異変

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 「異変」、この街に越してきて7回目の夏、来年のことを言うと笑われるのだそうですけど、去年の猛暑の中、『来年はさらに暑い夏になるだろう!』と、予言の様に、自分が言ったのを覚えています。まさに的中、去年に勝る猛暑、酷暑の今夏、「異変」が起こっています。

 一つは「少雨」、二つは「朝顔が咲かない」、三つは「蚊が出てこない」なのです。そう感じていたら、台風9号が、進行が遅くて、台風の影響で風があって、朝方が涼しいのです。やっと昨夕から降っては止んでの様に雨が降り、今朝の散歩途中、小糠雨の様に降り出したので、コース変更で帰宅したのです。

 日本海側の新潟では、雨が降らず、作付の米の成育が遅く、実がつかなさそうな予測が出されています。米騒動の後の不作になるのでしょうか。一方は人為的、他方は自然的に、異変です。

『わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は仰せられる──(新改訳聖書マラキ3章11節)』

 聖書では、万物に創造者で保持者でいらっしゃる神さまは、作物を荒らす害虫を叱り、の遺作物の成長を見守り、光と水をああてて、不作にならない様にされるお方だと言っています。でもひよの悪気とのない欲望が、自然界の秩序を弱らせ、機能を傷つけ、不作をもたらしているのです。みんな人為的な結果です。

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 この暑さでは、大好きなトマトも育っていないのだそうで、週一で配達されてくるトマトも、成育不良で、欠品が出そうです。トマトばかりではなく、その他の農作物の収穫も危ぶまれてきそうですね。

 ベランダの八っ本ほどの苗の朝顔に、5月頃から精出して水遣りをしてきたのですが、一輪が、みごとに開いて咲いた後、蕾のままで枯れていくではありませんか。その様子を見るにつけ、寂しさと悲しさと悔しさが湧き上がってくるのです。咲こうとしている健気な様子を見るに忍びないのです。

 もう一つの蚊が、出没しないし、一度だけ、しかもカヤの中で刺されたきりで、あの憎っくき羽音も聞こえてこないし、その影さえ見えないのです。華南の街の大きな超市( chaoshi スーパーマーケット)で、蠅帳型の蚊帳を売っているのを、喜んで買い求めて使って、中華蚊から身をふせいだのですが、その同型の蚊帳が、ネット販売で売っていて、すぐに買い求めたのです。こちらでの使用歴七年です。

 蚊が出てこないのですが、それでも、夏らしさを感じようと、蚊帳を寝台の上で使っているのですが、異変で、用をなさないのです。蚊には好かれる自分で、刺されないと寂しく感じるのも不思議で笑ってしまいます。

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 こんな自然界の異変が、蚊を弱らせているのですが、受粉の働きを託されているミツバチなども、生育しないで死んでしまっているのです。自然界の秩序は、人間の飽くことのない儲け主義が狂わせているのに、やっと気付いたのですが、遅きに失した感がします。神さまが手を引いてしまっているのではないのです。

 男女の性の秩序も、自然発動的なことではなく、「不法」、「罪」が原因であることを、もう認めざるを得ない時になっている様です。これも遅きに失してしまっていますが、神さまは、それでも、「忍耐の神」でいらっしゃって、悔い改め(方向転換)るのを、まだ待っておいでなのです。

 八月になりました。散歩に出る時間が、少しずつ遅くなっているのは、日に出が遅くなてきているからです。そればかりではなく、物価の上昇も、食べていませんが、うなぎ上りの様です。生きづらいのですが、感謝も忘れずに猛暑を乗り切りましょう。今年の柿は赤く、甘いでしょうか。なによりも、この異変を見守られる神さまがおいでです。

【追記】昨真夜中、蚊に刺されてしまいました。油断大敵で、夕方の雨に、何度か網戸を明けて、で降りした時に、侵入された様です。4箇所も刺されて、悪戦苦闘、蚊取り線香を、蚊帳の中に入れて一時間ほど対決したのです。困ったものです。翔平さんも疲労困憊でしょうか、「異変」が身体や精神に出ています。MLBのシーズン中に休みなしに対戦してます。commercialism、営業方針で、人がするPro Sportsに休みがない問題を改善すべき時が来ていないでしょうか!

(ベランダの「朝顔の蕾」、ウイキペディアの「蚊取り線香」です)

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巴波川の流れの向こうで主を待つ

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 一週五日ほど、朝4時起きで支度をして、まだ薄暗い中、家を出て、うずま公園の園内を横切って、巴波川の側道を、その流れの上流に向かって歩き始めて、散歩をしています。陽が昇り始めますと、川面が、その光を受けて金波銀波を見せてくれるのです。川の静かな流れを眺めていて、「方丈記」を思い出してしまいました。

 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。お玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。」

 高校の「古文」の時間に、習い覚えた、冒頭の部分、「行く川のながれ」が、思いの中に蘇ってくるのです。長明は、下加茂神社(通称は下鴨神社です)の禰宜(ねぎ)の職にあった、お父さんの次男でした。この職は、宮司の一階級下の職であったのです。父の死後、その職を継ごうとし、後継争いの末に、その職に就くことができませんでした。

