とかく厄介な

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 喜びとか感謝とか懐かしさという感情や想いは、私たちに必要です。父が美味しそうに食べていた「金鍔(きんつば)」は、今では父に代わって、自分の好物になっています。食べると、怖かった父の良かった点、してもらったことごとが思い出され、心がいっぱいになるのです。

 母は、もらわれて養父母に育てられ、自分がそういった境遇に生まれたことを知らないでいたのです。ところが、17歳になった頃に、お節介な親戚が、『あなたの本当のお母さんは奈良にいる!』と言われるまで、そんな自分の出生の事実を知りませんでした。

 奈良に行って会えたのですが、母を名乗ってもらえないまま、『帰って!』と言われ、養母の元に帰ってきたのです。豊かではなかったのですが、愛されて育って、恋をして父に嫁いだのです。そして四人の男の子の母として、私たち兄弟を育て上げてくれました。

 母は、宍道湖の名産のシジミに育てられたからでしょうか、よくシジミの味噌汁を作って、食卓に出してくれました。その母は、最後のご飯に、そのしじみ汁をかけて、美味しそうに食べていたのです。

 今、三日に一度、連日でも、私はシジミに味噌汁を作って食べます。茶碗にご飯を残しておいて、そのしじみ汁をかけて、食事を仕上げるのです。こんなに美味しい料理は他にありません。

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 懐かしさと美味しさは、一線上にあります。明治6年創業の和菓子屋が、栃女の近くに本店が、東武の店に分店があって、きんつばを、時々買いに行くのです。行きつけのスパーマーケットには、青森の十三湖、茨城の涸沼、出雲の宍道湖のシジミが、時季に応じて売られていて、これも買います。食べて飲むと、二親を思い出してしまうのです。

 母の生母訪問には、後日譚があります。亡くなった時に、父違いの妹から、生母の死を知らせられ、葬儀に招かれて、列席したのです。亡くなった生母の枕の下に、どこから手にれたのか、われわれ大高中小の4人の孫の記念写真があったそうです。どうも人生とは厄介なものの様です。

(“いらすとや”の「枕」、ウイキペディアの「宍道湖、「金鍔」です)

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虫の音がしてきて

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 真夜中の1時過ぎ頃に、『チリチリチリ!』、そんな涼しげな虫の音(ね)がしてきて、目が覚めたのです。朝顔が開いて、そして虫の音がして、秋の来ている知らせでしょうか。まだ猛暑日があけたわけではないのですが、なにかホッとさせられています。昨日も、そうだったのです。

    鳴く虫の 鈴か涼かの 声がして

 窓の外の月明かりが、寝床に届いていて、これも、秋の到来の知らせなのでしょうか。自然界は、そんな慰めを慰めるかの様に与えてくれます。

『主は季節のために月を造られました。太陽はその沈む所を知っています。 あなたがやみを定められると、夜になります。夜には、あらゆる森の獣が動きます。 若い獅子はおのれのえじきのためにほえたけり、神におのれの食物を求めます。 日が上ると、彼らは退いて、自分のねぐらに横になります。 人はおのれの仕事に出て行き、夕暮れまでその働きにつきます。 主よ。あなたのみわざはなんと多いことでしょう。あなたは、それらをみな、知恵をもって造っておられます。地はあなたの造られたもので満ちています。(新改訳聖書 詩篇104篇19~24節)』

 創造主なる神さまは、この自分をも造られ、私たちの必要の全てをご存知で、それらを設けられたのです。時には猛威をもって、時には慰めも持って臨まれますが、その知恵深さに驚嘆させられます。

 この虫の音を聞いて、思いの内に、静かな感動が湧き上がってきました。「配慮」を感じさせられ、明ける今日の日にも、『み旨がなりますように!』と、寝床で感謝が湧き上がってまいります。

(“ふたば”の「スズムシ」です)

