みと憧憬と宗教的情操とがいっぱいにあの中に盛られている。うるおいと感傷との豊かな点では私はまれな作品だろうと思う。あれをセンチメンタルだと評する人もあるが、あの中には「運命に毀たれぬ確かなもの」を追求しようとする強い意志が貫いているのだ。(1936年12月7日付の「劇場」所収)」

 そんな百三が、死期の迫ったころに、弟子であった亀井勝一郎に、一つの問い掛けをします。『亀井、亀井、極楽はあるのだろうか?』とです。その時、百三は、肺結核や肋骨カリエスで病床にあって、死期が迫っていました。病床を見舞いに来ていた亀井に、そう語り掛けたのです。

 百三にとっても、この「死」の問題は、重大であったのでしょう。親鸞に傾倒し、キリストの教えに共鳴しながら、模索の生涯、51年を送ります。どうも、迫り来る死についての、言い知れない不安が溢れていたのでしょう。その「死」について、はっきりとした答えを、百三は持っていなかったのです。

 少なくとも聖書は、この問題を避けていません。知りたいと願う私たちに、答えを提供しているのが、永遠のベストセラーと言われる「聖書」なのです。何と言ってるのでしょうか。新約聖書の多くを記したパウロは、死の問題を明確に、次のように述べています。

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『私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらです。 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです。(新改訳聖書 ローマ5章6-10節)』

 あの十字架の上でなされた、「キリストの死」によって、罪に落ちた人類への「神の怒り」から救われ、「和解」されるのだと言います。それは、旧約時代に預言者イザヤが語った、次の聖書箇所の成就でもあります。

『この山の上で、万民の上をおおっている顔おおいと、万国の上にかぶさっているおおいを取り除き、 永久に死を滅ぼされる。神である主はすべての顔から涙をぬぐい、ご自分の民へのそしりを全地の上から除かれる。主が語られたのだ。 その日、人は言う。「見よ。この方こそ、私たちが救いを待ち望んだ私たちの神。この方こそ、私たちが待ち望んだ主。この御救いを楽しみ喜ぼう。」(イザヤ25章7-9節)』

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 「永久に死を滅ぼされる方」がいると言うのです。生きとし生きるものに命を付与された神が、罪を犯して、死ぬものとなってしまった私たち人に、「救いの道」を切り開いてくださったのです。ただ一人、人は空(むな)しく、寂しく、定められた70〜80年の生涯をたとえ終えたとしても、永遠の世界が残されているのです。 

 では、この「死」に対して、仏教ではどう言っているのでしょうか。浄土真宗を始めた親鸞は、次のように言いました。生と死は、紙の裏表のようなもので、「生死(しょうじ)の問題」、「生死の壁」と言っています。「後生(ごしょう)の一大事(いちだいじ)」のことです。まるで、人の一生は、さまざまな感情が表され、怒ったり、腹立しかったり、悲しんだり、そして喜んだりします。親鸞は、「生死出(しょうじい)づべき道」と言って、生死の問題を説きました。

 ただ、死についての解決の道は語っていません。死が滅ぼされることにも触れませんでした。ただに「極楽浄土」が西方にあるとの教えは語っています。倉田百三は、「魂の遍歴」を述べますし、浄土真宗の盛んな地で生きながら、その教えに帰依したのですが、それでも聖書を読んで、聖書の話を聞いて、聖書のが説く「隣人愛」に強く共鳴しました。そして讃美歌を歌い、教会では説教もしていた人だったのだそうです。

 でも、自分の死期が迫ったときに、「極楽浄土」があると言う確信が、百三の内で揺らいだのです。

15:54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。死は勝利に飲まれた。(1コリント15章54節)』 51 聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみな、眠ることになるのではなく変えられるのです。 52 終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。パウロは、次のように語ります。 53 朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。 54 しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた」としるされている、みことばが実現します。 55 「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」 56 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。57 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。(1コリント15章)』とです。

さらに、

『それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現れによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。(2テモテ1章10節)』

