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驚くほどの読書量を誇った人物を挙げますと、それが、この人の品性の向上、民主的な統率力、人としての価値などをもたらすことができそうです。明治期の物書きをした人たちの語彙の量の多さ、書かれた文章の輝きには、大変驚かされてしまうものがあります。
また言語学者など江戸期に学んだ人と、明治期に学んだ人、そして大正期に学んだ人、さらに昭和期に学んだ人は、それを比較している方がいました。大学者だと言われるご自分を教えてくれた方たちと比肩できないほど、語彙力も表現力も自分は劣る、そう言ったことを聞いたことがあります。
ところが、圧倒的な読書をした人でも、それが全く益にならなかったし、驚くべき戦争犯罪を生み出す結果をもたらした者もいるようです。その一人は、「我が闘争」という本を、1924に第一巻を、1925年に第二巻を出版した、アドルフ・ヒトラーでした。いわゆる「ナチスのバイブル」と言われ、人を生かすのではなく、人を恐怖と破壊、抹殺と崩壊を生み出した本を、膨大な読書の末に、書き上げたのです。
その本は、最初は全く売れませんでした。ところが、ドイツでナチスが第一党になり、ヒトラー自分自身が、総統の地位につくと、1000万部も売れたのだそうです。これほど害悪をもたらせた本は、他にないと言われるものでした。日本では、昭和15年(1940年)日本語訳が出版されていますが、センセーショナルな結果は起こりませんでした。
ちなみに、害毒をもたらせたと言える書物が、少なくとも、もう一冊あると言えます。それはキリスト教界に、多くの混乱をもたらしたからです。1848年に、聖書に記述に反する「聖書批評学」の立場で書かれた一冊でした。
ドイツ人で、ダフィット・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss)と言う、青年がいました。27歳の時に、「イエス伝」をあらわして、自由主義神学、新神学という一派に強烈な影響を与えたのです。私たちの国でも、若い神学者や牧会者が、これを読んで、不信仰に捉えられられてしまいます。聖書に記されるイエスさまの奇跡を取り除いて、ただ、「人間イエス」だけを記したのです。センセイショナルな本で、多くの若い牧師たちが、その教えに従ったのです。
この新しい宗教運動は、いつの間にか消えてしまいますが、燻り残った火種が、また今の時代になって持ち出され、聖書の神話化が、また動き始めています。知的すぎて、信仰に欠けるのでしょう。
日本でも、明治期に、アメリカやイギリスからの宣教師に、正統な神学や聖書を学んだ、錚々(そうそう)たるの牧師や聖書教師が、この教えの虜になりました。そう言った考えを継承した流れの中で教えられ、次世代の神学者だったのでしょうか、『ユリちゃん、復活なんてないんだよ!』と、家内は、学生の頃に、ある神学校の教授に言われたそうです。
明治期の日本のキリスト教会にも、衝撃的な影響を与えたのです。熊本バンドの出身で同志社に学んだ小崎弘道、海老名弾正などは、この高等批判を掲げた神学者、牧師でした。第二次世界大戦後になると、福音主義に立つ多くの欧米からの宣教師たちが、日本宣教を開始し、日本の隅々に教会が誕生します。六十六巻の旧新約聖書を、誤りなき神のことばと信じて、聖書信仰を掲げた教会が建て上げられます。
ところが近年、若い牧師たちの間に、ある神学校教師の著作を読んで、パウロの説いた福音への疑義を唱える動きが起きって来ているようです。かつて「異端」とされていた、死者の身代わり洗礼、死後の悔い改め、創世記の初めの数章は神話だというような教えを支持し始めているそうです。
私は、救いも裁きも、永遠のいのちも永遠の滅びも、天国も地獄も、また神の子と自称する人の中には、羊も山羊もいたり、あったりするという、イエスさまの警告に注意を払っています。神の愛をはき違えて、聖書に従って信じていないのです。神の義と神の裁きと神の憐れみとは、表裏一体に、矛盾なくあると、私は学び、そう信じています。滅びないために、滅びから救うために、十字架の贖罪があると信じているのです。
自殺した家族や友人を持つ人がいます。罪を悔い改めて、十字架の救いを信じないままで死なれた方々が、死後に信じて救われると言うのです。神の愛と審判という両面を信じきれずに、人間的な同情や優しさで、聖書の中身を、ヒューマニズムにほだされて、ご都合主義の神に変えてしまっている教えに、傾倒しているのです。
『悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(新改訳聖書 イザヤ55章7節)』
神さまは公平なお方で、全ての人に、生きている間に、救いに預かる機会を設けておいでです。ただ、罪を回避して、飛び越えてはいけません。物分かりの良いキリスト教が大流行りです。もう教会の講壇から、罪を語らなくなっています。『罪は、後になってから分かればいいのです!』、『罪、罪なんてばかり教会が言うので、人は教会に来なくなってしまっているのです!』、と言う風に変えています。
癒しと繁栄とeasyな天国行きが語られるのです。人が救いに預かれるのは、上手な人間味にあふれた、神の愛をぼかした牧師さんたちの上手に面白おかしく話す、同情的な話からではないのです。聖霊の働きであって、罪の認罪を呼び起こし、悔い改めに導く、聖書通りの使信を語ることがないのです。
教会のきらびやかな催し物や有名人の証やイヴェントがあるからではありません。聖霊のお働きなくして、人は救われません。どの時代も、神さまは、罪の悔い改めを命じておいでです(使徒17章30節)。そろそろ神に帰る時刻です。さあ神の真理に帰りましょう。神の愛に帰りましょう。
(ウイキペディアによる「ギリシャ語聖書〈12世紀刊〉」です)
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