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250807 朝顔だより

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 さしもの猛暑も、少し緩(ゆる)んできたのでしょうか、今季二輪目の朝顔が咲き、開きました。自然界は、なんて正直なのでしょうか。この暑さでは、頑固にも開こうとしなかった蕾が、素直に開いたのです。

 やはり自己防衛本能と、頑なにも美に拘るからでしょうか、それともタネを巻いて、水やりをかかささず、信じ続けてくれたご主人さまに、応えようとしたのでしょうか。

 『きっと気温が低くなったら咲くに違いない!』、開くための条件を満たしたら、咲くという意地があったのでしょう。満足な朝です。予報通りに8時前に、けっこう雨足の強い雨が降ってくれ、今も降り続けています。

 隣家のご夫人が、膝の手術で入院されて行きました。ご子息の執刀で、新鋭ロボットを使っての手術なのだそうです。自慢の息子さんに任せられるのは、誇りでしょうか。無事の手術と、1ヶ月の入院後の退院を祈った今朝でした。

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この夏に思うこと

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 子どもの頃の外国映画といえば、アメリカのカウボーイや保安官が主人公の映画でした。ちょうど日本映画のチャンバラ映画と筋書きが似ていて、弱きを助けて、強きをくじく主人公が、ヒーローとして登場するのです。テレビが登場すると、西部劇が、リバイバル放映されたり、牛の群れを追って、草原をゆく男たちの物語が多く取り上げられていました。

 OK牧場とかララミー牧場といった、広大な草原が舞台で、馬にまたがり、頭にテンガロンハットを被り、手には鞭や手綱が握られ、靴は、馬の腹を蹴る滑車のついたブーツ、腰に拳銃を下げるといったスタイルでした。ジョン・ウエイン、ゲーリー・クーパー、ヘンリー・フォンダ、アラン・ラッド、クリント・イーストウッドなどの名優たちがいました。

 1950年代の終わり頃に、チャンネル数の増えたテレビ局が、独自のシリーズを放映していたのです。「ローハイド」という題の映画が、毎週同一曜日の夜の番組にあり、それを観たのです。南北戦争後、1870年代のアメリカの西部が舞台でした。サンアントニオ(テキサス州)から、セデリア(ミズーリ州)まで、3000頭の牛を運ぶ物語でした。そんな時代の草原で、牛を追うカウボーイたちが事件に巻き込まれたり、友情や隊長への従順や争いなど、実に興味深い話だったのです。

 ところが映画は、世界中で作られていて、フランス映画もあったのです。「望郷(ペペルモコ)」という、戦前に作られた映画が、テレビに登場したのです。三十代のジャン・ギャバンが、主人公を演じ、独特なメロディーが流れて、人気を博したのです。パリで悪名高い泥棒のペぺ(ぺペルモコ)が、パリ警察の追跡を逃れて、北アフリカのアルジェリアのアルジェのカスバと言lわれる地区に逃げ込むのです。

 「男の哀愁」、「望郷」が漂い、アメリカ映画もフランス映画も、そして日本映画も、物悲しい哀調が漂っていて、十代の私には、父の世代の物語が、やがて自分が大人になると、そんな中を生きるのかと思うと、複雑な思いもしていたのです。

 この映画に、強く影響されて、ある歌が生まれました。1955年に、作詞家の大高ひさをが作詞した、「カスバの女」との題の歌が流行りました。

1 涙じゃないのよ 浮気な雨に
ちょっぴりこの頬 濡らしただけさ
ここは地の果て アルジェリヤ
どうせカスバの 夜に咲く
酒場の女の うす情け

2 唄ってあげましょ わたしでよけりゃ
セーヌのたそがれ 瞼の都
花はマロニエ シャンゼリゼ
赤い風車の 踊り子の
今更かえらぬ 身の上を

3 貴方もわたしも 買われた命
恋してみたとて 一夜(ひとよ)の火花
明日はチュニスか モロッコか
泣いて手をふる うしろ影
外人部隊の 白い服

 よくラジオで聴いたのです。初めて聞く国名、街の名で、地図を開いて確かめた覚えがあります。地中海の南の北アフリカの国でした。その歌詞の中にあった、「外人部隊」、「白い服」が強烈に印象的だったのです。映画を見る様になって、この歌に出てくる、「アリジェリア」と「カスパ」には、異国情緒のある響きがありました。そして、自国民ではないのに、外国の軍隊の兵士になる、しかも日本の青年たちが、志願していたのを聞きました。

