よかった、と感謝したこと

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 私の住んでいた街に、小さいのですが、伝統のある「動物園」がありました。近隣の町々村々の子供たちに長く親しまれて来たものです。私が小学校時代を過ごした町には、当時、日本最大の「動物公園」がありましたし、上野にも、遠足やそのほかで1~2度行ったことがあります。

 この動物園には、園内を回る電車や空中を飛ぶ飛行機の乗り物もありました。茶店と売店もあって、おでんやポップコーンやラムネが売られていました。入園料が安かったので、格好の遊び場でした。隣には、図書館があり、大きな公園もありました。

 ですから、私の子どもたちを連れて幾度となく行ったことがあるのです。街中にあるのですが、動物の鳴き声なども半端ではないのですが、よく周りの住民からクレームがつかないものだと、感心したものです。それだけ、子どもたちの明日のことや夢のために、耐えてくれていたのかと思わされ、感謝したも

のでした。 

 長女を初めて連れて行ったときに、絵本でしか見たことのなかった象を見せたことがあります。入り口の正面が、象の檻だったのです。その鼻を上下左右に振っている実物の象を、彼女が見て、腰を抜かして座り込んでしまいました。そのあまりもの大きさの違いに、びっくりさせられたからだったのです。その様子は、いまだに忘れられません。

 動物園と言えば、ハワイにある動物園に、《世界で一番怖い動物》と記された檻があるのだそうです。それを観たくて、行ってみたことがありましたが、その檻を見つけることが出来ませんでした。その折に、鏡がついていて、それに自分を映しますと、自分の顔が映るのです。その映った私たちが、『一番怖いのだ!』というジョークなのだそうです。

 そういえば、人間って、何でも食べてしまうし、人をむやみに殺してしまうし、原子爆弾を作ったり、殺人ゲームを作るのは人間ですよね。動物たちに恐れられても仕方がないことになります。町の動物園にも、サルの檻があり、ニホンザルとか、そのほかのサルがいたのです。でも、そこには、「ニホンザル」と掲出されていて、決して、「われわれ人間の祖先」とは書いてありませんでした。

 見ている人間と、見られているサルとは、別世界に生きているからに違いありません。私の机の隣が、生物の先生でした。一回り上の年令の先生でしたが、生意気な私は、「創造論」を掲げて、彼の教える「進化論」に挑戦したのです。

 生物学に素人の私でしたが、進化論にはプロの彼は、的確に「進化論」を論証できなかったのです。動物園では、異種の動物としているのに、子どもたちに学習させている教育の現場では、『このサル(類人猿と言うようですが)は私たち人間たちの祖先なのです!』と、仮定の理論から、まるで真実でもあるかのように教えているのです。

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 「進化論」を最初に、公に主張したダーウインは、聖書の「創造論」を学んだ神学生でもあったのだそうです。ところが、マダカスカルに棲息する原始動物を見た時から、「進化論」を主張して、「種の起源」を著わします。しかし晩年、彼は自分の考え方は間違っていたと言ったのだそうです(私は直接に調べていませんが、その話を聞いたことがあります・・念のため)。

 ですから私は、サルの前に、子どもたちを立たせて、『おじちゃん!』とか『オバちゃん!』なんて呼ばせませんでした。私は、兄たちにからかわれて、申年生まれでもありますし、行動がおっちょこちょいで落ち着きがないので、『サル!』とからかわれていました。

 だからと言って、サルの仲間内に、人間になりかけているのを捜したりはしませんでした。アフリカで原始的な生活をしている方々を、その教育程度や文化程度の低さから、『類人猿にもっとも近い人たちだ!』と言っている人がいました。が、5年も、私たちと同じ教育をお受けになられるなら、まったく違わない能力が啓発されて、われわれ以上の学識を得て、人類の向上のために貢献されるに違いありません。

 だって、サルの脳は、人間の脳の質量とは雲泥の差があるからです。わが国のクリスチャンの科学者が、「クリエーション・リサーチ(http://sozoron.org/home/modules/contact/)」を立ち上げておられます。専門的なことはお問い合わせください。

 私は、行動も顔も、たとえサルには似ていても、創造者によって、独特にお造り頂いた「人」であることを疑っていません。神の愛を、震えるほどに感知し、感謝することができ、神を賛美することが出来るからであります。よかった!

