北京のランダム・ウォーカー

日本人のDNA

第一報は、親しい中国人の新聞記者からの電話だった。私は天安門広場近くのフレンチ・レストランで、フランス人の知人と遅いランチをとっていた。携 帯はマナーモードにしていたが、あまりにしつこく鳴るので取った。「日本が大地震で大変なことになっている! 未曾有の大災害だ。震源地の仙台の知人にす ぐに連絡して、コメントを取ってくれ!」
 眼前に顔が浮かんだ仙台の友人に電話したが、かからない。そこで東京の知人や、埼玉で年金暮らしの両親に、次々かけてみたが、まったく不通だ。急 いで帰社し、ネットテレビを見て愕然とした。テレビの向こうの我が祖国が、メルトダウンしていく。本来ならまもなく日本列島で桜が満開になる美目麗しい季 節だというのに、何ということだろう・・・。
 私は両拳を打ち振るわせながら、中央電視台の画面を食い入るように見つめた。そこには、まるで昨年北京で観た映画『唐山大地震』のような廃墟が広 がっていた。仙台、石巻、気仙沼・・・。買ったばかりの車を東京から駆って、これらの美しい町を回ったのは、いつの頃だったろう? 祭りに興じる男たち、 優しかった温泉の女将、畑の中を駆け回っていた子供たち。私の脳裏にあった木訥とした東北地方の「原風景」は、すでに「地獄絵」に変わっていた。
 その後、中国人の知人から山のような慰問のメールが来て、電話が鳴って、ショートメールが届いた。その数は、100件を超えた。それにいちいち対 応しているうちに、深夜になってしまった。普段はとかく淡白な中国人が、実はヒューマニスティックな人々であることを再認識した。
 思えばこの国は、常に「危機」と隣り合わせだ。そのため、危機に直面した人の気持ちには敏感なのだ。
 例えば私は、この地震の日の朝にも「危機」に直面した。朝自宅近くのバス停に立っていたら、後方から突然、「ドドドーン!」という轟音が鳴り響い た。驚いて振り返ると、高層ビル建築工事の過程で、10階建ての旧いマンションを倒壊させたのだった。工事現場には覆いもなければ、何の予告もない。瞬く 間に灰色の煤煙が押し寄せ、バス待つ人々の服と顔は変色した。私は煤煙を吸い込んで噎せこみ、呼吸困難で死ぬかと思った。
 その前週には、近所を歩いていて、マンションの12階で夫婦喧嘩と思しき罵声が聞こえたかと思うと、窓から大型の椅子が放り投げられ、私の眼前で 砕け散った。あと五歩速足で歩いていたら、私は即死していただろう。本当にこの国においては、いつ何時どんな「危機」が襲って来るかしれないのだ。
 ともあれ、本当に瞬く間に、一週間余りが過ぎた。その間、中国のテレビは、4つのチャンネルで、ほぼリアルタイムで24時間、「日本大地震特集」 を流し続けたし、新聞は毎日10ページを超す特集を組んだ。日系企業の一駐在員の私さえ、中国のいくつかのメディアから、寄稿やインタビューを頼まれたほ どだ。
 そうした中で、私は一つ興味深いことに気づいた。今回の地震報道によって、図らずも中国人たちが、日本を「再発見」したのである。
「避難所で中国人を助けています」
 北京や上海などの日本大使館、領事館は今回、例外的に中国人記者たちに、即日取材ビザを出した。そのため、100人を超す中国人記者が、地震発生 後に海を渡った。彼らは日本のワイドショーのレポーターよろしく、独自に日本を徘徊しては、その模様を微に入り細に穿って、中国国民に向けてレポートし続 けた。例えばこんな具合だ。