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 若い頃に、べトナム戦争に志願すると、アメリカの戸籍がもらえるという誘いがありました。戦争が好きなのかどうか、ただ外国籍は魅力的でしたが、ベトナムに行こうと思ったことはありませんでした。誘惑された知人もいた様です。あの頃に聞いたのが、この「外人部隊」でしたが、岩手県の代表で、今夏の甲子園大会、全国高等学校野球選手権大会に出場する選手の一覧表を見て、これを思い出したのです。

 この学校の野球部の大会出場枠の20人のほとんどが、岩手県か、東北の中学校の出身でした。その中で二人だけが岩手と東北以外の出身なのです。出場校の中の公立校は、ほんのわずかで、ほとんどの私学の名門校は、中学の野球部や、シニアクラブの選手なのです。勝つための選手集め、各都道府県代表校ろなるための優秀な選手たちが、招集されています。

 なんだか、そのクラブの同窓会、OB会の様に感じがしてしまいます。サッカーも同じ様なチーム作りの様です。注目されない不人気の運動部は、そういった動きにはなっていません。がっくのなかの出身者でチーム編成がなされます。何か、「青田買い」の様に思え、プロの予備門の様な色彩が強烈になってしまっていて、学校スポーツの意味が消えてしまっている様で、寂しい思いがします。

 親元から離れて、3年間、合宿生活をして過ごすのも、花の青春なのでしょうか。そういった形で学校経営をしていかなければならない現実があって、野球界の「外人部隊」、ちょっと寂しく、哀愁の風が吹き荒んでいる様です。練習着の「白い服」を着た、無名選手たちが、野球ばかりではなく、多くの運動部にいて、汗まみれ、泥まみれになって、この猛暑の夏も、学校にグラウンドで練習している姿こそが素敵なのです。

 郷土を代表する学校という点からすると、その郷土で養い育った選手たちで、チームを構成してもらいたい気持ちが、強くあります。自分の地元の地区予選の組み合わせ表を見て、あの名だたる不良校が、今では高偏差値の学校になって、部活動も活発でいて、何十年も時が経っての今になって、その意外性が、とても素晴らしいと思わせられたりもします。

(ウイキペディアの首都「アルジェ」、「甲子園大会」の様子です)

 

イワナ

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 『新潟県境の福島に出かけて、魚を釣ったので、お裾分けしたいのです!』と言うことで、先日の夕方に、お電話を頂きました。これから持っていくのでと、お持ちくださったのです。清流も、最も上流に棲む、「岩魚(いわな)」を、綺麗に調理済みで、5尾も頂いたのです。

 大学を出て、先輩に誘われて、22歳から始めて、釣りが趣味になったのだそうです。60数年の釣り歴があるのだそうです。草藪の中を分け入り、岩場の川の上流を歩いて、釣りのポイントを見つけて、糸を垂れるのだと、言っておられました。

 かく言う私も、学校を出て、勤め始めた職場の同僚の方の誘いで、神奈川県北部から山梨県にかけて流れる桂川などに、週末のまだ明けやらぬ頃合いに出かけたのです。岩場を、トントンと移動していた時に、その岩から滑り落ちて、ドボンと頭まで深みにハマってしまったのです。秋の口でしたが、枯れ木を歩めて焚き火を焚いてくれて、それで、着物を乾かしてもらったことがありました。

 まだ、《深呼吸の原則》がなかった時で、見事濡れネズミになってしまったのです。魚を釣っり上げた記憶もなく、生乾きの服で家に帰ったのを、鮮明に覚えているのです。それ以来、釣りはしていないのです。