(“いらすとや”の動物園と猿です)

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こんな事があった時代

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ずいぶん以前のことになりますが、三重県下で伝道されている教会の牧師さんのご子息が、私たちの教会の礼拝にお見えになったことがありました。近くでお仕事があるとのこと出張で来られ、礼拝を守るためでした。彼のお父さまは、「美濃ミッション」に所属される教職だったのです。このミッションが、「真のキリスト葬儀の手引き」という小冊子を刊行されていて、それを、私を教えてくださった宣教師さんから頂いて、読んだ私は大変に感動させられたのです。

日本の教会が、仏教に倣って葬儀を行うことに対して、その間違いをはっきりと指摘して、『聖書的な立場』を主張されておられたからです。日本の社会の中で生まれた者には気付かない、「霊的敏感さ」を彼らが持っていたのです。「お花料」は「香典」、「献花」は「焼香」と、まったく変わらないので、『してはいけません!』とはっきり主張されています。

このミッションは、1918年に再来日された、アメリカ人宣教師のワイドナー女史によって、岐阜県大垣市に創立されています。この方は、1900年においでになられた時には、仙台の宮城女学院で校長をされていましたが、帰国されて再びおいでくださったのです。

1933年(昭和8年)のことでした。このミッションの聖書学校に学んでいた学生の12才になる息子さんが、『それは偶像礼拝だから!』と言って伊勢神宮参拝を拒否したのです。美濃ミッションが、国体に反する「危険な教え」をしているとされ、直ちに迫害が起こります。全国紙に、このことが報道され、国家神道と妥協することを拒む真のキリスト教に対する全国的な反対が、全国民の総意のようにして掲載されたのです。

12才の少年と、その弟、料理人をされていたOさんの娘は、参拝を拒否した理由で、学校から退学させられるのです。ワイドナー宣教師さんも教会の指導者も信者さんも、毎日毎日、警察で尋問されますが、『我らはたとえ死んでも絶対に妥協しない!』と、警察署長や刑事や校長や町のリーダーたちの前で言明したのです。すごいですね!

彼らは、まさに「日本の敵」、「非国民」との烙印を押されました。町の人たちに、家が焼き討ちにされそうにもなったのだそうです。ミッション内部からも脱落者が多くあったようです。当時のすべての学校には、今日、金日成や金正日の写真が北朝鮮のすべての家庭に掲げられているように、天皇夫妻の写真が掲げられていました。戦中の生徒は、朝礼時には、東京の天皇の住居のある宮城に向かって拝礼(遥拝)をすることが命じられていたのです。公共の場では、どこでも、それが励行されていたのです。

そのような中での、伊勢神宮参拝拒否だったわけです。すごい信仰的な勇気ではないでしょうか。ダニエルように、あの3人のヘブルの少年のような、大胆で誠実で真実な信仰が、このミッションの中には流れていることになります。しかも12才の少年の心に、しっかりと信仰が継承されていたことは、ただ主をほめたたえずにはいられません。

この困難な時代を生きる私たちにも、大きな励ましであります。ノーベル平和賞候補になった、日本を代表するキリスト者だったKが、伊勢神宮に戦勝祈願の参拝を行ったのと比べて、この12才の少年の「真理」の上に立った信仰、その良心と確信からの参拝拒否は、日本教会史の特筆すべき出来事ではないでしょうか。

(“ウイキペディア”による、当時の美濃ミッションの本部、“ある信徒“さんの真理のイラストです)

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今まさに、万軍の主が

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 栃木県下にも、悲しい歴史の名残の地がいくつか残っています。日光の「戦場ヶ原」は、その一つです。これは氏族と氏族に戦いではなく、中禅寺湖をめぐって、男体山の神と赤城山の神が争った「戦場」だったと言う「神話」によるものです。昔は湖であったのが湿原となったもので、広大な面積の広がりを見せています。

 この湿原は、多くの種類の植物の自生地で、植物学の宝庫でもあるようです。また、野鳥の種類も多く、鳥類学の研究にも貢献しているのです。中禅寺湖の魚を餌にして、営巣する水鳥も多いそうです。ラムサラール条約に登録されるほどの湿地帯で、動植物研究の宝庫でもあります。

 数年前に、案内していただいて、訪ねることができました。明治以降、文人たちにjも愛され、外国人に人気の観光地でもあります。JRや東武の日光駅前のバス乗り場には、多くの外国からおいでの観光客がいました。家内と足尾へのバスに乗り継ごうとした時に見かけたのです。神話とは別世界が広がっています。

 市内を運行する「ふれあいバス」に乗って、市の北部に行くバスの通る道の脇に、「小平邸」があります。そこは東武日光線の「合戦場駅」で下車しても行くことができます。国産で電動モーターを作り、その業績で、日本の工業化に貢献した小平浪平の生家が残る街なのです。

 かつて群雄割拠した戦国時代に、宇都宮氏と皆川氏(栃木市皆川に居城しています)が合戦した戦場のあった場所で、標茅ケ原での合戦のなくなった今では、地名だけが残され、合戦の大騒動など、全く感じさせない静かな住宅街になっています。江戸期には、大権現とされた徳川家康の墓所、東照宮に至る、例幣使街道の道筋に位置し、宿場町でした。

