カモ帰る

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 鴨が帰って来て、巴波川が賑やかになりました。最初3、4羽でしたが、今ではざっと50羽ほどになって、エサの取り合いをしているのが見うけられます。

 生まれ故郷のシベリヤ、カムチャッカ、モンゴル、黒竜江省あたりに帰って、そこで産卵して、雛を育てるのだそうです。遠距離を飛べる体力がつくと、家族で戻ってくる様です。カルガモが、道路を横切る様子が、ビデオで見られる様に、7、8羽が群れているのですが、そんな大家族でなさそうで、どうかなと思案してしまいます。

 トマトの種が地に落ちて、芽を出して、すくすく育って、11月と言うのに、小さな実をつけています。ウインターコスモスの切り花を家内の和歌の同人からいただいて、テーブルの上で咲いています。散歩道の小学校の花壇と、いつも花のお世話をして、きれいな花を咲かせているお家の庭に、菊の花が咲いていました。

 もう冬の足音がして来ています。南に富士の高嶺が見え始めました。

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こんなこともあった13年間

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 「伯楽」と言う仕事があります。野生馬や生まれたばかりの馬の子を、躾けるのですが、そのタイミングを外してしまうと、もう躾けるのが難しいのだそうです。華南の街に住んでいた時に、障碍を負われた少年を訪ねたことがありました。お母さんは、その子の養育を、おばあちゃんに任せて、アメリカに密航していたのだそうです。

 そのおばあちゃんは、孫の世話を一生懸命されたのだそうです。リハビリの専門家に診てもらったところ、今のうちに矯正訓練を続けるなら、身体機能をある程度恢復することができると言われて、おじさんたちの援助でし始めたのです。主におばあさんが、メニューに従って矯正を行っていたのですが、それは世話をするおばあちゃんには、耐えられにほどに辛く見えたのです。可愛さのあまり矯正をメニューの通りにせず、遂に、同情心でやめてしまいます。

 それで、矯正の時期を過ごしてしまったのです。第三者が、しかも専門の立場でする様な体制が、まだ整っていない時期でもあって、家族の間で行われていたわけです。半年でも1年間でも、矯正センターで、厳しい訓練をしていたら、と悔やんだのですが、時期を失ってしまったわけです。

 彼はニコニコして、私たちを迎えてくれ、舌でパソコンを操作して、仕事ができる様になっていました。古い軍港の近くの養老院が、この若者を受け入れてくれて、世話をされながら一室で、お世話をいただきながら過ごしていたのです。

 私たちの住んでいた街の郊外に、アメリカ人が運営する、障碍を負われたお子さんたちのお世話をしている施設がありました。何人もの師範大学の学生のみなさんが、ボランテアでお手伝いをしていたのです。その運営者が、この少年のお世話をしてくださると言うので、転院したのです。そんな重度の障碍を負っている少年のお世話を、愛の限りを尽くしながら懇切にお世話しておいででした。

 この方は、クリスチャンで、そこでは定期的に聖書研究という名で集会が持たれていて、私たちも訪ねて一緒に集会に参加したのです。珍しくも大胆に異言を語られていて、賛美礼拝が行われていました。隣国で奉仕している方たちの多くが、聖霊派の背景が多かったのではないでしょうか。東北部で過ごした1年間、ホテルが外国人のための宿舎になっていて、そこで週日には、有志が誘い合って、祈ったり賛美したり集会が持たれていました。その集いも、聖霊派の背景のみなさんが多かったのです。

 そこでは、政府公認の外国人のための超教派の礼拝がもたれていました。劇場の様な、大きな講堂の一室を借り受けて、入口でパスポートの提示が、礼拝出席には必要でした。そこの礼拝に出たり、街中の公認教会にも出席しました。その伝統ある教会には、400人ほどの会衆が集っていたでしょうか。ものすごい熱気でした。聖餐式には、多くのみなさんが、泣きながら感謝して、パンと杯に預かっておいででした。本物の信仰者でした。

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 その国では、外国人は宣教活動ができなかったので、ビジネスマン、エンジニア、教師、福祉活動などをしながら、間接的に福音の宣教をしてたのです。それぞれ教派とか教理などの立場から離れて、助け合いながら、それぞれを認め合って交わりが行われていたのです。とても素晴らしい和合の交わりでした。ですから、教えている学生さんたちや、一緒に働いておでの方たちや、街で出会った方たちの中から、信仰を持つ方たちが起こされ、秘密裏に浸礼でのバプテスマが行われていました。

 その大きな街の私たちが住んでいた宿舎に、訪ねて来られた国立の名門のN大学の学生さんがいて、彼も信仰を持ち、バプテスマを受けたのです。彼は、英語と日本語ができて、私の父が青年期を過ごした、鉱山で名のあった街の出身者でした。下の息子が役員をしていた会社への就職の話があったりしたのですが、なぜか叶いませんでした。いろいろなことがあって、華南の街に移ったわけです。

  そこでは、12年間を過ごしたのです。中には五代、六代のクリスチャがいて、みなさん助け合いながら、励まし合いながら、信仰生活や訪問、証をし、社会生活も忠実に励んでされておいでです。主への愛を隣人への愛として押し流しているのです。どんなに私たちは、みなさんから助けられ、支えられたか知れません。今ものその交流が続いていて、何回か訪ねてくださったこともあるのです。

 その障碍を負っておいでの少年は、もう大人になっておられて、彼のおじさんと従兄弟の方が、今の様子を話してくれます。このご家族が、東京にいて、北海道で事業を計画中しておいでです。私たちを、時々訪ねてくれるのです。素晴らしい出会いや交わりに感謝しています。

(“いらすとや“の教会、“ある信徒”さんのイラストです)

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THE GREAT GOOD PLACE

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 “ 3rd place“と呼ばれる場所があります。先日、NHKのラジオで聞いあり、そんな題名の本もあって読んだりしたのですが、としますと1stも2ndもあることになります。自分が、”1st place”としている場所があるのです。今朝、その場所のことを思っているところです。そこは生まれ故郷と言いたいのですが、そうではありません。自分にとっては、これから行く所で、どうも永遠の居場所になる模様です。

 ほぼ通常、第一の場所は「家庭」、第二の場所が「職場」、そして第三の場所は「趣味や余暇を過ごす場所」なのでしょうか。アメリカで都市社会学を学んだ、レイ・オルデンバーグが著した「サードプレース(みすず書店 2013年刊行)」を、今読んでいます。原題は“THE GREAT GOOD PLACE”で、副題は、