 そんなことで、今朝は、買い物に出掛けて、葡萄を一房買って、お皿を返すついでに、感謝をしたのです。この方は、明治2年創業の写真店の四代目の当主なのです。初代は、日光東照宮の警護をする武士団の一人で、会津藩士だったそうです。明治の御代になって、家禄を失った武士たちが、第二の人生を見つけるのですが、九代目の会津武士だった曾祖父が、写真術を身につけたのだそうです。

 浦賀にペリー艦隊がやって来た時に、随行の写真家が、写真技術を、日本の若者に教えてくれたのだそうです。その若者から写真術を学んだのが、お爺ちゃんで、ここ栃木で独立して開業をした様です。日本写真界の黎明期に習得した技術で、二本差しを投げ捨てて、身を立てたわけです。

 戊辰戦争で、徳川方の会津藩は、維新後の明治では、賊軍でしたが、「会津魂」を捨てることなく、文明開化の不遇の世を、生き抜いたのです。明治以降の栃木周辺の街の様子を撮り続けて、その写真の原板を残しておられ、それを見せていただいたり、徳川家から拝領した品々もたくさんおありで、市誌作りにも当たられてこられたようです。

 姿の良い岩魚は、釣り上手でないと釣り上げられないほど俊敏なのです。清流の魚で、釣り立てでしたので、塩焼きにして食べたのです。この方が、家内の入院手術をご存知で、『新鮮なのを食べて、はやく恢復されます様に!』と言われて頂いたのです。私たちは、この方とラジオ体操仲間なのです。

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 人との素敵な出会いがあり、『お茶を飲みにおいでください!』と何度も誘われていたところに、岩魚を頂いたわけです。今は息子さんにお店を任せていて、多くのお弟子さんたちが、この写真館から独立していったそうです。明治、大正、昭和、平成、令和と、地方都市の変遷や各時代の人々を撮り続けてこられた御一家です。

 冷凍した分も残してありますので、早い内に頂こうと思っている、酷暑の栃木です。海水魚とは違った味覚で、とくに清流に棲む岩魚や山女は、千金にも値するほど美味なのです。

(ウイキペディアの「ニッコウイワナ」、「只見川」です)

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異変

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 「異変」、この街に越してきて7回目の夏、来年のことを言うと笑われるのだそうですけど、去年の猛暑の中、『来年はさらに暑い夏になるだろう!』と、予言の様に、自分が言ったのを覚えています。まさに的中、去年に勝る猛暑、酷暑の今夏、「異変」が起こっています。

 一つは「少雨」、二つは「朝顔が咲かない」、三つは「蚊が出てこない」なのです。そう感じていたら、台風9号が、進行が遅くて、台風の影響で風があって、朝方が涼しいのです。やっと昨夕から降っては止んでの様に雨が降り、今朝の散歩途中、小糠雨の様に降り出したので、コース変更で帰宅したのです。

 日本海側の新潟では、雨が降らず、作付の米の成育が遅く、実がつかなさそうな予測が出されています。米騒動の後の不作になるのでしょうか。一方は人為的、他方は自然的に、異変です。

『わたしはあなたがたのために、いなごをしかって、あなたがたの土地の産物を滅ぼさないようにし、畑のぶどうの木が不作とならないようにする。──万軍の主は仰せられる──(新改訳聖書マラキ3章11節)』

 聖書では、万物に創造者で保持者でいらっしゃる神さまは、作物を荒らす害虫を叱り、の遺作物の成長を見守り、光と水をああてて、不作にならない様にされるお方だと言っています。でもひよの悪気とのない欲望が、自然界の秩序を弱らせ、機能を傷つけ、不作をもたらしているのです。みんな人為的な結果です。

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 この暑さでは、大好きなトマトも育っていないのだそうで、週一で配達されてくるトマトも、成育不良で、欠品が出そうです。トマトばかりではなく、その他の農作物の収穫も危ぶまれてきそうですね。