 お百姓さんは、合戦に兵士となって連れ出され、耕す田畑は踏み荒らされ、大変な時代だったのでしょうけど、やはり平和な時代がいいですね。強くなった日本は、大陸や南方に兵士を送って、領地獲得に狂奔したのですが、出征兵士を送り出した記念碑が残されています。そればかりではなく、私の散歩道には、出征軍馬の記念碑も残されているのに、驚かされます。
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 息子を取られるだけではなく、農耕馬も、戦争に送り出された歴史は、悲しいもので、しばし佇んで、大きな石碑を眺めていました。嘶(いなな)きも聞こえてきそうでした。しなければならない戦争があると言うのは、人の世の大きな悲しみと限界なのでしょうか、音頭をとって送り出されるのは、いつの世も、どの国も、必ず「若者」なのを思うと、悲しくて仕方がありません。

 私の父の世代、出征兵士を歓呼の声で送り出した親は、戦場で倒れた息子、戦場で奉仕なくした看護女子の屍(しかばね)を、涙で抱きかかえて受け取ったのです。父の弟は、「南方」の何処で亡くなったかが分らないまま、空(から)の「骨箱」に、勇士とか軍神とか書かれた紙を入れられて、それを家族が受け取っています。

 人類は学ばないまま、今も、世界のあちらこちらで、同じように戦争が繰り返されているのです。同級生のお父さんは、中国の内陸部で亡くなっています。旧軍の高級将校だったと、友が言っていました。わが家に泊まりに来た時に、お父上と同世代の私の父親に会って、チラッと悲しそうな、羨ましそうな、そしてチョッと悔しそうな表情を見せたのです。私はそれを見逃しませんでした。

『また、戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょうが、気をつけて、あわてないようにしなさい。これらは必ず起こることです。しかし、終わりが来たのではありません。 民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、方々にききんと地震が起こります。 しかし、そのようなことはみな、産みの苦しみの初めなのです。(新改訳聖書 マタイ24章6~8節)』

 今とこれからの時代に起こり、起こるであろうことを、聖書はそう記しています。平和な80年を生きてきて、それがひっくり返させられるような不可避な時が、来るのでしょう。今まさに起こっている時代に、私たちが生きている現実を憂えるのです。でも、私の信じる神さまは、義なるお方で、万軍の主でいらっしゃいます。

(“いらすとや”の戦争関係のイラストです) 

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教会のあるべき姿は

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 『もし大きな教会、強力な教会、社会的に影響力にある教会を作るなら、この世を変えることができる!』と言う誘惑が、教会と教会の指導者たちには一番大きいのかも知れません。私たちの東京の母教会を開拓された方は、アメリカ人の宣教師でした。三十代で、奥様と二人で来日されました。

 この方は、『数年で、日本最大の教会を建設するのだ!』と心に決めて伝道を始めたのです。間も無く数人の男性がやって来ました。一人の方は、祈りも聖書理解も分かち合いも優れていました。やがて宣教師の良き助け手となり、間も無く、宣教師は、この方に、教会の責任を委ねたのです。

 ところが、小さなことで決裂し、群れが分裂してしまいます。宣教師に付く者と、この新しい指導者に付く者とに、教会が二分してしまったのです。宣教師と働き人との関係が出来上がる前に、どのような人かをよく理解しないで、責任をとらせたことが原因だったのでしょう。

 その方は、後年近くの教会の牧師となりますが、問題を起こして、その教会の決議で、牧師職を解かれています。母教会に残ったのは、ほとんど姉妹たちだけでした。ところが何年経っても何年過ぎても、伝道しても伝道しても、その教会に集って来るのは、若い女性だけだったのです。たまにやって来る男性は社会生活のできない人たちだったそうで、躓いては去って行きました。

 この人は、完全に挫折してしまったのです。あの野心は、完全に消えていたのです。しかし、帰国しないで日本にとどまり続けました。十数年の間に、静岡に、もう一つの教会を立てあげてから、この二つの教会を新しい宣教師たちに任せて、アメリカに帰って行かれました。

 傷心しての帰国でした。ところがです、あの若い女性たちの間から、四人の牧師の奥さんが生まれたのです。毎晩集会に集って、聖書を教え続けた実りが、この四人と同世代と年配のご婦人たちだったのです。その宣教師の働きは、日本最大の教会を作れなかったのですが、姉妹たちが、今もあり続ける教会を牧会する夫の配偶者となったことは、小さな働きではないはずです。枝分かれして、今は14ほどの教会が、日本のあちこちにあって、牧会と伝道がなされているのです。

 地上で一番大きな、人数の多い教会は、エジプトのアレキサンドリアにあった教会だと言われています。『その教会よりも大きな教会を作る!』と言うことを目指して、韓国のソウルに世界一の教会ができました。「弟子訓練」によって、そう言った教会が作られたのです。

 信徒の力を活用し、信徒を競争させて、「大教会」を作ったのです。日本のある宗教団体の強い影響を受けたとか聞きました。私は、この教会を三度訪ねたことがあります。私の心の内にも、「大教会建設」の野心があったからでした。でも、私には、そう言った信徒の力を、教会建設のために結集させる賜物や力量のないことを知ったのです。