 「私はいま、コンビニの店内に来ています。はい、この棚にはここからここまで、ほんのいま前まで、ズラリとパンが並んでいましたが、もう僅かしか 残っていません。でも外へ出てみると、ご覧ください。静かな人の列が、ずっと向こうまで続いています。『どのくらい並んでいますか?』『3時間くらいで す』。彼らは、わずか数個のパンを買うために、一言も文句を言わず、3時間も並んでいるのです。日本人の我慢強さには驚嘆します」
 「現在、早朝6時。ここは避難所になっている体育館です。いま赤ん坊の泣き声がしました。老人たちが起き出します。このように避難民たちは、不眠 に苛まれる夜を過ごしていますが、まったく混乱は起きていません。ここに中国人の避難民がいます。『大変でしょう?』『ええ。でも日本人は、われわれ中国 人を心から助けてくれています』」
 「この見渡す限りの瓦礫の山を見てください。ここに立つと、思わずレポートする言葉も詰まります。さらに驚くべきことに、これほどのカオス状態に陥っても、日本においては強盗などの犯罪が、ほとんど皆無なのです。まったく信じられません」
 「福島の原発がいま、最終局面を迎えています。しかし約50人の東京電力社員たちは避難を拒否し、自分たちの意思で残っているのです。専門家によれば、残った場合、2週間以内に死ぬ確率が高いそうです。いったいこの日本人の責任感とは何でしょうか」
 このような感じである。ちなみに、中国のテレビが「ワイドショー」と化したのも、今回が初めてのことだ。中国国内の報道では、とてもこのような自由闊達なレポートはできない。
生まれつつある「日本を救おう」の動き
 逆説的な言い方だが、このような悲劇を経て初めて、中国人は日本人を自分たちと同じ目線で見ることができるようになった。換言すれば、日本人は決して「鬼っ子」ではないことに気づいたのだ。
 そしていまや、支援の輪は全中国に広がっている。日本留学組を中心とする著名な学者たちが100人委員会を作って、日本への寄付を呼びかけ始め た。芸能界、スポーツ界が動き始めた。市井の人々にも、「日本を救おう」という気運が高まっている。日本に対するこんな「空気」は前代未聞のことだ。
 日本からすれば、図らずも日本人の「矜持」を中国に示すことができた。上述のように、中国人レポーターたちが日々、日本の現場から送っているの は、日本人に対する「驚嘆」であり、「畏敬」である。中国人レポーターたちは、2008年の四川大地震や2010年の青海大地震と似たような自然の惨劇を 目にしながら、違った人々の行動様式を見ているのである。
 今春、10万人近い中国人が、日本への「お花見ツアー」に出かける予定でいた。これはほとんどキャンセルとなる見込みだが、日本としてはこんな短期的な減収に落胆する必要はない。
 中国人は今回、日本という国がとてつもなく偉大な先進国であることを再認識したからだ。戦後66年間にわたって中国人のDNAに埋め込まれた「悪の日本人観」は、大地震によって完全に「崩壊」した。それは中国だけでなく、韓国や他の近隣諸国・地域も同様だろう。
 日本としては、このことを「不幸中の唯一の幸い」と考えるべきである。アジアはついに、「友好な隣人」となったのである。
(http://gendai.ismedia.jp/articles/-/2284 からの転載記事)

