安全の文化


 『組織の〈安全文化〉は、報告する文化、正義の文化、柔軟な文化、学習する文化である。誤りや失策がちゃんと報告され、公正な規則が守られ、予想外の事態にも臨機応変に対応でき、自他の失敗からきちんと学べる文化なのである。』と、イギリスの心理学者で、「組織事故」の専門家であるJ.リースマンが言っています。

 今年3月11日に、東日本大震災で、地震と津波による被災、二次災害としての福島第二原子力発電所の放射能漏れ事故が起こりました。津波が押し寄せてくる様子を、ヘリコプターから中継されていました。それをテレビで見て、その猛威に言葉が出ずに、目を釘付けにされてしまいました。津波が人命を奪い、人が築き上げてきた一切のものを破壊し、奪い、押し流していく有様は、空前絶後、筆舌に語りつくせませんでした。津波が遡上していく脇で、何が起こっているのか全く情報を得ていないトラックの運転手が、為す術も無く車の方向を変えておられました。春の収穫を待って、ビニール栽培されていた作物が、つぎつぎと波に飲み込まれていきました。

 津波が襲いかかった建造物の中で、福島第二原発の発電施設は致命的でした。それまでの警告を無視して、最悪の事態を予測して、その対策を講じてこなかったのが、8ヶ月が経過した今なお、放射線の放出で戦々恐々としている事態を生んでいます。チェルノブイリの事故に、日本の電力会社が、何を学んだのでしょうか。あの時、たくさんの情報が発信されていました。誤りや失敗が何であったかを、きちん学習しようとすれば、驚くほどの情報があったのです。「他山の石」、よその出来事として看過されてしまったのではないでしょうか。

 農山漁業が主産業だった東北地方、岩手県などは、「日本のチベット」とまで言われていたのですが、工場誘致を図り、近代工業、ハイテク産業の基地が作られ、そこに雇用を産んで、取り残された地域ではなくなってきていましたのに、この地域が被った被害は甚大でした。私は、長野県の南信・駒ヶ根が気に入って、終の棲家と決めていたのですが、今年、心変わりがしてしまったのです。盛岡と釜石を結ぶJRに山田線があります。その途中駅の茂市から岩泉線というJRの気動車が走っていて、終点が岩泉なのです。当初、延長路線計画がありましたが、それが頓挫してしまって、三陸の海岸線までつながらないままな工事打ち切りになりました。バス輸送が、地形上困難との理由で、赤字路線ですが、JRはこれを手放すことができずに運営を継続しているのです。この岩泉には、日本有数の「鍾乳洞」があって、多くの観光客を呼んでおります。この町に、帰国したら住んでみたいと思い始めているのです。


 中部山岳の山の中で生まれたからでしょうか、故郷回帰で、田舎に住みたい願いがあるのです。山と山がせめぎ合って、平地が少ない山里は、何か寄りかかれる、頼りがいのある地形なのです。そこに一汁一菜と麦飯があれば、生きて行けるだろうと思っているのです。昔の人は、科学的な分析こそできなかったのですが、「知恵」に富んでいたからでしょうか、多くの教訓を子孫のために残してきています。津波に襲われた地に、先人は、札を建てて、正義に裏打ちされた報告をし、柔軟に、それを子孫が引き出して、十分警戒を怠らないようにと、学習教材を残しているのです。海には海の、山には山の掟が残されて、学ぼうとすれば誰もが学べる様な配慮が、賢い先人たちによって残されてきているのです。人が都会を好めば好むほど、田舎から離れて距離が増せば増すほど、そういった警告の声からも遠くなり、聞く耳さえ持たなくなってしまうのではないでしょうか。

 リースマンは、「安全の文化とは・・・自他の失敗からきちんと学べる文化なのである」と言いました。東北地方の人たちだけでなく、これは、すべての人が学ぶべきことに違いありません。この美しい国土の保全のために、心血を注いでこられた方々がおいでです。その志をついで、息子や孫やひ孫に、この慕わしい自然風土を受け渡したいものです。そして自分の人生も、「安全」なものでありたいのです。先人が定めてくださった「公正な規則」を遵守し、「予想外の事態にも臨機応変に対応でき(る文化)」として、学び建て上げていこうと決心しております。たった一度の限られた人生を、満身創痍、無為徒食、無味乾燥に過ごす事のないように、「自他の失敗からきちんと学」ぼうと決意している晩秋の宵であります。

 昨晩、帰り道の脇の草むらで、虫の鳴く音がしていました。そんなかすかな声音を聞き取れるほどに、心が静かにされてきているのでしょうか。聞こうとすれば聞き取ることができ、学ぼうとすれば学べるるのでしょうか。それこそ、こちらに来て初めて感じたような、秋の気配でした!

