銀ブラ

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学校の門を出て、左側に歩くと、国道一号線があり、そこを「都電」が走っていました。最寄りの「清正公前」から乗りますと、「銀座」まで一本で行くことができました。授業が終わって、飛び乗ってはよく出かけました。お金のない学生は、ただブラブラ、キョロキョロするだけでした。まあ、本物の<銀ブラ>だったわけです。

この写真は、明治期の<銀座>だそうです。まだ馬車の時代で、後に電車("市電/府電/都電”)に代わる、<鉄路>を馬に牽かれた車が往来していたのです。街並みが整備されていて、賑やかで、道路脇に見えるのは、<電信柱>でしょうか。もう電気が使い始められていたのでしょうか。「江戸の街並み」は、幕末や明治期にやって来た外国人にとっては、驚きだったようです。当時のパリやロンドンと比較しても文化的で、よく整い、<都市機能>が優れていたのだそうです。この写真から、そう言った様子を窺うことができます。

昭和の御代に、都電に乗った私は、写真の下の方からこの辺りにやって来たことになるのでしょうか。銀座三丁目の交差点は、どの辺でしょうか。松屋とか松坂屋と言った百貨店がありましたが、その原点となるお店は、どの辺りになるのでしょうか。「歌舞伎座」などは、まだ出来る以前の写真のようです。

私の育った街には、ありませんでしたが、隣の大きな街には、御多分にもれず<◯◯銀座通り>がありました。それは<繁華街>の代名詞だったからであります。関東大震災、戦時中の焼夷弾攻撃などで、焼かれた街並みが、東洋一のお洒落な街になったのは、奇跡的なことであり、曽祖父母や祖父母や父母の世代のみなさんが、持ち前の勤勉さと、綺麗好きで、愛し、復興させからでしょうか。

今度、帰国したら<銀ブラ>をしてみたいものです。学校周辺を通るためには、地下鉄に乗ってみようと思いますが、モグラのように地下を通るのでは町並みを眺めることができませんから、都営バスに乗るのが好いかも知れませんね。車掌さんが捥(もぎ)ってくれた都電の乗車料金は、幾らだったか忘れてしまいました。半世紀も前のことですから。

明治の子どもたち

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とても好い写真ですね!笑顔が屈託無くて素敵です。貧しい時代、見なりも<綿入れ>を着て、まだ洋装にならなかった頃、明治期の子どもたちの<集合写真>です。何が面白くて笑っているのでしょうか。きっと、右から二人目の子が、面白いことを言ったので、みんなが笑い出したのでしょう。二人のチビたちは、意味がわからなかったので真顔です。後ろのおじさんは、大口を開けて笑の輪に加わっています。その時代の人と社会の大らかさを感じさせてくれます。私の祖父の世代の写真に違いありません。

こう言った時代があって、今があることになります。この賢そうな子どもたちが、読み、書き、算盤、歴史、政治、科学を学び、天職を得て、勤勉に働き、国の土台を据えてきたのでしょう。「幼馴染み」の二人が所帯を持って、家庭を築き、生まれてきた子どもたちを育てる、この繰り返しで今日に至っているのです。ある子は商人に、ある子は教師に、ある子は大臣や軍人になって行ったのでしょう。女子は、賢い家庭夫人、妻や母となっていったことでしょうか。

人は去り、人は残る。七十年か八十年の生涯の周期を繰り返して、孫や、あるいはひ孫を見て、自分の生涯を終え、世代から世代へと、責任を継承してきたのでしょう。人の世の営みとは、大方は<平々凡々>としているに違いありません。

薄暗い中を一時間半ほどの散歩に出、帰ってシャワーを浴び、家内と愛読書を読み、いただいた饅頭、買ってきたトマトとキュウリ、ブルーベリー・ジャムとピーナッツバターとバター、紅茶で朝食をとって、今、ソファーに座っているところです。今日も天気予報では晴れ、最高気温が37度、最低気温も27度とのこと、大変暑そうです。子どもたちや孫や兄弟や姉妹たちや友人たちのことを思いながら、何時もの平凡な一日が始まりました。今までなかかった<新しい一日>が始まっています。

好い家庭の建て上げを!