“Cafes,Coffee Shops,Book stores, Bars,Hair Salons and  Other Hangouts at the Heart of a Community”

とあります。喫茶店や本屋やバーや理容室や他の遊び場(心を解き放って遊べる共同体)のことの様です。日常の義務から解放されて、思いっきり心を休ませたり、次に進む力を自分の内側に養う、余暇を過ごす場所、第一でも第二でもない場所に意味を持たせて記しています。

 中国にいました時に、学生たちと街の中心に出掛けたのです。そこは清朝時代から続く巷間、店や劇場や喫茶室やレストランなどが、軒を連ねている様な一廓がありました。帰国する数年前に地下鉄の駅もできていたのです。そこに、滞在期間中に、”Starbucks”が出店したのです。アメリカ風にではなく、中美折衷の意匠で建てられた店舗でした。美は、中国語でアメリカを美国と表記します。利用者のほとんどは、学生で、テーブルにパソコンを置いて、mag cup で珈琲を飲んでいました。ちょっと違うのは、スプーンでコーヒーをすくって、口に運ぶ飲み方をしていたのです。

 そこは、シアトル、ホノルル、東京、栃木にある店と、同じ雰囲気なのです。授業や試験から解放されて、肩から力を抜いた彼らは、どこの国の都市にいる若者たちとも同じでした。文化や習慣には国境や民族の差はありません。まさに「スターバックス文化」でした。

 ヨーロッパ映画を見ていると、道路と店の間に簡易テーブルや椅子を置いて、コーヒーを飲んだり、食事をしながら話を弾ませて楽しんでいる光景を、よく観た、あの交流の場です。また、子どもの頃に、里山の林の中に、木々の間に、運んできた板や縄やむしろで隠れ場を作ったり、土を掘った穴の上に、板やむしろで屋根を作り、そこに土をかぶせて作った、あの隠れ場、城です。英語ですと、”private room “でしょうか、「秘密基地」で、楽しい思い出の光景が甦ってまいります。

 大人になって、子育て中に、月に二度ほど、けっこう大型のスーパーマーケットの床清掃の仕事を請け負って、14,5年続けたことがありました。夜間の6時間ほどの仕事でした。ポリシャーで床洗浄の後に、綺麗にモップで拭き、Wax仕上げをしたのです。それを終えて、掃除用具を店の倉庫に納めてから、街の朝湯の銭湯や山間の温泉に出掛けたのです。湯に浸かる時のホッとした時と場所は、疲れを癒してくれた一時でした。それこそ「隠れ場」だったのでしょう。

 聖書に次の様な箇所があります。

『父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたため”にわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。(新改訳聖書 ヨハネ17章24節)』

 私にとっての、第一の場所は「わたしのいるところ」と、主イエスさまが仰った「所」に、この私をご一緒に、永遠におらせていただける場所なのです。これに過ぎる、“THE GREAT GOOD PLACE”はありません。七十代の終わり頃から、思いもよらない病気をし始めたのです。いえ、歳を重ねて、老化の兆候が見え始めたと言うべきでしょうか。1、2時間温泉に浸かり、体を横たえて休んで、お昼を食べると、もう回復していた若い頃の自分が、もう病気がちになったわけです。

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 年相応の今を過ごしていて、別にもがきません。子育てを家内とし終え、宣教師さんから受け継いだ教会の奉仕を、家内と一緒にし終えました。それから隣国に出掛けて、13年を過ごしました。2018年の暮れに、娘の様にして、何かとお世話してくださった方が、家に来て家内の様子を見て、『すぐに病院で医師に診てもらいましょう!』と、省立第二病院、本院に連れて行ってくれました。即入院になったのです。

 一週間後に、主治医から、『すぐ日本に帰って、大きな病院で診察を受けてください!』と言われ、すぐに帰国しました。栃木県にある獨協医科大学病院に行き、診察を受けましたら、そこも即入院でした。4ヶ月の入院で、ターミナル病院に転院て、家にしばらくいて、その手続きを考えていましたら、何と病状が回復して来たのです。通院し始めて、免疫力を高める薬剤を投与されて、40回受けましたが、肺腺ガンが消えて、痕跡だけが残ってしまったのです。

 心地よい居場所、気兼ねなく過ごせる空間、非日常的な場所で、子ども時代の秘密基地などこそが、心を休めて、癒される場所だったのです。その様な場所を、どなたもが必要としている様です。そこがあるからこそ、次に進んでいけたのでしょう。夏になると天敵の蚊に刺されやすい体質で、今年は、酷暑で、蚊の発生が少なかったそうで、5回ほどしか刺されませんでした。ところが涼しくなっての10月になって、何と二度も刺されてしまいました。蠅帳型の蚊帳(かや)で5月頃から張って寝るのですが、その「避難基地」の蚊帳の中も、”3r place “で、「秘密基地」の様に、私は潜り込むのです。

 それらは、永遠という時を考えますと、一時期の空間、場所です。ところが、主イエスさまと、共にいさせてもらえる場所は、永遠の“THE GREAT GOOD PLACE”であります。ご一緒に、そこに行きませんか。もう病むことも、痛むことも、悩むことも、苦しむことも、悔やむことも、そして死ぬことのない世界なのです。そう救い主が約束してくださっておいでです。

(“いらすとや”の秘密基地と温泉入浴です)

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いつもと違った日曜日に

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 『夢を買うのです。当たらないことが分かっているんですけど、やはり年に数回、買うのを楽しんでいるのです!』と言う方がいらっしゃいました。私は、宝くじを買いません。パチンコも競馬もマージャンも株もしません。中学生の頃に、競馬馬の調教師の子が、級友に何人もいましたので、彼らの仲間になって、府中の競馬場に行ったことがありますが、馬券を買ったことはありませんでした。立川の競輪場に行ったこともありますが、中の様子が見たくて、学生のころに一度行ったきりでした。

 父の家の川向こうに競艇場がありましたが、行きませんでした。ただパチンコは、私の育った町に一軒ありましたので、父の後について行って、拾った玉を入れて遊んで以来、20代の初めまでしていましたが、教会に行くようになってからは、まったくやめてしまいました。

