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この街の今朝の気温は3℃だそうです。暦の上では「春」ですが、一年で最も寒い時期です。亜熱帯で、ブーゲンべリアが咲いているのに、この寒さです。アパート群の間から見える空は、晴れて、陽が射し始めています。こういう日は寒いのでしょう。吉林省や内蒙古は、どれほど寒いことでしょう。

この家の大家さんは、エアコンを入れていてくれましたので、夏場に使う扇風機を、書庫の上にセットして、部屋の空気をサーキュレートしますと、家中が暖かくなって、「舒服shufu/気持ち良く快適」です。風邪を長引かせた私は、「中药zhongyao/中国漢方薬」のおかげで、風邪もすっかり好くなりました。『弱そうに見える奥さんが強くて、強そうな準さんが弱いのが不思議ですね!』と、この日曜日に出先で言われてしまいました。

7時前に、大きなザックを背負った中学生が、わが家の窓の下を、元気に登校(中国語ですと"上课shangke")して行きました。家内が昨日お会いしたご婦人のお姉さまの息子さんが、「不登校」しているのだそうです。ご両親が離婚してから、部屋に閉じ籠もったきりだそうで、何か深く考えているのでしょうか。早く出てこられる様に願ったところです。どこの国の家庭事情も、大きな問題を抱えているのが分ります。

陽が徐々に高くなって、だんだん暖かくなっていくのでしょう。本格的な春は、すぐそこに来ていそうです寒さの中、好い一日をお過ごしください。
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ララ

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アメリカ合衆国という国が、戦時下の遺恨を乗り越えて、すばらしい国だという事が分かった一つのことは、"LARA物資(ララ/Licensed Agencies for Relief in Asia:アジア救援公認団体)"のことを知ってからです。私の二人の兄が通っていた小学校が、火事に見舞われて焼けてしまったことがありました。その焼け跡に、大きな"ドラム缶(石油を入れる様なものではなく硬紙でできた円筒缶☞写真参照)"が、焼け跡にありました。そこには、焼け出された"脱脂粉乳"が入っていて、手ですくっては、むせる様にしてぱくついたのです。これが"LARA"の物でした。

兄たちが、昼に弁当を食べる時に、いつも出されていた”ミルク”を作っていた材料でした。私も、兄たちを追って学校に入ってから、いつ頃まで続いたか覚えていませんが、弁当の時間には、いつも"ミルク"が供されて飲んでいました。敗戦国・日本の「就学児童」の健康のために、アメリカの「篤志団体(教会が中心になっていたそうです)」が全国の小学校に贈ってくれた物だということが、だいぶ後になって分ったのです。

もちろんアメリカも、「植民地主義」で、あの"ハワイ王国"を支配下に置いてしまった様に、日本にも、虎視眈々と支配の手を伸ばしつつあったことは、歴史資料が証明しています。日本が、中国の東北部に「満州国」を建設しようとしていたのと同じものです。どの国も、そう言った強い野心があるのです。

しかし、民間団体の占領国へ「優しい心」を向けた行為は、演技ではなく、その動機は「愛」でした。「日米時時事通信社(日米タイムズ)」の編集長だった浅野七之助という、サンフランシスコ在住の日系アメリカ人が音頭をとったそう ですが。今、それを思い返して、自分の成長期の体が、そう言った「愛の物資」によって形作られたことが分って、感謝の念を覚えるのです。終戦直後の1946年に始まって、1952年まで続いたのです。

同じ様に「朝鮮戦争」後の韓国に対しても、同じ様な、食糧、衣料、医薬品などの援助が行われれていたと聞きます。私は、肺炎で死にかけたのですが、"ペニシリン"が投与されて生きる事ができました。これもまた、"LARA"のお陰でした。ですから、「鬼畜米英」ではない、祝福された面があるアメリカ社会には、感謝の思いが湧いてまいります。私たちも、「日本鬼子Ribenguizi」ではない反面を持っているのです。