 教会に託された使命とは、「大教会建設」なのでしょうか。ある牧師セミナーに参加したことがありました。講師は、アメリカでも最大級の教会の有名な牧師でした。どうしたら成功者、つまり大教会の牧師になれるかの成功事例を話していました。そんな集会に出て、宿泊していた部屋に戻ってくると、若い牧師達は、大きな刺激を受けて、心が高揚し、顔も紅潮していたのです。

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 そんな牧師たちの中に、中国地方の瀬戸内海で伝道している牧師さんがいて、次のような言葉をふと漏らしたのです。『私がしている伝道は、小さなエンジンをつけた小舟に乗って、島から島へと、そこにいる数人の信者さんを訪問する仕事なのです。老姉妹たちです。大教会の建設など、全く無関係な伝道に従事してるのです。』とでした。

 その話を聞いた時に、我に返ったのです。そして、99匹の羊を牧場において、失われた一匹に羊を追う牧夫の聖書の話を思い出したわけです。日本では、信徒数が少なく、日曜日に礼拝を守る信徒が、未だに50万にも満たないし、牧師も信徒も高齢化しているのです。

 一人の魂をないがしろにして、何千何万もの教会の幻を見ているのを、主は喜ばれていないことが分かったのです。いえ、聖霊なる神さまは、そう言った願いを持つことを、喜ばれていないことを、私の思いに語りかけてくださったのです。人を救うのは、聖霊の業であって、人の考え出したプログラムによるのではないことを知らされたのです。

 器が整っていないのに、まあまあの規模の大きさの教会を作り上げた牧師が、金銭や女性や、ご自分の家庭問題やプライドなどの問題で、堕落して行くのを、何度も見聞きしました。それは、アメリカや韓国でも、世界中で見られることで、残念でなりません。教会の主は、ご自分の教会を聖別ておられるのです。

 大教会建設のビジョンを掲げ、どうそれを実行するかの方策を研究し、大きく成長した教会に出かけて行って見学し、その方策を学んで帰る旅行が、多く開催さてきました。しかし、方策や理論で教会が建設されるのではないのです。健全な、健康的な教会が、主を賛美し礼拝し続けて、そこにある、それでいいのではないでしょうか。

(“いらすとや”の教会堂の姿、Christian clip arts の教会です)

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今の医療の恩恵に預かれて

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 小学校入学前に、肺炎を病んで、入院した時の国立甲府病院の医師が、牧先生でした。お名前を覚えているので、子ども心に感謝な思いがあったのでしょう。死ぬような病状の中で、父がアメリカから医薬品を入手して、医師に使用投与をお願いしたのです。

 入院中に、父の実家に残されて、未使用の純毛の毛布を取りに行って、遣わしてくれたのも記憶しています。曽祖父がリバプールあたりで買って持ち帰った物だったそうです。死なせたくないとの思いで、両親は必死だったのでしょう。母は、ベッドの横に布団を敷いて、悪戯小僧の身の回りの世話を焼いてくれていました。

 医学と医師と両親によって生きることができ、病後も、すぐに風邪を引く私に、バターを手に入れて舐めさせてくれ、兄たちを山羊の乳を農家にもらいに行かせ、滋養のある物を摂らせてくれたのです。おかげで我儘放題になったのですが、兄たちは、『仕方がないか!』で、小突くこともしないで、食べては放るブドウに皮を、父に拾わされたのだそうです。

 母は、どこに越しても、当時高等水準の先頭を行く医療を施してくれる国立病院を探して、風邪を引く度に、連れて行ってくれたのです。当時の地方都市には、今のような医学部が持つ、大学病院は少なかったからでした。帰りに錠剤と水薬を貰って帰り、駅前のアメリカン・キャンディーを売っていた店で、レーズンやチューインガムやチョコレートを買ってくれました。

 家で伏せることが多く、酷くなると連れ出して病院通いでした。だるさを訴えると、母は長く学校を休ませたのです。熱で、目がまわると、天井板の節穴がグルグル回り、ウトウトしつつ、NHKのラジオ放送を聴いていたのです。ニュース、名演奏家の時間、昼のいこい、落語、浪曲、歌謡曲を聴いた記憶が強烈にあります。昼前になると、「栗山さん」のおじさんが引き売りする、魚、とくにマグロの刺身を母が買って、お昼を用意してくれました。

 中耳炎を起こすと、上の兄の同級生で、ラジオ屋のお姉さんが、自転車の後ろに乗せてくれ、お姉さん腰周りに手を回して、連れて行ってくれました。兄たちとちがって柔らかな腰回りの感触が、手のひらに残っていて、今でも覚えているのです。ものすごい痛さの中で、そんな記憶があるのが私なのです。良い、優しいお医者さんでした。

 内科、歯医者など、数限りない数にお医者さんなど医療従事者のお陰で、今日まで生きてくることができたのです。これまでの自分の病歴表を作ってありが、外科ばかりに通院や入院には、いまだに驚かされ続けております。