 当時、和歌を学んでいたことで、和歌所寄人に任命されます。しばらくして、下鴨神社の系列の神社の要職に推挙されるのですが、またもや後継争いに負けてしまうのです。神職の道が閉ざされてしまった長明は、出家するのです。東山、大原、伏見の寺などを経て、和歌で生きていく機会が、鎌倉に開くのですが、結局、これにもなれずに終わった様です。

 どうも挫折の連続で、思う様に生きていく道が閉ざされてしまい、伏見の醍醐に庵を設けて、閑居生活をしたのです。ところが、「方丈記」を、そこで書き残したことによって、昭和の高校生の私は、後にS女子大学教授になる先生から、「古文」の時間に、それを学ぶことができたのです。長明は、あの時代、昭和の世まで名を残す人物だったことになります。

 日本の随筆の中でも、有名で、価値あるものの一つに数えられるのが、この「方丈記」です。不遇な人生を生きてきた長命が、四十歳になってから、越し方を思い返して綴ったわけです。宮司にも、禰宜にも任じられることがなかった長命が、京間で四畳半ほどの面積の庵、それを「方丈」と呼んだのですが、そこに起居して、思いを書き残したのです。

 人生の無情を知らされるのは、夢や野心に燃える高校生の私には、ピンとこなかったのを思い出します。もっとバラ色で、冒険心を満足させ、前途洋々たる自分の人生を、形を変えて、流れに身を任す水の様に、移り変り、どうにでも形を変えて流れ下る姿を見せる水や、「うたかた(泡沫)」の様に、水中から上ってきて、パッと破裂してしまう様な水泡とは考えたくなかったのです。

 信長が、「人間五十年」と、敦盛を舞い唄って果てていった様に、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢。」と辞世の句に詠んだ秀吉の様に、「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」と、辞世の句を詠んで、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で、自刃して果てた三島由紀夫も、やはりみなさんは、儚い一生を閉じたのです。
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 二千年ほど前のこと、エルサレムの宮に両親に抱かれて、やって来て、幼子のイエスさまは、誕生後、40日ほど経過した時に、主にささげられるために、両親に連れられて、エルサレムの宮に入って来たのです。その様子を宮で見ていたのがシメオンでした。

 「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。(新改訳聖書 ルカ2章25節)」と聖書が記す人でした。

 シメオンは、「・・主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた(ルカ2章26節)」人物だったたのです。この彼が、エルサレムの宮で、幼な子イエスさまを抱いて、こう言いました。

『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。(ルカ2章29~32節)』

 生涯の最後に、キリストでいらっしゃるイエスさま、マリヤの胎に、聖霊によって孕られ、生まれたばかりの神の子を見たのです。そう聖霊の示しを受けていたシメオンは、召される前のキリストとの出会いを感謝しつつそう言い残したのです。

 救い主なるイエスさまを、幼いままの嬰児を、「キリスト」と看破できたのは驚くべき信仰でした。それよりも、神さまが、その様に導かれたからです。果たして、私たちは、まだ生後40日ほどの赤子を、「キリスト」と認め、礼拝することができるでしょうか。その様にして、シメオンは、自分の一生を終えるのです。

 天下人となった、秀吉でさえ、悶々として、一生を悔いながら、自分の築き上げた天下を、任し切れない子に託して、死んでいったのです。泡沫の様な一生を終えたです。私は、単純な信仰を、母から継承し、牧師さんや宣教師のみなさんに導かれて、「福音」を、「十字架」を、「赦し」を信じて、定められた一生を終われると確信しているのです。ただ、憐れみと恩寵によります。

 巴波川の流れ下る水に流れを目にして、人生の流転は夢幻のことでも、泡沫でもなく、《赦された一生》と、感謝して死んでいきたいのです。いえ、再臨のキリストをお迎えして、携挙されたい願いで、異邦人の私の心は満ちているのです。

(早暁の巴波川の流れ、ウイキペディアの「エルサレム」です)

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カムチャツカ地震に思う

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 昨日の朝方、カムチャツカ半島で、マグニチュード8.8の巨大な地震がありました。ここは、根室半島から、歯舞(はぼまい)島、択捉(エトロフ)島から北の方角に千島列島があって、かつては、大陸に地続きのカムチャツカ半島に至っています。

 千島列島と言えば、ハワイの真珠湾を攻撃した日本連合艦隊の空母が、択捉島の単冠(ヒトカップ)湾に集結して、ここから、ハワイを目指したのです。ずいぶんと広域に、日本軍が動き回っていたわけです。日本人が、戦前には3600人ほど、この島で生活していたのだそうです。

 戦後80年の今年、北方領土を故郷とするみなさんは、その返還を願い続けておいでです。日本の先住民であるアイヌのみなさんの近代以前からの生活圏であり、旧住民の悲願ですが、シベリヤ抑留も含めて、戦後の混乱の時期のソ連の参戦も思い出されてなりません。樺太出身の姉妹が、母教会においでで、新しく改訳された聖書をプレゼントしていただいたのを思い出します。

 ここでも昨日の朝方、茨城県南部を震源とする地震があって、『ドスン!』という響きに驚かされました。繰り返される自然災害ですが、どうも慣れることもなく、恐れを覚えてしまうのです。そう言えば、世界中で、いろいろなことが起こり、この猛暑も自然災害の一つだと言われています。