成長期の自分は、父母が欠かす事なく食べさせてくれたのですが、病気が癒えた後は、いつも<食欲旺盛>でした。だから、あの焦げた《脱脂粉乳》のニオイと味は、"LARA"そのもので、今も鼻と舌が、その匂いと味を覚えているのです。
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投げ銭

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見たり聞いたりした事はあっても、「した事のない行為」と言うものが、結構あるものです。ある時、周り中でしていたので、その雰囲気に、つい呑まれて、してしまった事がありました。それは、お金を紙に包んで《おひねり》にして、舞台目掛けて投げる《投げ銭(なげせん)》でした。ちょっと距離があって、舞台に届かないで、どうも誰かの頭に当たってしまった様でした。よくある事なのでしょうが、謝るに謝れずじまいでした。

それは、長野県南部、「南信」にある、大鹿村で年に春秋二回開場される、「農村歌舞伎(田舎歌舞伎)」で、その年の秋にーー観劇していた時の事でした。それを「大鹿歌舞伎」と呼んで、何年か前に映画化された事がありました。その大鹿村の「広報」に、『大鹿歌舞伎は300余年前から、大鹿村の各集落の神社の前宮として舞台で演じられ、今日まで伝承されてきました。歴史の変遷の中で、江戸時代から明治時代には、歌舞伎上演の禁令は厳しく、その弾圧をかいくぐりながら、村人の暮らしの大事な核として脈々と受け継がれてきました。大鹿歌舞伎の上演が無かったのは、終戦の年などわずかであったことを考えると、大鹿村の地芝居は隔絶された立地条件とめまぐるしい社会変化の中で生きてきた村の人々の心の拠り所であり、祈りに似たものであったといえます。』とあります。

娘婿が、南信の県立高校で英語教師をしていた時に、『ぜひいっしょに観劇しましょう!』と誘ってくれて、家内と二人で駆けつけたのです。その日は、生憎雨で、屋外から体育館の屋内に舞台をかえていました。満員御礼の盛況でした。演目は、「菅原伝授手習鑑」で、村民の中から選ばれた演者によって演じられていたのです。その「寺小屋の場」は、『菅丞相(かんしょうじょう)の一番弟子・武部源蔵は寺子屋を開き、そこで丞相の一子・秀才を密かにかくまって暮らしていた。しかし、それが丞相を失脚させた時平(しへい)に露見、秀才殺害の命が下り、首実検に三つ子の一人・松王丸を寄越す。子を持たない源蔵夫婦は、仕方なくその日入門してきた教え子を身代わりに殺して首を差し出す。松王丸はそれを秀才の首だと認めて帰ってゆく。実は身代わりとなった教え子は松王丸の子で、兄弟の中で一人だけ丞相の政敵に仕えたことに報いるために、わが子を身代わりにと寺子屋に送り込んだのであった。』が大筋です。

武士の世界の「忠」に従う厳しさが、「歌舞伎」を通して、農村にまで浸透し、《日本人の心》を形作ってくてきていたのでしょう。農民や商人などが主人公ではない世界の出来事が好まれて演じられていたのです。あんな山奥で「歌舞伎」が演じ続けられてきたと言うのは、そこが《落ち武者部落》で、村民の元々の出自は、武士だったのではないのでしょうか。武士の心を忘れないための「演芸」だった様に感じてなりませんでした。

「河原乞食(かえあらこじき)」と蔑まれてきた「歌舞伎」ですが、田舎歌舞伎を観させてもらって、感動を覚えたのです。幕府禁制の歌舞演劇なのですが、密かに演じ続けてきた気概も感じられて、《古き良き日本》に触れた様でした。また観てみたい思いがあります。ここ中国にも、「京劇」だけではなく、地方都市にも伝統芸能が残っていて、四川省成都に行った時には「川劇」を観せてもらった事がありました。住んでいますこの街にも残されてあるですが、まだ観た事がありません。方言で演じるのだそうです。今度は、舞台に上手にのるように「投げ銭」を放ってみたいと思います。

(「寺子屋」 三代目中村歌右衛門の武部源蔵。文化8年(1811年)7月、江戸中村座。初代豊国画。)