 イエスさまが、「死を滅ぼした!」と言います。そのキリストは、死と墓と黄泉とを打ち破って、蘇られたのです。そして、今も生きておられ、私たちにために執り成しの祈りをしていてくださり、やがて、私たちを迎えに来てくださると約束されたのです。

(ウイキペディアによる「出家と弟子」の初版本、デゥラーの描いた「パウロ」、「死海写本」です)
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誤解

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 「人間万事塞翁が馬」、飼っていた馬が死んでしまって、その代わりに駿馬を、老人が手に入れるのです。ところが、息子がこの馬に乗っていて、落馬して足を悪くしてしまう不幸に見舞われます。ところが戦争が起きてた時に、足が不自由になってしまったが故に、兵役につかずにすんだのです。この中国に伝わる諺が誕生した由来です。

 悲嘆に暮れるような不運が、いつかは幸運に変わるものなのでしょう。「カス」で素行の悪い息子だって、鷹揚な親の養育の中で、ありのままで、精一杯育て上げたら、立派な大人にもなれる、「子はカスがいい」と育てた母親は、その子から、やがて慰められるのです。

 家内がよく言っていたのですが、『どんな愚かで、悪い親でも、その親に育てられる方が、立派な赤の他人に育ててられるよりもよいのです!』とです。私は、子育ての最中に、『親は親なるが故に親として遇する!』という格言を知って、親は神さまが、その子に与えたのであるから、どんな愚かで、無教養の親でも、親であるから、親として受け入れ、感謝し、尊敬するようにと教えられて、親の欠点だけ見て非難するのではなく、親であるが故に、親として受け入れ、敬意を表すべきだと理解したのです。親の恩は、忘れてはならないのです。

 良い指導者に恵まれた人が、優秀な人材になって、自分の努力ではなく、親や指導者の忍耐で、有為の人間になり、本人も、お母さんや教師のお陰だと感謝したことでしょうか。と言うのは、いつだったか、ある家庭雑誌を読んでいました時に、ひとりのお母さんの勘違い、誤解だったのを、横道に逸れた息子の可能性を信じ、立派に立ち直らせたと言う話を読んだことがありました。

 このお母さんは、『子はカスがいい!』と聞いて、そう信じ切って、どうにも手のつけられない〈カス〉のような素行不良の子を、ありのままで受け入れて、立派に育て上げたのです。学業も素行もよくないわが子を諦めないで、捨てもしないで、育てたお母さんの〈勘違い〉を、実に微笑ましく読んだことでした。

 生意気で、不純物だらけの〈滓(かす)〉のような私を、父も母も諦めないで育て上げてくれたことを思い返して、子どもの頃を振り返ると、親の温情への感謝が想い出されて、感謝が涙と一緒に、胸の奥からあふれてきそうです。何度も学校に呼び出されて、いろいろ注意を受けても、母は悲観しなかったのでしょう。退学処分を受けず、いつの間にか、上の学校にも進学し、学校の教師にまでになり、四人の子の父親になった私は、不思議でなりません。

 「子は鎹(かすがい)」と言う言葉の誤解だったわけです。夫婦を繋ぎ止める子どもの役割について、そう言う様です。木造建築で、持ちられる「鎹」の様に、お父さんとお母さんの危機的な状態を、繋ぎ止める「鎹」の役割を、子が担っているのです。

(”フォトライブラリー“の「鎹」です)

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Giant

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 アメリカ映画が、その意味深い原作、規模、華麗さ、演出の巧みさ、個性的な俳優たちでした。ただの娯楽でも、アメリカ文化の宣伝だけでもlなく、世に問題を問い、人のあるべき生き方、明るい将来などを提供してくれたことが、ここ日本でも、高い評価を下されたのです。

 「エンターテイメント(entertainment)」や「もてなし」だけでなく、「思想」や「夢」や、「将来」が、スクリーンに溢れていたように思えたのです。とくに、立川の映画館で観た、「ジャイアンツ(Giant)」には圧倒されたのです。アメリカで、ジョージ・スティーヴンスが監督をし、莫大な額の制作費で製作され、 1956年の10月に公開されています。日本では、翌1957の暮れに公開されていたのです。