 開拓伝道の貧しい中で、その貧しさを克服しようとして、わずかなお金で宝くじを買った牧師さんがいました。『主よ当ててくださいますよね。教会堂を建てるのは御旨に適っているのですから!』と祈ってクジを買ったのですが、当たりませんでした。神さまは、そんな方法で教会堂を建てたいとは願われませんでした。

 株がいけないと言っているのではありません。労働の三要素の1つは、「資本」であり、今日の企業の経営にあたって、株式のシステムは、現代の会社経営には、どうしても必要なのです。そして、小学生が、これを学ぶのも大切なことです。出資者がいて、企業が事業を展開することが出来るからです。ところが、小学生が、お小遣いで、株を買っているというニュースを聞きます。小額の投機で、多額の利益を得られることに魅力を感じてしまっているからなのです。大反対です。

 オランダで首相をしたことのあるアブラハム・カイパーという方が、アメリカの大学に招かれて講演をしました。その1つの講演で、次のようなことを言ったのです。『カード遊び・・カード自身に悪魔が潜在しているというのでもありません。しかし、この遊び心が、心を誘惑して、神より離れさせ、運とツキに依頼させようとする恐ろしい傾向を助長するからです・・神以外のいわゆる偶然、あるいは幸運と称する空想的運命力を軽率に信じる気持ちを養う・・人々は、自分の仕事をこつこつと努力するよりも、幸運の一喜一憂に対して・・心惹かれております・・神の摂理よりも偶然性を強く望むことによって、(感覚の)泉を汚染させてしまいます・・嫌悪せざるを得ません。』と、次の時代を担う学生たちに、百年も前に、そうAdviceされたのです。

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 私たちは、運命の力に、自分の人生を任せたり、賭け事に運を求めたりするのではなく、神の摂理に自らを任せるべきです。遊び心だと、軽く考えておられても、それが生きる姿勢そのものになってしまうのです。私は「運」や「つき」に、自分の人生が左右されることを願いません。たとえ状況が悪く感じられることがあっても、それは、『神さまは、何かを教えたり、注意されているだ!』と思うことにしています。

 結婚や留学や離婚のために貯えてあった貯蓄が、40年以上前、教会堂のための土地と会堂と教会の事務機材の購入のためにささげられました。夢の実現よりも、神のご計画に賛同され、また留学計画は、主によって不要になったからです。しかし主は、主と社会の前でなされた、その選択と決断と信仰とを覚えておられるのです。聖書に、次の有名なみことばがあります。

「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っているからだ。――主の御告げ。――それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ(新改訳聖書 エレミヤ2911)」

 秋のど真ん中に、『どんな素晴らしい実りが、自分の生涯に、まだ残されているに違いない!』と思い定める季節でもあります。これまで何度、実りの秋を迎えたでしょうか。昨日の朝は、お隣の家のご夫人をお手伝いをして、家内とラジオ体操仲間のご夫人と、柿もぎをしたのです。カラスに食べられる前に、カラスと競争したわけです。江戸期から舟運をされてきた家で、今の家に越して来られる前に、その家の庭にあった柿の木の種を植えたのだそうです。

 お父さまが建てられた6階建ての住宅の一室に、部屋を私たちはお借りているので、毎年、よく頂いてきた柿の実は、甘くて美味しいのです。それから朝食をとって、9時過ぎからMLBの最終戦を見始めて、10時になって、家内と二人で、聖餐式を持ち、礼拝を守り、頌栄を賛美して終えたのです。それから再びMLBの観戦に戻りました。野球という人生を凝縮させた Drama の観劇、いえ観戦でした。選手とスタッフとフアンなど、人の織りなす最高の試合、作品とでも言えそうでした。

 Dodgersと相手のBlueJaysの健闘、死闘、素晴らしかったのです。ただ単縦に楽しめました。すごい演出あるentertainmentでもあるわけです。そんな輝かしさの背後に、高校のグラウンドで、私たちのクラブと分け合って練習していた野球部、そこで兄も走り、打ち、投げ、捕っていたグラウンドにあった、泥と砂っぽい光景が目に浮かんだのです。昨日の興奮の余韻が残る夜明けであります。

(”いらすとや“のバッター、グラウンド整備の様子です)

想像もし得なかったことが

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 良くても悪くても、日本は欧米、とくにアメリカ合衆国との関わりが、幕末以来、求められ続けています。黒船が浦賀沖に現れ、国を挙げて衝撃を受けたのが発端だったと言えるでしょうか。捕鯨船の寄港を求めるアメリカ大統領の親書を携えての来航でした。多分、その使者がペリーで、「ペルリ」という名前は、日本人が初めて知ったアメリカ人の名前だったことでしょう。

 今回、新総理に、高市早苗さんが就かれて、日米が“ win-win ”の関係なのだそうで、その良い関係が保たれて、世界中に起こっている衝突や危機が避けられるための努力がなされていくなら、それは素晴らしいことにちがいありません。Leaderのみなさんには、まっすぐに、この国を導いてほしいと願って祈るのみです。

 そんな公的な接触以降、有為の青年たちが、イギリスやアメリカに渡って、学んで帰ってきて、近代日本を築き上げてきたわけです。ヘボンなど、医師や技術者や宣教師として、幕末に日本にやって来た人たちがありました。難船で救助されアメリカに渡って、英語を習得して通訳として活躍したたジョン万次郎がいて、さらに留学した新島襄、内村鑑三、津田梅子などは、次代を担う青年たちへの教育を始めて行きました。政治や殖産興業のための事業、さらには社会事業に至るまで、精一杯に生きてきたのです。そんな中で、キリスト教的な感化を強烈に受けた青年たちも多くいたのです。

 日本が、列強と肩を並べようと躍起になって、結局は、アメリカを代表とする列強と、戦争に突入してしまいます。そして敗戦の憂き目を味わって、不落の日本列島が、アメリカ軍の猛攻で壊滅的な状況に置かれたのです。そんな戦後まもまく、朝鮮戦争での特需、児童の栄養援助や物品援助のLALA物資の供与などがあって、かろうじて戦後復興を遂げることができました。

