むかしむかし

                                      .

 『最近、博多の街が元気がありません!』と、ある方が話しておられました。九州では、鹿児島の「天文館」と並んで、最も繁華街としてその名の知られた街だったのですが。そういえば日本中の県庁所在市、昔から名だたる街、とくに駅前の商店街が寂れてしまっているのです。まだ日本にいたとき、倉敷に車で出かけたことがありました。そこにある「大原美術館」の展覧会を観るためだったのです。『きっと、いつか行って、観てみたい!』と憧れていた街だったので、その旅は大変満足でした。岡山に知人がいましたので、彼のところに泊めていただきました。

 この美術館は、大原孫三郎が、私財を投じて蒐集した絵画や彫刻などが展示されていて、明治期に建てられた美術館としては日本屈指のものです。思ったほど大きくなかったのですが、その小ぢんまり振りが、かえって趣を特別に感じさせられました。その折、倉敷と岡山の街を歩いたのですが、とくに倉敷の駅前は、シャッターが下ろされたままで営業してない店が、軒を連ねていました。食堂だけは、駅前にチラホラありましたので、そこに入って食事をとったのですが、『ほんとうに元気がない街だなあ!』とため息が出てしまいました。かつては、紡績で栄えた街だったのですから、山陽線の主要駅の乗降客は頻繁だったことでしょう。かく言う私も、自動車で訪ねましたので、ちょっぴり気が引けますが。それでも、商店街が元気をなくしてしまった理由は、大型店が郊外にできてしまて、中心街が分散してしまったこともあるに違いありません。大型店の出店の功罪をとやかく言う以前に、駅前の商店街を元気づけてあげたいと思うことしきりでした。

 学校を出たての私は、何度か福岡にも出張しました。そこに関係機関がありましたので、年に数回出かけたでしょうか。東京から博多まで、「あさかぜ」という寝台特急を利用しました。寝台が硬くて狭い上、車軸の金属音がうるさく、停車駅ごとの停車と出発で、浅い眠りをむりに起こされる旅でした。ああいった旅は、山陽新幹線ができてしまってからは、必要なくなってしまったのでしょう。聞くところによりますと、2005年3月に寝台特急「あさかぜ」は、完全に廃止されてしまったようです。同行の研究員とといっしょの場合が多かったのですが、駅弁を買ったり、土産物を買うことはできませんでしたが、ビュッフェで朝食をとった思い出があります。眠い目をこすりながら、朝、寝台特急を降りた博多の駅は、それはそれは賑やかな街でした。仕事を終えて、夜の「中洲(なかず)」で接待がありました。名だたる校長や理事長が同席し、芸者まで呼んでくれました。まだお酒も飲んでいた生意気な若造でしたが、殿様のようにもてなされるのが常でした。いけませんね、あのような体験というのは、人をもっと生意気にさせるからです。そんなことで鼻っ柱の高くなってきていた私に、上司で、新潟で県立高校の校長をされていた方が、私の生き方を感じられたのでしょうか、注意してくれました。この方は、田中角栄の紹介だったと思いますが、退職後、息子さんのいる東京に越していらして、研究所で課長補佐をされていました。賢く知恵のある方でしたから、叱ったりしたのではなく、『廣田さん、こんな所にいちゃあいけません。現場に出なさい!』と、婉曲な言い方で諭してくれたのです。


 〈いい出会い〉がありました。この元校長や、その他にも良い方に恵まれたと思います。生意気だったのですが、聞く耳をもって、耳を傾けられたのは幸いでした。その後、生き方を全く変えて、酒もタバコも女も、きっぱりやめました。そんな時にアメリカ人実業家と出会って、彼の事業の助手のような仕事をしたわけです。人生の一番良い時を、この方と8年近く過ごしたでしょうか。文化の違いこそありましたが、たくさんのことを彼に教えられました。私の多く恩ある人の中の一番の「師匠」です。この方には噛み付いて、歯に衣を着せずに、何でも言ってしまいました。彼は、確りと聞いてくれたのです。ただ、二人の間の齟齬(そご)については、第三者に決して漏らさなかったのです。彼が病を得て、大阪駅の近くの病院に入院されていた時、『若かったときの私を赦してください!』と言ってくれました。『私の方こそ生意気でした!ごめんなさい。』と、私も若かりし日の非礼を詫びたのです。

 そういえば、何度目かに博多に行ったときに、大分の出身で、とびきりの日田美人が、私に恋をしました(ちょっと男の卑怯な言い方でしょうか、すみません!)。ただ単に東京人だったからでしょうか。太宰府の古蹟に連れていってくれました。東京まで追いかけてきてくれましたが。好きでした・・・でも一緒になることができませんでした。今は、もうおばあちゃんになっているのでしょうね。福岡にいるのか、日田にいるのか、ちょっと懐かしくなってしまいましたが、家内には内緒です。そんなことで、思い出の博多が元気を呼び戻してほしいと願う、晩秋であります。

(写真上は、東京から博多を走っていた寝台特急「あさかぜ」、下は、昭和39年の「博多駅」周辺です)