上がり

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子どもの頃には、《将来の夢》と言う、『大人になったらどうしよう?』と、思ったり話したりしていたでしょうか。少し大きくなった時には、『俺、♡♡が好きだ!』と親友と、秘密を分け合ったりしていました。中学生になった時、『〇〇大学に行くんだ!』と言っていました。そして、思春期の真っ只中で、『あの子が好きだ!』と、心密かに思ったりしていたのです。高校になったら、もう何かを諦めてしまったりして、現実が見え始めていました。やっと引っ掛かった大学では、『どんな仕事に就いたらいいかな?』と考えていました。仕事の機会を得てから、しばらくすると結婚相手の事を考えたのです。そして《糟糠之妻》と出会って、何と47年も生活を共にしています。

結構好い人生を生きて来たのではないでしょうか。長くしてきた仕事を、他の人に任せて、《強い手》 に引かれて、中国にまで来てしまいました。漢語を学び、導かれた街に来て、大学で教える機会を得たり、ある健康倶楽部の活動に参加したりして、今日に至っています。この夏で《満十二年》になります。風邪で寝込むと、何人もの方が『この薬を飲んでください!』と言っては、薬をくださるし、腰が痛いと、『この薬は香港(台湾、マレーシア、家伝)の薬で、効きますから腰に塗ってください!』と持ってきてくれて、家の棚には、何種類もの薬でいっぱいです。大事に思ってくださる方たちの間で、二人で生活をしています。

今日も、久し振りの出先で、<中薬(中国漢方薬)>を処方するために、知人の親戚の中医のお医者さんが、わざわざ来てくれました。また、『今週の水曜日に会ったら、好い薬があるので差し上げますね!』と言ってくれた方がいました。話し言葉が、60%位分かるでしょうか、そんな交わりで満たされています。私の愛読書に、『近くにいる隣人は、遠くにいる兄弟にまさる。』と書いてあります。兄たちも弟もよくしてくれますが、 そこから離れて、ここで出会った人たちとは、私の兄弟に勝るとも、劣らないほどの交友が与えられています。

日本のプロ野球を面白くしてくれた方が、先週亡くなられました。《反骨漢》で、やや《粗暴》でしたが、《人情味》を持った人でした。会った事も話したこともない人でしたが、ほぼ同世代(弟と同学年)でした。二回りほど上の人たちが亡くなり、そして一回り上の人たちの番になり、このところは、同世代が亡くなって逝きつつあります。夢を分かち合い、友情を交わし合い、好きな娘(こ)を競い合った仲間たちの番になってきたようです。『あいつは今、どうしてるんだろう!』と話しの中で聞くと、『去年逝ったよ!』と聞いたりします。

『百まで!』と豪語してる自分の番もありそうですね。歌人の"一休さん"が、次の様に詠みました。

正月や 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし

生まれてから、全ての人は、避けられないゴールに向かっているのです。私の母も、そして父も、「永生」を信じて、定められた自分の生を全うしました。そんな《生命の道》があるに違いありません。《双六(すごろく)》に《上がり》がある様に、私の一生にも《上がり》があり、死も涙も苦しもない世界が待っていてくれるのです。もうしばらく生かしてもらおうと願っている、2018年最初の日曜日です。
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友情

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昨年の9月から、私たちが住み始めた小区のアパート群の各入口の左側の壁に、「雷 鋒(LeiFeng1940〜1962年)」と言う人民解放軍の兵士のイラストと一文が掲げています。毛沢東の著書を、毎日、熱心に学んだ人で、模範的な中国人(軍人)とされ、『雷峰に学べ!』とのキャンペーンが、今こちらでは再び盛んです。22歳で輸送中の事故で亡くなったのですが、身につけていた日記に、建国のための学び記されていたそうです。いわゆる「中国版道徳教育」の代表の様な人です。