 母の所属した教会を始められた方が、テキサスの出身だったと聞いていましたので、当時、アラスカは、まだ準州でしたから、最大の州は、このテキサスだったのです。そのテキサスを舞台にした、壮大な30年間の牧場主のベネディクトとジェットとの生き様が描かれていました。

 東部から、花嫁を連れて、個人所有の列車で、私有の大牧場を横切る大パノラマでした。大邸宅の庭ででしょうか、子牛が一頭、バーベキュウされている場面は、もう羨ましくて、ヨダレを出しながら食い入るように観て、アメリカの物量の凄に圧倒されたのを昨日のように覚えています。まだ、和牛ブランドなどが出現する前のことでした。

 1952年に、エドナ・ファーバー(Edna Ferber)が、執筆した小説の映画化で、小説の題名も、「ジャイアント(Giant)」でした。使用人ジェットの所有地から、オイルが噴き出す場面にも圧倒されました。彼は、オイル王の大富豪になるのですが、多くの招待客のあった大パーティーで、白髪になっていたジェットが、酔いながら話をする場面で、そのテーブルに倒れ込む場面がありました。若干24才のJimmyの演技の素晴らしさも圧巻でした。

 こんな国に宣戦布告した日本が、勝てなかった理由が、この映画を見た中学生の私を納得させられたのです。あの戦争に負けた現実を、まざまざと思わさせられた映画でした。それ以上に、人種的な差別や偏見のあった現実も、この映画は取り上げていたのです。私たちの国でも、アイヌのみなさんや、逃散したみなさんへの偏見があったことも忘れてはなりません。

 牧場主夫妻に、子どもが与えられ、家族旅行をしているときに、レストランに入ったのです。賑わっている店に、メキシコ系の老夫婦と娘とが入って来たのです。店主は、その様子を見ている間に、三人は、席に着きます。するとエプロン姿の屈強な店主は、その席に近づいて、出ていくようの鋭く語り、テーブルの上に置いた帽子を、老人の頭に被らせ、むんずと肘を掴んで立ち上がらせます。老人は、お金を見せるのですが、有無を言わせません。

 その様子を見ていたのが、あの牧場主、初老になっていたベネディクト夫妻と娘と息子の嫁と孫でした。席から立ち上がったジョーダンは、『おい、あんた!』と、オーナーシェフに声を掛けながら近づくのです。話している間も、コック姿の店主は、席から立ち上がらせて出そうとします。それを許せなかったジョーダンは、大男に、一発のパンチをかますのです。

 この映画の主題曲が流れる中、二人の大男は殴り合いを繰り広げます。形勢は、ジョーダン不利で、シェフの大男がついに殴り倒してしまったのです。その場面を観ていて、メキシコ系やアフリカ系のアメリカ人への長い人種差別や偏見の様子を目の当たりに見せられたのです。まだ公民権運動など起こる以前のアメリカの南部で、しかも奴隷制の行なわれてきたテキサスを舞台にした、ジョーダンのメキシコ人家族を庇おうとした勇気に喝采をしたのです。

 実はジョーダンの息子の夫人は、メキシコ系の方で、孫も、その血を引いていたのです。家族への思いも重なって、ジェッとにも殴られ、また大男にも殴られているジョーダンの気持ちが素敵でした。喧嘩だけは強かった自分が、変わって、この大男を殴り倒したい気持ちが湧き上がってしまっていたのです。

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 また成り上がりの石油採掘者のジェットと大富豪のジョーダンとの若い頃からの30年にも及ぶ確執も、この映画の観どころだったでしょうか。大きなパーティー会場に舞台裏で、ジョーダンとジェットの喧嘩の場面もありました。物凄い量のワインを収めたワイセラーが倒れ込んで、割れていく様子には、度肝を抜かれたのです。

