image

 

父の会社が、東京の浅草橋、日本橋、新宿にありました。これらの会社に、連れて行ってもらったことがあります。どこも父が責任者であったのかどうかは知りません。でも、いろいろなことを父はしていたのです。会社経営の才覚があったのかも知れません。

ところが、晩年の父は、名もない酒造会社に、様々な備品や什器を卸す事業をしていた所で、パートで働いていました。日本橋などに通勤していた時には、誂えの背広にワイシャツにネクタイ、ピカピカに磨かれた革靴の出で立ちでした。自慢の<オヤジ>だったのです。ところが、パートをしていたときは、すぐ上の兄のお古を着たり、ジャンパー(ブルゾンとは言えませんでした)を羽織り、野球帽をかぶって出かけていました。

全くお洒落をしなくなった父を見て、年を取ることが、そういう変化なのかと、ちょっと意外に感じていました。もしかしたら、競争社会の緊張から解かれて、普通の初老のおじさんで満足だったのかも知れません。

その父が61才で召されたのです。私たちが結婚して一ヶ月経たない時でした。ですから、私たちの四人の子どもたちは、おじいちゃんを写真でしか知らないのです。父の晩年の面倒をしてくれた下の兄がよく言うのは、『親爺を温泉に連れてって、背中を流してやりたかったなあ!』なのです。この兄が、一番父親孝行をしたのかも知れません。姿格好も、父を一回り大きくしただけでそっくりなのです。

この父は、横須賀で生まれ、品川から中学校に通い、秋田の学校に学び、旧満州、京城、山形、甲府、そして東京を幾個所か住んだ人でした。母が一年近く入院した時は、会社に、ほとんど行かないで、母の面倒を見て、まだ父の家にいた弟と私の食べ物の世話もしてくれていたのです。

それでも収入があったのが不思議でした。怖い父でしたが、母には優しい父でした。生きていたら、今春百九才になります。先日書類を調べていたら、右肩上がりの独特の筆跡で、『心頭滅却すれば 火も自(みずから)涼し 安禅は必ずしも山水を須(もち)いず。』と書いたメモが出てきました。晩唐の詩人•杜荀鶴の詩です。明治生まれの世代は、こんなことを学んだのですね、すごい!

『心持ち次第で、どのような状況でも環境でも、それに即して生きていけるのだ!』と、父は生きたのでしょう。旧暦の正月、中国では春節であります。

(絵は”百度”から「杜荀鶴」です)

.

壬生菜

 

 

徳川幕府の崩壊直前、京都は、諸藩から尊王攘夷・倒幕運動の志士が集まって来て、不穏な状況下にありました。その都の治安維持には、京都所司代と京都町奉行が当たっていましたが、それだけでは手薄で、防護できなくなってきていました。それで幕府は、「浪士組」を組織して、その任に当たらせようとしたのです。

その動きに応じて、浪士や士分はでない農民の出で、腕に覚えのある者たちが、将来、「旗本」の身分に取り立てられるとの誘いもあって、最終的に、京都守護職・会津藩主の松本容保の下に、「新選組」が組織されます。京都の壬生(みぶ)に、「屯所(とんしょ)」を置いていました。それは、江戸の郊外の多摩の出身の近藤勇、土方歳三らによってなる、武闘する武装集団でした。子母沢寛という小説家が、昭和3年(1928年)に、「新選組始末記」を出してから有名になったのです。

ですから、映画や芝居で取り上げられて、注目されるのですが、私たちが小説や映画で知らされていることと、史実とは幾分かけ離れた部分もある様です。京都の警備が目的でしたが、反幕府の天敵に対して、それを抹殺を図った集団でした。その戦法は、「必ず敵よりも多い人数で臨み、集団で取り囲んで襲撃するものであった。例えば、〈三条制札事件〉では、8人の敵に対し34人の味方を用意し、〈油小路事件〉では、7人の敵に対し35、6人で襲撃した。さらに、「死番」という突入担当者を、あらかじめ決めておき、突然事件が起きても怯むことなく対処できるようにした。」と記録されています。