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昨日の宵、市内の有名ホテルで、「婚礼」があり、お招き頂いて参列しました。先日、この新郎と新娘が、『結婚歴が長いお二人から、<結婚>について、お聞きしたいのです!』と言って、訪ねて来られました。それで、しばらくの時を、この若いカップルと交わりをしての昨日の「婚礼」でした。日本でも珍しいほど、豪奢な式場で、最近の中国の豊かさが、これほどなのかと思わされた次第でした。

司会者と祝福のメッセーンジャーと司式者が三人いて、祝福の賛歌、お話、誓約、指輪の交換、結婚宣言、祝福がなされた、欧米式の婚礼でした。今春には、教え子の婚礼にも招かれましたが、花婿の家で行われ、中国の地方都市の伝統的な婚礼でした。都市部とは違った趣があって、それもまた、若い二人の門出を祝うもので、厳かでした。

日本の婚礼は、男性は黒い礼服に真っ白なネクタイで黒革靴を着用し、女性は、和礼服とかドレスアップした華やかな洋礼服で列席します。ところが、こちらは、ほとんどが平服、しかもジーンズでTシャツのサンダル履きの方もいて、砕けているのです。ネクタイ姿は、私の他に数名と言ったところでした。雄のカラスみたいな日本男性の婚礼服は、肩が凝ってしまいそうですが、こちらは、自由で身軽で好いのです。

ちょっと残念だったのは、煙草をくゆらしている方、テーブルのつまみを食べている人、世間話をしている人、歩き回っている人がいて、騒々しかったことです。式の前に、私の隣の方は、ひっきりなしの煙突で、煙に巻かれてしまった私は、咳き込むほどでした。それでも嫌な顔をしないで、我慢の子でした。

そういえば、式の始まる前に、ビデオ映像が写しがされていました。お二人のー仕事の様子、ご両親への感謝、新郎は涙を流しながら言葉を繋いでいて、『好青年だ!』と思わされました。ここまで育ててくれた父母への感恩は素晴らしく感動的でした。よく備えられた式だったと感じました。友人たちの合唱の声がハーモナイズされていて、美しかったのも印象的でした。好い家族、ご親戚、そして友人たちからの祝福を受けて、祝福の門出でした。

訪ねてくる友人たちが、励まされたり癒されたりする<好い家庭>が、このお二人によって建て上げられることを願って、帰途につきました。帰りの道は、祝福のシャワーでした。

(イラストは、新郎新婦の二人です➡︎yahooイラストより)

戸惑い

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「戸惑う」、「混乱する」、「慌てる」、「キョトンとする」、「驚く」、いくつかの動詞を取り上げてみたのですが、これは、日本を始めて旅行された中国人旅行者が、旅先での日本、日本人、日本の習慣などに対しての「思い」や「印象」や「感想」なのです。『こんなはずではないのに!』と言った意外性を表しているのです。

かつての日本と日本人による「侵略」、「屠殺(”虐殺”をそう表現しています)」、「生体実験」、「凌辱」、「焼き打ち」などを、聞き、学び、調べて、<日本鬼子ribenguizi>だと思っているみなさんが、現代の日本と日本人に接して、驚きの声をあげておられるのです。東京や横浜や大阪や京都などで見たり、聞いたり、接したりしている「親切さ」、「穏やかさ」、「礼儀正しさ」、「静けさ」、「清潔感」、さらには、買い求めて使っている「精密な日本製品」などが、日本と日本人について聞いて学んだことと脈略がないことに、「キョトン」とされているのです。

日本と日本人の実際の様子が、中国のみなさんを戸惑わせているわけです。『あんなに酷いことをした日本と日本人が、今ではこれほど違っている!』、『本当の日本と日本人は、どれなのか?』と思っておいでなのです。こんな話を読みました。ある店で、欲しい電気製品を探したのですが、在庫がなかったのです。困っていたら、近所の店にあると言って、地図まで書いて教えてくれたのだそうです。そんな親切に驚いたりしているのです。

そういえば、私の勤めています学校に、2013年度の前学期まで、年配の日本人教師が、私を含めて三人いました。一緒に五年ほど教えたでしょうか。この日本語教師への、各学年の学生さんたちの印象は、おしなべて良好のです。時間励行、礼儀正しさ、真剣な教授態度、周到な準備などを感じて、実に高評価なのです。学校教育で教えられ、テレビや映画で見てきた<日本人像>と違った三人に接して、彼らも<戸惑い>を覚えていたのです。

『名もない老境の日本人教師が、一所懸命に教えてくれている!』と、感じていてくれるのは、広い中国の多くの日本語学科を持つ学校のある街でも同じなのでしょう。杭州や南京や厦門や長春やハルピンで教えていた教師たちを知っていますが、みなさんお金のためでも名誉のためでもなく、<中日有効>にため、中国の若者が、より好い日本と日本人理解を持って欲しくて、励んでおられるのです。『そんな好い教材があるのですね、ダビングして送ってもらえますか!』と頼まれた南京の看護学校の教師に船で会いました。

民間人や日本語専攻の学生のみなさんの<日本観>、<日本人観>は、すこぶる好いのです。私たちと友人でいてくださる、多くのみなさんは、偏見や過去の経緯(いきさつ)なしの、真心で接していてくれる<好朋友>であります。この人たちには、もう戸惑いも混乱もありません。

(衛星写真は、中国や韓国から見た日本列島です➡︎WMより)

地球大の課題に取り組め!