 その奇跡的な復興が遂げられたのは、戦勝国アメリカ合衆国から援助と、困難から立ちあがろうとした日本人の独特な不屈さ、日本人特有の苦しい中でも笑えるような柔軟さがあったからでしょうか。かく記す自分も、進駐軍の米兵に、“Give me chocolate!”とおねだりした時代の子でした。実は、その屈辱的な子どもの頃の出来事への反動で、十代になって予科練や海軍兵学校に、時代錯誤のように憧れ、軍歌を覚えては歌って、日本主義の子になろうとしていたのです。そんな偏向の私を見捨てなかった、創造者で赦しにあふれた神さまと出会って、取り扱われたのです。なんとアメリカ人宣教師のもとで、8年間、その日本主義の亡霊から解き放つ作業があって、取り扱われたのです。

 子どもたちの最終教育のために、アメリカに送ることができ、民主主義とキリスト信仰を、学校と教会とで学ぶ機会が備えられたのです。アメリカ人と日本人の血を引く牧師さんと出会い、『わたしがお子さんたちの面倒を見ましょう!』と言って、長男と次女の二人を、15歳で次々と面倒をみてもらいました。長女と次男も、ハワイや北米の街で教育を受けることができたのです。

 母は、島根県出雲市で伝道されたカナダ人宣教師との出会いで信仰者となっています。家内の母親も、アメリカ人宣教師と戦後になって出会って、信仰者となっているのです。15で昭和初期に信仰者となった母と、戦後信仰者となった義母をおばあちゃんとする、私たちの子どもたちは、その同じ信仰を継承していていることになります。
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 今、戦争に巻き込まれた職業野球人たち(今のNLB日本プロ野球機構)について触れた本を読んでいます。アメリカのハワイ州の真珠湾に、1941年12月9日に爆撃機で攻撃を加えて、太平洋戦争が始められてしまいます。戦時中の日本の野球界は、敵性言語の使用が禁じられ、GIANTSは〈巨人軍〉に、ストライクは〈ヨシ一本〉に、野球用語が変更されたのです。そのあたりの経緯が、その本に、次のように記されています。

 「日本野球連盟は、日本野球の確立という言葉を、しきりに用いているが日本野球というものはすでに確立されているにである。・・・アメリカの国技であり、、競技であるなどと考える事は、余計な偏見であって、今更日本野球の確立などという必要は少しもない・・・球団名を日本化にするとか、連盟旗、球団旗を日本字にするとかは、しよう末節の問題だから、敢えて悪い事とは言わないが、規則の日本化を実行するというのは、どういう意味か明瞭では無いが、まことに不可解の話である。・・・それは最早野球競技ではなく、他の異なった競技となってしまうのである・・・(『野球界」30巻24号、昭和15年12月15日 鈴木宗太郎記)」

 中国大陸に軍を進めていた時期にも、野球が行われていて、どうにか試合を続ける努力がなされていたのです。17歳の沢村栄治は、ピッチャーで、日本が招待したアメリカチームの名選手、ベーブ・ルースやルー・ゲーリックらと対戦し、多くのバッターを三振に打ち取るほどでした。1934年(昭和9年)11月20日、日中戦争の開戦の2年前、静岡の草薙球場でのことでした。ゲーリックに打たれたホームランの一点だけを奪われて敗戦でしたが、アメリカのチームは、沢村の怪投に度肝を抜かれ、沢村は一躍注目されたのです。

 その後、沢村は読売巨人軍で活躍するのですが、日華事変(日中戦争)が始まって、兵士として中国の戦線に送られるのです。ボールを手榴弾に握り変えて、最前線で大活躍をしますが、野球人生を縮めるほどに肩を壊してしまいます。その兵役を終え帰国し、野球に復帰しますが、以前のような快投乱舞は、もうできませんでした。やがて巨人軍から解雇され、悲運の野球人生を終えようとする頃、3度目の応召で南方戦線に向かいます。ところが途中、東シナ海の屋久島付近で、米軍の攻撃で船が沈没して、亡くなってしまうのです。あの快投から10年後の1944年、沢村栄治27歳でした。
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 それから80年経った現在、名ピッチャーの沢村栄治を彷彿とさせる、大谷翔平がMLBでの信じられないほどの活躍を見せています。怒らせた人は多々いるでしょうけど、これほどアメリカ人、アメリカの野球フアンを熱狂させ、喜ばせた日本人は、この大谷翔平以外にはいないのではないでしょうか。衝撃的な活躍を見せ、今も、World Seriesの最中で、Toronto Blue Jaysと対戦中で、驚異的な投打二刀流で大活躍をしています。

 このような時の到来を、誰が予想したでしょうか。体力的にも態度にも、アメリカのMLBフアンが称賛し、高く評価するほどの選手の出現をです。94歳の電気店、ミシン店を経営してこられた方と、この月曜日にお会いしてお話をしました。市民大学で机を並べて学んだ同級生でもあり、自治会の元会長さんでもあるのです。この方が、31歳の大谷翔平を諸手をあげて誉めておいででした。

 アメリカのサンフランシスコと、カナダのトロントを、上の兄と一緒に 訪問した時に、教会の牧師さんが、それぞれ案内してくださって、大リーグのbaseballを観戦したことがありました。その折、二都市の球場で、それぞれ、もう引退したイチローと松井秀喜の活躍振りを観たのです。子どもの頃にも兄たちに連れて行ってもらって、後楽園球場で日本プロ野球の巨人戦を観戦したことがあります。その時も超満員だったので、いまのアメリカンリーグも同じです。沢村栄治や川上哲治、そして村上雅則、野茂英雄などの初期の選手がいて、今の大谷翔平、山本由伸らがいるMLBでの驚くべき活躍があるのでしょう。

 アメリカ人野球選手と比肩でき、彼ら以上に活躍する姿を、戦火に散った沢村栄治、その他の多くの戦死された職業野球人のみなさんは、想像もしえなかたことに違いありません。

(“ いらすとや“のピッチャー、”ウイキペディア“の沢村栄治、MLBのロゴマークスです)

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秋到来、間もなく冬、そして春が

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 秋が巡ってきて、まもなく冬がくるのですが、今春、下野国の国府や薬師寺や国分寺国分尼寺、芭蕉ゆかりの室の八島の史跡に、隣人夫妻に連れ出していただいて、念願を果たすことができたのです。どこを訪ねるか、几帳面な私を友と呼んでくれる隣人は、下調べを余念なくされて、ご自分の運転する車で案内してくださったのです。