 結婚して、子どもたちが4人与えられ、病気よりも怪我の多い家族だったでしょうか、外科通いが多かったのです。大きな病気にかかることがなく、みんな元気に育ったでしょうか。お腹に鉛筆を刺して入院した長男、次男だけは、東京の大学病院に、小学校五年生の時から通院したのです。自分一人で、電車を乗り継いで、板橋にあった大学病院に行き、診察を受け、帰りには京王デパートで、好物のイカ飯を買って帰って来たりしていました。

 子どもたちが巣立ってから、長女は、シンガポールで働いた時期があって、死ぬような病気にかかったりして、親元に帰って来たりしたでしょうか。みんなひどい病気は、それほどなかったのです。でも、親には言わずのことごとも、独立後には、どうもありそうです。次男が怪我をして入院したりもあったのです。

 家内は、結婚以来、病むことなどなく過ごして来ました。中国の華南の街に住んでいた時、体調を崩して市立病院に入院治療をしました。急遽帰国して、胆嚢の摘出手術を受けた頃、2011年の東日本大震災の直後でした。その頃から、少し弱くなって来たでしょうか。2018年の三十日(みそか)に、住んでいた家に、教会の姉妹が訪ねて来られて、家内を見て、すぐに省立病院に連れて行ってくれました。急遽、2019年の1月1日に入院になり1週間を過ごしました。

 

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 娘のように、何くれとなく支えて来ださった姉妹が、看護の担当表を作って、三交代で24時間、点滴の交換のお願いに行って下さり、 下のお世話までして下さったのです。これで二度目の中国での入院でした。前回同様に、その時も家族以上のお世話を、華南の教会のみなさんがしてくださったのです。

 主治医に呼ばれて、『すぐに帰国して、日本の医師に診てもらいなさい!』と言われました。急遽、チケエットを取り、翌日、飛行場に行きました。しかし空港の医師は、搭乗不可の判断を下したのです。病状が厳しかったからです。それで、教会のみなさんが根回しをしてくださって、翌朝、空港に行きましたら、医師が代わっていて、即刻搭乗許可を出してくださったのです。

 その姉妹がビジネスクラスに席替えの手続きをしてくださって、大勢の愛兄姉の見送りでがあって、飛行機に乗り込んだのです。もう2日遅れていたら、帰国できなかった中の帰国でした。成田空港に長男が出迎えてくれ、栃木の知人の家に着き、翌日、大学病院に行きましたら、総合診療科で診て下さり、即刻入院になりました。

 呼吸器科の病棟医師は、若い方でしたが、懸命に治療計画を立ててくださったのです。厚生省の認可間もない、免疫阻害剤の「キイトルーダ」の投与を受けたり、次男の届けてくれたCBDオイルの服用などの効果で肺腺癌の症状が改善してきたのです。息子が、病床で、讃美歌を聴くことのできる、iPodを買って、入院中聞くことができたのも、大きな激励と、免疫力のアップにつながったのでしょう。

 それに、家内の信仰も大きな力であり、世界中で捧げられ続けた祈りも、大きな助けになったのでしょう。信じた神の御名が、“アドナイ・ラファ(我はエホバ、汝を癒す者の意味/出エジプト 15章26節)“であり、その愛でいらっしゃる神さまの御名の告白と信仰は、大きな助けであったのです。

 およそ4ヶ月の入院時に、担当の看護師さんは格別な看護をしてくださったのです。退院しなくてはならなくなって、家に帰って来てからは、通院を続けていました。都合40回のキイトルーダの投与を続けたのですが、それも必要なくなって、しばらくたちます。ところが昨春、直腸と小腸に癌が見つかって、手術を受けたのです。 そんな家内の病歴で、近代医療の恩恵に預かれ、医師や看護師のみなさんに感謝な今です。

(“いらすとや”の医療カンファレンス、点滴のイラストです)

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野球選手の人間性について

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 野球を、スポーツ評論家が語るのは当然ですが、全く違った分野の人が語るのが、実に面白く、興味が湧き上がってきます。この数年、大リーグで大活躍の大谷翔平選手は、お父さんもお兄さんも野球人で、今では、コーチをしたり、監督をしたりしております。恵まれた環境に中で、しっかりと幻を描きながら、野球選手として精進して来た結果の今なのです。

 私の父は、筋金入りのジィアンツフアンで、社会人野球時代からプロ野球に移っていく時代以前、大学や専門学校のクラブの頃から、グローブを手にボールを投げている世代でした。このスポーツは、アメリカで誕生し、観ても、しても面白いのでしょうか。人を熱狂させてやみません。

 たびたび語っていますが、父がキャッチボールをしてくれて、私たち 4人兄弟は育ちました。すぐ上の兄だけ、高校野球に励み、甲子園を目指したのです。残念ながら甲子園出場はかないませんで、大学での学生野球への誘いもありましたが、職場野球では活躍していた時期もありました。

 さて野球経験を持っている、一人のフアンでもある《哲学者》が、この大谷翔平を語っているのです。哲学的に大谷翔平を分析しているのです。その哲学者は、ハーバード大学のマイケル・サンデル教授です。んhkで「白熱教室」に出演して、話題を呼んでいました。野球そのものを語っているのではなく、人間としての大谷翔平に強い関心を示して、とくに「人間らしさ」に関心を向け、言及しています。