日本の小学校でも、「道徳」の授業があります。5年生の教科書には、「星野君と定金君」と言う項目があって、「友情」を取り上げているのです。

『5年生になると、お互いに仲良く助け合っていこうとする仲間意識は育ってきています。しかし、自己中心的な考え方から友達の信頼を裏切ったり、相手からの一方的な友情を期待したりしているところもあります。そこで学校では、友達同士が信頼し合うことの大切さを理解させ、本当の友情、友達とは何かを考えさせていくように指導しています。』という事を目処にして授業をするそうです。

この授業のための資料の一つが、次の様なものです『星野君は、スポーツが得意な母親の影響もあり正義感の強い子どもだった。5年生に進級した星野君は、筋萎縮症で出席日数が足りず、6年生に進級できなかった定金君と同じクラスになり、定金君を背負って毎日学校へ通うようになる。教室や昼休みや放課後の運動場ではいつも一緒だった。6年生の修学旅行では、だれもが定金君の参加をあきらめていたが、星野君のはたらきかけで行くことができるようになった。そして翌年の春、修学旅行の思い出を胸に、星野君と定金君は、一緒に小学校を卒業することができた。』

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この「星野君」とは、プロ野球の選手、監督、球団取締役を歴任した星野仙一氏の事です。お父さんを病気で亡くした彼は、姉二人と、自動車工場の寮母をするお母さんの手一つで育てられ、高校大学と野球を続け、名古屋を本拠地とする「中日ドラゴンズ」の投手として活躍した方です。監督としても優秀な成績をおさめています。

彼は、『俺は二流投手だ!』と自分を認めていたのですが、昨年は「野球殿堂」入りを果たした、名投手、名監督でした。そんな星野氏の小学校時代に、一年間、体の不自由な旧友を、毎日背負って登下校をしたのです。だれにでもできることではなく、級友の定金さんは、41歳まで生き、その星野君の示してくれた「友情」に、大きな感謝を表したそうです。その「友情」を教材に、これからの子どもたちに優しさを呼び起こそうと教えているのです。

激しやすさで有名で「闘将」とまで言われたのですが、よく、福祉活動に寄進して、この社会の弱者に、優しい心を向けてこられた方でした。野球ばかりしたのではなく、そう言った面でも、社会に貢献してきた事は素晴らしいことでした。この星野仙一氏が、一昨日、亡くなりました。日本のプロ野球を面白くさせた貢献者でした。ご遺族のみなさまの上にお慰めをお祈りします。

(星野仙一氏の生まれ育った倉敷市の"市の木"の「楠木」、監督時代、中日で投手の頃の姿です)
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愛称

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人や物などに「愛称」があります。あまり流行らなかった自分のニックネームは、<じゅん坊>でした。映画俳優のジェームス・ディーンを「ジミー」、夏目漱石の作品の「坊ちゃん」や「赤シャツ」、これは改名かも知れませんが旭川野球場を「スタルヒン記念球場」、鎌倉と江ノ島との間を走る鉄道を「エノデン」、今では一路線になってしまった東京の路面電車を「トデン(以前は<シデン>)」など、「渾名(あだな/仇名)」、「通称」などで呼ばれる人・物・事が多くあります。

アメリカのモンタナ州に行った事がありますが、そこは" Big Sky Country "、空が広がり、美しいから、そう呼ばれているのを聞いて好いなと思いました。ちなみに私の長女が住んでいるニュージャージーは"The Garden State"、ニューヨークなどの東海岸の大都市に、野菜や果物や花などを出荷するので、そう呼ばれています。次女のいるオレゴン州は"Beaver State"、川に生息するビーバーにちなんで、そう呼ばれています。

ところが日本の県にもニックネームがあるのだそうです。長野県は、2年前から"宇宙県"とPRしている様です。寒い季節には訪ねる事がありませんでしたが、夏に訪れた信州は星が綺麗な高原で、県自身が内陸の高地に位置しています。東京大学の天文台など天文研究施設も多く、県は「宇宙に一番近い」と売り込んでいるそうです。その影響でしょうか、鳥取県は、去年あたりから"星取県"で売り出しているのです。県下の町村は、空が綺麗で澄んでいるので、「天の川」が好く見えるのだそうです。それで夜空を綺麗に守るための県条例を決めているとか。