「これぞ日本人」中国人20人を救出した佐藤充さん

○中国人研修生に捧げた命「これぞ日本人」中国人20人を救出した佐藤充さん

最終更新:2011年03月21日 15時55分
 いざという時こそ、人の真価が問われる。11日に発生した東日本大地震で、自らの命を顧みることなく、中国人研修生20人を助けて、自身は津波にのみ込まれて亡くなったと見られる日本人男性が、中国など世界で広く報道され、その命を惜しむ声が今でも止まない。

 この男性と同じ国・日本に生まれたことを誇りに思う。この男性とは原発基地もある宮城県・女川の水産加工会社「佐藤水産」の佐藤充専務のこと。

 中国の各メディアによると、同社には、20人の中国人を研修生として受け入れている。地震発生時には、「津波が来る」と寄宿舎の研修生たちを高台に先に避難させて、その後はもう一度寄宿舎に戻り、家族を捜しに行ったのだという。

 だが、研修生たちが佐藤さんの姿を見たのはそれが最後だったという。佐藤さんと家族はまだ行方がわかっていない。

 「あなたのことは絶対に忘れることはない」「災害の前には、国を超えて我々は人間なのだ」「愛に国境はない」などと、報道では称賛の言葉が並んでいる。

(写真は、女川の「佐藤水産」の研修風景です)

○http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20110320-00000013-rcdc-cn」
○http://htn.to/BMMfAq

志願


「あいち炭やきの会」のメンバーより、
>http://aichisumi.exblog.jp/

下記の情報が入りました。
お聞き及びかと思いますが原発事故の一側面の情報として祈りの依頼が来ておりますのでお伝え致します。
参考にして頂ければ幸いです。

皆さん、どうかお願いがあります。祈りを、皆さんの祈りを今、福島原発で命がけで 我々の国、この日本を、国民を、あなたを、あなたの家族を救う為に懸命に仕事をしている人々がいます。
どうか祈って下さい!
作業が成功するのを!
お願いします!

自衛隊特殊化学防護隊の隊員たちは志願者です。
しかも年齢は55歳から上、もう子育ても終わりに近いので思い残す事は無いと志願者となったようです。
その様な志願者が50名時事通信社の記事があります。
>http://www.jiji.com/jc/zc?k=201103/2011031600093

東電が全国の電力会社、協力企業に助けを求めました。
志願者です、決死隊として原発の内部作業をする
原発関係者のベテランを募ったのです。

中国電力の原発勤務40年というある男性が、この作業は自分達のようなベテランがやるべきだ。自分は定年まで後一年であるし、子育ても終わったとして、志願したそうです。

ご家族は静かに思いを語る自分の夫、父親 の決意に何も言えなかたそうです。
その方の娘さんは,今までと違う父のもの静かな顔を初めて見たそうです。
志願者20名。翌朝、いつも出勤する時のように、じゃあ、いってくる。と言って玄関を出てたそうです。
原発での作業中、放射線被爆があります。
国が定める限界被爆単位100ミリシーベルト。
それが250ミリシーベルトになりました。
何故なら、彼等が望んだからです。

100ミリシーベルトではすぐ時間が経ってしまい
数分では作業ができない。だから国に250に上げてくれと。
その為の被爆量は覚悟の上なのです。

そのおかげで昨日、あと一歩で臨界点と言う所で臨界が止まったのです。

もし臨界点に達していたら。
私達は今、この時を、この時間を過ごしていません。
家族と恋人と仲間、友人とこの時間が無かったかもしれないのです。
半径300キロ生物の生存率は、限りなくゼロに近かったんです。
今のこの時間は彼等のおかげなのです。
経営側幹部たちは我が身安泰の為、情報を小出しにし、遠く離れた東京から出てきませんでした。
お願いです皆さん!祈って下さい!
皆さんの祈りを!作業が成功するように!祈って下さい!皆さんの想念を送って下さい!
今日 放水作業が無事終わりました。

明日の作業も成功するように。
隊員たちが無事であるように!祈って下さい!
どうかお願いします!
そして家族、友人、仲間、一人でも多く方

人が優しくなってきている


今、次男が住んでいる渋谷・代官山の家に来ています。一昨日は、彼のガールフレンドも来て、今朝は、長男家族が家内を連れて来てくれました。長男家族は、春休みを利用して、名古屋近郊の実家を訪ねるということで、1時間あまりで出かけて行きました。彼らの留守の間、次男が母親の面倒をみるということでの来訪になったわけです。家を持たないということが、こんなに彩りと変化を生活の中にもたらしてくれることを、私と家内は楽しむことができております。日本の根幹を揺るがしかねない大試練のただ中で、さらに家族の絆が強くさせれてきているのは、我が家ばかりではないようです。

今朝は、小さなマンションの部屋の中に、8人が集ったことになります。二人の孫が、名古屋の《爺やん》に会える小旅行を楽しみにしているようでした。そういえば、次男は、『お父さん。お母さんと一緒に名古屋の義姉の実家に逃れて、そこから、お姉ちゃんのいるシンガポールに行ったらいいよ!』と、放射能汚染で外国人が東京から逃げ出しているというニュースが流れる中で、本気で勧めてくれるのですが。私も家内も、そういった敏感さを持ち合わせていないのと、慌ただしく脱東京を果たしても怪我をするのが関の山ではないでしょうか。