 まだ泥沼のように長引いたベトナム戦争の始まる前の映画でした。自分の育った街は、大きな米軍の空軍基地のあった街の隣にあったのです。米軍機の爆音が頭上に響き、時には河川敷にジェット機が墜落し、破片拾いに出掛けていましたし、基地の司令官の住宅も、自分の住んでいた家のすぐそばにありまました。最初に覚えた英語が、〈give me chocolate〉だった世代の自分でした。

 大男のオーナーシェフが、ジョーダンを殴り倒したときに、壁にかかっていた額(we reserve the right to refuse service tore  anyone が記されてありました。その訳は、『私たちは、すべての人のサービスを拒否する権利を保持します。』でした)を取って、横たわるジョーダンの胸の上に置きました。『俺にだって、客を断る権利があるんだぞ!』と言っていたわけです。

 アメリカ人が持つ権利と、アメリカ人の良識が衝突しているのでしょう。アメリカ映画に、娯楽以上のものがあった時代の輝きが、この映画にはあったように思えるたのです。中学生では分からないことが、今になって分かったことでもあります。65年ぶりの映画鑑賞でした。

(ウイキペディアの「Blue jeans」、「油田」です)

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起承転結

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 中学校の国語の授業で、「起承転結」を学んだのを思い出し、中国の漢詩が、そう言った構成で詠まれていると言うのです。それで、作文をする時にも、説教をする時にも、相手に理解してもらうためには、まず主題を決めてから、話の構成を練り上げていくわけです。

【起】 何を伝えたいか、先ず「主題」を決めます。その「目的」は秘しながら、最後の結論で言い表しますが、方向付けをします。

【承】 説明とか解説とか展開でしょうか。中心部分です。

【転】 話の筋道を、いったん逸らして、気分転換に、中心から離れて、結果に至るまでの横道に入ることでしょうか。〈変化〉や〈意外さ〉を与えることで、結論への興味を引き出すのです。

【結】 少し空手を修練したことがありましたが、最後に結手をしたのです。手を懐に納める仕草です。剣術家は、刀を鞘に収めます。それは武術の結論と言えるでしょうか。

 やはり話の構成が上手なのは、噺家、落語家ですが、興味と関心を引き寄せる手腕は、さすがの話術です。驚くほどの稽古をしながら、話をするのだそうです。無駄に思える様なことが、生かされているのでしょう。ぶっつけ本番で話すなんてことはないのです。それらしく見える話の展開でも、周到な準備と稽古、愚直の努力があるのだそうです。

 その落語家の中で、「名人」と言われた一人が、六代目の三遊亭円生でした。大阪で生まれたのですが、江戸弁で、『そうでげす!』と、高座で話しているのを聞きましたから、それが今でも耳に残っています。この円生は、6才の時に、20ほどの演目を覚えていて、高座に上るほどの天才だったそうです。噺を終える時に、「落ち」があります。落語では結論なのですが、聞き手を巧みに納得させて、噺を終えるのです。

 通常、「真打(しんうち)」は、30~40年の間に努力を重ねて、100席ほどの演目を身につけるのが普通なのだそうです。ところが、この円生は、300席を、いつでも、どこでも自在に演じることができたそうで、それゆえ当代きっての名噺家だと評されました。『え~一席、ばかばかしいお話を・・・』と言って話し出す落語ですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれたことになります。だから多くの後進からの敬意得られた方だったのです。

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 聖書は、時代も、場所も、書き手もバラバラなのですが、統一されている「一巻の書」だと言われています。そう無理に信じているのではないのです。勝手に、書き手が書いていたのではなく、聖霊なる神さまの導きがあって記されていると言うのは、書き手は多くいても、思想的には一貫しているのです。著者は神さまだからです。

 批評学者がいて、いろいろと意見を言ってきましたが、聖書を切り崩すことはできません。聖書の記事の中から、奇跡や非科学的なこと、人間の常識外のことを取り除く努力をする、聖書批評学と言う分野があるのです。はなっから聖書を信じられない人が、薄っぺらな本にしてしまおうと目論んだのです。

