入学した中学校の校舎の表玄関に、薪を背負った金次郎の銅像がありました。入学式に列席していたわたしたち新入生に、校長が、『毎朝夕、二宮金次郎先生の 像に脱帽して礼をしなさい!』と言いました。素直だったのでしょうか、「勤勉」の象徴のような、勤労学生の模範のような、二宮尊徳の少年の姿を鋳た像に、 帽子を脱いで朝な夕なに礼をしたのです。横浜線から乗り継いでやってくる級友たちと集団での登校でしたから、国分寺の駅で降りて歩いて通学をしました。の ちになって、バスに換えたのですが、上級生や高校生が脇を通り越していくと、5~6人の集団のわたしたちは、大声で、『おはようございます!』と挨拶をし ました。実に純で素朴だったのでしょうか、生きている高校生にあいさつをするように、像に向かって敬意を表したのを思い返しています。やがて生意気盛りに 突入したわたしは、おかしなことだと疑問が湧き上がってきて、像への礼をやめてしまったのです。
敗戦以前の父たちの世代の学校では、教育勅語の奉読式があり、天皇皇后の写真(御真影といわれました)に敬礼し、宮城(皇居のことです)を遥拝していたと 聞きます。集団で例外なく、強制されてそうしたのです。写真や住居や書かれた物に向かって、それがあたかも人格のあるもののように振舞うのは、おかしなこ とに違いないのです。もちろん私は、国王としての昭仁天皇や美智子さまへの敬意を忘れませんが、それ以上の存在だとは思っておりません。過去のいきさつな ど、読み物で知ってはおりますが、それにわずらわされません。イギリスやスウェーデンやオランダには国王がいて、国民から親愛の情で敬われているように、 私は敬います。
1890年(明治23年)、第一高等中学校教員だった、30歳の内村鑑三が、明治天皇の名で記された教育勅語に、最敬礼をしなかったことが、大変な社会問 題となり、教職を追われた事件があったそうです。最敬礼が、十分になされなかったことが問題だったのだそうですが。彼が十分に日本人らしく振舞わなかった ことが糾弾されたようでしょうか。わたしの知る限り、彼ほど祖国日本を愛した人はいないし、日本人としての誇りも忘れなかった人でした。日章旗に対して目 を向け起立すること、国歌に対して唱和することが、教育の一環として求められています。わたしはこの起立と唱和に抵抗を感じません。それは皇国史観に立つ 国粋主義者だからではありません。わたしの師は、アメリカ人として星条旗と国歌に敬意を表していました。日本と日本人をこよなく愛した師にも、そうするこ とが当然だったからです。そのように、わたしも日章旗と国歌に敬意を表したいのです。父や母、子や孫、そしてわたしが生まれた国であり、この生まれ育った 国の平和と安泰を望むがゆえに、その願いを託してそうします。
隣国に軍隊を進軍させたときに掲げた旗と、平和な日本に翻る現在の国旗とは違います。わたしには抵抗はないのです。父が海軍一族だからでもありません。純 粋に、日本人としての自覚があるからです。祖国への愛着や愛惜を持たなくて、だれが世界平和を語り、隣国と和して敬うことができるでしょうか。あまりにも 過去にこだわりすぎて、意気や志気をなくしてしまってはなりません。この時代を生きるわたしたちは、今を責任持って生き、将来を孫子に備えなればなりませ ん。わたしが民族主義者だからではありません。わたしが確信していることは、この体内には、きっと中国や朝鮮半島の人々の血が流れているということです。 大和民族の純血を信じていません。いわば親族の間柄なのですから、敵対関係ではなく、友好関係を取り戻さなかければならないのです。戦争が終わって、70 年にもなろうとしています。もう十分に償ったのですから、過去に煩わされないで、将来に、しっかりと目を向けて今を生きようではありませんか。そこには、 なすべきことが山積しているからです。
それでも、この驚くほどに美しい日本は、わたしの母国であり、祖国であるのです。