一匹の百獣の王ライオンの雄を、20匹のハイエナが襲うビデオがあります。死肉を食らって生きるハイエナも、多数で長時間、襲いかかるなら、百獣の王でさえ疲れさせてしまい、弱者集団に負けてしまうのです。今日の〈いじめ〉と、よく似た〈いたぶりの戦法〉です。私の同級生に、「土方(ひじかた)君」がいて、土方歳三の関係者の子孫ですから、土方贔屓(びいき)なのですが、この戦法はいただけません。

農民が士分に預かり、しかも旗本に取り立てられるという誘いは、農民にとっては、この上ない出世の道だったことは分かります。でも時代の趨勢は、はっきりしていましたし、新選組の隊員も承知だったのでしょう。でも現状打開、立身出世への話は、彼らには魅力的だったことでしょう。民主的な時代に生まれて育った私たちには、分からないことなのでしょうか。

結局、組は解体してしまい、新しい時代が到来したわけです。土方歳三は、それ以前、「石田散薬」という自家製の薬の行商を生業(なりわい)としながら、天然理心流の剣術の修行に励みます。28の時に、京に上る、夢見る青年だったのですが、その夢も、時代の流れに押し切られ、近代日本が誕生したわけです。 壬生には、この写真の様な《壬生菜》が栽培され、新選組は消えてしまったのですが、この野菜は、今もなお生き残り、農家の手で生産され、多くの人に食されています。

ここ栃木は「小江戸」と呼ばれ、何となく江戸を感じさせられる街に、ほぼ3週間過ごして、150年も前のことに思いを馳せております。

.

 

 

これも「一筆啓上賞」をとった、“日本一短い手紙”の一つです。これは第一回の表彰を受けた作品で、主題は、「母」で、東京在住の当時31歳の女性の作品です。

絹さやの筋をとっていたら
無性に母に会いたくなった。
母さんどうしてますか

「ちらし寿司」、きっと母のふるさと、出雲では「ばら寿司」と言ったのでしょうか、京丹後のものが有名で、西日本では、そう呼んだのかも知れません。事あるごとに、母がこの「ちらし寿司」を作っては、食べさせてくれました。

絹さやえんどうの筋を取るのを手伝わされたり、酢飯を作る時、団扇(うちわ)で、炊きたてのご飯に酢を注ぐ時に、団扇(うちわ)であおぐのを手伝ったりしました。家内の味もけっこう旨いのですが、育ててくれた母の味は、比べることのない別格な味なのでしょう。

同じく、その時の作品で、大阪府在住の当時51歳の男性の作品に、

お母さん、
雪の降る夜に私を生んで下さってありがとう。
もうすぐ雪ですね。

があります。涔涔(しんしん)と雪の降る中に生まれたことへの、母親への深い感謝が感じられる手紙です。私も、暮れの押し迫った12月中旬に、家族の住まいとしていた山奥の旅籠の別館で、母が産んでくれました。明方の4時45分、村長夫人が受け止めてくださり、産湯を使わせて、産衣(うぶぎ)を着せてくださったそうです。父が、仕事用に手帳に、そう書き残しておいてくれました。

「垂乳根(たらちね)の母」、4人の子どもたちは、様々なことを思い出しながら、自分たちの母親の危機に、思いを向けている今なのです。先ほど、長男の運転する車で、長女は成田国際空港に向けて帰って行きました。香港で12時間過ごしながら、ニューヨークに向かって、30時間の旅にです。任地が西海岸に変わる時期でしたので、貴重な時間を割いて、母を見舞ったのです。(➡️ 成田空港で、カウンターの係員の好意で直行便に120ドルに手数料で乗り換えられたそうです!)

やっぱり母親の方がいいですね。自分が母親の胎に9ヶ月いた、母との関係にはかないません。次男は、母親のためにと、サプリメントを持ってきて、それを朝夕飲むように、優しく説明し、母親の好きな曲を、“iPod”に、十数時間かけてダウンロードして持ってきました。昨日の日曜日の朝は、それを聴きながら、一人で愛読書を、ベッドの上で読んでいたそうです。

これから次女と、獨協医科大学病院のナースステーションまで、着替えを持って行きます。何と、友人が車を貸してくれましたので、次女が運転して行きます。自動車保険も手続き済みにしてくれています。この友人夫妻の愛には、中国の華南の友人たちと同じような、大きさと深さを感じています。長女の離日に、昨夕は、ご馳走までしてくださいました。そんな月曜日です。

(東広島市に咲く「白梅」です[HP/里山を歩こう])

.