 その反面、幼子のように、聖書を、創造の神を、聖霊に導きや助けを信じた人たちがいて、聖書は守られてきたのです。神を否定する唯物論の教育を受けてきた若者が、その教育の影響力がありながらも、クリスチャンとされて、祖父母やご両親の信仰を継承している方が、私が教えた学生さんたちの中にいました。五代目、六代目の信仰者だっておいででした。

 私の母の故郷の出雲は、浄土宗と神話の地でした。そんな精神風土、宗教的風土の中で育ちながらも、14歳で、イエスさまを、「キリスト(救い主)」と信じたクリスチャンでした。伝道の難しい地で、「福音(良き知らせ)」を宣べ伝える、カナダ人宣教師の暖かな家庭への憧れもあって、その家族が愛し合っている様子に、神を見たのです。その信仰は、子や孫やひ孫に、脈々と継承されているのです。

 人生にも、この「起床転結」がありそうです。さながら自分は、今や「結」のステージにいるのかも知れません。もう若かった頃の熱情も力もなくなっていますが、心の中では、自分を造られた神、その神に赦されたこと、その神の愛への感謝が湧き上がっています。

『屠られた子羊〔こそ〕は、力と富と知恵と勢いと、誉と栄光を受けるに相応しい〔お〕方です!』と、聖書のヨハネの黙示録にあるような救い主への賛美が、今も湧き上がるのです。私の人生の「結」は、「永遠のいのち」を得て、この肉体は滅んでも、「栄光の望み」に生き続けることなのです。神の贈り物としての「永生」であります。愛する救い主とお会いすることです。

w(ウイキペディアによる「ギリシャ語聖書」の写本、Christian clip artsnのイラストです)

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舟と船に乗ってみたい気分がして

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 乗ってみたい船があります。一つは、毎日見下ろす巴波川を、江戸時代から明治にかけて、舟運で、舟荷を運んでいた都賀舟(部賀舟)です。人を乗せるよりも、日光東照宮の設営のために、必要資材を運ぶのが目的で用いられた浅い舟床の小舟です。今は、栃木の街中で、遊覧のために人を乗せるために使われているものです。

 五月五日の「子どもの日」に、ブラリとでかけてみたのですが、「蔵の街」の観光案内に誘われたのでしょうか、江戸の佇まいを感じるためにおいでの親子連れでいっぱいでした。東京から東武日光線に乗っておいでなのでしょうか、最近は目立って観光客が増えているのです。船乗り場に、列をなして、乗船待ちをしている人が、旧塚田商店の黒塀の前に並んでおいででした。

 舟賃「大人千円」、「子ども七百円」、「幼児無料」、「犬猫百円」だそうで、初めて栃木を訪ねた時には、「七百円」でした。ラジオ体操仲間のお一人が、開業時に舟頭さんをされていたそうで、懐かしそうにお話ししてくれました。時々、テレビや映画の撮影班が、来られていて、撮影の様子を眺めることができます。

 もし、江戸は深川まで、昔の様に、舟で行けるなら、乗ってみたい願いがいまだに消えません。舟運の行われていた頃は、都賀舟を、栃木の河岸で荷を載せて、渡瀬川の手前で、高瀬舟に、舟荷を載せ替えて、利根川、江戸川を登り下りしていたそうです。下り舟は二日間、上り舟は十日間ほどかけていたそうです。上り舟は、綱手道を舟を人力で曳いていたのです。

 今住んでいる住宅の、前の大家さんは、代々、舟運をされてきたそうで、その頃に着用した印半纏、帳簿などが残っていて、以前見せていただいたことがありました。たくさんの水夫(かこ)をかかえていたことでしょう。