 地震の後、日本列島を「津波」が襲来し、警報が発令されました。1〜2mの高さの津波が、各地で観測されたようです。内陸部に住む私たちですが、2011年3月11日14時46分に発生した東日本大震災の記憶も新しいのです。津波が北上川を遡上して行く様子が、NHKの取材班が、上空雨から中継された映像には驚かされました。あの破壊して行く様子に慄然と見入ったのが昨日のように、記憶が鮮明です。

 聖書に、エルサレムのオリーブ山で、イエスさまが座っておいでの時に、弟子たちがやって来て質問したのです。「お話しください。いつ、そのようなことが起こるのでしょう。あなたの来られる時や世の終わりには、どんな前兆があるのでしょう。」(新改訳聖書 マタイ24章3節)』とです。それに主イエスさまがお答えになられたのです。

『民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。(同24章7節)』

 「地震」のドスンという響きと、揺れを感じると、このイエスさまと弟子たちの会話がいつも思い出されるのです。地震ばかりではなく、これからは、「飢饉」も起こるという警告も含まれています。それは、気象異常が起こることを与表しているに違いありません。

 一昨年あたりから、特に夏季の気温の異常な高さが記録されていて、今年の夏は、今までの80年間に、感じたことのないほどの暑さに見舞われています。この暑さは、寒さと同じで、飢饉をもたらす一大原因なのです。高温の夏の反動で、厳寒の冬の到来を、気象関係者が解説しておられます。米価の高騰が、人為的なものであるというのが露見されたのですが、高騰どころか、冷害によるお米を含めた食料の不作が危ぶまれてきます。

 この80年、私たちの国では、想像を絶するような気象異常や、食物の不作など聞きませんでした。江戸期に頻発したことを、日本史で学んだのですが、また、そんな飢饉も起こりかねないのかも知れません。さらに、聖書は、次のようにも続けて期しています。

『また、にせ預言者が多く起こって、多くの人々を惑わします。不法がはびこるので、多くの人たちの愛は冷たくなります。(24章11~12節)』

 偽預言者が出没して来るとありますが、勝手な自論を展開する偽教師や偽預言者が出て来ると、その前兆を記しています。人を怯えさせ、不安にさせるような情報がたくさん飛び交うのです。誰でも発信できる情報のツールが溢れています。騙されないようにしたいものです。


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 「不法」な愛、逆さまになった愛が、履き違えた愛が、誤解された愛が、人と人の間に、男と女の間に、同性間に、そして家族間に起こるとの予兆ですが、まさに現代は、そんな様相が伺えます。常軌を逸した愛は、不法なのであり、神の定めた秩序への反逆なのであって、権利や人権ではありません。そんな権利を認める動きは、「不法」なのに、「合法」だと言い始めています。

 まさに、地震だけではなく、「愛の冷却現象」は、もっと警戒しなければならないことです。ソドムやポンペイに火が降ったように、「不法の街」には、神さまが介入された事実は、現代人の私たちへの警告に違いありません。

 これらは、みんなこの時代に露わされてきている「予兆」です。それを聞いた私たちは、身と心を、神さまの前に謹んで生きてきたいものです。何が起こっても、恐れないことです。希望は、溢れるほどにあります。《神を畏れて生きる》なら、この希望を持ち続けていけます。

 『ドスン!』と地震を昨日感じ、ビックリした私の今朝の思いの中にあることごとです。そういえば、「戦争の頻発」も、イエスさまが語られた前兆の中にあります。平和を願い続け、神を求めて、今日も暑い日を支えられ、守られて過ごしたいと願う朝です。

(ウイキペディアの「カムチャツカ半島」、ラファイエロの「ソドム脱出のロト家族」です)

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JR線の電車路線の大回りに

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 鉄道フアンに、[見鉄]という方たちがいるでしょうか。どうも手前勝手の造語かも知れませんが、私は、この「見鉄」なのです。東京に出て来て、二度目に住んだ町の家が高台への坂道の中途にあって、その井戸端から、下の方に、旧国鉄の線路が見えました。朝な夕なに通過する電車や列車を眺めることができたのです。級友のお父さんが旧国鉄勤務で、その官舎に住んでいて、けっこう広さのある作業場が、そこにありました。その空き地が、子どもたちの遊び場だったのです。

 そこには、国鉄の引き込み線があり、貨車からの荷の積み下ろしをしていて、丸通(日本通運)のトラックが行き来していました。今のようにヤマトとか佐川という運送会社のない時代で、一強、この運送会社は、国鉄の主要駅に支店や支所を置いて、国鉄に深く関わる、主力な運送会社として活躍していました。

 東京駅に行き来をする電車や、貨物車の運行を、間近に見ていましたから、自分は[見鉄]だったのでしょうか。砂場で遊ぶことはなく、元気な時は、陣取りとか宝島とか宝取りとか馬跳びを、日没になるまで、その広場で遊んだのです。傍(かたわ)らで、女の子たちが縄跳びや石蹴りをしていて、一緒に遊ぶことはなかったのが不思議でした。

 その近くに、国鉄の「保線区」の作業場もあり、国鉄の本線の踏切もあったでしょうか、その踏切の遮断機の上げ下げをさせてもらったこともあります。鉄路の安全のための保守点検や線路や枕木の交換をするための重い鉄製の道具だって、触らせてくれました。

 大人の背丈ほどもあるような大きなバールがあって、あの重い鉄製のレールを、何人かの作業員が動かしていました。照明器具のカンテラ用のカーバイトなど、あの仕事場の匂いをまだ覚えています。ですから[触れ鉄]でもあったのです。