 京都や奈良を訪ねて、国史に残される史跡や、当時の人物に関わる史跡に造詣が深く、ご夫人を誘っては、毎年1週間ほどの旅をなされってきている方なのです。近畿圏に疎い自分には、日本史を学び直すようなお話を聞かせてくれるわけです。

 この方が、商工会議所に関わっていた若い頃に、この街を中心に、下野の史跡案内図(大型の壁新聞仕様です)を作られて、私立の小・中学校に配布されておいでです。その貴重な案内図を見せてくださったのです。お手元には、もう一部しか残っていないとかで、頂くことはできませんでした。

 そんな関係で、この地に縁のない私たちを、今春、史跡案内に連れ出してくださったわけです。さらに、この街の大平山の信玄平から南から見渡す眺望は、海に浮かぶ島々のような光景を見られるのです。まさに関東平野が延々と広がる様子を遠謀でき、冬季には富士山までも認めることができて驚かされます。

「戦国時代の頃、関東平定を競い対立した越後の上杉謙信と、小田原の北条氏康は、当時の大中寺住職虎溪和尚(こけいおしょう)の斡旋により、永祿11年(15689月、大中寺において和議を結んだ。そのあと、上杉謙信は太平山に登り、兵馬の訓練を行い太平山上から南の関東平野を見渡し、あまりの広さに目を見張ったという故事から謙信平の地名が生まれたといわれる。(栃木市観光協会)

 そんな広大な関東平野に、太田道灌が築城した城を、1590年に、徳川家康はじぶんのものにし、入城して自分の居城としています。現在は皇居となっている城です。上杉謙信が、狭い越後からやって来て、見渡して驚嘆した関東平野に、江戸幕府の中心を置いた家康ですが、謙信の果たし得なかった天下統一を果たしたことの証が、あの江戸城だったのです。

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 関東平野の南、富士を仰ぎ見られる街で育った自分にとって、ここ栃木に住み始めて、謙信を驚かせた平野の広がりを、同じく謙信平から眺めて、納得がいったのです。以前は、路線を乗り換えて、繋がっていたのを、今では県都・宇都宮から横浜や小田原まで、ほぼ高低差なく、一本で乗り通せるのにも、この平野の広さが実感できて驚かされています。

 京都の都から、国司が遣わされ、日本の各地に置かれた国庁で、朝廷の支配が行われていき、ここ下野国にも、国分寺、国分尼寺、薬師堂などが建てられていきました。その遺跡を案内していただいて、思うことが、この春に多くありました。建られた建物は朽ち果てていますが、国庁や寺院の建造物を支えて、載せた礎石が残されているばかりですが、眺めていると、壮大な建物の様子が目に浮かんでくるようでした。多くの都人がやって来て、地元で任職された役人や職人や工人が、地方行政を果たしていたことになります。

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 「日本三大桜」と言われる名木があります

1.三春滝桜 福島県田村郡三春町大字滝字桜久保 (江戸彼岸桜 紅彼岸桜) 

2.山高神代桜  山梨県北杜市武川町山高 実相寺(江戸彼岸桜)

3.淡墨桜(うすずみざくら) 岐阜県本巣市根尾谷 淡墨公園

 その一つ、岐阜の淡墨桜の「子孫樹」が、栃木県下野市国分寺の「天平の丘公園」の国分尼寺跡に植えられてあります。咲き終わりの頃に、薄く墨色に変色するそうで、薄墨桜と命名されたのだそうです。案内された時には、満開で、まさに桜色でした。散る直前に変色する頃に訪ねられたら、さらに趣があったことでしょう。

 10月も下旬、二、三日前の朝は、霧が街を覆って、その様子を、「モヤって」と言うでしょうか。東の筑波の峰も西の大平山も、北の男体山も全く認めることができませんし、川を挟んだ友人の家も霧の中でした。このところの天候は晴れて、秋晴れが続き栃木です。

 四季折々の山も川も、休止状態になりつつある秋、そろそろ紅葉が始まっているようです。何年か前の週日に、「わたらせ渓谷鉄道(JR両毛線の桐生駅から間藤駅までの第三セクターの鉄道です)の一両編成の電車に乗ってみました。かつては歴史に名高い足尾銅山の銅を運び出した鉱山鉄道で、日本国有鉄道から私鉄になって、今に至っています。この沿線は紅葉が美しいのです。鉄路から渡良瀬川を見下ろし、見上げる山肌は、美しい秋の色でいっぱいなのです。今秋も、また訪ねてみたいものです。

 あの史跡探訪の後、お蕎麦屋さんに隣人夫妻と私たちで行って、蕎麦を一緒に食べました。春の蕎麦だったのですが、秋の蕎麦は新蕎麦で、出流山のお蕎麦屋さんのものは、格別に美味しかったのです。今年も近所のみなさんで、公園の落ち葉掃除の後に、市バスに揺られて行く計画中です。もう秋たけなわの北関東です。

(「わたらせ渓谷鉄道西足利駅の改札口」、ウイキペディアの「日本蕎麦」、「淡墨桜」です)

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博士号を固辞した漱石

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 昭和30年代の初めの頃でしたが、父に言われるまま、中学受験をしました。父の友人に、大正デモクラシーの時期に創立された中高一貫校がある、と勧められたからでした。まだ「末は博士か大臣か」と勉励努力の目標が掲げられていた時代だったのでしょうか、四人の息子たちの一人くらいはと、父も思ったのかも知れません。何もわからないまま受験したのです。一緒に入学した同級生が120人、くぬぎ林の中にあった、中高6年の男子だけの一貫校で学んだのです。

 高校生と一緒の運動会があって、一学期から、校庭にあった、大運動場に集められて、校歌や応援歌の練習が行われたのです。早稲田や明治などの大学の応援歌の替え歌を歌わされ、東京六大学を目指して学ぶ様に鼓舞されたのです。担任は東大出で、3年間、社会科を教えてくれました。高等部の教師は、「奥の細道」を、特講のように教えてくれ、「月日は百代の過客にして、行きこう年も・・・」と、大人になったように感じたのを覚えています。