 サンデル教授は、ご自分もベースボールをされて、少年野球のコーチまでしたことがあるそうです。だれをも惹きつけてやまない大谷贔屓のフアンの一人でもあります。

 ここまで書きましたら、大谷翔平について、私の先輩牧師の週報に、次のような記事がありました。転載してお伝えしましょう。

この世で生きていく間には良いことばかりではなく、さまざまな悩みや苦しみがありますが、その中で私達は神様に守られ、支えられているということを経験します。日本では先週から各地の桜の花便りが伝えられて、今年のプロ野球の試合も始まりましたが、今週は先月12日の朝日新聞の「大谷翔平が救おうとした翔平ちゃん できなかった手術、 つながる思い」という記事を読んで感じたことをお伝えしたいと思います。

 ドジャースの大谷選手は2019年1月5日、渡米してアナハイムのエンジェルスで一年を終えた時、兵庫県伊丹市に住む川崎静葉さんの長男で、大阪府の病院に入院している大谷選手と同じ名前の翔平ちゃんを見舞いました。1歳の翔平ちゃんは、胎児期に心臓に異常が生じ、心臓のポンプ機能が低下する「拡張型心筋症」という難病で苦しみ、一刻も早い心臓移植をする必要がありました。

 ただ米国での移植は手術費や渡航費など多額の費用がかかり、目標の3憶5千万円に1億円以上が足りませんでした。その翔平ちゃんが「大谷選手のように強く育ってほしい」と名付けられた縁もあって、関係者を通じて二人の面会が実現したのです。

 大谷選手は「生まれてからずっと病院にいらっしゃるのですよね?」「どういう生活をされているんですか?」と静葉さんに質問し、サインボールをプレゼントすると、翔平ちゃんは両手で受け取りました。今度は翔平ちゃんが手を伸ばした大谷選手にそのボールを渡すと、「大谷選手と翔平のキャッチボールだ」と、家族は歓声を上げました。一時間ほどの間に病室はたくさんの笑顔であふれ、翔平ちゃんも大谷選手のひざの上が本当に居心地よさそうでした。

 大谷選手との面会が多くのメディアに取り上げられたことで、寄付金の問い合わせが殺到し、この日から19日後に目標額が集まりましたが、翔平ちゃんの手術はかないませんでした。容体が急変して、翔平ちゃんは3月10日に亡くなりました。大谷選手は川崎さんの家族に「皆さんのことをずっと応援しています」とのメッセージを送りました。

 翔平ちゃんを救いたいと寄せられた寄付金はほぼ全額が余剰金となりましたが、川崎さん家族の意向もあり、そのお金は心臓移植が必要な二人の女の子の手術に使われました。「何とか助かってほしかった・・」と私も思いましたが、静葉さんは著書「翔平選手と翔平ちゃん 奇跡のキャッチボール」(光文社)の中で、「翔平が大谷選手といっしょに、二人の女の子の命を救ったのだと思うと、すごく誇らしいのです。翔平が生きていたことが、誰かの役にたったのですから」と述べています。

 当時、大谷選手のほかにも大勢の人が「翔平ちゃんのために」と寄付を求めて動いてくれたと思いますが、大谷選手の影響力があったからこれだけの寄付金が集まったのでしょう。そして「二人の翔平が小さな命を救った」事実は今も生き続けています。静葉さんの次男(6歳)や三男(3歳)はテレビで大谷選手を見ると、目を輝かせて投球をまねたり、スライディングをしたりしています。

 静葉さんは「あの時も今も大谷選手が子供達の希望や目標になっているのは、変わらないですね」と語っています。大谷選手は昨年11月、子供や動物を支援する「大谷翔平ファミリー財団」を設立したと発表し、また英会話教室のECC と組み、 日本全国から100人の子供達を選び、ロスアンゼルスへ短期留学に招待するプログラムも、今夏で3年目を迎えるそうです。

 静葉さんは「大谷選手の活動も含めて、『助けたい』っていうバトン、つながりというものがずっと続いていってほしいです」と語り、大谷選手の活動に感銘を受けています。この記事を読んで、私は大谷選手の心の温かさ、優しさを感じましたが、イースターを迎える今、イエス様が私達の罪のために十字架の上で苦しんでくださり、墓の中に葬られ、三日目に生き返られたので、イエス様を信じる私達も永遠に生きる命が与えられていることを改めて感謝し、大谷選手の優しさがイエス様の愛につながっていると思います。』

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 さて、大谷翔平の「人間らしさ」に注目するサンデル教授は、「日本人の大谷翔平」に注目しています。この「日本人らしさ」の3つのポイントとは何かを取り上げているのです。