一筆啓上

 

 

これらは、福井県丸岡市の「丸岡文化財団」が、去年26回になる「日本一短い手紙のコンクール・一筆啓上賞」、テーマは「先生」の優秀賞を得た作品です。中国の学校で教師をしていた時、これをヒントに、宛先を決めて、「短い手紙」を、日本語学科の学生に書いてもらいました。

俳優の渥美清が、ロケ地のアフリカから「拝啓御袋様、ボク元気」、南極越冬隊員の夫への妻の書き送った「あなた」を読んで、いたく感動した私は、中国一短い手紙を日本語で書くように、作文テーマを与えたのです。六、七年続けたでしょうか。 中国の街に、その作品の一覧ファイルに残してあります。

ことば数が多ければ気持ちが通じるだけではなく、一言二言で気持ちを表すというのは、難しいのですが、いらないことばを省く技術を身につけて欲しかったからでした。良い作品が多くありました。やはり、ふるさとの母親宛てが一番多かったでしょうか。

.

ハプニング

 

 

1月31日、家内を見舞って、病院にいましたら、友人から電話がありました。家の浄化槽が満杯で、業者に連絡されたそうです。『処理が翌日になるので、市内のホテルに宿を取りますから、そこに泊まってください!』とのことでした。

それで、借りたレンタカーを、次女が運転して、一旦家に戻って、ホテルに向かいました。1ヶ月振りの雨の宵でした。遅くなってからは雪に変わったのですが、この浄化槽と雪のハプニングに、生活のリズムが変わって、老舗のホテルに投宿したのです。

心憎い配慮を友人夫妻がしてくださって、広い浴槽の湯に、思いがけなく入ることができました。中国で大きな愛を受け、ここ栃木でも、友人夫妻、ご子息ご家族から愛を受けながら、2人の娘と過ごしております。お湯の温もりと人の心の温もりが、重なり合って溢れております。

昨2月1日の明け方は、ホテルの6階の窓から見られたのは、実に綺麗な朝焼けでした。三日月と明けの明星が、凍てつく空に光輝き、それを押し切るようにして、太陽が昇ってくるのを、しばし祈り心で眺めていました。東に筑波山、南に富士山も見られたのです。実に神秘的な冬の朝焼けでした。

再び家に帰って、家内の着替えや愛読書などを持って娘たちと、東武電車で病院に参りました。ところが「面会全面禁止」とのことで、家内に会うことが叶いませんでした。と言うのは、インフルエンザの猛威から、入院患者さんを守る措置が取られていたのです。ただ、ナースステーションに、持参品は委託することができるとのことで、4階の病棟まで上がったのです。

家内の洗濯物を、看護士さんが届けてくれ、その中に、メモがありました。そんな意思の疎通しかできない中、家族への心遣いが記されてありました。持参した家内が、幼い日から読み続けて来た愛読書(版は何度か替わっていますが)や着替えを、看護士さんにお渡しし、それぞれに3人が記した手紙も添えました。そんな3つのハプニングの日でした。

(ホテルの6階からの富士山です)

.

平忠度

 

 

この絵は、栃木県立美術館所蔵の「薩摩守平忠度桜下詠歌之図」です。今週、家内の妹が、友人と一緒に家内を見舞ってくれました。年寄りに、自分の家系を聞いたことがあったのでしょうか、父方と母方のことを、姪たち(私たちの娘たち)に聞かせていました。聞くところによると、父方は、源平の戦いで敗れた平家の武将の末裔なのだそうです。

日本中に、平家の落人が、隠れ住んだ山や谷があるのですが、その一族なのでしょう。平家と言いますと、平忠度(たいらのただのり)という武将がいました。「薩摩国(今の鹿児島県西部です)」の国司の任に当たっていたので、「薩摩守忠度(さつまのかみただのり」と呼ばれていました。