 その都賀舟に乗った時に、水夫さんが歌ってくれた歌があります。それが「栃木河岸船頭歌」です。

1)日光街道 たかみで通る

  小山泊りは まだ陽が高い

  間々田ながして 古河泊り

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

2)栃木河岸より 都賀舟で

  流れにまかせ 部屋まで下りゃ 

  船頭泣かせの かさ掛け場

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

3)向こうに見えるは 春日の森よ

  宮で咲く花 栃木で散れよ 

  散れて流れる 巴波川

  (ハーアー ヨイサーコラショ)

 自動車や鉄道が出現する前は、日本全国、河川を利用した「舟運」が、おおく盛んに行われていて、特産品を、江戸や大阪に運んでいたのでしょう。ただ、江戸期の鎖国政策下、大型船の製造、使用、航行を禁止しましたので、国内輸送の主力は、舟でした。北前船の様な大型戦は例外で、国外渡航の可能な船は禁止されていました。

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 そんなことを思い出しながら、大阪と上海の間を、船を利用して、移動したことが何度もありました。丸二日の行程の機関船で、ゆったりとした船旅を楽しんだのです。華南の街から、夜行バスや、新幹線が営業開始してからは高速電車で、地下鉄ができてからは上海の紅橋駅から波止場まで行ったり、タクシーも利用して行きました。その波止場で乗船手続きをしたのです。

 帰国をする留学生や日本語教師、日本で仕事をするために出かけていく若者たち、ビジネスマンは、飛行機を利用するので、ほとんどいなかったでしょうか。良い交わりがあったり、本を読んだり、機関室のエンジン音や波の音を聞きながら、船と並走する飛魚を眺めたり、そう、お風呂まであったでしょうか。

 かつて遣唐使船や遣隋船などの航路は、七月から八月に間に大陸にむかって吹く季節風を帆に受けて大陸を目指し、秋から冬にかけて大陸からの季節風を受けて帰国したのです。一度上海からの蘇州号が、地風に余波を受けて、縦揺れをして、船員さんも酔うほどで、ほぼ全員が船酔いの中を帰国したのです。

 あんな波に遣唐使船はもまれたこともあったようです。昔も今も同じで、変わらなかったのでしょうか。海水や白い波頭しか見えない世界を行き来していたのです。季節風を帆に受けて航行する帆前船がほとんどだったのでしょう。人力で櫂(かい/オール)を漕ぐ場合は、接岸する時に漕いだ様です。風任せの船旅は、大変な日数をかけてしたわけです。

 今は、運行停止中ですが、もう一度、東シナ海を船に乗って出掛けてみたいのです。船の風呂から、波頭が見えて、なんとも言えない気分を味わえるのです。あれだけの経験で、十分ですが、人とに出会いがあって、楽しかった日々を思い出します。航空機では味わえない人との交わりがあるのです。また、ペットボトルや発泡スチロールを板につけて、簡易舟を作ったら面白そうですね。

(ウイキペディアの都賀舟、蘇州号です)

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かなわないな!

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『しかし、あなたは私をの胎から取り出した方。の乳房に拠り頼ませた方。 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。の胎内にいた時から、あなたは私の神です。(詩篇22篇9-10節)』

 何時も、『かなわないな!』と思わせられるのは、「母の日」のお母さんたちです。次の詩は、サトウ・ハチローの「おかあさん」です。

母さんはひなたの匂い、けむりの匂い、

白菊の花の色は母さんの足袋の色、

坊やのための子守歌、

痛くしたところをさすって、ちちんぷいぷいと

唱えた母さんの声

母という字は、恰好のとれない難しい字

母さんのひざまくらがなつかしい、

目が覚めてから眠るまで、母さん、母さんと

呼び続けたと詩編が続く。

そして最後のページ、気取って書いてきた詩が

全部吹っ飛ぶ程、感情を露わに

むせび泣くように綴っている。

 昨日は、4人の子どもたちから、gift が母親のもとに届きました。毎年のことです。『子はカスがいい!』のお母さんも、ハチローのお母さんも、マルコのお母さんも、『母ちゃんに会いてえよー!』のお母さんも、ダビデが詩に詠んだお母さんも、そして育ててくれた自分の母も、みんな最高なのです。