こう言った風に、都道府県や市町村が、自分の住む場所の特徴をアピールして、もっと親しまれる街作りをして欲しいものです。日本中には、「小京都」と呼ばれ、京の都の風情を残す街が、結構多くあります。最近中国からの観光客は、物を買うためだけではなく、日本の伝統や文化に関心を向けているそうです。とくに福岡県朝倉市が注目されていて、<筑前の小京都>と言われる、"秋月藩"の城下町を、多くの中国のみなさんが訪ねている様です。

関東には「小江戸」などと呼ばれ続けてきた街も幾つかある様で、<古き良き日本>を、もっと大事にして残して行きたいものです。コンクリートや鉄筋の硬さよりも、木草、藁、紙、土の柔らかで温もりのある素材や材質で作られた日本を残して欲しいのです 。日本文化が作り上げられている特徴が、そう言った物だからです。.

私の住んでいる街は、何年も前から「有福之州」と言う名で呼んでいます。パンフレットにも、空港や駅や高速道路沿いの看板などにも、そう掲げられています。和やかで穏やかで柔らかなものを、人は誰もが求めているからなのでしょう。『もう"ハード"なものは十分!』と思うからでしょうか。

(富士山を背に走る「江の島電鉄」の電車です)
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喜び

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「干支(えと)」とは、"ウイキペディアによりますと、『中国を初めとしてアジアの漢字文化圏において、年・月・日・時間や方位、角度、ことがらの順序を表すのにも用いられ、陰陽五行説とも結び付いて様々な卜占にも応用された。古くは十日十二辰、十母十二子とも呼称した。起源は商(殷)代の中国に遡る。日・月・年のそれぞれに充てられ、60日(ほぼ2か月)、60か月(ほぼ太陰太陽暦5年)、60年などをあらわす。干は幹・肝と、支は枝・肢と同源であるという。日本、朝鮮半島、ベトナム、西はロシア、東欧などに伝わった。』とあります。

よく聞いたのが、父が徴兵検査で、《甲種合格(こうしゅごうかく)》だったと言う<甲>で、一番を意味していたことでした。その後に<乙(おつ)>、<丙(へい)>、<丁(てい)>と続き、十段階があります。自分の生まれ年が、「申年(さるどし)」だと言うことで「猿」で、弟は「戌年(いぬ)」で「犬」なのだそうです。自分が猿に似ているなどとは一度も思ったこともありませんので、全くという程、意識しないで生きてきました。

「人」は、「人」として生まれ、生きているのであって、微量の物質が、偶然の積み重ねで変化し進化して「人」となった、と学校で教わりましたが、私のこの単純な頭でも、それは納得できないでおります。この町の北にも動物園があり、猿が檻の中にいます。よく見ますが、これが自分の祖先であるのだなどと思うことなどありません。はるかに緻密で高等な自分を、猿と同列に置く事ができないのです。科学者の頭の中の「仮説」によって、人の成り立ちの答えを、そう出しているのです。

そんな事で、私たちには四人の子ども、四人の孫があるのですが、彼らの生まれた年の「干支」を知らないのです。こちらにきて、学生のみなさんも、自分が、<何年生まれ>だとか言っているのを聞いた事がありません。日本人の様な拘りが、みなさんにはない様に 感じています。

長く住んだ町に隣人の長男が、『息子は、<◯◯年の虎>なので、気性が荒くて、嫁の来てがない!』と言っていたのを聞いた事があります。易や暦で、自分の息子の運勢を占って、一喜一憂する人生など、したくないものだと思ったのです。お父さんからもお母さんからも、双方から、その事を聞いたのです。自分の息子の問題を、生まれた年のせいにしてしまうのは、勿体無いなと思った次第です。

そんな事にとらわれずに、生かされてきた事を顧み、三百六十五日を、感謝と反省と、そして喜びで生きて行きたいものです。新しい日を喜んで迎え、その一日を感謝で終えたら、生きる意味が増してくるのです。そして、また迎える日に期待しながら、床に着くのが好のです。