詳しい戦歴や職歴はことはともかく、この人は有名な人なのです。何で有名なのかと言いますと、電車などの乗り物に、〈無賃乗車〉をする、けしからん人を、「薩摩守」と言うのです。お分かりかと思いますが、この人の名が、「ただのり」、すなわち、〈ただ乗り〉に語呂合わせするからです。

ある方が、東海道線の米原(まいばら)駅を訪ねて、『昔ここで大変お世話になりました。駅のために使ってください!』と言って、《十万円》を置いて、十三歳(大正末期)の時の〈無賃乗車〉を詫びたのだそうです。両親のいない彼は、都会にいる姉を頼ろうと行こうとします。路賃がなくて、仕方なく不正乗車をしたのです。北陸本線と東海道本線との乗換駅の米原駅で捕まってしまいます。ところが駅員たちは、この少年の事情を聞いて同情したのです。彼らは財布から少しずとお金を出して、少年にカンパをしたそうです。

そればかりではなく、駅員は、事情を車掌に話したのでしょう、「車掌室」にかくまって、この少年を東京に運びます。無事に姉のもとに着いて、その後、一所懸命に働きます。何年も何年も経ってから、少年期の温情を思い出したのでしょう、代替わりをしている米原駅を訪ねて、過去の経緯(いきさつ)を話して、金銭的な弁償と感謝を表したわけです。

この「薩摩守」は、素晴らしいですね。そういえば、社会人になってからは一度もしませんでしたが、学生の頃の私は、「薩摩守」でした。不幸なのは、一度も「ただのり」を見破られなかったことです。処罰され、弁償し、頭を下げていたら、繰り返さずにすんだのに、捕まらないままで、時効になってしまったわけです。

「恥な過去」に、心が疼(うず)くことが、今でもあります。赦されていながらも、精算していないことだからです。だから、40年ほど前に、そういった形で精算をされた方の決断と行為が羨ましいのです。今でも遅くはないし、今でもできるし、しなければなりません。そんな栃木の二月初頭の朝です。

.

流感

 

 

日本語名は、「流行性感冒(流感)」である〈インフルエンザ〉が猛威を振るっています。学級閉鎖や学年閉鎖が、多くの学校であり、内孫たちの学校でもでもあったそうで、それを幸いに、こちらに、見舞いに来てくれたのです。

このインフルエンザを、江戸時代は、「タニカゼ(谷風)」と言いました。江戸の山谷から吹いてくる風が、〈インフルエンザ菌〉を運んできたのではありません。江戸期の相撲取りに、「谷風梶之助」と言う人がいて、酷い風邪をひいて、亡くなってしまったのです。屈強な男、角力(すもう)のチャンピオンを滅ぼしたのが、〈インフルエンザ〉だったのです。

それで誰言うともなく、〈流行性感冒」を「タニカゼ」と言う様になったそうです。その経緯が次の様に語られています。

『(谷風梶之助は、)身長6尺2寸5分(≒189cm)、体重43貫(約161kg)というあんこ型の巨人。容貌・人格共に温和で人望を集め、小野川との取組が評判であったそうだ。仙台伊達家のお抱え力士。1795(寛政7)年1月9日(新暦2月27日)、はやり風邪(インフルエンザ)に罹り、現役中に逝去(45歳)。このときの流行り風邪を「谷風」と呼んだ。しかし、谷風が天明 4年頃に「土俵上で儂を倒すのは無理。儂が横になっているのを見たければ風邪に罹った時に来い」と豪語した時に流行った風邪が「タニカゼ」と称されていたもので、横綱・谷風の死因となった当時のはやり風邪は、正しくは、「御猪狩風」と呼ばれていたものだが、後に「タニカゼ」と混同されるようになった。兎に角こんな体力のある凄いお相撲さんでも、病気には勝てない時があり、そこで悪性のはやり風邪(インフルエンザ)のことを「風」にひっかけて「谷風」と呼ぶようになった。「無敵の風邪」という意味だろうね。そして、この谷風の命日が「風邪の日」となった。(HP「今日のあれやこれや」から)』

毎年、香港や中国大陸から、決まってやって来る、渡り鳥の様な〈流感〉には、中学せいの時に、一度かかったことがありました。体の節々が痛くて、近くの開業医に見てもらって、ものすごく高額の注射を打たれたのを覚えています。それなのに効きませんでした。今年も、早く流行がおさまります様に。

.