 1   海外からの技術を独自に研究し進化させてきた

 2   謙虚さ

 3   感謝 周囲に支えられて今がある

 そう言っています。『大谷選手も同じで、ひたむきに積み重ねる絶え間ない努力と進化、ストイックと言えるほどの厳しいトレーニングと今よりも超える技術に果敢に試して挑戦する立ちふるまいもとても謙虚だ。ごみを拾うことは運を拾うことだと高校時代の監督に教わった。最後は日本人の成功に関する考え方だ。自分だけの成果ではなく、周りの人の支えがあったからこそ成功につながったという感謝の心だ。目標を高校時代から曼荼羅シートに書き込み自ら努力していく、そんな結果が今なのだろう。』

と、サンデル教授は言っています。直向きに努力している技術だけの面だけではなく、「心」や「態度」に注目しているのです。カメラの前ではなく、隠れてする大谷翔平の愛や感謝は、世界中を驚かせています。

 3月31日のドジャースとガーディアンズ戦で、ドジャースの大谷翔平投手が五回、2死からマルティネスの左膝付近に、155km/hの死球を与えてしまいました。大谷は投球後、マウンド付近で頭を抱えてしまったのです。心配そうに、自らを責めるようにして、マウンド上に倒れ込んだマルティネスをみていました。苦痛が和らいだ後、一塁ベースに到着するマルチネスは、大丈夫だと言うふうに大谷にジェスチャーを送り、互いに笑みをかわしていました。

 相手を思いやる気持ちがにじみ出た態度に、ファンも、「ショウヘイ・オオタニは自分自身に対して本気で怒ってる様子だった」、「自分に腹を立てている姿を見れば、彼がどんな人物か分かる」、「彼は最高の野球選手なだけじゃなく、人としても一流だ!」と、同情と称賛のコメントを送っていました。雨の中での死球で、大谷を擁護していたのです。

 牧師や哲学者を驚嘆させている生き方や姿勢は、人を驚かせてやまないようです。好印象を振りまいている《稀有な人間大谷翔平》は、まだまだ振り撒き続けていくことでしょう。今年の活躍ぶりは、まだパッとした成績を残していませんが、名選手と言えども、悩んだり、スランプもあるのでしょう。でも直向きさと謙遜さと、絶え間ない努力を続けていますから、復調していくことでしょう。

(アメリカの野球小僧、“いらすとや”のピッチャーです)

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言の葉ということばを

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『初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった(新改訳聖書 1章1節)』

 中国の学校で日本語を教える機会が与えられて、けっこう長くさせていただいたのです。ある時期、関西圏出身の同僚がいましたが、やはり関西訛りがあったのです。自分は、中部山岳の山の中で生まれて小学校に入学して一学期まで、そこで育ちました。それで、その地方の方言が、兄たちによって家の中に入り込んできて、真似したりだったのです。それで自分も真似していたのです。でも、家の中は、相模の横須賀生まれの父、山陰の出雲育ちの母でしたが、父の育った東京の歯切れのよい標準語の世界でした。

 訛りは、手形のように言われて、なかなか抜けないのです。母が歳を重ねるに従って、緊張感から解き放たれたのでしょうか、ポツッと方言が出てきることがあったようです。父がからかっていたものです。それで、母恋しの私は、家から出掛ける時に、母から学んだのではないのですが、出雲地方の言い回しの『行って帰ります!』を真似るのですが、身についていないので、チョッとおかしいらしいです。

 標準語で話しても、東京都下で、学齢期を過ごしたので、東京のど真ん中で育った人の語りには程遠い東京弁なのでしょう。何時でした津軽出身のアナウンサーが、ニュースを担当されていて、それを聞いて、郷土色があっていいなと思ったのですが、何言ってるか分かりませんでした。

 アルバイト先に、秋田出身の方がいて、だいぶ訛っていたのを聞いて、標準語を喋っているのですが、かなりなまっていたのです。それでも話の内容は理解できたのです。話し言葉が優しくて、鷹揚で暖かさを感じたことがありました。

 それにしても、京都弁を初めて聞いたのは、中学の修学旅行の時でした。二日間ほど案内してくださったガイドさんの口調がきれいで、優しくて、雅(みやび)さが溢れていて、その声に恋をしてしまったのです。男子校の中学生の淡い恋でした。それで、『大学は京都に来るぞ!』と決心したのですが、東京に戻ったら、その決心は、どこかに消えてしっかりと忘れてしまいました。

 私たちが13年ほど過ごした中国の華南の街は、一山越えると、言葉が違うのだと聞きました。『喋れないけど分かる!』のです。清国や中華と呼ばれた時代に、欧米からっやって来た宣教師さんたちは、何人かの通訳を通して、聖書を説教したのだそうです。共産党革命は、国中を混乱させたのですが、ただ一つの良かったことは、共通語を、小中の学校で教えたことによって、国語の統一ができたことだと言われています。

 広東省の広州のバスターミナルには、「普通話(プートンファ、Pǔtōnghuà)」で話すように、壁に大書されていましたが、どうも守られていませんでした。例えば、広島大学に留学されたご婦人は、私たちには日本語を、アメリカ人やギリス人には英語を、教会のみなさんには中国語を、親戚の方とは方言を、上手に使い分けていたのには、驚かされたのです。