(江戸の町の「たこあげ」の風景です)

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正月の三日間を「三が日」と言います。ある方は、講演内容を三点にまとめて話す"3poits messege" 、夜空を見上げて見る刃物のような「三日月」、興味津々でし始めるのですが飽きっぽい 「三日坊主」、辛抱強く事をし続けるのを「石の上にも三年」、信長を討ったのはよかったのですが明智光秀の「三日天下」、人を慕わしく待ち続ける「一日三秋」、そんな「三」にまつわる言葉や諺が結構多いのです。

教育界で言われてきたのが、幼い頃の性格は、年をとっても変わらないということで、幼児期に受けた感化が一生にわたるのだと言う「三つ子の魂百までも」があります。また、教えを乞う先生と横に並んで歩くことなど失礼千万、その敬意を、三尺ほど下がって付き従う姿勢を表す「三尺下がって師の影を踏まず」です。中国の社会では、教育者は絶対的な尊敬を受けています。その証拠に「教師節」という日が定めれれていて、先生に感謝を示すのです。

ここ中国で有名なのは、『中国の三国時代、蜀の劉備が無位無冠の諸葛孔明を軍事として迎えるために、礼を尽くしてその草庵を三度も訪ねたという故事に基づく』礼を尽くす事を言う「三顧の礼 (さんこのれい)」でしょうか。日本人は、中国から 「礼」も学んで、それを実行してきています。中学に入った当初、上級生には敬意を表すために脱帽し、『おはようございます!』、『ありがとうございました!』、『さようなら!』』と言って頭を下げて礼をしていました。

あの有名な儒家の孟子の家族は、初めに「墓場」の近くに住んでいました。それで子の孟子は<葬式遊び>をしてばかりいるので「市場」の近くに引っ越します。すると、孟子は<商いの遊び>ばかりし始めます。住んでいる環境に息子が影響されやすい事を知ったお母さんは、今度は「学校」の近くに引っ越したのです。そうすると孟子は<礼儀作法の真似ごと>をするようになり、その地にで育てることにした「孟母三遷の教え」があります。

中国語を学んでいた時に、「故事成語」の授業があって、そこで学んだのが、法令や決まりをめまぐるしく変える「朝三暮四」でした。『宋の国に狙公という人がいた。猿を可愛がって群れをなすほど養っていた。サルの気持ちを理解することができ、猿も同様に主人の心をつかんでいた。自分の家族の食べ物を減らしてまで、猿の食欲を充たしていた。ところが急に貧しくなったので、猿に与える餌の茅(どんぐり)を減らすことにした。猿たちが自分になつかなくなってしまうのではないかと心配したので、まず猿たちを誑(たぶら)かして言った。「お前たちにどんぐりをやるのに、朝は三つで暮は四つにする。足りるか」すると猿たちは皆起ち上がって怒りだした。そこで狙公は急に言い変えて、「それじゃ、朝は四つで暮は三つにしよう。足りるか」と言うと、猿たちは皆平伏して喜んだ。』という話からの成語です。

女性の行動を表した「女三人寄れば姦(かしま)しい」など、日本も中国も「三」で纏(まと)めたり、括(くく)ったりするのが好きなのでしょうか。「三強」、「三哲」、「三景」とか、「三大◯◯」と言うのです。そういえば表彰台も、大体が「三台」です。一度、登壇してみたいなと思いながら生きてきましたが、叶えられずじまいです。もう今年も、三日が過ぎてしまい、今日は、普段の日に戻っているのでほっとしています。

(AIRDOによる世界三大夕日の「釧路港」です)
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カウボーイ

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テレビ映画が全盛期だったのは、中学生の頃でした。とくに、アメリカ物で、日本語に吹き替えた番組には、字幕を読まないで好いので、物語に入り込める様に感じて、まるで、西部の草原を牛を追ってる"カウボーイ"になってるような気持ちになって、見入っていたのです。自分が日本人であり、東京に住んでいるのを忘れて、アメリカの西部の草原や砂漠にいる様に、忘我の心境だったでしょうか。