 ベランダの八っ本ほどの苗の朝顔に、5月頃から精出して水遣りをしてきたのですが、一輪が、みごとに開いて咲いた後、蕾のままで枯れていくではありませんか。その様子を見るにつけ、寂しさと悲しさと悔しさが湧き上がってくるのです。咲こうとしている健気な様子を見るに忍びないのです。

 もう一つの蚊が、出没しないし、一度だけ、しかもカヤの中で刺されたきりで、あの憎っくき羽音も聞こえてこないし、その影さえ見えないのです。華南の街の大きな超市( chaoshi スーパーマーケット)で、蠅帳型の蚊帳を売っているのを、喜んで買い求めて使って、中華蚊から身をふせいだのですが、その同型の蚊帳が、ネット販売で売っていて、すぐに買い求めたのです。こちらでの使用歴七年です。

 蚊が出てこないのですが、それでも、夏らしさを感じようと、蚊帳を寝台の上で使っているのですが、異変で、用をなさないのです。蚊には好かれる自分で、刺されないと寂しく感じるのも不思議で笑ってしまいます。

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 こんな自然界の異変が、蚊を弱らせているのですが、受粉の働きを託されているミツバチなども、生育しないで死んでしまっているのです。自然界の秩序は、人間の飽くことのない儲け主義が狂わせているのに、やっと気付いたのですが、遅きに失した感がします。神さまが手を引いてしまっているのではないのです。

 男女の性の秩序も、自然発動的なことではなく、「不法」、「罪」が原因であることを、もう認めざるを得ない時になっている様です。これも遅きに失してしまっていますが、神さまは、それでも、「忍耐の神」でいらっしゃって、悔い改め(方向転換)るのを、まだ待っておいでなのです。

 八月になりました。散歩に出る時間が、少しずつ遅くなっているのは、日に出が遅くなてきているからです。そればかりではなく、物価の上昇も、食べていませんが、うなぎ上りの様です。生きづらいのですが、感謝も忘れずに猛暑を乗り切りましょう。今年の柿は赤く、甘いでしょうか。なによりも、この異変を見守られる神さまがおいでです。

【追記】昨真夜中、蚊に刺されてしまいました。油断大敵で、夕方の雨に、何度か網戸を明けて、ベランダに出入り した時に、侵入された様です。4箇所も刺されて、悪戦苦闘、蚊取り線香を、蚊帳の中に入れて一時間ほど対決したのです。困ったものです。翔平さんも疲労困憊でしょうか、「異変」が身体や精神に出ています。MLBのシーズン中に休みなしで出場してます。人がするPro Sportsに、休みがなく、収益優先の問題を改善すべき時が来ていないでしょうか!

(ベランダの「朝顔の蕾」、ウイキペディアの「蚊取り線香」です)

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巴波川の流れの向こうで主を待つ

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 一週五日ほど、朝4時起きで支度をして、まだ薄暗い中、家を出て、うずま公園の園内を横切って、巴波川の側道を、その流れの上流に向かって歩き始めて、散歩をしています。陽が昇り始めますと、川面が、その光を受けて金波銀波を見せてくれるのです。川の静かな流れを眺めていて、「方丈記」を思い出してしまいました。

 「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。世の中にある人とすみかと、またかくの如し。お玉しきの都の中にむねをならべいらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れ(やけイ)てことしは造り、あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、いはゞ朝顏の露にことならず。」

 高校の「古文」の時間に、習い覚えた、冒頭の部分、「行く川のながれ」が、思いの中に蘇ってくるのです。長明は、下加茂神社(通称は下鴨神社です)の禰宜(ねぎ)の職にあった、お父さんの次男でした。この職は、宮司の一階級下の職であったのです。父の死後、その職を継ごうとし、後継争いの末に、その職に就くことができませんでした。

 当時、和歌を学んでいたことで、和歌所寄人に任命されます。しばらくして、下鴨神社の系列の神社の要職に推挙されるのですが、またもや後継争いに負けてしまうのです。神職の道が閉ざされてしまった長明は、出家するのです。東山、大原、伏見の寺などを経て、和歌で生きていく機会が、鎌倉に開くのですが、結局、これにもなれずに終わった様です。