 中学に入って、その踏切の近くに、駅のホームがあって、そこからぐるりと回って改札口に行き、電車に乗って、電車通学をしました。[乗り鉄]の開始でした。

 そして今、目覚めたように、本物の「乗り鉄」になることを考えているのです。JR両毛線は、関東平野の北辺に位置し、東京から100kmほどの東西に走る北端の群馬と栃木と、水戸線で茨城とを繋ぐ、明治以降、伝統ある鉄路なのです。

 数ヶ月前に、家内が登校班の班長で、通学を助けていた、ピカピカの一年生だった方が、わが家を訪ねて来たのです。一緒に1年間、電車に乗って、隣駅にあった小学校に通学を共にしていたそうです。その時のお姉さんに会いに来たのです。実に懐かしそうに、二人で、その当時のこと、その後の近所の変化を、引っ越してしまった家内に話していました。その会話に加えてもらったら、彼女の鉄道趣味を話してくれたのです。

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 このご婦人も、[乗り鉄]の旅をするのだそうです。退職後、仕事から離れた男性は、趣味に生きるのだそうで、盆栽を始めたら、次は、「石の収集」がなされるのだと聞いたことがありました。20人ほどのグループで、北京から初めて数カ所の街を訪ねたことがありました。一人の牧師さんと最後の訪問地で、別行動をとって、香港から一緒に帰って来たことがありました。

 この方は、その「石の収集」をしていると言っていたのです。銘石や宝石を集めるのではなく、訪ねた街で見つけた小石を、旅の訪問の記念に、持ち帰るのだと言っておいででした。もう30年も前の話ですが、今もなさっておいででしょうか。

 石集めもしましたが、2、3個で卒業してしまいました。気が多いからでしょうか。今回は、この「大回り乗車」が面白そうだと思っているのです。JR線内の東京圏、新潟圏、名古屋圏、関西圏、福岡圏などで、JRの特例で、合法的に[乗り鉄]ができるのだそうです(東武電鉄も一箇所できます)。

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 通過駅や乗り換えのハブ駅には、「エキュート」とか「アトレ」と言う駅ビルが、改札内にあって、ショッピングだってできるようです。そこで買い物や食事や喫茶ができるのです。電車乗車が好きで、車窓の風景や多くの列車を認めたり、駅舎を目にするのを楽しみたい方には、もう一つの[食べ鉄]の楽しみがありそうです。

『友はどんなときにも愛するものだ。兄弟は、苦しみを分け合うために生まれる。(新改訳聖書 箴言17章17節)』

 この「乗り鉄」のご婦人が、「回り鉄」で、3種類のルート図を見せてくれ、残していかれたのです。それを楽しんでいる風にお話になっていました。

 見鉄、触れ鉄、撮り鉄、乗り鉄があって、[食べ鉄]が加えられそうです。まだ脚が丈夫なうちに、やり始めようと計画中でおります。まず兄や弟を誘って、それぞれの至近駅から、[乗り鉄]でやって来て、大型駅のレストラン街で、食事をしながら、苦楽を共にして来て、いまや老いを迎えているのを機に、二親や子どもの頃のことを語り合うことを夢計画中なのです。

 すでに計画原案は完成なのです。こんな趣味が、他の国でもあるのでしょうか。在華中、果たせなかったのは、南満州鉄道、「満鉄」の残された鉄路を走る汽車に乗ることで、父が青年期を過ごした奉天(現在の瀋陽です)や撫順を訪ねたかったからです。

 もう一つは、級友の父君が亡くなった山西太原に、さらには、大陸に理想国家を建てるとの国家的な思惑とは違って、福音宣教を志して、大陸に出かけ、消息をたった一人の伝道者の足跡をたどりたかったのです。ところが、果たせずに帰国してしまいました。

 でも、それで良かったのかも知れません。今は、「大回り乗車」をして、自分の人生の最後の地、ここ栃木から鉄道の環状路線を訪ねて、付録付きで、この国を眺め直してみたいのです。「回り鉄」と言えるでしょうか。本やサイトまであって、隠れて、ひっそりと鉄道旅や駅弁や改札内の蕎麦屋や、大型駅のレストランで食事までできそうです。

 実際に、いつできるか、この楽しみを噛み締めながら、あれやこれやと計画中なのです。無賃乗車ではなく、それが合法的だというのが、何か余韻があって素敵だなと思うのです。し遂げましたら、その様子をアップしたいと思っております。今は、猛暑で、二の足を踏んでおります。秋口にできるでしょうか。

(ウイキペディアの「東京近郊路線図」、「旧国鉄D51 蒸気機関車」、「エキュート大宮」です)

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タスクフォース

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 NHKのラジオニュースで、「タスクフォース(task force)」と言う言葉が語られていました。『タスクフォースはもともと軍事用語で、軍隊がある特定の任務を遂行するために組むチームのことを指していました。 それがビジネスに転じ、今では重要課題を遂行する臨時のチームをタスクフォースと呼称しています。』と、ネットで検索しましたら出てきました。

 朝の7時のニュースでしたから、けっこう年寄りの聴取者が多くて、『何言ってんのか分かんないー!』、一人でした。10年間、英語を学んだのですが、皆目分かりませんでした。“ task”は、仕事のことで、“ force ”は力のことなのでしょうけど、どのような場面で、何を言ってるのか、何で朝のニュースで使うのか、ニュース言語としての解説がないと解せません。