さらには、被災地のみなさんが、避難所で不自由な中で生活をしておられますし、救助隊は遠くに家族を置いたまま、復興の業に励んでおり、福島原発では、『我々が逃げ出してしまったら、東日本は壊滅だ!』といった思いで、危険を顧みないで事態の改善のために励んでおられるのです。家内と私だけが、まだ想定される危険であるのに、それを避けて逃避行をするわけにはいかないのです。次男の親を思う優しさには感謝でいっぱいですが。原発の炉に放水した部隊の消防隊長は、『あなた、日本の救世主になってください!』と妻に檄を飛ばされた、と記者会見で話しておられました。夫の身の安全よりも、国難回避を最優先するとは、驚くべき職務への夫婦の献身であります。

私の家族でも、友人たちとのメールの交換でも、「東北関東大震災」、「福島原子力発電所事故」が、どうしても話題の中心になっております。そんな中で、一昨日の夜半に、『俺、○○さんと結婚するからね!』と次男が意思表示をしたのです。それから母・兄、上の姉・下の姉に次々と、その旨、自分で報告していました。その彼の結婚相手が、郊外から大きな旅行用鞄に、実家のスーパーマーケットの食料品を詰めて慰問してくれたのです。以前は、そんな経験はしたことがなかったのですが、駅のホームを移動するとき、その重い鞄を持って手伝いをしてくれた若者が何人もいたのだそうです。国難の中で、『人が優しくなってきているわ!』と彼女が感想をもらしていました。

困難な事態のただ中で、日本が確実に変えられているのではないでしょうか。今朝、特に被災地で尋常では考えられないような環境変化の中で、耐えている、とくに子どもたちが笑顔を持って、輝く明日に夢をつないで生きていってほしいと思っています。
”ガンバレ日本!“

(写真は、産経ニュース・タイでの日本支援の光景です!)

益荒男(ますらお)


「愚直の努力」、しなければならないことを、手を抜くことなく、マニュアル通りに、基本に従って、繰り返していく職人気質を、そう言うのだと思います。頑固なおじさんは、見習い工の時に、手をとって教えられることなどありませんでしたから、先輩たちの仕事の仕方を盗み取ったのだそうです。そうして身につけた手法を、踏襲して堅持するのです。若い時に叩き込まれたことを、疑うことなく1つのことにこだわりながら、すべきことをして来たのです。

鍋の穴をふさぐ、「鋳掛屋」のおじさんが、子どもの頃、何ヶ月かに一度、自転車で回って来ました。『邪魔だ、あっちへ行け、小僧!』なんて言われませんでした。興味津々に覗き込んでいるわれわれに、仕事振りを見させてくれたのです。世の中で鋳掛屋の職人なんてたいしたことはないかも知れません。でも鍋が、 どこのスーパーでも売っているような時代ではなかったので、実に重宝だったに違いありません。それにしても随分と安い工賃だったのを覚えています。それでも、仕事に誇りを持って、精一杯仕事をしておられた姿は、われわれ《ハナ垂れ小僧》に、『仕事とは何か?』を教えてくれたのだと思うのです。