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私の<中国人観>と言うのは、こうでした。男性は、顎髭をつけて、道端に座り込み、手に長いキセルを持って、日がなスパスパと煙草を燻(くゆ)らせている様子でした。歩き方ものんびりし、生活の仕方も長閑(のどか)なのです。女性は、<纏足(てんそく、子供の頃に足を木靴にはめて、大きくならないようにしたようです)>していて、働くことを好まない人たちだと思っていたのです。何かの絵を見て、その印象が抜け切らなかったわけです。

日本の横浜や神戸にも、<中華人街>などがあって、それほどの距離のないところで生活をされていたのに、中国のみなさんとあまり出会う機会がありませんでしたから、子どもの頃の印象を、ずっと引きずっていたのです。ところが、中国を初めて旅行した時、北京、フフホト(内モンゴル)、上海、広州の街中で出会ったみなさんが、男性も女性も勤勉で、歩幅が広く歩調も早く、サッツサッツと歩く姿を見て、驚いたのです。こちらで生活をし始めて、働き者だと言うことがさらなる強い印象になっております。昨日も散歩をしていましたら、小柄な若い女性が、私を追い越して行きました。散歩ですから、息が弾むように歩幅を大きくとっていたのにです。

一度取り込んだ印象と言うのは、なかなか抜け切らないのだと思わされたのです。それは悪意からではありませんでした。そうしますと、この時代を生きている若い世代のみなさんは、<反日抗日教育>を受けて来られていますから、大変に悪い印象を持っていると言うことになります。日本語専攻の学生のみなさんは、それを修正できるのですが、そうでなかったら、日本旅行をして、実際に見聞しない限り、改まることはありません。

かつての日本の若者が、<鬼畜米英>と教え込まれて、憎しみを持ち、敵愾心を燃やして、アメリカ人やイギリス人を罵り蔑視したことがありました。そして銃を手にとって、戦いを挑んだのです。しかし、実際に戦争被害を受けた祖父や曽祖父を持つ、中国の若い世代のみなさんにとっては、日本人は憎悪や復讐の対象であるのは、私たちの経験からしても当然なのではないでしょうか。

そのような歴史と中国のみなさんの感情を無視しては、ことは進みません。戦争末期に生まれた私でありながらも、原爆や焼夷弾を持って日本の国土を焼土と化したアメリカとアメリカ人に対する感情は、不穏なものがありました。そんな私の感情を癒すために、穏やかで紳士だったアメリカ人と出会って、八年間、一緒に働きつつ学んだのです。その年月が、私の赦せない思いを深く対処したのだと思い返しています。

中国のみなさんも日本人の私たちも、同じ時代の空気を吸いながら生きています。地球大の問題や課題は山積しています。今、猛烈な八号台風が沖縄を伺っているようです。進路からすると台湾も中国本土も圏内に位置しています。どう動くかで被災するかしないかが決まります。異常気象だけではなく、人口や食糧や環境保護やエネルギー、さらには青少年問題などの共通の課題です。仲良く対策を共に講じるか、そうではないかでは、大きな違いです。局地の問題よりも、大局的に鳥瞰的にものごとを見て行きたいものであります。

♭ うみ ♯

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夏の季節がやってきますと、懐かしく思い出す歌があります。作詞が林柳波、作曲が井上武士で、文部省唱歌の「うみ」があります。

1 うみはひろいな 大きいな
月がのぼるし 日がしずむ

2 うみは大なみ あおいなみ
ゆれてどこまで つづくやら

3 うみにおふねを うかばして
いってみたいな よそのくに

山奥で生まれて、海を見ることなく育った私にとって、海への憧れは、人一倍大きかったようです。初めて海を見た記憶は、母のふるさとに旅行した時に、汽車の車窓からだったと思います。土佐の桂浜から太平洋の大海原を眺めた坂本龍馬のような思いには至らなかったのですが、海の向こうの世界には、何か夢があり、その夢を果たせそうなものを感じたのは確かです。