 数学が好きだったので、東工大を目指して、土木を学びたかったのですが、教壇を降りて、生徒と同じ床の上に立って、朝礼も授業の前後の挨拶をしていた担任の影響で、教師になろうと思ったのです。バスケットボール部に入って、高校生と一緒に練習させられ、ノッポの中のチビの自分は、必死になってボールを追いかけ回していました。そこには、OBの大学生や社会人が出入りしていて、可愛いがられたり、ビンタを張られたりもありました。都内の高校で行われた試合に、ボール持ちで付いて行って、帰りには新宿で、どんぶりメシをおごってもらったりして、実に楽しかったのです。

 勉強もクラブも面白かったのです。南極探検隊の副隊長された方がOBで、講演会があって、興味津々で話を聞いたりしました。けっこうOBが社会で活躍していて、大学の教授になったり、博士がいたりで、男子の本懐は、その博士になったり、社長になったりの刺激が一杯の学校でした。

 さて一通の手紙が残されています。

「拝啓、昨20日夜10時頃、私留守宅へ(私は目下表記の処に入院中)本日午前10時頃学位を授与するから出頭しろという御通知が参ったそうであります。留守宅のものは今朝電話で主人は病気で出頭しかねる旨を御答えして置いたと申して参りました。学位授与と申すと、2、3日前の新聞で承知した通り、博士会に推薦されたに就(つい)て、右博士の称号を小生に授与になる事かと存じます。然(しか)る処、小生は今日までただの夏目なにがしとして世を渡って参りましたし、是から先も矢張りただの夏目なにがしで暮らしたい希望を持っております。従って私は博士の学位を頂きたくないのであります。この際御迷惑を掛けたり御面倒を願ったりするのは不本意でありますが、右の次第故(ゆえ)学位授与の儀は御辞退致したいと思います。宜しく御取計を願います。』

 そうです、これは夏目漱石の記した一封の手紙なのです。1911年(明治44年)2月に、<博士号〉を推挙する通達を、彼は受け取るのです。生まれながらでしょうか、漱石は称号や勲章や褒章などを好みませんでした。そんな彼に、文学博士のタイトルを差し上げたいと言われた訳です。

 その前年に、漱石は胃潰瘍になってしまっていました。その時、ひどく吐血をして、命の危険を経験しています。伊豆の修善寺の旅館で、温泉療養をしていたのです。やっとの事で、病状が平泰し、秋口になって帰京していました。といっても家に戻ったのではなく、市中の病院に入院していたのです。心も体も疲れ果てて、気も滅入っていた時に、文学博士授与の通達でした。そのお役所仕事、一方的な知らせが、反骨漢の漱石は気に入りません。それで辞退したわけです。

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 潔いではないでしょうか。と言っても、文筆家としては、「吾輩は猫である」、「坊ちゃん」、「草枕」などのベストセラー作家で、名を馳せた人でしたし、松山中、熊本の五高、東京帝国大学で教鞭をとった教育者でもありました。留学経験もあります。宮仕えが不得手だったので、朝日新聞に入社してしまいます。専属作家となった漱石は、もう44歳になっていましたから、博士になっても良い頃合いだったのです。でも、それを固辞したわけです。そればかりではなく、東大の教授への就任も断っていたのです。

 そんな漱石の脳が東大の医学部の棚に残されているそうです。重さまで測られていて、1,425gだったそうですから、平均値の1300gよりもだいぶ重い人だった様です。人の価値は、脳の重さでは測られなさそうですが、名小説家の脳を残そうした意図とは、何だったのでしょうか。当時の文部省は、漱石の脳には関心はなかったのでしょうけど。

 夏目漱石の功績の中で注目したいのは、多くの小説を書いたことと関係がありますが、近代日本語を形作ったことだと言われています。シェークスピアが、イギリス国語を形作った様に言われるのと同じでしょうか。何度もブログに書くようですが、漱石の日本語は、明治の落語界の祖とも言われる三遊亭圓朝(1839年~1900年)に学んだ、寄席に出掛けては、寄席噺をよく聞いていたと言われています。

 この圓朝は、江戸末期に、江戸の湯島切通町で生まれ、5歳で高座に上がったそうで、江戸、明治の落語界で活躍されています。江戸落語を集大成したことから、〈落語界の祖〉とまで言われています。圓朝の噺に、日本語の根があると言われています。言葉に関心を向けていた漱石は、江戸っ子でしたから、その生粋の言の葉を、寄席で、圓朝に学んだことになります。

 たぶん漱石贔屓(ひいき)の自分は、そんな庶民的な、江戸気質が好きなのかも知れません。ちょっと関係がないのですが、家内の本籍は、湯島聖堂の近くの湯島切通坂町なのです。文学者のような厳つい文体ではなく、庶民の言葉で平易に徹した物書きだったから、庶民の支持を得て絶大な人気を博したのでしょう。一万円札ではなく千円札の肖像に選ばれたのも、そんなところにありそうです。大臣や博士に縁のない私たちの様な庶民でいたい、と願っていた人だったのかも知れません。

(“いらすとや”の博士、“ウイキペディア”の東京・千駄木にあった漱石の家です)

『ありがとう!』が言われたくて

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 1964年に、東京でオリンピックが行われました。戦時中に開催予定だった日本での大会が、第二次世界大戦の勃発で中止になって以来の懸案でした。焼土の中から立ち 上がって、戦後の復興を遂げた姿を、世界に向かってアピールしようと、開催されたのです。19歳の時でした。

 それから50数年後の2020年に、再びオリンピックが開催されました。そのための”presentation”が、2013年に行われています。その折、滝川クリステルさんが、[お・も・て・な・し]を掲げて、国をあげて、海外から来られる大会の役員、選手、観客を歓待しようとしたのです。この言葉は、その年の流行語大賞に輝いたほどでした。

 サーヴィス業界で、お客様へのあり方で、「おもてなし」と言うことが、注目され始めたのは、どの様な業界だったのかと考えますと、それはホテル業界だったのではないでしょうか。私の次兄は、日本に本格的な外資系のホテルが進出した時に、鉄道業界から転出して、そこにでルームボーイから始めて、管理職になりました。

 ルームボーイは、シーツを敷き替えるベッド作り、トイレや床掃除などが主な業務なのです。ホテルマンとしての第一歩から始めたのわけです。有名はロックミュージックのグループが初来日する時期の前だったと思います。アメリカン方式のホテル業務を、アメリカ人のジェネラルマネージャーから徹底的に教え込まれたと言っていました。その頃、兄から、この「もてなし」 と言う言葉を聞いたのです。