 ラジオニュースの原稿を書く部署があって、使われる言葉を確かめる方もいるのではないでしょうか。最近、そう言ったことが多くあります。聴取者の理解力以上の外来語を、カタカナ語で語られるのには、見当がつきません。一度や二度のことではなく、最近、とみに多いのです。歴とした日本語があって、日本の社会の中での公共放送であるなら、辞書を引かないでも理解できる言葉を使うべきです。

 このNHK放送には、「やさしい言葉ニュース」と言う番組があって、そこでは、ことばに注意が払われていて、日本語にまだ精通していない外国人にも、理解できるように語られているようです。年寄りにも配慮をして欲しいと思うことしきりです。

 昔を語るようになった自分は、確り年寄りですが、あの頃のニュースアナウンサーは、詰まったり、言い間違えたり知ることがほとんどありませんでした。第二放送で、気象情報を担当されていて、『鳥島では、風力〇〇・・・〇〇ミリバールで晴れ!』と言う風に、聞き覚えのない地名の天気概況を読み上げていました。それは、アナウンサーの訓練も兼ねていたそうで、今でも放送しているのでしょうか。

 最近のアナウンサーには、番組にもよりますが、言い淀んだり、ツッかったり、笑い声をあげたり、よけっ口をきく方もいます。時代は時代で、民間放送局の名(迷or妙)アナウンサーの個性的な語り口と、違いがなくなりつつあります。

 そう言う私に、『じゃあやってみな!』と言われそうですね。昭和の世に、中西龍(りょう)と言うナウンサーがいました。特徴的な喋りで、1977年から1991年まで放送された「にっぽんのメロディー」を担当していました。同窓のよしみもあって、この番組が、大好きで布団の中で、イヤーフォンで聴きました。

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 異色のNHKアナウンサーで、鹿児島局に勤務中、この時期の甲子園を目指す高校野球の実況中継放送を担当していた時に、『お母さん、あなたの息子さんが、バッターボックスに入っています!』と言ったのです。まず、そんな個人的なことを、マイクロフォンに向って喋れるアナウンサーは特異でした。

 ほとんど、お話の間に言葉をかんだり、言い淀んだりすることはありませんでした。あの世代の“ professional spirit”の持ち主、権化だったのでしょうか。

 父の職場に、何かの特集で、放送の録音に来られたアナウンサーがおいででした。まだ地方局勤務だった頃で、父にインタビュウをしていました。東京局に帰って行かれて、テレビ番組の夜7時のニュースを担当していました。父の世代、戦後間もない頃の、“ Mr.NHK” の雰囲気の方でした。父が懐かしそうに、この方のニュースに、聞き入っていたのを覚えています。

 どの社会の分野も、そう言った方々の愚直に努力した世代が、懸命に働いていた時代なのでしょうか。無駄に思えるようなことが、実は多大の価値のあったことに生きた世代です。教会も、教育研究界も、企業体も、官庁も、同じなのでしょう。この方々と比べてしまうのは、今のみなさんには不当かも知れませんね。でも、確りした所帯骨、根幹を作り上げた世代がいて、今があるのでしょう。

 視聴者が、考え込んでしまうような、「タスクフォース」なんて言葉を聞かせるようなことがなかったな、そう思わされた、今日の私です。

(ウイキペディアによる、昔の「マイクロフォン」、1955年頃の「ラジオ」です)

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7月26日朝

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今朝4時半頃の巴波川の水面です。静かに流れ下る様子が、流れの紋が、明るくなり始めて幽玄です。じっと眺めていて、心が落ち着きます。

 今日も37℃の予報が出ています。北海道で40℃とは驚くばかりです。避暑地は、沖縄がいいのだと、ラジオで言っていました。夕刻のには涼しさがあってホッとさせられるのだそうです。これもこの時代の逆転撃なのでしょう!

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 それにしても、朝顔が開かずに萎んでしまうのは、悲しいのです。でも葉の緑が、部屋の中を涼しく感じさせてくれています。
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微笑んでしまう自分が

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 時、甲子園の高校野球の地方予選の終盤で、どなたも自分や兄弟、知人の母校の対戦結果が気になってしまうことでしょう。この高校野球から、プロの世界に進み、MLBで活躍する選手が多くなって、何やらNPBが、何やら霞んで見えてしまいそうです。

 人の会話や書き物に、野球の影響が強烈のようで、猛暑、線上降水帯の発生による集中豪雨、それに台風情報、地震情報が矢継ぎ早なのが、大いに気に掛かります。思いを転換して、野球の世界に目を向けますと、日本人選手のMLBでの活躍に思いが一喜一憂してしまいそうです。

 思えば、昭和前期から、職業(プロ)野球が始まった頃の選手で、川上、青田、木下、藤尾、別当など、われわれの子ども時代の選手たちのことが思い出されます。どのスポーツも同じですが、活躍できる選手生命は、やはり短いわけです。すでに三十代になると、“ veteran(ベテラン)”、この用語も昭和のもので、何か遠い時代の響きや匂いがしてきそうです。

