.
.
もう何年も、飛行機や新幹線に乗っていないのです。3ヶ月に一度、中国新幹線の「和階 hé xié(”Harmony ”を意味して車体に印字されてあります)」に乗車して、厦門(アモイ)で下車して、台湾領の金門島に行く船に乗船したのです。それはビサの滞在期限3ヶ月の更新で、出国入国を繰り返していました。ドイツと日本との技術提携で始まった中国の高速鉄道でしたが、けっこう乗り心地は良かったのです。
家内の両親や兄姉妹が、海外にいたことや、友人で牧師さんのご好意で、子どもたちがアメリカで学ぶ機会が与えられて、よく飛行機に搭乗したのです。それまで、初めての飛行機の利用は、最初の就職先の出張で、福岡に行った時に、そこの事務局の方が、飛行機のチケットを買ってくれて、板付空港(現在の福岡空港です)から羽田空港まででした。それまで見上げて眺めていただけの飛行機に乗れたのです。
母の故郷に、兄弟四人で出かけた時には、東京駅から東海道線、福知山駅から山陰線に乗り換えて出雲市駅まで、鈍行列車の旅をした覚えがあります。初めての長距離旅行でした。狭い客車にすし詰めで、トイレは遠いし、食事は、停車駅ごとの駅弁でした。飲み物は、ペットボトルなどなかった時代、土瓶入れのお茶だったのです。母一人で、四人の男の子の世話をしてくれた大変な旅でした。
これまで一番の長旅は、成田からカナダのトロント、トロントからフロリダ、フロリダからブラジルのサンパウロ、サンパウロからアルゼンチンのブエノスアイレスへの航空機乗り継ぎの旅でした。34時間ほどの旅程で、あんなに疲れた、空の旅はありませんでした。ほぼ地球の裏側まで出かけて、アルゼンチン版のガウチョ(カウボーイのことです)の草原の食べ物、薪の直火焼きの牛ステーキを食べに行ったのです。
でも、他の参加者にほとんどを食べられてしまって、ほんの一切れの肉片だけが、私には残されていて、それしか食べられませんでした。みんなガウチョ化して食べていて、ちょっと遅れて、火と肉の周りに行きましたら、わずかな残り物だけで、それを一口食べただけだったのです。参加者は、名だたる日本の牧師さんたちだったのに、みなさんの全くの無作法に残念な目にあってしまったのです。
その旅は、世界で名を馳せた教会形成に成功しているブエノスアイレスの教会でのセミナーに参加した時でした。みなさんは牧師さんたちでした。延々とパンパ平原を西にバスでの長旅をしたのも大変でした。日本の魂の救いのために祈っていてくださる教会があって、その教会への表敬を込めた訪問でした。
実は、私は、17歳の時に、アルゼンチン移民を考えていたのですが、それを果たせずにいたので、この機会を得て、アルゼンチンへの果たせなかった夢を思い出すのが、第一の目的だったのです。また南十字星を見たかったですし、赤道を越えてみたかった私としては、胸を躍らせるような旅だったわけです。もし、あの十七の夢が実行されていたら、この自分が、どんな生活を、ブエノスアイレスで送っていたかを思ってみて、一入の思いがあったのです。
義兄は、十八で、ブラジルに、移民していましたので、彼を訪ねたい願いもあって、旅の一行から離れて、一人サンパウロを訪ねたのです。空港に迎えに来てくれた義兄の車で、サンパウロから1時間ほどの彼の街に行きました。大歓迎をしてくださったのです。
同世代の移民の子で、和歌山からお母さんと子どもさんたちで移民船に乗ってやって来られた方がおいででした。義兄の親友で、リンゴ園を経営し、大きな貯蔵所を持っていて、収穫したフジ種のりんごを貯蔵し、時期を見て出荷するような大きな規模で会社を経営しておいでの方でした。この方が、フジのリンゴを一箱届けてくださったのです。母子家庭の子だったそうですが、辛苦の末、農業移民の成功者となったお一人でした。
移民でやって来た初期に、故郷が恋しくてホームシックにかかって、自死してしまった仲間を、土を掘って墓を作り、葬った経験などを、義兄が話してくれたのです。移民秘話は多くあるようでした。青空マーケットに、義兄の奥さんが、連れて行ってくれたことがありました。そこに移民1世の日本人のお婆さんが、ご家族と一緒に来ておいででした。あんなにさびしそうにしていた姿を見て、一代目の移民のご苦労を見てしまったようです。
サンパウロの地下鉄の日本人街のリベルターデ駅前の石のベンチに、日本人からの移民の年配者の方が、黙って座っていました。それもまた寂しそうにしておられ、ポルトガル語を覚える余裕のなかったご自分の世代と、お孫さんたちの世代との隔絶があるのだと、義兄に聞きました。ご苦労の連続の日々だったのでしょう。それは、アルゼンチンも同じで、移民でたどり着いた港は、うら寂れていて、哀愁が漂っていました。
そこに、イタリヤやスペインからやって来た初期開拓者たちが港の外をを眺め、はるか大西洋の彼方の故国を懐かしんで、やってくる場所の一つなのだと聞きました。ハワイもオレゴンもカルフォルニアも、同じ日本移民の地なので、そんな歴史を残しているのでしょうか。
今は、生まれ故郷や育ったま街から、けっこう離れて住んでいますので、七年目の街でありながら、時々故郷を思い出し、兄たちと過ごした時期を懐かしんでしまうのです。歳をとるとは、そういうことなのだと思うこの頃です。誰にもある故郷を、遠くに思うのです。これも望郷なのでしょうか。
(ウイキペディアの「南米移民募集ポスター」、ブエノスアイレスの「ラ・ボカ・
港」です)
.