「ララミー牧場」とか「ボナンザ」とか、「ローハイド(Rawhide)」、カウボーイではなかったのですが、<賞金稼ぎ>が主人公で、街から街へ、犯人を追って行く活劇の「拳銃無宿」などは、勉強どころではなく、朝から、夜のテレビの放映時間が楽しみでした。 その頃、母が、よく作ってくれたおかずが、「ハンバーグ」でした。肉屋で、牛肉をミンチにひいてもらって、それに微塵切り(みじんぎり)にした玉ねぎと人参を加え、パン粉と卵と調味料で練り込んだ具で、厚みのある小判の様な形に手で作り、フライパンで焼いて、トマトやキュウリやブロッコリーなどの西洋野菜をつけたり、時には、ポテトサラダを添えたりしてくれました。

カウボーイたちは、一日の仕事を終え、野営し、料理番が食事をこしらえるのです。牛肉、ポテト、豆、スープ、固いパンが、夕食に出されて車座に座って食べていたのです。これは「ローハイド」に、よく出てきた場面です。そうすると、私は、母手作りのハンバーグを、お皿の上で、形を崩して、ご飯と混ぜて、フォークで食べると、その車座の中に自分も座って、一緒に食べてる様な気持ちになったのです。ですから、私の"カウボーイ料理"、"アメリカ料理”は、形を崩したハンバーグとご飯の混ざった物でよかったのです。ドイツのハンブルグで作られた物なのに、いいんです、私の思い入れにある食べ物なのですから。

この「ローハイド」のカウボーイの隊長の名が、"ギル・フェイバー"でした。3000頭もの牛を、テキサスからミズーリーまで陸路を運ぶのです。補佐役が、若かった日のクリントン・イーストウッドの演じた"ロディー"で、彼が忠実に仕えていたのが印象的でした。面白かったのは、カウボーイ仲間が、隊長を呼び捨てすると、ロディーが、『フェイバーさんだろ!』と、"Mr(ミスター)"と言い直させる、ちょっと<日本的>な下りが、中学生の私には面白かったのです。

体育教官室の前を通って、体育館での授業に、私は行こうとしてました。『大◯は・・・』と、<先生抜き>で大声で言って通ったのを、大◯が聞いていたのです。授業が始まると、開口一番、顔を赤く激して『準、出て来い!』と言うのです。『一対一で勝負しよう!」と言うのです。バスケットボールの勝負でした。どちらが勝ったと思いますか、私でした。 この大◯先生には、好い意味で可愛がられたのです。同じ中高の先輩でした。私が高校に入った時に、県庁の職員になり、退職してしまったのです。この方は、<先輩>でしたから、<さん>呼びしてました。

結構、西部劇も、《従順》とか《リーダーシップ》とか《仲間意識を強める事》とかが学べたのを思い出します。ただの娯楽番組ではなかったので、随分と人気があったのでしょう。風呂好きの私は、カウボーイが、水場を認めて移動していき、水が貴重で、ほとんど風呂に入らない様でしたので、アメリカに行って、"カウボーイ"になりたいとは思いませんでした。でも彼らの生活ぶりは、よく分っているつもりです、はい。でも、私の""カウボーイ料理"には、味噌汁と沢庵とラッキョがついてたので、"メイド・イン・ジャパン"だったのは笑えますね。

(1887年に撮影された本物の「カイボーイ(牛追い人)」です)
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平和

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大晦日、映画を観ました。台湾から来て、この街で働いておられるご婦人が、『とても好い映画があるから観たいらいいですよ!』と、一緒に、「日本蕎麦」と「台湾風うどん」の"ダブル麺"の「年越し蕎麦」で、 夕食を一緒にした後に、iPadを操作して観られるようにしてくれたのです。