 どうも挫折の連続で、思う様に生きていく道が閉ざされてしまい、伏見の醍醐に庵を設けて、閑居生活をしたのです。ところが、「方丈記」を、そこで書き残したことによって、昭和の高校生の私は、後にS女子大学教授になる先生から、「古文」の時間に、それを学ぶことができたのです。長明は、あの時代、昭和の世まで名を残す人物だったことになります。

 日本の随筆の中でも、有名で、価値あるものの一つに数えられるのが、この「方丈記」です。不遇な人生を生きてきた長命が、四十歳になってから、越し方を思い返して綴ったわけです。宮司にも、禰宜にも任じられることがなかった長命が、京間で四畳半ほどの面積の庵、それを「方丈」と呼んだのですが、そこに起居して、思いを書き残したのです。

 人生の無情を知らされるのは、夢や野心に燃える高校生の私には、ピンとこなかったのを思い出します。もっとバラ色で、冒険心を満足させ、前途洋々たる自分の人生を、形を変えて、流れに身を任す水の様に、移り変り、どうにでも形を変えて流れ下る姿を見せる水や、「うたかた(泡沫)」の様に、水中から上ってきて、パッと破裂してしまう様な水泡とは考えたくなかったのです。

 信長が、「人間五十年」と、敦盛を舞い唄って果てていった様に、「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢。」と辞世の句に詠んだ秀吉の様に、「益荒男がたばさむ太刀の鞘鳴りに幾とせ耐へて今日の初霜」と、辞世の句を詠んで、市ヶ谷の陸上自衛隊東部方面総監部で、自刃して果てた三島由紀夫も、やはりみなさんは、儚い一生を閉じたのです。
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 二千年ほど前のこと、エルサレムの宮に両親に抱かれて、やって来て、幼子のイエスさまは、誕生後、40日ほど経過した時に、主にささげられるために、両親に連れられて、エルサレムの宮に入って来たのです。その様子を宮で見ていたのがシメオンでした。

 「この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた。(新改訳聖書 ルカ2章25節)」と聖書が記す人でした。

 シメオンは、「・・主のキリストを見るまでは、決して死なないと、聖霊のお告げを受けていた(ルカ2章26節)」人物だったたのです。この彼が、エルサレムの宮で、幼な子イエスさまを抱いて、こう言いました。

『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです。御救いはあなたが万民の前に備えられたもので、異邦人を照らす啓示の光、御民イスラエルの光栄です。(ルカ2章29~32節)』

 生涯の最後に、キリストでいらっしゃるイエスさま、マリヤの胎に、聖霊によって孕られ、生まれたばかりの神の子を見たのです。そう聖霊の示しを受けていたシメオンは、召される前のキリストとの出会いを感謝しつつそう言い残したのです。

 救い主なるイエスさまを、幼いままの嬰児を、「キリスト」と看破できたのは驚くべき信仰でした。それよりも、神さまが、その様に導かれたからです。果たして、私たちは、まだ生後40日ほどの赤子を、「キリスト」と認め、礼拝することができるでしょうか。その様にして、シメオンは、自分の一生を終えるのです。

 天下人となった、秀吉でさえ、悶々として、一生を悔いながら、自分の築き上げた天下を、任し切れない子に託して、死んでいったのです。泡沫の様な一生を終えたです。私は、単純な信仰を、母から継承し、牧師さんや宣教師のみなさんに導かれて、「福音」を、「十字架」を、「赦し」を信じて、定められた一生を終われると確信しているのです。ただ、憐れみと恩寵によります。

 巴波川の流れ下る水に流れを目にして、人生の流転は夢幻のことでも、泡沫でもなく、《赦された一生》と、感謝して死んでいきたいのです。いえ、再臨のキリストをお迎えして、携挙されたい願いで、異邦人の私の心は満ちているのです。

(早暁の巴波川の流れ、ウイキペディアの「エルサレム」です)

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