漫ろ歩き

 

 

栃木の街は、巴波川の舟運で開けたと言われます。河岸の起源は元和年間 (1615~1623年)、この頃から日光社参の〈御用荷物〉を輸送したそうで、江戸からの〈上り荷物〉は、日光御用荷物をはじめ、塩・鮮魚類・ろう・油・黒砂糖・干しいわしなどが、江戸川~利根川~思川を経て、栃木の河岸に陸揚げされ、栃木からの〈下り荷物〉は、木材・薪炭・米・麦・麻・木綿・野菜・たばこ・猪鹿の皮・石灰・瓦などでした。

舟は、〈都賀船(米50俵積み)〉で、「部屋(藤岡町)」まで下り、そこで高瀬船(米200~300俵積み)に積みかえ、渡良瀬川、利根川、江戸に向かいました。江戸までの船路は、約43里(172㎞)あり、急ぎで3日ほど、普通は七日かかったそうです。帰りは帆を使ったり、かこ水主 2~3人で舟につけた綱を、川岸に設けた「綱手道」から引き上げたりしました。

舟運で街の回船問屋は栄え、明治末期から大正期にかけて、立派な土蔵や黒塀などが建てられました。 その名残をとどめる蔵が、川面に映える巴波川は、綱手道が格好の散策路となっており、ここからの素晴らしい景観は、「蔵の街・栃木」の観光名所になっています。

昨日は、その巴波川の河岸の遊歩道を、家内と娘たちとで散策しました。吹く風も弱く、太陽がいっぱいの川面を、鯉が悠々と泳ぎ、鴨が群れていました。冬の陽が川面を照らして、なかなかの風情を楽しんだのです。中国の省立医院で、元旦から一週間、飲まず食わずで体力を落としていた家内には、通院ではない、ひさびさの外出でした。

昼を、江戸期から戦前には、大賑わいだった河岸の食堂で摂ったのです。〈水〉なんとかと言うか歌手が来店して、色紙を書き置きしていていた店で、けっこう有名な店なのでしょうか。もうちょっとこ綺麗だとよかったのですが、味はよかったのです。「赤目鯛の西京焼き」の久し振りの定食に、『美味しい!』と言って満足していました。

その後、「街の駅」のお土産店に入り、昔ながらの工芸品や野菜や果物や漬物などが並べてあって、けっこうな人でした。検査の管や針、点滴の針の痛い思いから解放されての《漫ろ歩き(そぞろあるき)》でした。日曜日に、東京の大学院に留学している学生が、お見舞いに来てくれて、“チャット“で、中国の街の友人たちと、画面を覗き込みながら言葉を、家内が友情を交わしていました。

.

暴走

 

 

今朝、配っていただいた「下野新聞」は、《郷土愛》が溢れる記事が、一面を飾っています。「那須塩原A 三連覇・・・往路優勝、大田原A2位」とあります。〈県郡市町対抗駅伝競走大会〉の順位です。九面には、〈県小学生駅伝〉で「よろしく真岡R 6連覇」とあります。

スポーツで各市町村が対抗して、郷土への愛着を増そうとしているのでしょうか。スポーツが、とても盛んな県なのだということが伝わってきます。健康志向とか、青少年への激励や応援が感じられてきて、北関東の良さをアピールしているのでしょう。この二週間ほど、読ませていている新聞が、掲載している記事からしますと、衝撃的な事件が少なく、健全さが見られます。

ついぞ関心を寄せたことのない地方都市で暮らして、駅前も、主要道路沿いも、長閑(のどか)で、ゆったりして、落ち着いた感じがするのです。天候も良く、このところの日照時間は、とても多そうです。空気も水も、そして果物も野菜も美味しく、健康県な感じでいっぱいです。