妹尾河童(せのおかっぱ)が、自分の自伝として書き上げた「少年H」を、2013年に映画化した作品でした。腕白(ヤンチャ)な小学生の主人公「肇(はじめ/Hajimeの<H>で<少年H>)」と妹、その両親が、戦争色が徐々に濃くなって、閉塞して行くような世相の神戸の街で過ごす様子が描かれています。

Hは絵が上手で、御多分に洩れず、戦時下の少年たちの憧れは、帝国海軍の「軍艦」で、それを描くところから映画が始まります。お父さんは、洋服の仕立てや寸法直しを生業(なりわい)にし、家族を養っています。お得意さんは、外人居留地の外人さんたちで、採寸にHを誘って、お父さんは出かけるのです。外人さんたちも、徐々に帰国して行き、お得意さんは減少して行きます。リトアニアで、杉浦千畝領事代理が発行した通過ビザで、敦賀に上陸したユダヤ人たちが、神戸で船の出航を持っている間、お父さんは、彼らの服の修理を無料でしていました

日本の社会が日支事変から太平洋戦争に拡大されていくのですが、穏やかなお父さんと仏教徒からの回心者の信仰深いお母さんとの信仰は、続けるのが難しくなる時代でもありました。でも両親とも、変節をせずに、信念を曲げずに、あの時代を生きたのです。反米色が強くなっていく社会の中で、アメリカ人の宣教師との関わり、帰国した彼らから絵葉書をもらったりしたことで、Hは、同級生から揶揄されたり、「ヤソ」と机に落書きされたりします。でも反撃せずに耐えたのです。

送られてきた絵葉書に印刷されていた、ニューヨークの”エンパイヤステイトビル"の大きさに度肝を抜かれ、そんなアメリカの凄さを友だちに話した事が、悪意にとられたことでいじめを受けたりします。そこには、<狭量な日本人の心>が描かれていたり、共産主義者への弾圧、しまいには、外国人をお得意さんとしていたお父さんは、スパイの嫌疑をかけられて、警察に拘留されて、拷問や殴打のめに遭ったりします。負け戦で、更に社会が窒息化し、猜疑心(さいぎしん)ばかりが大きくなっていくのです。

お父さんは、拷問を受けても、常に穏やかでした。それが物足りない息子でした。特高の警察官に放り投げられた時に、額から血を流すほどの怪我しても、お父さんは怒ったりしないで、常に冷静なのです。そういうお父さんを受け入れるのに、もがき、ながら、Hの心は揺れて行きます。更に戦時色、敗戦色が強まり、ついに神戸の街も、米軍機の投下する焼夷弾(しょういだん)の攻撃を受けて、焼け落ちてしまいます。

お父さんの<命>であるミシンを燃え盛る家から、お母さんと二人で持ち出すくだりが、<父思い>の少年だった事が印象的に描かれていました。終戦の詔勅(しょうちょく)で、戦争が終わった後、運び切れずに放置されていた、父愛用のミシンを、お父さんは瓦礫の中に見つけ出し、修理します。そして、使えるようにして、お父さんは、《やり直し宣言》をして、戦後を、ミシンを踏みながら、家族を養って生きて行くのです。

疎開先から帰ってきた妹が、大事に持ち帰ってきた米を炊いたご飯で、飢えた隣家の子どもたちに分けてしまう、そんなお母さんの行動に、Hは不満ですが、お父さんはそう言ったお母さんを誇っているように見えたのです。不自由な仲を、助け合う心を忘れなかった事は、お母さんの心の中に宿り、それを堅持してきた《潔さ(いさぎよさ)》が印象的でした。

1940年に、東京で開催予定のオリンピックが、戦争で開催不能になりました。しかし、戦後の復興の中、1964年にオリンピックが開催されました。そして、2020年、オリンピックが、再び東京で開催されようとしています。Hが少年期を過ごしたような時代が、また来るのでしょうか。

2018年の年頭に、ただ平和を願う思いで、心はいっぱいです。たとえ戦争が起きても、《心の平和》だけは持ち続けていたいと決心しております。『地に平和があるように!』

(平和を象徴する「ストック」です)
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