 日本の有名な観光地に、ホテルが開業していく時期に、そのホテル運営のために、将来ホテルを背負って立つ若いホテルマンたちが、そのホテルにl研修に来たのだそうです。どの業界でも、後発の企業は、経営も運営も、モデルと目される会社に学んでいく様ですが、日本的な伝統的なホテルも、サービスを売る業界ですから、鎬(しのぎ)を削りながら、そのサーヴィスで競争していくわけです。

 すでに就職先が決まっていた時期に、卒業まで間、そのホテルで、自分はルームボーイのアルバイトをしたのです。ただシーツを取り替えるだけではなく、敷いたシーツに、10円硬貨を落として跳ね上がるほどにしなければならなかったのです。たかがシーツ敷きですが、それがサーヴィスの第一歩、基本だと教えられたわけです。

 その兄の弟だと言うことを隠して、そこで働いたのですが、けっこう高く評価され、任される業務もあって、面白そうに感じて楽しく働いたのです。中高の恩師で、一緒に史跡の 発掘調査などをさせていただき、教育実習の担当でもあった先生の紹介でしたから、それを変えることはできなかったの、ホテル偉業会には残りませんでした。

 その仕事は、第三次産業であって、農林水産業の様な自然を相手にした。第一次産業は鉱業、建設業、製造業などです。第一次産業が採取したり、生産した産品を加工・生産する第二次産業とは違って、サーヴィスを売る産業です。応対といった接客で、客相手に笑顔で丁寧、そして満足して頂くような仕事なのです。

 兄自慢になって恐縮ですが、日本のホテル業界では、一万人の顧客をフルネームで覚えていると言うことで注目され、”Mr.Shake hand“と言われて、テレビや業界誌にも紹介されていました。大仰に[お・も・て・な・し]と言うほどではなく、兄の基本は、[ほんの少しのService]なのだそうです。それが一流のServiceにつながるからです。

 最近、上手な接客をされる方は多くおいでですが、中には、素っ気ない仕草でいる方が目立たないでしょうか。面白かったのは、中国で生活していました時に、お店に入って、物色している時に、店主とか店員の方が、『你要什么?何が欲しいのか』と、だいぶう違う語調で言い、付いて回るのです。『盗ませないぞ!』と言う、接客と言うよりは、警戒心と抑止力を目に含ませて、後に付いてくるのです。

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 どうも、あちらでは『盗まれる方が悪い!』と言う考えがあるので、警戒心丸出しなので、あれは接客ではなく監視だったのです。それが普通ですから、悪気ではないのです。でも、イギリスやフランスやアメリカの「超市(chaoshiスーパーマーケット)」ができ始めてからは、『欢迎(huanyingいらっしゃいませ)!』と言う様に接客が変わっていきました。

 でも、最近の傾向は、愛想が良くない様に感じられるのですが、こちらの客の態度が悪いのかなと思ってしまうほどです。それとは反対に、幼稚園生や小学生が、横断歩道を渡り終えると、一旦立ち止まって、止まってくれた車と運転手に向かって、頭をさげて挨拶をしているのを、この街でも、よく見かけます。自転車族の私が、自転車を止めて道を、彼らに譲ると、挨拶や会釈をしてくれます。

 これは「おもてなし」ではなく、「感謝」なのでしょう。この感謝は、社会の中の「潤滑油」なのですね。人が人と関わる時に、和やかさや安堵感を与えられるのは、心と心の触れ合いであって、相手への感謝こそがいちばんの絆、関わりになるのに違いありません。

 “ hospitality ”と言ったり、”treatment”とか“reception”とかに、日本語にが訳される言葉ですが、ホスピス、ホスピタルも、やはり、「もてなし」の一環なのでしょうか。この一、二年、病院通いが多くなってきて、それなりに老齢期を迎えている自分ですが、今でも、ちっとした気遣い、言葉に、元気にされるのを実体験しているのです。もしかすると投薬された薬や医療行為よりも、効果があるのは、ちっとした眼差しや仕草や言葉なんだよな、と思ってしまうのです。

 安心して病院から家に帰って来るので、心を安んじられる存在や時こそが、究極の「おもてなし」かも知れません。受けたら、どなたかにお返ししたいと思わせられます。兄のホテルマン人生は、『ありがとう!と言われたかった!』と言っています。たったの一言の「『ありがとう!』に、驚くほどの力が込められているか知れません。

(”いらすとや” 、”イラストマン“のイラストです)

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旅をゆく

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 京の都から、毎年春になると、日光にある「権現様(ごんげんさま)」と称された徳川家康の墓所を訪ねて、幣帛(へいはく/供物)を供える旅を、公家の一行がし、東照宮に参内していました。この一行は三月末か四月一日に、京を発って、中山道から例幣使街道を経て日光に向かい、四月十五日までに日光に到着したのです。翌朝、東照宮に幣帛を納めたのです。それは江戸幕府を開いた家康の威光の凄さが、強く示された年中行事でした。幕末、明治維新まで続いたそうです。

 この使者を「例幣使」と呼び、この街道を日光に向かって歩き通したのです。雅(みやび)などとは程遠い彼らは、天皇の名代(みようだい)ということで、その横柄ぶりは際立っていたそうです。迎え入れる宿場や街道沿いの住民は、紛々やる方なく、業を煮やしたほどの嫌われ者だったのだそうです。京を出て、中山道を下り、上州倉賀野宿から日光今市宿の例幣使街道で、一行はやって来たわけです。ここ栃木も宿場町でしたが、今では、その風情は感じられません。

 この一行は、務めを終えると、京への帰りは日光街道で宇都宮に出て、そこから江戸に向かった様です。そこで数日、憂さを晴らすように遊興し、東海道を京に向けて帰っていったのです。先週末、栃木を出て、静岡に向かったのですが、今では高速道路網が張り巡らされていて、奥州街道ではなく東北自動車道、圏央道、東名高速道路を利用しての旅でした。例幣使一行が帰っていく道を、何度か横切ったのだろうと思うと、その遠さや険しさ、雨で増水して川留めで、待たされていたことなどを思い巡らすと、ちっとこの一行に同情的にもなってしまいました。