そう言った職人さんとか、職工さんが、製造業でも加工業でも、どこにも、どの部門にもいました。私が、学校に行っていました頃、毎年夏に、ある牛乳工場でアルバイトを2ヶ月ほどさせていただきました。製造のラインでも、出来上がった製品の牛乳ビンの入った箱を冷蔵庫に積むのでも、それを出荷するのでも、頑固なおじさんが、 どこにも必ずいたのです。『もっと工夫すれば、楽が出来るのに!』と若くて生意気なわれわれは思ったものです。ところが、決められたとおりにすることを、彼らは要求するのです。言われたことに『はい!』と従う時、彼らはニコニコと微笑んで、『うん、うん!』とうなずきながら、われわれの仕事振りを眺めていました。一日の仕事が終わると、明日の作業ために、時間をかけて準備をするのです。掃除や後片付けをするわけです。新製品を開発する研究部門が、学歴や実績のある人たちによってなされている背後で、脚光を浴びない裏方が、どうでも良いように思われる愚直な作業を続けていたのです。それがあって、社会で評価 される製品が流通して行くわけです。奄美大島から出て来たり、秋田弁をしゃべるおじさんの中に混じって、仕事をして、多くのことを学ばせてもらったのです。つまらないように見える仕事を、意味あるものとするプロ意識の中に見えたのが、この「愚直の努力」でした。若い人の『無駄だ。もっと省力化を図らね ば!』と言った考え方に、それは警鐘を鳴らしている生き方、仕事の仕方に違いないのです。

『漫才の天才!』と言われた人に、横山やすしがいました。彼が、自分と同年であったことを知った時から、彼の生き方に強い関心を向けたのです。同じ時代の流れや風の中を、生きて来た者として、とても親密感が湧いて来たからです。『ほんまに稽古嫌いだった!』と、相方の西川きよしが話しているのを聞いたことがありました。1つの演目を演じるのに、その稽古嫌いのやすしをなだめすかして、稽古に連れ出したのは、きよしでした。なんと40回も稽古をしていたそうです。アドリブだとばかり思っていたのに、アドリブを入れるためには、積まれた山のような稽古があることを知らされて、一朝一夕には名人には、なれないのだと言うことを知らされたわけです。やすしの破天荒な生き方は推薦しかねますが、自分の仕事に対して、いやいやながらでもし続けた、見えない裏の部分があったのだと言うことを知らされるわけです。

この9日あまり、国家的大危機のただ中で、東京電力の50人の作業員が命を賭して、持ち場から離れずに、大惨事から国民を守ろうと決死の作業を続けております。さらには、『仕事とは何か?』を熟知し、山のような訓練を積んだ来た消防士、警察官、自衛官も、今回の危機からの回避のために、死を恐れずに、日頃、切磋琢磨した腕と魂をもって、愚直の努力を継けておられます。職人集団の強靱な心意気に目を釘付けにさせられる私たち国民は、ただただ手を上げて、雄々しき《益荒男(丈夫)》の無事を祈るのみであります。

(写真上は、「鋳掛」の作業を終えた鍋底、下は、「自衛隊員」です)

Why I’m not fleeing Japan

イザ!ニュース

原発事故、冷静さ保って 米紙元特派員

2011/03/19 10:20更新

18日付の米紙ワシントン・ポストは、東京電力福島第1原発の事故に関して「私はなぜ日本を離れないか」と題した神奈川県鎌倉市に住む元同紙東京特派員のコラムを掲載、放射能被害を恐れる声が高まる中、冷静さを保つことの必要性を訴えた。

筆者はポール・ ブルースタイン氏で、外国人らが日本を脱出しようとする動きや、放射能被害に効果があるとされるヨウ化カリウム錠を求めて米国内の一部で騒ぎが起きている ことに触れ、「原発事故の先行きは分からないが、日本が核分裂性物質の温床のように捉えるのは、賢明でも公正でもない」と訴えた。

日本は危険だとの認識は「経済的、心理的に打撃を与える」とし、過剰反応は「被災者への心からのお見舞いの言葉を無意味にし、日本が立たされた苦境をさらに悪くする」と強調した。(共同)

Why I’m not fleeing Japan

By Paul Blustein,

Thursday, March 17, 11:28 AM

KAMAKURA, Japan

To get some perspective on the earthquake that struck the country to which I moved last year, I hiked a mile and a half Wednesday morning from our house to the Great Buddha of Kamakura, the most famous attraction of this town on the southwest outskirts of Tokyo.

Serenity washes over me every time I gaze at the 44-foot, 13th-century bronze statue. I’m not spiritual, much less a Buddhist. But I went to confirm, with my own eyes, that the Buddha looks the same as usual — that he wasn’t, say, glowing because of deadly rays emitting from the crippled nuclear plants 200 miles to the north.