父は神奈川県横須賀の出身で、曽祖父は「海軍工廠」の技官だったそうで、海とは近い関係があったようです。父の中学時代に、横須賀から東京湾を横断する遠泳に出たとか聞いたことがありました。当時の海は綺麗だったのでしょう。中学に入った時に、横須賀からは対岸の館山海岸で、「水泳教室」が持たれ、参加しました。赤い六尺褌をキリリと締めて、<男>になったように感じたのです。海の水の塩っぱさが、あれほどとは思いませんでした。

海を眺めたり、潮騒(しおさい)を聞いたり、泳いだりしますと、<古里回帰>のように感じるのは、父の血の故でしょうか。よく聞いたのは、潮の満ち引きの音は、母の胎内の羊水の中にいた時の記憶に通じるのだそうです。だから、潮騒を耳にすると、何とも言えないほどに、心が落ち着くのかも知れません。このところ、上海と大阪の航路を行き来する「蘇州號」に乗っていません。東シナ海の夏の潮風は、頬にとても気持ち好いのです。また乗船してみたいものです。

(写真は、三島由紀夫の「潮騒」の舞台である鳥羽・沖島です)

昔のこと

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次女が長野県の「南信州」に住んでいたことがあります。留学先で出会った青年と結婚して、数年経ってから、高校の英語教師を日本でしたいとのことで、”JET”という派遣機構の紹介でやって来たのです。阿南町と飯田市に住んで、三カ所の県立高校で英語を教えていました。この南信州に、「阿智村」と言う純農村があります。今では、農産品や木材や観光で収益を上げられるようになっていますが、戦争前には、日本でも貧しい地域の一つでした。

その貧しさの故に、人生の転機を求めてでしょうか、または「口減らし」のために、<農業移民>が国策として奨励され、それに応募して、多くの村民が出かけたのです。アメリカ大陸やハワイやブラジルへの移民とは、事情が違っていました。多くの少年たちも両親の下を離れて参加しています。

ハワイやブラジルやアルゼンチンに移民された方たちに、お会いしたことがあり、お話も聞かせていただきました。どこも、慣れない異国の厳しい気候や土地の状況下での開拓は、実に厳しかったようです。「王道楽土」という言葉で宣伝された満洲の開拓の移民総数は、27万とも32万とも言われて、確かな統計資料は失われています。敗戦で、引き揚げた帰国者の数が、11万人だったと言われていますから、「満州移民」は、筆舌に尽くせない過酷なものだったことが分かります。

そんな時代に、一つの歌が歌われていました。作詞が島田磐也、作曲が陸奥明で、昭和16年(1941年ー太平洋戦争が開戦しています)に発表された、「満洲里小唄」です。

積もる吹雪に暮れ行く街よ
渡り鳥なら伝えてておくれ
風のまにまにシベリア鴉
ここは雪国満州里

暮れりゃ夜風がそぞろに寒い
さあさ燃やそよペチカを燃やそ
燃えるペチカに心も解けて
唄えボルガの舟唄を

凍る大地も春には溶けて
咲くよアゴニカ真っ赤に咲いて
明日の望みを語ればいつか
雪はまた降る夜空も白む

まだ出かけたことはありませんが、この歌に出てくる「満州里」は、内モンゴル自治区にあります。遼寧省や吉林省や黒竜江省は、移民の多かった省です。あの「残留孤児」が、様々な理由で置き去りにされた地域です。阿智村の一人の住職が、孤児たちの帰国に尽力したことで有名で、次女に案内されてその村を訪ねたことがあります。何とも言えない、「悲しさ」が村に漂っていたのを思い出します。私の二人の兄と私は、この「戦争孤児」と同世代なのです。やはり、二度と同じような戦争に、一般市民が巻き込まれる悲劇のないことを願いつつ、昔聞き覚えた「満州里 小唄」を、今夕は口ずさんでしまいました。

(写真は、開拓農家の秋の収穫風景ー「百度」の撫順の古写真から)

宝宝出生了!

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『宝宝出生了!』、『6月23日に、身長 49cm、体重 3000gの男の子が生まれました!母子共に元気です!』と、昨日、泉州の教え子のご主人からメールがありました。gmailに発信したのだそうですが、届かなかったようで、hotmaiに連絡してくれました。

宝宝には『健やかに育 ちますように、みんなに愛されますように!』、教え子には『体が早く回復しますように!』と心から祝福しました。酷暑の季節の誕生ですから、夏のように逞しく、躍動的な男児となることでしょう。もう一人、私たちに<孫>が与えられたかのよう、喜んでいます。

きりりとした男児の誕生、心からおめでとうございます。ご家族のみなさんの上に、心からの祝福をお祈りします。

(写真は、生まれたばかりの「宝宝」ちゃんです)

感謝!

