友・兄弟・母

 近所、趣味、クラブ活動、クラスが同じなどで、友人になるケースが、小学校の時にはよくあります。もう少し成長しますと、考え方とか価値観などが似ていた り、他には読んだ本での読後感や贔屓の作家の作品など、内面的なことで「友情」が芽生えてきます。また死線をくぐった「仲間」、人生の危機を共有した者同士が、「親友」となることがあるようです。中国の男性の方と話をしていましたときに、一番強い人間関係は、「戦友」だと言っておられました。国を守ろうと する意識があって、互いの「勇気」をほめ合うところに、強固な絆が生じるからなのでしょうか。中国の街中で、時々見かける光景は、大人の男性が二人、肩を 組みながら歩いてるのです。わたしは、小学校や中学校の時に、友達と肩を組んで歩いたことがありますし、そんな写真が残っています。でも、中国での、この 光景は、一見異様ですが、そうできる自由を感じてとても羨ましく感じるのです。

 中国にやってきて、国や民族を超えて、互いを引き付け合う「友情」があり、そんな絆で、ある人たちとつながっているように感じるのです。互いが進むべき同 じ方向を見つけて、その同じ道を歩もうと決心し、同じように感じ合い、病んだり困窮したり悩んだりしたときに助け合い、情報を交換し合い、安否を問合う 「同士」が、しかも国籍や人種を超えて、自分の周りに何人も与えられていることは、ほんとうに感謝なことです。異国での関わりは、さらに深くて鋭敏なので はないかと思います。これは友人以上の関わり、いえ本物の友情の絆で結び合っている関係ではないかと思うのです。一昨年、家人が病んで入院したときに、わ たしたちを「一家人」と呼んで、家族以上の情愛を示してくださった中国のみなさんも、家人とわたしの「一家人」であることを感じさせてもらっています。1 週の間、毎日24時間、もれることなく家人のベッドの脇にいてくださって、上下のお世話でさえも喜んでしてくださったのです。

 わたしの愛読書に、「友はどんな時にも愛するものだ、兄弟は苦しみを分け合うために生まれる。」とあります。よく言われるのは、「友人」は選ぶことができ るのですが、「兄弟」は選べません。選ぶことのできない兄弟は、父と母を共有するのですから、多くを両親から受け継いでいることになります。私には、二人 の兄がいて、一人の弟がおります。『産めよ、増えよ!』と言われた戦時下に、上の三人は生まれ、弟は団塊の世代として生まれています。四人四様、父と母の 好い点を受け継ぎ、また弱さを受け継いでいることになります。父は、61で召されましたが、母は、来月95歳になろうとしています。老いは日に日に進んで いっております。9ヶ月ぶりに帰国しました日に、成田から、その足で、母がいますホームを訪ねました。『もう忘れてしまっているかもしれないな!』と思っていたのですが、『忘れるものですか!』と言って、ぎゅっと手を握ってくれました。「母性」とは、ものすごい力と愛とを内に宿しているのだと、改めて知らさ れ、母の愛に感謝しました。まだ山奥に住んでいたときに、上の兄が私を庭に打ち付けたことがありました。泣いて家に飛んで帰った私を、玄関の土間に座って、 膝の間で抱いて、打った頭をやさしくなぜてくれたことを鮮明に覚えているのです。その当時のほとんどのことは忘れてしまったのですが、記憶というのは不思議な ものです。

 そうですね、大病から生還した母の生涯は、もう5年も生きることはないかも知れません。先日、これからの母のあり方について、兄たちと弟で話をしてくれました。わたしは術後の風邪で、今ひとつ力がなくて駆けつけることができずに欠席しました。三人三様、四人四様、方法は違っても、母への感謝をもち、愛しています。わたしたちに取っては、たった一人の「垂乳根」の母親だからです。恵まれない小女時期を過ごして、父と出会って結婚し、4人の子をなして、『わたしは、本当に慰められ、この四人はわたしの〈宝物〉です!』と母がよく言っていました。いつも喜んで感謝を忘れない母の最期の花道を、喜ばしく楽しく愉快 にたどっていただきたい、これが、明日中国に戻るわたしの心からの母への願いであります。

(写真は、土偶の『垂乳根の母』です)

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