(写真は、上は岩手県岩泉町の秋、下は春の渓谷美です)

与太郎

 

 上の兄が、中学校の英語の先生の影響で、新宿の寄席「末広亭」に出入りしていたことを知った私は、忠実な弟だったので、兄に真似て落語なるものに関心を持ち始めたのです。「小噺」とか「落し噺」とか「洒落」とかいった言葉を、そのころ覚えたのだと思います。『明日、神宮球場で、早稲田と慶應の試合があるんだってねえ!』、『そーけー!』とか、『隣に塀ができたって言うじゃあねえか!』、『ヘー!』といった寄席での話を兄から聞かされて、これも兄の猿真似で、学校に行って、早速やったのですが、級友たちの反応は全くなかったのを思い出します。日本語は、同じ音の言葉が多いので、駄洒落天国の言語だと言われています。「きかい」という言葉ですが、機械、機会、棋界、奇怪、鬼界、貴会、まだまだあります。そういえば子どもの頃は、ラジオで、よく寄席中継をしていましたし、浪花節や講談も耳にする機会が多くありました。

 上の兄が、大学受験の勉強を、ラジオの講座で聞いていた時でしょうか、早めにスイッチを入れると、村田英雄が、「人生劇場(尾崎士郎作)」という歌謡浪曲をやっているのが耳に入りました。大正時代、早稲田で学んだ青成瓢吉が主人公の「青春編」や、吉良常が主人公の「任侠編」といった出し物で、難解なところもあったのですが、毎回楽しみにラジオの前に座って、一生懸命に背伸びをして聞いていました。文庫本で、原作を読んだこともあります。けっこう続編が続いていましたが。ラジオで声を聞いた村田英雄も先年亡くなってしまいましたね。こう言ったのを「雑学」と呼ぶのでしょうか、知識欲旺盛な子どもの頃に吸収したものは、良いことも意味のないことも、時がたっても忘れないのが不思議でなりません。

 落語家には、古今亭志ん生とか柳家小さん(五代目)とか三遊亭金馬がいました。おかしくて腹を抱えたこともありましたから、小学生の私にも筋が分かったわけです。その落語家、噺家の中で、「名人」と言われた一人が、六代目の三遊亭円生でした。大阪で生まれたのですが、江戸弁で、『そうでげす!』といた言葉を話しているのを聞きましたから、それが今でも耳に残っています。この円生は、6才の時に、20ほどの演目を持って、高座に上るほどの天才少年だったそうです。通常、「真打(しんうち)」は、30~40年の間に努力を重ねて、100席ほどの演目を身につけるのが普通なのだそうです。ところが円生師匠は、何と300席を、いつでも、どこでも自在に演じることのできた、稀代の噺家だったそうです。『え~一席、ばかばかしいお話を・・・』と言って話し出す落語ですが、それだけ、たゆまぬ研鑽を積まれた円生師匠に敬意を覚えさせられ、さらに落語好き人間とされてしまったのです。

 そんなですから、学校帰りに、新宿で降りて、伊勢丹の隣にあった「末広亭」に何度通ったことでしょうか。級友を誘って行ったことがあって、北海道の札幌から、卒業式に出席するために上京された、彼女のご両親に、『娘を落語に連れていってくださったそうで、ありがとうございました!』とお礼を言われて、なんだか気恥ずかしかったのです。感謝されるんだったら、オペラとか歌舞伎に連れていってあげればよかったのですが、寄席の木戸銭(入場料)は、学生の私でも二人分くらいは、難なく払えるほど安かったのです。

 今では、「大喜利」というのが人気で、テレビで中継されているのを、よく聞いたことがあります。日本語の面白さが、噺家の口から語りだされて、抱腹絶倒し、あとで思い出してはニヤニヤして笑ってしまうのには困ったものです。江戸でも上方でも、庶民の芸能が盛んで、そんな落語の世界の言葉で、日本語が形作られたのだとも言われています。夏目漱石は落語通だったようで、その作品にも落語が登場しますし、落語で聞いた会話がヒントとなって、小説が書かれているのです。漱石は、三代目の柳家小さんの落語を、ことのほか好んだと言われていますから、名作「吾輩は猫である」の作品は、猫に語らせる落語の手法だと言われて当然なのかも知れません。大衆文化が、こんなに隆盛を極めたというのは、逆に言いますと、上からの押し付けが厳しい時代の息抜きとして、江戸時代に庶民芸能が好まれたに違いありません。

 停滞ムードの立ち込めている今日日の日本、江戸の庶民に倣って落語でも聞いて気晴らしができたら、欝にならないで、現実を明るく見つめて、明日に希望をつないで生きることができるのではないか、そんなことを、大陸の片隅で切々と思う霜月の15日であります。そういえば、兄に付いて行って、新宿の「ガンちゃん」の家でご馳走になったことがありましたから、私は昭和の与太郎だったに違いありません。

(写真は、新宿の「末広亭」です)