Silly? Of course. Not much sillier, though, than many of the reactions I’ve seen or read about in the past couple of days: the hordes of expats shelling out thousands for flights out of the country; authorities in China, South Korea, Singapore and elsewhere screening Japanese food imports for radioactivity; folks in the States clamoring for potassium iodide pills to protect them against atomic particles wafting across the Pacific. I’ve been deluged with messages from loved ones, wondering whether we’re planning to evacuate. Yet while the concern has been touching, we’re staying put.

Particularly because we don’t live in the immediate vicinity of the nuclear plants, we’re confident that we’re as safe here as always — which is to say, extremely safe, the kind of safe that makes us comfortable sending our fourth-grader on a long train and bus commute to school, a fairly common routine here even for much younger children. Aftershocks, power outages, panic food-buying, long gasoline lines — this, too, will pass, and it’s hard to pity ourselves much given the misery that people along Japan’s northeast coast have endured since March 11.

If there is anything to worry about, it is that the perception of Japan as an unsafe country will inflict all kinds of economic and psychological damage. That would compound the tragedy it is enduring, hamper its ability to recover and elevate the challenges it faces just when it is most in need of support.

The Japanese have, for example, woken up in recent years to the need to promote their nation as a tourist destination — but how many millions will forgo visiting Kyoto’s exquisite temples for fear of radiation exposure? Japan’s premium-quality rice, fruit and other foods have begun selling well in the nouveau riche markets of Asia, offering hope that the nation’s notoriously cosseted agriculture sector might become more open and modern. Will those export markets dry up if Japanese food acquires a nuclear taint?

The number of Japanese who study and work abroad must increase so the nation can cope with globalization more effectively — but will this happen if Japanese anticipate being treated as some sort of freaky gamma-ray-emitters? As my former colleague Rob Stein reported Monday, people from areas near past nuclear accidents have been stigmatized and shunned, making them all the more prone to stress-related illness.

I admit that when news broke about the power plants I wondered whether dangerous particulates might drift to our home. But when I read past the headlines, I learned that the risks were negligible for virtually all 125 million residents of the Japanese archipelago (except, of course, the heroic plant workers).

I read, for example, that after the Chernobyl disaster, most deaths resulted from children in the surrounding area drinking milk from cows that had grazed on contaminated grass — a blunder the Japanese aren’t going to repeat. I came to realize that even a core meltdown” — something that I had always assumed spelled doom for millions — didn’t necessarily mean much adverse effects on human health, certainly not for people living distant enough for the particulates to disperse. Radiation, I learned, is a rather weak carcinogen. Even among the hibakusha, as survivors of the atomic attacks on Hiroshima and Nagasaki are known, cancer rates were not a lot higher than among the general population.

The extent of the troubles at the nuclear plants is still uncertain. But it hardly seems sensible for people like us to pack up and leave. Nor does it seem sensible or fair for people here or abroad to act as if Japan is a hotbed of fissile material. All those heartfelt expressions of sympathy for quake victims aren’t going to mean much if overreaction to the nuclear mess worsens Japan’s plight.

The mood here might not be conducive to tourism for a while. My wife, who is Japanese, has been brushing away tears night after night as she watches televised interviews of people from the stricken coastal areas. Their anguish is the proper focus of attention.

All the more imperative, then, that perspective be kept. If foreigners recoil at Japanese vacations, job postings, products or people because of irrational fears about radiation, they will deepen and prolong the trauma that nature has inflicted. In a few months, Japan should be its recognizable self, maybe even brimming with vitality stemming from a renewed sense of national purpose. The trains will once again be astonishingly punctual; the food will be delectable and plentiful. Once that happens, foreigners will hopefully recognize that Japan — with its Great Buddha and so many other wonders — remains an extraordinarily safe place.

Paul Blustein, a former Tokyo correspondent for The Post, is an author and researcher affiliated with the Brookings Institution and the Centre for International Governance Innovation.

島田洋一ブログ (Shimada Yoichi Blog)からの転載です)