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 日本橋を出立して、 江戸から京都までは約492km、普通、歩くと2週間ほどかかったのだそうですから、駿河の掛川宿までは、四、五日掛かっていたのでしょうか。八十代の老夫婦だったら、もう、そう言った旅など、することはなかったことでしょうけど、駕籠に乗れる身分でもなさそうですし、あんなに窮屈で揺れる箱に座っていられそうにありませんが、もし歩いたら何日を要したことでしょうか。そんなことを思いながら5時間ほど、息子の運転する車に同乗していました。

 その便利さ、快適さ、道々にはサービスエリアがあって、立ち寄っては用を済ませたり、食事もできる、この時代の溢れるような行き届いた備えに感謝したのです。まだ現役の頃は、熊本や倉敷に、車で行ったことがありましたし、何時間運転しても大丈夫だったのを思い出してしまいました。息子に乗せてもらえたのは、なんと感謝なことではないでしょうか。竹筒ではなく、ペットボトルを持ち、草鞋ではなくスニーカーを履き、団子ではなくクッキーやバナナも、手元にあっての一日の旅でした

 道路脇に茶畑があって、それを眺めていましたら、♯ 清水港の名物はお茶の香りと男伊達・・・・♭ の歌の文句まで出て来てしまいました。かつては長閑(のどか)とか、悠長な旅とは言えない、けっこう厳しく辛い歩きの旅だったに違いない、弥次喜多の様な膝栗毛だったのでしょう。私たちの今回の旅は、息子に完全にお任せだったのですが、彼が子どもの頃は、私が、貰い物のだいぶくたびれた車を運転していました。途中で故障したりが多かったのですが、息子は、同じ中古でも、けっこうgrade の良い車でしたから、時代差があったわけです。

 それでも将来ある子どもたちを大切に育てたつもりでした。大事故からも大怪我からも守られ、修理しながら、取っ替え引っ替えしていたのが懐かしく思い出されます。旅の様子は、そんなでしたが、お世話になった方の遺家族との交わりは、感謝でした。激励のつもりが、逆に慰められたり、力付けられたりの訪問でした。家と教会堂の北側には、けっこう大きな農業用水池があって、地域のみなさんのもので、場所的に教会所有の池の様で、自然的に素敵な所にお住いなのです。そこに雑草が繁茂すると、彼が率先して刈っていたのだそうです。地域のみなさんにも感謝されていた主の僕だったわけです。

(ウイキペディアの「東名高速道路」、「東海道中膝栗毛」の写本です)

宿題を出し終えた様な遠州訪問記

 この週末に、7ヶ月前に、急に帰天された若き友人のご家族を、静岡県下の街に訪ねることができました。家内と私にとっては、2019年の1月の帰国以来の遠出の旅で、それを実現できたのです。上の息子が、休みを取れるというので、前の晩に、車で来てもらって、翌朝早く出かけるように計画したのです。6時半の出発予定でしたが、15分遅れ家を出ることができました。

 東北自動車道、圏央道、東名道で、途中3ヶ所の渋滞がありましたが、二度ほど休憩をし、約束の時間に、15分遅れでの到着でした。そこは、私たちの子育て中に、毎年二、三度、夏の海水浴に出かけたことがあった海辺の街の近くなのです。5時間の行程に、家内は、リクライニイグシートに横になったりしながら、帰りには運転をする息子を激励しようとしてでしょうか、賛美をしたりの車旅、訪問となりました。

 玄関前でハグで、夫人とお嬢さんと息子さん、そして、彼らのお兄さんと妹さんご夫妻が、やって来られていて、一緒に歓迎してくださったのです。ご夫人とお嬢さんで、とても美味しい歓迎のランチをご用意くださって、3時間ほどの滞在で、歓談することができました。長男夫妻は仕事でフランス滞在中でお留守でしたが、お嬢さんと下の息子さんとも、良い交わりが与えられました。

 もう三、四十年も前になるでしょうか、彼のお父上ご夫妻が、牧会されていた教会に、何度も家族で招いてくださって、二、三日滞在させていただいたことが、何度もあったのです。当時、お子さんたちは、私たちの訪問時には、彼らのベッドを、6人家族の私たちに提供してくれて、どこかにもぐりこんで休む様な、大きな犠牲を喜んで払ってくれたお子さんたちでした。

 とくに彼は、私がしていたスーパーの床掃除を、ある時期、何度も手助けしてくれたのです。電車を乗り換えて遠路を来て、夜間の作業を助けてくれました。仕事が終わると、翌朝、眠い目をして帰って行かれたのです。実に忠実で一所懸命助けてくれたナイスな青年の彼でした。

 お父上もお母さまも、家内の若い頃からの家族ぐるみの知り合いだったので、彼が赤ちゃんだった頃に、ご家族で日本宣教のために初来日の折には、アメリカ訪問中で帰国する義母は、終いっ子の彼をおんぶをして一緒に羽田にお連れしたのだそうです。お父上は、私の家族の世話を、8年ほどしてくださった宣教師さんの友人でもありました。言葉にできないほどに援助、激励、執り成しをしてくださった方でもあったのです。

 32年ほどの奉仕を一区切りして、隣国に出かけた私たちを、その滞在の13年の間、様々に支え続けて下ったのが彼と奥さまでした。帰国しますと、教会と家庭に招いてくださり、ホテルに部屋を用意してくださったりもしてくださったでしょうか。慰めと激励のひと時を、何度もご用意くださったのです。

 そんな彼との生前の出来事を、帰国以来、残されたご家族と、思い出を話したり、感謝したりしたかったのを、今回、やっと実現できた訪問でした。二年ほど前、元気だった彼が、家族全員で、栃木の我が家を訪ねてくれたことがありました。言いえない様な素敵な交わりをさせて頂いてきていたのです。彼が召された後も、家族やご兄弟で、教会の交わりを継続しておいでで、感謝したのです。近隣のみなさんへの救霊の思いもお聞きできました。私たちも大いに励まされた訪問でもあったのです。

 帰りしな、お宅の玄関に出た時、金木犀の甘い香りが漂っていました。行き帰り、10時間以上、我が家から自分の家に帰る2時間も加えると、半日以上にもわたる運転をしてくれた息子に感謝した訪問でもありました。何か残していた宿題を出し終えた様な思いがして満足な再訪だったのです。主が、支え激励している彼のご家族への感謝が、少しできたでしょうか。主が、愛するみなさんと共にいてくださる様に、切に祈る朝であります。主に感謝して。

(ウイキペディアのこのご家族の住む町の市花の「キンモクセイ」です)