同志社、京都の名門の私立大学です。この学校を始めたのが、上州安中藩の藩士であった新島襄で、彼の伝記を読んだことがあります。当時の文部大臣が森有礼で、彼の目指した教育方針は、《軍隊式の徳育教育》だったのです。アメリカに留学してアマースト大学で学んだ新島は、その教育方針に危機感を覚えて、私立学校を建てる必要性を強く感じます。『青年は天真爛漫であるべきである!』との信念から、青年の自主性や能動性を育てる「自由教育」をしたのです。彼自身、函館から中国船に乗り込み、アメリカに密入国し、自由と自治の国で学んだからでしょうか。新島が、アマーストで化学を教えていたウイリアム・クラークから学びを受けたことが、札幌農学校でクラークが教頭として教えるきっかけになったのだそうです。
新島襄には、八重という夫人があって、明治のご時世では、世間から轟々たる非難を浴びせかけられた女性だったと言われています。彼女は、白虎隊で有名な会津藩藩士の娘で、戊辰戦争の折には、男装をしスペンサー銃を手に、長州勢と戦った女傑だったそうで、「幕末のジャンヌ・ダルク」とあだ名されたと言われています。だからでしょうか、八重は、「烈婦」、「悪妻」と呼ばれてもいました。人力車に乗るときに、伝統的な武士の娘は夫をたてて、夫の後に従うべき時代の只中で、新島より先に車に乗り込むことが度々だったようです。それは、レディーファーストを身に付けていた新島の勧めもあって、男女同権を世に示そうとした行為だっだとも言われていますが。まあ、あの明治の御世では特異なご婦人であったことは確かです。
私は、この新島の大学に入りたかったのです。この新島襄の信念に傾倒していたからではありませんでした。実は、中学の修学旅行で京都に行った私は、数日間、私たちを案内してくれたバスガイドの京都言葉に魅了されてしまったのです。男四人兄弟の中で育ち、男だけの男子校の世界で学んでいた私は、その優しい話し振りと振る舞いに、東京では感じたことのない異国情緒も相まってでしょうか、大人の彼女に恋をしたわけです。それで、『大学は京都に来る!』、中学3年の私は、そう決意してしまったのです。ところが、そんな決意をよそに、高校では運動部の練習に明け暮れていました。いざ進学と言った時に、3年前の京都での決意を思い出したわけです。それで相模湖に住んでいた、中学からの友人に、『一緒に行こう!』と誘ったのです。でも彼にも都合があったのでしょう、駒大に進んで行き、その後、彼とは疎遠になってしまいました。そんな彼との交わりが、社会に出てから再開したのですが、十数年前に病気を得て亡くなっています。
そんな願いを持っていた私ですが、受験勉強に熱が入らなくて、同志社への入学を断念しなければならなかったのです。それで親元から通える学校を探していたときに、ある学校の入学案内を見たのです。その表紙に、楽しそうに笑っている綺麗な女子大生が、私に、『入学しませんか!』と誘ってくるのです。それを断りきれなくて、そこに入学させてもらいました。中3の夢も恋もかなわなかったのですが、結構楽しく4年を過ごしたのだと思います。勉強をした、と言うよりは、社会勉強という名のもとに、アルバイトに精を出していました。書を読んだり、議論したり、恋をしたり別れたり、心が高揚したり落胆したり、そんな数年でした。それでも、同志社ではなかったのですが、根幹のものを学ばさせてもらったと自負しているのですが。
バンカラな大学ではなかったのですが、学ランに、弟に借りた高下駄を履いて、新宿や渋谷の街に、カラカラと繰り出したこともありました。横浜にも遠出したこともあったでしょうか。なんだか格好ばかりが先走りして、中身のない男だったのかも知れません。そんなことが許され、酔って高歌放吟のできた時代でしたが、今日日の大学生は何をして過ごしているのでしょうか。『少年老いやすく学成り難し』、まさに、瞬きの間の六十年でした。そんな老境の妻と私が、『どんな生活をしてるのだろう?』と気がかりになったのでしょうか、独身貴族の娘が、先週、やって来ました。新しく移り住んだ家の隅々まで目を向けて、足りないものを買い足し、収納を整理し、高級ホテルのレストランに連れ出してご馳走してくれました。家族っていいものですね。この娘が、なんだか新島八重に似ているように感じて、じつに面白かった中学高校時代の彼女の武勇伝を、家内と噂してしまいました。新島襄は、『彼女は見た目は決して美しくはありません。ただ、生き方がハンサムなのです。私にはそれで十分です。 』と、友人への手紙に妻を評しています。生き方の面白い女性も、稀少になってしまいましたね。台風一過(!?)の日曜日の夜であります。
(写真は、福島県会津の名物「赤ベコ」です。がんばろうFUKUSHIMAKEN!)