新聞を熟読しているのではないのですが、この今朝の新聞の十九面に、気になる記事があります。作家の藤原智美さんが書かれた「暴走老人!」からでしょうか、「キレる高齢者」と言う寄稿欄です。~虚栄心と孤独で「暴走」~とあります。昔の青年が、今や高齢者になって、ななかなか生きにくくなってしまった時代なのでしょう。

「暴走せずに生き甲斐ある老後を迎えるための提案」がなされています(「この先をどう生きるか」より)。

1.現役時代の価値観を捨て、人生の「初期化」をする

2.過去を見つめ、自己を再生させる「リボーン・ノート」を書く

3.「上下の話法」から「対等の話法」に切り替える

4.「目的」よりも「行為」に価値を見出す

5.日々の「暮らし」を第一のテーマにする

老いの現実を認められないで、昔の夢に酔ってもいけませんし、将来への思い煩いで心を満たしてもいけない、そう言ってるのでしょう。美貌もふくよかさも溌剌さも失せてしまうと言うのは、信じたくない現実です。髪の毛の多かった、私の若い時の写真を見た孫が、『ジイジにこんなに髪の毛があったんだ!』と意外さを言っていたそうです。

イスラエルの人の価値を測る度量衡があって、それによると、もはや13歳になった孫とは逆転して、〈低価値〉の自分を、笑って朗らかに、ありのままで受け入れたいと思うのです。それでも、幼かった子や孫の世話をしていた頃の写真を見ては、一人ほくそ笑(え)んでいます。

あかぎれ

 

 

〈お涙頂戴〉ではありませんので、念のため。結構厳しい寒さを、ここ栃木で経験したからでしょうか。または、炊事の機会が増えたのでしょうか、娘が駆けつける前に、2人の食事の支度と茶碗洗いや洗濯や掃除で、濡れた手を吹かないままにしたので、〈あかぎれ〉ができてしまいました。

子どもの頃に、冬になるとできた覚えがありますが、もう何十年ぶりの〈あかぎれ〉なのです。その痛痒さが懐かしいのです。作詞が窪田 聡、作曲が窪田 聡の「かあさんの歌」がありました。

1 かあさんは夜なべをして
手ぶくろ編んでくれた
こがらし吹いちゃ つめたかろうて
せっせと編んだだよ
故郷(ふるさと)の便りはとどく
いろりの匂いがした

2 かあさんは麻糸つむぐ
一日つむぐ
おとうは土間(どま)で 藁(わら)うち仕事
おまえもがんばれよ
故郷の冬はさみしい
せめてラジオ聞かせたい

3 かあさんのあかぎれ痛い
生味噌をすりこむ
根雪もとけりゃ もうすぐ春だで
畑が待ってるよ
小川のせせらぎが聞える
なつかしさがしみとおる

お母さんが、〈あかぎれ〉ができた手の甲か指に、生味噌を塗り込んでいます。水道も洗濯機も炊飯器もない、それほどの家事をした時代なのです。4人の子育てで冬季、〈あかぎれ〉のできていた母は、もう亡くなってしまいましたので、自分で、生ミソの代わりに、〈メンターム〉を塗ったのです。

これは近江兄弟社が製造した薬で、小さな頃からの父の家の常備薬だったでしょうか。私の家庭にも、いつも、この薬があり、中国にも持って行き、今回帰国に際しても、持って帰って来ています。

学校を出て、最初の職場の出張で、滋賀県に行き、この近江兄弟社の高校で研修会がありました。校長先生と一緒に食事をしたのですが、実に温和な方だったのです。まるで、〈メンターム〉の様でした。この薬に似た、シンガポール製造の〈タイガーバーム〉を、長男の嫁が持って来て、風呂上がりの私の腰に、長女の指示で、次女が塗ってくれました。ちょっと腰が痛いと、私が言ったからです。

病と戦える《体力》と《気力》の増強こそが、これからの家内の課題なのです。主治医と次男が、ちょっと弱気になっている家内に、そう挑戦してくれました。〈あかぎれ〉ができるほどに、母業や妻業をこなすことなのでしょうか。そんなことで帰国二週が終わろうとしています。なんと、昨日の治療費は、《0円》でした。40分もの主治医の話でしたのに、驚いております。

.