 登板、降板、続投、継投、ヒット、代打、内野、外野、移籍(今はトレードでしょうか)、空振り、暴投、盗塁、併殺、リリーフ、ナイスプレイなどの野球用語が、一般社会の中でも使われ、新聞記事、ラジオ放送などでも使われ、一般化しているのでしょうか。もともとは、”ball in the field “ と呼ばれていた球技が、”Baseball“ と呼ばれ、それを「野球」と邦訳されたのは、明治27年(1894年)に、一高の学生の中馬庚(ちゅうまんかなえ)によってでした。

 相撲なども、昭和的スポーツですが、この野球だって、100年の歴史があって、もう国民的スポーツの翼は、サッカーやラグビーなどにも伸ばされていて、昭和世代中期のbaby boomer のみなさんが、もはや後期高齢者になっておいですから、若者たちの関心は多岐多様になっているのでしょう。

 最も注目されているのは、大谷翔平選投手ですが、その体格には、驚かされてしまいます。読売巨人軍で、今でも話題に上りますし、優秀投手賞にその名を残している、沢村栄治投手は、174cmで71kgで、十代の頃の私とほぼ同じほどでしたが、その体格で豪速球や多種の球種を投げていました。

 ところが、翔平は、193cmで95kgで、この頃の日本人選手たちの体格を、欧米人の体格に比しても飛び抜けています。栄養価とか食種事情とか野球環境など、比較できないほどに恵まれた時代の子たちなわけです。

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 悲しいのは、兵士として従軍し、最前線に立たされた時、特技の投球の球を、手榴弾に換えて、敵陣に向かって投げ、その肩を壊し、生きて復員できても、父の世代の名投手。沢村栄治も、その選手生命は終わって、続投もできなかったと言われるのです。惜しくも彼は戦死してしまいました。私が生まれた年に、27歳でした。

 戦後80年、思いいたすことは複雑なのですが、バッターボックスに立つ姿、ピッチャープレートに立つ姿の翔平は、平均的な日本人の体格ではありませんが、食糧事情、栄養事情、良質の肉食によるタンパク質の摂取、ビタミン剤、寝具や衣服など、さまざまな面で、体も心もノビノビとしているのは、大きな祝福です。

 さらに「態度」の良さが、称賛の的になっている翔平は、野球に夢中だった次兄や甥や長男を思うに、一世代違いの姿を見て、80年と言う年月は、意味深いものを感じます。それでも、昨今の、自然界の荒れ方、世界地域の情勢の危うさ、それらが、この80年の穏やかさを打ち壊そうとしているのは、何か不安を感じさせられてなりません。

 アメリカから、明治の日本に持ち込まれた野球で、瞬く間に、一高(東大の前身)倶楽部が大活躍をしていました。1890年(明治23年)に、日本初の国際試合が催され、一高は、白金倶楽部(パウロ大学、現在の明治学院大学)と対戦したのですが、0対6で負けていました。そこに、白銀のインブリーと言う教授(宣教師でした)は、試合観戦に訪れます。グラウンドは門が硬く閉ざされていて入れません。それでインブリーは垣根を乗り越えて入るのです。

 その野球の聖域に、不法侵入した者を見つけて、刃物で襲いかかり大怪我を負わせる事件が起こりました。国際問題になりかけますが、インブリー宣教師は、自分の非を認めて謝罪して、一件落着したのです。明治初期、野球を愛する者はまだ殺生沙汰をするほどのサムライ精神を持っていた野蛮な時代だったのです。それに比して、令和の野球人の翔平の紳士ぶりとは対照的だったわけです。

 明治150年の令和、この野球人の時代対照こそが、baseball なのでしょう。アメリカの野球フアンを熱狂させるほどのプレーぶり、紳士ぶり、「ナイスプレイ」には、「驚き桃の木、サンショの木」で、驚きであります。記録よりも、30歳の翔平の在り方、活躍ぶりに、微笑んでしまいます。

(”adobe stock”  の「ボール」、ウイキペディアの「沢村栄治」です)

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さあ主に帰れ

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 驚くほどの読書量を誇った人物を挙げますと、それが、この人の品性の向上、民主的な統率力、人としての価値などをもたらすことができそうです。明治期の物書きをした人たちの語彙の量の多さ、書かれた文章の輝きには、大変驚かされてしまうものがあります。

 また言語学者など江戸期に学んだ人と、明治期に学んだ人、そして大正期に学んだ人、さらに昭和期に学んだ人は、それを比較している方がいました。大学者だと言われるご自分を教えてくれた方たちと比肩できないほど、語彙力も表現力も自分は劣る、そう言ったことを聞いたことがあります。

 ところが、圧倒的な読書をした人でも、それが全く益にならなかったし、驚くべき戦争犯罪を生み出す結果をもたらした者もいるようです。その一人は、「我が闘争」という本を、1924に第一巻を、1925年に第二巻を出版した、アドルフ・ヒトラーでした。いわゆる「ナチスのバイブル」と言われ、人を生かすのではなく、人を恐怖と破壊、抹殺と崩壊を生み出した本を、膨大な読書の末に、書き上げたのです。

 その本は、最初は全く売れませんでした。ところが、ドイツでナチスが第一党になり、ヒトラー自分自身が、総統の地位につくと、1000万部も売れたのだそうです。これほど害悪をもたらせた本は、他にないと言われるものでした。日本では、昭和15年(1940年)日本語訳が出版されていますが、センセーショナルな結果は起こりませんでした。