 3日前に、私の弟からも、家内宛に胡蝶蘭が届いたのです。もう二十年も前に自分の奥さんを、病で亡くしている弟からです。もうこの何年もの間、家内を『お母さんは・・・』と、子どもたちに、近況や様子を、メールやチャットで伝えるようになってしまいました。

 「小さくなっていったお母さん」だったのを思い出しています。また会えるんです。間も無くかも知れません。『なんて言おう?』と、つい思いあぐねてしまいます。やっぱり、『ありがとう!』が一番、似合いそうです。

(“いらすとや” のカーネーションです)

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養蚕の繭、そして絹

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 栃木県下に、明治になってから、小さな村落が合併して、「桑村」とか、「絹村」、そして、この両村が合併して「桑絹村(町)」と呼ばれる村落があった様です。今では、私たちの街に隣接している小山市に含まれていて、この市の南部にあるのです。

 信州や北関東は、かつての地域区分帯の中には、養蚕、絹織りが盛んに行われてきていて、その絹糸を得るために、絹糸を吐き出す蚕(かいこ)が飼われていました。群馬県の水上に、三国街道の宿場で、須川宿があって、そこに栃木市と提携の宿泊施設に泊まったことがありました。村の農家は、二階が養蚕部屋の造りになっていたのが診られたのです。養蚕は昔から盛んだったからです。

 ここ、下野国も同じだったのでしょう。元々、養蚕は、大陸からもたらされたもので、日本でも盛んに行われてきていました。穀物や野菜の栽培以外に、養蚕が行われていたようです。昔、唐の時代には、国家を機能させるために、そのための経費を得るために、「税」の制度を定め、人々に納税の義務を負わせました。

 その納税義務には、「租庸調」があったのです。「租」は米、「庸」は労役、「調」は各地の特産品の献上でした。その税の取り立てを定めたのです。この唐の税制に倣って、日本でも、国家統一で、朝廷が誕生し、その行政のために、この税収が定められて、法律化されていました。

 その納税義務は、けっこう過酷なもので、国と民の間での揉め事が多かった様です。その「調」の中に、「絹糸」があり、その高級な糸は重宝されていたのです。そのため日本各地で、養蚕が、さかんに行われていきました。米づくりの難しい地方では、さまざまな特産品の生産が、工夫されて行われていたのです。そう小学校の社会科で学んだのです。
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 庶民は木綿の生地で服を作って着ていましたが、上級武士や宮人たちは、絹糸で織った服を着ていたので、高級生地は、現金収入になっていたのです。その名残で、通った東京郊外の多摩地区の小学校の近くに、蚕糸試験場があって、間引かれた蚕が捨てられていて、拾って帰っては、飼いましたら、繭になった覚えがあります。

 そのために桑の葉が必要で、桑畑も、けっこう広く栽培されていたのです。あの桑の木は、和製ナイフの「肥後守」で切って、皮を剥くと、チャンバラの剣になって、よく桑畑に入り、木刀を作ったりしました。それを、お百姓さんに見つかって、叱られたのです。もう宅地化が進んで、桑畑は消滅していることでしょう。


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 長く過ごした街から、車で40分ほどの農家で、このお蚕を買っていました。一斉に、桑の葉を食べる音が実に賑やかでした。あの音は、繭作りのための音であり、養蚕農家では騒音ではなく、生活を潤す音だったのです。その蚕を両手で取ると、手のひらのムズムズ感が、気持ちよかったのです。

 養蚕農家は、今どうされているのでしょうか。子どもの頃、ドドメを摘んだ桑畑も、宅地化してしまい、時の流れを感じてしまいます。4階のベランダから、その小山の街がうかがえるのですが、茨城県の結城市に隣接し、「結城紬(ゆうきつむぎ)」を生み出した地です。そんな産業史を考えながら、人の営みの変遷を、しばし思っておりました。

(ウイキペディアの「桑の実(ドドメ)」、「繭」、「機(はた)織り機」です)

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