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一昨日、いつも決めて買いに行く果物店で、買ったスイカが、異常に甘いのです。昔、味わったことのある懐かしい味がしてくるではありませんか。これは自然の味ではなく、あの「サッカリン」の味です。舌の裏側から、唾液と共に、甘みがジワッと湧き上がってくるのです。母は、料理をする時には、ほとんど使いませんでしたが、我が家にも、結晶した人工甘味料が、瓶の中に入って、調味料棚に置いてありました。砂糖の流通の少なかった頃のことです。二、三度、こっそり舐めたことがあって、『これは偽物!』だと、子供ながらに分かったのです。

何年か前に、『あるスイカは、赤く着色していたり、甘みを加えてありますから!』、と言われたことがありました。豚肉も赤みを増すための着色もあるようです。意外と舌は敏感ですから、<偽物>や<異物混入>を見破るのです。毎年、夏になりますと、家内の大好物ですから、冷蔵庫に切らすことがないように、切り売りしているスイカを買ってきては、入れてあるのです。先日、アメリカのスイカの様なフットボール型のスイカを頂いてから、丸のままの物を買ってきているのです。一昨日のは異常に甘いのです。

消費者から<甘さ>が求められるので、つい、こう言った細工をしてしまうのでしょうか。甘い果物を作るコツは、「土壌改良」をするのだと、葡萄や桃を生産している方から伺ったことがありました。これは手間、暇、お金がかかるので、つい、出来上がった製品に甘みを加えてしまうのでしょう。ずるい生産者が、やりたがる常套手段です。

そう言えば、ライチも桃も、その他の果物が、最近、甘くなっているのです。もしかしたら、小細工しているのかも知れませんね。昨日来られたお客さんが、二分の一に切ったスイカを持ってきてくれて、まだ冷蔵庫の中にあるし、困ってしまいました。それで、上の階の方に差し上げたのです。あれも、同じように甘かったのではないでしょうか。

食べ物には、結構気を付けているのですが、厳格に調べたら、食べるものがなくなってしまうことでしょう。それで、「感謝」して食べることにしてるのです。そうしたら、害を免れることができるからです。『正直であって欲しい!、そう思っている、灼熱の週末の夕方です。

(写真は、小分けして切られた「西瓜」ですーWMから)

セミ

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今年の蝉の鳴き声が、やけに強烈で、けたたましく聞こえてくるのです。日本で聞いていたのは、ほとんどが<油蝉>なのでしょうけど、『 ミーン、ミンミンミン・・・!』と聞こえてきたのに、こちらでは、ひときわ強く、『ジージージー・・・!』の連続音なのです。何十年となく聞き慣れてきた、真夏の日中の蝉の、あの聞き慣れた鳴き声と違って、そう聞こえてくるので、ちょっと期待外れなのだと思います。この蝉は<クマゼミ>に違いありません。酷暑の華南の街の主役が、もしかしたら、この蝉に代わってしまったのでしょうか。

昨日も、蝉の鳴いている木に近づいたのですが、日本では、人の気配を感じて、しばらく鳴き止むのですが、こちらでは、何のその、鳴き止みません。こちらには 、 セミ捕りの悪童がいなかったので、人を恐れない習性が培われているのかな、と思ったりしています。朝や夕方には、『カナカナカナ・・・!』と聞こえる<ひぐらし>の声がありましたが、こちらでは聞いたことがありません。<ツクツクボウシ>の『オーシンツクツク、オシン・・・!』も聞こえてきません。

中学一年の時に、松尾芭蕉の書き著した紀行文、「奥の細道」を教わりました。「古語」で、よく映画の時代劇で聞いていた口調で、書かれてあって、なんとなく分かって、おもしろかっのです。この芭蕉の作った俳句に、

閑(しずけ)さや岩にしみ入る蝉の声

があります。閑静な奥山に分け入った芭蕉が、耳にしたのが、『チー、ジー!』と鳴く<ニイニイ蝉>の蝉の鳴き声でした。まるでその鳴き声は、岩に沁み込んで行くように聞こえていたのでしょう。土の中で長く過ごして、蛹からかえって、短い一生を鳴いて鳴いて終えるのですから、激しく自己主張をするのに違いありません。

あの<アブラゼミ>の鳴き声が懐かしいのです。アイスキャンディーをしゃぶりながら、麦わら帽の私に、ジリジリと照りつける夏の太陽と、<ミンミンゼミ>の鳴き声が、夏本番でした。

(写真は、「アブラゼミ(ミンミンゼミ)ですーWMより)