 ちなみに、害毒をもたらせたと言える書物が、少なくとも、もう一冊あると言えます。それはキリスト教界に、無意味な感化を与え、多くの混乱をもたらしたからです。1848年に、聖書に記述に反する「聖書批評学」の立場で書かれた一冊でした。

 ドイツ人で、ダフィット・フリードリヒ・シュトラウス(David Friedrich Strauss)と言う、青年がいました。27歳の時に、「イエス伝」を著して、自由主義神学、新神学という一派の立場を強固にしたのです。私たちの国でも、若い神学者や牧会者が、これを読んで、不信仰に捉えられられてしまいます。聖書に記されるイエスさまの奇跡を取り除いて、ただ、「人間イエス」だけを記したのです。センセイショナルな本で、多くの若い牧師たちが、その教えに迷わされたのです。

 この新しい宗教運動は、いつの間にか消えてしまいますが、燻り残った火種が、また今の時代になって持ち出され、聖書の神話化が、また動き始めています。知的すぎて、信仰に欠けるのでしょう。

 日本でも、明治期に、アメリカやイギリスからの宣教師に、正統な神学や聖書を学んだ、錚々(そうそう)たるの牧師や聖書教師が、この教えの虜になりました。そう言った考えを継承した流れの中で教えられ、次世代の神学者だったのでしょうか、『ユリちゃん、復活なんてないんだよ!』と、家内は、学生の頃に、ある神学校の教授に言われたそうです。

 明治期の日本のキリスト教会にも、衝撃的な影響を与えたのです。熊本バンドの出身で同志社に学んだ小崎弘道、海老名弾正などは、この高等批判を掲げた神学者、牧師でした。第二次世界大戦後になると、福音主義に立つ多くの欧米からの宣教師たちが、日本宣教を開始し、日本の隅々に教会が誕生します。六十六巻の旧新約聖書を、誤りなき神のことばと信じて、聖書信仰を掲げた教会が建て上げられます。

 ところが近年、若い牧師たちの間に、ある神学校教師の著作を読んだからでしょうか、パウロの説いた福音への疑義を唱える動きが起こって来ているようです。かつて「異端」とされていた、死者の身代わり洗礼、死後の悔い改め、創世記の初めの数章などは神話だというような教えを支持し始めているそうです。

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 私は、救いも裁きも、永遠のいのちも永遠の滅びも、天国も地獄も、また神の子と自称する人の中には、羊も山羊もいたり、あったりするという、イエスさまの警告に注意を払っています。神の愛をはき違えて、聖書に従って信じていないのです。神の義と神の裁きと神の憐れみとは、表裏一体に、矛盾なくあると、私は学び、そう信じています。滅びないために、滅びから人を救うために、十字架の贖罪があると信じているのです。

 自殺した家族や友人を持つ人がいます。罪を悔い改めて、十字架の救いを信じないままで死なれた方々が、死後に信じて救われると言うのです。神の愛と審判という両面を信じきれずに、人間的な同情や優しさで、聖書の中身を、ヒューマニズムにほだされて、ご都合主義の神に変えてしまっている教えに、傾倒しているのです。

『悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。(新改訳聖書 イザヤ55章7節)』

 神さまは公平なお方で、全ての人に、生きている間に、救いに預かる機会を定めておいでです。ただ、罪を回避して、飛び越えてはいけません。物分かりの良いキリスト教が大流行りです。もう教会の講壇から、罪を語らなくなっています。『罪は、後になってから分かればいいのです!』、『罪、罪なんてばかり教会が言うので、人は教会に来なくなってしまっているのです!』、と言う風に変えられています。

 癒しと繁栄とeasyな天国行きが語られるのです。人が救いに預かれるのは、上手な人間味にあふれた、神の愛をぼかした牧師さんたちの上手くq面白おかしく話す、同情的な話からではないのです。聖霊の働きであって、罪の認罪を呼び起こし、悔い改めに導く、聖書通りの使信を語ることがないのです。

 教会のきらびやかな催し物や有名人の証やイヴェントがあるからではありません。聖霊のお働きなくして、人は救われません。どの時代も、神さまは、罪の悔い改めを命じておいでです(使徒17章30節)。そろそろ神に帰る時刻です。さあ神の真理に帰りましょう。神の愛に帰りましょう。

(ウイキペディアによる「ギリシャ語聖書〈12世紀刊〉」、「ヘボン訳聖書」です)

2025夏、朝顔便り

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 2025年夏、朝顔の成育状況は、期待が大きかったせいか、不作、不生育なのです。唐代の長安の都に咲いていたであろう、喇叭花に、留学生たちが慰められたのでしょうか、帰朝の折に、持ち帰ったタネが、庭先を飾り、日本人が愛でる花の一つとなったのです。

 大好きな朝顔を咲かせたくて、華南の街に住み始めて、帰国して戻る時に、朝顔のタネを携えたのです。この街では、他には見かけませんでした。和園の7階のベランダで、春先に鉢植えにしましたら、翌年の正月まで咲くほど、わが家では長寿だったのです。

 その代わりにでしょうか、今夏は雷様が活発で、いったん、かき曇った途端に、雷鳴が轟くように鳴り渡り、雷光と雷雨の夕方となっています。今も、ドスンと言う音に、窓ガラスが震えたのです。