 ある牧師さんが書かれた本の日本語訳書を読んで、感動した私は、その翻訳をなさった牧師さんと文通をしていたことがありました。ドイツ語の書物でしたが、それを翻訳されて、関心を寄せた私に、ドイツ語ではなく、その著書の主人公の出身のシュバーベン地方の言葉で書かれた 原本を、分厚く300枚ほどにコピーして送ってくれたことがあったのです。『簡単な方言ですから読んでみてください!』と言われてでした。言語から翻訳された、その方は、ドイツ語に造詣の深い学者先生で、ご自分には簡単でも、受け取った私には歯が立ちませんでした。

 「バベルの塔」の一件が、創世記(11章)に記されていありますが、高き塔を建てて、神に並ぼうと企てた、神への傲慢さを実行した者たちの暴挙、人間の野心を打ち砕こうと、神さまはされたのでした。その塔を打ち壊しただけではなく、「言葉の混乱」をもたらされたのです。一つの言語で神に罪を犯したので、互いが通じ合うことのないようにされたのです。それ以来、この言葉は混乱してしまったのです。

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 中国にいた間、家内は、家でも大学の予備校でも、請われて、日本語を教えていたのです。子どもたちのクラスで、10人ほどの生徒がいたでしょうか。そこに一人の女の子の従兄弟が、やって来たのです。しばらクラスの中で、その様子を見ていましら、突然泣き出してしまったのです。『僕だけ分からないよ!』と言ってでした。みんなの中で、一人疎外感を味わってしまったわけです。あんなに切ない鳴き声を聞いたことがありませんでした。なだめて機嫌を直すのに、家内は大変でした。

 そう言えば、長男も同じでした。15でハワイの高校に入学したのです。日本の中学校での英語では、できた方でしたが、実際の英語、と言ってもハワイの高校生の使う英語は、耳に慣れずにチンプンカンプンだったそうで、その男の子と同じ経験を通過したのです。でも、卒業時にはAA級の成績で終えたのです。彼の世話をしてくださった牧師夫妻の忍耐と愛と激励も忘れられません。苦労しながら異世界でもまれて、感謝の今があります。

 今、旅行者たちの手に、「通訳機(翻訳機)」があります。外国人旅行者が、道を聞いたり、買い物や食事の注文をするのに、これに頼れる時代がきているのです。言葉の障壁を感じないで、見ず知らずの地を旅行ができる便利な代物(しろもの)ができ、普及しているのです。でも、心と心の交流は、機器に任せられません。相手を知り、自分を知ってもらうには、たとえつたなくても言葉の交流がないと、真の理解には至りませんね。言葉以上に、心が通い合うことがあったと、中国の13年間を思い出すのです。人を生かす「ことば」を語りたいものです。

(“ウイキペディア”によるバベルの塔、広州の街です)

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華々しい春の花々

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石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

 志貴皇子(しきのみこと)の詠んだ歌です。「石」と書いて、「いわ」と読むのだそうです。飛鳥時代の若者の瑞々しい感性が躍動している和歌です。春を迎えた喜びが溢れていている和歌を詠んだ、この皇子は、天智天皇の第七皇子で、母親は采女で、本妻の子ではなかったのです。でも、この皇子の子が、天皇に就いています。

 皇位継承は、いつの世も同じなのでしょう、さまざまな思惑や駆け引きがあって、一筋縄には行かなかったようです。会社でも団体でも同じなのでしょう。そういった争いがあるのが、この社会に現実なのでしょうか。

 産みの母を奪われて、継母に育てられたり、他所にやられたり、とかくこの世は住みにくいようです。人生にも春の訪れがあるのでしょう。病んだり、怪我を開いたり、失敗したり、転んだりする人の世ですが、慰めや励ましだってあります。やがて永遠の御国がやって来て、栄光の只中で生きられるのです。

 春は、やはり春のなのです。孫息子はアルバイト中、孫娘が、今春短大に進学します。外孫の二人は、カンボジアに2週間ほどの予定で、家族で出掛けて、“ clean water project ” という名で奉仕を展開中だと知らせてくれました。そのブノンペン郊外の街には、どんな花が咲いていることでしょうか。

 人生の春を、そんな風に過ごしている孫たちですが、人生の秋を迎えている私たちは、ただ目を細めて、遠く近くに、それを眺めて、応援の無言の声を、心の中で上げています。隣家のご婦人が、庭に咲いた春花を手折ってくださり、テーブルの上に置いています。

 広い庭をお持ちのご婦人から頂いた、六瓣(べん)の「ダビデの星」が開いたのです。「六芒星(ヘキサグラム)」のダビデ王の紋章に似ているので、そう命名されたようです。なんだかパレスチナの地に咲いていそうな、そんな雰囲気がして参ります。春はいいな、の三月末の朝です。

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