 夏に風物詩の朝顔と雷に、もう満足な私は、猛暑を厭うことなく、喜んでいるのです。ただ、わずかに咲こうとしている蕾が開かないで、萎れていくのが悲しいのです。この日曜日に、投票所に、家内と二人で歩いて行く間に、朝顔を植えた玄関先の花が、開いていないと言うか、花を付けていないのです。

 朝になると、ベランダに出て朝顔に棚を見ると、開いていない毎朝なのです。それでも、この暑さが緩んで、少し涼しくなったら、その分、遅咲きになってくれるのでしょうか。ちょっと期待しているのです。

(写真は、今夏一番咲きの朝顔です)

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わたしの前を歩けと言われる主が

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 人や物を運ぶために、陸空海の道路や航路などの整備がなされ、高速道路網も、鉄道路線の新幹線網が広げられ、航空機路線も各地に拡大されていて、当世は、ビジネスでも観光でも、旅行がしやすくなってきています。とくに国内は、治安も景観も、飲み水も食べ物も安全ですし、どこへ行っても、どこに住んでも、日本は快適です。

 東海道五三次を、弥次喜多の両人に旅をさせた旅行記を、十返舎一九が、「東海道中膝栗毛」を発行させて、大人気を呼びました。江戸文化の滑稽本は、庶民に支持されて、大きな反響を呼んでいたのです。昭和の子の自分も、その珍道中の話を聞いては、興味を引き出された覚えがあります。

 この、弥次喜多道中は、相当な路銀を必要とした旅になっていますが、まあ誰にもできるものではなく、そんな旅には行けない人を、旅したつもりにさせたのは、一九の筆の才腕だったことになります。同級生が、朴歯(ほおば/高下駄)履きで東海道を、「日本橋」から京の「三条大橋」まで歩いています。

 それとは反対に、奥州路を旅しています。まさに行状記で、「奥の細道」は、俳句を織り交ぜ、陸奥や北陸を、徒歩で旅をし、時には馬の背に揺られたこともあった様に記しています。でも、ほとんどの路程を歩き通しているのです。まだ鉄道の敷かれていない時代ですから、健脚であっても、「三里に灸(きゅう)」をして旅立ちの準備をしたと、その序にあります。

 長い旅をするのに、そうするのは、あの頃は普通のことだったのでしょうか。足には、「足三里」と言う箇所があるのを、初めて知ったのです。両膝の指三本外側の部分なのだそうです。漢方医学、鍼灸学のツボで、スタートライに立つ走者が、かがみ込んで両手で、その部分を叩いているのを見られます。

 そういえば、人生走路を歩いたり、走ったり、または止まったりするように、この二本の足で歩いてきました。『這えば立て、立てば歩めの親心。』と言われますが、はい始めた時も、立ち歩きをした時も、父や母や兄たちは喜んでくれたのでしょう。そこから、どれほど歩いてきたことでしょうか。

 それを距離を積算してみたら、途方もなく長い道のりを、今日まで歩いてきたことになります。お菓子屋への道を、万里の頂上の上を、ブエノスアイレスの鋪道を、シンガポールの日本軍が自転車で入場した道を、一人で、二人で、家族で、そして、この街の例幣使街道を歩いて来ている石切りーのです。

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 先日、この街にある「綱手道」という道があります。巴波川で「舟運」が、盛んに行われていた時に、水夫(かこ)と呼ばれた男たちが、この道を歩きながら、都賀舟を曳いて歩いた道を、そう呼びます。

 散歩中に、ふと思い立って、この道を歩きたくなったのです。30cm四方に石切り鑿(のみ)で、荒く切り刻んだ石が引き詰められた道で、踏ん張るにはちょうど良くされた道を歩いたのです。ずいぶん歩きにくい道で、途中にその道が切れて、小川が流れ込む砂地があり、その上を歩いてズルっとしたので、引き返しました。ピッチの高い石段を上り下りした後、200mほど歩きましたら、左足に激痛が走ったのです。

 かがみ込むようにして休んでしまいましたそんな痛みは初めてのことでした。娘に、『お父さん、深呼吸してからね!』と言われた、深呼吸を忘れて、綱手道に降りたのがいけなかったのでしょう。けっきょく整形外科に行って、診てもらいましたら、半月板損傷かも知れないとのことでした。様子待ちの今なのです。

 さて、「歩く」と言うのは、生きること、生活を意味しているようです。思い返すよ、無駄歩きも多かったし、好ましくない場所に歩いて行ったこともありましたが、帰ってくる家、家族があったことを感謝をする今なのです。父の家にその場所があり、家族を持った私の家にも、子どもたちが帰って来る場所あり、二人だけになっても、二人で過ごせる場所があるのです。

『そのとき、暁のようにあなたの光がさしいで、あなたの傷はすみやかにいやされる。あなたの義はあなたの前に進み、主の栄光が、あなたのしんがりとなられる。(新改訳聖書 イザヤ58章8節)』

 青年期に出会った主なる神さまは、「義」が前を、「栄光」がしんがりとなってくださり、アブラハムには、「わたしの前を歩み(創世記17章1節)』と言われたように、この私にもその歩きに招かれて、今日に至っております。まさに、「しんがりの神」こそが、私の神でいらっしゃいます。

(”loose drawing “ の「歩く」、ウイキペディアの「綱手道〈写真の右下)」です)